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「クッションがない人生」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 1章 3節〜5節」
1: 3 私たちの主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
1: 4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
1: 5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。




今日、私は皆さんとご一緒に『クッションがない人生』と言う題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

この頃は、ニュースを見るのが怖いです。あまりにも非情で惨い、色々な事件が起こっているからです。父母が子どもを殺し、または子どもが親を殺します。夫が妻を、妻が夫を殺します。拉致し、強姦し、自殺するなど、惨い事件が一見たやすい位に頻繁に起こっています。人たちの心の中から、愛する、憐れむなどの人情が消え去りかけているのです。なぜ、人たちの人生がこのように非情になっていくのでしょうか。

いつか見た映画の一場面が思い浮かびます。大きなビルに火災が発生しました。エレベーターも止まりました。階段は煙でいっぱいの煙突になりました。人たちは窓から上半身を外に出して救助を要請し、人たちがあっちこっちから落ち葉が散るように地上に落下しました。消防当局ではビルの建物の下に大型のクッションを設置しました。落ちてくる人たちの中で運が良い人たちはクッションの上に落ちて、いのちが助かりました。しかしクッションの上に落ちることができなかった人たちは、地上のアスファルトの上で血みどろになって死んでいくのを見ました。

皆さん、人生もそれと同様です。私たちがこの世を暮らして行くとき、クッションがない人生を暮らしたら、どこかにぶっつかったり、傷を負ったり、骨が折れたりして悲惨な人生を暮らすようになります。ですから、大小様々な苦難の沼から私たちを守ってくださる神様の慰めとお恵みのクッションが切実に必要なのであります。




第一、罪責によって挫折するとき

第1番目に、私たちは罪責でのクッションが必要です。最近、有名な政治家の一人が収賄事件で投獄され、侮辱感と挫折に堪え切れなくて自殺した事件を、皆さんもマスコミを通してご存知になり、大きな衝撃を受けられたことと思います。著名な政治家だけではありません。韓国トップクラスの事業家の一人も、心の中に受けた衝撃を克服することができずに、自分所有の高層ビルから飛び降り自殺をしました。

皆さん、人は甚だしい心的苦痛とか侮辱を感ずると、それを克服する力がないので挫折し、遂には自ら生を放棄するようになります。わが韓国でも数多い人たちが社会生活の中で襲って来る外的衝撃に堪える力がなくて、自分自らいのちを断ち切る実例が数え切れないほどたくさんあります。しかし、彼らがもしもイエス様を知っていたなら、イエス様は彼らの衝撃や挫折や罪責感を緩和させてくださるクッションになってくださったはずです。

なぜなら、イエス様は神様の御子としてこの世に来られ、ご自身が人の言葉では言い尽くせない侮辱と挫折と絶望を克服なさったお方なのです。神様の御子が会われた侮辱と挫折と絶望を一度考えてみてください。イエス様はその御手で天と地とその中のすべてを造られたお方であり、王の王、主の主であられます。ご自身が造られた人生たちがご自分を侮辱し、唾を吐きかけ、鞭で打ち、真っ裸にして十字架に釘付ける、その凄惨極まりない蔑視と卑しめと侮辱を主は克服なさり、その苦難を通して人類の罪を赦され、救ってくださる驚くべき愛を施されました。

「ヘブル人への手紙 12章 2節〜3節」に、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』と記録されています。

また「ペテロの手紙 第一 2章22節〜23節」には、『キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。』と記録されているのです。

このように、侮辱と挫折と絶望と苦痛とを克服なさったイエス様は、私たちのすべての立場、事情をみな良く知っておられるので、このイエス様が私たちの中に居られたら、私たちがどのような挫折、絶望、苦痛、侮辱の目に会っても、これらを充分に克服することがでる大いなる慰めのクッションになってくださることがお出来になるのです。

イエス様が慰めのクッションになってくださったら、私たちはどんな衝撃にも勝つことができます。このイエス様が、神様の御前で赦しと愛のクッションになってくださるべく、今も私たちの中に臨んでおられ、それを願っておられるのです。

「ヨハネの福音書 3章16節」の御言葉をいつも口ずさんでください。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』主は、滅亡の勢力からも私たちを守ってくださり、絶望の勢力からも私たちを守ってくださるのです。

「エペソ人への手紙 1章 7節」に、『私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。』と記録されています。いくら罪悪の泥沼に落ち込んでおり、罪責感が重苦しく押さえつけてくるとしても、また、堪えられない苦痛が押し寄せて来るとしても、イエス様が共にいてくだされば、このすべてのことに打ち勝ち、神様の赦しと義と栄光を得て勝利することができるようにしてくださるのです。

「ローマ人への手紙 8章37節」に、『しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』と記録されています。どのような罪人も、神様の前では新しい人になることができます。罪のない義人がどこにいるでしょうか。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができないと言われました。

ある人の罪は隠され、ある人の罪は白日のもとに露わになりました。しかし神様の前ではすべてどんな罪も隠すことができません。罪責と苦痛に身悶えするとしても、イエス様が胸の中に居られたら、キリストは罪でまっ裸になっている私たちに愛の衣を着せてくださり、傷ついた心をきれいに癒してくださり、汚れた私たちの心性を洗い清めてくださる、驚くべき慰めのクッションになってくださるのです。

どのような罪人も、神様の前では新しい人になることができます。「コリント人への手紙 第二 5章17節」に、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記録されています。古い人を脱ぎ捨てて、新しい人に着替えることができるのです。私たちが古い人を着て嘆き、涙を流して泣きますけれども、主は仰せられます。「わたしのところに来なさい。わたしがあなたに決断の力を与えて、あなたが古い人を脱ぎ捨て、新しい人になるようにして上げましょう…。」と。

「エペソ人への手紙 5章 8節」を見ますと、『あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。』と記録されています。

ベルマ・バピールドは、1984年にアメリカで死刑に処せられた女性の囚人です。彼女は自分の母と婚約者と、そして他の二人を射ち殺した殺人事件の主人公でありました。ベルマ・バピールドが死刑宣告を受けて監獄にいるとき、ビリー・グレハム牧師先生の長女であるエン・グレハム・ルツ女史の伝道でイエス・キリストを救い主として受け入れるようになりました。それでもベルマ・バピールドは、死刑執行の時間が近づいてくるに従って、自分の犯した罪があまりにも大きく、惨すぎる罪なので、非常に苦しがりました。

彼女は、到底赦してもらえない大き過ぎる罪を犯したのだとして、苦痛と悩みで夜もろくろく眠ることができませんでした。そうした或る日、グレハム・ルツ女史が会いに来てくれました。ベルマ・バピールドは涙を流しながら、自分を伝道してくれたグレハム・ルツ女史に自分の心境を率直に全部告白しました。暫くの間黙って、話を聞いていたグレハム・ルツ女史が口を開きました。

「ベルマさん、海辺を散策しながらカニ(蟹)たちが入ったり出たりしながら小さい穴を砂場に掘っておいたのを見たことがあるでしょう?」「はい、見たことがあります。」「それじゃ、子どもたちが砂遊びをしながら作った砂穴を見たことはあります…?」「はい、それも見ました。」ベルマは頭を上下に動かしながらうなずきました。「それなら、その次には、水路を拡大するために起重機で海の中を深く掘った大きな溝を見たことはありますか?」

ベルマは訝しげにルツ女史を見つめながら、「はい。ところでそんなことを何故、私に聞かれるんですの?」と言いました。そうするや、ルツ女史が強く質問調で聞きました。「ベルマさん、海水が押し寄せて来たら、その穴たちはどうなると思います…?小さい穴だけがなくなって、大きい穴はそのまま残るでしょうか?…そうではないでしょう?カニの小さい穴も、子どもたちが作った穴も、起重機で掘った大きな溝も、みな埋まって、なくなってしまいますよね…!

それと同じように、イエス様の聖い血潮の波が押し寄せて来たら、小さい罪も、中間の罪も、大きな罪も、みな赦されてなくなってしまうものよ!あなたの罪も同様なの。あなたの罪も、イエス様の血潮の波が一度通り過ぎたんだから、きれいに洗い聖められたのよ。安心してね…!」ルツ女史は継続して説き教えました。「イエス様によって、あなたは既に、神の前に新しい人になったのよ。あなたの罪はいくら捜しても、もう見つからないの。キリストによってあなたは聖い人、義の人、主の栄光で満たされた人になったのだわ…!」

罪の程度が大きかろうが小さかろうが、そんな事には関係なく、すべての罪はイエス様の血潮の契約によって赦されるのです。どんな罪人も神様の前では新しい人になることができますので、罪責感の故に煩悶したり、苦しんだり、身悶えする人がイエス・キリストを受け入れたら、赦しと義と栄光の偉大な慰めのクッションが心を支えてくれますので、どのような艱難・困苦も克服し、勝利を得ることができるようになるのです。

この真理を知ったなら、こんにち、罪責とか衝撃とかで挫折し、落胆のあまり自殺してしまうような人はないはずです。




第二、堪えられない試練を通るとき

第2番目に、人生の堪えられない試練を通るとき、これに勝つことの出来る力がどこから出るでしょうか?自責と見捨てられたと思う恐怖と、暗い死の陰の谷で息が止まりそうになり、絶望が襲ってくるとき、人たちは人生を放棄しやすくなります。こんにち、韓国人の80%が人生に希望がない、と言っているそうです。希望を失ったために、この頃は焼酎を飲む人が随分と増えたと言われているのです。

しかし、「詩篇 23篇 4節」を見てください。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』と記されています。死の陰の谷を、主が取り除いてはくださいませんけれども、その死の陰の谷を私たちが歩くとき、主が共におられ、共に歩いてくださると言うのです。これが驚くべきことなのです。

神様は、私たちから死の陰の谷を取り除いて上げるから、安らかに暮らしなさいとは言っていません。私たちが間違いを犯したなら、私たちは死の陰の谷も歩き、試練にも会い、苦しい目にも会わなければなりません。しかしそのとき、主は私たちの手を取って共に歩いてくださりながら、暗やみを明るくしてくださり、死を生命で助けてくださり、危険から救い出してくださり、慰めてくださる主となってくださるのです。イエス様が、私たちが試練に会うときに偉大な慰めのクッションになってくださるのです。

世の人たちは、死の陰の谷で倒れ、立ち上がれませんけれども、私たちはそれを克服して、神様に感謝し、笑いながら立ち上がることができるのです。それはイエス様がクッションになってくださり、心の中に慰めとお恵みを施してくださるからです。「詩篇17篇8節」に、『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。』と記録されています。

また「イザヤ書 41章10節」に、『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』と記録されています。ですから、皆さんが生涯の中で経験する大小様々な死の陰の谷の体験の中には、皆さんが一人で歩むのではなくイエス様がいつも共に歩いてくださり、主が鞭と杖で守って下さり、慰めてくださるのです。

私はいつも、「詩篇 91篇 1節〜7節」の御言葉を口ずさみ、この御言葉で守られており、慰められています。『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。 主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。』

皆さん、この御言葉は主がいかに私たちを守って下さり、慰めのクッションになってくださるかを説明しています。全世界が私たちを捨て去り、私たちの前途が漆黒のようにまっ暗くても、そこには私たちの手を取って一緒に歩いてくださる主が居られると言うことを忘れてはなりません。

イギリスに若い年齢で成功した一人の弁護士がおりました。或る日彼は、イギリスの議事堂で重要な弁護をすることになっていましたが、そのことがあまりにも過重な負担感と緊張をもたらし、彼は倒れてしまいました。それまで出世街道を走ってきた彼は、その以後からだんだんと人気が落ち始めました。ついに彼は精神錯乱症状をおこし、正常的な生活をすることができなくなりました。それで彼は、自分が醜く無価値な存在であるとして自虐し、自殺を図りました。

ところが、周辺で彼を憐れんだ数多くのクリスチャンたちが彼のために祈り、彼にイエス・キリストを信じるように伝道しました。彼はキリストを救い主として受け入れて、救いを受けるようになりました。自分の存在を無価値なものと思いながら自殺までしようとした彼は、主が自分の罪を担って十字架に釘付けられ、死んでくださったことにより、汚れ、そして醜悪な自分の人生が新しく変化されたことを知るようになり、彼自身が神様の子となった大きな自負心を持つようになりました。

尊き泉あり、その内よりインマヌエルの血ぞ、あふれ流る。
罪に悩む者、くぐり入らば、汚れはあらわれ、しみは消されん...。

この賛美歌(聖歌428番)が、実にウィリアム・クーパー、この弁護士が作詞した賛美歌です。彼は後日にイギリスの文学史にあって考証文学者として指折り数えられる人物になりました。自分を押さえ付ける人生の重みにより、恐れと破滅の暗い死の陰の谷で息が詰まり絶望したとき、自分を救ってくださったイエス・キリストを救い主として受け入れ、イエス様に拠り頼むや、イエス様は彼を絶望の沼から救い出してくださり、美しく尊い賛美歌を作詞することができるようにしてくださり、遂には彼を価値ある文学者に作り上げてくださったのです。

従って私たちも、堪えられない人生の試練を通るとき、主の助けとお恵みが私たちと共に居られると言う事実を忘れてはなりません。「肯定的思考」で広く知られているローマン・ビンセント・ピール博士は、いつも何かをメモ用紙に書き入れて、坐るときも立ち上がるときも、時間があったらそれを読みました。そしてそのメモ用紙がよれよれに古びたら、新しいメモ紙にそれをまた書き移して、それをいつも持ち回りながら読みました。

そのメモ紙には、次のように書き込まれていたと言います。「神の光が私を取り囲む。神の愛が私を取り囲む。神の御力が私を取り囲む。神がご臨在して私を見守って居られる。私がどこへ行こうとも、神は私と共に居られる。」このような肯定的で積極的で創造的な文句を紙に書き入れて、いつもそれを繰り返し繰り返し読み、是認しながら生活したと言います。それでローマン・ビンセント・ピール博士は、自分の一生のあいだすべての暗やみに勝っただけでなく、数多くの人たちに肯定的な人生を歩むように恵みを施すことができたのです。

皆さん、イエス・キリストだけが、私たちを極限の苦痛から救い出し、慰めのクッションとなってくださって、私たちを立ち上がらせてくださり、再三夢を持ち、信仰を持って、そして希望が溢れる肯定的な人生を生きて行けるようにしてくださるのだ、と言うことを知らなければなりません。




第三、悪い病気でいのちが危ない時

第3番目に、悪い病気に罹っていのちが危ないとき、誰が私たちに癒しと慰めのクッションになってくれることができるでしょうか。病気そのものよりももっと恐ろしいのが心の落胆です。私たちが重い病気に罹ったら、私はもう死ぬんだ、絶望だ、と落胆しますので、病気の前にタオルを投げつけて放棄し、降伏してしまいます。再起不能となるのです。

「箴言 15章13節」に、『心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。』と記録されています。絶望し落胆してしまったら、顔色が暗くなってしまいます。「箴言 17章22節」には、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』と記録されています。心に喜びがあって陽気になれば、心の中の製薬工場が稼動してエンドルフィンが溢れ出るようになりますので、苦痛が消え去り、喜びが生じて、ガン細胞を撲滅する細胞が活気を呈するようになります。

しかし、心に心配事があって気がふさぎ、気落ちするようになったら、アドレナリンと言う毒素が生じて肉体を破壊します。ですから、病気の根は心にあると言うことを認識しなければなりません。生きることができる、と言う希望が心の中にあったら、これが素晴らしい慰めのクッションになって私たちに勝利をもたらすようになるのです。癒しは神様の御心である、と言うこの事実を私たちが確実に知っていたら、心に凄い慰めとなります。病院でお医者が死刑宣告を下したとしても、私たちを癒すことが神様の御心であると信じたら、これが勇気と慰めと信仰をもたらすクッションになるのです。

「イザヤ書 53章 4節〜5節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記録されています。ここに、癒すことは神様の御心であることをはっきりと見せてくれています。

2,000年前に既に、イエス様は私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださったのです。ですから私たちは既に、2,000年前に癒されているのです。イエス様のご使役は、その3分の2が病を癒すことにありました。イエス様は「悔い改めなさい。天国が近づいたのだから。」と言われた後、直ぐに癒しの施しを始められ、最後に、ゲッセマネの丘でペテロが大祭司のしもべマルコスの耳を切り落としたとき、その耳を拾い上げて元に戻して上げる癒しのみわざを施されたのです。

「ヘブル人への手紙 13章 8節」に、『イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。』と記録されています。このイエス様は、今、ここに私たちと共に今も居られて、癒しのみわざを施して居られるのです。心に希望のクッションを抱いていたら、猛烈に祈り、敵悪魔といくらでも戦うことができます。自分には希望がある、と信じたら、私たちは希望に向かって全力投球して戦うことができるのです。希望がなかったら、その人はすべてに敗北し、すべてを放棄してしまうようになるのです。

「マルコの福音書 16章17節〜18節」に、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』と記録されています。

「ヤコブの手紙 5章15節〜16節」には、『信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。』と記録されています。

キリスト教の福音には、「救い」と共に「癒し」がいつも一緒にあると言うことを私たちは見逃してはなりません。イエス様は「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言われ、「病を癒しなさい。」と言われました。天の御国の臨在は癒しをもたらすのです。癒しは天国の基盤になるのです。天の御国には病がありません。こんにち、天の御国が私たちの中に臨んだら、癒しが現われます。こんにちの教会と礼拝には、必ずイエス・キリストの赦しと癒しのみわざが現われなければならないのです。

私たちの教会に出席している或る姉妹さんの証しを聞いてみてください。この姉妹さんは結婚するや男の子を生みました。初子が男の子でしたので、実家でも嫁ぎ先でもみんなが喜んで拍手を送りました。ところが、この子が6ヶ月を過ぎながら風邪にかかるとか、消化不良を起こすとかすると、それと一緒に驚風も起こし始めました。少し日にちが経ったら直るだろうと思いましたが、5歳になってからは驚風が癲癇に変じました。

ひと月に何回も発作を起こす息子を見るたびに、母であるこの姉妹さんの心は刃で抉られるような痛さを感じました。息子の癲癇病を直すために、有名だと言われる病院にはみな行って見ましたが、医師たちは「息子さんは脳に傷を負っているので、どうすることもできません。」と、絶望的な結果だけ言い渡すのでありました。けたたましいサイレンの音を聞いても癲癇を起こし、ちょっと叱っただけでも間違いなく発作を起こしました。友だちと遊ぶ途中に軽く殴られても発作を起こしました。

姉妹さんは、この息子が一生涯、このように癲癇病で発作を起こしながら生きるしかないのであったら、いっそのこと死んだ方がましだと思いました。それで、息子と一緒に死ぬ覚悟をして、姉妹さんは多量の睡眠剤を準備しました。そして相当量を先ず自分が飲み、息子にも風邪薬だよ、と言い聞かせて食べさせようとしましたが、偶然に息子が肘で姉妹さんの手を打ち、睡眠剤が床に落ちて散らばりました。それを見て、姉妹さんは睡眠剤を取りまとめて息子に再び飲ませようとする勇気がなくなりました。姉妹さんは自分ひとりで倒れてしまいました。

暫くしてから、家族たちが駆けつけて来ました。姉妹さんが睡眠剤を飲んだことを知り、急いで姉妹さんを病院に運んで入院させました。入院している中で、姉妹さんは夢を見ました。夢に、真っ白い衣を着た人が現われて、姉妹さんに質問するのでありました。「あなたの息子の病気を治すことができるとしたら、人糞を飯椀で一杯、食べることができますか?」それを聞いて、姉妹さんは「はい。私が人糞を食べて息子が治るとしたら、喜んで食べます!」と即座に答えました。

その真っ白い衣を着た人が、再度質問しました。「本当に、あなたの息子が治るとしたら、人糞を食べますか?息子のために1ドラムの人糞でも、食べよ、と言ったら食べますか?」姉妹さんは、今度も即座に答えました。「はい!息子の病気が治るんでしたら、途中で死ぬことがあっても、人糞を食べます!」姉妹さんは必死的になって答えました。すると、その人が、「よろしい。あなたが息子の為にそれ位の覚悟をしているなら、主イエスを信じなさい!」と言ってから、見えなくなりました。

目を覚ました姉妹さんは、心の中に息子の癲癇病を治すことができる、と言う希望が生じました。病院から退院した姉妹さんは、日曜日になるや、真っ直ぐに教会を訪ねて行きました。その教会が実に、ヨイド純福音教会であったのです。礼拝に参加した姉妹さんは、イエス様が十字架に釘付けになられて、私たちのすべての呪いと病を清算なさったと言う御言葉を聞きました。

そして、説教が終わってから、私がこう言ったと言います。「今日、癲癇を患っている息子のために祈っておられる姉妹さんがおられますが、神様がその人を憐れんでくださって、その癲癇病が癒されました…。」彼女は「ハレルヤ!」と叫び、熱い感謝の中でそれを受け入れたと言います。そして翌日、息子を連れて病院に行き、脳波検査をして見たところ、息子の脳の異常がきれいになくなり、そのときから、姉妹さんの息子は癲癇病から完全に解放されたと言いました。

希望がどんなに素晴らしいものか知れません。彼女が絶望に瀕し、死のうとして多量の睡眠剤を飲みましたが、夢の中に主が現われてくださって彼女に希望を与えてくださいました。私たちのために十字架に釘付けにされ、身を裂き血を流してくださったイエス様は、この母親の息子に対する愛より数千、数万倍ももっと強い愛を持って居られるのです。ですからクリスチャンである私たちは、イエス・キリストにあって癒しに対する希望を持つことができ、この希望が私たちに驚くべき慰めのクッションになって、どのような病であろうとも最後まで戦って勝つことができるようになるのです。




第四、死が近づいて来るとき

第4番目に、死が近づいて来るとき、私たちは本当にクッションが必要です。他人が死んだときには「あ、死んだんですか…。」と、無感動で終わります。立派な人が亡くなって新聞に広告でも出されたのを見たら、「惜しいが、しようがない。生きるぐらいは彼も生きたんだから…。」で終わってしまいます。しかし、この死が主観的な体験となるときには、極端な恐怖を覚えるようになります。死が近づいて来たら、その時には富貴も栄華も功名も、何の効用がありません。

自分が死に直面し、天国も知らず、地獄も知らずに死んで、一握りの灰に帰するのだと知ったとき、挫折と絶望は形容することができないものです。

私は最近、ホスピスが出版した本を読みました。多くの死んで行く人たちの傍で最後の臨終を助けて上げる、そのような働きをする姉妹さんたちの手記集です。その本によりますと、神様を知らず、あの世を知らない人たちは、最後までこの世にすがり付いていようとし、最後の死の瞬間まで「いや〜。いや〜…。」と言いながら死んで行くと言います。死と言うものが「いや〜。いや〜。」と喚くとして、退いて行くものではありません。

しかし、神様を信じ、あの世を知っている人たちは、死を一つの旅行のように思い、家族たちを呼び集めて、「私が先に行くよ。後でゆっくりとついて来なさいね…。」と言い、送る家族たちも、「お先に行って下さい。後のことは心配なさらないで…。私たちも、直ぐに後を追って行きますから…。」と、互いに“さようなら”を言い合うように話し合い、死ぬ人は安らかに目をつぶる、と言うのでありました。私たちクリスチャンは、イエス様が救い主であられ、私たちと共に居られると言う知識を持っていますので、死ぬ間際に、それが凄く素晴らしい慰めのクッションになるのです。

「ヨハネの福音書 14章 1節〜4節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 わたしの行く道はあなたがたも知っています。』と記録されています。

誰が、このような話しをしてくれることができるでしょうか。死ぬ人たちに、誰がこのような大胆な話しを聞かせてくれることができるでしょうか。イエス様が、私たちのために場所を備えるために先に行かれました。行かれてから場所を備えたら、また来られて、私たちをイエス様が居られるところに迎えてくださって、イエス様と一緒に居るようにしてくださる、と約束されたのです。これは天と地を造られた神様の約束なのです。

私たち人間を愛するあまり、私たちの為に身を裂き血を流してくださったイエス・キリストの約束の御言葉なのです。このような約束の御言葉を持っていますので、それが死を迎える最後の瞬間に私たちに大きな慰めのクッションになってくれるのです。私たちは死の恐怖に充分に勝つことができるのです。天国への希望が、死の目に会う私たちに大きな慰めのクッションになってくれるのです。

「コリント人への手紙 第二 5章 1節」にも、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と記録されているのです。この世の地上の幕屋は壊れます。しかし、人の手によらない永遠の家がありますので、朽ちた家はこわれ、もっと立派な永遠の新しい家に入って行くようになるのですから、どんなに嬉しいことか分かりません。

パウロ先生は、「コリント人への手紙 第二 5章 8節〜9節」に記録しています。『私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。』またパウロ先生は、「ピリピ人への手紙 1章23節」に、『私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。』と記録しています。

パウロ先生は、第三の天にまで引き上げられてから下って来る体験をした以後、死は、彼には一つの通過する過程に過ぎませんでした。恐怖の対象ではありませんでした。かえって、この世で苦労するよりは、この世を去ってキリストと共に居るほうが、はるかにまさっている、と言ったのです。

この世を去ったら、もう永遠の離別である、と思うとき、心が悲しいです。特に愛する人が先立って、またと会うことができない、と思うとき、その心の苦痛と悩みは簡単に説明できるものではありません。しかし、私たちが天の御国に関する知識を持っていたら、今は暫く離れるが、もう直ぐに永遠に会えると言う慰めの約束がありますので、それが心の大いなるクッションになるのです。

「テサロニケ人への手紙 第一 4章13節〜14節」に、『眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。』と記録されています。

望みのない人々のように悲しみに沈んではならない、神様は、イエス様と一緒に眠った人々を連れて来られるはず…、と言われたのです。ですから、神様の御約束はまた会える希望のクッションになっているのです。

偉大な伝道者・大説教家であったムーデイー先生は、死の日が近づいたことを予感して、訪ねて来た親友たちにこのように話しました。「…或る日、新聞に“ノーズピルドのムーデイーが死んだ”という記事をご覧になったら、それを事実として信じてはいけません。そのときは、今の私よりもっとはっきりと生きている筈です。土で作った古い家から出て、はるかに高く、永遠な家、罪が接近することができず、汚れることがない栄光の身を着て、もっと高いところに居る筈です。私の肉体は1837年に生まれ、たましいは1856年に新生しました。肉体は死ぬでしょうが、聖霊によって生まれたものは永遠に生きるのです。」

ムーでイー先生は、天に召される前に天国の栄光を見ました。彼は、眠りから目を覚ましながら言いました。「この世を去りますが、天国が私の前に開かれます。これが死と言うものなら、いかに美しいものでしょうか。神様が私を呼んでおられます。私は行かなければなりません。イエス様が私を待っておられます…。」それを聞いた家族たちが、「いや、そうじゃありません。お父さん、そうじゃありません。お父さんは夢を見たんです…。」と言いましたが、ムーデイー先生は「いや、違う。私が夢を見ているんじゃない。私は天国の門に足を踏み入れているんだ。」と言ってから、「これが私の勝利。今日が私の戴冠式の日なのだ。お〜、栄光…。」と言って、息を長く吐き出すや、この世を去って行きました。

一生涯、キリストの福音を宣べ伝えたD・L・ムーデイーらしく、美しい死を迎えたのです。ムーデイー先生は、天にある永遠の家を見つめながらこの世を去りました。人は誰もが死を迎えます。肉体の死を迎える瞬間、イエス・キリストを信じる私たちクリスチャンは、肉体を離れるときに会う不安と恐怖と挫折と悲しみに充分に勝つことができるお恵みのクッションを持っているのです。このお恵みのクッション、慰めのクッションが故に、死をも私たちは大胆に迎えることができるようになるのです。

私たち人生の色々様々な苦難の中で、イエス様はいつも私たち人生のお恵み、慰めのクッションになってくださいます。主を信じ、愛し、御言葉の中で生きたら、イエス様が与えてくださるお恵みと慰めの御力によって、私たちはすべての苦難に打ち勝つことができます。イエス様を信じるとして苦難が押し寄せて来ないのではありません。信じない人たちと同様に、私たちはあらゆる試練と患難と苦難の目に会います。しかし私たちには、その苦難に打ち勝つことができるクッションがあるのです。

いかなる衝撃に襲われようとも、それらに充分に対応して行くことができるクッションが私たちにはあるのです。それはイエス・キリストを信じる信仰です。私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。それは驚くべきキリストのお恵みと慰めのクッションが私たちの中にあるからです。




お祈り

愛であられ、聖き、わが父なる神様! イエス様が居られない人生を生きると言うことは、何のクッションもない地上に投げつけられることと同様です。

全知全能なる、わが天のお父さま! 何の保護幕もなしに地上に投げつけられたら、人は大きく負傷し、血みどろになり、骨が折れ、死の目にも会います。しかしイエス様が私たちの霊肉にあってクッションになってくださり、お恵みと慰めで私たちを保護してくださって、本当に感謝です。

キリストにあって私たちは、投げ飛ばされても立ち上がり、踏み躙られても立ち上がり、見捨てられても立ち上がります。キリストが与えてくださるお恵みと慰めのクッションのお陰で、私たちはどんなことにも打ち勝つことができるのです。有り難うございます。

主である神様! 患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです、と言われた聖書の御言葉を、私たちが忘れないように助けてください。

また、積極的にイエス様といつも共に暮らし、慰めがない人たちにキリストを宣べ伝えることができる私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!