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「主が教えられた祈り(T)」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 6章 9節〜13節」
6: 9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
6:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
6:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
6:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕




私は今日、皆さんたちとご一緒に『主が教えられた祈祷』と言う題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

お祈りは、聖徒さんたちの霊的呼吸です。呼吸をしなかったら肉体が死ぬと同じように、祈らなかったら聖徒さんたちは霊的に窒息してしまいます。ところが、私たちが毎日祈っていながらも、どのようにするお祈りが立派なお祈りなのか、それに対して曖昧な聖徒さんたちが意外と少なくありません。流暢に喋る祈祷が立派な祈祷である...のでは決してありません。お祈りには正しい順序があり、内容がなければなりません。実にその事を、主が教えてくださっているのです。

私たちは祈りを捧げるとき、先ず神様に礼拝を捧げ、それから、神様の関心事から最初にお祈りを捧げ始めなければなりません。人たちは大部分がせっかちですので、自分の関心事から祈り始め、そして直ぐに、神様に応答してください、と呼ばわり祈ります。しかし神様は、先ず礼拝してもらい、神様の御心の中にある関心事に関して私たちが祈って差し上げることを願っておられるのです。




第一、天にいます私たちの父よ

第1番目に、聖書には、イエス様がこのように教えておられます。「天にいます私たちの父よ...!」と祈りを始めなさい、と言われたのです。天は地上から仰ぎ見上げなければならないのです。皆さん、そうではありませんか?天を私たちは仰ぎ見上げます。「天にいます私たちの父」と告白してから祈り始めなさい言うことは、いつも神様を仰ぎ見ながら礼拝を捧げ、神様を恐れ畏敬する心を持って祈らなければならないと言うことです。

神様を甘く、軽くみるとか、ある人たちは神様を無視しているみたいな態度で祈るときもあります。しかし、そうしてはいけないのです。「詩篇 2篇11節」に、『恐れつつ主に仕えよ。おののきつつ喜べ。』と記録されているのです。神様を恐れ、おののきながら礼拝し、そして喜ぶ・・そのような心の姿勢を持たなければならないのです。

孔子は言いました。「君子が恐れなければならない三つのことがある。君子は天命を恐れなければならず、大人、即ち徳がある先輩を恐れなければならず、聖人の言ったことを恐れなければならない。ところが小人は、天命を知らないので恐れず、大人を尊敬せず、聖人の言うことを無視する...。」

事物の本質を正しく知るようになる出発点は、神様を畏敬することです。神様が、知恵と聡明と明哲と力の根本となられるからです。父なる神様を礼拝し、神様の前に膝を屈めるときにこそ、私たちはすべての事物を正しく判断しながら生きて行くことができる知恵と、知識と、聡明と、明哲と、力を得ることができるのです。人や環境を見て恐れず、神様だけを恐れ、その他の何事も恐れないのが、まことの信仰の極致なのです。

ですから、「天にいます私たちの父よ...!」と祈り始めるとき、皆さん、神様と私たちの関係は父と子の関係になるのです。これは、いかに親密で近い関係でしょうか。「私たちの父よ。」と言うことは、神様が私たちの生命の源泉であられることを告白することです。「父」がなかったら、私たちは生まれ出ることもなかったはずです。「詩篇 89篇26節」に、『彼は、わたしを呼ぼう。「あなたはわが父、わが神、わが救いの岩。」と。』と記録されています。

「コリント人への手紙 第一 8章 6節」にも、『私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです。』と記録されています。

また「ヨハネの福音書 1章12節〜13節」には、『しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。』と記されています。

ですから私たちは、父なる神様が私たちのいのちの源泉であることを告白しなければなりません。また「天にいます私たちの父よ!」と祈り始めるとき、私たちは神様によって生まれ、神様のために生まれ、神様に仕えるために生まれた、神様の子であると言う事実を心の中に強く思い浮かべながら告白しなければならないのです。

そして、「天にいます私たちの父よ!」と、私たちが祈り始めることは、神様は私たちを顧みてくださるお方である、と言うことの告白です。子は、父が顧みてくれなければ、その他には誰も顧みてくれる人がありません。子が父母のために財産を積むのではなく、父母が子のために財産を積むのです。

「詩篇 31篇23節」に、『すべて、主の聖徒たちよ。主を愛しまつれ。主は誠実な者を保たれるが、高ぶる者には、きびしく報いをされる。』と記録されています。父なる神様は、おとなしく、善良で、従順する子は温かく、良く保護してくださり、傲慢で生意気な子は懲らしめられ、砕かれる、実の父であられる、と教えているのです。神様は、威厳と愛が満ち溢れるお方なのです。

「詩篇145篇 5節」に、『私は栄光輝くあなたの主権と、あなたの奇しいわざに思いを潜めます。』と言われ、「詩篇145篇 8節」には、『主は情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵みに富んでおられます。』と記録されています。ですから、「私たちの父よ!」と、私たちを顧みてくださり、威厳と満ち溢れる愛で私たちを育ててくださる、この驚くべき神様と私たちの関係を認め、私たちは祈り始めるときに先ずこの事実から告白して、祈りに入らなければならないのです。

私は何年か前に、深く挫折感におちいっている聖徒さんから信仰相談を受けたことがあります。その聖徒さんは、私のところに来て言いました。「先生。私は卑しい者です。私は教育も充分に受けておらず、家門も立派ではありません。父母から相続した遺産もなく、身体も健康ではありません。私はいつも、劣等意識と挫折感と自虐する中で生きて参りました。このような私にも、神様は何か祝福をしてくださるでしょうか?」

その話を聞いて、私は次のような話をして上げました。「シカゴのあるホテルに、老紳士がひとり入って来て、チェックインを要請しました。“このホテルで一番安い部屋を一つくれな。”受付担当の事務員がその老紳士を見るや、はっ!と驚きました。この老紳士はほかでもない、当代の有名な富豪・ロックフェラーさんであったからです。受付員は‘いや、先生はロックフェラー様ではございませんか?’と聞きました。

すると、老紳士は“そうですよ。”と答えました。それを聞いて事務員が言いました。‘あのー、先生のお子さんは、私たちのホテルに来られたらいつも、一番高級で高いお部屋を要求なさるんですが…、先生はなぜ、一番安いお部屋を要求なさるんでしょうか?’その問いにロックフェラー氏は、彼を静かに見つめてから、言いました。“私の息子は、私のような金持ちの父親を持っているんですが、私にはそんな父親がないんですよ…。”」

私は、目の前に座っている失意の聖徒さんに、こう話してから、次のように話を続けました。「兄弟さんは、ご自分を卑しいと思っているらしいが、あなたのお父さんはいかにお金持ちか、ご存知ですか?」すると、その人は「え?私のお父さんがお金持ちです…と?とんでもない話です。」と強く否認するのでありました。

それで私が、「あなたはイエス様を信じますか?」と聞きました。すると彼は「はい、信じます。」と即座に答えました。それで私がまた「あなたは神を父と呼ぶでしょう?」と聞くと、「はい、そう呼びます。」と簡単に答えてくれました。それで私が言いました。「私たちの父なる神様がどんなにお金持ちか、ご存知ですか。無限の大富豪さまです。あなたは、実に、その神様のお子さんです。これを知らなければなりません。従って、卑賤で、見る影もない、捨てられた人生だと思うのは大変な間違いですよ。ロックフェラーさんの息子さんが、自分がお金持ちでもあるかのように振舞うのと同じく、兄弟さんも大金持ちである神様の子として、心に富豪意識を持って暮らし、行動しなければなりません…。」

皆さん、私たちは神様がどんなに大きく、広大であられ、栄光であられるお方であるかを、知らなければなりません。そして、私たちは神様の子であることを忘れてはなりません。その神様を私たちは「お父さん」と呼ぶのです。これは、私たちが神様の子であることを告白することなのです。その神様と共に暮らすのであったら、私たちは心の中に劣等意識とか、挫折感とか、絶望意識とかを持っては絶対にならないのです。神様の御名を私たちは、尊く、栄光として受け入れなければなりません。

「イザヤ書43章21節」に、『わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。』と記録されています。私たちは、神様の栄誉を宣べ伝えなければならないのです。「申命記 6章 5節」には、『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』と言われました。

また「詩篇145篇 1節」に、『私の神、王よ。私はあなたをあがめます。あなたの御名を世々限りなく、ほめたたえます。』と記録されてあり、「ローマ人への手紙11章36節」には、『というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。』と記録されているのです。

ですから、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」これが私たちの心の姿勢でならなければなりません。私たちは、神様の御名を尊く、栄光そのものとして崇める礼拝を捧げ、神様に感謝し、賛美しながら、生きて行かなければならないのです。

神様と私たちの関係をはっきり宣布してこそ、私たちの祈りが力ある祈りになります。神様と私たちの関係がどんなものであるか、知らずにいたら、いつも劣等意識、挫折感、恐怖、敗北意識…などで後ろに退くようになり、否定的な心が生じて、祈りが通じなくなります。

聖歌曲をたくさん作曲した偉大な作曲家ジョセフ・ハイデンに、ある人が質問しました。「先生、先生はその素晴らしい音楽を作曲する霊感をどこから得るのですか?」すると、ハイデンは、「私は、祈る度ごとに、主である神様!あなたは私の人生のご主人です。あなたが私に知恵を与えて下さって私が音楽を作曲したら、これは神様の栄光のために作曲されたものですから、私はこれをあなたに捧げます、と祈ります。」と答えました。

彼が作曲した‘天地創造’は、聖書「創世記」とジョン・ミルトンが書いた失楽園に根拠して作った偉大な曲です。この曲がウィーンで公演されたその日、彼は身体があまりにも痛くて、2階のバルコニーの後ろにうずくまるように座っていました。その日、指揮者はハイデンの‘天地創造’を、それはそれは本当に素晴らしく、感動的に指揮しました。演奏が終わったとき、聴衆はみんな立ち上がって拍手喝采し、誰も座ろうとしませんでした。

そのとき、指揮者は熱狂的に拍手する聴衆に中止を要請しながら、「私に拍手を送ってはいけません。あのバルコニーの後ろにうずくまっている、あのハイデン氏が、この曲の作曲者です。」と紹介しました。聴衆は後ろを振り向いて、2階のハイデンを見上げながらまた拍手を送りました。しかしハイデンは、厳粛な表情で拍手を中断させました。「この拍手は、私が受けることはできません。」

そして、彼は天を指差しながら、有名な話を残しました。「私は何者でもありません。すべては神様がなさいました。この曲はすべて神様がつくられたものです。すべては、天から来たことを私は告白します。神様は私の弱さをご存知ですので、私に知恵を与えてくださいました。そのお方にだけ、栄光を帰してください…!」

皆さん、私たちは神様にだけ栄光をお帰ししながら生きて行かなければなりません。それで、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」と、私たちは祈らなければならないのです。寝る、起きる、食べる、飲む、働く、成功する...、これらすべては、神様から来るのですから、みんな神様にその栄光をお帰ししなければなりません。その栄光を私たちが占めたら、盗人になってしまうのです。

皆さん、祈りの初めを良く心得ていなければなりません。神様は天に居られます。ですから高く仰ぎ見、礼拝し、崇め立てなければならない神様なのです。とは言っても、そのお方は私たちの実の父であられます。そのお方によって私たちが生まれ出ました。そのお方のために生きて行き、そのお方に仕えるために私たちは存在するのだ、私たちのすべての生は、そのお方を尊び、その御名を高めるためのものである、と言う根本的な心の姿勢が正しくなっていなければならないのです。




第二、御国が来ますように

第2番目に、私たちが祈らなければならないのは、神様の関心事に関して祈らなければならないと言うことです。神様は、天の御国がこの地に臨むことをせつに望んでおられます。天の御国はエデンで失いましたが、ガルバリの十字架でイエス様によって回復されました。神様は、エデンを造られ、エデンに神様の御国を成就され、神様の栄光と権力をアダムに与えられましたが、アダムが神様に逆らい、神様が与えてくださった権力と栄光を悪魔にすべて渡してしまいました。

この世のすべての権力と栄光を、神様はアダムに与えられましたが、アダムはこれを悪魔に渡し、天の御国は失楽園になってしまったのです。

イエス・キリストが四十日四十夜断食なさったとき、悪魔が来て何と言ったか、ご存知のことと思います。「ルカの福音書 4章 6節」に、『こう言った。「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。」』と記録されています。

悪魔がこの世の権力と栄光をイエス様に見せながら、「あなたがひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに上げましょう。これは私のものでもないのです。私に渡されたものですから。」と言ったのです。アダムが神様に逆らって、その権力と栄光を悪魔に渡したのです。それでこんにち、この世のすべての権力と栄光は元来アダムのものであったのですが、アダムはそれらを悪魔に渡して上げて、自ら悪魔の奴隷となったのです。

ところが、イエス様が十字架の上で身を裂き血を流されて、この悪魔の支配と権力を取り上げられ、勝利なさいました。「コロサイ人への手紙 2章15節」に、『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記録されています。

主は、悪魔の支配と権威を脱がして取り上げられました。この地に天の御国が臨むようになさったのです。「コロサイ人への手紙 1章13節」に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。』と記されています。神様はイエス・キリストを通してこの世に天の御国を与えてくださったのです。天の御国は実に、義の国なのです。神様は私たちの罪を赦してくださり、義を与えてくださったのです。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」に、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記録されています。

罪と死の原理から解放させ、義を与えてくれるのが天の御国なのです。その天の御国がこの世に臨むようにと、神様は望んでおられるのです。天の御国は聖霊充満な国です。イエス・キリストによって聖霊が来られて支配する国が天の御国なのです。「テトスへの手紙 3章 6節〜7節」に、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記録されています。

神様は、聖霊を私たちに豊かに注いで下さいました。「ローマ人への手紙14章17節」に、『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。』と記録されています。神様は、私たちに聖霊を注いでくださって、義と平和と喜びの天の御国が私たちの中に盛んであるようにしてくださったのです。

天の御国はまた、癒しの御国です。「マタイの福音書12章28節」に、『しかし、わたしが神の御霊によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです。』と、イエス様が仰せられました。「使徒の働き10章38節」には、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記録されています。

天の御国は、この世に臨むやいなや、癒しのみわざが起こるようにします。

私がいつか、ニュー・オリオンズの聖会でメッセージを宣べ伝えたことがあります。メッセージを終えて病人のために祈りました。そのとき、聖霊の御声が聞こえました。それで私が宣言しました。「ある人が頭痛で絶望状態になりましたが、その人が癒されました。また、あるご婦人が産後の後遺症で全身が痛く、苦しんでいますが、主が癒してくださいました...。」

その後、数多くのアメリカ人たちが出て来て証しをしました。ところが、「私が宣言した通りに癒された」と言う人の証しは聞くことができませんでした。それで私は、「あ〜、神様が時間をおいて癒そうとしているらしい…。」と思いました。

その翌日、ニューヨークに行くために飛行場に出ました。そこに、韓国人の牧師がお一人、私のところに駆けつけて来られてから、いきなり「先生!どうして、こんな奇蹟が起こることができるんですか?」と、目を丸くしてと聞くのでありました。彼の務めている教会に韓国人の大学教授がいましたが、頭痛に悩まされて学校を辞めるしかない状態にまで及んだと言います。ところが、その教授が昨日の聖会に参加した後に、頭痛がきれいに直ってしまった、と言うのでありました。

そして又、その教授の奥さんが産後の後遺症で長い間苦しんで来たのですが、同じく、昨日の聖会に出席してから、その場で癒しを受けた、と言うのでありました。それでその日の朝から、教会が一大騒動です、と言いながら、実はその教授夫婦が昨日の聖会後に壇に上がって証しをしようとしましたが、アメリカ人たちがあまりにも大勢証しをするので放棄しました、とのことをチョウ先生に報告するために、こんなにここに駆けつけて来ました、とのことでありました。

天の御国が臨んだら、癒しの奇蹟が起こるようになるのです。主は、この天の御国が臨むように、あつく願い、求め、祈りなさい、と言われたのです。

また、天の御国はアブラハムへの祝福が溢れる御国です。聖書「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記録されています。

ですから天の御国は、呪いから解放され、アブラハムへの祝福が臨んでいる、そのような国なのです。この御国が臨むように祈りなさい、と主が言われたのです。

天の御国は、再臨と復活の御国です。主が再臨なさり、私たちがよみがえり、そして新しい天と、新しい地と、新しいエルサレムに入って行く…、この偉大な神様のみわざが成されるために、主は私たちに祈りなさい、と言われるのです。

「テサロニケ人への手紙 第一 4章16節〜17節」に、『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。』と記録されているのです。

このような天の御国が、この世に早く臨むように祈りなさい、と主が言われたのです。これが、神様の関心事です。義の国が臨み、聖霊充満の国が臨み、癒しと健康の国が臨み、アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得る国が臨み、復活と永生の神様の御国が臨むように、いつも祈りなさい、と主が言われたのです。

そして皆さん、イエス様のうちに神様の御国が臨んでおり、イエス様に仕えるときに神様の御国が臨むのです。イエス様が十字架で死なれてから、よみがえられたことによって悪魔の国が滅び、神様の御国が臨むようになさいました。キリストがまさに天の御国の王様ですので、王様が居られるところに、その国もあるのです。イエス様を私たちの心の中に迎え入れたら、天の御国が私たちの中に臨むようになるのです。

「マタイの福音書 4章17節」に、『この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」』と記録されてあり、「ルカの福音書17章21節」には、『「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』と記録されています。

また「ヨハネの黙示録 1章 5節〜6節」に、『また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。』と記録されています。主が私たちを王国とし、神様のために祭司としてくださった、と記録されているのを見落としてはいけません。

「ペテロの手紙 第一 2章 9節」に、『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』と記録されています。天の御国が宇宙の向こうに遠く離れているのではなく、イエス・キリストにあって私たちに臨んでいるのですから、この世に天の御国のみわざが起こるように、絶え間なく祈りなさいと言うことです。

私たちの、イエス様を信じる信仰は宗教ではありません。儀式と形式に縛られてはいけません。内容がなければならないのです。その内容がまさに、天の御国のみわざが私たちの中に現われて、義のみわざが起こり、聖霊充満のみわざが起こり、癒しと健康のみわざ、祝福とすべての点で幸いを得、復活と永生の希望に溢れる主のみわざが起こるように、「御国が来ますよう」と祈りなさい、と言うことです。この世に、キリストによるこのようなみわざを施したいのが神様のご希望なのです。神様の御国がこの世に臨むように、私たちは願い、求め、祈らなければならないのです。

皆さん、この世は真っ暗い悪魔の暗やみの中にいるのです。また不正と腐敗で腐爛しています。聖書は何と記録していますか?私たちに向かって、あなたがたは世の光、世の塩です、と言いました。私たちは暗やみの中に入って行って光を輝かして明るくしなければならず、腐乱の中で天の御国の塩となって腐敗を防止させなければならないのです。

私が今回、カナダの聖会で主のメッセージを宣べ伝えました。聖会が始まる前に組織委員長が私に、こう頼みました。「チョウ先生、説教中に、同性愛に関して絶対に攻撃しないようにしてください。カナダ国会で、同性愛を合法的だとして通過させましたので、たとえ、聖書には同性愛者は殺せ、と言われましたけれども、ここでは同性愛に反対する説教をしたら、現場で逮捕されます…。」それを聞いて、私は驚きました。カナダは伝統的なキリスト教国家です。ところが、カナダ国会が天の御国を国会から追い出してしまったので、同性愛を合法的なものであると認めるようになったのです。

また彼が、私に言いました。「それからチョウ先生、説教中に、堕胎してはならない、とは絶対に言わないようにしてください。カナダでは、堕胎が合法的に許容されています。堕胎してはならないと説教したら、現場で逮捕されます。また、少数民族、ユダヤ民族に対して攻撃しないようにお願いします。ユダヤ人がイエス様を十字架に釘付けにした、と言う説教をしないでください。それも少数民族に対する差別ということで、そのような説教をして監獄に入れられている牧師先生が数名もおります…。」

私は痛感した。皆さん、我が国の政治界にも、その他のどの国の政治界にも、早く天の御国が臨まなかったら、みんなカナダのようになると思います。各国の政府と政治界に早く天の御国が臨まなければなりません。特に各国の「国会」に早く臨まなければなりません。国会は立法する機関です。そこに天の御国が臨まず、そこを不信の力が占めていたら、そこで立法される法律によって天の御国は追い出されてしまい、キリストの御身体である教会は凄く迫害されるようになります。

それで、こんにち「教会は政治に関心を持つな!」と言うのは、サタンの仕業なのです。教会は政治に関心を持って、熱くお祈りを捧げなければなりません。イエス様を信じる聖徒さんたちを議員として国会に送らなければなりません。そして政治的に、国会で天の御国に反対する法律を立法しないようにしなければならないのです。そうしなかったら、大きな不幸が襲って来ます。

北朝鮮をご覧ください。北朝鮮の政治形態の中には天の御国が臨んでいません。そうなので、信仰の自由もなく、人権もなく、すべての生活の自由もみんな奪われてしまっています。天の御国がそこにはないからです。ですから私たちは、主の御国がこの世の中に臨むように祈らなければならないのです。

なぜ、イエス様を信じる人たちがきたない政治に参与すべきか?と主張する人もいます。皆さん、聖書は、暗いところに入って行って光となりなさい、と言っており、腐っている所に入って行って塩となりなさい、と言っているのです。明るいところに光は必要がなく、腐らないところに塩は必要がありません。暗いところに光が必要であり、腐ったところに塩が必要なのです。今、暗く、腐っているところがどこか?国会です。そこがもっとも暗く、もっとも腐ったところです。

光がどこに行っていなければならないでしょうか。塩がどこにいなければならないでしょうか。国会、そこに居なければならないのです。キリストの光と塩が政治の現場に現われなければならないのです。私たちは天の御国に仕えながら、今後は、政治家たちを選ぶとき、特に選挙の時には、天の御国を中心に選挙に臨まなければならなりません。そうしなかったら、この世の暗いところと腐って行くところをキリストにあって浄化する道がありません。

「ヨハネの黙示録11章15節」に、『第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」』と記録されています。この世の国が、私たちの主とキリストのものにならなければならないのです。この世の国があり、天の御国がまた別にあるのではありません。この世の国の中に天の御国が臨んで、天の御国の主権行使が成されなければならないのです。主は、これがために祈りなさい、と言われたのです。




第三、みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように

第3番目に、「みこころが天で行われるように地でも行われますよう」と祈りなさい、と言われました。天の御国だけ臨まなければならないのではなく、神様の御心がこの世でも行なわれるように祈りなさい、と言うことです。この世・この地には、神様の御心に逆らう存在がたくさんあります。悪魔は神様の御心に逆らう元凶です。「ヨハネの手紙 第一 2章22節」に、『偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。』と記録されています。

「ヨハネの手紙 第一 3章 8節」に、『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』と記録されています。悪魔は至るところで神様の御心に逆らっています。神様の御心が行なわれないように、政治界、経済界、教育界、社会全般に入って、神様とイエス・キリストを追い出すことに全力を傾けております。

ですから、私たちクリスチャンたちがこの世に生きていることは、聖なる霊的戦争に臨んでいることなのです。悪魔は私たちの社会全般にわたって神様とイエス・キリストを追い出そうとしますが、私たちは社会全般にわたって神様とイエス・キリストを迎え入れようとしているのです。従って、追い出そうとする者と、迎え入れようとする者が、競い、戦うしかありません。私たちクリスチャンは聖なる戦争をしているのです。

この世の中で神様の御心に逆らっているのは、これまた、不信者たちです。「ヨハネの手紙 第一 5章19節」に、『私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。』と記録されています。全世界は悪い者たちに占領されており、不信者たちは悪い者たちと一緒に神様の御心に逆らっています。

「コリント人への手紙 第二 4章 3節〜4節」に、『それでもなお私たちの福音におおいが掛かっているとしたら、それは、滅びる人々のばあいに、おおいが掛かっているのです。そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』と記録されています。神様のかたちであるキリストの栄光を蔽うのは、暗やみの勢力である悪霊共です。この悪霊共が人たちの心の中に入って来て、神様の御心に逆らうようにするのです。

「ヨハネの福音書 3章18節」に、『御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』と記録されています。この御言葉を、私たちは忘れてはいけません。

18世紀に、徹底して無神論者であったヴォルテールは、生前に「キリスト教伝播には数世紀が所要したが、僕、ヴォルテールは50年内にキリスト教をこの世から去るようにすることができる…。」と大言壮語しました。しかしキリスト教は、彼の生前にも、彼の死後にも、益々広く伝播されました。彼は死ぬとき、「私は、生まれて来なかったのが良かったんだ。」と嘆き、天国も地獄もない、と言った彼は、「私は地獄に行くよ...。」と悲鳴を上げながら、悲惨な姿で死んで行ったと言われています。世の中でもっとも恐ろしい罪は、神様の存在と神様の御心に逆らうことです。彼の死後20年が経って、皮肉にも彼の家は「ジュネーヴ聖書協会」に買い取られて、全世界に聖書を普及することに貢献しました。

1946年、ナチス指導者など、戦争犯罪者たちが裁判を受けていました。その中にヒットラーがガス室で2,000名を殺害した殺人劇を執行したとき、代理人として活躍した人がいました。彼は「ヒットラーの命令で、2,000名を虐殺しました。」と自認しました。ところが彼の表情も態度もあまりにも泰然自若としたものでしたので、関係者たちがみな驚いてしまいました。

審問を継続していた関係者たちは、彼が他のガス室で3,000名をまた虐殺した事実を確認しました。そのことを追及したとき、今度も彼は、顔色一つ変えずに「そうです。」と淡々と自白しました。信じられない顔をして、一人の調査官が彼に質問しました。「あなたは、神を信じますか?」すると、彼は冷たい表情で「そんなのは信じません。神がどこにいますか。」と答えました。

神様を信じない不信者は、神様を恐れませんので、どんな悪でも犯すことができるのです。そのような人は、神様が居らず、神様を恐れませんので、良心が口をつぐんでしまっているのです。どんなことも、必要とあれば無慈悲に冷酷に非人情にやってのけることが出来るのが、こんにちの不信仰の人たちの常です。

皆さん、神様に逆らう敵、悪魔、神様の御心に反逆する悪霊たちに唆されている人たちが、この世の中にいかに多いことか知れません。イエス様を信じると言う人たちの中にも、世俗的な人が意外と少なくありません。「ローマ人への手紙 8章 7節」に、『というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。それは神の律法に服従しません。いや、服従できないのです。』と記録されています。

「ヨハネの手紙 第一 2章15節〜17節」に、『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』と記録されています。

人たちは、この世と妥協しながら暮らしています。教会の中には、まことの聖徒と世俗的な信者が混じっています。世俗的な信者は、神様とこの世を共に持って生きて行こうとします。新聞に次のような記事が載ったことがあります。易者・占い屋を訪ねる人たちの30%がクリスチャンであると。その人たちは易者や占い屋に来て、保証問題、事業問題、住居問題、疾病問題、昇進問題、家庭問題…等々、全般的な人生問題を相談すると指摘しました。

記者がこのような実態を取材している間も、自分をクリスチャンだと言う30代半ばの一人の紳士が、息子の名前を作るために外で待っていたと言いました。イエス様を信じると言う人たちが、天地と万物を造られた神様を信じずに、易者や占いの人の前に行って、運命の判断を得ようとする、悪霊と一緒に手を組んで生きて行こうとする人たちが多いということは、本当に嘆かわしいことです。神様とこの世とを兼ねて仕える人は、彼自身が「主人」なのです。

このような、世俗的な信者たちは、自分に有利だと見える事ばかりを追うので、神様の御心とは関係がない人生を暮らしており、神様に羞恥と侮辱をもたらしているのです。しかし私たちは、まことから神様の御心中心に生きて行かなければなりません。

「ピリピ人への手紙 2章 5節〜8節」に、『あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記録されています。

「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください!」この心で神様に仕え、イエス様に従って、私たちは全的に主中心に生きなければなりません。私たちの心の座にイエス様を座らせなければならないのです。心の座に自分が座り、イエス様を立たせておいてはならないのです。私たちは神様のしもべであり、下男であり、走り使いであり、神様に仕えるために造られた存在である、と言うことを知らなければならないのです。

「詩篇123篇 1節〜2節」に、『あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。』と記録されています。いつも私たちは、あくまでもしもべらしく、神様に仕えるために神様を見つめ、待ち望む私たちとならなければならないのです。

「マタイの福音書 7章21節」に、『わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。』と記録されています。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と、パウロは宣言しました。

天上・天下、どこにも神様の絶対主権が立ち、どこをも神様がご支配しなければならないのです。神様以外には、その誰もが支配してはならないのです。「詩篇103篇19節」に、『主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治める。』と記されています。

「ダニエル書 4章17節」には、『この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。それは、いと高き方が人間の国を支配し、これをみこころにかなう者に与え、また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、生ける者が知るためである。』と記録されています。

「歴代誌 第一 29章11節」には、『主よ。偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とはあなたのものです。天にあるもの地にあるものはみなそうです。主よ。王国もあなたのものです。あなたはすべてのものの上に、かしらとしてあがむべき方です。』と記録されているのです。

 従って皆さん、私たちが「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」絶対主権者の御心が天で行われたのですから、地でも行われるように、祈らなければなりません。悪魔が反対し、不信者たちが反対し、この世と妥協的な信仰の人たちが反対しても、私たちはイエス様を心の中心に迎え入れて、神様の御心が天で行われたように、地でも行われますようにと、祈らなければならないのです。

昔、中国の殷の国の湯王が天子になってから、無慮7年間も旱魃が続きました。重用されている一人の老大臣が王の前にひれ伏して、言いました。「王様。7年間もの旱魃を免れるためには、人を屠って犠牲の供え物とし、それを天の神に捧げなければなりません…。」すると湯王が、「いや、私が民を屠って供え物にすることはできない。私が供え物になる!」湯王は沐浴斎戒し、白馬がひく装飾が施されていない白い車に乗って野原に出て行き、地にひれ伏しました。そして湯王は、天の神に祈りました。

「私がほどこした政治に節制がないので国中が乱れ、旱魃が訪れたのでしょうか?民たちが職業を失って困窮に落ち入っているのにも、私が細かく顧みることが出来なかったので雨が降らないのでしょうか?賄賂が盛んに横行し、正しい道が害されているので、飢饉が襲って来たのでしょうか?讒訴によって忠実な臣が排斥されたので、このような苦難に遭っているのでしょうか?すべてが、私の間違いの故です。それで国と民のすべてが塗炭の苦しみに会っているのです。私が死んでお供え物となり、民たちを救います…。」湯王がこのように祈り、叫びながら、慟哭しました。

すると、瞬く間に空に黒雲が覆い、雨が降って、数千里の広大な国中が水で溢れるようになった、と言う古事があります。国の指導者たちが悔い改めたら、天も感動するのです。問題なのは、国民が問題ではありません。指導者が問題なのです。この湯王のように、大統領、総理、大臣たち、国会議員たち、政治家たち…指導者たちが悔い改めないことには、天から雨は降りません。祝福の雨は、指導者が悔い改めて叫び祈ってこそ、降って来るようになるのです。

それだけではありません。この世に、主の御国を宣べ伝える教会と聖徒たちが悔い改めたら、神様は、それを黙って見てだけ居られはしません。主を礼拝する主の民たちがこの世で泣き叫び、呼ばわり祈るとき、神様は私たちの中に栄光を現してくださいます。

今の韓国は、岐路に置かれています。指導者たちは国民に謝らず、国民は指導者たちに謝らず、指導者たちは指導者たち同士で「私が悪うございました!」と謝ろうとしません。「私の故です。」とする人は一人もなく、全部が「あなたの故です。」と、すべてを相手の責任にします。誰一人、悔い改めようとしません。聖書には、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と記録されているのです。

誰も悔い改めようとしないのですから、教会だけでも悔い改めなければなりません。聖徒さんたちが先ず先たってひれ伏し、聖徒である私たちが、私たちの指導者たちの罪を告白して、痛く悔い改め、我が民族の罪も告白し、悔い改めなければなりません。罪を認め、告白し、悔い改めなければ、いくら大勢が集まってデモをし、ろうそくに火を点けて叫ぼうとも、問題は解決されません。「お前が悪いのだ。」「俺は悪い事をしていない。」「私は生きなければならない。」「お前は死んでもかまわない。」このような白黒論理をもっては、わが民族には将来がありません。

みんな悔い改めて、大いなる赦しと愛でお互いが抱き寄せ合わなければなりません。赦しと愛で抱き合わずに、お互いに律法主義で指差し合うだけしたら、国は崩れ、破壊されてしまいます。イエス様も町が支離滅裂したら滅び、国が亀裂したら潰れる言われました。私たちは、「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように」と、夜昼、呼ばわり祈らなければなりません。神様が中心になってこそ、私たちに、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る、神様のみわざが私たちの中に起こるようになるのです。

ある日、記者たちが鉄鋼業で成功したカーネギーを訪問して、成功秘訣が何ですか?と質問しました。するとカーネギーは、自分の成功秘訣を次のように、三つに分けて説明しました。「第1は、私があまりにも貧しい家庭で生まれましたので、どんなことがあっても貧乏を免れなければと、何事にも「切歯扼腕」の意気込みで臨みました。第2には、私は学識がありませんので、何事でも着手したことは「世界第一」を執念をもって目指しました。第3には、私は貧しく、勉強することができませんでしたので、神様を私の心の中心に迎え入れて、すべてを神様にお委ねし、神様が成功させてくださることを信じて、夜も昼もひざまずいて神様に祈りました。お陰さまで私は鋼鉄会社を育て、運営してくる事ができました。」

皆さん、私たちの心の中に神様を絶対主権者として迎え入れ、すべてを神様にお委ねし、神様が全部受け持って支配してくださるようにするとき、私たちは、神様の御心を成就する人生を生きて行くことができるようになるのです。

私たちが祈るときには、神様の関心事が何であるかを知って真っ先にそのことを祈り、その次に、私たちの関心事を祈らなければなりません。神様が喜ばれることを先ず求め祈った後に、私たちの願い事を祈りを通して申し上げなければならないのです。私たち人生の本分は、神様を高め、崇め、福音を伝え、神様を賛美し、神様の御心に従順に聞き従いながら、神様の栄光を現すことです。

神様の関心事を、「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。」と先ず私たちが願い、求め、祈ることです。神様と私たちの間柄は、父と子の関係です。父と子の間柄でありますので、私たちが父なる神様の御名を聖なるものとするすべてに熱心を尽くすことを、神様は望んでおられるのです。天の御国が私たちの心の中に臨み、私たちの家庭に、私たちの社会に、国家に、世界に臨みますようにと、神様のために祈りなさい、と言われたのです。

この世に神の御国が臨みますように、暗いところには私たちが光として臨むことができますように、腐っているところには私たちが塩となって臨むことができますように、と祈りなさいと言うことです。

そして、どのようにしてでも、神様の御心が天で行われたように、地でも行われて、神様が統治なさるこの世となるように、祈りなさいと神様は言っておられるのです。私たちは、このような神様の関心事を心に覚えて祈り、行動するとき、神様が私たちを喜んでくださり、神様が私たちを祝福してくださるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、わが父なる神様!

神様に心から、栄光と賛美を捧げます。永遠に崇めます。世々末永く、高められてください。神様は天におられますので、私たちは高く高く主を見上げ、礼拝し、待ち望み、賛美します。

しかし、神様は私たちと遠くに離れておられるお方ではありません。神様は私たちの御父であられ、私たちは神様の子であり、神様は私たちのいのちの源泉であられ、私たちは神様から生れ出た者たちです。神様と私たちの関係は、どの誰もが断ち切ることのできない、愛の関係で結んでくださった事に感謝申し上げます。

全知全能であられる、我らの天のお父さま!

私たちがこの世を生きて行きながら、神様の御名を崇め、褒め称え、神様に栄光をお帰ししながら生きるように助けてください。神様の御名を絶対に汚すことがないように助けてください。

生きておられる、我らの父なる神様!

天の御国がこの世に臨むように、私たちが夜昼祈るように導いてください。義の御国、聖霊充満の御国、癒しの御国、祝福の御国、復活の御国が、この世に臨むようにと祈る私たちとなるように助けてください。神様の御国が私たちの家庭に、社会に、私たちの国会に、政府に臨みますようにと祈る、私たちとなるように助けてください。

暗いところに光となり、腐るところに塩となる、神様のみわざが臨んでくださいますようにと、祈ります。この世の至るところに、神様の御心が行なわれますよう、祈り、求め、お願い申し上げます。

全知全能であられる神様!

悪魔の勢力を粉砕してくださり、不信仰の世界を退かせ、否定的な信仰生活を破壊してください。そして、その中に神様の御国が臨み、神様の御心が行なわれ、主が、王の王、主の主として君臨してください。主・イエス様がご支配なさる国が早く臨むように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!