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「まことの自由と解放」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 4章16節〜21節」

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」






今日、私は皆さんたちとご一緒に、『まことの自由と解放』という題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

1945年8月15日、私たちは日本帝国の植民地として36年間の圧迫とその悲しみから自由と解放を得ました。日本の植民地であった時代に、若い青年たちは「強制徴兵」で狩り出され、意味もなく戦場で死んで行き、若い処女たちは「挺身隊」という美名のもとに引っ張り出されて連れて行かれては、日本軍の性の奴隷、慰安婦となり、30〜40代の壮年男性たちは「報国隊」として徴用され、炭鉱や強制労働に動員されました。

老人と婦女子、子どもたちが汗水流しながら努力して得た農作物は「供出」との名目で朝鮮総督府に奪取されて、国民たちは草根木皮で延命し、大砲や砲弾を作らなければならないとして、鉄製や銅製の匙も釜も洗面器もみな、日本人たちが奪って行きました。日本軍の憲兵と警察官の監視は、子どもも泣き止むほどに恐ろしいものでありました。

私は、その時代に生れて育ちましたので、この話は人から聞いた事柄ではなく、直接に私が体験したお話しです。私たちは、名前も言葉も文字も奪われました。私のその当時の名前は「趙繩ではなく、吉田繩」だったのです。韓国語を喋ってから見つかったら、先生から打たれ、一日中罰を受けました。文字も韓国語は使えず、日本語を書かなければなりませんでした。本当に悲しい日々でありました。

しかし、解放された日、韓国人たちは急造した国旗(太極旗)をみんなが手にして道に飛び出して行き、当時の私たちには初耳の「愛国歌」を喚くが如くに歌いながら行進しました。日本軍の憲兵たちや警察官たちはいつの間にか逃げてしまい、群集は警察署に放火し、日本人たちがお守りとしていた神棚を取り下ろしては道端に投げつけて壊しました。

しかし、イエス様がこの地に来られたのは、人間たちにまことの自由と解放を与えてくださるために来られたのです。それは、人間の存在的自由と解放なのです。




第一、貧しい人々に福音を

第1番目に、イエス様は貧しい人々に福音を伝え、自由を与えるために来られた、と言われました。アダムの堕落後に、人間は神様から捨てられ、地は呪われました。人間は貧乏と呪いの奴隷になってしまったのです。

「エレミヤ書 17章 5節」に、『主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」』と言われ、「イザヤ書 1章28節」には、『そむく者は罪人とともに破滅し、主を捨てる者は、うせ果てる。』と記録されています。人生は、主である神様を捨てたことによって呪いを受け、失せ果てるしかない悲惨な存在でありました。

何よりも人間は、霊が神様から捨てられて貧しくなりました。霊が死んで神様を失ってしまい、正体不明の忘れられた存在になってしまったのです。アダムとエバ以後に、人間は正体不明の存在になりました。どこから来て、どこへ行くのかを全く知らず、現実に捕えられて生きる動物的な人間に過ぎなくなったのです。

 「ヤコブの手紙 4章14節」に、『あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。』と記録されています。これが、正体不明な存在である人間なのです。

「コリント人への手紙 第二 4章 4節」には、『そのばあい、この世の神が不信者の思いをくらませて、神のかたちであるキリストの栄光にかかわる福音の光を輝かせないようにしているのです。』と記録されています。悪魔は、人をくらませせるこの世の神となってすべての人たちの心を占領し、人たちの心が混迷して神様もキリストも知らず、どこから来て、なぜ生きており、どこに行くのかも知らずに、生きる意味と価値を喪失するように仕向けました。これが、霊的な貧困なのです。

そのうえに、人間は生活の貧困に落ち込むようになりました。呪われた土地からはいばらとあざみが生え、それらを取り除けながら顔に汗を流して開墾してから、人間は食を得て食べて行く人生になったのです。「創世記 3章17節〜18節」に、『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。』と記されています。

或る人は言います。「そんなことはない。こんにちの世界は緑色革命を通して農業を開発し、お陰で世界の人たちが良く食べ、立派に生きて行くようになったんだ。」と。しかし、実際はそうではありません。貧困は、科学が発達した現在も相変わらず解決されていない問題です。UN食糧農業機構が公開した資料によりますと、世界の飢餓人口は現在、8億4千2百万人に及ぶと言います。この人たちは慢性栄養欠乏で苦しんでおり、その中でも特に、女性たちと子どもたちの被害が大きいです。

毎日、1千余名の女性たちが簡単な医療を受けることができないので死んでいくのだそうです。毎年、2万名の幼い子どもたちが野菜と安価なビタミン剤を食べれないので失明しております。そして毎年、1百万名の子どもたちが飢餓と栄養欠乏で死んでいきます。それだけではありません。数多い子どもたちが学校に行く年齢であるのにも、学校には行けずに労働現場で働いているのです。国際労働機構によりますと、全世界的に児童労働者が2億4千6百万名に達すると言うのです。

アダムとエバが堕落してから、人間は呪われた地上で生活の窮乏と困窮をどうすることもできずに、今も飢えた腹を抱えて身悶えしている事実を私たちは良く知っています。ところが、イエス様が来られたのは、このような奴隷生活から救い出し、まことの自由と解放を与えるためである、と宣言なさったのです。「マタイの福音書 4章17節」に、『この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」』と記録されています。

皆さん、私たちが言う理想的な天国が、私たちの知らない遠くの世界にあるのではなく、イエス・キリストを通して私たちの傍近くに来ているのです。イエス様が天国を私たちのもとに持って来られた、という事実を知らなければなりません。イエス・キリストによって私たちの霊がよみがえり、神様と和解し、失ってしまった自我を私たちは探し当てることができたのです。

霊が死んだ人生が、イエス・キリストを通して罪の赦しを受け、救っていただき、義と栄光と平安を得、失った自我を私たちは取り戻しました。その間、私たちは自分自身が誰であるのか知らなかったのですが、イエス・キリストを通して救っていただいたところ、どこから来て、どこに行くのか、なぜ生きているのかをはっきり知るようになったのです。

もう、神様から見捨てられて、自分自身を失ってしまった存在ではありません。正体不明の人ではなく、自分の正体がイエス・キリストにあって確実に救われた存在になったのです。神様が、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいましたので、この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得たのです。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙第二5章17節)

イエス様のうちにあって、私たちの正体性は確実なものになったのです。私たちは赦された義人となり、聖く、聖霊充満な存在となり、癒されて健康になり、祝福していただいてすべてに幸いを得、復活と永生と天国を得た確実な存在になってしまったのです。「ローマ人への手紙 5章10節」に、『もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。』と記録されているのです。

従って、私たちの霊が生き返ったのですから、私たちは霊的にも、現実的にも神様から祝福していただいて、貧困から豊饒に立ち直ったのです。

世界的大文豪トルストイは、ギリシア正教を信じる家庭で生まれ、信仰教育を受けながら成長しました。しかし青年になった時、彼は、当時世界的趨勢であった合理主義と人本主義にひたり、完全にイエス・キリストを離れて不信者になってしまいました。彼は、人間が努力したら完全な存在になることができると信じ、世界と人類もこれまた発展していくことができる、と思いました。しかし、彼の心はだんだんと虚無に包まれだしました。

彼が当時を回想しながら書いた本に、次のような内容があります。「私は、恐怖心と嫌悪感と心的苦痛でいっぱいだ。私は戦場で数多くの殺人をし、決闘をして人を殺しもし、賭博にもふけり、農奴たちを弄び、搾取もした。私は姦通を犯し、詐欺を働き、盗みもし、暴行と殺人をした。私が犯さなかった罪は一つもない。私は凶悪な犯罪人である…。」自分の力と能力で偉大な人生を生きるという人は、結局は罪の捕虜となってこのような人生を生きるようになるのです。

このような絶望的な人生を暮らしたトルストイは、突然の兄の死と、数多い死刑囚たちの死を見た後、人間存在の根本に関して深く考えるようになりました。彼は、自分が教わり、信奉していた哲学と科学を通して答えを得ようとしましたが、満足できる答えを得ることができませんでした。しかし遂に、彼は神様の福音の中からその答えを発見しました。

彼の著書である“懺悔録”に記録した如く、「人間は、神様なしには存在する事ができない。」と言うことを悟った、と言いました。トルストイはイエス様を救い主として迎え入れ、それで彼の霊が生き返り、忘れてしまっていた自我を探し当てるようになり、その結果、“復活”という偉大な小説を書き残すことができたのです。人間が、人の力で救いを受けることができ、聖く、まことの人生を生きることが出来るというのは、一つの理論であり、理想に過ぎないものです。

パウロ先生は「ローマ人への手紙 7章19節〜24節」を通して、『私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。 すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、 私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』と嘆きました。

人間の力とか能力ではできません。イエス・キリストが救い主として来られる時はじめて、まことの自由と解放を得ることができるのです。悪魔と罪悪の抑圧と悲嘆の中で長い間苦しんで来た私たちの力で、自由と解放を得ることはできません。キリストだけが、私たちに自由と解放を与えてくれる事ができるのです。

また、人間は呪いから解放され、父なる神様が顧みてくださる子となりました。霊的に自由と解放を得て、父なき子ではなく、これからは父なる神様が顧みてくださる子となったのです。「マタイの福音書 6章31節〜32節」に、『そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。』と言われているのです。

私たちは父なき孤児ではなく、もう父なる神様の子たちとなりました。私たちのこの父がどなたですか。天地と万物を造られました。天地と万物の中心となられ、宇宙をご支配なさり、歴史を主管なさり、世界をご支配なさりながら、人間の生死禍福を主張なさる、絶対主権をお持ちの神様なのです。神様は永遠無窮で、至極広大な神様です。この神様が私たちの父となられたのです。

「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記録されています。

また「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記録されています。

皆さん、イエス・キリストを信じる人たちは、この世でも祝福された生活を営んでおります。ソウルの或る教会で、信者と不信者各100名ずつを対象に調査して見たところ、不信者たちに比して信者たちの生活水準がずば抜けて高かったと言います。先進国の集いであるOECD会員国も、トルコと日本を除いてはみながキリスト教を信じる国家たちです。これは、神様の子らがイエス・キリストを通して貧困の呪いから解放された人生を営んでいることを証明するものです。

キリストは、霊的貧困、肉体的貧困の捕虜となり、自由を失ってしまった人たちに自由と解放を宣布なさるがために来られたのです。そして今も私たちの中で主は、驚くべき御力をもって霊的貧困と物質的困窮から私たちを救い出して、自由と解放をほどこすみわざを働かしておられるのです。




第二、捕らわれ人には赦免を

第2番目に、主は捕らわれ人には赦免をほどこすために来られたと言われました。人たちは、エデンから追い出された瞬間から悪魔の捕虜になっています。アダムとエバが神様に背を向けるや、待っていましたとばかりに悪魔の手中に落ちました。神様に背を向けても、自分の力で生きて行けるものと思いがちですが、絶対にそうではありません。人には、中立地などはないのです。人間はアダムとエバ以後、悪魔の支配下に置かれ、悪魔の支配を受けながら生きております。

「ヨハネの福音書 8章44節」を見ますと、『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』と、イエス様が言われました。

「エペソ人への手紙 2章 2節」には、『そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』と記録されています。主に不従順する人たちには、自分が知っていようが、知っていなかろうが、彼らの中に空中の権威を持つ悪霊が入って来て支配しているのです。

「何だと?僕の中に悪い霊共が入って来ているんだと…?ふざけるな、おい。」と、怒る人もいます。しかし、事実なのです。悪霊共が入っているので神様には背を向け、世の中に、世俗にへと進んで行き、肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求するようにするのです。悪霊が働いて、この世に住んでいながら一日も、ただの1秒も神様やイエス様を考えないように仕向けているのです。世俗の奴隷になるように悪霊共は絶え間なく誘っているのです。

人間は、悪魔に捕らわれて暮らし、罪の捕虜となって生きています。「ヨハネの福音書 8章34節」に、『イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。」』と言われました。人は罪の奴隷となって、罪を犯しながら暮らしているのです。

「エペソ人への手紙 2章 3節」には、『私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。』と記録されています。

人たちは、罪が罪であることを知っています。パウロ先生も、『すなわち、私は、内なる人としては、神の律法を喜んでいるのに、私のからだの中には異なった律法があって、それが私の心の律法に対して戦いをいどみ、私を、からだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです。』(ローマ人への手紙7章22節〜23節)と言われました。「罪を犯してはならない。」「罪を犯してはならない…。」と言いながら、人たちは罪を犯しているのです。

こんな事は今日だけで、止める。明日は又としない…!と言いながら、明日になったら又、同じ罪を犯します。そして言います。もう明後日からは罪を犯さない…!と言っては、又罪を犯します。罪の捕虜になっているのです。罪から解放されることがないのです。

その上に人間は、絶望の奴隷です。希望を失ってしまった存在です。「ヨブ記 8章13節〜14節」に、『すべて神を忘れる者の道はこのようだ。神を敬わない者の望みは消えうせる。その確信は、くもの糸、その信頼は、くもの巣だ。』と記録されているのです。

「箴言 11章 7節」の御言葉です。『悪者が死ぬとき、その期待は消えうせ、邪悪な者たちの望みもまた消えうせる。』「エペソ人への手紙 2章12節」には、『そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。』と記録されています。神様が共にいてくださらなかったら、希望がありません。ただ動物のように、肉の欲求だけを満たしながら暮らしてからは、永遠の暗やみの中に落ちてしまうのです。

人間が罪によって絶望の奴隷になり、希望を失って生きて行くようになることは余りにも悲劇です。イギリスが生んだ世界的劇作家シェークスピアは、「安楽は天にあり、私たちが暮らすこの地上には、ただ不安と苦悩と嘆きがあるだけだ。」と言いました。アメリカの思想家で、文学者でもあるヘンリー・デイビッド・ソルーは、「大部分の人たちは、静かな絶望の中で人生を生きて行く。」と言いました。騒がしく「私は絶望だー。」とは言わないが、心の深い奥底に絶望の涙を溜めて生きていると言うのです。

また、イギリスの聖職者トーマス・ピューラーは、「人は、悲鳴と共に泣きながら生まれ、苦痛と共に生きてからは、結局は絶望しながら死んでいく。」と言いました。子どもが生まれる時、おぎゃーと泣きながら生まれます。しかし、この世の人生は苦痛だけです。そして死ぬ時には、絶望して死ぬのが、こんにちの神様が共にいてくださらない人生の現実なのです。

ところが、イエス・キリストが来られたのは、このような人たちに自由と解放を与ええるために来られたのです。この抑圧と悲しみから、暗やみと苦しみの中で暮らしている人生たちに自由を与え、解放させて上げるためにイエス様が来られたのです。「エペソ人への手紙 2章 4節〜5節」に、『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・』と記録されています。

また、「ガラテヤ人への手紙 5章 1節」には、『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』と記録されています。

何年か前のことです。アメリカの聖会に招かれて行ったとき、偶然なことから、泊まっていたホテルの黒人のベル・ボーイと一緒に食事をすることになりました。彼は黒人ではありましたが、非常に印象が良く、人なつこい笑顔の人でありました。食卓に向かい合って座るや、その黒人が涙を流しながら泣き出しました。驚いて、私が尋ねました。「何故泣くんですか?」すると彼が、次のように話してくれました。

2年程前に、チョウ先生の「祈りに関する本」を読んで、凄く感動を受けました。その時、私は、「何とか、チョウ先生と食事でも一緒にすることが出来るようにしてください…。」と、神様に祈りました。祈りながら、実際には内心、僕のようなクロンボにチョウ先生が会ってくれて、しかも食事を一緒にしてくれる...とは、自分ながらも思えなかったのです。ところが今日、チョウ先生を私の車でここまでご案内することができ、その上に一つ食卓で食事も一緒にすることができるように神様が計らってくださいました。感激し、有り難いので、つい涙をお見せしてしまいました…。

彼は幼かった時、父親が母を捨てて家出してしまったので、母の手ひとつで育てられました。勉強もできず、悪友の群れに混じって随分と悪いことを仕出かしながら成長しました。大きくなってからはギャング組織の一員になり、強盗は勿論、殺人も平気でやってのけました。麻薬にも、売春にも関わり、警察に追われたり、刑務所にもぶち込まれたりしました。共謀した大きな事件が発覚してまた警察に追われ、母親の勧めで父が同棲している4番目の継母の家に行って隠れて過ごしました。

その4番目の継母が篤実なクリスチャンで、彼は女友たちを紹介して上げると言う継母の誘いで教会に顔を出し、その日、牧師のメッセージを聞いて恵まれ、涙を流しながらイエス様を救い主として向かい入れました。そして、聖霊に満たされて異言をも話すようになり、その後、悔い改めて神学校に入り、今は牧師になって、小さい倉庫の隅に教会を開拓して、麻薬やアル中毒者、強・窃盗を業とする住所不明の青少年たちを中心にした教会で牧会し、運営費と食品代を稼ぐために昼はホテルでベル・ボーイとしてアルバイトしているのだと言いました。

そして彼は、次のような話を聞かせてくれました。「チョウ先生、この世の中でアメリカの政府も、FBIも、私を変化させることはできませんでした。ところがイエス・キリストを救い主として受け入れてからは、瞬く間に、私は変化されて新しい人になりました。罪から自由を得させ、犯罪から解放させてくださるイエス・キリストの御力を、私がチョウ先生に証しすることができたことを、本当に私は嬉しく思います…。」

誰が、このような人を変化させる事ができるでしょうか。変化は長い時間を必要とするものではありません。イエス様が入って来られたら瞬く間に変化されるのです。キリストは、罪と死の原理から私たちを瞬く間に解放させてくださるのです。主は奇蹟の神様です。こんにちも、私たちを罪と死の絶望から自由と解放を与えてくださる偉大なみわざを働かせておられます。神様は、悪魔の捕虜、罪の捕虜、絶望の捕虜である私たちに、自由と解放を与えてくださるお方なのです。




第三、盲人には目の開かれることを

第3番目に、盲人には目の開かれることを告げるために来られた、と言われました。アダムの堕落した以後、霊が死に、霊の目が暗くなったので、人たちは霊的世界を失ったのです。アダムは犯罪する前には霊の目が開かれていたので神様を見ることができました。神様と対話し、神様と一緒に散策し、神様と嬉しく、喜ばしく過ごしました。霊の世界がアダムには彼の故郷でありました。

ところが、罪を犯すや霊の目が暗くなり、見えなくなりました。目が見えなかったら事物を見ることができません。皆さん、目が見えない人にいくら虹の色を説明しても分かりません。見ることができないと言うことは大きな不幸であり、悲劇です。見ることができないと言うことは、実像を説明しても見ることができないので、それが何なのか知りません。信じない人に天国に関する話をいくらしても、霊の目が見えないので知ってもらうことができず、阿呆な話だと言われます。彼らは地獄も恐がりません。霊的に悟ることができないからなのです。

「詩篇 10篇 4節」に、『悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは「神はいない。」の一言に尽きる。』と言われました。何故でしょうか?霊が死んだのですから、神様が見えません。それで「神はいない。」と一言で言い切ることができるのです。

「マタイの福音書 6章23節」に、『もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。それなら、もしあなたのうちの光が暗ければ、その暗さはどんなものでしょう。』と記録されています。目が見えなかったら、周辺が全部暗いです。霊の目が暗いので、人生自体が真っ暗です。天の御国に関して全く知りません。霊がない、魂に頼るだけの存在になってしまうのです。理性と科学を通して体験したことしか知らない存在になってしまうのです。

人は、霊と魂と肉で出来ています。霊が神様と対話し、神様と共に生き、魂はこの世で理解し、理性的に考え、科学を通して知る...、このような役割をするのですが、魂だけが生きていて、人間は魂に頼る存在になり、肉の感覚を通して感覚的存在となるのです。「コロサイ人への手紙 2章 8節」に、『あのむなしい、だましごとの哲学によってだれのとりこにもならぬよう、注意しなさい。そのようなものは、人の言い伝えによるものであり、この世に属する幼稚な教えによるものであって、キリストに基づくものではありません。』と記録されています。

聖書を信じ、神様と共に生きることは高等学問に属する人です。この世の教育を受け、理性と科学を通して魂的な暮らしをする人は初等学問に属する人です。初等学問の人が高等学問の人を批評することはできません。小学校の学生が大学生に向かって、これが正しい、あれは不当だ、などと言えるものではないのです。霊的知識を持った人は、高等学問をする人であり、この世の学問は初等学問に過ぎないものです。ですから、私たちは初等学問の哲学とか空しい誘惑に惑わされてはいけません。

しかし、イエス様のそばに近づいて行ったら霊の目が開かれます。或る日の夜、ユダヤ人の指導者であり、尊敬されているニコデモという人がイエス様を訪ねて来ました。その日の夜は暗くはありましたが月があり、雲の間から月が顔を出したり、隠したりしていました。風が吹く夜でありました。このニコデモはひそかにイエス様に会いに来ました。ユダヤ人たちはイエス様を異端であると宣伝していた時ですので、人の目につかないように、夜を選んで人の目を避けて訪ねて来たのです。

ニコデモがイエス様のもとに来て言いました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行なうことができません。」イエス様が、単刀直入的に答えて言われました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネの福音書3章2節〜3節)

ニコデモは、びっくり驚いてしまいました。「…これは一体、何の話だろう?」彼は初等学問の人ですので、直ぐには悟ることが出来なかったのです。それで、ニコデモが聞き返しました。「人は、老年になっていて、どのようにして新しく生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか?」すると、イエス様が答えられました。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。」(ヨハネの福音書3章5節〜7節)

その時、風が吹いてきて木の枝が揺れました。イエス様が言われました。「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」ニコデモは、イエス様の言われることが何の話なのか、とても理解することができませんでした。主が言われたことは、霊の死んだ人がイエスを信じて救いを受けなければ、天の御国を知ることは絶対にできない、と言うことであったのです。

それでニコデモが、「どうして、そのようなことがありうるのでしょうか?」と問いました。するとイエスが、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」とお答えになりました。新しく生まれる道は、十字架に釘付けられたイエス様を見上げる道しかない、と言われたのです。従って皆さん、イエス・キリストを見上げることができたら、そしてキリストを救い主として受け入れたら、瞬く間に霊の目が開けるようになるのです。

或るひとりの囚人が、イギリスとオーストラリアで40年間も刑務所で過ごしました。彼はもともと性格が凶暴で、目を放したら直ぐに問題を引き起こしては、看守たちから皮の鞭で数も無く打たれました。看守たちは彼を独房にも入れてみたりしましたが、全く変化しないので、後には刑務所と警察で「この囚人は変化される事のできない絶望的な存在である」と印を押してしまいました。

長い服役期間が過ぎて、彼が出所しました。行くところがありません。たまたま教会に属している宿泊施設で一晩を泊まるようになりました。彼は、そこで一人のクリスチャンに会い、イエス・キリストに関する話を聞くようになりました。そして、イエス・キリストを救い主として受け入れる祈りを、その人がさせる通りに従って捧げました。ところがその時、突然胸の中が熱くなり、一生涯をそんなにも凶悪に生きて来た彼が、涙をぽろぽろ流しながら泣きだしました。誰も理解することができませんでした。

彼は相次いで、身悶えしながら、床の上を転がり回りながら罪を告白し、悔い改めました。イエス・キリストを救い主として迎え入れるや、聖霊によって新しく生まれ、直ぐにその場で古い人を脱ぎ捨て、霊の目が開かれて、神様を知り、イエス・キリストを悟るようになったのです。彼は180度変化されて新しい品性の人となり、その瞬間以後からは、18年間も誠実に教会に仕え、誰よりもまじめに信仰生活をする人となりました。

彼は、自分の変化に対して質問する人たちにこのように答えました。「私は400回の鞭打ちと、40年間の刑務所生活をしましたが、変化されることがありませんでした。しかし、聖霊さまが臨むや、私はわずか1分もかからないうちに新しい人に変化されてしまいました。」皆さん、捕虜になっている人に強者が来て解放させてくれたら、その人は瞬く間に解放されるのです。イエス様を信じて変化されることは、長い時間がかかるものではありません。一瞬のうちに悪魔が離れ去り、暗かった目が明るくなって変化されるのです。

「コリント人への手紙 第二 4章 6節」に、『「光が、やみの中から輝き出よ。」と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。』と記録されています。




第四、虐げられている人々を自由にし

第4番目に、主は「虐げられている人々を自由にするため」に来られたと言われました。虐げられている人々とは、人権を剥奪された人々のことです。昔、奴隷であった人々は主人の鞭の下におり、主人から虐げられながら人格的に抑圧された生活をしました。

北朝鮮の住民たちがその実例です。北朝鮮は今も、お米が配給制で、住民のもっとも基本的な衣食住を制限しています。また、全住民を出身成分と忠誠心によって核心階層・約28%、同僚階層・約45%、敵対階層・約27%と三つの階層に区別して差別待遇をしていると言われています。ところが、敵対階層に属する人たちは、一朝有事の際には処刑対象と見なして徹底的に監視していると言います。北朝鮮は法的に人権保護装置もなく、今も党の指示が法律よりも優先視され、人民裁判と公開処刑が行なわれていると言います。

北朝鮮を脱出して韓国に帰順して来た人たちの証言によりますと、党の機嫌を損ねた人たちは政治犯収容所に監禁され、そこの環境は筆舌では言い尽くせないものがあり、一旦、そこに収容されたら生きては出られない、と言います。現在、そこには20万名を越える人たちが監禁されていると言われています。

それに加えて、深刻な食糧難に因る人権侵害が問題だ、と言います。食糧配給が充分でなく、円滑でないので飢え死にする住民が少なくなく、飢えを解決する方法がないので牛を屠って食べた人を公開処刑したと、2004年4月5日付のハンキョレ新聞が報道しました。北朝鮮の住民たちが現実的に虐げられている人々たちなのです。

イエス様は、悪魔に虐げられている人々を解放して上げて、自由を与えるために来られました。心と肉体の病人たちのために主が自由と解放を与えられたことを、「使徒の働き 10章38節」に記録しています。『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』個人、家庭、社会、生活、肉体の病まで、主は虐げられている人々を解放させてくださったのです。

皆さん、私がモンゴル聖会の時に凄く感動を受けたのは、生まれるときから聾唖であった幼い娘を連れて来た母親が、娘の耳が開かれ、口が開かれて話し出し、喜ぶや、母親がどんなに嬉しかったか、感激してどうすべきか知らない様が、今も私の目には鮮明に思い浮かびます。私はそれを見て、「自由と解放が、あんなにも嬉しいものだ!」とつくづく感じました。

また、その聖会で、肺ガンに骨髄ガンまで罹って担架に載せられて運び込まれた人が、二日目の聖会で担架からひとりで立ち上がり、歩き出しました。これが自由なのです。悪魔に制せられて自由を失ってしまい、抑圧され、死の目に瀕していた人が、キリストの御名によって自由と解放を得るようになったのです。

「ヨハネの福音書 10章10節」に、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と記録されています。イエス様は、悪魔に虐げられている人たちの人生に自由と解放を与えるために来られたのです。

「ルカの福音書 10章19節」に、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』と、イエス様が言われました。また「イザヤ書 9章 4節」には、『あなたが彼の重荷のくびきと、肩のむち、彼をしいたげる者の杖を、ミデヤンの日になされたように粉々に砕かれたからだ。』と記録されています。

「イザヤ書 30章26節」には、『主がその民の傷を包み、その打たれた傷をいやされる日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。』と記録されています。苦しみと抑圧と恥辱に虐げられていた人が、主イエス・キリストによって自由と解放を受けるようになったら、全く同じ月の光りが日の光のように見え、日の光は七倍になって七つの日の光のように美しく、喜ばしく見えるのです。苦しみと抑圧の中にいるときにはすべてが暗鬱で暗やみの中ですが、自由と解放を得たらすべての環境までが美しく光るようになるのです。

トレニエという精神科専門医師が書いた本にあるお話しです。スイスで30年間も、たくさんの精神科お医者を訪ね回りながら治療を受けた或る女性がおりました。大概の精神科医者たちはその病の原因を、病人の子どもの頃から探します。子どもの時に抑圧され、打たれ、苦しみに会い、悲しみにも会いながら育った…、そのような不幸な目に会った経験が潜在意識の中に残っていて、それが精神病を誘発すると言われているのですが、その幼かった頃の潜在意識の中に隠された苦しみと傷跡を赤裸々に露わに思い出させてその病人を癒して上げることによって精神的病から解放させて上げる、と言いました。

ところが、この女性はトレニエ氏の前で治療してもらってはいますが、幼かった時に受けた傷跡がなかったと言います。トレニエ氏は凄く熱烈なクリスチャンでありました。「この女性が、潜在意識の中に子どもの時に受けた傷跡がないのにも、精神病に罹って苦しんでいるのは何故だろうか?これは、てっきり悪霊の仕業に間違いない…。」と思われて、彼女をイエス様のもとに伝道し、按手祈祷をして上げたところ、その女性が涙を流しながら悔い改め、罪を告白し、そして間もなく精神病からきれいに解放された、と言いました。

30年間も、たくさんの有名と言われる精神科医者に診てもらったのですが、何の効き目もなかったその女性が、イエス・キリストに会うようになるや、癒されたのです。完全に癒されたその女性が、トレニエ氏のところに来て、次のように告白したと言います。

「私は、もう完全に新しい人間に生まれ変わりました。私は、この世の中にこんなにも恍惚な自由があるのだとは知らずに生きて参りました。イエス様を救い主として受け入れた瞬間、30年間も私を虐げていた抑圧から、私は自由と解放を得るようになりました…。」皆さん、イエス・キリストが与えてくださる自由と解放が、いかに貴重なものか分かりません。

韓国は、日本帝国植民地生活36年間の奴隷生活から、韓国民の力でない連合軍、特にアメリカ軍によって自由と解放を得ました。実にこれは、神様のお恵みの贈り物として自由と解放を得たのです。これからの私たちは、また霊的にも自由と解放を得なければなりませんが、これも又、私たちの力でできるものではありません。イエス様のお恵みの贈り物として、代価なしに、信仰によって自由と解放を得なければなりません。

イエス様を信じることは、宗教ではありません。勿論哲学でもありません。イエス様は、人類の倫理と道徳の教師として来られたのではありません。アダムとエバ以後、悪魔と罪と絶望と疾病と悪霊の虐げの下で奴隷生活をしている私たちに、自由と解放を与えてくださるために来られたのです。今日、イエス・キリストを救い主として迎え入れたら、神様は皆さんのたましいの中に溢れるまでに自由と解放を与えてくださいます。

 既に、イエス様を心の中から救い主として信じる人たちには、聖書「ガラテヤ人への手紙 5章 1節」の御言葉の通りにしなければなりません。『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』

悪魔は又来て、皆さんを継続奴隷にしようと虎視眈々、あらゆる計略を画策します。しかし、御言葉の上にしっかり立ち、堅固な信仰をもって、悪魔がとまどうほどに敵対し、又と奴隷のくびきを負わされずに、キリストにうちにあって、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る、自由と解放を享受する皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願致します。




お祈り

全知全能で、聖き、我が父なる神様!

迫害と悲しみ、暗い苦しみの中で暮らしていた私たちに、キリストが来られて自由と解放を与えてくださり、希望と夢を与えてくださったことに心から感謝申し上げます。私たちは、もう正体不明の存在ではなく、キリストのうちにあって確かに神様の民となり、どこから来て、なぜ生きており、どこに行くのかをはっきりと知って、明日に向けて期待と希望をいっぱいに抱いて生きるようにして下さって有り難うございます。

悪魔と悪霊の束縛は私たちから永遠に遠く去っていきました。私たちは又と、それらのくびきを負いません。悪魔や悪霊の権威と力は永遠に撤廃されました。律法による罪の定めも、人間の行為による自慢も、私たちから永遠に消え去りました。

愛であられ、憐れみ深い主は、「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」と言われました。

ただ信仰によって、ただお恵みによって、神様の祝福によって、人類は自由と解放を得ました。クリスチャンたちがいつまでも、この自由と解放の中で生きていくように助けてください。未だに自由と解放を得ていない人たちは、断固として悪魔に対抗して勝ち、自由と解放を得ることができますように、どうか助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!