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「成功的な対人関係のために」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 13章 1節〜3節」
13: 1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13: 2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13: 3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。




今日、私は皆さんたちと共に『成功的な対人関係のために』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人間は社会的存在です。人間は、一人では暮らすことができません。生まれる時から父母・兄弟との関係を結び、成長しながらは学校の同窓、隣人、上下関係の中で暮らさなければなりません。

人間関係を円満に、立派に結んで行く人は幸福であり、成功的な人生を暮らすことができます。人たちの顔や姿がみな違うように、個性と性格がみな違うために何事にも、自分勝手に、自分の個性通りに生きていったら、相互トラブルを避けることができません。どのようにしたら、最善の人間関係を結びながら人生を生きていくことができるでしょうか?




第一、理解しようと努力しなさい。

第1番目に、私たちはこの世を暮らしながら、自己中心に暮らさず、いつも相手を理解しながら生きていこうと努力しなければなりません。私たちが一緒に暮らしながら、お互いに理解し合いながら暮らすためには、必ず対話が必要なのです。一方的に自己意見だけを話し、相手がついてくるように願ったら、これは対話ができません。

私は、私が人生を改めて暮らすとしたら、私の子供たちを教育するとき、一方的に私の意見だけを話さず、子供たちの意見も聞いてあげながら育てるつもりです。以前には、それを知りませんでした。子供たちが大きくなっていつも言うのは、「お父さんは一方的に命令するだけで、私たちの言うことは聞いてくれない。」と言うのです。私はそれを知りませんでした。

子供たちには私が命令するだけで良い。子供たちの言うことに耳を傾ける必要はない、と私は思っていたのです。その結果、子供たちが心の中にずいぶんと傷を負って成長して来たのです。人たちは一方的な自分の意見だけを話し、相手がただついて来てくれることを願う場合が少なくありません。そうしたら対話ができません。或いは、相手の理解だけを要求します。自分の意見だけを相手に強要し、しきりに理解してくれるようにと要求したら、これも対話が成立しません。

「ローマ人への手紙 15章 2節」に、『私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。』と記されています。

この頃、夫婦の間に問題が多く生じて、家庭が破壊される例が少なくありません。夫婦たちがお互いに対話を交わさず、衝突して争うからです。大概見たら、三つの部類に分けることができます。まず「共滅型」がいます。争い出したらその場で「あなたも死に、私も死ぬ。」と凶暴になるのが「共滅型」です。

その次には、「潜伏型」がいます。その場では何も話さずに、いつか機会があったら火山のように爆発してしまう、これが「潜伏型」です。

最後に、「対話型」があります。糸をほごすように、対話を通して問題を解決する人がいるのです。それで対話が、私たちがお互いに理解し合うように努力することに切実に必要なのです。相手の言うことに耳を傾けようと努力しなければなりません。最善をつくして相手の言うことを理解しようと努力しなければなりません。

最初から相手を理解しようとしないなら、聞く必要がありません。相手の言うことに耳を傾けなければなりません。旦那さんの言うことに耳を傾け、奥さんの言うことに耳を傾け、子供の言うことに耳を傾けなければならないのです。

「ヤコブの手紙 1章19節」に、『愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。』と記されているのです。意思疎通の約50%以上が、聞くことに使用されるのですから、忙しい口より忍耐する耳がもっと説得力があります。他人に話すことより聞いてあげることがとても説得力をもつのです。

ですから、相手の言うことを聞いてみて、理解できないことは率直に質問するようにしてください。自分の考えとは大いに違い、誤解されることを言うとしても、中途で話しを断ち切らずに、確実な内容が何であるか、理解してから、質問をしなければなりません。「箴言 12章18節」に、『軽率に話して人を剣で刺すような者がいる。しかし知恵のある人の舌は人をいやす。』と記されています。

「知恵のある人の舌は人をいやす。」いかに聞きよい話しでしょうか。ですから、相手に、理解できないことは質問をしなければなりません。無条件的に誤解せず、旦那さんの言うことが理解できなかったら、旦那さんに、それはどう言うことですか?と聞いてください。奥さんにも優しい声で、それがどう言うことか、父母にも、子供にも、隣人にも聞いて見なければならないのです。

そして、私たちがお互いに対話を分かち合うとき、相手の立場になって考えてみようと努力しなければなりません。「ピリピ人への手紙 2章 4節」に、『自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。』と記されています。自己中心にだけ考えずに、他人の立場になっても考えてみなさい、と言う事です。皆さん、お互いに理解し合い、尊重し合ってこそ私たちはこの世の中で良い暮らしをすることができます。

或る村に、貧乏な人の家のすぐ上に、大きなお金持ちの人の家がありました。ところがお金持ちの人の家から、毎日、汚水を捨てるので、その下の貧乏な家の家族たちはみな、臭い匂いと湿気のために余りにも苦痛でありました。

堪らなくなった貧乏な家の人たちは、或る日、お金持ちの家の主人を訪ねて行って、下水道を他の方向に回して下さい、と頼みました。ところが上の家の主人は、「水は高い所から低い所に流れるのが自然の理である。私にそれをどうせよと言うのですか?」と言いながら、「本当に嫌であるなら、引越しなさい。」と言い捨てるように言いました。

それで、下の家の貧乏な人は心の中で、「よし、覚えて居れ。」と口惜しがりながら、家に帰って来て、上の家の庭に向けて煙突を高く立てました。そうしてから、悪い匂いがする廃タイヤや公害燃焼物を選んで、継続して火を焚きました。すると、煙と悪い匂いが上の家にみんな上って行きました。

堪らなくなった上の家の主人が、下の家に訪ねて来て、何とかしてくれ、と頼みました。すると、下の家の人は、「何のことですか。元来、煙は低い所から高い所に上っていくのが自然の理ですよ。」と言って、丁重に断りました。堪らなくなった上の家の人たちは、他の所に引っ越して行ったと言います。

皆さん、お互いに理解し合い、話し合ったら、このような問題は解決することができるのです。しかしお互いに理解し合わず、自己強情だけを張ったら、互いに苦しみの中に落ち込むようになるのです。




第二、同情しなさい。

第2番目に、私たちが良き人生を暮らすためには柔和であり、お互いに同情し合いながら暮らさなければなりません。人間はみな情的な存在です。みんなが関心と好意をもって温かく対してくれることを願います。

強盗に襲われた人のお話しが聖書に記録されています。彼はエルサレムからエリコへ下る道で強盗に襲われ、半殺しにされて倒れていましたが、律法主義者である祭司は来て、彼を見ると、批評と判断だけをして反対側を通り過ぎて行きました。半殺しにされて倒れている人を助けてくれませんでした。

その次に、儀式を主張するレビ人が彼を見て、宗教的な儀式だけをチョッと行って通り過ぎて行きました。助けてくれませんでした。ところがあるサマリヤ人は、旅の途中でありましたが、家畜から下りて彼にオリーブ油とぶとう酒を注ぎ、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してあげたと言います。

誰がまことの良き隣人でしょうか。律法的に教訓をし、批評をして通り過ぎて行った祭司でしょうか。違います。宗教的な儀式だけを施してそのまま通り過ぎて行ったレビ人でしょうか。そうでありません。誰が良き隣人であったでしょうか。同情と愛を施したサマリヤ人です。

こんにち、すべての人たちはこの世を暮らしながら大きかろうが小さかろうが胸に傷を抱いて暮らします。すべての人たちはまことの温かい関心と好意を願うのです。それで「ペテロの手紙 第一 3章 8節」に、『最後に申します。あなたがたはみな、心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、あわれみ深く、謙遜でありなさい。』と記されています。兄弟を愛し、あわれみ深く暮らさなければならないのです。

従って、お互いに対話し合う時も、冷たい心を持って対話し合ってはいけません。皆さん、夫婦が一生涯を暮らす時、当初は肉情で暮らし、次には人情で暮らし、年取って老いたらあわれみ深くなって同情し合いながら暮らすと言います。

夫婦がお互いに対話し合う時も、皆さん、奥さんが話し掛けているのに、旦那さんは新聞を見ながら「うん、うん。」と頷くだけなら、侮辱感を感じます。いつも対話中には相手の目と口を見詰め合いながら対話をしなければなりません。旦那さんが話したら、奥さんは夫の顔を見つめてください。奥さんが話したら、旦那さんは奥さんの顔を見つめなければなりません。子供たちが話し掛けたら、無視せずに、その子供の目と口を見つめなければなりません。それでこそ相手の人格を尊重することになるのです。ですから、対人関係の基本は、傾聴し、理解することです。

アメリカのカーネギー工大の卒業生たちを調査してみた結果、職場と事業に成功した要因は、知識や技術はただの5%しか影響を及ぼさなかったと言います。85%は、口、手、足を通した誠実な人間関係が成功に導いたと言います。

皆さん、ですから真摯な態度で関心を表明し、同意と理解がなされる時は、あらかじめ頷き、微笑をしてください。そうしたらもっとも近い夫婦間もそうですし、父母・子供との間でもそうですし、お隣り同士もお互いの対話の中で理解が成立します。また頷いてあげ、微笑を送ったら、話し相手が凄く気分を良くします。

対話中に敵対的表現はしてはなりません。顔をしかめ、敵対感をもって相手を睨みつけたら、話す相手の気が殺がれます。

夫婦間の争いもそうです。旦那さんが勝ったら冷や飯を食い、奥さんが勝ったら、旦那さんは外で遊びます。皆さん、夫婦間の争いは負けるが勝ちです。

「箴言 15章 1節」に、『柔らかな答えは憤りを静める。しかし激しいことばは怒りを引き起こす。』とあります。「箴言 25章15節」には、『忍耐強く説けば、首領も納得する。柔らかな舌は骨を砕く。』と記されています。

パロ王の心をかたくなにしたのは神様でありました。しきりにパロ王の心がかたくなになって、結局には紅海の海水に溺れてみな死にました。人の心がかたくなになったら、折れて滅ぶようになると言うことを知らなければなりません。

同意と同情は別個です。自分が同意はしなくとも、同情はすることができるのです。他人の言うことに自分がすべて同意することはできません。同意することができないとして、拳を振りまわして争ってはいけません。同情はしなければなりません。同情は、他人の立場を理解し、他人の不幸を憐れんで温情を施すものです。心では同情します。しかし同意はしなくても構いません。

聖書「テモテへの手紙 第一 6章18節」に、『また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。』と記録されています。




第三、賞賛する事を惜しんではなりません。

第3番目に、私たちはお互いに良き人間関係を結ぶためには、相手を賞賛することを惜しんではならないのです。私たちはいつも心が肯定的であるように決心しなければなりません。心が批評的、否定的であると、いつも相手の欠点だけを見、欠点をほじくりだすようになります。凄く悪い心情であり、自分も他人も不幸にします。

「マタイの福音書 7章 3節」に、『また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。』と記されています。

私たちが善意をもって考えたら、善意をもって見るようになり、善意あふれる言葉を語るようになります。それで、相手の長所と能力をいつも発見し、賞賛するようになるのです。「タルムード」を見ますと、妻は夫を王様のように待遇し、夫は妻を王妃のように待遇して上げなさいと書かれています。

家庭で、奥さんが旦那さんを王様のように待遇したら、喜ばない男は誰一人いません。そして、また旦那さんは奥さんを王妃のように待遇しなさい。お互いにそのように尊敬し合ったら、立派な人間関係を結ぶことができます。「マタイの福音書 7章12節」にも、『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』と記されているのです。

そして、良くすることには惜しみなく賞賛の言葉を浴びせるようにしましょう。韓国人は賞賛することに余りにも慣れていません。私たちは、良くすることには惜しみなく賞賛するようにしなければなりません。何故かと言えば、賞賛は相手の心を恍惚にするのです。心に恍惚感を感ずるようにすることは、相手を凄く幸福にしてあげる結果を招くのです。

「箴言 16章24節」に、『親切なことばは蜂蜜、たましいに甘く、骨を健やかにする。』と記されています。賞賛、親切な言葉は蜂蜜のようであり、骨を健やかにすると言われています。このように立派なことなのに、私たちは近い人たち同士が何故、お互いに賞賛しないのでしょうか。妻をほめ、夫をほめ、父母をほめ、子供をほめ、隣人をほめたら、そのほめ言葉が蜂蜜のように心に甘く、骨を健やかにすると言うのです。

本で読んだことがあるのですが、賞賛すべきことがあったら即時に賞賛しなさい、と言いました。後で賞賛せずに、その場で賞賛しなさいと言うのです。具体的に賞賛しなさい、とも言われています。可能な限り公開的に賞賛しなさい、とも言われています。奥さんをほめて上げたい時には、子供たちがいる前でほめるのが効果的です。そのような時に、奥さんは恍惚感を感ずるのです。旦那さんをほめる時にも同様にすべきです。

それから、結果よりは過程を賞賛するようにしましょう。結果は間違ったとしても過ぎて来た過程では良かったことが多いです。そのようなことを取り上げて私たちは賞賛しなければならないのです。賞賛は力があります。敵を味方に、仇敵も恩人にすることができます。賞賛がのべられれば恨みもなくなります。

賞賛は、人を変える唯一の方法です。ですから良くしたことには惜しみなく賞賛しなければならないのです。よく賞賛する人は、立派な夫、立派な妻、立派な父母・子供、隣人となることができます。賞賛することには、大きなエナジーが必要なのでもなく、多くの費用がかかるものでもありません。それにも拘わらず賞賛することを惜しむ人は、人生の失敗者になるのです。




第四、赦しなさい。

第4番目に、私たちはすべてのことにおいて、赦す心を持たなければなりません。憎しみと憤怒は凄いストレスになります。私たちが憎悪し憤怒したら、心の平和と喜びがみな消滅してしまいます。「ヤコブの手紙 1章20節」に、『人の怒りは、神の義を実現するものではありません。』と記されています。

「箴言 16章32節」には、『怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。』と記されています。

誇張されたと言う風に思われますか?そうではありません。怒りをおそくする者は勇士にまさると言いました。自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさると言われました。そのように神様が認められたのです。

「マタイの福音書 6章14節〜15節」に、『もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。』と記されています。私たちが隣人を赦すことと、私たちが神様から赦していただくことが、このようの互いに連結されています。

ペテロは、七度まで赦すことが本当に彼ができる最善であると思いました。それで主のみもとに来て言いました。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」すると主はペテロに、「七度まで、などとは私は言いません。七度を七十倍するまでと言います。」と言われました。

それは490度を赦しなさい、と言うことです。皆さん、490度赦しなさいと言うことは、無限に赦しなさい、と言うことです。

「ルカの福音書 17章 3節〜4節」に、『気をつけていなさい。もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい。かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、『悔い改めます。』と言って七度あなたのところに来るなら、赦してやりなさい。』と記されています。

また「ルカの福音書 6章37節」に、『さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。』と記されています。賞賛は愛から出ます。非難は恨みから出ます。賞賛したら賞賛を受け、非難したら非難を受けます。




第五、和解しなさい。

その次、第5番目に、私たちはいつも和解しながら暮らさなければなりません。壁を築いて暮らしてはいけません。和解は、人間関係を正常化するものです。赦しと和解はいつも同じです。赦したら、和解しなければなりません。

「コリント人への手紙 第二 5章18節〜21節」に、『これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』と記されています。

イエス・キリストを通して赦し、私たちを義としてくださった神様は、私たちが神様と和解することを望んでおられます。赦しは相対的に赦しを受けることですが、和解はお互いに交際がなされることを言うのです。赦しの完成が和解なのです。神様と和解しましたので、私たちは今イエス様の御名によって神様の聖殿に自由に入って行くことができます。

赦しだけを受けたときには小さくちじみこんでいますが、和解をしたときには笑い声が聖殿に満ち溢れます。我が神様の前に、イエス・キリストの御名によって私たちが賛美し、感謝したら、神様の笑い声が聖殿にいっぱいになります。何故?赦しただけでなく、私たちと和解したからなのです。

私たちが夫婦間で争ったとしても、お互いに赦したあとには握手し、お互いに抱擁し、和解しなければならないのです。赦しはしたけれども、和解することはできない。そのような人が少なくありません。赦したあとに和解することができなかったら、その赦しはいくらもたたないで効果がなくなってしまいます。

「エペソ人への手紙 2章14節」に、『キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、』と記されています。「コロサイ人への手紙 1章20節」には、『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』と記されています。また「テサロニケ人への手紙 第一 5章15節」には、『だれも悪をもって悪に報いないように気をつけ、お互いの間で、またすべての人に対して、いつも善を行なうよう務めなさい。』と記されています。

神様の御前に出て行くとき、どのような心構えで出て行きますか。私たちは「赦していただいた。」とだけ考えてはなりません。赦していただいただけでなく、神様と和解したのです。赦してだけいただいたのなら、心にちじこみがあるはずです。しかし神様と和解してしまいました。今は過去がすべてなくなりました。神様と握手し、神様と抱擁し、神様のふところに抱かれたのですから、私たちがイエス・キリストによって、強く、雄雄しく、神様の御前に出て行くことができるのです。赦していただいただけでなく、神様と和解した人なのです。

従って、神様と皆さんとの間には「隔ての壁」がありません。自由に往来することができるようになったのです。ですから、私たちイエス様を信じる人がいかに栄光で驚くべき特権を持っているかわかりません。隔ての壁がないので、神様の御前に自由に出入りすることができ、自由に祈りを捧げ、感謝し、賛美することができるのですから、このような偉大なお恵みがほかにはあり得ないのです。




第六、愛しなさい。

6番目に、私たちが良き人間関係を持つ為には愛しながら暮らさなければなりません。愛は、受けるものではなく与えるものです。神様が独り子をお与えになったほどにこの世を愛されました。愛というものはいつも、お隣に助けを施すものであって、助けを受けようとしてするものではありません。

「使徒の働き 20章35節」に、『このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエスご自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。』と記されています。

「ルカの福音書 6章38節」にも、『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』と記されています。

愛は与えるものです。同じヨルダン川の水を受け入れるのに、受け入れてしきりに下のほうに送ってあげるガリラヤの海は清明で、魚がたくさん生きており、その水をもってあらゆる農耕水とし、食用水として使用しました。

しかし同じヨルダン川の水を受け入れている死海はどうでしょうか。水を受け入れるだけでどこにも送って上げず、そして水が蒸発するので、海水の塩分は3%ですが、死海の塩分は25%です。魚が生きられません。人が入って行っても溺れ死ぬことがありません。浮きます。その水は農耕水にも、食用水にも使用することができません。死んだ海なのです。

同じヨルダン川の水を受け入れているのにも、受け入れながら流して上げているガリラヤの湖の水は生きている水ですが、受け入れるだけで流してあげることをしない死海は死んだ海なのです。

私たちが神様の愛をイエス・キリストを通して受けたのなら、その愛をもって隣人を愛さなければなりません。家族を愛し、お隣を愛したら、自分がキリストの愛の中に生きるようになるのですが、「私にキリストの愛を与えてください。与えてください。」と言って、隣人を愛しなかったら、暫くしてその霊魂も死んでしまうのです。

ですから皆さん、愛は与えるものであり、積極的でなければなりません。愛は消極的であってはなりません。愛する人が労苦を背負うのです。イエス・キリストをご覧下さい。私たちが願ったことがないのに、私たちを愛されて、親しく人として来られ、ご自分が積極的に十字架を背負い、身を裂き血を流して、私たちの罪をすべて贖い、疲れ、重荷を背負っている人は私のもとに来なさいと招かれた、積極的な愛をお示しになりました。

「ヨハネの手紙 第一 3章18節」に、『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。』と記されています。愛は、積極的にお隣を助けて上げるものです。

そして愛は、数多い咎を覆います。「ペテロの手紙 第一 4章 8節」に、『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』と記されているのです。また「箴言 10章12節」には、『憎しみは争いをひき起こし、愛はすべてのそむきの罪をおおう。』と記されています。

愛する人は咎を隠します。父母が、子供が間違ったことをしたと知りながらも、子供の咎を他に人にはしきりに隠します。何故でしょうか。愛するからです。実家の母は、誰かが娘を非難したら何度も弁明をし、隠します。しかし誰かが嫁を非難したら、一緒になって非難します。律法的な関係は、何事でも律法的に見ますので咎を暴き出します。律法は咎を暴き出すのが使命です。愛は罪を赦し、隠します。

ですから皆さん、お隣との良き関係を保つためには、律法の眼鏡をはずしてしまって、キリストの愛の眼鏡をかけなければなりません。数多い咎を赦し、隠さなければならないのです。

また、しきりに過去を思い出してはなりません。過去は赦したならすべて忘れてしまわなければなりません。過去を暴き出してはいけません。夫も、妻も、父母も、子供も、隣人も、親しく付き合い、お互いに良き関係を結ぼうとするなら、過去の咎を思い出してはなりません。赦し、隠してあげるようにしなければなりません。

神様は、私たちの罪を記憶もしないと仰せられました。真摯な神様が、何一つご存じないことが無い神様が、イエス様の血潮で洗い清められた私たちが天の御国に入って来たら、私たちの過去を記憶もしない、と仰せられたのです。そのように神様は、私たちの罪を赦してくださり、隠してくださるのです。

私たちはキリストの愛を受けたのですから、私たちも積極的に、建設的に愛するようにならなければなりません。愛は、隣人に対する夢を失いません。患難の中にあっても喜び、忍耐と鍛錬と希望を持つのが愛です。「ローマ人への手紙 5章 5節」に、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記されています。

神様は、罪を犯し、正直でなく、醜悪で、見捨てられてしかるべき人生にも、神様の子となることができると言う希望を持たせてくださいます。神様は私たちに対する希望を捨てられません。この世が私を捨て、私も私を捨てたとしても、神様はキリストの血潮で私たちを洗い清めてくださり、新しく生まれるようにしたら新しい人となり、神様の子となることができると言う希望を捨てられません。

神様は、私たちに対して根気強い希望を持っておられます。この神様の希望を私たちが受け入れたのですから、私たちもお隣に対して放棄せずに絶え間ない希望を持たなければなりません。放棄してはなりません。神様が私たちを放棄しなかったのに、私たちがなぜ、私たちのお隣を放棄しますか。

皆さん、「ローマ人への手紙 8章28節と32節」の御言葉をご記憶でしょうか。『8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』と言われたのです。ですから、愛の中には果てしない希望があるのです。

こんにち、夫婦関係、父母と子供の関係が悪い人たちが余りにも多いです。特に若い世代は職業教育、出世教育にだけ専念して、人間関係の教育不足により、数多い家庭的摩擦と不和と破壊をもたらしております。私たちの人生に神様の御助けが切実に必要であることを知って、理解し、同情し、賞賛し、赦し、和解しながら、愛することができる力を、いつも祈り求める皆さんとなりますよう、主の御名によって祈ります。

人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら何の益もありません。預言の賜物を持っていて、すべての秘密と知識を知っているとしても、愛が無かったら何の資格もありません。また自分の体を焼かれるために渡し、持っている物を貧しい人たちに分け与えても、愛がなければ何の役にも立ちません。

私たちはどんなことがあろうとも、もっとも近い夫婦間、父母と子供との間で、兄弟同士、お隣との間で、私たちは立派な人間関係を結んで暮らすのが、私たち自身が幸福であり、お隣を幸福にし、このようなことが私たち人生生活を成功するようにする理由となるのです。




お祈り

聖く、愛であられる天のお父様!私たちは今まで、余りにもお隣と良き関係を結んで暮らす知恵が不足でありました。

全知全能であられる父なる神様!私たちの主イエス・キリストにあって施してくださる神様の愛を悟って、私たちがお互いに理解し、同情し、赦し、愛し、和解し、平和の心をもって、他人を私より以上に尊敬し、前で引き、後ろで押して上げながら暮らして行く私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!