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「神様より、もっと霊的な人たち」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 8章 9節」
8: 9 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。





今日は、『神様より、もっと霊的な人たち』と言う題目で、お恵みを分かち合いたいと思います。

たまに、神様より、自分がもっと霊的であるかのようにものを言う人たちに会うことがあります。このような人たちは、こう言います。「物質は悪いものである。金銀を所有することは良くない。神霊なことではないのだ。貧しく暮してこそ聖く、霊的に暮らすことである…。」そうだとしたら、天地と万物を造られた神様は、間違ったことをなさったのでしょうか?“金もわたしのものであり、銀もわたしのものである”と言われました。金と銀を所有しておられる神様は、霊的な方ではないと言うことでしょうか?

聖書「ハガイ書 2章 8節」に、『銀はわたしのもの。金もわたしのもの。・・万軍の主の御告げ。・・』と記録されています。「詩篇 50篇10節〜11節」にも、『森のすべての獣は、わたしのもの、千の丘の家畜らも。わたしは、山の鳥も残らず知っている。野に群がるものもわたしのものだ。』と、神様は仰せられました。

貧乏に暮らすことが霊的である、としたら、天国には全く貧しいことがありませんから、天国の市民たちはみな、聖くないと言うことになりはしないでしょうか?すべてのものを創造された神様は、神霊そのものの神様です。霊的お方なのです。天地の金や銀をすべて所有しておられる神様は、それこそ霊的で聖い神様なのです。すべてに至極豊かな神様は、まことに聖き神様なのです。

物質や金銀、豊饒とかは、それ自体が罪でもなく悪でもありません。もしも私たちがそのようなものたちを神様よりもっと愛したら、それは罪であり、そのようなことはすべての悪の根となります。それらを欲しがって不正を犯し、それらを所有しようとして不義を働く時に、数々の試練と苦痛と誘惑と罠に陥るようになります。

神様は、私たちが物質的にも何一つ不足することがなく、金銀を所有して豊かに暮らし、そして霊的で聖い人となることを望んでおられます。





第一、貧乏の起源

第1番目に、貧乏がどこから出たのでしょうか?エデンの園には貧しく乏しいことがありませんでした。神様は、貧乏と言うものを造ったことがありません。神様中心に、神様に仕えながら生きるとき、アダムは神様が造られ、既に備えて置かれたエデンの園で何一つ不足することがない生活をしました。エデンの園には、美しく、目に慕わしい木々が生えており、四つの川の源になっていて、そこは良質の金や色々な宝石がある地であったと、「創世記 2章11節〜12節」に記録されています。『第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。』

また人間は、神様に似るように、神様ご自身のかたちに創造されました。そして、神様は人間を祝福して、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」と仰せられました。神様は、アダムとエバを富と豊饒な環境の中で、それらを支配する王としてくださったのです。

ところが、人間が住んでいる地が、なぜ呪われた地になったのでしょうか?自分が神様のようになって、自分自身に仕えながら生きようとして神様に背いたとき、人間はエデンから追い出され、土地は呪いを受けるようになったのです。

「創世記 3章17節〜19節」に、次のように記録されています。『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。 土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。 あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』

これは恐ろしい悲劇であり、ついに人間は呪いの贈り物を受けるようになったのです。「エレミヤ書 17章 5節」にも、『主はこう仰せられる。「人間に信頼し、肉を自分の腕とし、心が主から離れる者はのろわれよ。」』と記録されています。神様から離れたので、アダムとエバも呪いを受け、土地も呪いを受けるようになりました。それで、人間は疲れ、重荷を負うようになったのです。

その前には、神様が造られ、既に備えて置かれたものを代価なしに、神様のお恵みによって所有して暮したので、人間は疲れとか重荷とかを知りませんでした。しかしその後には人間が自ら、生活するために働き、重荷を負って、顔には汗を流さなければならず、その結果、貧乏が訪れるようになりました。父母の膝の元で暮らすときは、父母がすべて供給してくれ、備えてくれるので、疲れとか重荷を負った人生がどんなものか知らずに暮します。

しかし父母の膝元を離れて暮らすようになったら、その時からは自分が自分のために、何を食べるか、何を飲むか、何を着ようか、どこで暮そうか…と、すべてを自分が解決しなければなりません。従って、人間は重荷を負うようになり、汗を流して働かなければならなくなるのです。

「エレミヤ書 2章13節」を見ますと、『わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。』と言われています。神様が‘湧き水の泉’の根源となられて、限りなく生ける水が湧き溢れるようにしてくださるのですが、人たちはその神様を捨てて、水を溜めることのできない、壊れた水溜を掘っていると言うのです。

「疲れ、重荷を負って苦労しているけれども、それは無駄だ。」と、神様が言われました。「詩篇127篇 1節」に、『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。』と記録されているのです。





第二、貧乏は幸いでしょうか、呪いでしょうか?

第2番目に、貧乏が幸いなのか、呪いなのかを、私たちは知らなければなりません。貧乏な暮らしをして来た過去を顧みたら、皆さん、貧乏は呪いであることをはっきりと知ることができます。

日本の植民地としての36年間を生きてきた過去を振り返ってみましょう。貧乏がそれこそ呪いであることを知ることができます。同胞たちが食って生き延びるために家財道具を包んで、男は背負い、女は頭に乗せて祖国に背を向け、中国の地である‘間島’に避難して行ったことを私たちは今も記憶しています。

‘朝鮮総督府’時代の36年間、韓国民の平均寿命が‘男子32.4歳、女子35.1歳’に過ぎませんでした。食べられず、栄養失調にかかり、病気になって、平均寿命が‘33.7歳’であったのです。どんなに短命であったか、貧乏の結果に驚かざるを得ない実情でありました。今は、‘33.7歳’で死ぬなどは想像することもできません。それが、70年が過ぎたこんにち、‘男子が72.8歳、女子が80歳’との平均寿命になりました。43年も長生きするようになったのです。

何故であったでしょうか?同じ韓国の地、同じ山河なのです。その時代より良く食べ、栄養失調にかかることもなく、医療施設も立派に発達されているからなのです。貧乏する時にはそんなにも寿命が短く、豊かに暮らすようになったら寿命がこんなにも延長されるのです。だから、貧乏は呪いなのです。

‘6・25韓国戦争’の時を私たちは記憶しています。その戦争は、私たちに想像することもできない悲劇をもたらしました。戦争によって祖国が焼け野原となりました。いかに多くの国民が戦争で死に、飢え死にしたか知れません。日本の植民地から解放されて、わずか10年も経たずに戦争が起こったのです。それで貧しさと飢えはもっと甚だしかったのです。全国民の4分の1が飢えで苦しみました。南北軍人だけでも280万の死傷者を出しました。民間人の死傷者が250万名に上りました。戦争未亡人が30万名も生じ、この中の大部分の人たちが食うために重労働をし、或いは体を売らなければ食っていけない人たちもありました。

戦争孤児が10万名にも及び、食堂の横道や道ばたで、幼い少年少女たちが捨てられた食べ物を拾い食いしながら生き延びました。今の北朝鮮の飢えた子供たちが、実に50年前の私たちの姿なのです。数もなく飢え死にし、凍死して、本当に悲惨極まりない実情でありました。それで、世界の災難を研究してきた‘ヘロルド・ポストー’は、‘6・25韓国戦争’を世界歴史の中で4番目の大災難であると規定しました。

そのような世界的な大災難に会って、私たちが経験したのが貧窮でありました。どんなに多くの国民が飢え、腹がへり、それで死んでいったのか数を知ることができません。それで皆さん、貧乏と飢えは決して祝福ではないのです。それらは恐ろしい災難であり、呪いなのです。誰が、「貧しいことは幸いである」と言えるでしょうか。誰が、「貧乏は聖い生活である」と言うことができるでしょうか。

この世の貧しい現実をご覧ください。第3世界の飢餓は本当に悲劇です。北朝鮮の惨状は、1995年から1998年にかけて350万名が飢え死にしました。350万名なのです。子供たちの62%が栄養失調にかかっており、結核患者が400万名であると言うのですから、北朝鮮の人口5名のうち1名が結核で苦しんでいるのです。

「申命記 7章 9節」に、『あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守る者には恵みの契約を千代までも守られる。』と言われました。神様に背を向けて、呪いと窮乏の中で暮らすことがいかに苦しいことでしょうか。国際連合の傘下機関である‘世界食糧機構’は、世界の飢餓人口が8億2千6百万名に達すると言いました。

この人たちは、慢性的栄養欠乏症で苦しんでいるのですが、その中でも特に、女性たちと子どもたちがもっと酷い被害に会っていると言います。毎日、1,000余名の女性たちが簡単な医療を受けることができないので死んでいるのです。毎年、2万名の子どもたちが野菜と、70ウオンもあれば買えるビタミン剤を食べることができないので失明しており、毎年、1千4百万名の子どもたちが飢餓と栄養失調で死んでいくのです。7秒に1名ずつが飢えで死んでいくのです。

貧乏が幸いであると言えるでしょうか?貧しく乏しいと言うことは、恐ろしい呪いでなくて何でしょうか。ある報告によりますと、アフリカ現地では24カ国・1億5千万名が甚だしい食糧難に会っており、史上最悪の旱魃で農作物の95%が枯れ死にした言っています。貧しいと言うことは呪いなのです。決して幸いなことではありません。

「申命記 28章15節〜19節」に、『もし、あなたが、あなたの神、主の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行なわないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。 あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。 あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。 あなたは、はいるときものろわれ、出て行くときにものろわれる。』と記録されています。

「申命記 30章19節〜20節」には、次のように記されています。皆さん、一緒に声を出して奉読してみましょう。『私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。確かに主はあなたのいのちであり、あなたは主が、あなたの先祖、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地で、長く生きて住む。』

ユダヤ人の‘タルムード’に、このようなお話しがあります。名医として知られているお医者さんがおりました。ほかのお医者さんのところでは絶対に直らない病気が、このお医者さんに診てもらったら、きれいに直ります。ところがある日、一人の患者が訪ねて来ました。そして「先生、私は持病で一生涯苦しみながら生きてきました。先生は有能で、どんな病気も癒してくださると聞きました。私の病気もどうか癒してください。」と哀願しました。

それを聞いて、「どこが、どう痛いんですか?どれ、脈を診ましょう。」と言うと、その患者は両手を左右に振りながら言いました。「いや、先生。私の病気は体の病気ではないんです。私の病気は貧乏病なのです。」それを聞いた名医は、長いため息と一緒に「大変な病気に罹りましたね。その病気は、私も癒すことができません。それは呪われた病気です。」と、答えたと言います。

貧乏は、誰も癒すことができない病気です。貧乏病は、呪われた病気です。国も責任を負うことができません。‘エンドリュー・メチュース’という学者が、「宗教的教えは、貧しい人に食べ物と着る物を与えなさいと教えています…。」と言いました。人たちに貧しくなりなさい、という教えはどこにもありません。勿論のこと、私たちの聖書にも、貧しくなりなさい、という神様の御言葉はどこにもないのです。





第三、貧乏は、神様の御心ではありません。

第3番目に、人たちが貧しく、乏しくなることは、神様の御心ではないことを私たちははっきりと知らなければなりません。神様は根本から、私たちを祝福してあげようと望んでおられる神様なのです。エデンの園からはじめて、神様は貧乏を造られたことがありません。最後の、新しい天と新しい地と、新しいエルサレムをご覧ください。どんなに豊かで、華やかで、美しいか知れません。貧乏は、人が神様に敵対し、反逆を図ったことから自ら招いた刑罰なのです。

「申命記 28章 1節〜6節」を見ますと、神様が祝福してあげようといかに望んでおられるかを知ることができます。『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。 あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。 あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。 あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。 あなたのかごも、こね鉢も祝福される。 あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。』

人を祝福してあげるだけではなく、人が飼っている家畜全部も祝福されると言われたのです。人の生活と環境までも、神様は祝福してあげると仰せられたのです。

「コリント人への手紙 第二 9章 8節〜10節」にも、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。 「この人は散らして、貧しい人々に与えた。その義は永遠にとどまる。」と書いてあるとおりです。 蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。』と記録されているのです。

「蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えてくださいます。」と仰せられたのです。

「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」には、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と言われました。

皆さん、聖書を見ますと、アブラハムが試練は多かったのですが、彼は貧しくはなかったのです。神様が祝福されて、多くの牛と羊、金銀とらくだとロバと、しもべたちを持っていたのが、私たちの‘信仰の祖先・アブラハム’であったのです。彼の息子・イサクは、神様が祝福してくださったので、所有地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を得、益々富み栄えて非常に裕福になった、と聖書に記録されています。

アブラハムの孫ヤコブは、素手で母の兄の家を訪ねて行きましたが、あとで帰ってくる時には、二つの家畜の群れと大勢のしもべを引き連れて、東方第1の凄い富む者となって帰ってくるようになりました。聖書「ガラテヤ人への手紙 3章 9節」に、『そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。』と記録されています。私たちも、信仰によってアブラハムの子孫となったのですから、アブラハムと共に霊的祝福にプラスして、物質的祝福も受けることができるようになっているのです。

人たちは言います。「イエス様が、いかに貧しかったか知っていますか?私たちはイエス様の足跡について行かなければなりませんから、イエス様のように貧しいのが当然な人生ではないですか?」と。そうです。イエス様は貧しかったのです。「マタイの福音書 8章20節」に、『すると、イエスは彼に言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」』と記録されています。

イエス様はお家もなしに、天を屋根にして露宿しながら暮らされました。それは事実です。しかし、イエス様がそのように苦難に会われた理由は、私たちの貧しさを贖ってくださるためでありました。「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記録されています。

「私は貧しい。だから、あなたがたも貧しく暮らしなさい。私のように天を屋根とし、露宿する生活をしなさい。」と言われたのではありません。イエス様が貧しくなられたのは、私たちが富む者となるためであったのです。父母が帯を引き締めて、食べたいもの食べずに骨を折り、苦労するのは、子どもにそのような貧困を継がせないようにするための念願からなのです。父母が貧しいのだから、子どもたちにもそのような貧しさを引き継がせるために苦労しているのではありません。

「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」に、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記録されています。

イエス様は、呪われたものにまでなられながら、私たちを祝福してあげようと望まれました。イエス様の私たちに対する熱い愛と念願は、私たちが呪われることなく、貧しくならずに、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、命を得るにしても豊かに得る人生を生きていくことを願っておられるのです。





第四、霊的でありながらも、富む者となれるのでしょうか?

第4番目に、霊的に暮らしながらも富む者となることが出来るでしょうか、と聞くかも知れません。いや、「富んでいる人は霊的ではない。霊的に暮らしながら富むことはできない。」と言う人が実際にいます。私たちが生きる順序を正しくしながら暮らしたら、金と銀をいくら持っていても、その人は霊的で聖い人生を生きることができます。

「マタイの福音書 6章33節」に、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記録されています。先にすべきことと、後にすべきことの順序を変えてはいけません。私たちは、神様の国とその義とを先ず第一に求めなければなりません。

父と御子と聖霊を先ず求め、イエス・キリストの御心に従って生きることを先に求めたら、その次の二次的な人生に必要なものはすべて主が与えて下さる、と言われたのです。神様を私たち人生の絶対主人として、私たちが神様に仕えながら暮らしたら、皆さん、私たちがどうして霊的に暮らせないことがあるでしょうか。私たちは、二人の主人に仕えながら暮らすことはできないのです。「マタイの福音書 6章24節」に、『だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。』と記録されています。

富を主人として生きたら、これこそ聖くない生活です。世俗的で、どん欲的で、悪魔の奴隷になります。神様と富を兼ねて、主人として仕えることはできません。断固として神様を主人とし、神様にだけ仕えながら絶対服従し、信じ、拠り頼んで暮らしたら、神様がすべてにおいて支えてくださり、満たしてくださり、神様が実を結ぶようにしてくださるのです。主人が聖いのに、しもべたちが聖くないことはないのです。

神様が主人として厳然と共にいてくださるのに、私たちが、神様が共におられる私たちの人生が聖くならないことは有り得ないのです。神様を絶対主人として迎え入れたら、私たちの人生は神様が責任を負ってくださるのです。そして私たちは、神様の前で正しい管理人とならなければならないのです。私たちの人生にあって、私たちが人生の主人ではなく、神様が主の栄光のために私たちに任せてくださった人生なのですから、私たちは管理人としての役割を果たさなければならないのです。

「マラキ書 3章 8節〜10節」に、『人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』それは、十分の一と奉納物によってである。 あなたがたはのろいを受けている。あなたがたは、わたしのものを盗んでいる。この民全体が盗んでいる。 十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。こうしてわたしをためしてみよ。・・万軍の主は仰せられる。・・わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福をあなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。』と記録されているのです。

「人は神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。“どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。”」ここで「神のもの」と、神様が断固として主張しておられるのは「十分の一」のことです。私たちの収入の十分の一は神様のものであり、イエス・キリストの所有なのです。ここを見ても、私たちは管理人として立派に働き、神様のものを神様に必ず差し上げる人生を生きて行かなければならないのです。

神様のものまで盗んだとしたら、私たちはどうのようにして神様から祝福していただくことができるでしょうか。神様のものを盗むことは、盗賊の中でも大いに怪しからない大盗賊に属します。「箴言 3章 9節〜10節」に、『あなたの財産とすべての収穫の初物で、主をあがめよ。そうすれば、あなたの倉は豊かに満たされ、あなたの酒ぶねは新しいぶどう酒であふれる。』と記録されています。

むかし、‘キム・イクト’(金益斗)牧師先生が、“ジェリョン”(今は北朝鮮領域)というところでリバイバル聖会を導かれた時の話しです。元来‘キム・イクト’牧師は「癒しの賜物」を持っておられたので、‘キム’牧師が行かれて福音を宣べ伝えると伝えられたら病人が特に多く集まり、数多くの人々が病気を癒していただく恵みが臨みました。

その日、一人の男性が、按手しておられる‘キム’牧師のそばに来てから、‘キム’牧師の手をしっかりと握り、手を放しませんでした。そして、「私は、もともと健康ですから、健康のための按手祈祷は要りません。私は物質祝福が必要です。そのためには“十分の一”を捧げなければならない、と聞いているのですが、私の心がぐらついているので、十分の一を捧げることがとてもできません。先生が私に、“十分の一の按手祈祷”をしてください…。」と頼みました。

‘キム’牧師はその場で、着ていた“ドルマギ”(韓国着物の外套)の袖を引き裂いて、それで袋を作り、それを彼に渡しながら言われました。「あなたが物質の祝福が欲しいなら、いつもこの袋を持ち回り、収入がある度にここに徹底的に十分の一を入れて、教会に捧げなさい!」と言って、按手祈祷をしてあげました。

その男性は、あちこち市場を訪ね回りながら小規模に商売をしている商人でありました。それからは、その十分の一の袋をいつも腰につけて商売に勤しみました。10ウォンを稼いだら1ウオンを入れ、100ウオンを儲けたら10ウオンを入れました。その仕草が面白いので人たちが“それが何か?”と聞いたら、「これは十分の一の袋ですよ。私には祝福の袋なんです。」と答えました。

それから3年が過ぎました。驚くべきことが起こりました。神様がいかに彼を祝福してくださったのか、みすぼらしい一介の市場回り小商人に過ぎなかった彼が、“ジェリョン”第一の商人になり、黄海道(今は北朝鮮に属する)で献金をもっともたくさん捧げる長老になったのです。

彼が実に、“ジェリョン”教会の‘ジョン・チャンシク’長老です。皆さん、平凡な市場回り小商人が神様に十分の一と奉納物を真心込めて捧げ、神様に拠り頼んだ結果、一躍大商人になり、その教会史に名前を残す長老となったのです。私たちは、神様の前で着実な管理人の役割をしなければなりません。管理人が主人の財産を盗んだら、主人は継続してその管理人を雇用はしません。罷免してしまいます。

そして、私たちはいつも“蒔いて、刈り取る”法則を覚えて、何を自分が蒔こうと、蒔いてこそ刈り取りもすることができる、という事実を知らなければなりません。皆さん、農夫が何も蒔かずに刈り取ることを希望する人はいません。何を蒔こうが、蒔いてこそ刈り取ることができるのです。私たちの俗談に、「豆を蒔いたところに豆が生え、小豆を蒔いたところに小豆が生える」というのがあります。愛を蒔いたら愛を刈り取り、憎悪を蒔いたら憎悪を、審きを蒔いたら審きを刈り取るようになります。非難を蒔いたら非難を刈り取るのです。蒔いて、そして刈り取る法則は宇宙的な法則で、決して無視することができません。

自分が罪悪を蒔いて棄ててしまったとして、何も刈り取るものがないのではありません。人はその罪悪の実を必ず刈り取るようになるのです。「コリント人への手紙 第二 9章 6節〜7節」に、『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。』と記録されています。

神様は、私たちが生活の中で蒔くのをご覧になって、刈り取るようになさいます。霊的に命を蒔いたら、命を刈り取り、死を蒔いたら死を刈り取るようになるのです。「詩篇 37篇 1節〜2節」を見ますと、『悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。』と、ダビデが断言しました。

悪を行い、罪を犯す者を見て、明るい天の下であのような悪を行い、そのような罪を犯しても神様は知らない顔をしてほったらかして置かれるのか、と憤慨しますが、聖書は、「悪を行い、不正を行なう者に対して、腹を立てたり、嫉んだりするな。蒔いたとおりに刈り取るのだ。彼らは草のように忽ちしおれ、青草のように枯れるのだ。」と言われているのです。

物質も同様です。奉仕も同様です。物質を蒔こうと、時間を出して体で奉仕しようと、蒔いた通りに自分が刈り取らなければ、孫の代にでも刈り取るようになるのです。

フィラデルフィアにある小さい教会での出来事です。その教会では、長い間教会建築のために祈っていました。ところがある日、担任牧師である‘チャンプスー’牧師先生がこの問題で早天の祈りを捧げておりましたが、明け方頃に入口のドアを誰かが叩くのでありました。あまりにも早い時間ですので、牧師先生は訝しがりながらドアを開きました。すると、そこには幼いときに父が亡くなり、今は煉瓦工場で労働している‘ジョン’という少年が立っていました。

「ジョン、こんなに早くどうしんだ?」「牧師先生、あまり朝早く来て済みません。こんな時間でないと、自由な時間がないんです。牧師先生がいつか礼拝時間に、教会堂を建てるにはお金も必要だけれども、物質も必要であると言われたので、私が働いている工場で煉瓦を1枚ずつ、社長の許可を得て集めました。そして今日、このようにリアカーに積んで持ってきました。この煉瓦も、教会堂を建てるのに有用に使えるでしょうか?」と言いながら、引いてきたリアカーを指差しました。

牧師先生は、まだ暗い、雪が降っている冬の明け方に教会まで来たその少年を引き寄せてしっかりと抱きしめました。そして言いました。「雪が降っているこの寒いところを、煉瓦をいっぱいに積んだリアカーを引いて来たのか。有り難う、ジョン。有り難い。今私は、神様に代わってジョンに有り難い、と言っているのだよ。君の真心と美しい心は、1万ドルよりも、いや、100万ドルの献金よりも尊いのだ。神様に代わって私が嬉しく貰うよ、ジョン。」そして、祝福してあげました。

ところが、小学校も卒業していない‘ジョン・ウォーノーメーカー’は、その時から神様のお恵みと祝福をいただいて、後にはアメリカの大富豪となり有名になって、デパートの王とまで呼ばれるようになりました。神様が、貧窮のどん底から彼を引き上げて世界的な富豪にしてあげたのは、「蒔いて、刈り取る法則」をご使用したからなのです。彼が煉瓦をリアカー1台分という僅かな物質を蒔いたのですが、そこには神様を愛し、神様にまことをつくす心も同時に蒔かれたのです。牧師先生が、神様に代わってこれを貰うよ、と言われた時、神様がそれを受けられたのです。そして神様の代わりに祝福してあげました。神様の祝福が、彼の一生を栄えさせてあげたのです。

私たちが、物質的に裕福であっても霊的に生きるためには、物質に執着してはなりません。「ルカの福音書 6章38節」に、『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』と記録されています。

人は物質的に裕福であったら、その持っている物質に愛着を持つようになり、守銭奴になりやすいです。神様が必要だと言われる時、豊かに使用することを知らなければなりません。人が物質の奴隷となって、物質に引っ張られて生きるのは、悲惨な人生です。人は、物質の主人にならなければなりません。物質に愛着してはいけないのです。神様に仕えながら、神様が使用しなさいと言われる時には、どこにでも惜しみなく使用しなければならないのです。

私は何年か前に、スペインのラスパールマス純福音教会に行ってメッセージを宣べ伝えたことがあります。ラスパールマス教会は凄く秀麗です。山の頂にあり、燈台のように美しい教会です。その教会を誰が建てたかと言いますと、その教会に出席している一人の執事さんです。当時、教会が小さかったので、建物を買い入れて新しく教会を建てなければならない立場でありました。ところが、お金がありません。

その執事さんは会社員でありました。月給を貯金してためたお金で家を買いました。それが執事さんの唯一の財産でありました。ある日、祈る中で決心しました。その家を売って、全額を教会に献金しました。そのお金で、今の新しい教会を建てました。そうした後、会社を辞めた執事さんは、借金をして漁船を1隻買い、その船の名前を“ハレルヤ1号丸”と命名しました。

断食しながら祈り、出航準備をしました。そうしてから、乗組員たちと一緒に“ハレルヤ1号丸”に乗船して出港しました。驚くべき奇蹟が起こりました。大概は、70日間の操業で約30万ドル、3億ウオン相当の漁獲成績をあげるのですが、この執事さんは、40日目に70万ドル、7億ウオン相当の漁獲を得るようになったのです。それは史上最大の漁獲量でありました。半年間の操業で借金をきれいに清算したと、その執事さんが証ししながら、神様に栄光を帰すのを見ました。

神様に自分の最上のものを捧げるや、神様が量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、溢れるまでにして、ふところに入れて下さったのです。持っている物質に愛着してしまって、神様が「使いなさい」と言われるのにも使わず、物質にしがみついていたら、神様はその人に背を向けられます。そうしたら、「待っていました」とばかりに呪いが襲って来るのです。物質は「使いなさい」として神様がくださったものです。

ガリラヤの湖をご覧ください。ガリラヤの湖にはヨルダン川から水が入って来ます。それを休みなく死海に流しています。それで、ガリラヤの湖はいつも清浄であり、数多くの魚が棲みついており、周辺の土地も肥えていていつも豊作をみせています。しかし、死海の水は同じヨルダン川から水を受け入れているのですが、ほかの方に流さないので塩気が多く、魚も棲みつかず、死んだ水です。その周辺も砂漠になっています。

物質は、人間と環境を生かすこともでき、人間と環境を死なすこともできるのです。従って、物質の奴隷とならないでこそ、私たちは物質的に豊かでありながら、霊的生活を営むことができるのです。

神様と共に稼ぎ、それで所有するようになった物質は、決して悪ではありません。その物質が神様の御心に従って使用されるとき、いかに立派で、美しいことか知れません。その物質を通して神様の教会が建てられ、慈善事業が成され、病院が増え、数多い孤児たちと老人たちが保護され、顧みられます。貧乏、それ自体は身震いするほどの呪いです。貧しいのが祝福された人生だと言うのは大きな間違いです。

一方、たとえ貧しくても、それを克服し、気落ちせずに、神様に仕えながら生きていく…その信仰心は、本当に美しく尊い信仰心です。貧しいこと自体は決して神様の祝福でも、神様の御心でもありません。ですから私たちは、神の国とその義とを先ず第一に祈り求めながら、神様から祝福していただいて富む者とならなければなりません。その理由は、隣人を自分と同じく愛し、何かと顧みてあげる、助けてあげるためには、素手ではできないからです。

貧しく乏しい人が、神様の国を建てることに助けとはなりません。私たちが分かち合うためには、先ず神様からいただかなければならず、隣人を満たしてあげるためには先ず自分が神様から満たしていただいてこそ、できるのです。絶えず祈り、神様の御国を建て、隣人を愛し、貧しい人たちを満たしてあげる皆さんとなられますよう、主の御名によって祈願致します。






お祈り

全能であられ、聖き、わが父なる神様!

貧しく、乏しいことが祝福でもなく、霊的なことでもないことを、神様の御言葉を通して悟るようになりました。感謝申し上げます。

愛であられる、わが天のお父さま!

私たちがこの世を生きながら、貧しい人たち、飢えで悲しく、襤褸しか纏うことができない人たちを顧みてあげ、分かち合い、食べさせ、着させてあげることができ、彼等の必要を主の愛で満たしてあげることができるように、どうか祝福してください。

すべて、イエス様の御名によってお祈り申し上げます。