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「新年のための覚悟」
 






■聖書箇所
「コリント人への手紙 第一 13章 1節〜3節」
13: 1 たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。
13: 2 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。
13: 3 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。




今日、私は皆さんとご一緒に、『新年のための覚悟』という題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

目標がなしに出発する道は、間違いなく彷徨うようになってしまいます。道も、人も、目標があってこそ希望を成就することができるのです。私たちは新年を迎えて、これから生きていく新しい1年間の目標を設定し、それを最後まで守ってこそ勝利の1年間を暮らす事ができます。

中世に、ある修道院での出来事です。多くの志願者が修道士になりたいといって志願して入って来ました。ところが、いくらも経たずに落伍者が続出して、残ったのは僅か何名しかおりませんでした。それで、既存の修道士たちが院長に面会して言いました。「院長様、多くの人たちが修道士になろうとして入って来ましたが、大部分の人たちが途中で出て行きました。これをなぜ、ほったらかすのですか?」

すると、彼らを静かに見つめていた院長が、口を開いて答えました。「私の言うことを聞いてみなさい。猟師がが猟をするとき、多くの猟犬を連れて猟をします。その中の1匹がウサギを発見したら、吠えながらそのウサギを追っていきます。すると、ほかの猟犬たちも一斉に吠えながらウサギを追っていくようになります。しかし途中で、大部分の猟犬たちは主人を振り返りながら、その場に立ち止まります。ところが、最初に飛び出していった猟犬は最後までウサギを追跡していって、それを捕らえて帰ってきます・・・。

・・・なぜでしょうか?最初の猟犬には、ウサギという目標があったのです。しかしほかの猟犬たちは、最初の猟犬に雷同して飛び出していっただけで、はっきりした目標がなかったのです。多くの人たちが修道院に入って来ますが、確実に一生を修道士として生きる、という目標がなしになしに入って来たので、途中で落伍するのです。確かな目標を立てて入って来た人は最後まで努力し、それで立派に耐え抜いて、ついには修道士になれるのです。」

数多くのクリスチャンたちが、信仰の競争をします。しかし確実な目標がない人たちは中途で放棄して座り込みます。目標が確かなクリスチャンだけが難関を突破して成功し、目標を達成することができるのです。





第一、肯定的な人生を生きる新年

第1番目に、私たちは肯定的な夢を抱いて新年を生きる、という目標を持たなければなりません。「私は、どんなことがあっても今年は肯定的な夢を実現する新年とする・・・!」という覚悟も堅固にしなければなりません。私たちが生きていく未来には、不確実性でいっぱいに満ちています。それで不安であり、焦らずにはいられません。政治的に不確実であり、経済的にもどうなるか不確実であり、社会的葛藤がどのように解決されるだろうか、南北関係がどう発展するだろうか・・・、私たちはすべてが不確実な中で暮らしているのです。

それらが私たちに不安をもたらします。少なくない人たちが明日に対する何かの端緒でも掴んでみようとして、運命鑑定所を訪れます。それで最近、大きなデパートでも占いのコーナーを設けて商売をしています。インターネットのポータルサイトも見ますと、必ずと言って良いほど占いのコーナーがあります。これほどまでに、人たちは不安がっているのです。それで明日に対する小さな明かりでも得ようとして身悶えしているのです。

誰もが知っているように、人生の道はいつも平坦なものだけではないのです。真っ暗な闇夜も近づいて来ますし、険しい山や高い嶺も越えなければならず、砂漠や荒野のような所も通らなければなりません。このようなのを避けることのできない人生ですし、運命ですけれども、しかし、私たちがすることのできることに非運命的なのがあります。それは、運命に対する態度です。

皆さん、私たちがこの夜を来ないようにストップさせることができるでしょうか。襲ってくる暴風雨を両手で押し返すことができるでしょうか。険しい山、高い嶺を踏み潰すことができるでしょうか。運命に対して私たちは全身をもってぶつかって行かなければなりません。ところで、非運命的なこととは何でしょうか。運命の暴風雨の中を通り過ぎながら、どのような心の姿勢を保ち、どんな態度を取るか・・・、これは皆さんがすべきことなのです。私たちは、今年1年を生きて行きながら何事も運命の所為にしないで、常に、心の中に大きな希望と夢を抱き、それを忘れずに生き抜いて行かなければならないのです。

 どのようにしたら、大きな希望と夢を抱いて今年1年を生き抜いて行くことができるでしょうか。それは先ず、イエス・キリストの十字架の下に来ることです。そして、キリストの贖いの恵みを見つめ、神様が十字架を通して私たちに美しい虹色の服を着せてくださったことを悟って、その自分を認識しなければなりません。十字架を通して、神様は私たちに赦しと義と栄光の衣を着せてくださったのです。また、聖さと聖霊充満の衣を着せてくださいました。神様は十字架を通して、私たちにアブラハムへの祝福をとすべてに幸いを得る衣を着せてくださったのです。

それだけではありません。神様は十字架を通して、私たちに復活と永生と天国への衣を着せてくださいました。誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られたものです。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました・・・と言われました。五重の福音なのです。色彩燦爛たる虹色の衣を着ている自分を見つめ、その自分を悟らなければなりません。これが偉大な希望であり、夢なのです。

その上に神様は、私たちに三重の祝福のオーバーコートを着せてくださいました。愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります・・・と、三重の祝福の外套を私たちに着せてくださったのです。

いくら夜が暗く、暴風雨が吹きまくり、険しい山、高い嶺が私たちの前方に立ち塞がっていても、皆さんはすでに、神様が着せてくださった虹色燦爛たる五重の福音の衣を着ており、三重の祝福のオーバーコートを着ているのですから、風に吹きまくられながらも私たちはそれを突破し、険しい山、高い嶺をも踏み越えて行くことができる、希望と夢を胸に抱いて生きて行くことができるのです。自分がキリストにあってどのような人になったかを確実に悟ることができたら、私たちは大胆な希望と夢を持つことができるのです。

私たちはこの新年を迎えて、十字架の下で神様が私たちを、このように新しく造られたものとしてくださった事実をはっきりと悟り、その虹色燦爛たる五重の福音の衣と三重の祝福のオーバーコートを着た自分を見失わずに、生きて行かなければなりません。このような希望と夢が胸の中にあったら、私たちはどんな逆境にも艱難にも打ち勝つことができるのです。

ミシガン州で生まれた‘タム・マネガン’という少年がいました。彼は10歳の時から心の中に“プロ野球チームの‘デトライト・タイガーズ’の球団主になりたい”との大きな夢を持っていました。しかしそれは、人間的に考えるとき、とても不可能なことでありました。それでも彼は、肯定的にその夢を抱いて成長しました。1960年代に大学を中退した彼は、小規模の小さなピザ店を運営し始めました。そのお店がこんにち、年間売上高20億ドルを超えるという、世界最大の“ピザ配達会社ドミノ・ピザ”です。

そして‘タム・マネガン’は、“デトライト・タイガーズの球団主になりたい”との夢も実現させました。1983年に5,300万ドルを払って球団を引き取ったのです。彼は“タイムズ”とのインタビューの時に、次のように語りました。「金持ちになる最高の準備は、夢見ることです。私には、機会が到来した時にその機会を掴む準備ができていたのです。なぜなら、いつも夢を見ていたからです。その間周囲の人たちは、私が理解することのできない夢を見ていると、私を指差して嘲笑いました。しかし、彼らがとんでもない夢を見ていると言っていたことを、私は立派に成し遂げることができました。」

皆さんも、希望と夢を持ってください。希望と夢を持っていてこそ、神様が与えてくださる機会を掴むことができるのです。希望も夢も持っていない人は、機会が到来してもそれを掴むことができません。「今年は難しいだろう。事業も恐らく駄目になるかも…。悲しい。苦しい。絶望だ…。」このように希望を失い、夢を失って否定的になったら、いくら神様が素晴らしい機会を与えてくださっても、それを自分のものとして活かすことができないのです。

私たちは、世の人たちが見ていないところを見ているのです。キリストの十字架の下で、五重の福音と三重の祝福を見つめているのです。五重の福音の燦爛たる衣を着ており、三重の祝福の外套を着ているのですから、世の人たちが見ていないものを見ており、この世が信じないことを信じ、世の人たちが持つことのできない希望と夢を持って私たちは生きているのです。

従って私たちは、新年には大きな希望と夢を抱いて、それを見つめ、話しし、祈り求めながら生きて行かなければなりません。そうしたら私たちクリスチャンは、真っ暗い夜も、暴風雨の中、険しい荒野を通りながら、いつも肯定的に暮らして行くことができます。

私は、一人の登攀家が書いた記事を読んですごく感動を受けました。彼は海抜4,700メートルのヒマラヤ山脈を登攀する時、高山病でとても苦しんだと言いました。高山病は、体験してみたことのない人はそれがどんなに苦しいものか分かりません。私は肺病を患ったので、肺機能が弱くなっているために高いところに登って行ったら酸素が不足して、人一倍苦しみます。ましてや海抜4,700メートルのヒマラヤ山脈を登攀するのですから、酸素不足で高山病にすごく悩まされます。

ところが、その記事を書いた登攀家が、自分がその時、一つの“鎮痛剤”を開発して食べたが、それは“肯定的に考える事”…即ち、それが“鎮痛剤”なのだと語りました。骨が折れる、苦しい、からだが重い、登るにも降りるにも怖い、なぜにこんなにも遠いのか、何でここまで来たのか…、このように否定的に考え出したら、頭が砕かれるように痛くなり、息が苦しく、心臓がすぐにも破裂しそうになる、と言いました。

しかしその反対に、何でもない、自信がある、頂上まで行くのに問題はない、周囲を見回して見よ、いかに美しく神秘か、もっと登って行こう、今でなかったら何時ヒマラヤを征服する事ができるか…、このように肯定的に考え出したところ、苦しみからすぐに抜け出す事ができた、と言ったのです。彼は、肯定的に考え、それを口に出してつぶやく時ごとに、どこからか酸素が作り出されて、頭の中が爽快になり、足取りも軽くなり、力を得る事ができた、と記録しました。

私たちが人生を生きて行く過程も同様なのです。たとえ今は苦しく、骨が折れるけれども、それを思って苦しい、骨が折れる、駄目だ、これは絶望だ…と思ったら、益々もっと増幅して苦しくなり、骨が折れるようになるのです。そう思わずに、今は骨が折れ、苦しいけれども、もう直ぐに立ち直る、できる、できるならと言うのか、信じる者にはできない事がないのだ…と、口に出して言ってみてください。主は言われました。「あなたの信仰通りになります!」と。

 「ルカの福音書 17章 6節」に、『しかし主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ。』と言えば、言いつけどおりになるのです。」』と記録されています。この御言葉を忘れてはいけません。これをいつも、口ずさまなければならないのです。ですから、“大丈夫だ、主が共に居てくださるから問題ない、主がすべてを働かせて益としてくださるのだ…”と、このように告白する事ができたら、勝ち抜き、克服することができる力が生じ、私たちの希望と夢は実現されるようになってしまうのです。

‘ロバート・シューラー’牧師先生の義弟(奥さんの弟)の一人に、‘フランク・ベンダー・マルティン’とういう人がいます。彼はアイオワー州で一番と言われる少年バイオリニストでありました。彼は18歳の時、お父さんが経営している鍛冶工場に遊びに行ってから、真っ赤に焼けた鉄の塊を掴み、瞬間、左手の指が焼きただれて、親指1本だけが残る障害者になりました。バイオリニストが左手の指を使う事ができなくなったのですから、絶望でありました。周囲からも慰めと一緒に、バイオリンを放棄しなさいと言われるようになりました。

しかし、彼は少しも屈しませんでした。左手の指がみな切断されて親指1本になりましたが、気落ちせず、挫折する事なく、継続して熱心にバイオリン練習をしました。研究と練習を重ねた結果、ついに彼はアイオワ州の‘スカウンティー’交響楽団でも抜群のバイオリニストになりました。いつか彼は、「自分が障害者であると思わない限り、私は決して障害者ではありません。私の場合、指4本がないだけです。私は何でもする事ができるのです。」と語りました。 

‘ロバート・シューラー’牧師先生もまた、「不可能な事が存在するのではない。不可能だと思う思考が存在するのである。」と言われました。自分が“不可能だ”と思ったら、何もする事ができない、という事です。即ち、肯定的、積極的であり、そして希望と夢を持って生きていく人には「不可能な事はない」という意味なのです。

ですから皆さん、新年には五重の福音の燦爛たる衣と三重の祝福の外套を着こなし、風を切りながら颯爽と、肯定的、積極的、創造的な思考の持ち主となって、「主を信じます。」と唱えながら勝利の毎日を過ごす皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願いたします。





第二、愛を実践する新年

第2番目に、愛を実践する新年としなければなりません。「コリント人への手紙 第一 13章 1節〜3節」に、『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。 また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。 また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』と記録されているのです。

愛がない人生は、いくら素晴らしい雄弁と天使のように話しても、それは内容がない空しいものです。愛がない人生は、偉大な予言と知性と信念の人であっても実際には何の価値もないのです。愛がなかったら、いくら大きな犠牲を払い、たくさん奉仕し、慈善をほどこしても、それは形だけのものであって、まことの有益なものではない、という事です。ですから、私たちが新年を暮らしていく時、まず神様を愛しながら生きていかなければなりません。

神様は、愛であられるのです。私たちは神様に似るように、神様の形に造られたのですから、神様を愛すべきであるという事は至極当然なのです。「ヨハネの手紙 第一 4章 7節〜9節」に、『愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。』と記録されています。

愛して貰ったことのある人が、他人を愛することができます。私は、科学者たちが猿を育てるのを見ました。2匹の猿が子を産みました。1匹の猿の子は、木彫りの人形猿に抱かせて育てました。もう1匹の猿の子は、産んだ母親の猿に抱かせて育てました。木彫りの人形の親猿と一緒に暮らした子猿は、親猿の愛を受けることがないまま成長しました。実の親猿と一緒に育った子猿は、親からいっぱい愛されながら成長しました。

その子猿たちが大きくなって、子を産みました。人形猿と一緒に育った猿は、自分の子猿を愛することを知らず、人形猿とまったく同様に、自分が産んだ子猿を抱いてあげることもせず、冷酷に扱いました。反面、実の親猿から愛されながら育った猿は、自分が産んだ子猿をやさしく抱いてあげ、すごく愛しながら、色々と顧みてあげるのを見ました。

なぜ、世の人たちが神様を愛しようとしないのでしょうか。神様の愛を受けたことがないからなのです。私たちが先に神様を愛したのではありません。神様が先に私たちを愛してくださったのです。神様の愛を私たちは受けたので、私たちは神様を愛することができるのです。神様から愛して貰ったのですから、私たちは当然のことながら神様を愛せずにはいられないのです。私たちクリスチャンは、神様から愛して貰った分、それ以上に神様を愛し、また神様を愛するために生きる人生の道に歩まなければなりません。

私たちは神様を愛し、慕い、礼拝を捧げ、仕えながら、神様から喜んでいただく人生を生きて行かなければならないのです。愛は、頭の中から出てくるものではありません。胸の奥底から湧き上がるものです。父なる神様を、イエス・キリストにあって愛し、慕い、座ろうと立とうと礼拝し、賛美し、仕えながら、神様から喜んでいただく人生を生きて行くことが神様を愛することです。人たちがこのような人生を生きていく時、神様は大いに感動なさいます。

「詩篇 91篇14節〜16節」を見ますと、『彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』と、神様が仰せられました。私たちが神様を愛する時、神様は感動なさるのです。それで、その驚くべき御力で私たちと共にいてくださり、私たちを助けてくださるのです。

「神の臨在練習」という、有名な古典的本を書いた中世の聖者‘ローレンス’の話しです。彼は神様を知ってから後、その愛があまりにも有り難いので、自分も修道士になって神様だけを愛し、神様にだけ仕えながら生きて行きたくなりました。しかし、当時は貴族だけが修道院に入ることができたので、庶民である彼は入ることができず、知識も足らなかったので修道士になることができませんでした。その代わりに、彼は修道院の食堂で料理人として働くことになりました。

‘ローレンス’は料理を作りながら、いつも神様に祈りを捧げました。塩を添加するときには、「主よ!私をこの塩のような人にしてくださって、主に用いられるようにしてください。」味見をするときには、「主よ!私がキリストの味を現すことができるようにしてくださり、それで主に栄光をお帰しすることができるようにしてください。」掃除をするときも、「主よ!私の心をこのように清潔にしてくださって、主に栄光をお帰しする事ができるようにしてください。」生活自体が祈りでありました。

また彼は、献身的なまことと愛を込めて、すべての修道士たちに仕えました。ところが不思議にも、時間が流れて行くほどに、修道士たちの顔色が苦行と断食と祈りで暗くなっていく反面、‘ローレンス’の顔は天使のように輝き、いつも笑いと微笑みでいっぱいでありました。彼は、主から愛されているという喜びを得ていたからでありました。その後から、修道士たちは毎日食堂に来て‘ローレンス’の顔を見ながら恵みを得ました。

修道士たちは‘ローレンス’の顔を見ながら、イエス様の御心を悟るようになりました。結局には、すべての修道士たちが‘ローレンス’を、その修道院の院長として迎え入れました。料理人‘ローレンス’が修道院の院長になったのです。いつか‘ローレンス’は、次のように語りました。

「私が生きる唯一の動機は、神様の愛でありました。私は神様のためには何でもしようとしました。私にどんなことが起きようとも、私は継続して神様の愛のために動き回り、働くつもりです。私に言えることは、死ぬまでただ神様を愛するためには、私は何でもすると言うことです。」

 ‘ローレンス’が何か偉いことをして、神様の愛を現したのではありません。平凡な生活の中で料理をしながらも、「主よ!私が神様の前に美味しいご馳走となれるようにしてください。」火を焚きながらも、「主よ!猛烈に燃えあがる火のように、熱い心で神様を愛することができるようにしてください。」と、彼は祈り続けたのです。皆さん、何か偉大なことをする事が神様を愛する事ではありません。皆さんの平凡な生活の中で、いつも神様に礼拝を捧げ、祈り、感謝する生活が、神様を愛する生活なのです。

そして、隣人を愛することが、神様の愛に報いることです。神様を愛することと、隣人を愛することとは分離することができません。あなたの心を尽くし、思いを尽くし、いのちを尽くして主である神様を愛しなさい、と言われました。また、あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい、とも言われました。神様を愛する愛と、隣人を愛する愛は、分離することができないのです。

「ヨハネの手紙 第一 4章20節〜21節」に、『神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。』と記録されています。神様を愛することと、隣人を愛することは、イコール(=)なのです。

目に見えない神様を愛すると言いながら、目に見える兄弟を愛することができないなら、神様を愛すると言う言葉は嘘になるのです。この聖書の御言葉に接するたびに、私たちは心の中に少なからぬ葛藤を感じるようになります。私たちは神様を愛することができても、隣人を愛することはできないのです。一発食らわして上げたいのに、隣人を愛してこそ神様を愛することになると言うのですから、心に葛藤が起こるのです。

私も、2004年の1年間ずーっと、この葛藤の中で暮らしました。憎い人がいます。しかし隣人を愛してこそ、神様を愛することだと言われたのですから、「主よ!この人を愛することができるように、力を与えてください。」と祈りながら、暮らしました。しかしいくらも過ぎずに、また相手の人が憎くなります。すると、同じ事をまた祈ります。

「われ等に罪を犯す者を、われ等が赦すごとく、われ等の罪をも赦したまえ。」と毎日、朝夕祈っているのですから、私たちが他人を赦してあげないと、私たちも神様から赦していただくことができないのです。皆さんも、間違いなくそういう経験があったことと思います。ですから、私たちクリスチャンの信仰生活は、限りない葛藤の生活であると言っても過ぎたことではありません。隣人を愛することは、神様の愛に報いることであることを忘れないでください。

「マタイの福音書 25章34節〜40節」の御言葉を憶えてください。『そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。 あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、 わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』 すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。 いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。 また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』』

世の終わりの時、主が審かれる時に、主を愛した証拠を隣人を愛したことから探されるのです。「私はイエス様だけを愛する。あの乞食とは関係がないのだ。あの病人とは何の関係もないんだ。監獄に閉じ込められている人と私とが、何の関係があると言うのか。私は、ただイエス様だけを愛したら良いんだ・・・。」と言う人がいます。しかし主は、そうではない、と言われるのです。イエス様を愛するのであったら、そのイエス様をどこから探し出したら良いのでしょうか。監獄に閉じ込められている人、病人、露宿者、飢えた人、疎外された人たちの中から探し出せ、と言われるのです。

ですから皆さん、私たちがイエス様を愛し、心の中からイエス様に仕えると言いながら、隣人を愛さずに無関心であったり、愛することを等閑にしたりしたら、それは偽善者であり、間違ったクリスチャンなのです。

‘マザー・テレサ聖女’が、インドのもっとも貧しい人たちの中に入って行って彼らに仕える時、イエス様に仕える心で仕えた、と言いました。そこの人、一人一人を洗ってあげ、着せてあげ、食べさせてあげ、膝の上に寝かせて安らかに死なせてあげる時、その人たち一人一人がイエス様である、と思いながら、イエス様に仕える気持ちで仕えた、と言ったのです。聖書の御言葉その通りです。

「わたしが病気をしたとき、あなたがたが、わたしを見舞いに来てくれました。。」「いつ、私たちが、あなたのご病気を見て、おたずねしましたか。」「最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与えてくれました。」「いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げたでしょうか。」「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。」

そうだとしたら、こんにち、私たちの社会を見回すとき、私たちの周囲にいかに多くの露宿者、飢えた子供たち、病人、疎外されている人たちが多いことか、わかりません。私たちは、無関心でいることができないのです。彼らがみんなイエス様なのです。その人たちがイエス様であるなら、私たちが訪ねて行かなければならないのです。イエス様は、私たちのために身を裂き血を流してくださいました。その大きな「愛の負債」を負っている私たちが、地上のイエス様を無視することはできないのです。従って、私たちの心は葛藤を感じずにはいられないのです。

イエス様を他のところで探さずに、この社会の不条理の中で探しなさい、ということです。あの飢えている人たち、病気に罹って苦しんでいるいる人たち、露宿者たち、罪人たちの中からイエス様を探しなさい、というのです。新年には、このような人たちに、イエス様に対するごとくにもてなす皆さんとなりますよう、祈ります。

 ‘安昌浩(アン・チャンホ)’先生は、生前にこのように言われました。「いくらたくさんの知識を持っている人も、その人にまことの愛の精神がないとしたら、その知識はこの世を害するだけで、有益にはなりません。私たちは愛の精神を持たなければならないのです。愛のない知識に、何の効用があるでしょうか。」

印度の‘ガンディ’は言いました。「飢えた腹を抱えて寝床に入るしかない人に、神様を納得させることができる唯一の方法は、パンを上げることである。」腹が減って、悲しく、涙を流しながら寝床に入って行く人に、神様を信じなさいと千万回説明したところで、何の効き目があるでしょうか。神様の御名によってパンを一切れ上げることが、その人を本当に神の道に導くことです。

‘アウガスティン’は、「愛はどのような姿をしているでしょうか。他人を助ける手があり、貧しく窮乏の人たちを訪ねて行く脚があり、悲惨で困窮なのを見る目があり、嘆きと悲しみの声を聞く耳がある。これがまさに愛の姿なのだ。」と語りました。

ですから新年には、イエス様を天国の御座から探さずに、祈祷院の祈祷窟で探さずに、自分のお隣に貧しく、飢えており、捨てられ、疎外されている人たちの中からイエス様を探し、その中におられるイエス様をおもてなしする皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願いたします。

そうする時、皆さんは本当に神様を愛し、またお隣を愛する実践的な信仰の人になることができるのです。そうなってこそ天の御国が臨み、神様の栄光が現れるようになるのです。





第三、人生の菜園に良い種を蒔きなさい。

第3番目に、人生の菜園に良い種を蒔かなければなりません。農夫は、菜園に何を蒔こうかとためらったり、漠然とした奇跡を期待したりはしません。なぜかと言えば、畑は正直だからです。蒔いた種類に従って、蒔いた量だけ、畑は生産するのです。人生の菜園も同様です。365日は、皆さん各々に与えられた神様の菜園です。ここに何かを蒔かなければならないのです。

 「ガラテヤ人への手紙 6章 7節〜8節」に、『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊のために蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』と記録されています。

私は、神様に実にたくさん祈りました。人たちからあまりにも悩まされ、苦しめられる時、「主である神様!あまりにも苦しく、悩ましいです。いつ、私からこの黒雲が離れ去るのでしょうか…?」と祈ったら、その度ごとに、「詩篇 37篇 1節〜2節」の御言葉を与えてくださいました。『悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。』と、主がいつもこのように仰せられました。悪を行い、不正を行う者は、悪を蒔き、不正を蒔いて、必ず刈り取られ、枯れるようになる。あなたが何故、心配するのか…、と言われるのです。

 人は、悪を蒔いてから善を刈り取ることはできません。人に害を加えては、その人から有益を得ることはできないのです。過去の間違いは赦されることはできても、蒔いた間違いは刈り取るようになるのです。殺人を犯した人は、神様の前で悔い改めたら赦しては受けますけれども、罪の代価は払わなければなりません。

ある兄弟が、私のところに祈って貰うために来て、このような証しをしました。彼は、イエス様を信じる前に会社を経営していたのですが、不渡りをだして債権者たちから追いかけられる立場になってしまいました。あまりにも苦しいので自殺しようともしましたが、未遂に終わり、伝道されて私たちの教会に出席するようになりました。それで御言葉を聞いて悔い改め、イエス様を救い主として迎え入れてから、色々と考えました。「あー、全知全能なる神様が俺の罪を赦してくださったんだから、俺の債務も返済してくださらないだろうか・・・?」

それで、その日から毎日祈りを捧げることに決めて、祈りだしました。「主よ!全知全能なる神様!私の罪を赦してくださったのですから、私の負債も返済してください。イエス様の御名によって、信じます!」その日から宝くじを買い始めました。ポケットにお金が入ってきたら、それで宝くじを買いました。ところが、結果はいつも空しいものでありました。それで彼は、「いや、神様は全知全能であられ、この世の財貨もすべてが神様のものであるというのに、なぜ、俺の負債は返済することができるようにしてくれないのか・・・?」彼は荷物をまとめて、祈祷院に上りました。

負債を返済することができるようにしてくださらなかったら、祈祷院から絶対に降りて行かない、と彼は強く覚悟をしました。そして断食もしながら、声が嗄れるほどに大声を出して呼ばわり、身もだえしながら祈りました。1日が過ぎ、2日が過ぎ、・・・3日が過ぎても、何の御答えも得ることができませんでした。心に焦りが生じました。

4日目になる日、祈祷窟に入って祈る途中、聖霊の御声が聞こえました。「あなたの罪は赦されました。しかし、負債はあなたが返済しなさい。この世での負債をあなたが背負っておいて、神様にその負債の返済を求めるのは、間違いです。神様を信じ、拠り頼んで熱心に仕え、十分の一を捧げながら事業をしたら、わたしがあなたの事業を祝福してあげましょう。その次に、負債はあなたが返済しなさい・・・。」それを聞いて、彼は祈祷院から降りてきて、熱心に働き、正確に十分の一も捧げ、主日にはどんなことがあっても教会の礼拝に出席しました。彼はそれから5年目に負債をきれいに返済して、私に按手祈祷を受けるために来たのでありました。

「創世記 9章 6節」を見ますと、『人の血を流す者は、人によって、血を流される。神は人を神のかたちにお造りになったから。』と記録されています。「箴言 22章 8節」には、『不正を蒔く者はわざわいを刈り取る。彼の怒りの杖はすたれる。』と言われました。「ホセア書 8章 7節」にも、『彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。』と記録されています。

蒔いた通りに刈り取るのです。赦してはいただくけれども、刈り取りは自分が蒔いた通りに自分が刈り取らなければなりません。それで、将来のために良い種を蒔く皆さんとならなければならないのです。信仰の種、従順の種、希望の種、愛の種、義の種、喜びの種を蒔いておいたら、神様の栄光で刈り取ることができるようになるのです。

 「ホセア書 10章12節」に、『あなたがたは正義の種を蒔き、誠実の実を刈り入れよ。あなたがたは耕地を開拓せよ。今が、主を求める時だ。ついに、主は来て、正義をあなたがたに注がれる。』と記録されています。「ヤコブへの手紙 3章18節」には、『義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。』と記録されています。また「コリント人への手紙 第二 9章 6節」を見ますと、『私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。』と記録しています。蒔いて、そして刈り取る法則は絶対に変わることがありません。間違ったものを蒔いたら、間違ったものを刈り取り、良いものを蒔いたら、良いものを刈り取るようになるのです。

朝鮮英祖の時代に、‘リ・サクァン’という人がおりました。彼は今の副総理にまでなった人ですが、他人を助けることが好きな温情の人でありました。彼が忠清道地方のある郡の長を務めていた時のことです。彼が管内を巡視していましたが、寒くもあり、疲れたので、道端の御茶屋に入って休んでいました。そこへ、貧農の人と見える男が家族を引き連れて通り過ぎていました。みすぼらしい身なりでありました。その男は娘を背に負っていました。

見ると、その娘は寒さで青くちぢみこみ、ぶるぶる震えていました。‘リ・サクァン’はその男を呼び止めて近寄って行き、「この村の者か?」と聞きました。するとその男は、「いえ、瑞山に住んでいる者です。とても食っていけないので、ソウルにある親戚の人の家に雇って貰うために行くところです。」と答えました。‘リ・サクァン’は、その男の背中でぶるぶる震えている娘があまりにもかわいそうなので、自分が着ていた高価な川獺の皮の上着を脱いで娘に被せてあげました。その男も娘も凄く嬉しがり、‘リ・サクァン’に深く感謝しました。

それから12年と言う歳月が流れました。当時の王・英祖の王妃が崩御して、新しく2番目の王妃を迎え入れました。その王妃・貞純王妃が、実に‘リ・サクァン’が上着を脱いで被せてあげたその時の娘でありました。人の運命は予測することができないものです。‘リ・サクァン’は王妃の推薦で王様に抜擢されました。そして何年か後には、能力が認められて今の副総理の位にまで昇進することができました。

人は、蒔いた通りに刈り取りもすることになるのです。良い種を蒔けば良い実を刈り取り、悪い種を蒔けば悪い実を刈り取るようになります。人が何を蒔こうとも、その通りに刈り取ります。それは、神様の法則なのです。ですから、神様が私たちに与えて下さった365日という菜園に、皆さんは注意深く、毎日のように良い種を蒔くようになられますよう、イエス様の御名によって祝福いたします。

成功的で幸福な新年とするためには、心に計画を立てなければなりません。肯定的に生き抜こうとする夢と希望を持ち、人生の根源的な意味である愛を実践する・・・、先ず神様を愛し、隣人に愛をほどこす生活を営もうと決心しなければなりません。そして皆さんが、神様が与えて下さった一年という人生の菜園に、最初から良い種を蒔き、大いなる収穫を期待し、そして熱く望む新年となりますよう、主の御名によって祈願申し上げます。






お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様!

私たちに、2005年という新年を与えてくださった事に心から感謝申し上げます。この新年を迎える私たちが、心の窓をいっぱいに開き、主の十字架の下で着せてくださった虹色燦爛たる五重の福音の衣を着て、また三重の祝福のオーバーコートを着こなして、暗闇も暴風雨も山も丘も、充分に勝ち抜いていくことができるように祝福してください。肯定的、積極的、創造的な信仰で、健やかに、新年を生きることができるように助けてください。

全知全能なる、天のお父さま!

今年は、いつもよりも愛を実践しながら生きて行けるように導いてください。天におられる神様を愛する者は、隣人をも愛し、疎外され、病気で、飢えている人たちをもてなす事が神様とイエス様を愛することだと言われました。彼らの中で神様をもてなし、イエス様に仕えることができるように助けてください。

今年1年間、私たちの人生の中に良い種を蒔いて、そして良い実を刈り取ることができるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!