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「歓喜と苦難」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 21章 1節〜11節」
21: 1 それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、
21: 2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
21: 3 もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです。』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」
21: 4 これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。
21: 5 「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王が、あなたのところにお見えになる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」
21: 6 そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。
21: 7 そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。
21: 8 すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。
21: 9 そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」
21:10 こうして、イエスがエルサレムにはいられると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか。」と言った。
21:11 群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ。」と言った。




私は今日、皆さんとご一緒に『歓喜と苦難』と言う題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

世界のどの国や、小都市、村落に行って見ても、年中に必ず祝祭の日があります。その時になったら、全市民や村民たちがみな出て来て祝祭に参加し、大きな喜びを体験するようになります。その喜びが、その都市の市民たちや村民たちを和解するようにし、団結するようにして、目の前の困難や苦痛を克服するようにしてくれます。どの個人も、大きな苦難に打ち勝つためには大いなる歓喜の体験がなければなりません。




第一、イエス様の歓喜の体験

「ヘブル人への手紙 12章 2節」を見ますと、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』と記録されています。イエス様は、大いなる喜びが心にあったが故に十字架の苦難に勝たれることができた、と言うのです。

イエス様の心の中に満ち溢れる喜びがなかったとしたら、苛酷極まりないその十字架の苦難に堪えられなかったはずである、と言うことです。イエス様の歓喜の体験を、私たちは聖書の中で見ることができます。「ルカの福音書 9章28節〜36節」を見ますと、イエス様がユダを離れて、ガリラヤを通り、ユダヤ地方に、最後の旅行をなさることになりました。

この世と別れるために、ガリラヤを通ってユダヤに行かれる途中、主がペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために高い山に登られました。イエス様が山に登られて祈っておられましたが、突然、イエス様の御顔が太陽のように輝きました。想像もすることができない栄光で御顔が輝き、御衣は洗濯屋さんが洗濯したもののように真っ白く光り輝きました。

良く見ていると、モーセとエリヤが来て、イエス様と一緒に話し合いました。弟子たちが聞いてみると、イエス様がエルサレムに行かれて十字架に釘付けにされて死なれることと、葬られてから三日目によみがえられることについて話しをしていました。あまりにも驚いてペテロが言いました。「先生。ここに居られることは、素晴らしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」

ペテロは、自分がそんなに話しながらも、何のことを言っているのか分かりませんでした。そのとき、雲がわき起こって彼らを覆いました。雲に包まれた弟子たちは恐ろしくなってきました。すると、雲の中から声が聞こえて来ました。「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」そして瞬く間に雲が消え去りました。

弟子たちが見ると、モーセとエリヤは見えず、イエス様だけが見えました。イエス様は、この山で素晴らしく大きな歓喜を体験するようになったのです。「マタイの福音書 17章 2節」にも、『そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。』と記録されています。

それは、イエス様がこの世に遣わされる前に父なる神様と一緒に享受された、その栄光の御姿を神様が暫くの間体験させてくださったのです。モーセが誰ですか?律法の代表者です。エリヤは誰ですか?預言者の代表ではありませんか。すべての律法は、イエス様が来られて十字架の苦難を受けられることを表示したものであり、すべての預言は、イエス様がメシアとして来られて十字架の苦難に会われ、死なれて贖いのみわざを果たされてからよみがえられることを預言したものです。

ですから、律法の代表であるモーセと預言者の代表であるエリヤが来て、イエス様に関する神様の御心を申し上げたのです。イエス様はここで、ご自身の霊魂の中で大いなる歓喜と恍惚感を体験なさいました。神様が、イエス・キリストが神様の御子であられることを再度、確認させてくださったのです。

「ルカの福音書 9章35節」に、『すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。』と記録されています。ペテロは後日、その経験を、「ペテロの手紙 第二 1章17節〜18節」に、『キリストが父なる神から誉れと栄光をお受けになったとき、おごそかな、栄光の神から、こういう御声がかかりました。「これはわたしの愛する子、わたしの喜ぶ者である。」私たちは聖なる山で主イエスとともにいたので、天からかかったこの御声を、自分自身で聞いたのです。』と記録しています。

聖なる山(一名:変化の山)での体験で、イエス様は至極大きな誉れと栄光を体験するようになったのです。このような偉大な誉れと栄光の体験が、後の日に、十字架で限りない苦しみに会われるとき、これを克服することができる力の根源となったのです。

イエス様はまた、苦難に会われる一週間程前に、オリーブ山のふもとのベテパゲで驚くべき体験をなさいました。イエス様がエルサレムの近くに来られて、オリーブ山のふもとのベテパゲに着かれたとき、弟子たちに言われました。『向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。もしだれかが何か言ったら、「主がお入用なのです。」と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。』(マタイ21:2〜3)

弟子たちが向こうの村に行って見ると、果してろばとろばの子がつながれていました。それで、弟子たちはろばとろばの子を連れて、イエス様のところに来ました。イエス様がろばの子の背に乗られました。ろばは元来、小さな動物です。ろばの子はもっと小さいです。恐らくイエス様の足が地に引きずられたことと思います。それはどうであろうと、イエス様がそのろばに乗られて、エルサレムに入って行かれました。

弟子たちは、自分たちの上着をろばの上にかけました。群集のうち、大勢の者たちが自分たちの上着を道に敷き、木の枝を切って来て道に敷きました。数多くの群集が沿道に集まって来て叫び、イエス様を歓迎しました。

皆さん、イエス様がエルサレムに入城なさったときは、過ぎ越しの祭りがいくらも残っていない時期でありました。律法によりますと、エルサレムの周辺30Km内にいる人たちは皆、エルサレムに集まらなければなりませんでした。その時のことを歴史家たちの調べによりますと、当時約300万人の人たちがエルサレムに集まったと言いますから、韓国の釜山の人口に相当する人たちがエルサレムに集まって、人山で繁雑を極めたことと想像するに難しくありません。

ところが、オリーブ山の麓ベテパゲからエルサレムまでの距離は約3.4Km、韓国の里数で約10里ほどになります。イエス様が、この10里ほどになる道を通られるのに、前で群集が歓呼し、後ろからも数多い群集が喜びの声を張り上げながら従い、そして或る人は上着をぬいて道に敷き、或る人は木の枝を切って来ては道に敷くなど、それはそれは荘厳でありました。

全エルサレムが騒然と騒ぎたち、そこに集まった300余万名が皆、「これはどうした事か?」「誰が来られるのか?」と、彼らは驚きました。或る人は「これは、ガリラヤから来られた預言者イエスだ…。」と言いました。

 しかしイエス様は、聖書「ゼカリヤ書 9章 9節」に、『シオンの娘よ。大いに喜べ。エルサレムの娘よ。喜び叫べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。』と預言されている通りに、主はそれを成就されたのです。

主イエス様は、エルサレムに平凡に入城されたのではありません。王として入城なさったのです。後日、王の王、主の主として来られるときに、すべての人たちが歓迎するであろうことを主がこの場で実現なされたのです。イエス様はここで、凄く、素晴らしい感激と栄光を感じられました。神様が、王の王、主の主としてキリストをこの世に遣わされることをイエス様は覚えられ、そのとき、天軍・天使たちと共に無数の主の民たちが主を歓呼し、歓迎することを覚えられて、イエス様は、この預言的事件で心の中に大いなる慰めと平安を得られ、恍惚となられました。その恍惚となる体験が、直ぐに迫って来る十字架の苦難を背負い切れるようにしたのです。

イエス様が十字架に釘付けになられる六日前のことです。イエス様がベタニヤのシモンの家で食事をなさいました。そのとき突然、マリヤが非常に高価で、純粋なナルドの香油が1斤も入った壺を持って入って来て、その壺を割り、その中の高価な香油をイエス様の足に注ぎ、イエス様の頭に注ぎ、そして自分の髪の毛でイエス様の足を拭いました。家の中が香油のかおりでいっぱいになりました。

このナルドの香油は凄く貴重で高価なものです。ヒマラヤ山脈のインド地方で栽培されたナルド香りの木の根から抽出した香油で、1斤が300デナリで売られるとされているものです。皆さん、これは労働者の一年の所得に該当する金額です。今の韓国のお金で換算したら約3,000万ウオンに相当します。その上に、香油を入れていた壺は、エジプトの或る地方の山で採取された石で作ったもので、これまた高価なものでありました。

それを割って、香油をイエス様の足に注ぎ、頭に注ぎ、自分の髪の毛をほどいてイエス様の足を拭うなどしながら、キリストを敬いました。それを見たイスカリオテ・ユダを中心とした何人かの弟子たちが興奮し、憤慨して言いました。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに…。」

そのとき、イエス様が弟子たちを叱って言われました。「マルコの福音書 14章 6節〜9節」に記録されている御言葉です。『すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」』

イエス様は十字架を背負われる前に、最後の、素晴らしい愛と、慰めと、激励を受けられたのです。なぜかと言えば、このマリヤの献身と愛がキリストをして人類を救われるがために十字架を背負うことができる、勇気と力を得るようにしてくれたのです。

イエス様は、このような栄光と恍惚の体験をなさったので、その心の中に得られた充満なお喜びの故に、十字架を背負うことがおできになったのです。そのような喜びと恍惚の体験がなかったら、おそらくキリストは十字架の苦難に堪えることが難しかっただろうと思います。

神様は、それらのことを予めご存知だったので、キリストを“聖なる山”(一名:変化の山)で栄光と誉れを体験されるようになさり、エルサレム入城のときに、その驚くべき群集の凄い歓喜と栄光を体験されるようになさり、最後に、人類を代表してマリヤがイエス様にほどこしたその献身と愛を体験なされて、深い感動をイエス様が感じられるようになさったに違いありません。




第二、イエス様の弟子たちの歓喜の体験

皆さん、イエス様の弟子たちも全く同様でありました。彼らが体験した歓喜の体験の故に、彼らはいのちを懸けてキリストの福音を伝えることができたのです。イエス様が苦難の目に会われた以後、弟子たちは完全に落胆した烏合の衆でありました。みんな逃げ去ってしまいました。イエス様がよみがえられてから40日間、西に現われたり、東に現われたりなさりながら、思い思いの方向に散ってしまった弟子たちをエルサレムに呼び集められたのです。

そして、五旬節の日に彼らが一つ所に集まって祈っているとき、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、また、炎のような分かれた舌が現われて一人ひとりの上に留まるや、彼らが聖霊に満たされ、聖霊が話させてくださる通りに異言で話し出す、凄く感動的で恍惚となる体験をしました。その時の体験がいかに強烈であったか、弟子たち全部がお酒に酔ったようであったと言います。この体験があってから、弟子たちは恐怖から抜け出し、死も恐れない信仰の人たちとなりました。

聖書を見ますと、「使徒の働き 2章 4節」に、『すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』と記録されており、「使徒の働き 1章 8節」に記録されている通りに、『しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』と主が仰せられた、その体験をするようになったのです。このような体験をしたが故に、その後に襲って来た大いなる迫害と艱難と死を恐れずに弟子たちは信仰を全うすることができました。

「ローマ人への手紙 8章35節〜37節」に、『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。』と記録されています。

キリストの愛を体験したが故に、弟子たちは無数の恐ろしい迫害をものともせずに勝ち抜くことができました。キリストの愛を骨の中にまで聖霊充満を通して体験しなかったなら、弟子たちは艱難と苦難を克服することができなかった筈です。イエス様の12弟子たちは皆、キリストのために、福音のために殉教しました。

ペテロは、ローマに行って伝道する途中に捕えられて十字架に逆さまに釘付けられて殉教しました。アンデレは、ギリシャに行って伝道しましたが、そこで捕えられてX(エックス)形の十字架にはりつけられて殉教しました。ヤコブは、エルサレムでヘロデに剣で首を切られて殉教しました。ヨハネは、油の釜の中に投げ入れても死なないので、パトモス島に島流しされましたが、そこから出て来てエペソで末年まで福音を宣べ伝えた、生きた殉教者であると伝えられています。

ピリポは、フルギヤで伝道していましたが、柱に縛り付けられて殉教しました。バルトロマイは、インドで伝道中に十字架に逆さまに釘付けられて殉教しました。デドモとも呼ばれるトマスは、インドに行って伝道しましたが、槍に突き刺されて殉教しました。マタイは、エチオピヤで伝道中に首を切られて殉教しました。アルパヨの子ヤコブは、聖殿の頂から突き落とされて殉教しました。

熱心党員シモンは、エジプトからユダヤに戻って来て伝道中に弓の矢に射られて殉教しました。イスカリオテ・ユダの代わりに12弟子の一人となったマッテヤは、エチオピヤで伝道中に石に打たれて殉教しました。これらはみな教会史に記録されている事実です。

イエス様の弟子たちは、使徒ヨハネ以外はみな殉教しました。一時は臆病者たちであった弟子たちがいのちを懸けてキリストの福音を宣べ伝えることができたのは、キリストの愛を体験したからなのです。キリストの愛が聖霊充満で臨み、それで恍惚を体験したので彼らはどのような苦難も恐れずに信仰に歩むことができたのです。




第三、聖徒たちが世に勝つ歓喜の体験

こんにち、聖徒さんたちが世に勝つことができる力がどこから生じるでしょうか? 宗教を持っているとして聖徒さんたちが世に勝つのではありません。立派に聖書の勉強を受けたとしても世に勝つことはできません。必ず主のお恵みの体験をしてこそ、世の苦難に勝つことができるのです。お恵みの体験が私たちの心を占領したら、そのお恵みの体験の恍惚さが私たちをどのような患難も苦難も克服して勝つことができる勇気と力を与えてくれるのです。

私たちは、霊的人生を生きるにあって歓喜の体験をしなければなりません。霊的人生を生きるにあって歓喜の体験は、聖霊充満の体験なのです。「エペソ人への手紙 5章18節」に、『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』と記録されています。聖霊充満は、世の人たちがお酒に酔ったのと同じく、そのように神様のお恵みに酔うようにするのです。

「ローマ人への手紙 5章 5節」に、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記されています。聖霊によって神様の愛が私たちの心に注がれたら、その恍惚な体験を通してその以後には、どのような患難も、苦しみも、迫害も、飢えも、危険も、剣も、死までも、私たちはそれらに勝つことができるのです。

インドの有名な伝道者「ソンダシン」は、1889年に大地主の息子として生れました。彼の母親は篤実なヒンズー教徒でありましたが、「ソンダシン」が14歳の時に世を去り、死にながらも「ソンダシン」が立派な宗教家になるよう願いました。「ソンダシン」は天才的な少年でありました。15歳のときに哲学と宗教関連の本を読み、自分の人生問題を深刻に考え、苦悶しました。

当時、彼はキリスト教系統の学校に通いましたが、ヒンズー教にもキリスト教にも解決策がないように見えました。熱心に聖書を読み、キリスト教理を勉強しましたが、人生問題の解決がそこにはないと考えました。彼の人生は虚無であり、絶望感だけが彼を捕え、彼はキリスト教に関連したすべての本と聖書も火に焼き捨てて、死のうとしましたが、それも思う通りになりませんでした。

「ソンダシン」が或る夜、悲しみに身悶えしながら祈りを捧げました。「ヒンズー教の神だろうが、キリスト教の神だろうが、どうか答えてください。私はどうしたら良いでしょうか…?」そのとき、夢うつつの中で部屋の中に明るい光が射したかと思うや、キリストが現われました。

そしてキリストが仰せられました。「なぜ?あなたはわたしを悩ますのですか。わたしは既に、あなたのために十字架に釘付けられ、身を裂き血を流してあなたの罪を贖い、救いの道を開いて置きました。それなのになぜ、しきりにわたしを悩ましますか?もう、わたしがあなたのために十字架を背負った如くに、あなたもわたしのために十字架を背負いなさい…。」

「ソンダシン」は、その場にひれ伏しました。そして驚くほどに変化しました。彼は霊的歓喜を体験してから、一筋にイエス・キリストの福音を宣べ伝えることに邁進しました。彼は福音を伝えながら、表現できないほどに色々な試練と艱難と迫害を受けましたが、彼が体験した歓喜と聖霊充満のお恵みが充分にそれらに打ち克つことができるようにし、遂には偉大な伝道者となりました。

皆さん、「ヨハネの福音書 7章38節」に、『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』と記録されています。心の奥底から生ける水の川が流れ出るようになってこそ、成功的な勝利の信仰生活をすることができるようになるのです。

また、私たちが真理を悟る体験をしたとき、大いなる神様のお恵みをいただき、勝利することができるようになります。頭の中にいくら聖書の御言葉を数多く憶えているとしても、それが私たちの力となるのではありません。真理を悟ったら、大いなる主の栄光と力が私たちに臨み、それで私たちが勝利の生活を営むことができるようになるのです。

「ヨハネの福音書 8章32節」に、『そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と記録されてあり、「テモテへの手紙 第一 2章 4節」には、『神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。』と記録されています。

「テサロニケ人への手紙 第一 1章 6節」は、『あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。』と記録しています。御言葉を受け入れるだけの者が幸いであるのではなく、主にならう者にならなければならないのです。

18世紀にイギリスを変化させた「ジョン・ウェスレー」は、大学時代に熱烈な信仰の人となってアメリカに宣教師としてインデァン伝道に行きました。しかしアメリカ宣教に失敗して、彼はイギリスに戻って来ました。何もすべき仕事がないのでぶらぶら遊んでおりました。彼は立派な信仰教育を受け、宣教師として海外にも行って来ましたが、救いを受けた体験がありませんでした。それで、苦難に打ち勝つことができずに逃げるが如くにイギリスに戻って来るようになったのです。

ところが1738年5月24日、ロンドンのアルドスケイトでの経験に対して「ウェスレー」は次のように話しました。<その日の夕方、私は友人の一人の強要を退けることができないまま、アルドスケイトの街の集会にでかけました。或る人が、ルターのローマ人への手紙の註釈を読み下ろしていました。9時15分頃、その人がイエス・キリストのうちにある信仰を通して神様が私たちの心の中に起こす変化を説明しているとき、私の心の中に理解できない熱い火が臨んで心が騒ぎ始めるや、イエス・キリストを信じることによって値なく赦しを受け、義の人と認められる救いを受ける、と言う真理を心の中にはっきりと悟るようになりました…。>

そのときまでは、頭で読んで知った事柄が心の中に全然ぶっつかって来なかったのに、その日の夜には心が異常に熱くなり、自分ではどうしようもない火の炎のようなものが臨むや、信じることによって赦しと義認を得ると言う真理がはっきりと悟られ、それからは霊魂の明るい光がさし、歓喜が満ち溢れるようになった、と言うのです。

相当経ってから、或る人がウェスレーに質問しました。「あなたはどのような力で、こんなに偉大な伝道をすることができるのですか?」するとウェスレーは、<私は、アルドスケイトの街での集会に参加した以後、私の心の中にはいつも聖霊の強い火のような導きがあって、その導きによって私は神様の福音を宣べ伝えることができるのです。>と答えました。

真理を悟るや、聖霊の火が心の中に臨んだのです。真理を知るだけでは、私たちが変化されることはできません。神様の真理が聖霊によって心の中に悟れるようになるとき、そのお恵みの体験がどのような試練にも艱難にも勝つことができる勇気と力を供給してくれるのです。

また私たちは、イエス様を信じる信仰生活を営みながら心的にも神様のお恵みを体験しなければなりません。信仰の体験、希望の体験、愛の体験、義の体験、平和の体験、喜びの体験…がなければならないのです。

「コリント人への手紙 第一 13章13節」に、『こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。』と記録されています。また「ローマ人への手紙 14章17節」に、『なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。』と記録されており、「詩篇 16篇11節」には、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記録されています。

私たちが心の中に、主の喜びと楽しみを体験し、私たちの心の中に、希望が満ち溢れ、平安が満ち溢れ、喜びが満ち溢れる体験をしなければならないのです。皆さん、このような体験はすべての聖徒さんたちがみな体験しなければならないのです。私たちはただ、形式的に教会に行ったり来たりしてはいけません。主に礼拝を捧げる中で心の中に得る、その信仰、希望、愛、義、平和、喜びが骨の髄にまで沁み込む体験をするようになるとき、その人は世の中に出て行ってどのような迫害を受けようとも、びくともせずに勝ち抜くことができる力が生ずるようになるのです。

生活の中で歓喜の体験をしなければなりません。病を癒していただくような凄い体験は、心の中に深い印象を残します。

「詩篇 103篇 3節〜5節」に、『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』と記録されています。

また「ペテロの手紙 第一 2章24節」には、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されています。

私たちが病気に罹って苦しんでいるとき、主の御力が臨んで癒していただいた体験をしたら、このような体験は私たちの一生のともし火となります。この体験が、私たちが主に背かないようにしてくれることは勿論、どのような艱難や迫害にたいしても信仰をもって対処して行くことができる力と勇気を与えてくれるのです。主はこんにちも、私たちに驚くべき癒しの体験をするように恵みを施してくださっておられます。或いは、苦しい問題が解決されるとき、このお恵みが私たちを捕えて変化させてくれるのです。

「エレミヤ書 33章 3節」に記録されているように、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と言われました。私たちの暮らしの中には、死の陰の谷を通るときがあります。個人的に、あるいは家庭的に、生活を営み、事業を進めて行くとき、真っ暗い死の陰の谷を通らなければならないときがあります。

東・西・南・北…どこを見ても、避けて行く道がありません。その絶望の中で呼ばわり祈るとき、イエス様が生きておられる御姿で私たちの人生の中に現われてくださるのです。それは形式的、神学的、宗教的な主としてではありません。私たちの心の中に死の代わりに生命を与えてくださり、暗い闇の代わりに光を照らしてくださり、慰めと勇気と力を与えてくださり、手に持っておられる杖で救ってくださり、鞭で保護してくださる体験をするようになるとき、その体験の恍惚たる感激・感動が皆さんをずーっと長い間、信仰の中に堅固に立つようにしてくれるのです。私たちはイエス様を信じる信仰の中でこの世を生きて行きながら、数多い祝福を体験するようになるのです。

「詩篇 1篇 3節」に、『その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。』と記録されています。主のお恵みを体験し、主の与えてくださった祝福を体験した人の信仰は、どんなことがあっても揺り動かされることはありません。

「エゼキエル書 34章26節〜27節」に、『わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなって雨を降らせる。それは祝福の雨となる。野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。わたしが彼らのくびきの横木を打ち砕き、彼らを奴隷にした者たちの手から救い出すとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。』と記録されています。

私たちの主は、祝福の主であられます。祝福の根源であられます。『若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。』と、聖書「詩篇 34篇10節」に記録されています。

元来、映画俳優であった「メル・キブスン」は、一時カトリック教の神父になろうとしましたが、彼が1979年に製作した映画が大きく興行に成功しながら、彼は映画製作事業に飛び込んで行きました。その次の映画も成功して巨富になった80年代末、彼の人生は腐敗に向かって転落していきました。遂には、女とお酒と麻薬等…中毒が可能なものにはすべてに溺れ込んでいく精神的破産者になりました。彼は、世の何ものを持ってもガランと空いた霊魂を満たすことができない虚無と無意味と絶望にさいなまされ、35歳の時には窓の外に飛び降りて死にたい衝動にも駆られました。

そうした1991年の或る日、彼は人間の根本に戻って行こうと決心して、ブシュ大統領のように聖書勉強を通して信仰を回復し、新しく変化されました。イエス様の十字架の苦難と死と復活を心の中に受け入れ、キリストに彼自身のいのちを委ねるや、彼は驚くべきキリストの復活の御力によって、アルコール中毒、麻薬中毒、淫乱の中毒等から解放されました。

彼は、キリストを通した救いの凄い感激を体験した後に、これを映画化しようと思い立って3,000万ドルの私財をはたいて投資し、渾身の力を傾注して「イエスの受難」と言う映画を製作しました。「キブスン」は、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書を通読しながら新生しましたので、聖書の御言葉その通りに映画化しました。

一方、彼を非難する側に対して「キブスン」は、自分は徹底的に聖霊さまのお導きに与って映画を製作した、と言い切りました。四旬節に合わせてアメリカで開封されたこの映画は、大きな波長を起こし、我が国韓国でも4月2日から開封されました。

皆さん、「キブスン」がこの映画を製作したのは、自分が罪悪の沼に陥ってそこから脱出することができない絶望に瀕したとき、イエス・キリストが死なれてからよみがえられた真理を聖書で読んで悟り、キリストにすべてを委ねるや、キリストが彼を変化させてくださった大いなるお恵みを体験したからでありました。その体験をしたが故に、このイエス様を広く証ししなければならないと思い立って、私財3,000万ドルを投じて映画を製作し、非難を受けてもびくともせずに前進することができる力がそこから生じたのです。

皆さん、理論的な宗教的信仰は、平坦なときには構いませんが、大きな試練にぶっつかると砂上楼閣のように崩れてしまうものです。しかし、信仰が大きな歓喜の体験をを通して人生の中に刻み込まれますと、それは巨大な喜びと力になって、押し寄せて来る試練、艱難、逆境を充分に克服することができるようになるのです。

イエス様が、オリーブ山のふもとからエルサレムに入城されるとき、主は1週間後には凄惨に神様から捨てられて、恐ろしい鞭打ちに会い、血みどろになって十字架を背負い、極限の苦しみの中で死ななければならないことをご存知でありました。主は、そのことから逃避することがお出来になる方でありました。

しかし、イエス様はエルサレムに上がって来られる途中に、変化の山(聖なる山)で神様から誉れと栄光を受ける体験をなさり、また主は、エルサレム入城のときに数多い群集がご自分を歓迎し、天地を覆すが如き歓喜の歓声を上げるのを通して、将来、この世に王の王、主の主となられてご再臨なされることを知って、主は、天からの喜びと誉れを体験なさり、喜びで満たされられたのです。

イエス様は最後のときに、もっともやるせないマリヤの愛、3,000万ウオンにも相当する香油を、それも高価な壺に入れてあったのを壊して、足に注ぎ、頭に注ぎ、自分の髪の毛をほどいてそれで足をぬぐってくれながら礼拝した、その深い愛と献身に大いに慰めと勇気と喜びを得られたがために、十字架の死を背負い通すことができました。苦難は、歓喜の体験があってこそ耐え抜くことができるのです。

世の終わりが近い今、この世には患難と試練が数限りなくあります。悪魔は自分たちの時がいくらも残っていないことを知って、力のあらん限りをふりしぼってあらゆる悪を欲しい侭にし、私たちを攻撃しています。私たちがこの最後の時に、信仰をますます堅固にして勝ち抜いて行くためには、聖霊さまのご臨在を体験しなければなりません。聖霊充満を体験しなければならないのです。

御言葉の真理を悟る体験をしなければなりません。私たちが心の中に、信仰、希望、愛、義、平安、喜びを体験しなければならないのです。病気の癒しも体験しなければならず、主の祝福も体験しなければならないのです。主の御言葉が私たちの中に刻み込まれて恍惚を体験するとき、私たちはどのような苦痛をも信仰で克服して生きて行くことができる力と勇気に満たされるのです。




お祈り

聖く、全知全能であられる、我が父なる神様!今日、私たちは聖餐礼拝を通して、主の砕かれた肉を食べ、主が流された血を飲みました。これは、生きておられるキリストを体験するがためです。これは、宗教でもなく、儀式でもありません。

愛であられる、天のお父さま!主の砕かれた肉を食べ、流された血を飲んで、聖霊によって私たちのたましいが主のお恵みをいただく驚くべき体験をするように、助けてください。

そうして、キリストが私たちの中に、私たちがキリストの中にいることをはっきり体験して、患難や、苦しみや、迫害や、飢えや、裸や、危険や、剣が襲って来ても、少しも恐れない私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!