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「自分を無にしてこそ神の御心が成される」
 






■聖書箇所
「ヤコブへの手紙 1章12節〜15節」
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
1:13 だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
1:14 人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
1:15 欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。





今日、私は皆さんと一緒に『自分を無にしてこそ神の御心が成される』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

私たちは皆、神様の御心を知りたいと願っており、また神様の御心通りに生きて行きたいと望んでいます。しかし、私たちの心の中に小さな貪欲でもあったら、たやすく神様の御心には背を向けて自分の行きたい道に歩むようになります。本当に、心から神様の御心通りに生きると決心したのなら、断固として神様の前で自分を無にしなければなりません。神様の御心と自分の貪欲を両手に握って、両方とも達成させることはできないのです。

わが国の例えに、「両手執餅」というのがあります。これは、両手にお餅を持っていて、これを食べようか、あれを食べようかと思案しているうちに、二つとも失ってしまうということです。即ち、捨てがたく、占めがたいと言うことです。また、「上下寺不及」という言葉があります。上の寺に行って飯を乞うか、下の寺に行って飯を乞うかと迷っているうちに、食事時間を逸してどこからも飯を食わしてもらえない、と言うことです。

私たちの信仰も同様です。神様とこの世に同時に仕えることはできません。神の国に一方の足を入れ、この世にもう一方の足を入れて、自分の良い時に世の中に行ったり、神の国に行ったりしたら、すべてのことに失敗してしまうのです。神様とこの世を兼ねて仕えることはできないのです。私たちが、神様が与えてくださる恵みにあずかるためには、果敢にこの世を捨てなければなりません。

ところが、自分を無にするということは、そんなに容易なことではありません。多くの試練と苦難を経てこそ、少しずつ自分を無にしていくことができるのです。神様の御心と、貪欲と、試練と、従順の過程を、私たちの信仰の祖先‘アブラハム’の生涯を通して、今日一緒に学んでみたいと思います。




第一、神様のお召しを受けたアブラハム

第1番目に、神様のお召しを受けたアブラハムを見ましょう。彼は平凡な田舎の老人であり、牧畜をしながら自然を友として生きて参りました。聖書に記録されていないアブラハムの私生活は、ユダヤ人たちが読んだタルムードに少し記録されています。ユダヤの先生・マチン・トールゲートが、タルムードに次のように書きました。

アブラハムの父親テラは、傘を作って売ったと言います。その当時、カルデヤ人のウルは、偶像を崇拝する地域でありました。父親が外出したある日、アブラハムが偶像をみな壊し、一番大きな偶像の手に斧を握らしておいたと言います。父親が帰って来て、「どうしんだ、これは。せっかく私が拝んでいる偶像を全部こんなに、お前が壊すとは...。」と怒り出しました。アブラハムが答えました。「いや、私が壊したのではありません。偶像たちが、腹が減ったと言うのでご飯をあげましたが、大きい偶像が自分ひとりでみんな食べようとして、斧を振り回して他の偶像たちをみな叩き壊したのです。」

すると父親が、呆気にとられたという表情で言いました。「おい、何を言ってるんだ。偶像が、命もない偶像が、どんなにして斧で他の偶像を叩き壊すことができるんだ...?」それを聞いたアブラハムが、父に向かって言いました。「そうです。お父さんの言われることは正しいです。それをお父さん、覚えてください。命もない偶像が、どのようにして人たちを助けてくれることができますか...。」そのような信仰を持っていたのが、アブラハムであるとタルムードに記録されています。

ところが聖書を見ますと、アブラハムが75才の時に、栄光の神様が現れて彼をお召ししてくださいました。私たちが、神様を訪ねて行ったのではありません。神様が私たちに訪ねて来られるのです。アブラハムが信仰を持っていたとは言われていますが、アブラハムが神様を訪ねて行ったのではなく、神様がアブラハムを訪ねて来られたのです。

「創世記 12章 1節〜3節」を見ますと、次のように記録されています。『その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』

神様が、アブラハムを召されて大きな夢を与えてくださいました。しかし、その夢には条件が付いていました。その夢を成就するためには、自分の人生を捨てなければならない、ということでありました。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい。」と言われたのです。神様が与えてくださる祝福を得るためには、あなたの今までの人生を離れなさい、ということです。私たちも、神様の御心に従順に聞き従うためには、世俗とこの世を愛する心を捨てなければならないのです。この世も手にし、神様も手にすることはできないのです。

「ヨハネの手紙 第一 2章15節〜16節」に、『世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』と記されています。

密林の聖者と呼ばれた‘アルベルト・シュヴァイツァー’博士は、若いときに哲学、神学、医学の3分野で博士学位を取るほどに抜群の人でありました。彼は音楽にも知識が豊富であったので、‘バッハ’に関する専門家とも知られていました。‘シュヴァイツァー’博士は30才の時、すでに“シュトラスブルグ”大学の神学部長として招かれ、高額の年俸と素晴らしい住宅をあてがわれ、オルガンの演奏者としても名声を得ていました。

しかし彼には、大学時代に神様からいただいた使命がありました。「文明地帯を離れて、貧しく、わびしく、見捨てられて、苦しみに会っているアフリカに行って、一生を献身しなさい。」という使命でありました。彼は神様の命令に従順に聞き従うために、その準備として8年間も医学勉強に励みました。そして、この世で保障された有望な将来を断然と捨ててアフリカに渡って行き、福音伝道、医療に一生を捧げました。

もっとも劣悪な環境のアフリカ、マラリヤをはじめ、あらゆる疫病がはやり、各種の野獣が棲息するところへ行って、彼は一生を捧げたのです。世の人たちは、彼を嘲笑いました。どうして、聡明であり、頭も明哲で、学識もある人がそのような愚かな決定を下したのかと、人たちは彼を理解することができませんでした。しかし彼は、神様のお召しに従って、この世を捨てました。

彼は数多くの人たちを主のもとに導き、多くの人たちを治療してあげました。その結果によって、後に彼はノーベル平和賞をも受賞するようになりました。神様の夢を成すがためには自分の人生を捨てなければなりません。自身の人生を捨てた人を通して、神様はご自分の夢と御心を成就なさるでです。





第二、自分を無にしない従順

第2番目に、私たちが注意して見るべきは、アブラハムが神様のお召しに従順に聞き従って出て行きましたが、しかし自分を無にせずに従順したという事実です。自分を無にしない従順、これは大きな試練をすでに約束されるのです。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出なさい。」と言われたのですが、彼はすべての財産を車に積み、人々を伴ない、父の血統である甥ロトも共に、全部を引き連れて出て行きました。

アブラハムは、外見的には故郷、父の家を出たのですたが、内面的には故郷、父の家の人たちを全部引き連れて一緒に出て行ったのです。故郷の地を捨て、親類、縁者とも離れて出て行きなさいと言われたのに、甥を連れ、すべての財産と、従者、家畜飼いの使い人たちを大勢伴い、大行列をなして出発したのです。もしかしたら、神様が御座に座って見下ろされながら嘆いたかも知れません。「自分の妻の手だけを取って、出発しなさいと言ったのに、あれが何か。カルデヤ人のウルで得たものまで全部まとめて行くのか…?」

アブラハムは、自分自らは神様のご指示に従って行くのだと思いましたが、実際には、彼は自分を無にせずに従ったのです。それでカナンの地に入って行った時、激しい飢饉が襲いました。山川草木は乾いて枯れ尽し、水はみな涸れてしまい、家畜の群れは食む草がないので痩せて飢え死にし、従者たちは腹がへったので食物を探し求めて勝手に離れ去って行きました。持参していたもの、連れてきたすべてを払い落とすために、神様が大飢饉に襲われるようになさったのです。

「創世記 12章10節」を見ますと、『さて、この地にはききんがあったので、アブラムはエジプトのほうにしばらく滞在するために、下って行った。この地のききんは激しかったからである。』と記録されています。ついには、アブラハムと妻サライと、そして甥ロトの3人だけが残りました。

人たちは、神様に向かって言います。「主である神様。なぜ、私にこのような試練が襲うのでしょうか?神様の御心通りに暮らそうとしていますのに、なぜ、このような苦難が迫って来るのでしょうか?」それは、神様の御心通りに従おうとするのは褒めてしかるべきですけれども、この世を共に背負って神様の御心に従おうとするので、そうなるのです。神様は、「あなたの背に負っているこの世の荷を下ろしなさい。」と言っておられるのです。それがために、試練と艱難を送られるのです。

私は田舎で育ちましたので、この頃の都市の人たちは知らない多くの体験をしています。田舎の大人たちが、良く話している一つの例をご紹介させていただきます。田舎で火事が起こったら、人たちは先ず牛小屋から牛を引き出そうとして真っ先に牛小屋に駆けつけます。焼けたら大変の一番大事な財産だからです。ところが、火が燃え上がって天地が明るく、熱い中を牛小屋に入って行って手綱を解き、牛を引き出そうとしますが、いくら人が力んでも牛は出て来ません。しきりに後ろに引きこもろうとします。

いくら健康で力がある人でも、火事場の牛小屋の中から牛を引き出すことはできません。どうしたら、牛を引き出すことができるでしょうか?真っ先にしなければならないことは、牛の飼い葉桶をひっくり返してしまうことです。飼い葉桶をひっくり返してしまったら、牛が従順に付いて出て来ます。何故でしょうか?飼い葉桶がひっくり返されるのを見たら、「ここはわたしが居るべき場所ではないらしいな。それでは、わたしが出て行かなければ…。」と、思って牛は出て来るのです。これが 田舎の人たちの体験談です。

私たち人間も、同様です。私たちが神様の御言葉に従順に聞き従わなかったら、神様が私たちの「飼い葉桶」をひっくり返してしまわれるのです。何を食べようか?何を飲もうか?何を着ようか…?とする、心配、懸念の私たちの生活の根源を、神様がひっくり返してしまわれます。私たち人間たちも、「飼い葉桶」がひっくり返されたら従順に従って出て来ます。

自分が食べる、飲む、居座ることのできるところがあったら、人も最後まで突っ張ります。神様の言われることに従順に聞き従いません。しかし、神様が苦難という過程を通して飼い葉桶をひっくり返したら、そのときには、主よ、拠り頼むところがありません、と両手を挙げて出て来るのです。

神様が、アブラハムを従順に聞き従わせるために大きな災難を送られました。飢饉が襲って、すべてを失ったのです。こうなったら、アブラハムも手を上げて出て来たらよいのですが、彼は甥ロトという血肉への愛着、すなわち、貪欲を手放すことができなかったのです。アブラハムには子がありませんでした。彼は、弟ハランの息子である甥ロト、彼の父母がいち早くこの世を去るや、甥ロトを引き取って、実の息子のように彼を育てたのです。その甥がつきまとうので、アブラハムは甥ロトを故郷に帰すことができませんでした。

神様は、「あなたの父の家を出なさい。」と仰せられたのですが、アブラハムは「父の家」をふところに抱いていたのです。アブラハムがエジプトに下って行ったのは、甥ロトの故でありました。ロトが「お腹が空いたよ。何か食べさせて…。」と泣き喚くので、アブラハムの心は耐えられない悲痛でどうする事もできませんでした。それで、ロトに何か食べさせるために、神様の御心には背を向けて、自分の道に足を踏み出したのです。どんなことであろうと、神様の御心に逆らうことは、貪欲であり、偶像崇拝です。アブラハムには、その当時、ロトが貪欲であり、偶像でありました。

「詩篇 119篇36節」に、『私の心をあなたのさとしに傾かせ、不正な利得に傾かないようにしてください。』と記録されています。「コロサイ人への手紙 3章 5節」にも、『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』と記録されています。アブラハムには、自分の甥ロトが偶像になりました。むさぼりになりました。それで、甥ロトが「腹がへったよ、何か食べさせてくれーっ!」と泣き叫ぶので、神様の御心には背を向けてしまい、甥ロトを連れてエジプトに下って行ったのです。

神様が、「カナンの地に行きなさい。」と言われたのです。「エジプトに行きなさい。」とは言われなかったのです。旱魃と飢饉が襲って来たにしても、その場にひざまずいて悔い改め、泣き、祈ったら、そして神様を信じて拠り頼み、待ったなら、神様が憐れまれて、顧みてくださったはずです。神様の御心に反することをしたのですから、その時からは、自分の手段と方法で生きて行かなければならなくなります。

皆さん、神様の御心か、自分の意思かを区別するためには、自分を無にしたらたやすく悟り知ることができます。しかし自分の意思に執着したら、結局は神様の御心を無視して、自分の意のままに行動するようになります。それが、失敗と受難の始発点になるのです。

あるお婆さんがひとり、旅をしていました。鬱蒼とした森の中を通り過ぎるようになりました。ところが、森の中で二つ道に分かれる分岐点に出会いました。お婆さんは、どの道に進んで行ったら良いか分からなくなり、神様に祈りました。「主であられる、父なるわが神様!私が行くべき道を教えてくださることと信じます。私が杖を真ん中に置いて倒すとき、杖が左に向いて倒れたら左の道に行き、右に向けて倒れたら、右側に向かって行きます…。」

祈ってから、そのお婆さんは内心、左の道に行こう、と決めました。そして杖を立ててから、倒しました。すると杖が右側に向けて倒れました。「これは神様、何か間違いですよ。もう一回、やり直してみます。」そして、杖を倒しました。すると又、杖が右側に向けて倒れました。「これは、偶然なんだ。わが神様!主の御心を知ることができるようにみわざを働かせてください!」心の中で祈りながら、三度目、杖を立ててから倒しました。すると、今度は左に向かって倒れました。「そーれ、御覧なさい。神様の御心も、左側の道なのです...!」

自分のむさぼりが満たされるまで、継続して何回も杖を倒してやまないのが人間の心です。そのお婆さんも、心の中で満足し、喜びながら左側の道を進んで行きました。ところが、何時の間にかその道の前に、沼が現れました。他には道が見当たりません。その沼を渡って行くことは死んでもできないことでありました。そのお婆さんはどうすることもできずに、後ろを向いて、行った道を肩を落として歩き戻った...、というお話しを読んだことがあります。

自分の心に予め決めておいて、そうしてから神様の御心を悟るようにしてください、と祈るのは、間違ったことです。空しいことなのです。アブラハムは、既に心を決めていました。甥ロトを生かすために、エジプトに下って行こうと決めていたので、神様の御心を無視するしかなかったのです。





第三、自分の道へ行ったアブラハム

第3番目に、自分の道へと歩いて行ったアブラハムをみましょう。甥のためにエジプトに向かって行きました。神様の御心に背いていたので、彼は信仰も失っていました。なぜ?神様の御心を知っていながら背を向けてしまったのですから、もう神様を信じることはできなくなっているのです。神様との関係が断ち切られました。それで、アブラハムは祈ることもしませんでした。アブラハムは、甥ロトと妻サライを連れてエジプトへの道に進んで行きました。

こうなったら神様を信じる信仰もなくなり、それでアブラハムは、自分の手段方法で生きて行かなければなりません。私たちが神様と良い関係を結んでいる時には、神様を信じ、神様の奇跡を期待することができます。神様が毎日、私たちの荷を負ってくださり、私たちの代わりに働いてくださるのですから、私たちは神様を信じ、奇跡を期待することができます。ところがアブラハムは、神様の御心に反する行動を取り、自分の愛着である甥を連れてエジプトに下って行く途中ですから、神様に祈ることもできず、神様の御力に拠り頼むこともできないので、自分自ら、自分を保護するしかありませんでした。

「創世記 12章11節〜13節」を見ますと、『彼はエジプトに近づき、そこにはいろうとするとき、妻のサライに言った。「聞いておくれ。あなたが見目麗しい女だということを私は知っている。 エジプト人は、あなたを見るようになると、この女は彼の妻だと言って、私を殺すが、あなたは生かしておくだろう。 どうか、私の妹だと言ってくれ。そうすれば、あなたのおかげで私にも良くしてくれ、あなたのおかげで私は生きのびるだろう。」』と記録されています。

このサライが、ありきたりの普通の美人ではありませんでした。アブラハムより10歳の年下で、アブラハムが神様から召されたのが75歳の時ですから、その時サライは65歳でありました。65歳にもなるお婆さんが見目麗しい美人であったというのです。これは凄い驚きです。65歳のお婆さんを連れて行きながら、誰かが奪うかも、との恐れがあったのです。この頃は、そんなことはあまりありそうにありません。

 それで、エジプトに入って行ってからは、65歳のお婆さんであるサライが75歳のアブラハムに向かって、「お兄さん...。お兄さんよ...!」と呼びました。すると、それを見た人々は皆、お兄さんに、その妹である、と思い込みました。その噂は瞬く間に広がりました。カナンの地からみすぼらしい農夫が一人来たのだが、絶世の美人を連れて下った来た...と。いかにサライが美しかったのか、エジプトのパロ王の耳にまで入りました。

「その二人を、連れて来い。」パロ王の命令が下りました。二人が、パロ王の前に連れられて来ました。「お前たちは、誰か?」アブラハムが、「私は故郷を離れて放浪している者です。私は妹を連れて歩き回っています。」と答えました。「妹か?」「はい、妹です。」パロ王がサライに向かって確認しました。「本当に、妹か?」「はい、そうです。これは私のお兄さんです。」「それなら、良い。朕と結婚しよう!こんな美人は、見たことがない。」こうして、パロ王はサライを妻に迎え入れ、盛大な宴会を催して、サライを自分の妻にしてしまいました。

アブラハムは、甥ロトのゆえに神様の御心に逆らい、エジプトに下って来てから自分を保護する手段を講じたのですが、妻をパロ王に嫁入りさせてしまう結果を招いてしまいました。その心痛がどうだったでしょうか。そうした中で、パロ王は、「おー、義兄、有り難うよ。」と言いながら、アブラハムに牛、馬など家畜…および、金銀をいっぱい与えました。妻を嫁入りさせてから、アブラハムはお金持ちになりました。しかしそれは、アブラハムには一生涯の間、拭い去ることのできない大恥辱でありました。

「創世記 12章19節」を見ますと、『なぜ彼女があなたの妹だと言ったのか。だから、私は彼女を私の妻として召し入れていた。しかし、さあ今、あなたの妻を連れて行きなさい。』と記録されています。これは、パロ王がサライを嫁にした後に、神様からひどい災難で痛めつけられたからでありました。結局、サライがアブラハムの妻であることが知られたのです。パロ王は、サライをアブラハムに戻して上げながら、慰謝料として金銀財宝と家畜の群れを与えました。アブラハムは、拭い去ることのできない大恥辱と侮辱を受けましたが、それでも神様の憐れみにあずかり、命は安全であることができたのです。

ところが、アブラハムはエジプトを出てカナンの地に戻って来ながらも、甥ロトを放さずに連れて来ました。「創世記 13章 1節〜2節」に、『それで、アブラムは、エジプトを出て、ネゲブに上った。彼と、妻のサライと、すべての所有物と、ロトもいっしょであった。アブラムは家畜と銀と金とに非常に富んでいた。』と記録されています。

アブラハムが妻のお陰で、非常に富んだ者となってエジプトから出て来ましたが、しかし血肉の情にはもろく、甥のロトも連れていっしょに出て来ました。そこでロトに向かって、「あなたは、もう故郷に帰りなさい。私は、これ以上あなたを連れ回ることはできない。神様の御心に逆らって、私がどんなに痛い目に会ったか知らないんだ。もう別れよう。」と言って、ロトとは別れるべきでしたが、「うん。一緒に行こう。死ぬのも生きるのも、一緒にしよう…。」これが本当に恐ろしい貪欲であり、愛着であるのです。





第四、貪欲を捨てなければ、試練も離れません。

第4番目に、私たちがここで見る時、貪欲を捨てなければ、試練も離れ去りません。アブラハムから試練が離れ去らないのは、貪欲の所為だったのです。甥ロトを振り切ることができない、ロトと別れることができない、その貪欲のために神様の御心に逆らい、それで試練が継続つきまといました。

カナンの地に入って来てから、アブラハムは甥ロトと争うようになりました。なぜかと言えば、アブラハムもロトも持ち物が多すぎたので、そこで一緒に住むことができなくなったのです。また、アブラハムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に争いが起こりました。二人の所有の家畜を飼うのには、そこは水も草も足りなかったのです。互いに草をたくさん占めようとして、水のあるところを占めようとして、両人の配下の牧者たちが大いに争い出したのです。

子供同士の争いが大人の争いに発展しました。カナンの地でアブラハムと甥ロトとの紛争は絶えることがありませんでした。「創世記 13章 5節〜7節」に、『アブラムといっしょに行ったロトもまた、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。 その地は彼らがいっしょに住むのに十分ではなかった。彼らの持ち物が多すぎたので、彼らがいっしょに住むことができなかったのである。 そのうえ、アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちとの間に、争いが起こった。またそのころ、その地にはカナン人とペリジ人が住んでいた。』と記録されています。

多くの異邦部族たちがいる前で、彼らは争いました。一時も静かで安らかな時間がありません。‘C・S・ルイス’という偉大な信仰の人は、「なぜ、苦難があるのか。それは大部分の人たちが大きな難関にぶつかる前には、神様の御声に対して無関心であるからなのだ。苦難はこのような人たちに向かって神様の御声を伝える拡声器なのだ。」と言いました。

苦難に会う前には、人たちは神様の御声に耳を傾けず、自分の貪欲にだけ愛着を持ちます。大きな難関にぶつかったら、その時になってはじめて、自分の貪欲を捨てるようになり、そして神様の御声に耳を傾けようとするのです。

それでアブラハムは、深く考えました。「神様のお召しをいただいて故郷を離れ、カナンの地に来はしたものの、神様の御心に従わなかってので大変な旱魃と飢饉に会い、連れて来たすべての使い人たちや親類縁者がみな離れ去り、甥のためにエジプトに下ってからは妻まで奪われる恥辱をこうむったのだ。またカナンの地に来てからも甥を抱えているので、こんな紛争に巻き込まれているのだ。異邦人たちが見ている前で、叔父と甥が毎日言い争いをしているのだから、どうしたら良いだろう…。」

 アブラハムは、最後に、自分を無にしました。自分の心の中から甥ロトに対する愛着と貪欲を捨てることに決心しました。「創世記 13章 8節〜9節」に、『そこで、アブラムはロトに言った。「どうか私とあなたとの間、また私の牧者たちとあなたの牧者たちとの間に、争いがないようにしてくれ。私たちは、親類同士なのだから。全地はあなたの前にあるではないか。私から別れてくれないか。もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」』と記録されています。

私から離れてくれ。アブラハムははじめて愛着を振るい落としました。ロトが離れて行ったので、アブラハムの心からは貪欲が離れ去るようになりました。そしてアブラハムは、甥ロトに優先権を与えました。「もしあなたが左に行けば、私は右に行こう。もしあなたが右に行けば、私は左に行こう。」アブラハムは叔父なので、自分が優先権を発揮しても良かったのです。しかしアブラハムは、自分を無にしました。「ルカの福音書 12章15節」に、『そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」』と記録されているのです。

ロトは、喜んで優先権を握りました。ロトの目にはヨルダンの低地全体が主の園のように、またエジプトのようにどこも潤って見えました。「叔父さん、私はヨルダンの低地に行って住みます。」「よしよし、分かった。じゃ、行きなさい。」アブラハムは、甥ロトを離れ去らすことによって心の貪欲を清算しました。その時になってはじめて、「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て行きなさい。」と言われた神様の御言葉が成就されたのです。

そうするや、神様の御心が現れました。神様の祝福の啓示が現れたのです。「創世記 13章14節〜17節」の御言葉です。『ロトがアブラムと別れて後、主はアブラムに仰せられた。「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。 わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。 わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。 立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。」』

ご覧ください。最後に貪欲を捨てたので、神様の御心が現れたのです。私たちに貪欲がある以上は、私たちは貪欲を追い求めて行きます。神様の御心を避けて行くようになるのです。神様の御心通りに生きて行くためには、心の中の貪欲を捨てなければなりません。「最後の貪欲」であるロトが離れ去るや、神様の祝福が現れたのです。聖書に確かに記録されています。『ロトがアブラハムと別れて後…』(創世記13章14節)と。

皆さん、私たちが神様に逆らう貪欲を持っている以上は、神様は私たちに絶対に何とも話しかけることはなさいません。御言葉の代わりに、神様は試練と艱難と暴風雨を送られるのです。そうなさることによって、私たちの貪欲が砕かれるようになさり、私たち自身が自ら、自分を無にするようにしてくださるのです。外部からの試練と艱難の圧力が加えられれば、人はどうすることもできなく、遂には両手を上げるようになります。

自分の人生の飯櫃がひっくり返され、自分の人生に苦しみが襲って来たら、その人は自ら貪欲を脱ぎ捨て、世俗を振り切って神様の御心を追求し、心を尽くし、思いを尽くし、命を尽くして神様に仕えるようになるのです。そうなったら、その時から神様が恵みの御言葉をささやいてくださり、祝福の栄光をお見せして下さるのです。





第五、また別の脱線

第5番目に、それだけなら良かったのですが、アブラハムがまた、脱線しました。皆さん、人は完全な存在ではありません。この世に、完全な人は誰一人いません。アダムとエバの子孫の中で、完全な人は一人もいないのです。もうこれで助かったと思ったら、またつまずき、つまずいたかと思ったら戻って来るのが、人生なのです。

アブラハムが甥ロトと別れてから、これでもう大丈夫、もう自分を完全に無にしたのだと思ったのですが、まだもう一つ、無にしえなかったことがありました。それは、子どもに対する欲望でありました。年は老いていき、子孫はないのですから、彼の心に子どもを持ちたいとする欲望、それが貪欲となり、偶像となりました。彼が年85歳になった時、自分はもう年寄りになり、妻も年老いたので、もう嫡子を得ることはできないと言って悲観せざるを得ない難関にぶつかりました。

アブラハムが、神様に祈りました。「創世記 15章 2節〜3節」に、『そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。』と記録されています。

しかし神様は、断固として言われました。「創世記 15章 4節〜6節」に、『すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」 そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」 彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。』と記録されています。

アブラハムは、神様の約束を信じました。それで、彼は神様から褒められ、義の人と認められました。ところが、試練が襲ってきました。アブラハムの心の中に“嫡子を得たい”とする欲望が残っていたのです。神様の御言葉を聞いて、そのまま信じ、神様の御心が成されることを信仰の中で待ったら良かったのですが、しきりに人間的に考えました。

皆さん、私たちクリスチャンは、世俗的方法で暮らさずに神様の方法で暮らさなければなりません。「わたしの義人は、信仰によって生きる。」と言われました。信仰の中で生きなければならないのです。イスラエルの民たちが、エジプトでは人間的な方法で暮らしましたが、エジプトから出て来て荒野に入って来てからは、信仰で生きなければなりませんでした。神様の奇跡を信じて生きて行かなければならなかったのです。

ところが、彼らはエジプトを捨てることができませんでした。同じく、クリスチャンである私たちも、神様を信じると言いながら、世俗的な生活方法をなかなか捨てることができません。アブラハムも同様でありました。神様から素晴らしい約束をいただいたのですから、それを信じ通さなければならなかったのですが、世俗的な考えが彼を信仰から引き下ろしました。

私たちはいつも、そのような闘争の中で暮らしています。難関にぶつかったら時、神様を信じて進んで行くべきか、この世の手段方法を動員すべきか、そのような葛藤の中で私たちは苦しむのです。

アブラハムが、神様の啓示をいただいて家に帰って来た時、妻のサライが言いました。「創世記 16章 2節」に、『サライはアブラムに言った。「ご存じのように、主は私が子どもを産めないようにしておられます。どうぞ、私の女奴隷のところにおはいりください。たぶん彼女によって、私は子どもの母になれるでしょう。」アブラムはサライの言うことを聞き入れた。』と記録されています。

アブラハムが、神様の約束を聞いて帰宅したのですから、「何でそんなことを言うんだ。神様が私に、空の星のように、海辺の砂のように、数え切れないほどの子孫を与える、と言われたんだ。そんなこと言わんこっちゃ!。」と、拒んだら良かったのですが、サライの言うことが“なるほど!”と思われました。自分はもう駄目だから、妾を娶ってでも子は得なければならない、と言うサライの言い分が、アブラハムの気を引きました。アブラハムはその誘いに乗ってしまいました。

「ガラテヤ人への手紙 5章16節」の御言葉です。『私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。』アブラハムが主の御霊に従って歩んだら、肉の欲望に従う愚かなことはしなかったはずです。神様の御霊には瞬間的に背を向けて、神様の約束を一瞬間忘れて、アブラハムはまた人間的に行動してしまいました。これが、人間なのです。

それで、アブラハムは永遠なる悲劇を招くようになりました。神様の御心に逆らう行いををしたら、悲劇が近付いてくるのです。欲が熟したら罪を産むのです。罪とは、脱線するという意味です。罪が入って来たら人生を脱線させるようになり、その脱線が甚だしかったら死に至ると言われたのです。アブラハムが脱線してしまいました。彼は、貪欲が入ってくるや脱線して、サライの女奴隷である若いハガルを娶り、そしてハガルを身ごもらせました。

「ヤコブへの手紙 1章14節〜15節」に、『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記録されています。ハガルが若い女性であったので、直ぐに身ごもりました。子どもが腹の中で動き回りました。その時からハガルは、高慢に振舞いだしました。主人であるサライの言い付けを聞こうとせず、従順に従わなくなりました。自分が身ごもったのを知って、自分の女主人であるサライを見下げるようになったのです。サライの神経がとがりだしました。日が暮れたらハガルは、サライが見ている前でアブラハムを引っ張って自分の部屋に連れて行くようになりました。

遂には、サライがアブラハムにぶつかって来るようにまでなりました。「私に対するハガルの横柄さを見たでしょう…。これは全部、あなたのせいですよ。私自身が私の女奴隷をあなたのふところに与えたのは事実ですけれども、しかし、ハガルは自分が身ごもったことを知ってからは、私を見下げるようになったのですっ。これを、どうしてくれるつもりですか…。」アブラハムの苦痛は、言い表せることのできるものではありませんでした。二人の女性の間に挟まれて、アブラハムは毎日が辛く、苦しい日々でありました。かえって、子がない方が良い、そうしたら平安に暮らせただろうに...と、アブラハムは思う程でありました。

それで、アブラハムの家庭には紛争の絶え間がありませんでした。ところが、その紛争が遂に極度に達しました。サライがハガルを追い出したのです。ハガルが逃げ去る途中で主の使いに会い、一応戻っては来ました。しかし、ハガルが男の子を産んでからは、家庭の紛争は更に激しくなりました。アブラハムには、平和もなく、幸福もありませんでした。その家庭にだけ紛争があったのではありません。

アブラハムの故に、こんにち、全世界が苦しみに会っています。「創世記 21章 5節」を見ますと、『アブラハムは、その子イサクが生まれたときは百歳であった。』と記録されています。100歳の時にイサクを産んでから、アブラハムはどうすることもできずに、サライの強制に負けてハガルとその子イシュマエルを追い出しました。ハガルがイシュマエルを産んだのが、アブラハムの年86歳の時でしたから、その当時14年間もアブラハムの家庭では争いと嫉妬が継続したのです。

そして、彼ら母と子が追い出されて行きながら抱くようになった恨みと憎悪が、こんにち、アラブとイスラエルの子々孫々が戦争をする原因となりました。中東で「失われた平和」は実に、ここから発するようになったのです。「創世記 16章12節」に、『彼は野生のろばのような人となり、その手は、すべての人に逆らい、すべての人の手も、彼に逆らう。彼はすべての兄弟に敵対して住もう。』と記録されています。これは、イシュマエルに関して神様がハガルに言われた御言葉です。既にその時、神様は予言されたのです。

それで、中東でのイスラエルとアラブとの紛争は以前にも絶え間がありませんでしたが、第2次世界大戦以後に、あまりにも激烈に双方の戦いが今尚展開されています。これを私たちは中東戦争だと呼んでいるのですが、1948年に1次中東戦争・独立戦争がありました。1959年に2次中東戦争・シナイ戦争がありました。1967年に、3次中東戦争・六日戦争がありました。1973年には、4次中東戦争・ヨンキプル戦争がありました。4回に亘ってアラブとイスラエルが命を懸けて戦争をし、多くの人間の生命が失われ、莫大な財産が破壊されましたが、イスラエルがいつも勝ちました。

この他にも、ガルプ戦争、イラク戦争があり、今もこの地域は「世界の火薬庫」と言われるほどに情勢が不安です。パレスタインとイスラエルでは未だにテロと銃撃戦が繰り広げられています。2000年から2002年の間にも、両側の衝突により犠牲にされた死亡者数が、パレスタイン:1943名、イスラエル:637名など、合計2,629名がテロにあって死亡しました。その上に、戦争後遺症によってパレスタインの子ども達のうち、60%が精神疾患を患っていると伝えられています。アブラハム一人の不従順がこのように、中東地域を平和の死角地帯にしてしまったのです。





第六、自我を完全に無にしたアブラハム

第6番目に、アブラハムは最後に、自分を完全に無にしました。アブラハムが100歳の時に生まれたイサクが、今は青少年になりかけていて目に入れても痛くない程に愛らしい存在でありました。お父さんと一緒に食べ、一緒に働き、お父さんの手足となってくれるので、アブラハムにはなくてはならない、如何にかわいい息子か知れませんでした。

ところがある日、神様が仰せられました。「創世記 22章 1節〜2節」の御言葉です。『これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」』

 想像もしなかった、晴天霹靂のような神様の指示が下りました。目に入れても痛くない一人息子を連れてモリヤに行き、屠って、全焼のいけにえにして捧げなさい...。人間としては、絶対にできるものではありません。これは、神様がアブラハムを試練に遭わせて、神様の御心に従うかどうかを、最後に試みられるためでありました。私たちが心の中に貪欲を持っていたら、神様は何回でもその人の貪欲を捨てさせ、砕いて、その人が自分を無にするようになさるのです。

アブラハムは第1次試験に失敗し、第2次試験にも失敗しました。これからは第3次試験に遭うようになりました。この時、アブラハムは神様の前で自分を無にしました。かわいい自分の一人息子を、神様の前に焼いて捧げるいけにえとすることに決断を下しました。アブラハムは、息子を連れて三日の道のりを歩き続け、神様が指示なさったモリヤ山に着きました。そこでアブラハムは祭壇を築き、たきぎを並べて、息子を縛り、その上にのせて置いて、刀を取って自分の子を屠ろうとしました。

「創世記 22章11章〜12節」を見ますと、『そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」』と記されています。

その時になってはじめて、「あなたが、主であるわたしを畏敬していることが良くわかった。それは、あなたにはもっとも貴重であり、どの誰よりも愛している一人息子を惜しまずに、わたしに捧げようとしたからである。あなたが自身を無にして、主であるわたしの言い付けをどこまでも守ろうとする、あなたの信仰をわたしは認めた。」と神様が仰せられたのです。

皆さん、こんにちも、神様は皆さんに対して大きな夢と希望を持っておられます。皆さんがこの世を生きている間、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、命を得るにしても豊かに得るようにして上げたいと願っておられるのです。そして、皆さんを助けて上げ、高めて上げたいと望んでおられるのです。

しかし、「神の国とその義とを先ず第一に求まなさい。」と言われました。神の国とその義とを先ず第一に求めるためには、人は自分の心の中の貪欲を無にしなければならないのです。自らも無にしようと努力し、強制的にも無にさせなければなりません。私たちが自分の心の中の貪欲を無にしなければ、神様から圧力がかかって来るのです。

環境を通して、隣人を通して、苦難と試練と患難が絶えません。それで、その圧力のゆえに人は砕かれ、後には悔い改めて、両手を上げて主の御前にひれ伏し、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、主の御心通りにしてください...と祈る時、主が私たちの人生に対して責任を負ってくださるのです。






お祈り

愛であられ、聖き、我らの父なる神様!

今日は、私たちの信仰の祖先アブラハムの一生をたどって見ました。彼も、私たちと同じく情欲を持っていた人でありました。それで彼は、神様の御心を受け入れながらも、世俗と一緒に主の御心に従おうとしたので、数多くの試練と艱難に遭いました。最後に、彼は世俗を振り切り、そうした後に彼は神様の驚くべきお恵みと祝福をいただくようになりました。

全知全能であられ、天地の主宰者であられる、わが天のお父さま!

新年には、私たちが神様の御前にひれ伏し、砕かれて、そして私たちの古い人を十字架に釘付けにして、心から神様の御心を受け入れ、主と共に同行する私たちとなれるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!