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「自分にしてもらいたいことは」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 7章12節」
7:12 それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。


今日、私は『自分にしてもらいたいことは』と言う題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちは誰もが、他人から認めてもらいたい、愛してもらいたい、と願っています。神様からも祝福していただき、お隣の人からも待遇してもらいたいと願うのは、人情の常です。

どうしたら、そのようにしてもらえることができるでしょうか。他人から認めてもらい、愛してもらい、神様から祝福していただき、待遇していただきながら、生きて行く道が果してあるでしょうか。

孔子の弟子の中に、子貢と言う人がおりました。ある日、子貢が孔子に「先生、私たちが一生の間実践すべき道理を、一言で言ってください。」と、お願いしました。すると孔子が、「自分がしたくないことは、他人にもさせてはなりません。これが実に、一生を生きて行く人生のモットーです。」と答えました。ソクラテスも、「あなた自身に苦しいことを、他人にもさせてはいけません。」と言いました。有名なユダヤ教のラビ・ヒンヘルもまた、「あなた自身が嫌なことは、誰にもしてはいけません。これが律法の全部です。」と言いました。

しかしイエス様は、消極的でなく、積極的に言われました。「自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。」と。これがまさに、東西古今を通して、人間関係を結んで行くのにもっとも重要な行動綱領なのです。

アブラハムは、実にこのような神様の偉大な祝福の法則を守った人です。




第一、 アブラハムが祝福を受けた理由(そのT)

第1番目に、アブラハムが祝福を受けた理由は、神様とお隣の人を丁重に、それも手厚くもてなしたことにあります。特に、彼は何よりも十分の一を神様に捧げて、神様から喜んでいただいた人でありました。

彼は戦争に出て行き、大いに勝利して、数多い戦利品をたずさえて凱旋するとき、神の祭司であり、シャレムの王・メルキゼデクにすべての物の十分の一を捧げました。そのとき祭司メルキゼデクが「天と地を造られた、いと高き神様より祝福をうけよ!」と、祈ってくれました。

「創世記 14章18節〜20節」を見ますと、『また、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はいと高き神の祭司であった。 彼はアブラムを祝福して言った。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。 あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。」アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。』と記録しています。

メルキゼデクはその当時、中東に住んでいる「いと高き神様の祭司」でありました。アブラハムが戦争に勝って凱旋して来るとき、アブラハムは祭司メルキゼデクが歓迎する祝宴に参加して、パンとぶとう酒をもらった後に、祝福してもらい、すべての戦利品の中から十分の一を計算して、祭司メルキゼデクに捧げました。十分の一は、神様と人間との関係に絶対に重要な要件となるものです。十分の一を通して私たちは、現実生活の中にあって神様と共に居ることができるようになるのです。従って、十分の一を捧げないと言うことは、神様と私たちの関係を断ち切ってしまう結果を招くのです。それだけではなく、神様を私たちが生活の中で蔑視し、無視する行動であるとも言えるのです。

「マラキ書 3章 8節〜10節」に、『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』と記録されています。

聖書に、神様は「十分の一と奉納物は、わたしのものである。」と仰せられた、と記録されています。私たちが暮らしの中で得るすべての物質の中で、その十分の一は神様のものなのです。神様が「わたしのものである」と仰せられたのです。「あなたがたはわたしのものを盗んでいる。それで、あなたがたは呪いを受けている。」と、神様が仰せられたのです。

ですから十分の一は、神様にとって重要なものです。十分の一を捧げないと言うことは、神様のものを盗むことであり、私たちが生きて行きながら神様を否認し、神様を認めないことになってしまうのです。

皆さん、我が国のボールペンの代名詞のように知られている「モナミ・ボールペン153」は、1963年、名もない会社が作り出しました。当時は1本が15ウオンでありました。このボールペンが出始めてから、インキ壺も鉄筆も影をかくし、爆発的な人気を受けながら、学校、官公署、各会社で広く使用され、直ぐにKSマーク(韓国政府が品質を保証する制度)を獲得して、国民的ボールペンになりました。

実は、このボールペンが世界の市場に顔を出すようになった由来があります。当初、このボールペン生産会社は、工場も小さく技術も未熟でしたので直ぐに倒産の危機に瀕しました。それで「ソン・サムシキ」社長が祈祷院に行って、あつく祈る途中、神様から直接アイデアを得たのです。彼は祈りながら、自分の過去を振り返ってみました。

その時まで、彼は事業をするとして神様にあまりにも多くの罪を犯してきたことを、悟りました。それで彼は悔い改め始めました。第1に、主日を聖く守らなかったことを悔い改めました。「主よ!事業をするとして主日に神様に仕えなかったことを悔い改めます。今後は絶対に主日には教会に行き、神様にお仕えします。」

第2に、お金をたくさん稼ぎながらも、十分の一を捧げなかったことを悔い改めました。「私は、主のものを盗みました。悔い改めます。今後は十分の一を正確に、必ず捧げます。」そして第3には、早天祈祷を怠けたことを悔い改めました。「主よ。赦してください。怠慢になって、早天祈祷を捧げませんでした。悔い改めます。これからは毎日、絶対欠かさずに早天祈祷を捧げます。」

このように堅く決心して祈った後、聖書を開いて読みました。「ヨハネの福音書 21章11節」の御言葉を読むようになりました。そこで彼は、大きく霊感を受けました。『シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。』...

彼は祈祷院から下りて来て、「モナミ153」と言う名前を付けて改めて生産し、出荷し始めました。そして彼は祈りました。「全知全能であられる神様!全世界のすべての人たちの手に、このボールペンが持たされるように、お願い申し上げます。50億本が売れるようにしてください。」本当に大胆な祈りを捧げたものです。

ところが、全盛期であった1978年に、年間12億本が売れました。多様な筆記具が出回り、思ったより成果がありませんでした。彼は毎日、継続して祈りました。ところがIMF以後、再び販売成績が飛び上がり、ついに50億本が売れるようになりました。

一人の人が神様の前に、過去を振り返って主日を守らなかったことを悔い改め、率直に告白し、十分の一を盗んだことを悔い改め、祈ることをなおざりにしたことを自認し、悔い改めたところ、神様と正しい関係に戻って、それからは信仰を持って新しく出発するや、神様が共に居てくださり、みわざを働かしてくださったので、大いなる祝福を受けるようになったのです。

皆さん、アブラハムも、彼が祝福を受けたもっとも根本的な秘訣が、神様の前に十分の一を捧げ、主のしもべである祭司から祝福の祈りをしてもらったことです。主のしもべ祭司から、神様から祝福を受けますよう、にと祈ってもらったら、神様が応答してくださるのです。メルキゼデクがアブラハムを祝福した後に、神様はアブラハムに現われてくださいました。

「創世記15章 1節」に、『これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。「アブラムよ。恐れるな。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きい。」』と記録されています。

また「創世記15章 3節〜6節」に、『さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。 すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と記録されています。

アブラハムが祝福を受けた根本的理由の一つは、神様に十分の一を捧げ、祭司の祝福の祈りを受けたことにあります。十分の一を自分勝手に分けて、ここに上げたり、あそこに上げたりしては、祝福を受けることはできません。十分の一は神様の家に捧げ、主のしもべ・祭司から祝福の祈りを受けなければならないのです。主のしもべ・祭司の祝福の祈りを受けたら、神様の祝福が臨みます。なぜ?神様は祭司に祝福の権限を与えられたからなのです。

「民数記 6章23節〜27節」に、『「アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。」』と記録されています。祭司が民のために祝福を祈ったら、その祝福が民に臨むと神様が言われたのです。

アブラハムは、十分の一を祭司であるメルキゼデクに捧げ、祭司メルキゼデクから祝福の祈りを受けた後、彼の生涯の中に神様の驚くべきお恵みと祝福が臨むようになったのです。

私は、デンマークの聖会に参加したとき、ピーター牧師から素晴らしい証しを聞きました。デンマークが経済不況で困難にぶっつかっていたときでしたが、ピーター牧師の教会に出席している一人の聖徒が建築業を営んでおりましたが、破産してしまいました。ところが或る日、この聖徒さんが5万クローネ(韓国のお金に換算すると、約1千万ウオン)を手にして来て、「牧師先生、私が今まで主中心に事業をしなかったので、破産してしまいました。今、私にあるお金と言ったら、この5万クローネが全部です...。

その間、人間の手段・方法を総動員して努力しましたが、何の効果もありませんでした。もう今からは、このお金を神様に捧げて、ただ神様のお助けにだけ拠り頼んで生きて行くつもりです。ですから、牧師先生が私のために祈ってください。」それでピーター牧師が、その5万クローネを前に置いて、「あなたが神様の前に物質を捧げたのですから、神様が応答してくださるはずです。」と言って、彼の頭に手を置いてあつく祈りました。「主よ。この聖徒さんを祝福してください…!」

それから3ヶ月が過ぎた頃、この聖徒さんに奇蹟が起こりました。この聖徒さんが、政府が発注する500万クローネ相当の工事に入札しましたが、彼の会社よりもずっと立派で大手の会社らを除いて、彼の会社に落札したのです。その次から、神様がこの聖徒さんに事業の門を開いてくださって、破産した会社が再興の道に踏み入り、成長、発展しただけでなく、大いなる祝福をいただいて、ピーター牧師先生の宣教事業に大きな助けとなった、と言う証しを聞きました。神様が、自分の持ち物全部を神様に捧げ、主のしもべから祝福の祈りを受けたこの人に、素晴らしい能力を与えてくださったのです。




第二、アブラハムが祝福を受けた理由(そのU)

第2番目に、アブラハムが祝福を受けたもう一つの理由は、アブラハムが自分も知らずに神様と天使を厚くもてなしたことです。アブラハムは、いつも他人をもてなすことに物惜しみをしない人でありました。他人を接待することを喜びました。アブラハムは特に、旅人をもてなすことを喜びました。そうした彼が、自分も知らぬ間に神様と天使をもてなしたのです。

「創世記18章 1節〜5節」に、『主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。 彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。 そして言った。「ご主人。お気に召すなら、どうか、あなたのしもべのところを素通りなさらないでください。 少しばかりの水を持って来させますから、あなたがたの足を洗い、この木の下でお休みください。 私は少し食べ物を持ってまいります。それで元気を取り戻してください。それから、旅を続けられるように。せっかく、あなたがたのしもべのところをお通りになるのですから。」彼らは答えた。「あなたの言ったとおりにしてください。」』と記録されています。

三人の人が彼に答えるとき、アブラハムはその三人が神様のご一行であるとは露も知らず、ただの旅人たちであると思いました。神様が二人の天使を連れて人の姿で現われるとは、アブラハムは夢にも知らなかったのです。ただの旅人たちだと思って、もてなし好きのアブラハムはこの人たちに「おもてなししたい」として招きました。

「ヘブル人への手紙13章 1節〜2節」に、『兄弟愛をいつも持っていなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。』と記録されています。

アブラハムは、その三人を誠意を尽くして、手厚くもてなしました。「創世記 18章 6節〜8節」を見ますと、『そこで、アブラハムは天幕のサラのところに急いで戻って、言った。「早く、三セアの上等の小麦粉をこねて、パン菓子を作っておくれ。」 そしてアブラハムは牛のところに走って行き、柔らかくて、おいしそうな子牛を取り、若い者に渡した。若い者は手早くそれを料理した。 それからアブラハムは、凝乳と牛乳と、それに、料理した小牛を持って来て、彼らの前に供えた。彼は、木の下で彼らに給仕をしていた。こうして彼らは食べた。』と記録されています。

本当に、神様と二人の天使が食べてくださいました。神様は子牛の料理を喜ばれたようです。柔らかくて、おいしそうな子牛の料理を神様は喜んで召し上がってくださいました。

皆さん、アブラハムが客をおもてなしする誠意をご覧下さい。「上等の小麦粉」でパン菓子を作らせました。そしてアブラハムは、自分が牛のいるところに走って行って「柔らかくて、おいしそうな子牛」を選び、それで料理を作らせました。アブラハムは最上級の食材を惜しみなく使用したのです。この頃は、お客に高い食事代を払わせながら、高級レストランであるほど安い食材を使用してごまかそうと画策しているのです。

パン菓子と子牛の料理以外にも、アブラハムはパターと牛乳を三人のお客に供えたと聖書に記録されています。それは蛋白質が豊富で、脂肪とカルシュームが多量に含まれているパターと牛乳を摂取してもらって、旅による害毒や疲れを解消して上げようとするアブラハムの心遣いでありました。アブラハムが、どんなに真心を尽くし、いかに誠意を込めて豊かに客のもてなしをしたかを知ることができます。それで三人の旅人は、おいしく食事をしてくれてから、アブラハムを祝福してくれました。

「創世記 18章 9節〜10節」に、『彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻サラはどこにいますか。」それで「天幕の中にいます。」と答えた。するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。』と記録されています。

アブラハムは、びっくり驚きました。ただの旅人であると思っていたのですが、いま見ると、主である神様が二人の天使を連れて行かれる途中に、アブラハムの天幕に立ち寄ってくださったのでありました。

「ローマ人への手紙 12章13節」に、『聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。』と記録されています。誠意を尽くしてお客をもてなしたら、神様をおもてなしする機会も来るようになる、と言うことです。

私は、このような内容の話しを読んだことがあります。或る寒い冬の夜、ひとりのらい病患者が、聖フランチェスコを訪ねて来て「一晩、寝かしてください。」と懇請しました。彼の顔と手はらい病で直ぐにも崩れ落ちそうであり、朽ち果てた靴からは腐りかけている足指が外をのぞいていました。それでも、聖フランチェスコは彼に上着を脱いで着せ、抱くようにして家の中に連れて入りました。

聖フランチェスコは、温かいお湯で膿が流れる彼の傷を洗って上げ、誠意を尽くして夕食を食べさせた後、一つしかない部屋で、そのらい病患者と一緒に寝ました。

その夜、フランチェスコの夢にイエス様が現われました。イエス様は彼の手を取りながら、「フランチェスコよ。今晩、暖かく優しい接待、有り難うよ。」と言われました。はっと驚いて目を覚ましました。そのフランチェスコの目に、一緒に寝ていたはずのらい病患者がどこに行ったのか、見えませんでした。彼は、らい病患者だと思ってもてなしたのですが、実は主が、らい病患者の姿で彼に現われたのでありました。

このように、私たちが旅人をもてなすとき、知らずにイエス様をおもてなしするようになります。いつ、どのような姿で、イエス様が私たちを訪問してくださるかは、私たちは分かりません。ですから私たちは、イエス様をおもてなしするように旅人をもてなさなければならないのです。

貧しい中でも篤実な信仰生活をしている、或る老夫婦の夢に、イエス様が現われて、「今日、わたしがあなたたちの家に行きますよ。」と、啓示を与えてくださいました。目を覚ました老夫婦は、嬉しくて胸を騒がせながら家の中をきれいに隅隅まで掃除しました。そして、真心を込めて食事の準備を終えてから、イエス様が来られることを待ちました。ところが、日が暮れて暗くなりかけてもイエス様は来られませんでした。

間違った夢を見たのかな、と失望しかけたとき、ノックの音が聞こえました。「主が来られたんだ!」と喜んで飛び出して行ったところ、そこには年老いた乞食が一人、立っておりました。そして、その乞食が「腹がへって、死にそうです。何か食べ物をください。」と言いました。老夫婦は大いに失望しましたが、それでも、温かくその乞食を招き入れて、腹いっぱい食事をさせてから帰しました。

そして又、老夫婦はイエス様が来られるのを待ちました。再び、ノックの音がしました。老夫婦が飛び出して行きましたが、今度は、飢え切って今にも倒れそうな少年乞食が立っていました。老夫婦は、少年乞食を腹いっぱい食べさせ、着古しではありましたが、衣服まで着せてから送り出しました。そして、夜おそくまで主が現われるのを待ちましたが、夜中になっても、主は来られませんでした。疲れた老夫婦は、もう待ちきれずに寝床に入って寝ることにしました。

その夜、寝ている老夫婦の夢にイエス様が現われてくださいました。それで老夫婦が声をそろえてたずねました。「来てくださるとおっしゃったのに、なぜ、来てくださらなかったんですか?」すると、イエス様が優しく言われました。「わたしは、今日2回も、あなたがたの家に行きましたよ。1回は老人乞食として、もう1回は少年乞食として行ったんです。あなたがたが、わたしを温かく、厚くもてなしてくれましたよね。有り難う。わたしは、あなたがたに必ず報いて上げます...。」

聖書「マタイの福音書 25章」を見ますと、「あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれました。」すると、人たちは答えて言いました。「主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか?」すると、「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」と、主が言われたのです。

ですから私たちは、私たちの隣人に対して、キリストに対する心情で対し、顧みて上げなければなりません。まさにそれが、イエス様をおもてなしすることなのです。アブラハムが自分の天幕の前を通り過ぎる三人の旅人を、真心を込めてもたなした結果、神様と天使を接待して、形容することができない祝福を受けるようになったのです。

いつだったか、或る雑誌に載っている記事を読みました。イエスを信じる人は利己主義者であると思う人たちが31%、非人格的であると思う人たちが23%、偽善的であると言った人が13%もあった、と記録されていました。このように、ノンクリスチャンたちは、私たちクリスチャンを否定的な目で見ているのです。

このような統計に対して、私たちは痛く悔い改めなければなりません。私たちがキリストに対するように、誠実と愛を込めて隣人にも対したなら、こんにち、不信仰の社会が私たちクリスチャンをこのように冷たく、否定的で悲観的に判断することはしないはずです。




第三、アブラハムが祝福を受けた理由(そのV)

第3番目に、アブラハムが祝福を受けた理由は、彼がもっとも貴重に思い、一番愛しているものを神様が欲しいと言われたとき、彼は文句なしに従順に聞き従ったからです。

神様が、アブラハムに「あなたの愛しているひとり子イサクを全焼の生け贄として、わたしに捧げなさい。」と言われました。「創世記 22章 1節〜2節」に、『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』と記録されています。

皆さん、このことこそ本当に、実践できるものではありません。或る牧師先生が、メッセージを宣べ伝える中で、「アブラハムに、神様がひとり子イサクを捧げなさい、と言われました。アブラハムは従順に聞き従いました。私には、娘二人がいます。その中の一人を捧げなさい、と言われたら、私は逃げてしまいます...。」と言ったそうです。

一般の人たちは、皆そうだろうと思います。愛する自分の子どもを火で焼いて捧げることは、とてもできるものではありません。ところがアブラハムは、自分にとってもっとも貴重であり、何よりも愛するひとり子でありましたが、神様のお望みに代えることはできませんでした。アブラハムは、絶対従順しました。

「創世記 22章 3節」に、『翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。』と記録されています。

「ヘブル人への手紙 11章17節」には、『信仰によって、アブラハムは、試みられたときイサクをささげました。彼は約束を与えられていましたが、自分のただひとりの子をささげたのです。』と記録されています。本当に至難なことです。しかし、自分にとってもっとも貴重で、もっとも愛するものであっても、神様が差し出しなさい、と言われるのであれば、差し出さなければならないのです。アブラハムが祝福していただいた理由のなかで、彼は神様の言われることには絶対従順に聞き従ったと言うことを見逃してはいけません。

「サムエル記 第一 15章22節〜23節」に記録されている御言葉を、皆さん、一緒に一つ声で奉読しましょう。『するとサムエルは言った。「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。まことに、そむくことは占いの罪、従わないことは偶像礼拝の罪だ。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」』

神様は、神様の御言葉に従順に聞き従うことを大いに喜ばれ、御言葉に不従順することは、偶像邪神を拝み、邪術を行うことと同様である、と言われました。ですから、神様の御言葉に従順に聞き従うことがいかに大事なことか、わかりません。

アブラハムは、彼のひとり子イサクを連れて、神様が示されたモリヤ山まで三日の道のりを歩いて行き、山の上に上って祭壇を築いてから、たきぎを並べ、その上にイサクを縛って寝かせ、足でイサクの首を踏み付けて、刀を振り上げてイサクの頚動脈を断ち切ろうとしました。

「創世記 22章15節〜18節」を見ますと、『それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、 仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、 わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。 あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」』と記録されています。

神様に、自分のもっとも貴重なものを聖霊の御声に従って捧げたら、神様は必ず報いてくださいます。祝福してくださるのです。

昔、韓国の平安北道の定州と言うところに、ベク・サキョム(白仕謙)と言う農夫が住んでおりました。彼はイエス様を信じるようになるや、熱心に伝道し、教会に忠誠を尽くして奉仕しました。その町に宣教師が入って来られて、教会を建てようと煉瓦を積み上げるなど、汗を流しながら苦労しましたが、とても教会の建物を完成することができませんでした。それを見たベク・サキョム聖徒さんは、自分所有の農地1,000坪を全部売り払い、そのお金全額を建築中の教会に献金しました。

教会の建築工事が完了してから、宣教師先生はベク・サキョム聖徒さんを教会の総務に任命しました。なぜなら、彼は所有農地を全部売り払って教会に全額を捧げましたので、もう農業に従事するにも農地がなく、彼の献金が教会建立に大いに役に立ったことから有り難くもあり、することなしにぶらぶらしている彼に済まなくもあったからでありました。

そして、ベク・サキョム聖徒さんの息子を学校に通わせて勉強をさせました。後にはアメリカ留学もさせました。その息子はアメリカのパーカー大学を卒業し、プリンストン神学校と同大学院をも卒業しただけでなく、エール大学で哲学博士、パーカー大学で神学博士、ディポー大学で法学博士、延世大学で文学博士の学位を取得しました。その方が、実に我が韓国の延世大学校総長を歴任し、文教部長官(文部大臣)をすごした「ベク・ナクジュン」(白楽濬)博士であります。

彼のお父さんが、全財産を聖霊の御声を聞いて神の事業に投じたあと、神様は彼の息子を韓国のキリスト教歴史の上にれっきとして残る偉大な人物になるように祝福してくださったのです。「詩篇 25篇12節〜13節」に、『主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。』と記されているのます。

アメリカのジョン・ピリップスと言う人が、過ぎし200年の間、神様に立派に仕え、従順に聞き従い、十分の一を捧げた家庭と、そうでなく全く反対の家庭とを、無作為的に選んで統計を出した後、その中で代表的な例を発表しました。その発表によりますと、教会に害を及ぼし、主のしもべを教会から追い出し、自分も教会から離れた或る人の家門からは、200年の間、乞食が306名生まれ、強盗が63名、殺人者が7名、淫バイが26名、低能児が203名、下級官吏が73名であった、と言いました。

しかし偉大な説教者であり、神学者であり、神様のしもべであったヨナダン・エドワード牧師の家門では、200年の間に、牧師が203名、大学総長が13名、大学教授が108名、副統領が1名、全権大使が1名、国会議員が21名、記者が80名であったと言いました。

神様に立派に仕え、神様を崇めた家庭と、そうでない家庭とには、凄い差があります。神様が見えないところに居られ、静かに居られるので、力がない神様、みわざを働かしてくださらない神様であると軽視する人がいますが、神様は見えないところに居られ、静かで、何とも言われませんが、神様は宇宙を支配して居られ、歴史をつくられ、人間の生死禍福をつかさどって居られる神様なのです。私たちは先にのべた実例を通しても、神様の約束は必ず成される、と言う事実を心に深く覚えていなければなりません。

韓国人の希望は何でしょうか?外観的に見たら、韓国人は団結するよりは分裂することに良く走り、個人主義で、利己主義で、とても否定的な面が強いです。こんにち、新聞にも国民が分裂し合い、争い合うと頻繁に報じられています。先ず、南北が分断されて競い合っています。東西が政治的に分かれて非難し、攻撃し合っています。労使が絶え間なくぶっつかり合い、紛争を起こしています。階層間が信頼し合わず、白い目で見つめ合っています。青年と老年との間柄にも融和がありません。どこへ行っても闘争があり、すべてが混乱しているように見えます。

それで、韓国が直ぐにも滅びそうですが、滅びません。何故でしょうか?韓国人には、祝福してもらえる長所があるからなのです。それは何でしょうか?世界で韓国人ぐらい豊かで、手厚く客をもてなす民族はないのです。

私は昔、このようなことを体験しました。宣教師とか聖会の講師として韓国に来られた、アメリカ人、ヨーロッパ人...の先生たちを、私たちの教会でとても親切におもてなしし、手厚く食事も接待しました。私も、私の家にお招きしてありったけのご馳走を準備して接待しました。

その後、私がアメリカやヨーロッパの聖会に講師として招請されて行ったとき、彼らの招待に応じて食事をすることがありましたが、彼らは、特に手厚くもてなすとか、豪壮な食事を接待してくれるとか、そんなことはしませんでした。普段彼らが食事する、その程度の接待で終わります。私は内心、ショックを感じました。それで、その後は私も、特に手厚くおもてなしするとか、そんなことはしないことにしました。

韓国人は、自分は貧しい食事をしても、客には精を出して手厚くもてなす習慣があります。これが実に、アブラハムのように神様から祝福していただく資格を有する結果を生み出すのです。

韓国人の聖徒さんたちは、特に主のしもべを手厚くもてなします。教会では「そうしないでください。」としきりに呼び掛けるのですが、家庭訪問などに行ったとき、誠意を込めて主のしもべをもてなしてくれます。それで、その家に迷惑をかけるようなこともたまにはあります。豊かでない家庭事情でありながら、聖徒さんたちは、主のしもべに交通費として幾らかを封筒に入れて出してくれますが、それがその家の現金全部であったりすることがあるのです。

実際には、そうしてはならないのにも、そうします。いくら主のしもべが辞退しても、しもべのポケットに押し込むように入れてくれます。しかし、殆どの他の国ではそんなことはしません。それが当然のことと見なされているのです。しかし、韓国の聖徒さんたちは、ただで帰ってもらうことは「心が済まない」として、必ず「心の誠意」を表します。そうする必要がないのですが、しかしそのようにする心性が、神様には美しく見えるのだと思います。

また韓国人は、贈り物をすることが大好きです。贈り物も形式に過ぎないものではなく、温かく愛がこもり、価格も嵩張るものであることが少なくありません。しかし外国の場合は、小さい菓子袋が一つ…といった場合がざらにあります。韓国人はそのような贈り物は顔が赤くなって、とても贈り物とすることができません。アメリカやヨーロッパに行きますと、バラの花1本...といった贈り物がいくらでも見られます。

勿論、韓国人があまりにも贈り物好きなので、「賄賂天国」になったのかも知れません。学父兄が教師たちに「寸志」を上げるのが流行って、学校の雰囲気を濁す、と言った副作用が起こることもありました。しかし、神様がご覧になるときには良き品性なのです。自分は食べず、使わず、しながら他人には贈り物をすると言う、愛と親切豊かな習慣とも言えるのです。それが賄賂の性格を帯びたものでなければ良いのです。

韓国の聖徒さんたちは、献金と十分の一を捧げることに凄く熱心です。世界の教会のうち、韓国の教会ほどに「献金を捧げるよう」にと呼びかける教会はありません。先ず「十分の一」があります。次に「週定献金 又は 月定献金」があります。そして「男性宣教会会費」「女性宣教会会費」があります。それから「救済献金」「宣教献金」のほかにも、按手執事には「按手執事会費」があり、勧事には「勧事会の会費」、長老には「長老会の会費」があります。各奉仕部署では又、そこに「会費」を出します。みんな計算したら、目の前が暗くなります。

外国の教会には、殆どがそういうのがありません。外国の教会では、「十分の一」と単純な「献金」だけ捧げれば良いのですが、韓国の教会ではそうでありません。それでも、韓国の聖徒さんたちは不平を言わずに、熱心を尽くして教会に物質を捧げます。そのお陰で、世界キリスト教の歴史上、その類を探してみることができないほどに、韓国の教会は祝福を受け、成長発展することができました。

韓国という小さな国が、アメリカの次の第2位として世界に宣教師をたくさん派遣しています。歴史を通して見るとき、宣教師を世界各国にたくさん派遣した国が祝福を受けました。昔は、ヨーロッパとイギリスが全世界にもっともたくさんの宣教師を派遣しました。その当時は、ヨーロッパが世界の最大強大国でありました。しかし今は、アメリカが全世界にもっとも多くの宣教師を派遣しており、そのアメリカが世界最大の強大国家となりました。

そのアメリカの後を追って、韓国という小さな国が宣教師をもっともたくさん世界に派遣しているのです。従って、韓国人は数多くの短所を持っている民族ではありますけれども、神様から素晴らしい祝福を受けることになっていることは間違いない、と確信しています。神様は長所を見られて、祝福してくださる神様なのです。

ですから、私たちが今日、アブラハムから教わらなければならないことは、神様の前に十分の一を必ず捧げ、そして祭司から祝福を祈ってもらうことです。また、神様と天使を、それとも知らずにもてなしたように、隣人を尊敬し、いつも温かく丁重に、手厚くもてなすようにしなければなりません。それから、神様の御声であるなら、ひとり子をも捧げたアブラハムの献身と忠実な信仰を真似て、神様が言われる事なら何でも、私たちは骨を砕き肉を裂いても、主に献身する信仰の持ち主とならなければならないのです。

このような信仰生活をするとき、アブラハムが神様から祝福していただき、大いなる者となったように、今日も神様は、このような聖徒たちを祝福してくださって、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにして豊かに得るように祝福してくださるのです。




お祈り

全知全能で、聖き、我が父なる神様!

アブラハムは、すべての信仰の人たちの祖先となり、彼を通して世界が祝福していただき、私たちクリスチャンの信仰の模範となりました。

愛であられる、我が天のお父さま!

アブラハムは、生前に誠意を尽くして十分の一を捧げ、そして祭司から祝福を祈ってもらいました。それで神様は彼を祝福してくださいました。またアブラハムは、旅人を親切にもてなし、いつも手厚く最高の食事を、真心込めて接待しました。そうしたアブラハムは、知らぬ間に神様と天使をおもてなしして、神様から祝福してもらいました。また、アブラハムは、神様のご命令があるや、自分のひとり子イサクをも祭壇に捧げました。骨を砕き肉を裂く以上の痛みがあったはずですけれども、彼は神様の命令に従順に聞き従い、自分のひとり子を全焼のいけにえとして捧げ、それを神様は喜ばれて、アブラハムを大いに祝福してくださいました。

我らの父なる、天のお父さま!

アブラハムが神様から祝福していただいた、その信仰を学び、お手本とすることができるように、私たちを助けてください。他人からしてもらいたいことを、先ず先に他人に対してしなさい、と言われた神様の御言葉を忘れずに、習慣的に隣人を誠意を込めて、手厚くおもてなしする私たちとなって、神様から祝福していただける私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!