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「若い日に、あなたの創造者を覚えよ」
 






■聖書箇所

「伝道者の書 12章 1節」
12: 1 あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。





今日は、「2004年5月16日・青年主日」です。『若い日に、あなたの創造者を覚えよ』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

神様は、人類の歴史と運命を変える偉大な福音伝播事業を、平凡と言うよりむしろ卑賤でみすぼらしい漁村の青年たちに任せられました。イエス様の弟子たちの年齢は、20歳から30歳のあいだの若い青年たちでありました。イエス様は、この人たちを3年余のあいだ教えられ、訓練させられた後、全天下に福音を宣べ伝えなさい、と命令なさいました。

その当時は、こんにちのような交通手段も通信施設もなく、すべてが原始的でありました。そのような環境の中にありながらも、彼らは主の命令を成就しました。どうしてかと言えば、彼らは若い青年たちであったからです。青年のときは、すべてのことに熱誠的であり、何でも遂行することができるときであり、まことの心から奉仕することができるときであったからです。イエス様は33歳のときに、世を救うご使役を完了なさいました。

フランシスは23歳のときに悔い改めて救われ、25歳のときに修道院を設立しました。ジャリエルは28歳のときにイエス会を組織し、ルターは22歳のときに悔い改め、33歳のときに宗教改革を断行しました。カールビンは27歳のときに不朽の名作であるキリスト教綱領を完成しました。ジョン・ウェスレーは35歳のときに監理教を創設し、18世紀の堕落したイギリスを福音で救いました。

ブースは15歳のときに救われて、46歳のときに救世軍を創設しました。チャールス・スポールゾンは16歳のときに回心して、霊魂を目覚ませる説教者になりました。ジョージ・ウィットピートは22歳のときに世界的説教者となりました。ムーデェイーは18歳のときに救われ、19世紀の眠っているアフリカを立ち上がらせた福音伝道者になりました。

青年期の回心時期を見ますと、14歳から25歳のあいだが最もたくさん悔い改めてイエス様を信じ始めました。女性の場合は13歳から16歳のあいだに最も多く悔い改めてイエス・キリストを信じるようになると見られています。神様は青年たちを救われて、彼らを通して天の御国の偉大な事業をなさいます。





第一、神様に仕える青年になりましょう。

第1番目に、聖書は「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ」と記録しています。若いときには、血気旺盛で自分の知恵と聡明、自分の才能に拠り頼み、神様に拠り頼もうとしないときが多いです。モーセがまさにそうでありました。モーセはパロ王の宮廷ですべての学術を教わり、言葉と行動が知的な青年として育ちました。

モーセが40歳になったとき、彼は自分の同族を救おうとして神様に呼ばわり祈らずに、自分の腕力でイスラエルを救えるものと思ってエジプト人を殴り殺して砂の中に隠しました。このことが暴露するやモーセは逃げ出しました。パロ王はモーセを捕えて殺そうとして捜し求めました。モーセはミデヤンの荒野に逃げ延び、そこで牧童として40年間苦労しました。

モーセが年80歳になったとき、神様がモーセに現れて、彼をご使用なさるようになりました。そのときは、モーセがどんなに砕かれて謙遜になり、へりくだっていたか、彼は神様にこう言いました。『モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」』(出エジプト記3:11)そのとき神様はモーセをご使用して、430年間エジプトで奴隷生活をしていたイスラレル人を連れ出して乳と蜜の流れるカナンの地に導いて行くようになさったのです。

皆さん、「ペテロの手紙 第一 5章 6節」に、『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』と記録されています。若いときに創造主を覚えて、神様に仕える生活を営むことが人生を成功的に生きる秘訣となるのです。

皆さん、青年の時に神様に仕えなければなりません。年取って疲れ、くたびれて元気がない、そんな時に神様に仕えるのでは神様が大いなるみわざを働かすことができません。若い青年のときに、正義感に満ち、敬虔になって神様に仕えたら、神様がご使用なさる鋭い打穀機と同じようになることができるのです。

「詩篇 111篇10節」に、『主を恐れることは、知恵の初め。これを行なう人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。』と記録されています。同じく「詩篇 119篇 9節〜10節」には、『どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。私は心を尽くしてあなたを尋ね求めています。どうか私が、あなたの仰せから迷い出ないようにしてください。』と記録されています。

皆さん、青年のときに神様から救いを受けたら、その青年は生涯を通して人類のために大いなることを成就することができるのです。YMCAの設立者であったイギリスのジョージ・ウィリアムズは、16歳になる年に神様に献身しました。彼はイエス様の救いに対して、喜びに溢れて次のように祈りました。

「神様!私のからだとたましいをすべて捧げて、主のために生きるようにしてください。主が十字架で死なれることによって、私のような罪人を救ってくださったことを思うとき、私はどうしたら良いか分かりません。」

当時イギリスは産業革命以後、混乱の渦中にあり、青年たちは世俗的な誘惑に落ち込んでおりました。ジョージ・ウィリアムズは同年輩の若者たちと一緒に寄宿舎生活をしていたので、世俗的な遊戯にたやすく溺れこむはずであったのですが、16歳のときにイエス様を心の中に迎え入れ、イエス様が彼の心の中におられたので、彼は世俗の流れに浮き流されることがありませんでした。

彼は、自分を節制し、毎月収入の7%を宣教献金として捧げました。結局彼は、22歳になったその年に11人の青年たちと共にYMCAを創設し、混乱した社会の中で彷徨する青年たちの精神的、霊的...改善を成す偉大な業績を残すことができました。ですから皆さん、青年時代に救っていただいて夢を抱けば、人が想像することのできない偉大な働きをすることができるようになるのです。若いときから神様に従順に聞き従う人生を生きることが、もっとも大きな幸福です。

「申命記 30章19節〜20節」に、『私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。』と記録されています。

神様は、私たちに「あなたもあなたの子孫も生きるために、いのちを選びなさい。」と仰せられました。「いのちと祝福を選び、死とのろいを選んではならない。」と言うことです。青年のときにいのちと祝福を選び、死とのろいを遠退け、神様を畏敬し、御言葉に従順に聞き従ったら、神様が「たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る器にしてくださる」のです。

そして、青年のときに神様を大胆に信じ、神様が同行してくださったらどんなに美しく、嬉しいことでしょうか。「箴言 3章 5節」に、『心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。』と記録されてあり、「ピリピ人への手紙 4章13節」には、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と記録されています。

アメリカの実業家であり、郵政省大臣を勤めたジョン・ウォーノーメイカーは、生前に百貨店王と呼ばれた人でありました。彼は未来を予測する卓越な判断力と正確な経営能力の所有者で、彼が投資して購入した商品はいつも最高の収益を創出する凄い企業家でありました。或る日、ひとりの新聞記者が彼に質問しました。「先生、先生が今まで投資した企業の中でもっとも成功したのは何でしょうか?」

すると、彼は確かな語調で答えました。「それは、私が12歳のときにした投資です。そのとき私は、2ドル50セントを払って聖書を一冊買いましたが、これが私の人生の中でもっとも偉大な投資でありました。なぜかと言えば、この聖書が今日の私を作ったのです。」彼は貧しい少年時代に、聖書を読みながら夢を育てました。彼の成功秘訣はまさに、神様を信じ、聖書の教えに従順に聞き従ったので成就されたのでありました。

青年のときに神様を信じ、従順に聞き従いながら謙遜に仕えた人は、必ず勝利の人生を生きることができるようになるのです。





第二、夢がある青年になりなさい。

第2番目には、青年のときに心の中に夢を抱かなければなりません。夢がある青年にならなければならないのです。「使徒の働き 2章17節」に、『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。』と記録されています。

夢と幻は、人生の目標と方向を提示します。私たちに夢もなく、未来に対する幻もないとしたら、行く道を失ってしまって彷徨うようになるのです。深い山の中で道を失ってしまい、東西南北を分別することができず、山の中で彷徨うようになったら、そこで死ぬようになってしまいます。人生も同様です。

人生とは、競争が激しく、限りなく至難な世の中であっても、夢があり、幻があったら、それに向かって走って行くことができます。しかし夢がなかったら、放縦に暮らすようになります。酒に酔っ払い、放蕩し、世俗に巻き込まれて生きていきます。「箴言 29章18節」に、『幻がなければ、民はほしいままにふるまう。しかし律法を守る者は幸いである。』と記録されています。

夢があってこそ、人生の意味と価値を知ることができます。自分に夢があるために自分が生きることに意味があり、価値観を持つことができるのです。いくら人生が難しく、骨が折れ、疲労困憊し、多くの人たちから認めてもらえなくても、その人には確かな夢があり、幻があり、未来があるために、それに向かって一心に走っていくことができ、人生の価値、人生の意味を持つことができるのです。夢が青年たちに意味と価値を付与するのです。

テンプル大学校を創立したラッセル・コーネル博士は、第1次世界大戦が終わりかける頃にアメリカの百万長者4,033名の生涯を調査してみました。調査結果、おどろくことには4,033名のうち高等学校以上を卒業した人は僅か69名しかおりませんでした。彼らは富豪になるまでお金と教育など裕福な生活をしてはいませんでした。ところがコーネル博士によれば、彼らの生涯には他の人たちとは違う点があったと言います。

それは、たとえ高等教育は受けておらず大学卒業状は持っていませんでしたが、彼らには確固とした夢と目標があったと言うのです。彼らは確かな夢と目標を持っていて、それの完成がために全力投球し、それで成功した人生を生きることができたと言うのです。ですからこんにち青年たちは、環境が悪くて教育を受けることができず、高等教育を受ける機会がなかったのですが、それがその人の人生を左右するものではないと言うことを、皆さんは心に刻み込んでおかなければなりません。

神様に拠り頼み、心に確固とした夢と目標を持って全力投球したら、神様がそのような人を祝福してくださって、かしらとならせ尾とはならせず、ただ上に居らせて下へは下されないようにしてくださるのです。そして貸すことはあっても、借りることはないようにしてくださるのです。夢と目標があってこそ努力し、喜んで犠牲を払うことができるようになるのです。

自分に望む夢があったら、他人が寝るとき自分は眠らずに努力し、他人が遊びまわるときに自分は遊ばず、勉強するようになります。偉大な法律家になりたかったら、熱心に勉強しなければなりません。偉大な政治家になろうとしても、そのような人は成功することができます。夢があったら、目標に向かってどんな犠牲も受け入れ、努力して、成就させることができるのです。

「ヘブル人への手紙 11章 1節〜2節」に、『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。』と記録されています。望むことが夢なのです。夢があってこそ信仰を持つこともできます。皆さん、アブラハムをご覧ください。

アブラハムは75歳のときに神様から召されました。そのときまで彼は、平凡な田舎の老人でありました。学問もなく、教育も受けていません。動物を飼う牧童でありました。75歳の老人ですから、頭の髪の毛も白くなっており、目も遠くなっておりました。腰も曲がりかけており、皮膚もがさがさしてきれいでありません。胸には肋骨が露わに見えます。そのようなときに、栄光の神様が彼に現われました。そして彼に夢を与えてくださいました。

「あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」と、神様がアブラハムに仰せられました。何も知らない田舎の老人アブラハムは、神様が与えてくださる夢を受け入れました。そうするやその夢が彼を完全に変化させました。アブラハムは自分の年も忘れてしまいました。自分は教育を受けていないことも忘れてしまいました。自分の環境がどのようなものであるかも忘れてしまいました。

夢がアブラハムを変化させて、彼に新しい勇気と力を与えました。彼は自分の家族を引き連れて、行き所がどこかも知らずに、神様がお告げになった通りに出かけて行きました。皆さん、夢は私たちを新しくします。私たちが夢を抱くと言うよりも、夢が私たちを造って行くと言っても過言ではありません。皆さんが夢を抱けば、神様は聖霊を通して皆さんを造って行かれるのです。

ガンディーは、「夢の無い人は、死んだ人である。」と言いました。トーマス・カーライルは、「人間は夢に基礎をおいた存在である。私の所有をすべて奪われることがあっても、私はただ一つ、夢を持つことを願う。」と言いました。すべての所有を失うことがあっても夢を持っていたら、その夢を通して偉大な人生を再製造することができるからです。





第三、信仰がある青年になりなさい。

第3番目に、「夢がある青年になりなさい」と、私はおすすめしたいです。アダムには、信仰とは自然なものでありました。なぜなら、神様の形通りに造られましたので、そして神様と共に暮らしますので、神様を信ずることは難しいことではありませんでした。幼い子どもが父母を信ずることは何にも難しいことではありまえん。父母が産んでくれ、育ててくれるので、父母の愛の中で父母を信ずることができます。

ところが、アダムとエバが堕落して永生を失い、神様との交わりが断ち切られました。神様から追い出されました。そうなるや、彼らが拠り頼むところは自分の理性と感覚しか頼るところが他にはありませんでした。霊的なことは全く知ることができず、悟ることもできなくなりましたので、彼らの心に神様に対する疑いが入り、不安が襲ってくるようになりました。

「ローマ人への手紙 8章 5節〜6節」に、『肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えますが、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。』と記録されています。また「ローマ人への手紙 1章22節〜23節」に、『彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。』と記録されています。

人たちは、霊的に神様との交わりが断ち切られましたので、神様に対して何も全く知ることができなくなったのです。それで人間の理性と感覚によってだけ生きるようになり、信ずることも、見ることができ、聞くことができ、手に触れることができる偶像、邪神を作って、その前にひれ伏して拝むようになったのです。合理的に信じ、感覚的に体験することができないことは到底信じることができなくなったのです。

神様が宇宙と万物を造られたと言われても、神様がどこにあるか?神様を見たことがないのにどうして信ずることができるか?と言うのがこの世の人たちです。しかし皆さん、「ヘブル人への手紙 11章 3節」に、『信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。』と記録されています。

私たちが見る太陽も、月も、自ずと自然と生成したものではありません。この地も、山川草木も、昆虫類も自ずと自ら作られたものではないのです。その背後には目に見えない主の権勢と御力とによって創造されたのです。それを、イエス様を信じる私たちは容易に信ずることができます。しかし霊が死んでいる人たちは、神様が居られることを悟ることができず、認めないので、絶対に信じようとしません。神様が天地と万物を造られたと言うことを彼らは信じず、是認しようともしないのです。

世界的な伝道者ビリー・グレアム牧師は、学生時代に自由主義神学を教える学校に通ったことがあります。同牧師先生は、聖書を理性的、論理的に批判する講義を聞きながら信仰がぐらつき始めました。遂には、聖書が神様の御言葉であると言う事実が信じられなくなりました。この問題で悩んでいた牧師先生は、聖書を携えてシカゴにあるフイットン森林に入って行きました。そして、そこにひれ伏して祈りました。

「神様!私が自由主義神学に接してから、色々な疑心が生じ始めました。しきりに理性的に研究するうちに、もう聖書の御言葉が信じられません。私は説教する意欲も失ってしまい、心の中には疑問でいっぱいです。これをどうしたら良いでしょうか?」涙を流しながら切に祈っていましたが、そのとき、心に聖霊さまの御声が聞こえて来ました。「御言葉を信じなさい。そしてその通りに宣べ伝えなさい…!」

その瞬間、牧師先生の心の中が突然と明るくなりました。それから、次のような思いに満たされ始めました。「人間が、知ったとしてどれ位知ることができようか。私の小さな理性で、神様の真理を評価することは絶対にできないのだ。そうだ。神様の御言葉は人間が評価することができるものではない真理なのだ。これからは、ひとえに神様の御言葉をその通りに信じて、従順に聞き従おう!」彼はそのように決心して、それからは一切の疑心を捨て、御言葉を全的に信じ、福音を宣べ伝え始めて、結局はアメリカと世界を動かす偉大な主のしもべになってしまったのです。

皆さん、私たちの神様の御言葉に対する信仰は、聖霊によってだけ持つことができるのです。悔い改め、イエス様を信じて、新しく生まれないことには、どのような教育を受けた人も、どのような学位を持った人も、それだけで神様の御言葉の真理を悟ることはできません。死者は、何も見せることができず、何ものをもいじることができません。霊的に死んでいるのですから、霊的なことを知ることができないのです。

霊的なことは、霊的によってだけ知り、分別することができるのです。信仰は、ただ霊が新しく生まれて生き返り、聖霊が臨んでくださるときに生じるのであって、霊が死に、聖霊が共にいてくださらないことには、霊的世界を信じることはできないのです。それは、盲目の人にいくら美しい色彩を説明しても弁別してもらえないことと同様です。見えないのですから、知りません。霊的に死んだ人は、神様がどこにいるか?イエス様の恵みとは一体何か?全く分からず、いくら説明しても信じられないのです。

悔い改めて、イエス様を救い主として受け入れ、霊が生き返ってこそ聖霊によってすべてのことを悟り、知ることができるようになるのです。

「コリント人への手紙 第一 1章18節〜25節」に、『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。』と記録されています。

イエス・キリストは、神様の御力であり、神様の知恵です。神様は実にそのひとり子をお与えになった程にこの世を愛されて、御子イエス様を私たちの代わりの犠牲の供え物として十字架で死なせ、それによって流された尊い血潮を通して私たちを新生するようにしてくださり、生きる希望を持つことができるようにしてくださいました。そして神様の子としてくださったのです。

私たちは、神様の子として新生してこそ、私たちのお父さまである神様を知ることができます。神様の子として新生しない人は、神様を知ることができず、イエス・キリストの十字架が愚かなものに見えるのです。私たちが信仰で生き通すときに、神様が私たちを新しく生れるようにしてくださるのです。

しかし私たちが、イエス様を信じ、救われて、聖霊のご臨在にあずかっても、私たちの信仰は常に戦争するようになります。なぜかと言えば、悪魔が絶え間なく私たちに疑心を持つように攻撃するからです。私たちの五感を通して、環境を通して、悪魔はひっきりなしに私たちを攻撃し、揺り動かします。それで数多くの人たちが主を信じながらも、疑いを持ち、疑いながらも主を信じ、そのような中で人は生きているのです。

アブラハムも同様でした。アブラハムが神様のお召しによってカナンの地に到着しましたが、カナンの地は凶年で雨が降らず、井戸も乾ききっており、草がすべて枯れていたので牛も羊の群れも飢え死にし、一緒に来たしもべたちと親類の者たちはみな故郷の地に戻って行ってしまいました。アブラハムは彼の妻とロトと共にそこに残りました。神様は確かにカナンの地に行きなさいと言われたのですが、そこは飢饉の地でありました。アブラハムの信仰が揺れ動きました。

環境があまりにも極悪でしたので、アブラハムは色々と迷い始めました。彼の信仰が試練に会ったのです。彼は遂に先ず生きていく道を探して、妻と一緒にロトを連れてエジプトに下って行きました。神様はアブラハムに、エジプトに下って行きなさいとは言われなかったのです。アブラハムはエジプトに下って行って、そこで妻も奪われたりする最悪の目に会いました。信仰の祖先とも呼ばれるアブラハムのような信仰の人も、難しい環境に出会ったら信仰が揺れ動き、大いに迷って間違った道に踏み入ることもあります。

しかしアブラハムは、深く悔い改めて再び戻って参りました。彼がカナンの地に帰って来て暮らすうちに年85歳になりました。そのとき、彼はまた迷いました。彼には子どもがないので相続者がありませんでした。そのことでアブラハムは、神様に祈りました。すると神様がある日の夜、彼を外に連れ出されて仰せられました。「天を見上げて、空の星を数えなさい。」彼が星を数えていると、神様がさらに仰せられました。「あなたの子孫は、空の星のように多くなるであろう。」アブラハムは神様の仰せを信じました。それで神様は、それを彼の義と認められました。

ところが妻が彼を誘惑しました。「私は年老いて、もう子どもは生めません。あなたも年老いており、早く子孫を得なければならないじゃありませんか。あなたがもっと老ける前に、私の女奴隷ハガルを差し上げますから、ハガルを通して子孫を得るようにしてください。」彼の妻はしきりに誘惑しました。アブラハムは迷い出し始めました。神様は確かに子孫を与えてくださると仰せられたのですが、現実はそうでありません。

それで、アブラハムはハガルを娶って、イシュマエルを生みました。それがこんにち、イスラエルとアラブの間の血なまぐさい戦争を呼び起こす原因となったのです。アブラハムがハガルを娶ってイシュマエルを生まなかったら、こんにち、正妻から生まれたイサクの子孫と、妾から生まれたイシュマエルの子孫であるアラブ民族との間に戦争が起こることはなかったでしょう。私たちが不信仰によって迷い、間違った道に踏み入ったら、その結果は恐ろしい破壊と苦痛をもたらすようになるのです。

アブラハムは、イシュマエルを生んだことが間違いであったことを認めて深く悔い改めました。神様は再び、受け入れてくださいました。皆さん、私たちが神様に感謝しなければならないのは、私たちがたとえ、信仰が弱くなって迷い間違いを犯したとしても、悔い改めたら、神様は何度でも赦して下さり、再三受け入れてくださると言う事実です。主がペテロに、「兄弟が罪を犯した場合、悔い改めたら七度を七十倍するまで赦して上げなさい。」と言われました。

私たちが心に、信仰に対して疑わずにはいられないときがあります。人である以上、最悪の環境に取り囲まれ、苦しくて耐えられないときには、信仰が揺れ動き、迷い出して、つまずくときがあります。しかし悔い改めて主に立ち返ったら、神様は赦してくださり、再び受け入れてくださり、慰めてくださるのです。これが神様の愛なのです。

アブラハムが100歳になってから、自分の力で妻のサラを通して息子イサクを生みました。イサクが成長して少年になり、目に入れても痛くないほどに父の自慢となったとき、神様がまた、アブラハムの信仰を試みられました。「アブラハムよ。あなたの愛しているひとり子イサクを連れてモリヤ山に行き、山の上で、全焼のいきにえとしてイサクをわたしに捧げなさい。」これはとてつもない試練です。

また彼の信仰は揺れ動き、どうしたら良いか?と迷ったはずです。アブラハムは、神様に妥協を申し入れることもできたであろうと思います。「主よ。息子を…、焼いて殺すのは惨(むご)過ぎます。けものを屠って差し上げてはどうでしょうか…?」と、お願いすることも方法の一つです。ところがアブラハムは、少しも躊躇しませんでした。彼には絶対信仰、絶対従順があるだけでありました。

アブラハムは、息子イサクを連れてモリヤ山にのぼり、祭壇を築き、たきぎを並べてから、イサクを縛りました。そしてたきぎの上に置きました。そして、アブラハムは刀を取って振り上げ、自分の子イサクを屠ろうとしました。そのとき、天から声が聞こえて来ました。「アブラハム!アブラハム!あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。」

そして「創世記 22章16節〜17節」には、『仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。』と、神様が仰せられたと記録されています。

「ヘブル人への手紙 11章17節」に、『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。』と記録されています。アブラハムは、終局的に偉大な信仰の祖先になりました。神様が命令されたので、彼は心に動揺することなく絶対信仰、絶対従順して、100歳のときに得た独り子、愛する息子までも全焼のいけにえとして捧げようとしたのです。

皆さん、皆さんがいつも信仰に固く立って、堅固な信仰でだけ生きて行くことは難しいことです。信仰の戦争を経なければならないのですが、信仰が弱いときには、信仰の戦争を通して数多くの傷を負うようにもなり、倒れることもあるのです。しかし私たちは、神様がその傷を癒してくださるので立ち上がり、また、癒してくださるので再び立ち上がりながら、迷いに勝たなければなりません。一方、神様は皆さんが偉大な信仰の人となるように鍛錬させてくださるのです。

新大陸を発見したコロンブスは、信仰の人でありました。彼は航海の初めから終わりまで、彼に反対するたくさんの人たちと戦わなければなりませんでした。一緒に同行した船員たちまでもが彼に背を向けて、反乱を起こしたことが一、二度ではありませんでした。大西洋を横断しながらも大暴風に会って死の峠を何度も越え、陸地を発見した後には原住民たちと戦わなければならない困難を無数に経験しました。

しかし彼は、どこまでも根気強く希望を失わずに、ただ新大陸発見と言う夢が成就することを信じて前進し続けました。そして遂に、彼はアメリカと言う新大陸を発見しました。1502年、コロンブスはスペインのペルディナンド王からの手紙に対して、次のように書き送りました。

「私を新大陸に導いたのは、数学でもなく、その他の何かの知識でもありませんでした。全的にこのことは、神様が与えてくださった夢に対する確信と信仰が、私をして新大陸を発見するようにしたのです…。」

希望と肯定的な思考の前には、色々な困難も難関もみな、力なく崩れるのです。




第四、強く、雄雄しい青年になりなさい。

第4番目に、私は青年たちに「強く、雄雄しくありなさい。」と言いたいです。神様は次のように仰せられました。

聖書「ヨシュア記 1章 6節〜9節」の御言葉です。『強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。 ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。 わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』

私たちクリスチャンには、どこへ行こうとも神様が共にいてくださる、と言われたのです。「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」「その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。」「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

青年ヨシュアに仰せられたように、神様は私たちにも仰せられます。「強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っているのです。いつも試練が襲って来るかと思えば、暴風雨も襲って来ます。私たちが環境を見回したら、つまずき倒れるしかありません。

しかし、私たちが真っ直ぐに神様を見上げ、御言葉に立ったら、心が強く雄雄しくなって大胆に生きて行くことができます。ペテロがイエス様を見つめるときには、水の上を歩いて行く大胆な人でありました。ところが、彼が風と波を見回したときには、心が弱くなり、恐くなって、水の中に沈み込んでしまいました。

こんにち、私たちが世の波の中に溺れれ込む理由は、イエス様を見つめて強く雄雄しい信仰を持たずに、環境を見回して感覚に拠り頼むからです。それで信仰の試練に会い、信仰が弱くなり、世のすべてのことが恐くなるのです。「イザヤ書 41章10節」に、『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』と記録されているのです。

どのようにして、17か18歳の少年ダビデがペリシテの大将軍ゴリヤテを討って倒したでしょうか。サウル王とすべてのイスラエルの名将たちがみな、ゴリヤテを恐れて逃げ回りましたが、牧童である少年ダビデは川の石五つと杖だけを手に取ってゴリヤテに敵対して近づいて行きました。ダビデが環境を見たなら、彼は恐れおののいて後ろに引き返したはずです。彼は万軍の主、神様を見つめ、神様に拠り頼んで強く雄雄しく進み出たので、神様がダビデをご使用なさってゴリヤテを倒されたのです。

こんにち、神様が私たちに願われるのは、私たちが神様を見つめて、強く雄雄しい信仰を持つようになることです。人生の路程はあまりにも険しいです。皆さん、人生60か70歳の人たちは、後ろを振り返ったら頭を振りながら身震いするそうです。生きて来た道がそんなに平坦ではなかったと言うことです。いつも、夜を過ぎたかと思えば暴風雨に会い、暴風雨をが過ぎ去ったかと思うといばらの道に出会い、それを通り越したかと思ったら険しい峻嶺に出くわすのです。いかに険しい人生を生きて来たのかわかりません。 私たちが人生を生きて行きながら、押し迫って来る険しい現実を避けることはできません。それが運命なのです。皆さん、私たちが運命であり、ぶっつかって来る現実を避けることはできません。しかし一つ、私たちはどのような険悪で非情な運命に出くわしても、私たちをそれらに勝たしてくださる主が共に居られると言うことを忘れてはなりません。すべての天地の造化、人生の変化はすべて神様の成されるみわざであることを悟り、知らなければならないのです。

「コリント人への手紙 第一 10章13節」に、『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』と記録されています。

「ヨハネの福音書 16章33節」に、『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』と記されてあり、「ヨハネの手紙 第一 5章 4節」には、『なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。』と記されているのです。

「詩篇 23篇 4節」を見ますと、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』と記録されています。人生がいかに険しいと言っても、いつも主は私たちと共に居られる、と言うことを忘れてはなりません。

私たちが、主をいつも認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼み、信じ、主の御言葉に従ったら、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、主は決して私たちを捨てることがなく、私たちから離れ去ることがない、と言うことを覚えていなければならないのです。私たちの主イエス・キリストは、昨日も今日もいつまでも同じお方であり、私たちと共に居られるのです。

ですから、私たちは最後まで希望を捨てずに、肯定的に人生を生きて行かなければなりません。環境はどうすることもできません。運命もどうすることができません。しかし、私たちの心は私たちが整えて行くことができます。私たちの心が落胆し、挫折し、絶望し、悲観したら、主が私たちを助けてくださることができません。私たちの心が強く、雄雄しく、希望と夢を捨てずに、肯定的に考えながら生きて行ったら、主は私たちと共に居られて、私たちを助けてくださるのです。

皆さん、ヨセフをご覧ください。ヨセフは非情な兄さんたちの背信によってエジプトに売られて行き、そこで青年になるまで奴隷生活をしました。少しは生活が楽になったかと思われるとき、ポティファルの妻からひどい濡れ衣を着せられて、一言の弁明もすることができずに監獄に入れられ、3年間を囹圄の身で過ごしました。普通の人であったらどんなに悲しみ、人生を恨んだことでしょうか。しかし彼は、そのような自分の運命に対して不平をしたり、悲観したりしませんでした。

神様が共にいてくださるから、神様がすべてのことを働かせて益としてくださることをヨセフは信じました。その結果、ヨセフは遂にはエジプトの国務総理にまでなりました。彼が国務総理になったとき、兄さんたちが来て彼の前にひれ伏して恐れおののいたとき、ヨセフはこう言いました。

「創世記 50章20節〜22節」の御言葉です。『あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたや、あなたがたの子どもたちを養いましょう。」こうして彼は彼らを慰め、優しく語りかけた。』

これは、いかに驚くべき信仰の証しでしょうか。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。」これが、私たちの神様の偉大なみわざなのです。いくら私たちに険しい苦難と恐ろしい害悪が襲って来ても、神様に拠り頼んだら、神様がこれらすべてを変化させてくださって、私たちの有益となるようにしてくださるのです。

「ローマ人への手紙 8章28節」に、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』と記録されています。良い事も悪い事も、悲しい事も嬉しい事も、健康も病気も、勝利も敗北も、成功も失敗も、すべてを神様にお委ねして神様に拠り頼めば、神様がすべてを働かせて、結果的に益としてくださると言われたのです。

ですから私たちは、希望を捨て、悲観的に考えるようなことをしてはなりません。私たちはいつも主を見つめて、肯定的に、積極的に、創造的に、生産的に考える習慣を身に付けなければなりません。そうするとき、主は私たちを捨てられず、離れて行かれないのです。

私たちがどうしたら、いつも強く、雄雄しく暮らして行くことができるでしょうか。御言葉を読み、口ずさむのがまさにその道です。神様の御言葉は生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通します。神様の御言葉を読んだら、その御言葉が私たちに勇気と希望と信仰と力を与えてくれるのです。世の中の本は、いくら読んでみても私たちに慰めや一時的楽しみは与えてくれるか知れませんけれども、いのちを与えてはくれません。聖書は「いのちの糧」なのです。

「詩篇 1篇 2節」に、『まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。』と記録されており、「詩篇 119篇105節」には、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』と記録されています。

また、「エペソ人への手紙 6章14節〜15節」に、『では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、足には平和の福音の備えをはきなさい。』と記録されています。また「コリント人への手紙 第二 6章 7節」には、『真理のことばと神の力とにより、また、左右の手に持っている義の武器により、』と記録されてもいます。

ですから、いつも御言葉を口ずさむようにしてください。御言葉の中には神様の御力と栄光が臨んでいますので、御言葉が私たちの中に入って来てみわざを働かせてくださるのです。死んだ御言葉ではなく、生きた御言葉であるのです。

そして、休みなく絶えず祈らなければなりません。祈りとは、神様との交わりを言うのです。悪い友人と交わったら悪くなり、良い友人と交わったら良くなるように、神様と祈りを通して交わったら、神様の栄光とお恵みを体験するしかないのです。「エレミヤ書 33章 3節」に、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記録されています。神様が、私たちが想像もしたことがない、理解を越えた大いなる事を告げて上げる、と約束なさったのです。

「ペテロの手紙 第一 4章 7節」に、『万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。』と記録されています。絶えず祈ったら神様と交通するようになりますから、心の心配、懸念、不安、焦燥、絶望…等がきれいに消え去り、信仰、希望、愛、勇気でいっぱいに満たされるようになるのです。

また、聖霊さまが助けて上げるために皆さんに臨んでおられることを忘れてはいけません。聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼む人となってください。聖霊さまは私たちを助けてくださるために、神様から遣わされていつも私たちと共におられるお方なのです。それで、「エペソ人への手紙 5章18節」に、『また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。』と言われているのです。

「ヨハネの手紙 第一 4章 4節」に、『子どもたちよ。あなたがたは神から出た者です。そして彼らに勝ったのです。あなたがたのうちにおられる方が、この世のうちにいる、あの者よりも力があるからです。』と記録されています。私たちのうちに居られる聖霊さまが、世のうちにある悪霊たちよりも力があるので勝つのです。

「ゼカリヤ書 4章 6節〜7節」に、『すると彼は、私に答えてこう言った。「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって。』と万軍の主は仰せられる。大いなる山よ。おまえは何者だ。ゼルバベルの前で平地となれ。彼は、『恵みあれ。これに恵みあれ。』と叫びながら、かしら石を運び出そう。」』と記録されています。私たちの権力で、能力でできないことは、聖霊さまのみわざによってできるのです。

アメリカの独立戦争のとき、アメリカ合衆国建国の父と呼ばれるジョージ・ワシントン将軍が一番苦戦した戦闘は、フィラデルフィアのベリフォーズと言う町での戦闘でありました。兵士たちは寒さと飢えで全く気力を失い、ジョージ・ワシントン将軍が戦闘で勝つだろうと信じる人は誰一人もいませんでした。ところが、ジョージ・ワシントン将軍の秘書であるルイスだけは、大勝利をすると確信していました。そこには理由がありました。ジョージ・ワシントン将軍は一日に4回ずつ聖書を開いて読み、祈りました。祈りを終えて出て来る彼の表情は、あまりにも平和であったと言います。戦闘は最後まで沈着を維持する側が勝つものです。

ジョージ・ワシントン将軍は熱心に聖書を読み、祈ることを通して心の平定と天の知恵を得て、神様に拠り頼んだのでいつも強く、雄雄しかったのであり、それで大勝利を得ることができました。ベリフォーズには、現在ジョージ・ワシントン記念碑が建てられています。そして次のような祈祷文が彫り刻まれています。「民族の指導者たちが、謙遜な心で国民に仕えるようにしてください!」

御言葉と祈りは、強い力を持っています。御言葉と祈りは、絶望、嘆き、涙を、希望、賛美、微笑に変える偉大な力を持っているのです。

神様は、青年の献身と夢と信仰と大胆さを通して新しい歴史を造られます。私たちの明日の歴史を誰が造るでしょうか。青年たちが造るのです。神様は、青年たちを通して明日の歴史を破壊することもでき、建設することもできるのです。私たちはすべて皆、神様に対して献身し、夢と信仰と大胆さを持てば、年とは関係なくいつも青年らしく暮らし、神様がご使用してくださる器になれます。

事実、年は数字に過ぎません。からだは年老いても心は若く保つことができるのです。心が若かったら青年です。クリスチャンは誰でも、青年と同じく創造者を覚えて仕え、夢を持ち、信仰を持って、強く雄雄しく生きて行ったら、神様はこんにちも、青年のような人たちをご使用してくださるのです。心もからだも若い人たちをご使用なさるだけでなく、たとえ年は老いていても、心が青年のような人を神様がご使用なさるのです。

いくら年が若くても、心が既に年老いた人のようになり、信仰も夢も希望もなく、強く雄雄しい大胆さもなかったら、その人は死んだも同然な人です。しかし、いくら年取って、75歳のアブラハムのようであっても、80歳のモーセのようであっても、彼らが心の中に青年たちのように神様に拠り頼み、神様に対する夢と信仰と、強く雄雄しい大胆な信念をもって生きて行くとすれば、神様はその人を青年と同じくご使用してくださるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、わが父なる神様! 今日、青年週間に、神様がどんなに青年たちを愛しておられるかを宣べ伝えました。

全知全能であられる、天のお父さま! 年老いていても、若い青年のような心を失ってしまわないように助けてください。常に、青年のように神様に拠り頼み、神様を信じ、信仰を堅固にして、強く、雄雄しく、大胆に、人生を挑戦的に生きて行くように助けてください。

主である神様! 怨むとか、不平を呟くとか、嘆くとか、後ろに退くとかする人にならないように導いてください。「わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」と仰せられたことを覚えています。

わが父なる神様! 信仰をもって、肯定的で、積極的で、創造的であり、生産的に、夢を見、幻を見ながら、生きて行くように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!