教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「イサクの花嫁探し」
 






■聖書箇所

「創世記 24章 1節〜9節」
24: 1 アブラハムは年を重ねて、老人になっていた。主は、あらゆる面でアブラハムを祝福しておられた。
24: 2 そのころ、アブラハムは、自分の全財産を管理している家の最年長のしもべに、こう言った。「あなたの手を私のももの下に入れてくれ。
24: 3 私はあなたに、天の神、地の神である主にかけて誓わせる。私がいっしょに住んでいるカナン人の娘の中から、私の息子の妻をめとってはならない。
24: 4 あなたは私の生まれ故郷に行き、私の息子イサクのために妻を迎えなさい。」
24: 5 しもべは彼に言った。「もしかして、その女の人が、私についてこの国へ来ようとしない場合、お子を、あなたの出身地へ連れ戻さなければなりませんか。」
24: 6 アブラハムは彼に言った。「私の息子をあそこへ連れ帰らないように気をつけなさい。
24: 7 私を、私の父の家、私の生まれ故郷から連れ出し、私に誓って、『あなたの子孫にこの地を与える。』と約束して仰せられた天の神、主は、御使いをあなたの前に遣わされる。あなたは、あそこで私の息子のために妻を迎えなさい。
24: 8 もし、その女があなたについて来ようとしないなら、あなたはこの私との誓いから解かれる。ただし、私の息子をあそこへ連れ帰ってはならない。」
24: 9 それでしもべは、その手を主人であるアブラハムのももの下に入れ、このことについて彼に誓った。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『イサクの花嫁探し』と言う題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

アブラハムが、自分のしもべエリエゼルをアラム・ナハライムに行かせて、イサクの花嫁を探して来るようにしました。アブラハムは年老いて老人になっていましたが、主が祝福して下さったのでたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康でありました。ひとり子イサクを結婚させようとして、自分の全財産を管理している最年長のしもべエリエゼルを、自分の生まれ故郷であるアラム・ナハライムに遣わして、そこの娘の中からひとりを求めてくるようにしたのです。

アブラハムの老僕エリエゼルは、らくだ10頭に主人の貴重な品々を積んで出かけました。




第一、アブラハムとイサクと花嫁

第1番目に、アブラハムとイサクと花嫁の比喩を明らかにしてみたいと思います。アブラハムはここで、私たちの神様を喩えています。神様は天地と万物を所有しておられるのです。イサクはイエス様を表象します。神様はその御子イエス様に天地のすべてを相続として与えようと計画なさったのです。そして花嫁は、こんにちの聖徒を象徴するのです。

皆さんと私は、イエス・キリストの花嫁としてキリストと共に、父なる神様から天地のすべてを相続していただく人たちになったのです。アブラハムがすべての自分の所有をみなイサクに与えようとしました。神様は天と地のすべての権威をイエス様に与えられたことを私たちは知っています。皆さん、神様は親しく天地と万物を造られましたが、そのすべてを御子イエス様に与えられたのです。アブラハムが所有していた全財産をイサクに与えたように、神様はすべてをイエス様に与えられたのです。

「マタイの福音書 28章18節〜20節」を見ますと、『イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」』と記録されています。

イエス様がよみがえられて、神様の御前で天と地とすべての権威を引き受け、引き継ぎなさいました。今は、神様が喜んで私たちの主イエス・キリストに天と地とすべての権威の一切をお与えになったのです。それでイエス様は、今は天と地のすべての権威を持って私たちと共におられるのです。

イサクはまさに、イエス様を象徴します。皆さん、イサクはアブラハムの心に従って、モリヤ山に上って全焼のいけにえになりかけたことがあります。たきぎを並べたその上に縛られて寝かされ、アブラハムがイサクを屠っていけにえとして神様に捧げようとしたとき、イサクは少しも反抗せずに、アブラハムの心に従順して自分をいけにえとして差し出したのです。このようにイエス・キリストは、父なる神様の御心に従って肉体を着て来られて、十字架で死なれるまで少しも抵抗なさらずに完全に従順に聞き従われました。

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜11節」に、『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。』と記録されているのです。

十字架の死と言うのは、この世でもっとも恐ろしく、そして恥辱極まりない死です。極悪な罪人の死に方を、主は不平することなく父なる神様の御心に従順して受け入れられました。それで神様は、イエス・キリストをこの上なく愛され、ご自分と同様にイエス・キリストを高められました。

そして、ここに出る花嫁は、イサクと共にアブラハムの相続人であるのです。リベカはイサクと結婚して花嫁として受け入れられて、アブラハムのすべての財産をイサクと共に相続するようになったのです。私たちも、イエス様と共に天と地とすべての権威を神様から相続する聖徒たちなのです。私たちには何の義の行為もしたことがありません。罪を犯し、不義で、醜悪であり、反逆しかしたことがありませんが、イエス・キリスト即ち、私たちの花婿が私たちを受け入れてくださいましたので、イエス・キリストにあって値なく神様のお恵みをいただいて、宇宙と万物を相続としていただくようになったのです。

世の中に、お恵みもこれ以上大きなお恵みはほかにありません。私たちが義の行為によって得たものは何もありません。ただイエス・キリストを救い主として受け入れたので、キリストが私たちのために十字架で身を裂き血を流して死んでくださった、その贖いの故に、イエス様に拠り頼み、イエス様の花嫁として、キリストと共に宇宙を相続として受けるようになったのです。

「ローマ人への手紙 8章16節〜17節」に、『私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。』と記録されています。イエス様と一緒に、宇宙を相続としていただく相続人が私たちなのです。

「テトスへの手紙 3章 6節〜7節」にも、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記録されています。

皆さん、相続人と言う言葉を軽く考えてはいけません。大財閥オーナーの息子が相続人となって、全財産は勿論、凄い特権までも享受するのを私たちは見ています。まして、天と地のすべての権威をキリストと一緒に相続して宇宙を支配することに参与すると言うことは、普通のありふれた特権ではありません。

こんにち、私たちは天使より低い地位に属するように造られましたが、将来はキリストにあって天使を支配し、天使に命令する座に着くようになるのです。キリストと共に永遠なる栄光をいただいて父なる神様に仕え、全宇宙と万物を支配する偉大で栄光に満ちた座に着くようになるのです。




第二、アラム・ナハライムに行ったしもべエリエゼル

第2番目に、アラム・ナハライムに行ったしもべエリエゼルを見ましょう。「創世記 24章10節〜11節」に、『しもべは主人のらくだの中から十頭のらくだを取り、そして出かけた。また主人のあらゆる貴重な品々を持って行った。彼は立ってアラム・ナハライムのナホルの町へ行った。彼は夕暮れ時、女たちが水を汲みに出て来るころ、町の外の井戸のところに、らくだを伏させた。』と記録されています。

ここでのアブラハムのしもべエリエゼルは、聖霊を象徴するものです。アブラハムのしもべエリエゼルがアラム・ナハライムに花嫁を求めようとして行ったのは、神様の聖霊がこんにち、この世にイエス・キリストの花嫁を求めに来られて、みわざを働かせておられるのと同様です。

ところがここ、アラム・ナハライムのナホルの町に来て、エリエゼルがらくだ10頭を連れてどこで花嫁を待ったかと言うと、井戸があるところで花嫁を待ちました。ほかのところで花嫁を待ったのではありません。こんにちも、神様の聖霊がイエス・キリストの花嫁を求めるために来られるときには井戸があるところで花嫁を待ちます。井戸があるところとはどんなところでしょうか?教会がこんにち、この世にある井戸なのです。御言葉の生ける水、聖霊の生ける水が湧き出る井戸なのです。

アブラハムのしもべエリエゼルが、ナホルの井戸のあるところにらくだを伏させて、花嫁が現われるのを待ちました。こんにち、聖霊さまが私たちのところへ訪ねて来られて、この世にある井戸即ち、教会で待っておられるのです。このエリエゼルは聖霊さまを象徴し、一緒に行った随行員たちは天使を象徴するのです。「ヨハネの福音書 14章26節」に、『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』と記録されています。

聖霊さまが私たちを待ってくださるのです。花嫁になれる条件をご覧ください。エリエゼルは神様にお祈りを捧げました。「神様。このような花嫁が現われたら、それこそイサクの花嫁になる資格があることを知ることができます…。」「創世記 24章14節」に記録されています。『私が娘に「どうかあなたの水がめを傾けて私に飲ませてください。」と言い、その娘が「お飲みください。私はあなたのらくだにも水を飲ませましょう。」と言ったなら、その娘こそ、あなたがしもべイサクのために定めておられたのです。このことで私は、あなたが私の主人に恵みを施されたことを知ることができますように。』

花嫁と認めることができる条件が実にそれだったのです。水を汲みに井戸に来て、「水を飲ませてください。」と言ったとき、エリエゼルにだけ飲ませるのではなく、自ら志願して「あなたのらくだにも飲ませましょう。」と言ったら、その娘がまさに花嫁であることを知ることができると祈ったのです。皆さん、らくだ10頭に水を飲ませると言うことはとても容易なことではありません。

らくだ1頭が80リットルの水を飲みます。10頭だとしたら、800リットルの量です。800リットルの水を汲んでらくだに飲ませるためには、井戸かららくだがいるところまで40回は往復しなければならず、時間は2時間以上がかかります。このように水を汲んでらくだ全部に水を飲ませるためには、全身が水に濡れるだけではなく、汗が雨のように流れ、とても苦労し骨を折らなければならないのです。そのようにしてくれる娘を花嫁として上げると祈ったのです。

こんにち、私たちにもこれは同じことです。皆さん、聖霊さまが私たちを選ぶために来られました。私たちが先ず、聖霊さまに水を飲ませて上げなければならないのです。聖霊さまに水を飲ませて上げると言うことは、教会に出席して、聖霊さまの御言葉を聞き、祈りを通して聖霊さまと交わりを持つことです。そうしてこそ、キリストの花嫁になることができるのです。

聖霊によらないことには、イエス・キリストを主であると告白することはできません。聖霊さまの御声を聞き、祈りを通して聖霊さまと交わりを持ち、聖霊に水を飲ませて上げる…、このようなことがあってこそ、私たちの心の中に神様の御子が啓示され、父なる神様を悟るようになり、キリストを救い主として受け入れ、新生することができるのです。聖霊のみわざがなしには、私たちは天の御国を全く知ることができず、父と御子イエス・キリストに対しても悟ることができないのです。

聖霊さまとの交わりは、私たちの信仰の根本的出発であり、いのちであり、聖霊さまとの交わりがないことには教会は存在することができず、キリストの花嫁を探し出すこともできないのです。

「使徒の働き 2章38節〜39節」に、『そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」』と記録されています。

私たちが悔い改めて、イエス様を信じ、救いを受けることは、実に聖霊さまによってなされるのです。花嫁になれるリベカが先ず、しもべエリエゼルに水を飲ませたのは、私たちがキリストの花嫁として聖霊さまを先ず認め、歓迎し、迎え入れて、拠り頼み、聖霊さまとの交わりがスタートしたことです。そうしてこそ、キリストの花嫁になれるのです。

その次に、らくだにも水を汲んで飲ませて上げましょう、と言いました。皆さん、聖霊さまはらくだを引き連れて来られるのです。らくだと言うものは、試練と患難と苦痛を言います。リベカにとっては、10頭のらくだに水を飲ませると言うことは並大抵のことではありません。らくだの目の前の水ぶねに汲んで来た水をあけると、らくだは一気に飲んでしまいます。そしてもっと水をくれと、らくだ特有の大声を出して喚きます。また汲んで来て水ぶねにあけて上げると、また一気に飲み干してしまいます。

らくだ1頭に80リットルの水を飲ませて上げるのですから、汗が流れます。それも10頭のらくだに水を汲んで来ては飲ませるのですから、凄い労働です。こんにち、聖霊さまは私たちをキリストの花嫁にするために、私たちの人格的変化をもたらし、花嫁としての化粧をさせるために試練と患難と言うらくだを連れて来られるのです。私たちがキリストの花嫁になるためには、私たちの前に現われる試練と患難のらくだに水を汲んで来て飲ませなければなりません。

らくだに水を飲ませて上げなければ、花嫁になることができません。それでは、らくだとは何でしょうか?私たちの周囲にいる夫らくだ、妻らくだ、子どもらくだ、舅と姑らくだ、親類らくだ、隣人らくだ…、とらくだが大勢います。絶え間なく夫らくだが水をくれと喚き立てます。こうして上げても不平を言い、ああして上げても不平を呟くので、大変な重荷です。クリスチャンでなかったら「勝手にしなさい…!」と言って離婚することもできるでしょうが、そうする訳にもいきません。

妻らくだもあります。妻が小言を言い散らし、愚痴をこぼし、不平を言ったり、怨み言をのべ続けたりします。そうすると言って夫が一喝を放ったり、怒ったりしてはいけません。妻らくだに水を飲まして上げなければなりません。一々対応せずに水を飲ませたら、いつの間にか静かになるのです。

子どもらくだが父母を悩まします。そうだとして逆に棒切れで殴って追い出してはいけません。追い出してもまた舞い戻って、家に入って来ます。水を飲ませて上げないことには、子どもらくだは殴ったとして静かになるものではありません。ですから子どもらくだにも水を飲ませて上げなければなりません。子どものために祈り、涙を流しながら諭し、細かいことまで顧みて上げるなど、水を飲ませて上げなければならないのです。

ある家では、舅と姑が年老いたらくだになって大声を出します。老人らくだにも水を継続飲ませて上げなければなりません。愛し、理解し、同情して上げながら顧みて上げなければならないのです。らくだの喚きが絶えるまで水を飲ませて上げなければなりません。

私たちの隣人がらくだになることもあり、又は、健康がらくだになって、いつも水を飲ませてくれとせがむことがあります。また事業がらくだになったり、通っている会社がらくだになったり…、色々と試練、患難が襲って来ます。なぜ、イエス様を信じているのに試練や患難が襲って来るのでしょうか?聖霊さまが私たちに花嫁化粧をさせるためにらくだを引っ張って来られるのです。

皆さん、らくだは、アブラハムが派遣したエリエゼルが10頭も引き連れて来たのです。悪魔が引っ張って来たのではありません。神様の聖霊がらくだを引いて来ます。それで、私たちの強情、我執を砕き、私たちの怒りっぽい性格を矯正し、愛がない心も、不従順も、不信仰も直して私たちを変化させるために、らくだに水を飲ませる苦労をするようにするのです。

このようなとき、らくだに水を飲ませる間に私たちは変化されなければなりません。私たちは胸を叩き、泣き、身悶えしながら、「主である神様!どうして私にこのようならくだがつきまどうのでしょうか。主よ!私を助けてください…。」と祈り、哀願しながら、変化されなければならないのです。らくだに水を飲ませるとき、砕かれ、柔和になり、従順し、愛し、信仰の人に変化して行くのです。

10頭のらくだ全部に水を飲ませるようにするのは、愛と忍耐と献身の試みです。「ヤコブ 1章 2節〜4節」に、『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。 信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』と記録されています。

また「ヤコブの手紙 1章12節」には、『試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。』と記されています。らくだが、いのちの冠を得るようにしてくれるのです。「試練に耐える人、耐え抜いて良しとされた人は、いのちの冠を受ける。」と言われたのです。

リベカが、しもべが連れて来たらくだに水を飲ませて上げた後には、その結果として、花嫁となれるように、金と銀と宝石の「約束の贈物」を受けることができるようになりました。

「ペテロの手紙 第一 1章 6節〜7節」に、『そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。いまは、しばらくの間、さまざまの試練の中で、悲しまなければならないのですが、信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。』と記録されています。

水を飲ませて上げたそのらくだのお蔭で、私たちはイエス・キリストの現われのときに賞賛と光栄と栄誉に至るようになるのです。「あ〜、私はイエス様を信じているのにも、らくだがありません。試練も患難もなく、平安です。」と言う人がおります。その人は花嫁になる資格試験に落第したので、らくだがないのです。

「イエス様を信じているのに、らくだがない。何の試練も患難もない。安らかである。」と言う人は、花嫁になる資格がないので、花嫁化粧をさせないのです。試練と患難と苦痛は、花嫁化粧をさせることです。忍耐がないか?忍耐の化粧をしなさい。愛がないか?愛の化粧をしなさい。信仰がないか?信仰の化粧をしなさい。砕かれていないか?砕かれるように化粧をしなさい。不従順か?従順の化粧をしなさい。私たちに近づいて来るらくだはみな、水を飲ませて上げることによって私たちを化粧させてくれるのです。

ところが、世の人たちは試練と患難のらくだが近づいて来たら棒切れを取り上げてから、らくだを打ちます。母屋で打ったら台所に逃げ、台所で打ったら離れに逃げます。離れで打ったら庭に逃げます。らくだはいくら打っても逃げはしますが鳴き声は止めません。却ってもっと高く鳴き声を張り上げます。夫がらくだになったとして夫を虐めたら、その夫はますます大声で鳴きます。妻らくだを迫害したら、妻らくだは身体を震わせながらもっと高く鳴き声を張り上げます。皆さんはらくだに水を飲ませて上げる聖徒さんになりますよう、主の御名によって祝福します。

忍耐の水を飲ませ、理解の水を飲ませ、同情の水を飲ませ、祈りで水を飲ませて上げれば、腹がいっぱいになって、鳴き声を出さなくなるのです。実にわが神様が花嫁をお化粧させようとして送られたのが、私たちには試練であり、患難であり、苦痛なのです。試練と患難と苦痛が必ずしも悪いものではないと言うことを私たちは悟らなければなりません。これを通して私たちは、神様の御前に理想的なお嫁となることができ、イエス・キリストの理想的な花嫁となることができる、人格的な変化をもたらすようになるのです。

人格の変化は、教育だけでできるものではありません。いくらダイアモンドの原鉱石を持って来て置いても、それを研磨してこそ高価なダイアモンドになるのです。いくら金と銀の含有量が高い鉱石を持っていても、それを溶鉱炉に入れて加熱し溶かしてから滓を除去してこそ、純粋な金や銀になるのです。

このように皆さん、私たちがイエス様を信じ、聖霊のお恵みによって新生したとしても、試練と患難の溶鉱炉を通されてこそ変化を受けるようになるのです。様々な試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい、と聖書は記録しています。夫らくだ、妻らくだ、子どもらくだ、隣人らくだに、喜びを持って感謝しながら水を飲ませる皆さんとなりますよう、主の御名によって祈ります。




第三、主人を褒めることに専念したエリエゼル

第3番目に、しもべエリエゼルは、リベカが自分に水を飲ませてくれただけでなく、らくだ10頭にも水を飲ませて上げるのを見て、この娘が花嫁としての資格があることを確認しました。それで、らくだの背に積んで持って来た金の飾り輪と金の腕輪などをリベカに上げ、心の中からリベカをイサクの花嫁であると決めました。皆さん、私たちが神様の御前で聖霊と交わりながら試練と患難に会い、変化されたら、神様が聖霊の実を私たちに下さるのです。私たちに、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制など、聖霊の実を私たちにくださることを私たちは知っています。

エリエゼルはその後、リベカの父母の家に真っ直ぐに行きました。そして、らくだの荷を解き下ろし、らくだにわらと飼料を与えてから、アブラハムとイサクに関する自慢話をしました。その家の主人たちが足を洗う水を出してくれたので足を洗いましたが、出された食事には手も触れませんでした。そしてエリエゼルは、一方的に主人アブラハムとイサクに関する自慢話だけをしました。

 「創世記 24章34節〜38節」を見ますと、『その人は言った。「私はアブラハムのしもべです。 主は私の主人を大いに祝福されましたので、主人は富んでおります。主は羊や牛、銀や金、男女の奴隷、らくだやろばをお与えになりました。 私の主人の妻サラは、年をとってから、ひとりの男の子を主人に産み、主人はこの子に自分の全財産を譲っておられます。 私の主人は私に誓わせて、こう申しました。「私が住んでいるこの土地のカナン人の娘を私の息子の妻にめとってはならない。 あなたは私の父の家、私の親族のところへ行って、私の息子のために妻を迎えなくてはならない。」』と記録されています。

そのようにエリエゼルは、アブラハムとイサクに関することだけを語りました。こんにちも、聖霊さまが来られて私たちに語られることは、父なる神様と御子イエス様に関することだけです。聖霊さまはご自分に関しては一切、何も語られません。また聖霊さまは、どのような人も高めはしません。どこかの教会や教派をも自慢なさることがありません。聖霊さまは父なる神様と御子イエス様に関することしか語らないのです。

「ヨハネの福音書 16章13節〜14節」に、『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。』と記録されています。聖霊さまは、父なる神様と御子イエス様のことだけを語り、人間や世のことは語らないのです。

その次には、リベカの決断が必要です。しもべエリエゼルは、アブラハムに関する話、イサクに関する話をし、アブラハムが自分の全財産をひとり子イサクに譲り、今はイサクの花嫁を探し求めて来たのだが、リベカをイサクに嫁がせてください、と願いました。今からはリベカの決断によります。

リベカの父母が彼女をいくらイサクに嫁がせたいと希望しても、本人が「嫌です。」と言ったらそれでお終いです。彼女の父母が「駄目だ。」といくら主張しても、本人が「行きたい。」と決断を下したらお嫁に行かなければなりません。

「創世記 24章55節〜58節」に、『すると彼女の兄と母は、「娘をしばらく、十日間ほど、私たちといっしょにとどめておき、それから後、行かせたいのですが。」と言った。 しもべは彼らに、「私が遅れないようにしてください。主が私の旅を成功させてくださったのですから。私が主人のところへ行けるように私を帰らせてください。」と言った。 彼らは答えた。「娘を呼び寄せて、娘の言うことを聞いてみましょう。」 それで彼らはリベカを呼び寄せて、「この人といっしょに行くか。」と尋ねた。すると彼女は、「はい。まいります。」と答えた。』と記録されています。

これで、「娘は育てても甲斐がない。」と良く言われています。目の中に入れても痛くないほどに可愛がりながら育てましたが、花婿イサクの話を聞いてからは、今直ぐに実家は捨てて、イサクが居るところに行くと決断を下したのです。こんにち、神様が願われるのはこのような決断を要求なさるのです。私たちが聖霊さまによって新生し、イエス・キリストを救い主として受け入れ、試練と患難を通して勝利を博し、信仰によって生きて行くのであれば、心に断固とした決断を下してこの世には背を向け、天の御国だけを見つめるようにならなければならないのです。

ここでリベカは、実家の家族たちまで引き連れてお嫁に行くことはできません。実家か、嫁ぎ先か、決断を下さなければならないのです。ところがリベカはその場で決断を下しました。こんにち数多くのクリスチャンたちが、一方の足はこの世に踏み入れたまま、もう一方の片足では神様の御国に入って行こうとしております。それは不可能なことです。多くの人たちが信仰生活に失敗するのは、決断を下さないからなのです。

イエス・キリストを信じるようになったら、直ぐにこの世と悪魔には背を向けて、イエス・キリストに仕え、天の御国のために生きると決断を下して、その道に真っ直ぐに歩んで行ったら、イエス様の花嫁となる資格が確実に認められるのです。それにもかかわらず、人たちは片っ方の足は教会に、もう一方の足はこの世にと二股かけて生きて行こうとしています。

「お酒も少しは飲みたい。」「タバコも吸いたい。」「悪霊に従って、肉体の快楽にもふけりたい。」…だと言って、地獄には行きたくない。天国に行きたいから教会にも通わなければならない…。世俗と天国を両手にみな持ちたいのです。それはできないことです。心を尽くし、思いを尽くし、いのちを尽くして、主である神様を愛し、主に従って行かなければ、天の御国の民にはふさわしくないのです。

リベカが断固として決断を下して、イサクに向かって行くと言ったように、イエス・キリストを私たちの花婿として迎えたのなら、私たちは断固として世俗と悪魔に背を向けなければならないのです。決断を下さなければならないのです。神様の御前に完全に自分自身を献身する決断の時間を持たなければならないのです。そうしてこそ浸礼を受け、キリストがよみがえられた事実を全天下に宣べ伝えることができるのです。

数多くのクリスチャンが世俗に未練を持っていて、決断を下すことができないので、神様の御力が現われないのです。驚くほどに多くの人たちがタバコを止めることができずにおります。酒を飲まずには済まない人たちが意外にも多いです。ばくちも止められません。この世の快楽、淫乱を断ち切ることもできません。「主よ!止めるように助けてください。」「断ち切ることができるように助けてください!」と祈りますが、できません。

自分の心から「断然、断ち切る!」と決断を下さなければなりません。タバコを吸いながら「止めるように助けてください。」酒を飲みながら「もう、飲まないように助けてください。」と祈りますが、それは笑わせる話です。

「もう、タバコは止める!」「酒はもう、飲まない!」「肉体の快楽はもう、絶対に追わない!」と決心をして、このように決断を下しましてから、主よ、助けてください!と祈るとき、主が力を与えてくださるのです。心に決定し、決断をしない人には、神様は御力を施してくださらないのです。勇敢に決断をくだす聖徒にならなければなりません。

昨日、私は、裁判に繋留中の犯罪容疑者が収容されているソウル拘置所に行ってメッセージを宣べて来ました。そこの矯導(教導)官の話によりますと、いくら酒が好きで、タバコが止められない人も、ここに入って来たらぴたりと止める、と言うのでありました。それで、「どうして彼らがそんなに容易に止めることができるんですか?」と聞いてみました。

すると、その矯導官が、「ここには酒もなく、タバコもありません。それで入って来る当初から、酒も飲めない、タバコも吸えない、と覚悟をし、断ち切ることに決断を下して入って来るので、思ったより容易に酒もタバコも止めるようになるのです。」と説明してくれました。

世に居るときには酒があるから、だんだんと止めて行こう、タバコがあるから明日から、または明後日から止めることにしよう…、として断固とした決断を下さないので、その人は棺桶に入るまで酒もタバコも止めることができないのです。心からの決断、これを神様は願われるのです。

イエス様を信じると言う信仰は、教会に顔を出し、イエス様を信じると言いながら、一方では世俗と妥協しながら暮らす、そんなことではありません。キリストを救い主として受け入れた瞬間から世俗には背を向けることに決断を下さなければなりません。悪魔に仕えていた生活を精算してイエス様に仕え、イエス・キリストを主として聞き従って行くとする、断固とした心からの決断を下し、実践して行く人になってこそ、神様から祝福していただくことができるのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章15節」に、『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。』と記録されています。

皆さん、らくだが何も持たずにそのままついて来たのではありません。らくだはあらゆる貴重な品々を背に乗せて来ました。「創世記 24章53節」に、『そうして、このしもべは、銀や金の品物や衣装を取り出してリベカに与えた。また、彼女の兄や母にも貴重な品々を贈った。』と記録されています。アブラハムが、しもべエリエゼルを遣わすときにらくだの背中に色々な贈物をいっぱいに背負わせて送ったのです。

いつ、その贈り物の荷を解くことになるでしょうか?リベカがイサクのもとにお嫁に行きますと、断固として決定を下したときに、しもべエリエゼルはらくだに積んで来た贈り物の荷を解き始めました。こんにち、多くの人たちが教会に出入りしながら不平を呟きます。「俺はイエスを信じているのに、神様はなぜ、祝福してくださらないのか…?」断固とした決断を下さないから、贈り物の荷を解かないのです。

クリスチャンであっても、心を尽くし、思いを尽くし、まことを尽くして、神の国とその義とを先ず第一に求め、神様に仕えながら生きるとはっきりと心に決めてこそ、聖霊さまが持って来られた天国の金銀財宝の荷を解くようになるのです。リベカの父母や兄弟姉妹たちが、「リベカを十日間ほど、私たちと一緒に居るようにしてから行かせたいです。」と言いましたが、リベカは「はい。今すぐについて行きます!」と答えました。

そうしたところ、しもべが直ぐにらくだに積んで持ってきた贈り物の荷を解いて、みんなに分け与えました。リベカが晴れ着を着て、贈り物の金銀の飾りを身につけました。「きれ〜いっ。これがホントにリベカなの…?」みんなが目を大きく開いて驚きました。完全に新しい人になっていたのです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」と聖書に記録されています。聖霊さまが持って来られた財宝の荷を解いて、それで飾ったら、私たちは世の人たちがびっくり驚く「新しい人」に変化されてしまうのです。

「コリント人への手紙 第一 2章 9節〜10節」を見ますと、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』と記録されています。

神様が備えておかれたお恵み、その驚くべき祝福を私たちは知りません。聖霊さまが荷を解いてくださって初めて知るようになるのです。それでは聖霊さまがいつ、その荷を解かれるでしょうか。私たちが断固とした決定、決断を下したときに、荷を解くようになるのです。私たちは世俗と悪魔に取り囲まれて、それらと手を組んでおります。これでは心からイエスを信じることはできません。世俗的快楽と情欲に溺れたままでは、イエス様を信じると言うことはできないのです。キリストに絶対に聞き従って行く…と決断を下したら、聖霊さまが天国の金銀財宝の荷を解いて私たちに分け与えてくださるのです。

事実、世の流れに従って生きて行ったら面白く楽しいようですが、世の楽しみはもっと多くの苦しみと悩みを要求します。キリストに絶対に聞き従うと決断して信じ、主にあって神様が施してくださるそのお恵みをいただくようになったら、世の面白さや楽しさは比較することができないのです。「イエスを信じたら、面白いことがない。」と、人たちは良く言います。しかし、本当はそうではありません。イエス様を信じたら、世の面白さや楽しさよりはるかに面白く、楽しいのです。

「イエスを信じたら、楽しくない。」と、世の人たちは言います。世の中の楽しみは腐った楽しみです。イエス・キリストを信じたら臨んで来る楽しさや喜びは、形容することができない天の御国の楽しさであり、喜びです。キリストを信じることが、あれこれ損をこうむることのように思われがちですが、世の中のことはすべて朽ちて行くもの、汚れたもの、醜悪なものでしかありません。しかし天の御国は永遠にあり、美しく、貴重で、神様の栄光で満ち溢れているのです。世の人の目には見えず、世の人たちはそれを知らないのです。

そして聖霊さまは、イエス・キリストを救い主として受け入れ、キリストのために生きると決断を下した人の前に、天国の贈り物の包みを解いて広げます。たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを溢れるまでに豊かに得るようにしてくださいます。らくだに水を飲ませるために色々と骨を折り、涙を流しながら尽くした後には、いくらも経たないうちに祝福が近づいて来るのです。

キリストにあって会う試練と患難と苦難は、その以後にその試練と患難と苦難と同等、あるいはそれ以上の祝福を神様が与えてくださるのです。苦難がなければ祝福もありません。試練がなければ栄光もありません。苦しみがなければ喜びもないのです。必ず、私たちがキリストにあってらくだに水を飲ませて上げ、試練と苦難に打ち勝ったら、神様の驚くべき祝福が私たちを待っているのです。

それは、夜が明けたら朝が訪れるように確かなことです。らくだに骨を折って水を飲ませて上げたら、聖霊さまが天国の贈り物の荷を解いてくださるのです。「詩篇 112篇 1節〜3節」に、『ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。』と記録されているのです。

「詩篇 33篇12節〜13節」にも、『幸いなことよ。主をおのれの神とする、その国は。神が、ご自身のものとしてお選びになった、その民は。主は天から目を注ぎ、人の子らを残らずご覧になる。』と記録されています。

皆さん、こんにちの世界も見ますと、先進国家連の経済連合体OECD会員30カ国の中で、ただ日本とトルコを除いた28カ国がみなキリスト教国家です。この世の中でもっとも裕福に暮らしている国39カ国の中で、28カ国がイエスを信じる国なのです。イエスを信じ、神様に仕えるや、聖霊が物質的な贈り物の荷を解いてくださったのです。

こんにち皆さん、わが韓国が6・25韓国戦争以後、戦塵の巷から立ち上がるようになったのは、我が国の5万教会、10万の主のしもべ、1,200万の聖徒がいて、この多くのリベカに神様が祝福してくださるために天の贈り物の荷を解いてくださったからです。リベカにだけ贈り物を上げたのではありません。らくだの背に積んで来た金銀財宝を、リベカの父母、兄弟にも分け与えて下さったように、こんにち、神様はイエス様を信じる私たちにだけではなく、イエス様を信じない国民全体にも聖霊が持参して来られた祝福を分け与えてくださるのです。

従って、わが韓国がもっと立派に暮らして行くためには、韓国の教会が益々リバイバルされなければならず、聖徒さんたちがもっと心を尽くし、思いを尽くし、いのちを尽くして神様に仕えなければなりません。そうしたら、聖霊さまがもっと多くのお恵みを施してくださり、信じない国民たちにも大いなる祝福とお恵みを与えてくださるようになるのです。

皆さん、ソ連が滅んだことを私たちは知っています。それでソ連が滅んだ原因を知るために専門家100名を選び出して研究するようにしました。3年間の研究結果、彼らは異口同音に「ソ連がイエスから離れたので滅びました。」と結論を出したと言います。これは、イエスを信じる人たちが結論を出したのではありません。科学者、専門家たちが3年間の研究結果、そのような結論に到達したのです。

このように、人間世界の興亡盛衰が私たちの主イエス・キリストの御手に関わっていると言うことを知らなければなりません。聖霊さまはらくだ10頭に財宝をいっぱいに積んで来られて、花嫁を探しておられるのです。らくだが運んで来た財宝の荷がいつ解かれるかと言いますと、キリストの花嫁となる私たちが決断をくだして、イエス様を受け入れ、試練と艱難に打ち勝ち、断固とした決意でこの世に背を向けて、イエス様に従って行くとき、この財宝の荷は解かれて、主を信じる私たちは勿論のこと、私たちと共に暮らしている国民全部までも贈り物をいただくようになるのです。

それから、リベカは水を飲ませて上げたらくだに乗って、イサクのところへ行きます。「創世記 24章61節」に、『リベカとその侍女たちは立ち上がり、らくだに乗って、その人のあとについて行った。こうして、しもべはリベカを連れて出かけた。』と記録されています。

皆さん、私たちは試練と艱難に会ったからと言って不平を言ってはいけません。リベカがらくだに水を飲ませるときには凄く骨が折れましたが、嫁いで行くときにはそのらくだに乗って行きました。歩いて砂漠を渡ることはできません。らくだに乗って行かなければならないのです。私たちが試練や艱難に会うことで不平を言いますが、試練と艱難を通して得た信仰を通して私たちは天国に行くのです。

それで、苦痛になる夫のお陰で天国に行き、小言言い散らす妻のお陰で天国に行き、頭痛の種の子どもたちのお陰で、うるさい隣人のお陰で、涙を流し、砕かれ、たくさん祈った結果によって、その信仰によって私たちは天国に行くようになるのです。私たちクリスチャンには、試練とか艱難とかは損になることが何一つありません。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださるのです。良いものは良いから良く、良くないらくだはそれを通して私たちが変化されて信仰の人となり、そのらくだに乗って天国に行けるように神様がみわざを働かせてくださるのです。

五旬節の日から今まで2,000年の間、聖霊さまはイエス様の花嫁を探し、備えておられます。私たちは様々な試練を通して、愛と忍耐と献身の花嫁化粧をしています。今、皆さんは聖霊さまのお恵みによって花嫁化粧をしておられます。「私は、化粧するなどしていませんが…。」と言うお方が居られるかも知れません。皆さんに襲って来た試練と患難が実に花嫁化粧なのです。

花嫁化粧をすることは、試練と患難のらくだに水を飲ませて上げることです。砕かれ、悔い改め、忍耐し、愛し、顧みて上げる...このようなことを通して、花嫁化粧がなされるのです。忍耐で化粧し、愛で化粧し、柔和になることで化粧し、従順に聞き従うことで化粧し、聖くなることで化粧し…、絶え間なく神様は、聖霊さまを通して皆さんがらくだに水を飲ませて上げるようになさることによって、皆さんに花嫁化粧をさせ、そしてそのらくだに乗って天国に上って行くようにしてくださるのです。

アブラハムは神様の姿であり、イサクはまさにイエス・キリストの姿であり、リベカは私たちの姿であるのです。アブラハムが、聖霊さまの象徴であるエリエゼルを送ってイサクの花嫁リベカを探したように、こんにち、聖霊さまは父なる神様のお遣わしに与って皆さんと私を探しておられます。「どこで探されるのでしょうか?」「井戸があるところで探します。」「井戸があるところがどこですか?」教会が井戸があるところなのです。

御言葉の井戸、救いとお恵みと愛の井戸である教会に来られて、今日も聖霊さまはイエス様の花嫁を探しておられます。皆さんが聖霊さまとの交わりを通して神様のお恵みをいただき、キリストを悟るようになり、聖霊さまの助けの中で試練に会うようにもなります。試練に会われるとき、これは絶対に皆さんに不利なこととは思わないでください。

イエス様がヨルダン川でバプテスマをお受けになられてから、聖霊さまに導かれて荒野に上って行かれ、悪魔の試みを受けられました。聖霊さまがらくだを引いて来られたのです。試練に耐えてください。試練を克服してください。そして試練に打ち勝ってください。そうしたら、らくだが背に乗せて来た、即ち試練がもたらす祝福の荷が解かれて皆さんを化粧してくれるだけでなく、皆さんの家庭、皆さんの隣人たちまでも祝福で化粧してくれ、その試練が私たちにもたらした信仰を通して、私たちは天国に行くようになるのです。




お祈り

愛であられ、聖き、わが父なる神様! 神様が私たちをキリストの花嫁としてくださったことに感謝します。

キリストの花嫁を探すために、聖霊さまが教会と言う井戸があるところに来られて待っておられることを私たちは知っています。聖書の御言葉と、聖霊さまのお導きと、主に捧げる祈りを通して完全に救われ、私たちが聖霊さまが引いて来られた試練と患難を通して変化されたら、イエス・キリストの花嫁にしてくださることに心から感謝申し上げます。

全知全能であられる天のお父さま! 主であられる神様は、私たちに試練と患難を通して鍛錬されるだけでなく、試練と患難が積んで来た祝福の荷も私たちのためのものであることを悟りました。この世に暮らしながら、私たちが鍛錬された後にはそれ以上の祝福を与えてくださることも知りました。有り難うございます。

愛であられる、わが父なる神様! エリエゼルがらくだに乗せて持って来たものは全部が、銀と、金と、様々な財宝でありました。この荷を解いて分け与えてくれたように、すべての聖徒さんたちが神様の財宝で身を飾るように助けてください。

世の人たちがみなびっくり驚くように、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを溢れるまでに豊かに得るように助けてください。そして、それを通して得た信仰をもって天国までひとりも残らずすべての聖徒さんたちが皆、行けるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!