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「幸福に至る八つの祝福(U)」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 5章 1節〜12節」
5: 1 この群衆を見て、イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た。
5: 2 そこで、イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた。
5: 3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5: 4 悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。
5: 5 柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。
5: 6 義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。
5: 7 あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。
5: 8 心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。
5: 9 平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。
5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
5:11 わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。
5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。




今日は皆さんと一緒に、「幸福に至る八つの祝福」(その2)の御言葉を通してお恵みを分かち合いたいと思います。

私は先週の主日に、幸福な人となれる八つの条件のうち、四つのことをお話しさせていただきました。第1番目に「心が貧しい者とならなければならず」、第2番目に「悲しむ者とならなければならず」、第3番目に「柔和な者とならなければならず」、第4番目は「義に飢え渇かなければならない」と言うことでありました。

今日は、そのあとの四つの条件に関して調べてみようと思います。




第五、あわれみ深い者、その人はあわれみを受けるからです。

第5番目に、「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」と言われました。皆さん、「あわれみ深い」と言うことは気の毒に思うことです。罪を犯し、不義で、醜悪で、捨てられて然るべき人生たちを、神様がいかにあわれまれたでしょうか。それで独り子イエス様を遣わされて、私たちの代わりに十字架の供え物となさいました。

その御子を供え物となさって、身を裂き、血を流して、私たちの罪をすべて清算するようになさり、誰でも彼を信じたら赦しと義と栄光を得ることができるようになされたのは、神様の卓越なあわれみのみわざなのです。聖書を見ますと、「ローマ人への手紙 3章25節」に、『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。』と記録されています。

「ペテロの手紙 第一 1章 3節」には、『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。』と記録されています。こんにち、私たちが新しい希望をもって栄光の再臨の主を待ち望みながら信仰生活をすることができるのは、神様の無限なるあわれみと慈しみによって成されたのであると聖書は記録しているのです。

イソップ物語を見ますと、水に溺れた蟻をあわれんだ鳩と、その蟻の報恩の話があります。蟻一匹が池のほとりで水を飲もうとして足を滑らしてしまい、池の水の中に落ち込みました。それで足掻きながら溺れかかっていました。そばの木の上でこれを見た鳩がかわいそうに思い、木の葉を一枚取って、水に投げ込んであげました。蟻は、九死に一生の思いでその木の葉の上によじ登って命拾いをしました。

ところがある日、蟻が見ますと、鳩が木の枝に止まっているのに、一人の人がその鳩を獲ろうとして弓に矢をつがえて今にも射ようとしておりました。それで蟻は、速やかにその人の足の甲の上にのぼって足を噛みました。「痛いっ。」と人が叫ぶはずみに矢はそれて空中に向かって飛んで行き、鳩は助かったと言うことです。あわれみを施したら、そのあわれみは報恩のかたちで戻って来ると言う寓話なのです。

聖書を見ますと、「ヤコブの手紙 2章13節」に、『あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。』と記録されています。誰でも、他人にあわれみを施さず、むごく審けば、その人もあわれみが必要なときに、むごく審かれると言うことです。

第2次世界大戦の当時、イギリスを戦勝に導いた偉大な政治家チャーチルは、このあわれみを体験した人です。彼の父親は相当なお金持ちでありました。チャーチルが少年のとき、父親の農場に遊びに行って、農場にある池に落ち込んで溺れ死にそうになりました。そのとき、農場の雇い人の一人の青年が池の中に飛び込んで来て、水に溺れて死にかかっているチャーチル少年を救出しました。

チャーチル少年の父親があまりにも有り難いので、その青年に尋ねました。「有り難う。あんたに私が何をどうして上げたら良いかね?」するとその青年が答えました。「私はお医者になりたいのです。ところが家が貧乏でお金もなく、それで医科大学に入ることができません。」これを聞いたチャーチル少年の父親は、その青年を医科大学に入学させ、卒業するときまで奨学金を支給しました。

その後、チャーチルは成長してイギリスの首相になりました。第2次世界大戦がもっとも熾烈に展開され、イギリスが難しい局面を迎えていたとき、チャーチル首相が肺炎に罹りました。そのときは、肺炎に罹ったら皆死にます。それで大変なことになりました。ところがそのとき、イギリスの有名なアレキサンド・フレミング博士と言うお医者が「ペニシリン」を発見しました。「ペニシリン」一本だったら肺炎は直ります。病院に入院して意識朦朧のチャーチル卿のところにアレキサンド・フレミング博士が駆けつけて来て、ペニシリン注射を打ち、それでチャーチル卿は生き返りました。

そのとき、アレキサンド・フレミング博士がチャーチル卿に挨拶しながら言いました。「私を覚えておられますか?首相が少年の時に池に溺れて危険であったとき、私が飛び込んで助け出して差し上げました。首相のお父さまが私を医科大学に入学させて勉強することができるようにしてくださいました。お蔭様で私は医科大学を無事に卒業して、医学博士となり、ペニシリンを発明して、今日、はじめて首相にペニシリン注射を打って差し上げました…。」これは、驚くべき報恩です。

もしも、チャーチル首相の父親がこの青年をかわいそうに思ってあわれみを施し、医科大学に入学させて勉強させなかったら、第2次世界大戦のときに肺炎に罹って死にかけていたその子チャーチル卿が、ペニシリン注射を打ってもらって助かることができなかったはずです。『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。』と言われた神様の御言葉が成就されたのです。

皆さん、神様は、父母が子どもたちをあわれむように、私たちをいつもあわれんで下さいます。父母はいつも子どもたちをあわれむ心で見つめるのです。父母が80歳になり、子どもが60歳になっても、いつも父母は自分の子どもをあわれむ目で見るのです。このように神様も私たちを見られるとき、いつもあわれむ心を持って見られるのです。「詩篇103篇13節」に、『その子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。』と記録されています。

皆さん、聖書に何と記録されていますか。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」と記録されています。私たちが隣人をあわれむとしたら、隣人も私たちをあわれんでくれるようになるのです。私たちが隣人をあわれんだら、将来あわれみを受けるようになるのです。

私たちは、父なる神様から無限なるあわれみをいただいて、罪人である私たちが赦しと義と栄光を得ました。ですから私たちはあわれみの負債者たちなのです。隣人をかわいそうに思い、あわれみを施す…、このような生活を営むとき、私たちはまことの幸福な人生を生きることができるようになるのです。




第六、心の清い者、その人は神を見るからです。

第6番目に、「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」と言われました。

皆さん、清く、きれいな池のほとりに行ってその池を静かに見てご覧ください。空の太陽も池に映され、雲も池に映され、池のそばにある木も池の水面に映されます。池を見つめていると、池が空なのか、空が池なのか、知らなくなるほどはっきりと映されて見えます。しかし、濁った池の水には、空も雲も木も映らず、ただ濁った水だけが見えます。

皆さん、人の心もそれと同様です。心が清かったら、神様も心に映され、イエス様も映され、天国も映されるようになります。それは頭で考えるものではありません。心に映されて来るのです。心で体験することができるようになるのです。どのようにしたら私たちの心が清くなることができるでしょうか?私たちの心が清くなければなりません。罪の濁りを悔い改め、主の血潮で洗い清めなければなりません。

罪は私たちの心を腐敗するようにし、凄く濁るようにします。罪によって腐敗された心は、汚水や下水と同じです。少しも天の啓示が臨むことができません。ですから悔い改めて罪を全部吐き出し、キリストの血潮で洗って、濁った心を清くしなければなりません。「ヘブル人への手紙 9章22節」に、『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』と記録されています。

「ヨハネの手紙 第一 1章 7節」に、『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。』と記録されています。また「9節」には、『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』と記録されています。

ですから、私たちが罪を悔い改め、イエス様の血潮で心を洗い清めれば、私たちの心はきれいになり、聖潔になります。

そして私たちが毎日、神様の御言葉を口ずさみ、神様の御言葉を食べたら、その御言葉が私たちの心を清潔にしてくれます。皆さんがこの世を暮らしながら世俗に染み、色々な罪悪が心を占めるとしても、神様の御言葉を読むようになれば、御言葉が皆さんの心を掃除してくれるのです。掃除夫が来て家の中をきれいに掃除するように、皆さんの心を御言葉が隅々まで掃除してくれるので、御言葉を読むときに心が清潔になるのです。

「エペソ人への手紙 5章26節」に、『キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、』と記録されています。それで、私たちが常に御言葉を読んでこそ私たちの心が清潔さを維持することができるのです。

そして、聖霊のお恵みが臨みます。聖霊は火です。すべての醜悪なものを燃やし尽くしてしまうのです。私たちが聖霊の火で心を清くすれば、心が聖潔になります。「マタイの福音書 3章11節〜12節」に、『私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。』と記録されています。

主は、聖霊の火をもって私たちにバプテスマを授けて、私たちの心のすべての汚れをみな焼き尽くしてしまわれるのです。そうなったら皆さん、天の御国が私たちの心の中に映されて入って来るのです。神様は感覚によって見ることができません。目で見ることもできず、神様の御声を私たちが直接に耳で聞くこともできません。神様の御手を掴むこともできず、神様を私たちの感覚で体験することもできません。

神様は霊であられますので、私たちの肉では神様を体験することができません。神様は、私たちの心の中に啓示で近づいて来られるのです。動物たちは何故、神様を知らないのでしょうか?彼らには霊がありませんので、神様が啓示されるところがありません。池に水がなかったら、空が映されることができません。動物たちには霊がありませんので、霊であられる神様が映されることができないのです。

しかし、人は霊です。私たちがイエス様を信じて新生し、霊が生き返ったら、私たちの心の中に神様が証明されるのではなく、啓示されて来るのです。神様を証明することはできません。しかし、神様は啓示されて来るのです。

「エペソ人への手紙 1章17節〜18節」に、『どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、』と記録されています。

神様が、ちょうど池に空が映り、雲が映り、木が映るように、私たちの心の中に映されるのです。心が清くなったら、神様が私たちに啓示されて来るのです。皆さん、人間的な手段と方法で神様を証明しようとしないでください。偉大な神様は証明されません。神様は啓示されるだけです。神様は聖霊さまを通して私たちが悟るようになるのです。

父なる神様がおられる。イエス様が神様の御子であり、私たちのために十字架に釘付けられ、死なれてから、よみがえられたのは、救いの驚くべきお恵みである、と言うことが聖霊によって悟ることができるようになるのです。

「ヨハネの福音書 16章13節」に、『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』と記録されています。

皆さん、暗闇の中に坐っている人に、いくら明るい世界のことを説明しても、それは無駄です。暗闇の中に坐っている人に、この世には美しい木があり、花が咲き、鳥がさえずり、小川が流れ、とても美しいと言っても、暗闇の中に坐っている人にはそれが理解できません。しかし、その人を明るい所に引き出したら、証明する必要がありません。彼の目に太陽が見え、雲が見え、木が見え、花が見え、水が見えますので、説明する必要がないのです。

それで、暗闇の中にいる人にいくら天国を説明しても、理解してもらうことができないのです。しかし、聖霊の明るい光が輝いたら、いくら説明をしなくても自然的に知るようになるのです。ですから、私たちは信じない人たちのために祈らなければなりません。「主である神様、彼らの心に中に聖霊の光が照り輝くようにしてください!彼らは暗い所におりますので、いくら説明しても神様も、イエス様も、天国も、地獄も知りません。しかし聖霊の光が照り輝いたら、説明する必要もなく自然と心の中に神様が啓示してくださいますので、彼らは真理を悟ることができます。彼らを暗い所から明るい所に導いてください!」と、私たちはいつも祈らなければなりません。

「エレミヤ書 33章 3節」にも、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記録されています。

「理解を越えた大いなる事」を、神様は私たちに啓示を通して教えてくださるのです。私たちに感覚で体験することができるようにしてくださるのではありません。それで心が清くなり、明るくなったら、この天の御国が私たちの心の中に映されて来るようになるのです。悟ることができるようになるのです。誰もが証明してくれなくても知るようになるのです。

今日、この場に来られてイエス・キリストを信じて礼拝を捧げられた皆さん!皆さんが数学の公式のように、神様を証明してもらったので、それで理解されたのでこの場に来られて坐っておられるのではありません。誰かが、証明せよと言ったとして証明することができるものではありません。しかし、皆さんに向かって「本当に神様が生きておられ、イエス様が神様の御子であることを、あなたは知っていますか?」と尋ねたら、私たちは「知っています!」と答えます。

どのようにして知っているのでしょうか。説明することはできません。私たちは、私たちの心が血潮で清められ、御言葉で聖潔にされるや、聖霊が私たちに悟るようにしてくださり、天の御国が映されて来たので知っているのです。それで聖書に、「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」と記録されているのです。私たちは霊を通して神様を見、悟り、知るようになるのです。見るということは悟るということです。

それで私たちは、いくら不信の言葉を聞いても揺り動かされない、と言うことを知っています。私たちは祈りを通して神様と対話をし、神様の御臨在を心に感じ、神様が生きておられることを心の中に確実に啓示を通して知っており、その故に、私たちは神様を信じて心に平安と喜びをもって生きて行くようになるのです。




第七、平和をつくる者、その人は神の子どもと呼ばれるからです。

第7番目に、「「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」と言われました。

皆さん、神様の御子イエス様は平和をつくるお方です。人間が罪を犯して神様に敵対するようになり、神様とは敵になりました。そのまま捨て置いたら、神様は人間を審いて永遠の地獄に送るしかありません。しかし神様は御子イエス様を遣わされて、人間と神様の間に平和をつくる供え物とされました。私たちに代わってイエス様は罪を負われ、審きを受けて、身を裂き血を流して死なれることによって、平和の供え物となられました。

私たちは、イエス様が十字架に釘付けにされて力なく架けられているのを見ます。イエス様に能力も力もないので、そのように十字架に架けられたのでしょうか。そうではありません。私たちの罪を代わりに背負い、罪をすべて贖うためにそこに上られ、イエス様が私たちの代わりに生け贄となられることによって、それを通して神様と私たちとの間に平和が臨むようになったのです。

神様はキリストを審かれ、それを通して私たちを赦してくださり、受け入れてくださり、愛してくださり、私たちと平和を保つようになり、私たちも神様の御前に恐れることなく堂々と出て行くことができるのは、キリストの血潮が私たちの心の中に平和をもたらしたからなのです。

それで「ローマ人への手紙 5章10節」に、『もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』と記録されているのです。神様と和解されたのですから、これからは神様が私たちを救ってくださって永遠の天国に連れて行かれることは当然なことです。

「エペソ人への手紙 2章14節」にも、『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、』と記録されているのです。神様と私たちとの間の隔ての壁を打ち壊して、キリストは神様と私たちとの間に平和をもたらしてくださったので、神様は私たちの父となられ、私たちは神様の子どもとなり、私たちが主の中に、主が私たちの中に留まることができるようにしてくださったのです。

「ルカの福音書 2章14節」に、『いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。』と記録されています。私たちが、神様が喜ばれるようにしたら、神様は私たちに平和を与えてくださるのです。それで私たちは集まって悔い改め、神様の御前に出て行って神様から喜んでいただけるようにすることによって、神様の平和が我が民族に臨むように願い、祈らなければならないのです。

それだけではありません。神様は私たち個人個人の心の中に平和をあたえてくださいます。「ヨハネの福音書 14章27節」に、『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』と記録されています。

心配と不安が多い世の中を暮らしている私たちに、誰が平和をあたえてくれることができるでしょうか。「マタイの福音書 11章28節」に、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と記録されています。重荷を負って、その重荷に押しつぶされそうになって汗を流している人には平安がありません。苦しいだけです。しかし、その重荷を脱ぎ下ろしてイエス様にゆだねたら、私たちに休息が訪れます。平安が近づいて来るようになるのです。

我が神様が私たちを顧みてくださらなかったら、私たちに平安が近づいて来ることはできないのです。まことの平和、心の平和も、イエス様を信じ、拠り頼み、神様を待ち望むときに、天から臨んで来るようになるのです。イエス・キリストはいつも平和をもたらしてくださる主であられます。イエス様が私たちの中に留まってくださり、私たちを通して平和をもたらしてくださり、平和をつくるようにしてくださるのです。

「コリント人への手紙 第二 5章19節」に、『すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。』と記録されています。私たちは互いに和解するように努力しなければなりません。私たちの家庭で、隣人との間で、祖国の中で、私たちは平和をもたらすことに全力を尽くさなければならないのです。そうしたら、私たちは神の子どもと呼ばれるようになるのです。

私たちが分裂をもたらし、争いをもたらすとしたら、これは神の子どもではありません。これらは悪魔がもたらすものです。悪魔の仕業は、盗み、殺し、滅亡させることばかりだからです。ですから私たちが平和をもたらすためには、私たちの律法の眼鏡を取り去って、愛の眼鏡をかけるようにしなければなりません。律法の眼鏡をかけて、しきりに他人の咎をほじくりだし、他人の過ちを暴き出し、他人を苦しめては、絶対に平和をもたらすことはなく、行くところ至るところで紛争を起こすようになるのです。

ですから私たちがイエス・キリストを信じたのなら、律法の眼鏡を取り去って、愛の眼鏡をかけるようにならなければなりません。

「ローマ人への手紙 13章10節」に、『愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。』と記録されています。愛する人は、律法を全うした人です。

皆さん、英語で見ますと、姑と嫁を、韓国人とは違う観点で呼んでいます。姑は「Mother―in-law」即ち法的の母、嫁は「daughter-in-law」と言って、法的の娘と呼んでいます。これは何かと言うと、嫁が姑を見るときは律法の目を持って見る母です。また姑が嫁を見るときは律法の目を持って見る娘です。それで、姑と嫁の関係が、実の母と実の娘との関係と違うのは当然のことです。

ある勧事さまが息子の家に行きました。ところが息子が朝、前掛けをして食事の準備をしました。その息子の母である勧事さまは大いに怒りを発しました。「嫁はどこへ行ったか?とんでもない事だ。夫を台所に入らせて、朝ごはんの準備をさせるとは…?」物凄く怒りました。それで嫁さんが非常に驚いて肝をつぶしました。

その勧事さまが、今度は娘の家に行きました。ところが婿が前掛けをして食事の準備をしました。その勧事さまが感嘆して言いました。「この家の婿くんは最高だね!こんなに自分の妻を愛するなんて…。こんなに立派な婿くんはどこにもいない…!」

このような不公平がどこに又とあるでしょうか。息子が食事の準備をすることは到底見て上げることができない…、ところが婿が娘を愛するが故に自分が直接食事の準備をすることは立派なことであり、ほめるべきである…。これはどのような目で見るかによるのです。姑と嫁の関係はいくら誰が何と言っても律法的関係です。律法的な関係はいつも批評し、審くようになります。しかし実の母と娘の関係は愛の関係です。「愛は多くの罪をおおうからです。」と聖書には記録されています。それで母が娘をかばうのです。

平和をもたらすためには、他人の咎を暴き出したり、悪意的に批評したりしてはいけません。姑と嫁であっても、私たちはもう普通の姑と嫁ではありません。イエス様の愛をいただいている姑と嫁ですので、愛の眼鏡を通して互いにいたわり合うようにならなければならないのです。

「マタイの福音書 7章 1節〜5節」に、『さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。』と記録されています。

ですから、咎を覆うことが平和をもたらすのです。夫は妻の咎を暴き出さずに、咎を覆ってあげなければなりません。妻は夫の過ちをしきりに穿り出さずに、覆ってあげてください。隣人の咎を覆ってあげる人は隣人と平和を保つようになり、隣人の咎や過ちをしきりに批評する人は隣人と不和をもたらすようになり、敵のようになるのです。

従って、平和のためには少々の損害は受け入れ、譲歩するのが良いのです。この世の中は生存競争の猛烈な戦いをしています。私たちが平和な生活を営むためには小さい損害はそのまま譲歩してしまわなければなりません。最後まで自己中心、利己主義で暮らしたら、平和をもたらすことはできません。

聖書「マタイの福音書 5章39節〜42節」に、『しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。 求める者には与え、借りようとする者は断わらないようにしなさい。』と記録されています。

大きな損害にはならないのです。右の頬を打たれたら、左の頬も向けて上げることは、別に大きな損害をこうむることではありません。着てから古くなったら捨てるようになる下着、別にたいしたものではありません。下着のことで告訴されたら上着もやって構いません。1―Kmを同行してくれと言う人に、2−Kmを同行して上げたとしても構わないではありませんか。莫大な損害をこうむることがない以上は譲歩してあげてこそ平和を保つことができるのです。

平和の使徒である「聖者フランチェスコ」は、次のように祈ったと言います。「おー、我が神様!私を平和の道具としてご使用してください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑心があるところに信仰を、偽りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇があるところに光を、悲しみがあるところに喜びをもたらす者となるようにしてください。慰められるよりは慰め、愛されるよりは愛するようにしてください。私たちは与えることによって得、赦すことによって赦され、そして死ぬことによって永生を得るからです。」




第八、義のために迫害されている者、天の御国はその人のものだからです。

第8番目に、「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」と言われました。

皆さん、イエス様がもっともたくさん迫害されました。何故かと言えば、イエス様ご自身が義であられますので、行かれるところ至るところで不義が現れるので、不義を行なった者たちがイエス様を敬遠し、憎み、イエス様を殺そうとしたのです。イエス様に仕える者は光と塩である、と言いました。聖徒さんたちを、光と塩と呼びます。

「マタイの福音書 5章13節〜16節」に、『あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。』と記録されています。

皆さん、全世界が悪魔に属しており、暗い世の中、腐敗の世の中なのです。ところが暗さを明るくするのは光です。暗いところには、あらゆる不義、不正、腐敗が横行しています。そこへ光が燦然と照り輝いたら、それらがすべてあらわに現れます。従って、イエス様を信じる人たちが迫害されるのは、暗いところの人たちの前に光を輝かせるので、暗い行いが暴露されるようになり、それで彼らが抵抗し迫害するのです。

腐っていくところに塩を撒いて見てください。どんなに痛いか知れません。腐っていく人たちの中にイエス・キリストの真理の塩を撒いたら、痛いので反抗します。腐敗を防ぎ、闇を明るくするので、必然的に腐敗した人たちと暗いところで暮らす人たちから抵抗と迫害を受けるようになるのです。

「ヨハネの福音書 3章20節」に、『悪いことをする者は光を憎み、その行ないが明るみに出されることを恐れて、光のほうに来ない。』と記録されています。

「ヨハネの福音書 15章18節〜19節」には、『もし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。』と記録されています。

私たちが、この世と一緒に暗い働きをし、腐っていけば、この世が友だちとして抱きかかえてくれるでしょう。しかし、暗いところで私たちが光を照らして闇を退かせ、腐っていくところに塩を撒いて腐敗を防いだら、世は私たちを敵対視し、迫害するのは当然なことなのです。イエス様を迫害したように私たちを迫害し、イエス様に抵抗したように私たちに抵抗するようになるのです。ところが、迫害される者は幸いであると言われました。

「マタイの福音書 5章11節」に、『わたしのために、ののしられたり、迫害されたり、また、ありもしないことで悪口雑言を言われたりするとき、あなたがたは幸いです。』と記録されています。「ペテロの手紙第一3章14節」に、『いや、たとい義のために苦しむことがあるにしても、それは幸いなことです。彼らの脅かしを恐れたり、それによって心を動揺させたりしてはいけません。』と記録されています。

どんな幸いがあるでしょうか。それは真実なクリスチャンになったと言う確認になりますから、幸いなことなのです。皆さん、イエス様を信じる人が世を暮らしながら迫害されないとしたら、それは光の役割も塩の役割もしなかったと言う証拠です。クリスチャンではないと言うことです。皆さんが光と塩の役割をしたら、必ずこの世の抵抗を受け、迫害されるようになるのです。迫害と抵抗を受けたら、皆さんが真実なクリスチャンであると言う証拠になるのです。

「ペテロの手紙 第一 4章14節」に、『もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。』と記録されています。神の御霊、すなわち聖霊が皆さんと共におられると言う証拠になりますから、皆さんが間違いなく救われた人である、と言うことが知れ渡るようになるのです。

また、迫害されたら天からの報いが大きいです。「マタイの福音書 5章12節」に、『喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。』と記録されています。この世の中で私たちが褒賞を受けたのは、この世が過ぎ去ったらすべて無くなります。しかし天に召されて昇って行ったら、私たちがこの世の中でキリストの故に迫害されたことは、天に於いて主の報いが大きいと言われました。小さい報いではありません。大きい報いを受けるようになる、と言うのです。

ですから、私たちがこの世の中で傷を受けたことは、天の御国の栄光を得る勲章である、と言うことを知らなければなりません。従って、私たちが迫害されるときに気落ちせず、却って喜び踊りながら神様に栄光を帰さなければならないことは、天において報いが大きいからなのです。

幸福の基礎は、心の態度です。心の基礎が幸福の状態になっている人に、物質と環境がプラスされてもっと大きい幸福を享受することができるようになるのです。

『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。』と、聖書に記録されています。

イエス様がもたらしてくださった天国の市民の八つの徳目を持った人は、本当に幸福の基礎ができている人なのです。私たちが、このキリストの御教えを深く黙想し、私たちがその中に入って行って暮らそうと、努力したら努力するほど私たちは幸福を享受しながら暮らすことができるようになり、神様の栄光で充満になるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様! すべての人たちが幸福になりたいと願いますけれども、人たちはその幸福を心の中で探さずに外で探しております。環境と物質から探すので、変化無双な環境と物質の故に、心の中に幸福がありそうでありながら直ぐに消え去ってしまいます。

全知全能なる天のお父さま! 暴風雨が吹きまくり、洪水が襲来し、天地が揺れ動いても、動揺することがなく、崩れない幸福の基礎は、まさに主が教えてくださったこの八つの徳目にあることを悟らせてくださって有り難うございます。

八つの徳目を私たちが心の中に刻み込み、この徳目を覚えて暮らすことができるように助けてください。いつも主の御教えを口ずさみ、主の御言葉が私たちの中で成就するように助けてください。私たちがこの世の中で、本当に幸福な信仰生活をすることができるように導いてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!