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「天に座らせられた人生」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 2章 4節〜7節」
2: 4 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、
2: 5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
2: 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
2: 7 それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、「天に座らせられた人生」と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

この頃、事務職はみな座って仕事をします。しかし昔、農耕社会や狩猟社会では、働くと言うことはいつも立って労働することを意味します。立って働く労働が終わったら、座って休むようになります。働いている途中には座っていることができません。それで座るということは仕事が終わった、と言うことです。

家庭主婦が一日中、家の中で母屋から台所へ、居間へ、子ども部屋へ…と熱心に歩き回りながら仕事をするときには、座って休むいとまがありません。しかし夕方になって、家の中の仕事がみな終わったら、大きく呼吸をしながら座ることができます。座ると言うことは、仕事が終わったと言う事なのです。

それで、こんにち、聖書の御言葉の中に『キリスト・イエスにおいて、共によみがえらせ、共に天の所に座らせてくださいました。』と言うことは、凄く意味深いことなのです。




第一、第七日目に休まれた神様

第1番目に、神様は第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた、と聖書に言われています。『ヘブル人への手紙 4章 4節」に、『神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。』と記録されています。

神様は六日の間立って働かれ、天と地を造られました。働かれる間は、神様が安らかに座っておられることができないのです。立って働かれたのです。第一日の日に光を造られ、第二日の日に大空を造られ、第三日の日に地が現われるようになさり、植物、種を生じる草、果樹が現われるようになさいました。そして第四日目の日に太陽と月と星を造られ、第五日目には大空には鳥を、海の中には魚を造られました。第六日目には生き物、家畜、地をはうすべてのものを造られ、最後にご自分のかたちに人を創造なさいました。それで六日の間に神様は万物をすべて造られたのです。

『創世記 2章 1節〜3節」を見ますと、『こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。2:2 それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。』と記録されています。

神様はなさっておられたお仕事を完成なさいました。お仕事が終わったと言うことです。神様は、六日の間に働かれてすべてを完成なさり、そして七日目の日には座って安らかに休まれました。『ヘブル人への手紙 4章10節」を見ますと、『神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。』と記録されています。これは何を言うことかと言いますと、「アダムとエバが六日目の最後の時間に造られて眠り、あくる日の朝起きた七日目が、この世に生まれて生きる最初の日であった。」と言うことです。

人間の最初の日が、神様が休まれる日であると言うのです。アダムとエバが神様のところに来て、このような質問をしたとしましょう。「父なる神様、今日が、私たちがこの世に生まれた初日です。私たちがすべき仕事が何でしょうか?」すると神様は、「空を見上げなさい。あるべきものはすべてありますよ。地を隅々まで見極めてご覧なさい。備えられるべきものはすべて備えられています。水の下を調べて見なさい。造るべきものはすべて造られています。わたしがすべて完了しておきましたから、あなたがたがすべきことは何もありません。わたしが創造したものを享受するのがあなたがたの任務です。」と言われたはずです。

ですから、お仕事は神様が六日の間にすべてを備えられ、その備えられたものを享受するのがアダムとエバがすべきことであるのです。『ヘブル人への手紙 4章 4節」に、『神は七日目について、ある個所で、「そして、神は、すべてのみわざを終えて七日目に休まれた。」と言われました。』と記録されています。従って、神様の安息の日がアダムの人生の最初の日です。

それは、お仕事は神様がなさり、即ち、荷は神様が担い、アダムは神様のお恵みによって座って人生を暮らしなさい、と言うことです。仕事を終えたのですから、座らなければなりません。立ってじたばたするな、と言うことです。ひとえに神様だけを信じ、神様にだけ仕え、従順に聞き従いながら、神様が成し終えられたことを享受しながら生きることが、アダムとエバがすべきことであるのです。

『詩篇 8篇 3節〜4節」に、『あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。』と記されています。主の指のわざである天と、主が整えられた月や星を見ましょう。それはアダムやエバや、私たち人生が造ったものではありません。神様が親しく指のわざですべて造られたものです。私たちは、神様が造って置かれたものを享受し、感謝するのみです。

私たちが事新しく、神様が造られたものを取り除いて、月を造ったり、星を造ったり、この世を造ったりする必要がないのです。ところがアダムとエバは、神様がほどこしてくださるお恵みの座に座って人生を生きて行こうとせずに、自分の力量で働きながら生きて行こうとして、神様のお恵みに背を向けて堕落しました。

父母が熱心に、朝は早く起きてから夜は遅くまで働き、骨を折って財産を蓄積して置いてから、子供たちに、父母に拠り頼み、父母の世話になりながら平安に暮らしなさいと言うのに、未成年者である子どもたちが父母の前に来て、「私はお父さんやお母さんのお世話に与りたくありません。私は、私の心のままに自由に生きて行きたいです。私は家を出て、勝手に生きて行きたいです。父母の恵みの中で生きたくありません。」と言って出て行くとしたら、どうしたら良いでしょうか。

父母が見るとき、憐れなことこの上ない話です。父母が汗水流して折角築き上げた財産です。父母に拠り頼って平安に暮らしなさい、と言うのに、父母のお世話になりたくないと言って出て行ったら、苦労することは目に見えるのです。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか、すべて自分の力で解決しなければならず、自分が自ら重荷を負わなければならず、自分が骨を折らなければなりません。ところが彼らにそうする力量がないのですから、困苦と難儀のいばらの道が彼らの前に開かれるのです。アダムとエバがそれです。

神様がすべてのお仕事を成就させて置いて、それらを自分のものとして何ひとつ不足しない人生を平安に暮らして行きなさいと言われたのに、彼らは神様のお世話にならず、神様を信じず、従順に聞き従わずに、出て行って働きながら生きて行きたい、自分の人生は自分が開拓して行く、自分の仕事は自分がし、自分の荷は自分が負う、と言うのですから、彼らの前にはいばらの道が待っていたのです。なぜ?彼らにはそうして生きて行く実力がないからです。

罪の重荷を担う力がないので、罪の奴隷になります。世俗と悪霊に勝つことができませんからそれらのしもべになります。病に勝てませんから病気に罹り、苦痛の目に会うようになります。呪いと貧しさを取り除く力がありませんから、呪いと貧乏に押しつぶされます。死に勝つことができませんので、死に引っ張られて行って滅亡されるしかありません。これらが実に、神様がおられない人生を生きて行こうとする人たちの悲劇なのです。

自分が自ら働き、自分自ら荷を負いますと言いましたが、働く力も荷を負う能力もありません。神様の御心は、神様が働いてくださり、神様がすべての荷を負ってくださり、人たちはただ神様のお恵みに与って神様に拠り頼み、お世話になりっ放しで座って人生を暮らしなさい、と言うことです。しかし神様に背いたアダムとエバをご覧下さい。「創世記 3章19節」にこう記録されています。『あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。』

自分が働かなければならないので、顔に汗を流さなければならず、苦しい目に会わなければならず、苦労しなければならないのです。こんにちも同様です。こんにち、私たち人生もアダムとエバのように神様のお世話にはならないとして、神様が働いて備えて置かれ、神様がすべての重荷を負ってくださることを信じて、拠り頼み、従順しせず、神様に背を向けたら、全く同じく顔には汗を流さなければならず、苦しみながら苦労することを自ら招き、遂には滅亡されるしかありません。

『ヘブル人への手紙 4章 1節〜3節」の御言葉に耳を傾けてください。『こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。 信じた私たちは安息にはいるのです。「わたしは、怒りをもって誓ったように、決して彼らをわたしの安息にはいらせない。」と神が言われたとおりです。みわざは創世の初めから、もう終わっているのです。』神様の御言葉を信じて従順に聞き従ったら、神様が成就して置かれたすべてを享受するようになりますから、私たちは人生を豊かで安らかに過ごすことができるのです。

私が幼かったとき、私のお父さんが口癖のように言われました。「お前たちは、父母の膝元で暮らすときが一番幸福なのだ。父母の膝元を離れたら、父母の膝元で暮らしたときがどんなに幸せだったか知るようになるよ。」そのことを聞いたとき、私は誤解しました。「お父さんは、私たちの前で威張ろうとしてあのように言われるんだ。」ところが、歳月が経って父母の膝元から離れ出て社会生活を始めるや、すべてを自分が解決しなければならず、生活の荷は自分が負わなければならず、毎日が苦しく骨が折れる時間の連続ですので、父母の膝元に居たときが恋しくなり、そのときが本当に幸せであったと実感するようになりました。

同じ事です。私たちが神様の膝元にいるときは、神様がすべて働いてくださり、神様が荷を負ってくださるので、私たちはただ信じ、拠り頼み、心安らかに平安に暮らすことができます。しかし神様から離れたら、そのときからは自分が働かなければなりません。自分が荷を負わなければなりません。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、すべて自分の力で解決しなければなりません。それで苦しく、骨が折れ、失敗もし、失望するようにもなります。

聖書に言われました。「こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。」「信じた私たちは安息にはいるのです。」と。神様が備えてくださり、お恵みをほどこして成就しておかれたことを信じて、神様の御言葉に従順に聞き従い、拠り頼む人たちは、人生を豊かに、そして平安の中で生きて行くことができるのです。

アメリカの第七代ジャクソン大統領時代に、特異な法律論争が展開された一時がありました。一人の犯罪人が終身懲役を言い渡されて監獄で暮らしていました。その犯罪人に対してジャクソン大統領が赦免令を発して、監獄から釈放して上げようとしました。ところがこの犯罪人が大統領の特赦令を受け入れずに、そのまま一生涯を監獄で過ごしたいと言い張りました。これで、大きな法律論争が起こりました。大統領の特赦がこの犯罪人に効果があるのか、ないのか、法律家たちが言い争いを始めました。

結局には、犯罪人が大統領の特赦を受け入れないから、その特赦は無効であると決着がつきました。皆さん、神様がいくら私たちのために天と地とその中のすべてを造ってくださり、それを私たちのために備えて置かれたとしても、それを信じて受け入れなかったら、それらは私たちとは何の関係もないものになってしまいます。父母が子どもたちのためにいくら汗水流して準備してくれても、子どもたちがお世話になりたくありませんと、背を向けて外に飛び出して行くのでは、父母としてもどうしようもないのです。準備して置いたのがすべて何の効果も発揮することができません。

ですから、神様が備えて置かれたものを私たちが享受するためには、それを知り、信じ、従順に聞き従い、一切を神様に拠り頼んでこそ、私たちが安息の中で暮らして行くことができるのです。




第二、イエス様が与えてくださる救いの安息

第2番目に、イエス様が与えてくださる救いの安息があることを私たちは知らなければなりません。堕落した人間は救いを受けたいと熱望するようになります。人間が堕落してから今まで、どの国、どこの民族を見ても、みんなが宗教をもっております。彼らは宗教を通して、或いは修養を通して、または道徳を学び、苦行を通して、宗教的儀式を執行しながら救いを受けようと努力しています。しかし人間の力で救いを受けることは絶対にできません。

人間が天の御国に上って行くはしごを設置しようといくら努力しても、それは天にとどくことができません。はしごが天から下って来なければなりません。人がはしごを作って天に上って行くことは絶対にできないのです。

『ローマ人への手紙 3章23節」に、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず…。』と記録されています。ところが、天から救いのはしごが下って来ました。それが、私たちの主イエス・キリストです。人間としてはいくら働き努力してもできないことを、神様が直々に成されるがためにイエス様を遣わされました。

『エペソ人への手紙 2章 4節〜6節」に、『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・ キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と記録されています。

働きはイエス様がすべてなされる、あなたがたは座っていなさい。主イエス様が十字架で私たちの罪を代わりに背負われ、私たちの代わりに無残なまでの苦しみに会われたのです。人間をすべて救ってくださるために、おひとりで働かれ、罪過の荷をすべて負われて、そして主はすべてを完了してくださったのです。主が私たちのために成就してくださったので、私たちにはすべき仕事も働きもありません。

今は、皆さん、聖書『ヨハネの福音書 19章30節」に、『イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。』と記録されている如くに、主がすべてを完了してくださった世の中なのです。30%や50%だけを成就されたのではありません。すべてを完了なさったのです。そこへ私たちが少しもプラスするとか、マイナスさせるとかすることができるものではありません。

それでは、「完了した」後にはどうすべきでしょうか?私たちが信仰をもって受け入れ、享受すれば良いのです。『ローマ人への手紙 4章25節」に、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記録されています。

従って、救いとは、座って享受するものです。『エペソ人への手紙 2章 6節」に、『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と言われています。神様は、キリストにあって「あなたは座っていなさい。」と言われました。神様が私たちを座らせてくださったのです。働きはイエス様がなさり、荷もイエス様が背負われたのですから、「あなたにはすべき仕事がなく、あなたが背負わなければならない荷もありません。あなたがたはキリストのお恵みの世話になるだけで良く、ただ座っていなさい。」と神様は言われたのです。

ただ座っていただく「救いのご馳走」です。母親が台所でせわしく食事の準備をしています。そこへ幼い娘が入って来て「お母さん、私がなにかお手伝いして上げましょう!」と言いながら、あれこれと邪魔をします。電気釜のスイッチをONにしたり、OFFにしたり、ガスレンジの火を消したり、水道の栓をひねって水を流したり、止めたり…します。すると母親が何と言うでしょうか。「これは助けてくれるのではなくて、妨害ですよっ。出て行って、座っていなさいっ…。」それでも娘さんは「いやー、私が何か助けてあげる…。」と強情を張ります。したら、お母さんがげんこつを食らわせます。「何言ってるんですか。邪魔だと言うのに…。向こうへ行って座っていなさい。」

こんにち、救いに関するお仕事は主がすべて完了なさいました。ところが、人たちは飛びかかって来て、修養を積みますから、道徳的行いをしてお見せしますから、苦行を敢行しますから…として、その功労で救いをいただけるようにしてください、と願います。それらに対して神様は仰せられます。「わたしのひとり子・イエスがすべて完了させておきました。もう邪魔してはいけません。座って、ととのえて上げる食事を召し上がってくれるだけで結構ですよ。」

主は既に、赦しと義の食事をととのえておいてくださいました。私たちが別途に食事をととのえる必要はありません。2千年前に、主が既に赦しと義と栄光の食事をととのえておいてくださったのです。私たちはそれを、信仰によって座って食べたら良いのです。『ローマ人への手紙 3章25節」に、『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。』と記録されているのです。

主は、聖霊充満と聖潔の食事をもととのえておかれました。私たちが努力したとして聖潔になれるのではありません。私たちが汗を流して働いたとして聖霊充満を得ることができるのでもありません。イエス様が十字架の上で既に、苦難に会われることによって私たちを聖潔にしてくださり、聖霊に満たされるように、食事をととのえておいてくださったのです。信仰によって受け入れたら良いのです。ただ信仰によって、「主よ!イエス様の聖なる血潮で私を聖潔にしてくださり、準備して置かれた通りに聖霊で満たしてください。」と祈って、受け入れたら良いのです。そうしたら主は、「あなたの信仰通りになりますように!」と宣言してくださるのです。

癒しと健康の食事も、主が既にととのえておかれました。2千年前に、主が私たちの痛みも悲しみも病も背負って行かれました。主がローマの軍人たちから鞭で無残に打たれて、背中がずたずたになるまで傷を負われました。「彼の打ち傷によって、私たちは癒された」のです。人間たちの病の癒しのために、そのすべての代価と苦難をイエス様がすべて働かれ、荷を負ってくださってから、「完了した。」と主は言われて、癒しの食事をととのえておかれたのです。あなたがたは癒されたいがためにあらゆる労苦をせずに、ととのえておいた癒しの食事を座って食べなさい、と主は言われるのです。

信仰によって癒しを受け入れなさい、信仰によって「私のものだ。」として受け入れ、所有したら、あなたがたのものになります、と主は言われるのです。主はそのとき、「あなたの信仰通りになります。」と宣言してくださるのです。ですから、癒しと健康の食事も既にととのえておかれているのです。私たちがこの真理を知り、信仰によって受け入れたら、私たちはそれを享受するようになるのです。

アブラハムへの祝福と幸いも、既にととのえておかれた食事です。主は、『ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」の御言葉を通して仰せられました。『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』

既に主は、異邦人にアブラハムへの祝福が及ぶように食事をととのえておかれました。私たちの力によってできたのではありません。主が十字架に釘付けになられて苦しみに会われることによって呪いを既に清算してくださったので、呪いから私たちを贖い出してくださったのです。イエス・キリストにあってアブラハムへの祝福が既に与えられ、そのための食事がととのえられておかれたのです。従って、私たちが別途に食事をととのえようと努力する必要がなく、また努力するとしてできるものでもありません。信仰で私たちは受け入れれば良いのです。

復活と永生と天国の食事も、主がととのえておかれました。私たちの力では、死んでからよみがえることはできません。イエス様が、私たちのために死なれてからよみがえられて、天国の栄光を既に備えておかれたのです。私たちは信仰によって、救いと永生を受け入れたら良いのです。

『ヨハネの福音書 5章24節〜25節」に、『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。』と記録されています。

既に主が、私たちがよみがえることができるように既に御使役を済まし、荷をすべて負われて、すべてを「完了してしまわれた」のですから、救いは私たちのものなのです。『コリント人への手紙 第二 5章 1節」に、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と記録されています。

いつ、私たちが天に行って家を建てたでしょうか?私たちの力で、どのようにして天に家を建てることができるでしょうか?主が既に、私たちの為に死なれてからよみがえられることによって、天に私たちのための家を建てておかれたのです。信じるだけで、私たちはそこに入って行くことができるのです。私たちが修養とか苦行とかを行うことでそこに入って行けるのではなく、主を信じるだけで入って行けるのです。ただ信仰と従順によって、救いの座に座って享受すれば良いのです。

『ヘブル人への手紙 4章 9節〜11節」に、『したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。』と記録されています。

これから私たちは、不信仰したり、不従順したり、神様が既にととのえておかれた食事を受け入れずに、自分の力で食事をととのえるとするアダムやエバやイスラエルの民たちのようにならずに、信仰と従順で神様がととのえておかれた食事を座って受け入れなければなりません。神様が備えて置かれたものを私たちは座って受け入れたら、それで良いのです。

1961年、アイゼンハワー大統領が臨終を迎えるいくらか前に、彼が入院しているアメリカ陸軍病院へビリー・グレハム牧師が訪問しました。二人の話が30分間も続きました。ビリー・グレハム牧師が席を立とうとするとき、アイゼンハワー大統領が「もう少し、話をしましょう。」と言いながら、ビリー・グレハム牧師を引き止めました。「大統領閣下、まだ、何かお話があるんでしょうか?」と言いながら牧師先生は椅子に再び腰掛けました。すると、アイゼンハワー大統領が、こう話し掛けました。「私は、どうしたら神様にお会いすることができるのか、確信がありません。私を助けてください!」

アイゼンハワー大統領が、今、死を目前にしているが、神様に会える自信がない、と言うことでありました。それでビリー・グレハム牧師が真摯な声で、ゆっくりと説明しました。「道徳にかなった善い行いをしたとして救いを受けるのではありません。私たちに立派な業績があるとして神様の前に行けるのでもありません。人間のあらゆる努力が、罪の問題を解決することができないので、神様はひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされ、十字架で人たちの罪を代わりに背負って死ぬようになさり、そして、よみがえらせることによって人間の罪をすべて贖ってくださいました…。

そのお陰で、人間の救いがすべて完了されたのです。従って今は、その主を信じるだけで人間はみな救われるのです。救いはただで与えられるものです。神様の贈り物なのです。ですから、主を信じたら、人間には平安が訪れて来ます。大統領閣下も、救いを受けられるために、何かをしなければならず、何か重荷を背負わなければならない、そんなことはありません。ただ、主を信じてください!」そうしてからビリー・グレハム牧師は、アイゼンハワー大統領の手を取って熱く祈って上げました。

祈りが終わるや、アイゼンハワー大統領は涙を流しながら、「ビリー牧師先生、感謝します。私は神様にお会いする準備ができました…。」と言いました。チョッと前までは、彼にはその準備が出来ていなかったのです。なぜなら、彼は神様が既に備えて置かれた「救いの食事」があることを知らなかったからです。しかし、彼はビリー・グレハム牧師の説明を聞いて、神様の「救いの食事」が既にととのえられていることを知るようになりました。アイゼンハワー大統領は主を信じるようになってから、平安を得、喜びの中で静かにこの世を去って行きました。




第三、座って生きる人生

第3番目に、私たち人生は、座って生きて行かなければなりません。立って生きて行こうとしてはならないのです。『エペソ人への手紙 2章 6節」に、『キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と記録されているのです。神様は私たちを、強制的に座らせてくださいました。私たちが自ら座ったのではありません。神様がキリストのお恵みの中で、私たちを座らせてくださったのです。

『ヘブル人への手紙 4章10節」に、『神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。』と記録されています。神様が代わりに働いて下さるのですから、私たちは休まなければならないのです。神様が私たちの代わりに荷を負ってくださるのですから、私たちは休まなければならないのです。

それでは、私たちはどうしたら良いでしょうか?座って人生を生きて行きなさい、と言われますが、どうすることが座って人生を生きて行くことでしょうか。

第1に、皆さんはいつも、皆さんのために働いてくださり、荷を負ってくださる神様を見つめなければなりません。毎日のように私たちのために働かれ、私たちのために荷を負ってくださる神様を始終意識しながら暮らさなければならないのです。

今朝も私は、起き上がるや否や、黙想しながら神様を見つめました。主である神様、今日も私のために働いてくださり、私のために荷を負ってくださる神様を、私は座って見つめます。私の心は安らかです。全知全能なる神様が、私のために働いてくださり、私のために荷を負ってくださいますので、私はいかに平安なのか知れません。私はただ、心の中で座っているしかないのです。

『エレミヤ書 33章 2節〜3節」の御言葉です。『地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられる。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』地を造られた主です。それを形造って確立させた主です。お仕事は神様がなさるのです。荷は神様が背負ってくださりのです。ですから私たちは、働かれる主、荷を負ってくださる主をいつも見つめなければならないのです。

『詩篇 68篇19節」にこう記録されています。皆さん、一緒に奉読しましょう。『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ』…昨日だけ、私たちの荷を負ってくださる神様ではありません。明日になってから私たちの荷を負ってくださる神様でもありません。日々、私たちのために荷を負ってくださる神様なのです。ですから、「いや、私が、私の荷を負います。」と言って、神様を横に押し出してはいけません。そうしたら自ら滅んで行く結果を招きます。

「神様!荷を負ってくださって、本当に有り難うございます。」と言って、神様におゆだねして安息しなければなりません。立ってうろつきまわってはいけません。神様は、人が立ってうろつきまわるのを好まないのです。邪魔になるからです。すべき仕事を神様にお任せし、荷をお任せしたなら、神様を一途に見つめて礼拝を捧げ、感謝すべきです。立って、何か自分で働くとして神様の回りをうろつきまわったら、神様の邪魔になるだけです。

『出エジプト記 14章13節〜14節」に、『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』と記録されています。

神様が戦ってくださるのだから、あなたがたは付きまとわずに黙って見ていなさい、足手まといになりますから、神様をじっと見つめてだけいなさい、と言うことです。働かれる神様のお恵みの座に座らせられている自分を悟って、ただ神様を待ち望む私たちとならなければならないのです。

私が今日、説教するために出て来るときもそのようなことを心の中で神様に申し上げました。「主である神様!主が今日も説教してくださり、礼拝の重荷を負ってくださることを信じます。私はただ、主に従って動くだけです。聖霊さまが私を着て働かれ、私はただ、主のご指示に従うだけです…。」そのように祈ってからは、私は心が軽くなり、安らかな気持ちで礼拝に臨むことができました。

私が働き、私が説教し、私が神様の事業をして行く、私が、私が…、こうしたら汗が流れます。すべてに骨が折れます。苦労するだけです。しかし神様がなさることに私は走り使いだけするのですから、即ち、お仕事は神様がなさり、荷も神様が背負ってくださるのですから、私の心は平安なのです。私は心の中で、座って説教をするのです。立って説教するのではありません。

そして第2には、神様のみわざを信じてください。私たち人間は、アダムとエバ以後自分が働いて来たので、神様が座らせておかれたのにも拘わらずしきりに自分が立ち上がって動き回ろう、働こうとします。これが人生最大の問題です。地上のいばらの道に踏み入って「私が働かなければ…。」「神様が働いて下さるとは言われているけども、もしもこんなことまではしてくださらなかったらどうする…?」不必要な心配をする人もいます。これは神様のお仕事に干渉することであり、邪魔になるだけです。神様は私たちに、座ってただ見ていなさい、と言われるのです。

『ヘブル人への手紙 4章 1節〜2節」に、『こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。』と記録されています。

信じなければなりません。神様が働かれることを、神様が荷を負ってくださることを、私たちはいつも心の中で見つめ、そして、その次には信じなければなりません。すべてを主におゆだねしなければならないのです。生きようが、死のうが、栄えようが、滅ぼうが、「主よ!信じます。」「私は主のお恵みの中に座っています…。」「神様が働かれ、荷を負ってくださることを信じます…。」と。

『コリント人への手紙 第一 2章 9節」をご覧ください。『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』既に神様は、私たちに必要なのが何であるかをことごとく知り尽くされて備えて置かれたのです。ですから私たちは、神様が備えて置かれたのですから、それを信じて安息するしかないのです。

『箴言 3章 5節〜6節」に、『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。』と記録されています。神様にお任せし、心を尽くして拠り頼めば、神様が私たちの道を真っ直ぐにしてくださり、導いてくださり、すべてを成就させてくださると言われたのです。

その次の第3は、それでは私たちは座って何をしたら良いでしょうか?「ただ、座って、黙っていなさい…。」と言うのではありません。地を造られた主、それを形造って確立させた主、荷を負ってくださる神様を見つめ、信じ、そして継続祈らなければなりません。「主よ、これもお委ねさせていただきます。あれもお委ねさせていただきます。」「これもしてください。あれもしてください。」「主よ、益々もっと聖霊で満たされるようにしてください。」「もっと祝福してください…。」

皆さん、自分が働くのであったら祈る必要がありません。神様にお委ねさせていただき、お任せしたのですから、私たちはお願いし、求め、祈らなければならないのです。しきりにお願いしなければなりません。継続神様にすべてをお委ねして祈らなければならないのです。

『コリント人への手紙 第二 6章 1節〜2節」に、『私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』と記録されています。神様は、今は恵みの時、今は救いの日である、言われたのです。ですから私たちは、継続してお願いし、主が助けてくださるように継続して祈らなければならないのです。

『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。』と、『マタイの福音書 7章 7節〜8節」に記録されています。神様がいかに、驚くべきお恵みで私たちを祝福して上げようかと願っておられるか、を知ることができるのです。

また第4に、私たちがすべきことは、神様にいつも感謝し、賛美しなければならないと言うことです。神様が働いてくださるのですから、私たちは座って感謝するしかないのです。『ピリピ人への手紙 4章 6節〜7節」>に、『何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』と記録されています。

私たちは毎日のように神様に感謝しなければなりません。神様にすべてをお委ねしてしまい、働かれる神様を見つめ、熱心に祈り、神様に感謝しながら、賛美しながら暮らさなければならないのです。私たちの神様がみわざを働かしてくださることに心から感謝しなければならないのです。

そして最後に、神様が私に代わって働いてくださり、私の荷を負ってくださり、私の祈りを聞いてくださって、助けてくださることを強く口で是認しなさい、と言うことです。人の心には始終疑いが生じます。本当に、神様が荷を負ってくださるだろうか?私の為に働いてくださるだろうか?或いは、私自身が働かなければ大変な目に会うのではないだろうか?しかしそれは、サタンが私たちに疑うように仕向けることなのです。それで私たちは、口で是認しなければならないのです。

『詩篇 55篇22節」に、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』と記録されています。神様は私たちをしっかりと捕えて、支えてくださり、揺るがされることがないようにしてくださる、と言うことです。私たちは荷をすべて主にお委ねしてしまわなければなりません。

『マタイの福音書 11章28節」に、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と記されています。あなたたちは休みなさい、わたしが働いて上げましょう...、あなたがたの荷をわたしに委ねなさい、そしてあなたがたは休みなさい、わたしは立って働いて上げます…、と言うことです。これらを口で是認しなさい、と言うことです。私たちはいつも肯定的に、このことを口で認めなければなりません。

宗教改革者マルチン・ルターは、ローマ帝国のカトリック教皇庁が彼を殺そうとして猛烈に迫害するとき、彼には全天地が敵でいっぱいでありました。その渦中で宗教改革を計画していたのですから、どんなに骨が折れ、いかに苦労したか知れません。それで彼は毎夜、一睡もできませんでした。あまりにもストレスが激しく、泣くにも泣けないので彼は神に呼ばわり叫びました。「神様!この世が私のものですか?この世は神様のものではありませんか。教会が私のものですか?教会は神様のものです。ですから神様!この世も、教会も、神様が受け持って維持させてください。私はもう辛く、疲れましたので、寝させていただきます...。」ルターは絶え間なく、神様に世も教会もお委ねし、荷を負っていただくことにして、自分は休ませていただきますーと、告白し、祈りました。

それでも彼の心はいつも暗鬱で、息苦しい毎日でありました。彼も人間ですから、しきりに疑いが生じました。それで彼は、「主は生きておられる。主は生きておられる。主の御言葉は真理で、偽りがない。主は私たち人間のために働いておられるのだ。主は私たちのために荷を負っておられるんだ。今、生きておられて、みわざを働かせておられるんだ。だから私は勝つんだ...。」と、絶え間なく口で是認し、祈り、主張しました。その結果、ルターは神様に拠り頼んで宗教改革を成就させることができたのです。

皆さん、私たち人生は、堕落したアダムの子孫です。いつも自分が直接立って、自分のために働こうとします。「私が直接に働かなければ…。私が荷を負わなければ…。」と言った、悪い習慣を持っています。座って人生を暮らす方法を知らず、いつも不安がりながら、戦々兢々しながら暮らしているのです。

又は、両手を揉みながら、「神様が成してくださらなかったら、どうしよう…?神様が荷を負ってくださらなかったら、どうしよう…?」疑心暗鬼します。人たちは早天祈祷会にも出席しながら、旦那さんの問題、奥さんの問題、子供の問題等々で熱心に祈り、すべてを神様にお委ねします。しかし立ち上がって家に帰るときには、そのすべてを取り戻して胸に抱いて帰って行くのです。そして家に帰りながら「この問題をどうしよう…。あの問題をどうしよう…。」と、熱心に祈り、神様にすべてをお委ねしたことをきれいに忘れて、事新しく心配し出すのです。これが私たち大部分の習慣です。

神様が私たちのために働いてくださる、神様が私たちのために荷を負ってくださるのだ、と信じて祈り、お委ねしたなら、すべてをはっきりと神様にお任せして、座ってしまわなければなりません。ルターがしたように、「神様!この世が私のものですか?この世は神様のものではありませんか。教会が私のものですか?教会は神様のものです。ですから神様!この世も、教会も、神様が受け持って維持させてください。私はもう辛く、疲れましたので、寝させていただきます...。」と、神様に一切を委任してしまわなければならないのです。

神様は、キリストを信じる私たちをイエス様と共に、天に座らせてくださったのです。そして、「あなたは座っていなさい。働くことは、わたしと、わたしの子イエスと、聖霊、この三位一体の神がします。あなたがたの荷もわたしが負って上げます。だからそれを信じて、座っていなさい。神が働くのを見つめて、それを信じ、拠り頼み、熱く祈りなさい。感謝しなさい。口で認めなさい。そして従順に聞き従いなさい…。」と、言われるのです。

私たちクリスチャンは、イエス様と共に天に座らされているのです。この事実を受け入れ、認めなければなりません。もう私たちは、神様のお恵みによって座って人生を生きて行くべきなのです。立って、人間の手段と方法で生きてはならないのです。まことの信仰は、座って人生を生きることです。仕事と荷は神様が受け持ってくださるからです。

ですから皆さんは、この時間からは神様にすべてをお委ねして、すべての荷を神様に負っていただいて、働いてくださる神様を見つめてください。そして信じてください。それから、限りなく祈りに励んでください。神様に絶対に拠り頼む祈りを捧げてください。そして感謝し、賛美し、口で是認してください。神様が私と共におられる、神様が私の荷をすべて負ってくださった、それで私は主の御前に安らかに座っているのだ、と是認してください。

主が皆さんのために働いておられるのですから、明日は今日より、来月は今月より、来年は今年より、立派に勝利する皆さんとなるようにと、主は望んでおられるのです。主が、「愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と言われたこの祝福が、皆さんに臨みますよう、祈願します。




お祈り

聖く、愛であられる、わが父なる神様! 神様が、座って生きて行くように私たち人生を造ってくださいましたが、アダムとエバ以後、人たちは神様を信じ、拠り頼むことをせずに、立って生きております。自分の人生だから、自分の力で生きる、自分が働き、自分の力で荷を負う...として、人たちは苦難、心配、労苦、苦痛の中で倒れて行きます。

全知全能であられる、天のお父さま! わたしが「完了した。」と言われた主の御言葉通りに、私たちの物質問題も、救いも、主がすべて完了してしまわれたことを、私たちが信じるように助けてください。私たちの現実の生にあっても、主がすべて働いてくださり、荷を負ってくださり、すべてを既に備えておかれたことを信じ、ひとえに主に拠り頼んで生きていけるように、主よ、助けてください。

神様をもっともっと信じ、従順に聞き従い、拠り頼んで生きて行く私たちとなるように助けてください。立って生きて行こうとせずに、心の中で座って、人生を生きるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!