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「共に分かち合う生活」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 2章 5節〜6節」
2: 5 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・
2: 6 キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。
「ヨハネの黙示録 3章20節」
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『共に分かち合う人生』と言う題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

南の韓国と北の北朝鮮は、韓国半島内で共に暮らしていますが、お互いに分かち合う生活を営んではいません。その理由は、政治理念と体制が完全に異なるからです。いくら共に暮らしていても、分かち合う生活を営むためには暮らしの共同目標と価値観をもって、愛と信頼で共に暮らし、利害が一致しなければなりません。





第一、家族同士の分かち合う生活

第1番目に、私たちが家族を見ますと、家族はお互いに分かち合う生活を営んでおります。ただ集まって暮らすのでなく、共に人生を分かち合いながら暮らしています。父母と子どもは、家庭という共同体の中で共同の目標と価値観をもって暮らしております。家族の健康は、共同の目標です。家族がお互いに皆、成功することも共同の目標であり、共に幸福を享受しようとすることも共同の目標です。

また、家族が共同の目標を持つだけでなく、倫理と道徳、信仰等、人生の価値も共に分かち合うのが家族なのです。それで、この世の中で家族同士よりもっとお互いに分かち合いながら暮らす団体はありません。結婚するとき、花婿・花嫁がどのような人かを知るためには、彼らの父母を見れば分かります。家庭という共同体の中では、息子は父親を、娘は母親を模範とします。

アメリカの児童教育専門家ポール・D・マイアーは、子どもの人格の85%が1歳から6歳の間に形成されると言いました。ところがこの時期の子どもたちは、主に父母と一緒に暮らします。毎日、お父さんを見つめ、お母さんを見つめます。父母と子どもの価値観が同じく、人生に対する理解がお互いに一致する理由がここにあります。

父母と子どもは一緒に暮らすだけでなく、お互いに分かち合う生活をするのです。中国の古事を見ますと、程子の夫人が或る日、市場に買い物に出かけようとしているところへ、幼い子どもが「市場に連れて行って…。」とねだりながら泣き喚くので、母親が「私が市場からかえっ来たら、豚肉を美味しく焼いて上げますから...。」となだめすかしました。すると子どもが喜んで、泣き喚くことをぴたりと止めました。ところが実は、母親が子どもをなだめるために嘘を言ったのです。

夫人が市場から帰って来て見ると、夫が家の中でもっとも貴重がる豚を屠っていました。「あなたっ、何しているんですか?大切な豚を屠ったりして...?」夫人が驚いて高い声を上げました。すると夫の程子が、振り向きもせずに言い返しました。「あんたが市場に行きながら、子どもに、帰って来てから豚肉を美味しく焼いて食べさせる、と言ったそうじゃないですか?子どもは父母を見て、習うのです。父母が子どもに嘘をついたら、子どもも嘘をつく子どもになるんです。約束は履行しなければならないのです...。」それでその晩、大切な豚を屠って子どもに食べさせた、と言います。言行一致がいかに重要であるかを、ここで見せています。

いつか、幼稚園で園児たちにお父さんの絵を描かせました。園児たちが絵を描きましたが、見ると、お酒を飲むお父さん、会社に出勤するお父さん、新聞を読むお父さん、怒りを発するお父さんの絵が一番多かったと言います。子どもたちの目に映ったお父さんの姿は、自分たちと一緒に遊んでくれる、愛を分かち合ってくれる優しいお父さんではなく、一つ家に一緒に暮らしながらも距離感を感じさせる姿に転落してしまっていたのです。

このように、父親が子どもたちに正しい姿で映されないので、数多くの子どもたちが間違った道に歩いて行くようになるのです。家族同士がお互いに関心をもって楽しみを分かち合ってこそ、和やかで睦まじく幸福な家庭が形成されるようになるのです。

私に、過去を振り返ってみながら、幼かった時のお父さんの姿を描いてみなさいと言ったら、いつも本を読んでおられたお父さんを描くことができます。私のお父さんは、いつも本を読んでおられました。そしてお酒も飲まず、タバコも吸わなかったのです。そのようなお父さんの姿が、私が育つときの心の中に刻まれているので、「そうだ。人生とは本を読みながら暮らすことだ!」それで私も、本を読みながら成長しました。父親と母親が子供たちに及ぼす影響力はこの上なく大きいものです。父母と子どもは血統で結ばれ、愛と信頼を基盤にしているのです。

「詩篇103篇 13節」に、『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。』と言われています。神様が私たちを憐れまれる、と言っているのです。父母は、いつも子どもを憐れむ心をもっています。世界的な健康家族運動家ジョン・ダ・プレーニング教授は、或るインタービューでこう説明しました。「家庭は、社会安定と国家間の連帯などの基本となり、世界のどのお国であろうが、健康な家庭が健康な社会を支えている。」と。

国ごとに価値体系は違っても、健康な家族、即ち、成功した家族はすべて一般的に次の五つの特徴を帯びていると言われています。健康な家庭の特徴は、家族お互い同士が温かい人情と愛情をもっていると言います。夫婦間が円満で互いに人情と愛情が溢れ、父母が子どもを温かく愛し、子どもたちも父母を温かく愛する人情と愛情が溢れる、そのような家庭が健康な家庭であると言いました。

その次には、献身的な家庭でなければならないと言います。父親勝手に、母親勝手に、子ども勝手に、利己主義的に互いに利用し合いながら暮らすのでなく、お互いに犠牲しながら、お互いに顧み合う献身がある、そのような家庭が健康な家庭であると言います。そして肯定的な意思疎通がある家庭が健康な家庭であると言います。一方的に、父は父で「私の言う事だけ聞け!」と言い、母は母なりに「私の言う事だけ聞きなさい!」と言い、子どもたちは又彼らなりに勝手気ままに振舞う…、こうなのでは健康な家庭ではないのだと言います。お互いに相手を尊敬し、言う事を聞いてあげる意思疎通がなければならないと言うのです。

それから、多い時間を一緒に過ごさなければならないと言います。それは義務でもあるのです。夫婦の間でも、父母と子どもの間でも、多い時間を一緒に過ごしてこそ、健康な家庭であると言います。そして信仰を一つにして、精神的に平安を持たなければならないと言いました。一緒に礼拝を捧げ、一緒に祈ることによって、精神的平安を共有する家庭が健康な家庭であると言うのです。

最後に、ストレスと危機対処能力がある家庭が健康な家庭であると言います。どの家庭にも問題は襲って来るものです。家庭にも、子どもたちにも、問題が襲って来ます。そんな場合、全家族共同体が一つになって、力を与え、肯定的な心を与え、祈って上げ、お互いに引いて上げ、押して上げながら、ストレスに勝ち、危機対処能力を発揮する、このような家庭が健康な家庭の特徴であると言うのです。

バリリスキー夫婦の家庭は、10名の子どもたちのうち、6名は海外宣教師として、4名は篤実な信仰の人として教会に仕えました。そのお子さんたちのうちの一人が、幼かった時を回想しながら、「私たちのお父さんは、私が小学校4年のときまで病気で外出ができませんでした。けれどもお父さんとお母さんは献身的なクリスチャンでして、美しいキリスト教家庭を成してくださいました。」と証ししました。

そして、次のようにその理由を説明しました。第1に、私たちの父母は、私たちが生まれるずっと前に、私たちを神様にすでに捧げたと言いました。第2には、毎日、家庭礼拝を捧げましたが、私たちは当初、骨が折れ、辛く、嫌で堪りませんでしたが、大きくなって家を離れたこんにち振り返ってみたら、その時が忘れられない美しい追憶として記憶に残っています。第3番目に、お父さんは、私たちと何の隔たりもなく優しくしてくれましたが、家庭の権威で決定すべきことは大部分、法院の判決のように厳しく峻烈だったです…。

第4番目、お父さんとお母さんはいつも、私たちに公正・公平に待遇してくれました。間違ったことを仕出かすと罰し、良いことをしたら、惜しみなく褒めてくださいました。それから最後の第5番目には、私たちの両親はいつも、言われることと生活が一致していて、実践する行動で模範を示してくださいました。決して忘れられないことは、何よりも私たちの両親は私たちを真実の愛で愛してくださった、と言うことです...。

後日、成長して中年になった子どもたちの記憶に、このように残ることができると言うことは、その父母は親としての使命を立派に果たしたからなのです。このように父母と子どもたちは、共に分かち合う生活をするのです。ただ一緒に集団的に集まって生活するのではなくて、運命を共にし、家族同士の生活の価値を共有しながら、分かち合う生活を営むのです。





第二、夫婦同士の分かち合う生活

第2番目に、夫婦は共に分かち合う生活をします。夫婦は法的に結び合って、ただ男女が一緒に同棲するのではありません。夫婦は他人同士で会いましたけれども、生活の同一な目標と価値を分かち合うものです。夫婦は共に成功と幸福を追求し、同じ信仰と道徳観を持って、一緒に分かち合う生活を営むのです。それで「創世記 2章24節」に、『それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。』と記録されているのです。

一体とは、別々に分かれるのではなく、一つになってお互いに分かち合うことが一体となることです。夫婦は一緒に暮らしますので、利害が一致します。一緒に平安であり、幸福であり、成功しながら生きて行くことを願います。それで利害が一致するのが夫婦なのです。

アメリカやヨーロッパに行きますと、文化的な差異を痛いほどに実感します。それは、彼らが旦那さんと奥さんのものをはっきりと区分して暮らしている、と言うことです。私は親しく付き合っている牧師先生たちに、度々証しをします。「私は結婚して以来、今まで月給封筒を見たことがありません。私の月給封筒は、私の家内の手に直行し、私に小遣いが必要なときには、家内から貰って使用しています…。」

するとアメリカやヨーロッパの牧師先生たちは、唖然とします。「世の中にそんな阿呆なことがどこにありますか?月給はあなたのものでしょう?なぜ、あなたのお金を奥さんに渡すのですか?自分のお金は自分のものだから、自分が貰って使うべきですよ…。」

そして、その人たちは何かを買ったら、必ず帳簿に載せます。「なぜ、帳簿に記載するのですか?」と聞いて見ました。すると彼らは、後で離婚するときに、互いに自分のものは自分が持って行くためです。そうしたら紛争がなくて済みます、と言うのでありました。文化的な差異です。

しかし、私はそれを到底理解することができません。夫婦が結婚したら一心同体となって暮らすのですから、あなたのも、自分のもの、と区別することはあり得ないことです。また、私が稼いだお金だから私が持っていなければならない、と言うことも考えられないことです。お互いに分かち合いながら暮らすのが夫婦の生活なのです。夫婦は法的にだけではなく、愛と信頼で一緒に暮らす人生を生きなければならないのです。

夫は夫で別に、妻は妻で別に、と言った生活をするのは、共に分かち合う生活ではありません。夫婦とか家族同士など、親しい間柄の人は声音が似る、と言う研究結果がありました。韓国の朝鮮日報2004年3月10日付の報道によりますと、崇実大学校で300余カップルの夫婦を対象に実験してみたのですが、愛情と親密度が高いカップルであるほど、夫婦間の声音が似ていたと言います。

皆さん、今日、家にお帰りになったら一回、「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド…」と声を出して調べてみてください。旦那さんの声と奥さんの声がどこか似ていたら、凄く愛情深く、親密に生きて来た証拠になります。「なに、そんなことが…?」と言われるかも知れませんが、それは科学的に証明された事実なのです。

人たちと相対するとき、私たちの身体からは「トパミン」と「オキシトシン」と言うホルモンを生成すると言います。「トパミン」には性格を似るようにする成分が含まれており、「オキシトシン」には外貌を似るようにする成分が含有されていると言われています。それで、お互いに毎日相対する中で、一番たくさん相対する人同士が自分も知らぬ間に思考方式とか外貌とかが似て行くと言います。したがって、夫婦は他人同士が会ったのにもお互いに性格が似て行き、外貌も似て行くようになると言われています。

私は数多い聖徒さんたちの信仰相談を受けますが、びっくりと驚くのは、長い間一緒に暮らして来た夫婦であるほど、目の前に座っている姿がお互いに兄弟とか姉妹のように似ていることです。こんにち、それが科学的に証明されているのです。夫婦は毎日、顔を向かい合わせて暮らしますので、このようなホルモンが生成されてお互いに性格も似る、姿も似て行くのです。このように、夫婦と言うのはお互いに分かち合いながら一緒に暮らすのがまことの夫婦なのです。

古い話しですが、オクラホマ聖会に招かれて行ったとき、二人の婦人が泣きながら家庭破綻による苦しみを私に訴えて来ました。一人の婦人は、夫を今まで子どもたちの立派な父親であり、自分には素晴らしい配偶者であると思っていたのに、49歳になった或る日、突然、夫が「これ以上、もう一緒に暮らしたくない。もう偽善的な生活はこりこりだ。あんたが傍に来るのも嫌だ…。」と言って、カバンを抱えて家を出て行ってしまいました。どうしたら良いでしょうか…、と涙で訴えました。

もう一人の婦人は、夫が53歳で、立派なお医者でしたが、突然、「もうあんたが嫌だ。嫌気がして一緒に暮らせない。」と言って、自分の持ち物を整理してから、全部持って家を出て行ってしまいました…、と言うのでありました。

このような中年期の家庭破綻は、或る日、突然と起こる問題ではありません。それは長い間積もって来た失望と憎悪が、更年期に入って爆発するからです。なぜ、このような夫婦間の愛情破綻が遅れてやってくるのでしょうか?それは、彼らが共に分かち合う生活をしなかったからです。結婚後、継続して相手を利用対象としてだけ考え、甘い蜜が底を現すや、それでそのまま嫌気がさしてしまって、簡単に相手を捨ててしまうのです。

相手を自分の幸福のための利用対象とだけ思っただけで、お互いに人生を共に分かち合うことをせず、愛情も生活も共有しなかったので発生する問題なのです。利己主義的に暮らして来た結果、そうなったのです。共に分かち合う生活をしたら、お互いに理解し合い、同情し合い、愛し合い、忍耐しながら暮らすようになりますので、限りなく一緒に人生を楽しく生きて行くことができます。ましてイエス様を信じ、神様に拠り頼むとしたら、私たちはかわかない泉の根源をもって暮らすようになるのです。

相手の蜜が底を見せたら、利己的な人たちからは愛情も何も消し飛んでしまうようになり勝ちですが、イエス様を信じる人たちは、互いに主を賛美し、祈り、神様に仕えるので、心の中からかわかない命の水が溢れ出るようになります。それで、いつも一緒に祈りを捧げ、いつも主を賛美し、神様に仕えながら、毎日、分かち合う人生を生きるようになり、一生涯を共にしながらも疲れることがなく、嫌気がさすこともなく、愛が溢れ、平和がみなぎる家庭生活を営むようになるのです。

アメリカ第39代の大統領であったカーター氏は、夫人ロジェリーヌさんと一緒に暮らしました。奥さんロジェリーヌ女史は信仰心があつく、貞淑で賢明な夫人でありました。ところが二人は度々言い争いをしました。カーター氏は、時間をかっちりと守る人で、いつも約束時間30分前には約束の場所に到着していないといらいらして落ち着かない性格の人です。それで約束の時間に遅れたことのない人でありました。

ところが夫人は、それに従って行けず、いつも約束の時間が迫って来てもまだお化粧するなどで、化粧台の前に座って居るときが多くありました。カーター氏は大統領になる前にも、その後にも、このような事で奥さんとよく口争いをしました。カーター氏は「遅くても10分前には約束の場所に行っていなければ悪い」と言い、夫人は「時間に合わせて到着したらよい」と主張しました。大概の夫婦たちがこのような時間問題でよく争いますが、この夫婦も例外ではありませんでした。

それでカーター氏が色々と夫人に言い聞かせ、争いもし、説得させようともしましたが、夫人は少しも直りません。夫人がいつも遅れがちでありました。年老いてから、カーター氏が夫人の誕生日にお祝いのカードを書くときに、いくら言い聞かせても直らない病気だから、もう仕方がない。私が受け容れよう。この年になってまで言い争うことはできない、と考えて、カードにこのように書き入れました。「私が今日まであなたをあまりにも虐めたようだが、済まん。今からあなたは時間を守ることにかけては、自由にしなさい!」

その後、夫人はいかにそのことが嬉しかったか、会う人ごとに「夫が私にくれた誕生日のお祝いカードに、時間を守ることは自由にしなさい、と言ってくれましたよ…。」と自慢したそうです。奥さんの性格を作り直そうと、いくら努力してもそれは直せません。それは生まれつきですから、作り直すことがとてもできないのです。ですから、仕方がなくても受け容れ、収容するのが重要なことです。お互いに向き合って作り直そうとせずに、最善を尽くして歩調を合わせて暮らして行けば、共に分かち合う人生を生きていくことができるのです。





第三、イエス様との分かち合う生活

第3番目に、私たち人生は、父母・子どもの間で、夫婦の間で、共に分かち合いながら生きて行かなければなりませんが、もっとも重要なことは、イエス・キリストと共に分かち合いながら生きて行かなければならないのです。私たちはただ、宗教を信じるのではありません。神様の御子イエス・キリストと共に人生を分かち合う暮らしをするのです。

なぜかと言えば、神様が人として来られて私たちと共に居られるのです。神様は神様であり、人は人であります。あまりにも懸隔な差異があるのだとは思われませんでしょうか。しかし神様が、私たちと共に分かち合う暮らしをなさるために、私たちのように人となって来られたのです。「ヨハネの福音書 1章14節」に、『ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。』と記録されているのです。

イエス様は人として来られて、私たちと共に分かち合う暮らしをなさるために、私たちの不幸をご自身の荷として負われました。共に分かち合う暮らしは、相手を利用しようとすることではなく、相手の悲しみも喜びも分かち合うことです。イエス様は、私たちの不幸をご自身の不幸として背負われました。主は私たちの罪と咎の荷を背負われたのです。「イザヤ書 53章 6節」に、『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』と記録されています。

賛美歌作家として知られているイギリスのウイリアム・カウファーは、6歳のときに母親の死に会い、それからは憂鬱に苦しみながら何回も自殺を企てました。或る日、彼はテムズ川に投身しようと思い立ってタクシーに乗ってテムズ川に向かいました。ところが霧が凄く立ち込めているので、タクシー運転手がロンドン市内をぐるぐる回った挙句に、途中で彼を降ろしてしまいましたが、見ると彼の家の前でありました。それで彼は自殺することができませんでした。

その明くる日、また彼は自殺するために、台所で使う料理用の刃を手に取り上げましたが、誰の所為かその刃が折れていました。それで、その日も自殺することができませんでした。それから何日か過ぎてから、彼は紐で首を吊りました。呼吸が絶えようとしたとき紐が切れてしまい、彼はその日も死ぬことができませんでした。結局、カウファーは33歳になった年から18ヶ月の間、精神病院で療養することになりました。

そこで、聖書を読んでいた彼は、「ローマ人への手紙 3章25節」の『神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。』と言われた御言葉を読んで、心に深い感動を受けました。そして、神様が彼を愛しておられ、すべての罪を赦してくださったのだ、と言う確信を持つようになりました。

その後、彼はその時のことを次のように告白しました。「その御言葉を読む瞬間、義の太陽が私に照り輝き、私はキリストが赦しと義のために成された贖罪を知りました。喜びと感激が私を圧倒しました。私の目には涙がいっぱいになり、息が詰まって何も言うことができませんでした。私は愛と驚異に満たされて、静かに神様を見上げるだけだったです…。」その日以後、彼は生まれ変わった人のようになり、彼の人生は変化され、精神病院から完全に解放されました。

彼は絶望から立ち上がり、喜びと感激に満たされた中で詩を書き始め、偉大な詩人となり、彼の感動的で美しい詩は数多くの人たちに感動を与えました。その中でも私たちが頻繁に喜び歌う賛美歌「428番/聖歌」:

『尊き泉あり そのうちより インマヌエルの血ぞ 溢れ流る
 罪になやむもの くぐり入らば けがれはあらわれ しみは消されん...』

は、ウイリアム・カウファーが作詞したものです。彼は臨終のとき、ステパノのように顔を明るく輝かせながら、「私は、決して天国から追い出されはしない。ハレルヤ〜!」と言いながら、天に召されて行ったと言います。

私たちの主は、罪悪でけがれ、憂鬱病で精神病に罹った人の荷も共に担われ、分かち合い、彼を癒して偉大な詩人にしてくださる神様なのです。私たちの主は、私たちの咎の荷も負ってくださることで私たちと共に居られるのです。「イザヤ書 53章 5節」に、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記録されています。

皆さん、この世の中に、罪と咎のない人がいるでしょうか?皆さんの中で、罪も咎もない、と思う方は手を上げてみてください、...そーら、一人も手を上げる方がおられませんね。そうです。罪も咎もない人は一人もいません。すべての人が罪と咎をもっているのです。しかしイエス様は、私たちの罪と咎とすべての罪過とを、私たちの代わりに背負ってくださいました。

「エペソ人への手紙 2章 1節」に、『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、』と記されています。罪と罪過によって死んだいた私たちを、イエス様が生き返らせてくださったのです。

またイエス様は、私たちの病の荷を負ってくださることで、私たちと共にいてくださいます。人類がいかに色々とたくさんの病気で苦しんでいますか。大小様々な病気が私たちの人生に甚だしく大きい負担となって、人たちが「一生涯健康に暮らしたい」と願うようにまでなっています。

聖書「ペテロの手紙 第一 2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されています。「マタイの福音書 8章17節」には、『これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記録されています。

ひとりの牧師先生がコンゴに宣教師として行っておられましたが、肝ガンに罹って故郷に戻られ、絶望の日々を送っていました。或る日、牧師先生がベッドに横になって聖書を読んでおられましたが、「ペテロの手紙 第一 2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されている個所を読むようになりました。

彼に、この御言葉が強くぶっつかって来ました。先生はベッドから起き上がり、ひざまずいて、主にお恵みに対する感謝のお祈りを捧げました。祈る途中に、主の静かで愛に満ちた御声が聞こえて来ました。「わたしが、あなたの病気を背負ってピラトの庭で、背中がずたずたになるほどに鞭打ちに会いました。そしてあなたに代わって十字架に架けられ、すべての罪を清算しました。わたしが惨い鞭打ちに会うことで、あなたは癒されたと言う事実を、あなたは信じますか。」先生は即座に、「アーメン!」と答えて、その場で立ち上がりました。

すると、胸が熱くなり、自分の病気が癒された、と言う確信が全身にみなぎりました。先生は奥様を呼び、次のように話しました。「あなた、この聖書の御言葉を読んで見なさい。はっきりと“キリストの打ち傷ゆえに、あなたがたはいやされたのです。”と言われたのです。私はもう、肝ガン患者ではありません。だから横になっている必要がないんです。外出します。洋服を持って来てください…。」彼は外出着に着替えて、元通りに使役に励みました。いくらか過ぎて、病院に行って検査を受けましたが、肝ガンの症状が跡形もなく消えていたと言います。主は、私たちの疾病も共に分かち合われ、背負ってくださる神様なのです。

主はまた、呪いの荷を負って下さることで私たちと共に居てくださるのです。この世に、アダムとエバが神様に背信したことによって呪いがもたらされました。土地は、そのためにいばらとあざみをはえさせ、人たちは、顔に汗を流して糧を得なければならない、このような苦難と呪いを、主が私たちと一緒になって背負ってくださるのです。

「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記録されています。キリストにあって主が呪いを分かち合って背負ってくださり、神様の祝福が私たちに及ぶようにしてくださったのです。

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記録されています。主の富を私たちに分けてくださり、私たちの貧しさを主が親しく持っていかれたのです。イエス様にあって貧しさは去って行き、主の富が太陽の光のように私たちに臨むようにしてくださったのです。

また主は、私たちの死の荷を分かち合って背負われることによって、本当に私たちを救ってくださいました。「ヘブル人への手紙 2章14節〜15節」に、『そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。』と記録されています。

死を楽しいと言う人は誰もいません。私たちはみな死を恐れます。この死の恐怖から解放させてくださるために、イエス様は私たちの死を代わりに背負って陰府(黄泉)に下って行かれてから、三日目によみがえられることによって、私たちを死と陰府から解放させてくださり、私たちと共に生を分かち合ってくださる主であられるのです。主のよみがえりは私たちのためのよみがえりなのです。皆さん、主が死者の中からよみがえられたのは、本当に皆さんと私に復活のいのちを与えてくださるためであったのです。

「ローマ人への手紙 4章25節」に、『主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。』と記録されています。また「エペソ人への手紙 2章 5節〜6節」には、『罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と記録されているのです。

ご覧ください。キリスト「お一人」ではないのです。私たちと「共に」であったのです。罪過の中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かし、共によみがえらせ、イエス・キリストと共に天のところに座らせてくださったのです。ですから、イエス様と私たちとを分離することはできないのです。いつも共に存在し、共に生きて行き、共にすべてを分かち合いながら暮らしているのです。

「ヨハネの福音書 14章23節」には、『イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。」』と記録されています。皆さんの住まいが豪華で高級であろうと、草葺屋根の朽ちかけた陋屋であろうと、主は皆さんのところへ来られて、皆さんと共に住みます、と言われたのです。

「ヨハネの黙示録 3章20節」に、『見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。』と言われました。共に食事をすると言うことは、家族の間でするものです。主は私たちと家族になってくださり、共に人生を生きて上げると言われたのです。





第四、成功的な分かち合う生活

第4番目に、成功的な分かち合う生活とは、どのような生活を言うのでしょうか?

皆さん、共に分かち合う生活を営むためには、誰かがその共同体の中で主導的な役割をして導いて上げなければなりません。父母と子どもの共同体では父母が導いて行かなければなりません。一緒に集まって共に暮らしますけれども、誰かが先頭に立って導いて上げなければならないのです。父母が子どもたちを導いて上げなければならないのです。子どもが父母を導いて上げてはならないのです。

「申命記 5章16節」に、『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。』と記録されています。このように、聖書には父母を敬い、即ち、父母のリーダーシップに従え、と言われているのです。「コロサイ人への手紙 3章20節」にも、『子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。』と記されているのです。

ですから、父母と子どもの共同体の中では父母がリーダーシップを発揮して、子どもたちを導いて上げなければならないのです。私には責任がないとして、親が子どもを生むだけで投げ捨ててはいけないのです。

夫婦の共同体では夫が導かなければなりません。夫婦が他人同士で出会って一体となって暮らすとき、夫は頭であり、妻は手足と同様なのです。夫がリーダーシップを握って導いて行かなければなりません。

「エペソ人への手紙 5章33節」に、『それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。』と記録されています。お互いに尊敬と愛で導き、尊敬と愛で従わなければなりません。それでこそ、共同体となるのです。

また、主と私たちとの共同体では、主が導いて行かなければならないのです。私たちが主を導こうとしては絶対にいけません。主と私たちは、花婿と花嫁の関係にあるのです。主が花婿であり、私たちは花嫁ですから、主が私たちを導かなければならず、私たちはただ従って行かなければならないのです。「ヨハネの福音書 10章 3節」に、『門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。』と記録されているのです。

アメリカ第34代のアイゼンハワー大統領は、素晴らしい指導力を発揮した指導者として指折り数えられています。或る日、彼の指導力に感嘆した記者たちが彼を訪問して、その秘訣を聞きました。するとアイゼンハワー大統領は、何も言わずに糸を机の上に一直線にして置いて、「この糸を、後ろのほうから前のほうに押し進めてご覧なさい。」と記者たちに言いました。

記者たちが言われる通りにして見ましたが、糸はくねくねと曲がるだけで、全然進もうとしません。すると、アイゼンハワー大統領が立ち上がって、糸の先端を掴んでさっと引くや、糸は一直線に伸びながら簡単に引っ張られて来ました。大統領が顔に微笑を浮かべながら言いました。「指導力と言うのは、このようなものです。後ろから押したらくねくねと曲がるだけで、全然前方に進みません。指導者は、前方に立って引いて行かなければならないのです。動物は後ろから叩くと前に向かって進みますが、人は、指導者が前から引いてこそ、引っ張られて来るのです。」

ですから、子どもたちを正しく育てるためには、父母と子どもの共同体の中では父母が前に立って模範を示さなければなりません。夫と妻の共同体の中では夫が妻を引っ張って上げ、リードして行かなければならないのです。

皆さん、私は、旦那さんを家庭の指導者に作り上げた奥さんに関する月刊雑誌の記事を読んで深く感動したことがあります。去るIMF寒波によって、旦那さんが名誉退職をしました。そうなるや、父親として、また夫として、彼は自信感を失ってしまいました。彼の友人の中からは、名誉退職後に生きて行く意味を失って自殺する人も現れました。彼も、自殺してしまいたいな、との衝動を何回となく受けました。家に居てもあれこれと心が安らかでなく、外に出ても行く所がありません。

奥さんや子どもたちの前で頭を持ち上げることもできません。意気消沈した毎日でありました。家庭で指導力を完全に消失してしまい、家庭が暗鬱になって行きました。そうした或る日、気落ちした中で近くの山にでも登って時間をつぶそうと、家から出るとき、奥さんが黄色い紙切れを一枚、手の中に持たしてくれました。その紙切れをポケットに無造作に突っ込んで山に登りました。

山の頂に登ってから紙切れを思い出して、取り出して見ました。そこには次のように記されていました。「あなた、あなたは会社を辞めても私の夫です。お金を稼がなくても、私の夫であることには変わりはありません。立派であっても私の夫、立派でなくても私の愛する夫です。あなたが居るところに私も居り、あなたが行くところに私も行き、あなたが住んでいる所に、私もそこに住んでいるのです。ですから、絶対に気落ちしないでね。あなたはあくまでもうちの主人なのよ。私と子どもたちは、あなたを愛しているの!忘れないでね!」

彼は、その紙切れの内容を読みながら、どんなに感動したことか、涙を流したと言います。そして、「これでも、俺を認めてくれる妻が居るんだ。勇気を出さなくちゃ…。俺は職場もなく、お金も稼げない、愚かな人間だが、それでも俺を夫であると、親父であると認めてくれる妻と子どもが居るんだ。何でもしよう。一家の頭として、働かなくちゃ…。道ばたで焼きパンを作って売ることでも構わないんだ。絶対に恥ずかしくない。もう怖気は吹っ飛んだぞっ...。」

彼は中小企業ではありましたが、れっきとした会社の部長までした人です。そんな彼が、山から下りて来るや荷車を引いていき、道ばたでアンコを入れた小さい焼きパンを作って売る商売を始めました。そうしながら彼は、「僕には、僕を愛し、尊敬してくれている妻と子どもがいるんだ。彼らと一緒に暮らして行けると言うことが、こんなにも堂々としたものであり、生き甲斐があるんだから、僕は幸福なんだ...。」と、独り言を呟きながら、幸福そうに毎日を生活している人がいる、と言う記事を読んで、私も大いに感動したことがありました。

奥さんが失業の旦那さんを家庭のリーダーにして上げたのです。普通一般の女性であったら、「嫌だー。馬鹿な男。職場もない。月給もない。妻子を食わせて行けない男が何のご主人様だ…?出て行ってもらうわ…。」と言うかも知れません。そうしたら、その家庭はどうなるでしょうか。その旦那さんはどこに行けば良いでしょうか。地下鉄駅のホームレスの群れの中にしか、行きところがありません。露宿者になるしかないのです。

皆さん、妻が夫をリーダーにして上げなければならず、また夫は、リーダーとしてどのような犠牲でも甘受しながら妻子と共に生きて行かなければならないのです。そうだとしたら皆さん、一度考えてみましょう。イエス様はどのようなリーダーでしょうか。リーダーになるためには、共同体を保護し、養育し、導く能力と、すべてに責任を負わなければなりません。天と地のすべての権力を持ち、私たちを救うためにご自分のいのちをも惜しまずに、十字架に架けられて身を裂き血を流して死の目に会う犠牲を払われた、そのお方が、私たちを保護してくださらないことがあるでしょうか。

イエス様は、私たちのリーダーであられるのです。私たちの保護者であられるのです。詩篇記者は「詩篇 91篇 2節〜3節」に、『私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。』と記録しています。イエス様には、私たちを保護してくださることができる力があるのです。またイエス様は、私たちを養育してくださる事ができる力も持っておられるのです。

『何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめなさい。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、あなたがたの父は、それがあなたがたにも必要であることを知っておられます。』と、「ルカの福音書 12章29節〜30節」に記録されています。

荒野で、300万のイスラエルの民たちに40日間もマナを食べさせた神様...、パン五つと魚二匹で、5,000名食べさせてから12のかごにもいっぱい残させたイエス様は、私たちを霊的に、精神的に、肉体的に養育してくださる力をお持ちなのです。

そしてイエス様は、私たちを導いて行くリーダーシップを持っておられます。過去と現在と未来をすべて知り尽くしておられるイエス様です。「わたしが道です。」と言われたイエス様なのです。私たちを導いて行かれないことは全くないのです。それでイエス様は「マタイの福音書 11章28節」を通して、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と、堂々と言われたのです。

「ヨハネの福音書 10章28節〜29節」に、『わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。』と記録されています。

従って私たちは、イエス様が私たちと共におられ、私たちと共に人生を分かち合ってくださる、偉大なリーダーであることをはっきりと知ることができるのです。

それでは皆さん、リーダーに従う私たちは、どのような心構えでいなければならないでしょうか。子どもたちがどのような心で父親に従わなければならず、妻がどのような心で夫に従わなければならず、私たちクリスチャンがどのような心情で主に従わなければならないのでしょうか?皆さん、リーダーに従う人たちの役割は、優しく、従順に聞き従うことです。従順に聞き従ってこそ導いて上げることができるのです。不従順し、反抗し、対決態度なのでは導いて行くことができません。

「申命記 30章20節」に、『あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。』と、記録されているのです。

「マタイの福音書 11章29節」にも、『わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。』と記録されています。主に従順に聞き従い、主から学んでこそ、主は私たちを導いて行くことができるのです。

こんにち、世界でノーベル賞をいただいた人たちの中で、3分の1がユダヤ人であると言われています。ニューヨークの場合、中高等学校先生のほぼ半分がユダヤ人であり、ハーバード、ステンフオード、エイル大学の医科大学と法科大学の教授中、その半分がユダヤ人であると言われています。

韓国の最初の盲人博士で、アメリカの障害者協会の会長であるカン・ヨンウ博士が、アメリカに住んでいるユダヤ人を調査して見たところ、アメリカ最高の知性人21名の中の15名がユダヤ人であったと言いました。それで彼は、ユダヤ人たちがどのようにして成功したか、その秘訣を研究してみたところ、ユダヤ人たちは次の二つに関して確固たる信仰を持っていた、と言います。

第1、すべての力は神様から来る、神様がなさることは無条件的に正しい、神様がなさることに対しては絶対に疑問を提起しない。第2には、神様の命令に従順したら祝福を受け、不従順したら罰を受ける、神様に対する絶対的な信仰、そして従順に聞き従う暮らしが彼らの成功秘訣であった、と言いました。

ですから、主であるイエス様が私たちを導いて行かれるとき、私たちは絶対に従順に聞き従わなければならないのです。従順に聞き従わなかったら、主は私たちを祝福してくださることができないのです。

ボン・ヘパーは、「信仰とは、主の命令に従順に聞き従うことである。」と言いました。マクドナルドは、「神に従順に聞き従うことこそ、すべての門を開く鍵である。」と言いました。エンドリュー・マレイは、「信仰は従順に聞き従うことである。イエス様に対する信仰は、その方によって支配され、影響され、統制されるために、全的にイエス様に従順することである。」と言いました。

また、指導者に従う私たちは、信じ、拠り頼まなければならないのです。先ず信じなければなりません。私は知らない、として疑ってはなりません。指導する人がすべてを認識して導いて行くのです。私たちは信じ、拠り頼まなければなりません。「詩篇 37篇 5節〜6節」に、『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。』と記録されています。

「ヘブル人への手紙 11章 6節」には、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記録されているのです。

アブラハム・リンカーンは危機の瞬間ごとに祈り、信仰で一貫したことで有名な方です。或る日、ひとりの人がリンカーンを訪れて来て、「なぜ、危機の瞬間ごとに祈るのですか?」と尋ねました。するとリンカーは、「私は、祈ること以外には、ほかに最善の方法があることを知りません。私の知恵と、周辺の人たちの才能でもってしても、危機を克服するには力不足です。ひとえに全能なる主が最善の方法をご存知ですので、私は謙遜にへりくだって、主を信じ、拠り頼むだけです。」と答えたと言います。

アブラハム・リンカーンが歴史上、偉大な大統領になれたのは、彼が神様に祈りを捧げ、神様を信じ、神様に拠り頼んだからなのです。目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、前途が漆黒のように真っ暗であっても、神様を信じて従順に聞き従わなければならないのです。

そして指導者について行く人は、指導者に仕えなければなりません。自分に仕えずに指導者に仕えなければならないのです。導いてくれる、働いてくれる指導者に仕えなければならないのです。「ヨハネの福音書 12章26節」に、『わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。』と記録されています。

イエス様に心から仕えてこそ、神様が愛してくださり、祝福してくださるのです。私たちが教会に出席しながらも自分自身のためにだけ仕える信仰生活をするのであったら、それは間違った信仰生活です。

ぶとうの木と枝は、生を共に分かち合っています。ぶとうの木と枝は別々に生き、互いに見向きもしない、そのような関係ではありません。ぶとうの木と言う共同体では、木の幹が枝を保護し、栄養を供給し、育つようにする絶対的な責任があります。木の幹が枝を支えているのであって、枝が木の幹を支えているのではありません。木の幹が栄養と水分を枝に供給するのであって、枝が幹に何かを供給するのではありません。木が枝を通して花を咲かせ、実を結ぶのであって、枝が自らの力でそうするのではありません。

そして、枝は木に絶対に服従してくっついており、拠り頼み、木の意に従って葉を出し、花を咲かせ、実を結びます。聖書に、イエス様と私たちとの共同体生活ではイエス様がぶとうの木であり、私たちは枝であると記録しています。ぶとうの木が枝を支えているように、イエス様が皆さんと私を支えておられるのです。ぶとうの木がぶとうの枝に栄養分を供給しているのと同じく、イエス様が私たちに血を供給してくださるのです。

枝が木のために葉を出し、花を咲かせ、実を結ぶように、私たちがこの世を生きる目的は、主の栄光のために葉を出し、花を咲かせ、実を結ぶ人生を生きなければならないのです。これがイエス様との共同体生活であり、イエス様と共に分かち合う人生なのです。

父母と子どもも、共に分かち合う人生を暮らさなければなりません。夫婦の間でも共に分かち合う生活を営まなければならず、イエス様と私たちも、共に分かち合う人生を生きなければならないのです。成功的な共に分かち合う生活をする為には、私たちを導いてくださる主は、私たちを保護してくださり、養育してくださる力と愛を余りあるほどに持っておられるお方であると言う事実を私たちは認め、信じなければなりません。

私たちが主に従順に聞き従い、信じ、拠り頼み、仕えながら生きて行ったら、神様と驚くべき共同体生活をするようになり、神様と共に分かち合う生活をするようになり、今から永遠まで、私たちは神様と一緒に幸福な人生を生きることができるのです。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、わが父なる神様!

こんにち、私たちはお互いにあまりにも離れ離れに散らばった暮らしをしております。父母は父母なりに、子どもは子どもなりに、夫は夫なりに、妻は妻なりに、聖徒は聖徒なりに、イエス様おひとりをほったらかにして暮らす人たちがあまりにも多いです。

まことの共同体生活は、お互いがみな参与し、共に分かち合うものであることをみんなが知り、悟るように助けてください。

父母と子どもも共に人生を分かち合い、夫婦も共に人生を分かち合い、特にイエス様と私たちはこの世でも、あの世でも、共に分かち合う人生を生きて行くことが出来るように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!