教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「妻を愛し、夫を敬いなさい」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 5章22節〜33節」
5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。
5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。
5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。
5:25 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。
5:26 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。
5:28 そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。
5:29 だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。
5:30 私たちはキリストのからだの部分だからです。
5:31 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」
5:32 この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。
5:33 それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。





「家庭の月」を迎えて、今日は、聖徒の皆さんたちとご一緒に『妻を愛し、夫を敬いなさい』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

家族と社会の第一の基礎単位は夫婦であり、父母と子どもです。こんにち、私たちが直面している危険は、この家族と社会の基礎単位が揺り動かされ、破壊されて行きつつあると言うことです。想像を超えた夫婦離婚率と堕胎、児童虐待…などがこの社会が病みついて行くようにしています。利己主義、黄金万能主義、快楽主義の蔓延によって、家庭の神聖な垣根が崩され、すべてが相対的利用物に転落してしまいました。

今日、私たちは夫婦の結合、家族の意味を、神様の御言葉を通して心に新しく刻んでみたいと思います。





第一、人間創造

第1番目に、人間創造に関した事実を私たちは深く知って置かなければなりません。こんにち、無神論的・人本主義者たちは、宇宙と人間の起源を唯物論的に解釈します。神様が居られないので人間の理性と科学を通してすべての存在を説明しようとするから、とんでもない理論を作り出すしかありません。こんにち、無神論的・人本主義者たちは、宇宙は大爆発によって作られたと言います。即ち、ビックバン(Big Bang)によって成されたと言うのです。

言い換えれば、宇宙は物質が一点に集まり、大爆発が起こった結果、現在宇宙は最初に爆発を起こした余波によって膨張を継続していると言います。これは神様を知らず、人たちが宇宙を説明するために止む無くそのように作り出した理論に過ぎないのです。皆さん、聖書は簡単に説明しています。『初めに、神が天と地を創造した。』(創世記 1章 1節)これは如何に簡潔で完全な答えでしょうか。

そして無神論的・人本主義者たちは、人間は単細胞から進化されたものである、と言いました。偶然に、無生物から生きている単細胞が生じて、それがだんだんと発展してこんにち、すべての生きている存在になった、と言うのです。これはチャールス・ダーウィンが作り出した進化論の原理なのです。

事実、進化論を最初に主張したチャールス・ダーウィンは、老年のときにある婦人の訪問を受けました。ちょうどそのとき、ダーウィンは彼が貴重な本であると命名した「ヘブル人への手紙」を読んでおりました。婦人は彼に、進化論を受け入れた人たちに、創造論である「創世記」の内容に対してどのように説明すべきか、と訊きました。するやダーウィンは、苦悩に満ちた表情になって次のように語りました。

「その当時、私は若く、未熟な理論家でありました。すべてにいつも疑いを抱いて質問したり、私の意見を話したりしました。ところが、私の考えが瞬く間に学会に広がるようになり、人たちはそれを彼らの宗教にしてしまいました。あー、これらを引き戻すことができるとしたら…。」と嘆いてから、数週後に彼はこの世を去りました。

こんにち進化論は、その証拠があまりにも充足されていないので、とても信じられない、虚構的な理論であることが明らかにされているのです。イギリスの天文学者であるプレドー・ホイール博士は、元来進化論者でありましたが、簡単な細胞一つが生じる確率が実際的には到底あり得ない、科学的には偶然に生命が生じることは無いと言うことを確言しました。

彼は、生命が偶然に生じる確率は、数多くの付属品が積まれている中古品商店につむじ風が吹きまくって、すべての部品が空中に舞い上がったあと、その部品が地上に落ちて来ながら一時にボーイング747ジャンボ旅客機が組み立てられる確率よりも少ない、と言いました。即ち、生命は決して自然的に生じるものではないと言うことです。所が、この地球上に生命あるものがいっぱいにあると言う事実は、実に創造主であられる神様が居られると言うことを証明するものである、と発表してから彼は創造論者になってしまいました。

皆さん、聖書は、「初めに、神が天と地を創造した。」と記録しています。また、「創世記 1章27節」には、『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。』と記録しているのです。アメーバから進化されて人間になった、とは言っていません。人間の狭い識見から人間が主張する進化論に対して、聖書は断固と否定しているのです。

天地と万物は神様が創造され、人間も神様が創造されたと言うのです。「創世記 2章 6節〜7節」に、『ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。』と記録しているのです。

「創世記 2章21節〜24節」には、『そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。 こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。 すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』と記録されています。

ですから、人生の始まりは偶然に進化されて生じたのではなく、神様が親しくご自身のかたちに人間を造られたのだ、と言う事実を聖書は私たちにはっきりと見せてくれているのです。





第二、夫婦の始まり

今日、第2番目に考えてみたいことは、神様の摂理とお恵みの中で夫婦の始まりが成されたと言うことです。聖書に、人がひとりでいるのは良くない、と言われました。「創世記 2章18節」の御言葉です。『その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」』

神様がアダムを造られた後に、アダムがひとりで暮らすのは良くない、と言われました。ひとりで暮らすことを神様が喜ばれず、良くないと言われたのです。それで神様は、ふさわしい助け手を造られ、男と女が付き合いと協力と対話を通して人生を暮らすようにしてくださいました。従って人間は、男女が互いに付き合い、協力し、対話し合う夫婦で暮らすように造られたのです。

1999年、大韓保険協会の学術誌に載せられた報告によりますと、離婚した男女の平均寿命が、配偶者がいる男女より平均8年から10年が短いと調査されたと発表しました。男性の場合、配偶者がある人の寿命は74.8歳、独身の男性は65.2歳で、約10年程度の差が現われ、女性の場合も、配偶者がある女性の寿命が78.8歳であるのに反して、独身の女性は69.3歳で、男性の場合とほぼ同じく約10年の差があると言うのです。

ひとりで暮らしたいと主張する人は、男性であろうが、女性であろうが10年早く逝く覚悟をしなければならないとと言うことです。未婚者または離婚者の場合は、配偶者がいる人とは違って、心理的葛藤を解消する機会が少なく、50代以後には健康が急激に悪化すると言われています。神様は、人がひとりで暮らすのは良くない、と言われました。結婚は神様の御心です。従って神様は、元来男と女を造られたとき、結婚して互いに協力し、対話し合い、付き合いながら暮らすように造られ、その中にいのちのお恵みが溢れるようにしてくださったのです。

それだけでなく、夫婦があってこそ子どもを生むことができるようになさいました。神様は数多くの子どもを得るようにと願われました。「創世記 1章28節」に、『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』と記録されています。それで神様の御心は、子どもを生み、神様の栄光のために立派に育てよ、と言うことであることを知ることができるのです。

夫婦の生活とは、必ず神様の御心通りに子どもを生み、養育しなければならないのです。ところが最近は、夫婦が対面したらいつも競争状態になりがちです。夫があり、妻がある故に、二人が出会ったらふたりが色々なことに対して、誰が先か、誰が後か、お互いに競争状態に入って行く危険が多いです。

しかし聖書を見ますと、「創世記 2章21節〜22節」に、『そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。』と記録しています。神様は男であるアダムのあばら骨で、女であるエバを造られたのです。

この頃の言葉で、夫が「お兄さん」であり、妻が「妹さん」になります。聖書がそのように教えてくれなくても、この頃の若い夫婦たちは結婚し、子どもまで生んでいながらも、妻は夫を「お兄さん」と呼びます。それは兎も角として、聖書的に見たら、男が先に生まれ、女が後に生れました。男性がリーダーとなり、女性が後ろをついて行くように造られたのです。

大概がどの家庭でも、女性がリーダーとなり、男性がその後ろをついて行ったら、その家庭は別に平安ではありません。特別な場合を除いては、男性がいつも先に立って進み、女性が後ろから助ける、それが神様が人間を造られた原理なのです。神様は、男性は助けを受ける者であり、女性は助けて上げる者として造られました。聖書に、「彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」と仰せられた、と記されています。

「創世記 3章 6節」を見ますと、もっとはっきり知ることができます。『そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。』と記録されています。

ご覧ください。先ず悪魔が女と対話し、女が善悪の知識の木の実を見て「まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くすると言う木の実」なので、女は先にその木の実を取って食べ、そして夫を説得して夫にも食べるようにしました。それで、いつも助けを受ける男は、助けてくれる女の言うことを聞いてから実践するのです。

なぜ、女性は「言葉が多いか」と良く言われます。元来、助けを受ける人より助けて上げる人が口数が多いものです。言葉数が多くてこそ、助けて上げることができるのです。学生たちを教える先生を見ますと、学生たちは助けを受け、先生は助けて上げる立場なので、先生の言葉数が多いのです。先生の言葉数が少なかったら、学生たちを教えることはできません。

夫を助けて上げなさい、として遣わされた妻でありますので、助けて上げるために口数が多く、すべての面で干渉するようになるのです。ですから、夫である男性の皆さん、奥さんが色々と干渉し、口数が多いとして不平を呟いてはいけません。神様がそのように造られたのですから、どうすることもできないのです。

神様は、妻を、夫を助ける「助け手」として造られました。ここで「助け手」と言うことをヘブル語では「エゼルケネクトク」と言います。この意味は、到底助けが無いことには持ち堪えることが不可能である、と言うことを意味します。従って、元来男性は、女性の助けが無しには持ち堪えることが困難であるように造られた、と言うことです。

妻の役割を指す言葉は色々と多様ですが、タルムード(Talmud)では、妻を「夫の家」だと言いました。夫は妻から休みを得る、と言うことです。またイタリヤの俗談には、「妻がない者は、葉と枝がない木と同じ」と言う言葉があります。妻の貴重さを立派に表現しています。このように、「助け手」として創造された妻は、夫には欠かせない存在なのです。

アフリカの聖者・アルベルト・シュバイツアー博士は、自分が有名になったのは一生の間一緒に暮らしながら内助してくれた妻の絶対的な功労によるものである、と彼の回顧録に記録しています。夫の勝利は、90%が妻の内助によると言われています。そのように、妻の助けが重要なのです。この世の歴史の中で、偉大なことを成就した人たちの背後には必ず、その人の母親や妻がいて助けた事実を私たちは良く知っています。

ある統計によりますと、朝の出勤のときに互いに抱擁し合いキスを交わす夫婦は、そうしない夫婦より平均寿命が5年も長い、と発表しています。ですから皆さん、旦那さんが出勤するときには必ず玄関の外まで見送りながら、キスして上げるようにしてください。5年は長生きします。憎かったらそうしなくても構いません。5年早くこの世を去るようになるだけです。

そのようにしたら自動車事故も著しく減ると言われています。会社の欠勤率も50%が減少し、収入は25%も増加するとも言います。朝の出勤時に1回抱いて上げ、キスして上げたら収入が25%も多くなると言うのですから、そのようにして上げる価値は充分にあると思われませんでしょうか。綺麗な妻は目を楽しませ、賢い妻は心を喜ばせてくれるものです。

この頃見ますと、若い男性は顔の綺麗で美しい妻を求めていますが、顔が美しいことは、何ヶ月も過ぎずに目に付かなくなります。心が優しく賢明な妻は、一生涯の間聖く、貴く、麗しく見えます。心が優しく善良な妻は、本当に宝物以上に貴重な存在なのです。

夫と妻の関係は、頭と肢体のような関係です。「コロサイ人への手紙 2章19節」に、『かしらに堅く結びつくことをしません。このかしらがもとになり、からだ全体は、関節と筋によって養われ、結び合わされて、神によって成長させられるのです。』と記録されています。

夫が頭となり、妻は肢体となるのです。順序としては頭が上であり、肢体は下であるとも言えますが、頭と肢体は一つで、一緒に動き、一緒に行動します。しかし肢体は頭に従順し、頭は肢体を導いていくのです。相互扶助的な関係ですが、いつも頭がリーダーシップを握らなければなりません。それで、頭は肢体を愛し、肢体は頭を尊敬しなければならないのです。

「コロサイ人への手紙 3章19節」には、『夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。』と記録されてあり、「コロサイ人への手紙 3章18節」には、『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。』と記録されています。ですから、旦那さんは奥さんを愛さなければならず、奥さんは旦那さんを敬わなければならず、お二人に任された、即ち神様が与えてくださった職分を確かに果たすとき、幸福な家庭を成して行くことができるのです。

旦那さんには、「エペソ人への手紙 5章25節」に、『夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。』と言われました。物々しい要求です。イエス様が教会を愛されるときには、教会の罪と咎を代わりに背負われて十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して聖潔にしてくださいました。苦しみを代わりに担ってくださったのです。今時の夫たちも、妻の人生のすべての重荷を代わりに背負って上げ、苦しみを堪えなさい、と言われたのです。

「エペソ人への手紙 5章28節〜29節」に、『そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。だれも自分の身を憎んだ者はいません。かえって、これを養い育てます。それはキリストが教会をそうされたのと同じです。』と記録されています。自分の身はいつも、食べさせ、着させ、洗い、そして休むように、真心を尽くして養い育てています。妻を自分のからだのように愛しなさい、と言われたのですから、夫は自分のからだを養い育てるように妻を養い育て、顧みて上げなければなりません。これは神様が命じられた命令なのです。

一方、妻には何と言われたでしょうか。「エペソ人への手紙 5章22節〜24節」に、『妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。』と記録されています。

皆さん、「従いなさい」と言う言葉は「服従しなさい」と言う言葉と同等で、とても強く強調された言葉です。「従順」と言う言葉は、自分が従いたければ従い、従いたくなければ従わなくても良いです。しかし「服従」は、無条件に従わなければなりません。良いときにも従い、良くないときにも従うのが服従です。

教会は、キリストに「従順」するだけでなく、「服従」しなければならなりません。主から「行きなさい」と言われたら行き、「来なさい」と言われたら来るのです。「立ち上がりなさい」と言われたら立ち上がり、「坐りなさい」と言われたら坐らなければなりません。教会がキリストに対して絶対に「服従する」のと同じく、妻は夫に対して「服従しなさい」と言われました。妻は気分が良くても、悪くても、夫に従わなければならないのです。

また神様は、夫と妻に対して同時に言われました。「エペソ人への手紙 5章33節」に、『それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』と記録されています。夫は自分の妻を愛し、妻は自分の夫を敬いなさい、と言われたのは、凄く強い語調です。

 こんにち数多くの家庭が破壊される理由は、夫が妻を愛さず、無視すると共に、妻が夫を敬わず、蔑視するからなのです。お互いに愛し合わず、尊敬し合わないから家庭が円満に経営されないのです。愛することと、敬うこと、この二つが連合されたら立派に家庭が経営されて行くのです。

皆さん、夫婦の法的関係を主ははっきりと聖書を通して言われました。「マルコの福音書 10章 6節〜9節」に、『しかし、創造の初めから、神は、人を男と女に造られたのです。 それゆえ、人はその父と母を離れて、 ふたりの者が一心同体になるのです。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。 こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。』と記録されています。夫婦は「神が結び合わせた」のです。

この頃は、夫婦の間で意見の相違が生じたら容易く家庭裁判所に行って離婚をします。しかし聖書は、「人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」と記録しているのです。神様が、死によって別れることは有り得るとしても、人が結婚問題に対して干渉してはならない、と聖書を通してきつく言っておられるのです。

神様はまた、離婚と再婚を厳格に規制しておられます。「マタイの福音書 5章31節〜32節」に、『また「だれでも、妻を離別する者は、妻に離婚状を与えよ。」と言われています。しかし、わたしはあなたがたに言います。だれであっても、不貞以外の理由で妻を離別する者は、妻に姦淫を犯させるのです。また、だれでも、離別された女と結婚すれば、姦淫を犯すのです。』と記録されています。

夫によって離別(離婚)されたら、妻には間違いがなくても他の男と再婚したら姦淫であると言われました。妻を捨てた夫も姦淫することになり、捨てられた妻が他の男に嫁いでいっても、それは姦淫であると言われたのです。それで、「コリント人への手紙 第一 7章10節〜11節」に、『次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。 ・・もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。・・また夫は妻を離別してはいけません。』と記録されています。

神様は、生きている間は絶対に離婚を許さないのです。お互いに意見が合わないので離別するのであったら、「離別するなら、再婚せずに各々ひとりで暮らしなさい。しかし心が変わったら、和解して元に戻りなさい。しかし離別した後に、夫が他の女性と再婚したらそれは姦淫であり、妻が他の男と再婚したら、それも姦淫することである。」と、神様はこの問題に関して少しも妥協することなく断固として言われました。

それにも拘わらずこんにち、状況によって離婚したいと言う人が余りにも多くあります。25歳〜35歳の未婚男女2,118名を対象に、「離婚に対してどう考えるか?」と設問調査したところ、未婚女性10名のうち9名、未婚男性10名のうち6名が、「状況によっては離婚しても構わない。」と答えたそうです。そして、「離婚は絶対にしてはならない。」と答えたのは、女性7%、男性26%に過ぎなかったと言います。

従って若い世代の家庭は、まことの意味を喪失してしまった家庭であると言っても過言ではないのです。彼らは神様を恐れないので、神様の戒めを完全に踏み躙り、全く無視してしまいます。それでは神様から審かれずにはいられません。神様から審かれる家庭が幸福であるはずはないのです。

 こんにち、黄昏(たそがれ)どきの離婚も増えてきました。統計庁発表によりますと、去年(2003年)、韓国人がもっともたくさん離婚した年齢が40歳前後の人たちであったと言います。黄昏どきの離婚が、前年より30%、10年前に比べたら驚くなかれ、10倍も増えたと言うのです。熱心に汗を流しながら暮らしてきた人たちが、40代、50代になってから「もう耐えられん。疲れた。嫌だ。別れよう…。」と言い出して、それからあっさりと未練なく離別するのです。

夫婦関係とは何でしょうか。20代には愛で暮らし、30代には努力で支えて行き、40代には忍耐で営んで行き、50代には諦めながら暮らし、60代になってからは憐れみ合い、感謝しながら暮らすと、言われています。60歳まで耐え抜いてみてください。そのときからは憐れみ合うようになり、感謝し合うようになります。妻が夫をみても憐れむようになり、夫が妻をみても憐れむようになるのです。初めは肉情で暮らすようになり、その次には人情で暮らすようになり、その次には同情し合うようになり、終いには感謝し合いながら暮らすようになるのです。

聖書には、再婚が許されるのは相手が死んだケース以外にはありません。「ローマ人への手紙 7章 1節〜3節」に、『それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期間だけだ、ということを知らないのですか。・・私は律法を知っている人々に言っているのです。・・ 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。 ですから、夫が生きている間に他の男に行けば、姦淫の女と呼ばれるのですが、夫が死ねば、律法から解放されており、たとい他の男に行っても、姦淫の女ではありません。』と記録されています。

「コリント人への手紙 第一 7章39節」に、『妻は夫が生きている間は夫に縛られています。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ主にあってのみ、そうなのです。』と記録されています。本当に夫が心に召さないなら、早く天国に行くように祈りながら待つようにしてください。夫が死んだ後には、自分の願い通りに気に合う人と再婚しても、神様の御前に罪とはなりません。夫が生きている間は、いくら憎くてもその夫と離別して他の男のところに行ったら姦淫することになります。神様の審きを免れることができないのです。





第三、幸福な夫婦になるためには

第3番目に、幸福な夫婦になるためには私たちはどうのような努力をしなければならないでしょうか?皆さん、すべての夫婦は幸福を目標にして歩調を合わさなければなりません。夫婦は一緒に暮らすのですから、いつも相手を意識しながら歩調を合わせて生きて行かなければならないのです。

独りで暮らすときは、自分の思いのままに、自分の生活のリズムに従って生きたら良いです。しかし相手があって一緒に暮らすときには、独り暮らしではないのですからお互いを意識し、歩調を合わさなければなりません。

私は、結婚式の時によく言います。小学校の運動会で見られる競技ですが、二人三脚と言うのがあります。二人が各々片っ方の足を縛り合わせて走らなければならないので、一人がよく走るとして必ず勝つと言うことはありません。一人があまり早く走ったら、もう一人の走者は倒れます。また、一人が走れないとしてあまりにも遅かったら、もう一人の走者はその人に引っ掛かって倒れます。どうしなければならないでしょうか?二人が歩調を合わさなければなりません。

自分だけを考えずに、相手をいつも意識しながら「いち、に、いち、に…」とお互いに歩調を合わせたら一緒に早く走って行くことができます。夫婦と言うのは二人三脚競争と同じものです。相手をいつも意識しながら歩調を合わせて生きて行かなければならないのです。

「箴言 17章 1節」に、『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。』と記録されています。乾いたパン一切れを分けて食べながらも睦まじく、和やかで、愛がある家庭は、山海の珍味のご馳走を食べながらもいつも憎しみ合い、争い合う家庭よりはるかに幸福である、と言うことです。

また「ピリピ人への手紙 2章 2節」に、『私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。』と記録されています。「テサロニケ人への手紙 第一 5章13節」には、『その務めのゆえに、愛をもって深い尊敬を払いなさい。お互いの間に平和を保ちなさい。』と記録されています。

心を合わせ、志を一つにして、お互いの間に平和を保つことは、人が望むとして自然にできるものではありません。お互いに凄く努力しなければならないのです。私たちが一緒に生きて行くためには、相手をあるそのまま受け入れる訓練を積まなければなりません。性格の差が無い訳がありません。育ちが他人であった男女の性格がどうして同じでしょうか。育った環境が違い、社会的な訓練も異なり、そして男女の差があり、生体的にも異質であり、それで性格が合うはずがないのです。

一匙の飯で腹がいっぱいになるでしょうか。男女が一緒に暮らすためには初めから相手をあるそのまま受け入れなければならないのです。「ローマ人への手紙 14章 1節」に、『あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。』と記録されています。

また「ローマ人への手紙 15章 1節〜2節」には、『私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。』と記録されています。隣人をいつも意識し、隣人を喜ばせて上げ、そして徳を高めなさい、と言われたのです。

また「エペソ人への手紙 4章 2節」に、『謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い…、』と記録されています。「私の思った通りにする。」「私はあなたを赦すことができない。」「なぜ、私の言う通りにしないのか。」と互いに受け入れなかったら、いつも衝突するようになるのです。キリストの十字架の愛を受け入れ、その前で謙遜にへりくだり、柔和な心で長く忍耐し、相手を受け入れてこそ、男女が夫婦として一緒に暮らして行くことができるのです。

離婚事由の中で断然と多いのが性格の差異です。45.3%が性格の差異で離婚すると言われています。その言葉を裏返しすれば、少しも相手を理解することができないと言うことです。男女は意思疎通の問題だけでなく、情緒的欲求、行動方式などからも根深い差異があります。それで円満な夫婦関係を維持する為にはお互いの差異を認め、理解しなければならないのです。

例を上げれば、仕事をするときにも男性は目標志向的なので業績と結果を重要視しますが、女性は関係志向的ですので過程を重要視します。また男性は、右の脳が発達しているので時間と空間を分別する能力が秀でており、女性は左の脳が発達しているので言語能力が優れています。それで駐車させるときには、妻が運転するよりは夫が運転するほうが事故を起こす確率が少ないとも言われているのです。

しかし、他人と言い争いをするときには夫は表に顔を出さず、妻が表に出なければなりません。女性は凄く喋るのが上手だからです。口喧嘩をするとき、夫が勝つのを見たことがありません。夫婦喧嘩でも特に口争いの場合には、夫が百戦百敗します。なぜかと言えば、女性は驚くほどに左の脳が発達しているのでとても口達者だからです。

男性は感情の表現が拙いだけでなく、表現を抑制する傾向があります。感情を受け入れることにあっても防御的です。反面、女性は感情の表現が上手ではありますが、気持ちの起伏が甚だしいので憂鬱症にかかることもあります。男性は公的な場所で言葉数が多い反面、女性は私的な場所で言葉数が多いです。男性は理性的、論理的、客観的な性向が高いのですが、女性は感傷的、非論理的、主観的な性向が高いです。

このように、男性と女性は情緒的に、構造的にとても違います。それで幸福な夫婦生活を営むためには、男女の基本的差異を認め、お互いに理解し合わなければならないのです。同じ「人」であることに間違いはないのですが、性格的な差異はお互いに認めなければなりません。男は男であり、女は女なのです。男が火星から来たとすれば、女は金星から来たほどに両者は違うのです。

夫が自分の妻を自分に似るように作ろうとしてはいけません。お互いに自分の気に入るように作ろうとしては絶対に駄目です。根本的に、神様が違うように造られたからです。お互いに相手をあるがままに認め、受け入れてこそ、平和に暮らすことができます。

「ペテロの手紙 第一 3章 1節」に、『同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。』と記録されています。「ペテロの手紙 第一 3章 7節」は、『同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。』と記録しています。

妻も夫に服従し、夫も妻を尊敬し、お互いを認め合いながら暮らして行かなければならなりません。相手を作り直そうと考えてはいけないのです。いつも理解し、そうした後に相手の歩調に調子を合わせようと祈り、努力しなければならないのです。

そして、お互いに非難してはいけません。夫婦が一緒に暮らして行きながらお互いの弱点を暴き出して非難したら、絶対に円満な家庭雰囲気の中で夫婦生活を営んで行くことはできません。人は誰もが皆、過去、現在を問うことなく罪を犯し、咎があるものです。その罪とか咎とかをほじくり出して攻撃したら、人は自ら惨めな存在になってしまいます。夫も、妻も、惨めさで悲嘆にくれるようになってしまうのです。そして、自分の自尊心が踏み躙られることから益々対決するようになってしまいます。

「マタイの福音書 7章 1節と3節」に、『さばいてはいけません。さばかれないためです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。』と記録されています。いつもこの御言葉を覚えていてください。兄弟の罪や咎は「目の中のちり」だと言われました。そして自分自身のそれは「目の中の梁」だと言われたのです。また、私たちが他人に指差したら、指1本は相手を指しますが、指3本は自分を指しています。自分が相手をさばいたら、自分は三重のさばきを受ける立場に置かれると言うことです。

「エペソ人への手紙 4章32節」に、『お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。』と言われました。私たちは人生を生きながら、いつも相手を憎まず、赦し、愛さなければなりません。赦しがないことには決して人生を生きていくことはできないのです。夫婦間では特にそうです。互いに赦し合い、憎み合うことがないように努力しなければならないのです。そうしてこそ家庭も円満、隣人とも円満に暮らして行くことが出来るのです。

私たちの教会に出席しているひとりの姉妹さんから、このような証しを聞きました。その姉妹さんは旦那さんと長い間争い続け、家庭が破綻直前にまでなりました。ところが或る日、礼拝時間に私が「いつも夫を褒めて上げ、敬いなさい。」と言うメッセージを聞いたと言います。それでその日から、夫を褒めて上げ、敬って上げることに決心しました。

家に帰って、夫を褒めて上げようとしましたが、いくら探しても褒めて上げるだけの種が一つも見つかりませんでした。欠点はいくらでもありますが、褒めて上げる材料が何もないので、姉妹さんは祈り始めました。「主である、父なる神様!夫を褒めて上げ、敬って上げながら家庭の平和を取り戻して行きたいのですが、先ず褒めて上げるだけの種が一つも見つかりません。全知全能なる神様!私の目を開いてくださって、夫を褒めて上げる種を見つけることができるように助けてください…。」

その日の夕方、夫が退勤して来てシャワーを浴び、不断着に着替えてTVを視聴していましたが、いつになく表情が柔和で、優しく、美男子に見えました。その上に、夫が着ているシャツも良く似合い、素敵な男性に見えました。それで夫の傍にくっついて坐りました。そして口を開きました。「あんた、今日は他人のように見えるわ…!」

すると夫がいつもと変わらずに、「馬鹿言うな。同じ人間だよ。」と、振り向きもせずにつっけんどんに答えました。それでも姉妹さんは決心した通りに、愛嬌たっぷりに「ホント、今日はあんた、美男子よ。シャツも良く似合うし、今まであんたがこんなに素敵に見えたことがないわよ!」と褒めて上げました。すると夫がTVから目を姉妹さんの方に移して言いました。「おい、お前、何か変なものでも食ったか?」

それでも姉妹さんは言い続けました。「私は今まで、あんたがそんなに美男子とは知らなかったわよ。今日よ〜く見ると、あんたと結婚してよかったとつくづく感ずるわ!」すると夫が声を出して笑い、「きみ、気が変になったんじゃないか…?」と答えながらも、しかし夫の表情が明るくなったのを見て、姉妹さんは部屋に入って行き、ベッドに仰向けになって主に感謝しました。「愛であられる主よ!感謝します。成功しました。これはみな、神様のお助けによるものです。主よ。感謝します。」

その日から、姉妹さんはしきりに夫を褒め上げ始めました。すると夫もだんだんと温和になり始め、心が開かれて、姉妹さんに優しく柔和に対してくれるようになり、家庭の氷が溶けて行き、遂に睦まじくなったと言いました。

皆さん、私たちが幸福を願うのであれば、お互いの欠点や短所を暴かずに、すべてを赦しで覆って上げ、愛で向かい合い、長所を取り上げては褒めて上げなければなりません。褒め言葉は、機械に油を差すのと同じです。私たちが一緒に暮らしながら、お互いに完全な人格者同士ではないのですから、いつも意識的に忍耐しなければならないのです。何かでぶっつかり合うとして、そのまま反応しては夫婦生活は幸福にはなれないのです。

「コロサイ人への手紙 3章12節〜13節」に、『それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。』と記録されています。

人生は、忍耐することが何よりも重要です。忍耐しなかったら、すべてが終わりです。農業も、事業も、家庭も、忍耐し、忍び合ってこそ、立派な結実を得ることができるのです。性急で短気で怒り勝ちだったら、何も得ることができません。

ですから夫婦生活というものは、忍耐し合い、愛し合うことです。心から深く、相手の罪や咎を赦し、カバーして上げ、支え合いながら暮らしてこそ、幸福な家庭生活を営むことができるのです。皆さん、相手が外出から帰宅したとき、玄関まで飛び出していって抱いてあげることが愛ではありません。愛する気分が起こったら愛し、そうでない気分の時には愛さない…のでは、幸福な人間関係、幸福な夫婦関係を成して行くことはできないのです。

また、心に覚悟しなければなりません。私はいつも赦して上げる。1日に7度を70倍するまでに相手を赦して上げるとする覚悟をしなければならないのです。そして憎まないとも覚悟しなければなりません。これが愛です。そうしたら、円満な家庭、幸福な夫婦生活を維持して行くことができるのです。

「コロサイ人への手紙 3章14節」に、『そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。』と記録されています。また「ペテロの手紙 第一 4章 8節」に、『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』と記録されています。

憎しみはすべてを裸にします。憎んだらすべての咎と欠点をみな暴き出して相手を裸にします。妻が夫を裸にしたら、夫が黙っているでしょうか。夫が妻を裸にしたら、妻が黙っているでしょうか。人は皆自尊心がありますので、自分の人生にあって隠したいことが色々とあるものです。それをしきりにほじくり出して裸にしたら抵抗するようになり、遂には破壊されてしまいます。「愛は多くの罪をおおう」と言われました。愛は相手をおおって上げるのです。相手のプライバシーに指を触れないことです。

妻の実家の家族たちの欠点を暴き出したら、夫婦は仇敵のようになります。嫁ぎ先の家族の欠点を間断なく口に出したら、その妻と夫との間は冷め、遠くなります。人間は不完全極まりない存在です。罪と咎が限りなく多い存在なのです。ですから夫婦はお互いにおおって上げなければなりません。お互いに爪を立てて引っ掻き始めたら、血みどろになるだけです。そしてお互いに支え合わなければなりません。幸福な家庭を成して行くためには、皆さん、互いに愛さなければなりません。

夫婦の関係を30分間のうちに説破することが出来ると言うのは嘘です。私は結婚して40年になりますが、未だに妻が研究対象であり、幸福な夫婦関係のために私は今も努力中です。40年間を一緒に暮らして参りましたが、まだ妻がどういう人なのか判りません。神様がそのように違うように造られたのです。しかし皆さん、「夫婦十戒」があります。今日はこの「夫婦十戒」を説明することで、メッセージを終えることに致します。「夫婦十戒」とは何でしょうか?

第1に、二人が同時に怒りを発してはいけません。共に怒ったら、火山のように爆発してしまいます。それで一人が怒ったら、一人は黙っていなさい、と言うことです。自分も怒りたかったら、後で、相手が静かになった時に怒ることです。

第2には、家に火事が起こった場合以外には、大声を出してはいけません。火事が起こったら「火事だ〜っ!」と大声で叫んで構いませんが、それ以外には、順々と理を追って話し、落ち着いて、高く大きな声を出すな、と言うことです。興奮したときとかは中々難しいことです。しかし、そうしなさいと言うことです。

第3は、目があっても相手の咎は見るな、口があっても相手のしくじりは話すな、と言うことです。目があっても相手の咎は見て見ぬふりをし、口があっても相手の失策を口には出さないことです。

第4は、夫や妻を他人と比較するようなことを言ってはなりません。「悲しいかな。誰々のお父さんはこうなのに、あなたは何故、そうなんだい…?」「誰々の奥さんはほっそりしていて、綺麗なのに、お前はそれが何だっ?太っ腹で…。」こうなったら、相手の自尊心に深刻な打撃を与えるようになります。

第5には、相手の痛いところを突っつくとか、相手の父母・兄弟の悪口を言ってはいけません。誰にも、触れたくない痛いところがあるものです。誰もが弱点を持っているのです。それを突っつくとか、相手の父母・兄弟の悪口を言ったら、誰もが喜びません。

第6には、日が暮れるまで憤ったままで居てはならず、憤ったまま寝床に入ってはいけません。私たちの教会の聖徒さんの一人に、「家庭が幸福に暮らす秘訣を話してください。」と言ったところ、日が暮れるまで憤らず、憤ったままで寝ては駄目ですと言いながら、「私たち夫婦は喧嘩をしても、日が暮れかけたら私が、“お〜い、日が暮れるよ〜”と言い、そうしたら妻が“分かりましたよ〜”と答えます。夕食時には二人とも憤りを消して食事をします。」と答えてくださいました。聖書「エペソ人への手紙 4章26節」に、『怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。』と記録されています。

その次の第7は、夫婦最初の時の愛を忘れず、年取ってもほめて上げるべき「ネタ」を探さなければなりません。人が恋愛当初の愛をいつまでも継続することはとても出来ないことです。結婚していくらか過ぎたら、当初の熱烈な愛はいつの間にか冷めかけていくのが人間の愛です。ですから夫婦は、当初の愛をいつも顧みながら、また相手を褒めて上げることに努力し、激励して上げながら暮らして行きなさい、と言うことです。

第8は、相手を騙すとか、嘘を言ってはいけません。お互いに騙したり、嘘を言ったりしたら、背信感を感ずるようになるのです。そして、その次には心に傷を負うようになりますから、絶対に騙したり、嘘を吐いたりしてはいけないのです。

第9は、喧嘩でもした時には自ら自尊心を砕き、先ず悔い改めることです。これは非常に難しいことです。夫婦が喧嘩をした後に、先に悔い改めることは凄く難しいことです。大概の場合、男性が先に悔い改め、女性が後で悔い改める傾向が多いです。夫婦が喧嘩をしたなら、誰か一方が先に「済まない!」と謝ってこそ、収拾がつき始めるものです。二人が互いに自尊心を立てたら決して収拾がつきません。

第10には、家庭制度の創始者であり、夫婦の仲立ちでもある神様を信じ、拠り頼み、いつも神様に助けてくださいと祈らなければなりません。家庭が円満に営まれ、神様に助けてくださいといつも祈ったら、その家庭は幸福な家庭になるのです。




お祈り

愛であられ、聖き、わが神様!神様が天地を造られ、人間を造られるとき男と女とに造られました。そして、男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となると仰せられました。二人が一緒に暮らしますので、色々な試練と艱難と苦痛と苦悩が押し寄せて来ます。

しかし、全知全能であられる、父なる神様!私たちがお互いに理解し、同情し、忍耐し、憐れみ合い、愛し合って、神様が与えてくださった家庭を幸福な家庭として営んで行けるように助けてください。

夫婦がいつも幸福な夫婦として生きて行けるように、最善の努力を傾注する私たちとなり、幸福な家庭を通して神様に栄光をお帰しすることができる夫婦となるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!