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「捧げるために生まれた人」
 






■聖書箇所
「ルカの福音書 6章38節」
6:38 与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。





今日、私は皆さんたちとご一緒に『捧げるために生まれた人』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

ガリラヤの湖は、東北の方からヨルダン川の水を受け入れて、その水を西南の方に送り出す、生きている湖です。イスラエルでもっとも重要な水源であり、全国需要水量の35%を供給していると言われています。この湖には8種類の魚が棲息していて、年間漁獲量も5,000トンに達すると言われています。その上に、1964年に完工したパイプラインを通して、イスラエル全域に水を供給することによって不毛の地を草地と農地に作り変えました。

ところがガリラヤの湖とは正反対に、死海はヨルダン川から毎日500トンの水を受け入れますが、どこにも水を分けてあげません。どこにも水を流し出してあげないのです。それで、太陽熱によって水分が蒸発して塩分が貯まり、死の海になってしまいました。どんなに塩分が高度なのか、海水の5.6%よりもおよそ5倍を超える25%から30%に相当する塩分を含んでいます。このような海では絶対に生命体が生きて行くことができません。かえって水の塩性結晶が浮遊しており、これが結集して塩の柱を見せております。

全く同じヨルダン川の水を受け入れながら、ガリラヤの湖は生きている湖ですが、死海は死んだ湖になってしまいました。それは水を受け入れてから、その後にその水を休みなく流し出してあげる、すなわち分かち合うことを通してガリラヤの湖は生きているのですが、受け入れるだけで分かち合うことをしない死海は、塩の海、死の海となってしまったのです。





第一、神様は、与えてくださる神様

皆さん、私たちの父なる神様は、いつも私たちにすべてを与えてくださる神様です。神様は天地を創造なされてから、その後に人を造られ、そして創造なさった天地を人に与えてくださいました。それは、神様が人を祝福してくださった事を意味するものです。「創世記 1章27節〜28節」に、次のように記録されています。『神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』

そして、神様はアダムに、「彼にふさわしい助け手」を造って与えてくださいました。神様はアダムにエバを造って与えられ、エバの助けを受けながら二人が一緒に暮らすことを望まれました。そして神様は、アダムとエバに、形容することのできない美しいエデンの園を与えてくださいました。その園は、無い物がない極楽の園でありました。それを神様が造られて、そして人に与えてくださったのです。そして彼らに、万物を支配する権利も与えてくださいました。「創世記 2章15節」に、『神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。』と記録されています。

それにも拘わらず、彼らが神様に逆らいエデンから追い出された後にも、神様は彼らを憐れまれて、彼らを救ってあげるらめに、今から2,000年前に堕落し、逆らっている人生の救いのために、ひとり子を遣わしてくださいました。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ3:16)

そしてイエス様は、私たち人間のために十字架に釘付けられ、身を裂き血を流されて、私たちに赦しと義と栄光を与えてくださいました。聖くしてくださり、聖霊充満を与えてくださいました。癒しと健康を与えてくださいました。アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得る恵みを与えてくださいました。復活と永遠の命と天国を与えてくださいました。

人類に対する神様の愛の話をしようとしたら、限がありません。神様は人たちにすべてのものを与えてくださったのです。私たちが享受している人生の中で、神様からいただいたものでないのが何があるでしょうか。すべてがみな、神様からいただいて享受しているのであり、それで私たちが生きているのです。それで、私たちの神様は、何かをくれと言われる神様ではなく、いつも与えてくださる神様なのです。





第二、「くれ!」とだけ言う存在

ところが、この宇宙には与えることはせずに、「くれ!」とだけ言う存在がいます。奪い取り、欲を張り、貪欲で君臨する存在がいます。これが、まさに悪魔なのです。悪魔は、もともと神様が造られた美しい天使の長‘ルシパー’でありました。神様がどんなに美しく造ってくださったか知れません。ところが、それが自分に陶酔する原因となり、その恩も知らずに驕慢になって、神様の御座を簒奪しようとしました。

神様に栄光と賛美を捧げながら、神様の手足となって働かなければならない天使の職分を忘れて、神様の栄光を奪い取ろうとしました。「イザヤ書 14章13節〜14節」に、『あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」』と記されています。貪欲の存在でありました。

アダムも同様です。この悪魔の誘惑を受けたアダムは、神様が与えてくださったすべてのものに感謝せず、欲を張って、神様のようになろうとしました。神様の御座までも狙ったのです。「創世記 3章 5節」に、『あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』と記録されています。それで善悪の知識の木の実を取って食べ、神様に逆らって堕落しました。今日を生きている人類は、アダムとエバの子孫であり、生まれる時から悪魔のしもべです。それで貪欲の奴隷として生まれたのです。

「ルカの福音書 12章15節」を見ますと、『そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」』と、イエス様が言われました。それにも拘わらず、人々は貪欲の奴隷となって生まれ、一生涯を貪欲に引き回されながら生きてから、人生の最後を迎えてしまうのです。皆さん、貪欲とは恐ろしいものです。絶対に持っているもので満足することができず、もっと持とうとし、また、もっともっと持とうと、限りなく欲張るようにするのです。

貪欲は、ちょうど海に溺れて海水を飲んだ人と同じです。塩気が喉につくとますます喉が渇いて、しきりに水が飲みたくなるので、海に溺れて海水を飲んだ人は腹が山のように膨れても継続海水を飲んで死を招き、遂には死んでしまうようになるのです。貪欲は、これと全く同じです。

1993年に、スペインで起こった出来事です。一人の男性が、わが国の貨幣で約3億ウオンに相当する宝くじに当たりました。ところが彼は、次の日殺人罪で逮捕されました。警察の発表によりますと、宝くじに当たったことを祝うために集まった家族パーティーで、17歳の妹を刺し殺したと言います。原因は、妹が“そのお金の中から少し分けて頂戴”と願ったことがきっかけとなって、激怒した彼が妹をナイフで刺し殺してしまった、と言うのでありました。

ただで3億ウオンが手に入ったのですから、一人いる妹に1億ウオン位分けて上げても良かったのです。それでも2億ウオンは手に残るのです。ところが、貪欲の塊となった兄にはそれも満足ではなかったのです。少し分けて頂戴、と言った妹を刺し殺してしまい、3億のお金も使ってみる暇もなしに、彼は刑務所に投獄される身の上になってしまいました。人間は、持っているもので満足しようとしないのです。

人間は貪欲の奴隷になっているので、いくら神様が満たして上げても満足せず、なお更のこと、隣人と分かち合おうとしないのです。いつももっと持とうとして足掻き、遂には滅亡してしまうのが、こんにちの人間の属性なのです。なぜ、人は与えられた人生に満足することができないのでしょうか。人の目は見ても満足することができず、人の耳は聞いても満足することがないのです。

人は食べ物を腹いっぱいに食べても、その時だけで直ぐにまた食べたがります。金銀財宝を持っており、富貴栄華を享受すればするほど、もっと持ちたがり、もっと富貴栄華で満たされたいと願うのが人間です。即ち、現実に満足することができないのが人間なのです。それで、一度手に入れたものは絶対に隣人と分かち合おうとしません。お隣で人が貧しく、飢えていようが、死んで行こうが、自分だけ腹いっぱいに食べ、良い生活をしたら、それで構わないと言うのが貪欲の原理なのです。人たちは、この貪欲に捕らわれて奴隷生活をしています。貪欲には限りがありません。

昔、中国の周の時代に賢明な臣下がおりました。ところがある日、王様が準備された食卓を見て、「国が栄えているのに、なぜ、朕の食卓には象牙の箸がなく、いつも木の箸で食事をさせるのか?」と言って、箸を投げ捨てながら大声で怒りました。賢明な臣下は凄く心配しはじめました。彼は家に閉じこもって、外出もしなくなりました。

友人たちが、王様の箸の一件で彼が苦悶しているという話を聞いて、彼の家を訪問しました。そして、彼に訊きました。「どうしたんだ。王様のお箸ぐらい、替えて差し上げてもいいじゃないか?そんなことでくよくよしちゃ、いかんよ。」すると、その臣下がこのように答えました。「そう、簡単に言うなよ。象牙のお箸が大したものじゃないと思われるけれど、そんなに単純なことじゃないのだ。象牙のお箸を差し上げたら、次には金の食器で食べさせよ!その次には、もっと美味しいもので食膳をととのえよ!また次には、木製のお膳ではなく、金製の食卓を準備せよ!...限りなく王様が要求することになりかねないのだ。国民がそれらを満たすために、税金をもっと多く納めなければならなくなるよ。それが心配なのだ!」

そうです。人が一回、貪欲に溺れたら、それが満たされても人は絶対に満足することがありません。最後まで、またもっと満たされたいので貪欲の奴隷になってしまうのです。人類の歴史を見ますと、強大な国が欲を張って、隣国を攻めて自分たちのものにし、またその隣の国を攻めては自分たちのものにし、今度は向かい側の国を攻め取るなど、限りない貪欲で数多い国を自分たちの植民地とし、それで数限りない人命を殺傷してきたことを、私たちは良く知っています。人生はいつも、もっと持つために戦い、一方、持つことができないので恨み、不平を言っているのです。

「ヤコブへの手紙 4章 1節〜2節」に、『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。』と記録されています。

争い、戦う理由が、欲を張り、貪欲に溺れて、もっと持ち、もっと奪おうとする足掻きなのです。もっと持つための争いが、個人的、社会的に葛藤を呼び起こし、国家的にも戦争を招いています。わが国が貧しかった時には、労使紛争がありませんでした。しかし、国が少し住みよい環境になるや、それにつれて労使葛藤、労使紛争が甚だしくなりだしました。持っているものがない時に、互いの紛争が激しくなりそうなのですが、持っているものがない時には紛争を起こさず、前より豊かになり、持ちものが多くなってくるや、もっと手に入れようとして紛争が激しくなります。

わが国の労使紛糾は、外換危機以後、1998年から持続的に増加しました。豊かに、良い暮らしをするようになればなるほど、争いがもっとひどくなっていきます。月給が多くなるほど労使紛争が甚だしくなります。なぜでしょうか。持てば持つほど、もっと持ちたくなる貪欲が発動するからなのです。もっと手に入れるための戦いは、労使間で絶え間なく紛糾として現れ、社会と階層と地域の間で限りない紛争として現れるのです。

英国ロンドン大学校のある教授が、世界54カ国を対象にして、どの国の国民がもっとも幸福感を感じながら生活しているかを調査しました。ところが、驚くべき結果が現れました。この地球上の54カ国の中でもっとも国民の幸福指数が高く、幸福であると思っている国がどの国か、ご存知でしょうか?第1位が“バングラデシュ”です。貧しく、飢えていて、もっとも苦しい生活をしている国の国民が、一番幸福指数が高い国として調査されました。

第3位が“ナイジェリア”、第5位が“インド”で、上位圏をみな貧しい国が占めました。反面、最強大国と言われているアメリカは54カ国中第46位、日本は54カ国中第44位、ドイツは第42位を占め、福祉国家として有名なスイスが第41位、自由の国フランスが第37位、イギリスが第32位、わが国は幸福指数が何位ぐらいになるでしょうか?54カ国の中で第23位でありました。私たち韓国民は、“バングラデシュ”よりはるかに良い暮らしをしていると思っているのですが、世界第1位の幸福と思う国民は“バングラデシュ”の国民たちなのです。

ある調査によりますと、一定の所得水準を越えたら、かえって所得が増えていくほど幸福感にはマイナス影響を与えると言います。皆さん、貪欲の奴隷になった人間は、持てば持つほど、もっと持ちたがるようになるのです。そして、その貪欲によって、かえって幸福を失い、不幸な存在になってしまうのです。

私が長い間牧会しながら、その間色々な家庭を訪問しました。私たちの教会の聖徒さんのうち、貧しいと思われる家庭であるほど、高笑いが聞けます。ところが、お金持ちらしい家庭では、中々笑い声を聞くことができません。貧しい人は貪欲から解放されているので、何でも喜んで着ます。食事も美味しそうに何でもよく食べます。それで幸福に見えます。しかし、美味しいものばかり食べる、立派なものだけ着る、素晴らしい構えの住宅で住んでいても、心に欲のある人はそれらすべてが心に不足なので、不平と不満でいっぱいです。とてものことでは中々声を出して笑いません。いや、笑えないのです。何事にも満足することができないのです。

人の幸福は、持っている物質にあるのではありません。心が貪欲から解放されていてこそ、幸福であることができるのです。





第三、捧げるために生まれた人

私たちクリスチャンは、どのような人でしょうか。アダムとエバとその子孫のように、貪欲の奴隷になっている人ではなく、古い人は死んで新しく生まれた人、貪欲から解放された人なのです。「コリント人への手紙 第二 5章17節」に、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記録されています。貪欲の奴隷であった古い人は過ぎ去り、新しく造られて貪欲から解放され、今は“捧げる人”となったのがクリスチャンなのです。

アダムの古い人、貪欲の人がキリストと共に十字架で死んだのです。聖書「ローマ人への手紙 6章 2節〜3節」に、『絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。』と言われているのです。イエス・キリストと共に死んで葬られ、共によみがえって新しい人となったのです。

「ガラテヤ人への手紙 5章24節」を見ますと、『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。』と記録されています。キリストと共に、十字架に私たちの情欲や欲望を釘付けにしてしまった、と言うのです。クリスチャンは、キリストと共に古い人が死んで葬られ、新しい人となってよみがえった、という事を知らなければなりません。新しい人、新しい命の人、すなわち、キリストの命に参与している新しい被造物になったのです。

ですから、私たち自身が誰であるかを知らなければならないのです。もう私たちは“古い人”ではありません。貪欲の奴隷ではありません。キリストと共に人生を生きる“新しい被造物”になったのです。私たちは“捧げるために生まれた人”たちなのです。

「ローマ人への手紙 6章 4節〜11節」までの御言葉を、声を出して一緒に奉読しましょう。『私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』

考え方が違ってきます。古い人はイエス様と共に死にました。そして今は、キリストと共に生きているのです。貪欲から解放されて、私たちはキリストと共に“捧げる”人生を生きる存在となった、という事を知らなければならないのです。

英国の牧師であり、有名な社会事業家であった‘ジョージ・ミュラー’ は、孤児のために一生を献身し、数多くの人たちから尊敬を受けました。彼の末年に、記者が訪ねて行って質問しました。「どのようにして、一生を孤児たちのために捧げることができたでしょうか?」すると‘ミュラー’は次のように答えました。

「‘ジョージ・ミュラー’は死んだからです。貪欲に捕らわれていた昔の‘ジョージ・ミュラー’は、イエス・キリストと共に死んで葬られ、新しい‘ジョージ・ミュラー’として新しく生まれたからですよ。私は主にあって、この世の評判、好き嫌い、恨み、不平...などに対して死んだのです。また、この世の賞賛とか非難に対しても死んだのです。古い人‘ジョージ・ミュラー’は主にあって完全に死に、私はキリストにあって新しい人として生まれたのです...。」

‘ジョージ・ミュラー’は、自分の地位、名誉、権勢、お金、快楽...など、世俗を一切心から追い出してイエス様で充満であったために、キリストにより、彼は大いに自分の一生を捧げる人生を生きることができたのです。

皆さん、皆さんの人生を皆さんが生きるのでありません。イエス様が皆さんの中で生きてくださるのです。アダムの子孫たちは、自分の人生を自分で生き、自分が主人となって生きるのですが、イエス・キリストにあって死に、そして新しく生まれたクリスチャンは、イエス様が自分の主人であり、自分の人生を自分が生きているのではなく、イエス様が生きてくださるのです。

「ガラテヤ人への手紙 2章20節」に、『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。』と記録されています。

イエス様は、どのように生きられたでしょうか。イエス様はただひとえに、仕えるために生きられました。イエス様は、仕えられることをなさらなかったのです。イエス様は、いのちを贖いの供え物のとして捧げるために来られました。人類を救われるために、ご自分のいのちを贖いの代価として提供してくださったのです。ですから、このイエス様が私たちの人生を生きてくださるのであり、イエス様が私たちの主であるなら、私たちの人生はもうアダムの子孫としての人生ではなく、イエス様に従って行く人生として、イエス様に従順に聞き従いながら生きて行かなければならないのです。

「マルコの福音書 10章43節〜45節」に、『しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。 人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』と記録されています。

神様が、私たちを新しく造られた者としてくださったのは、私たちが死ぬまで仕え、分かち合う人となるようにするために、私たちを新しく造ってくださったのです。私たちが死ぬまで仕え、分かち合ってこそ、神様は私たちを祝福して下さることができるのです。

「ルカの福音書 6章38節」に、『与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。』と記録されています。

私たちは、神様の前に出てきたら、いつも「与えてください。与えてください…。」と願います。昔、私が幼かったとき、田舎で暮らしました。果樹園をしていたとき、犬を数匹飼いました。あるとき、親犬が仔犬を産みましたが、あまりにもたくさん産みました。仔犬たちが親犬に飛びついてあまりにも乳を吸い過ぎますので、どうしようもなく親犬が立ち上がって仔犬たちを払い落として逃げて行きますが、仔犬たちが一斉に死に物狂いで追いかけて行きます。それが、いつも私の脳裏にこびり付いています。

あまりにも仔犬たちが乳を吸い過ぎるので、親犬が身をよじって払い落とし、逃げてしまいました。全世界のクリスチャンたちが神様に「与えて下さい。下さい。下さい…。」とだけ呼ばわり、祈り、求めるので、神様も逃げなければならなくなるのではないでしょうか。神様もたまらなくなるのではないでしょうか。私たちがしきりに「与えて下さい。与えて下さい。下さい…。」とだけ願うのは、貪欲に溺れているからなのです。私たちは、神様に捧げなければなりません。神様に私たちが捧げたら、神様はその摂理通りに、私たちに報いて下さるのです。





第四、聖徒の人生の原理

「コリント人への手紙 第二 9章 8節」に、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』と記録されています。

聖徒さんの人生の原理は、第1に、神様に捧げる人生を生きなければなりません。神様に向かって「与えて下さい!」とだけ願わずに、神様に捧げたら、その次には神様が与えて下さるのです。“与えて下さる”のが、神様の根本なのです。皆さん、貪欲で“下さい!”と言った‘ルシパー’は追い出されました。貪欲で“下さい!”と言った‘アダム’も追い出されました。貪欲に溺れていたイスラエルの民たちも、カナンの地から追い出されました。何故だったでしょうか。貪欲は、悪魔と堕落の属性なのです。

私たちは、神様に向かって“下さい!”と言うよりも、先ず捧げなければなりません。先ず私たちが捧げたら、神様は“押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして”返して下さるのです。私たちの神様は「良い神様」ですので、皆さんに「良くしてあげよう!」と望んでおられるのです。しかし、貪欲の人は“偶像崇拝者”なので、絶対に神様は共にいて下さいません。

私たちは神様に、賛美と栄光と尊厳を捧げなければならないのです。私たち聖徒が天国に昇って行ったら、何をするのか、ご存知でしょうか。天国に行ってからも、神様に「下さい!下さい!」と言うのだ思われますか?私たちは天国に入って行ったら、神様の前ですべきことは「賛美」することです。

「ヨハネの黙示録 4章10節〜11節」に、『二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」』と、賛美したと記録しています。

「二十四人の長老」とは、救われた聖徒の代表者なのです。救われた聖徒たちは、天に昇っていって神様に栄光と誉れと力とを捧げることをするのです。私たちは、神様の前に時間と物質とを捧げなければならなりません。先ず、主日を聖く守り、水曜礼拝にも参加し、区域礼拝にも行き、十分の一を捧げ、宣教献金、感謝献金を捧げながら神様に仕えなければならないのです。無条件的に「下さい!」とだけ、手のひらを上にして差し出してはならないのです。

ある貧しい家庭が、お金持ちの家のお隣に住んでいました。冬でしたので、雪が降り、寒く、子供たちは腹がひもじくなってきました。この貧しい家庭は、独身のお母さんが針仕事をしながら子供たちを育て、食べさせておりましたが、子供たちは物心のつかないうちに父を失い、色々と母親を悩ませていました。「お母さん、ひもじいよー。何か食べさせてぇ。お隣の家をみなさい。餅を搗いてるじゃないか。餅つきの音が聞こえるんだもの。隣の家では餅を食べるんだ。私たちにも、何か食べさせてよー…。」

泣き叫ぶような子供たちのねだり声を聞きながら、母親は涙を流していましたが、「ちょっと、お待ち。」と言ってから、台所に降りて行き、いくらも残っていない麦で、麦のお焦げを作りました。それを笊に盛り入れ、丁寧にお膳掛けで被せてから、長女に言いました。「これね。お隣のおばさんのところに持って行って、“お母さんが麦焦げを作りましたが、美味しいので、分け合って食べましょうっと言って、差し上げて来なさい、と言われて持って来ました。」と言いなさい、と言ってそれを持たせてお隣の家に持って行かせました。

嫌々を言う娘をなだめすかして、ようやくお隣の家に行かせました。お隣の家の奥さんに会った娘が、「わたしのお母さんが、麦焦げを作ったのですが、美味しいので、おばさんの家にも持って行って上げなさい、と言われるので、持って来ました…。」それを手に取ってみたお隣のおばさんは、自分の家では誰も食べないものでありましたが、その気持ちが有り難かったので、「おぉ、美味しそうだね。ありがとう!帰ったら、お母さんにありがとうございますって、伝えてね。」と言ってから、自分の家の召使を呼び、「今、作った餅を、この笊に一杯入れて、帰しなさいね。」と言い付けました。

お隣に使いに行った娘が、笊にいっぱいの餅を持って喜び踊りながら家に帰って来ました。麦焦げがお餅に変わったのです。何故だったでしょうか?「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」と言われた神様の御言葉が、成就されるためであるのです。

人生とは、与えたから受けるのであって、受けたから与えるのではありません。神様に時間と物質を差し上げたら、神様が30倍、60倍、100倍にして返して下さるのです。差し上げることはしないで、しきりに「下さい!」とだけ言うのは、それは偶像崇拝です。貪欲は、これ即ち偶像崇拝になるのです。

「詩篇 91篇14節〜16節」を見ましょう。『彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。 彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。 わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』と、神様が言われたのです。

ですから、私たちが新しく生まれた人として、クリスチャンとしてしなければならない人生の第1の原理は、いつも神様に先ず、礼拝と感謝と賛美を捧げ、物質を捧げ、献身と奉仕を捧げてから、その後に神様に祈らなければならないのです。そうしてから神様に祝福を祈り求めなければならないのです。捧げる前に求めることは、貪欲の仕業なのです。

第2に、私たちクリスチャンが生きて行く原理は、お隣を愛し、お隣に仕えることにあります。私たちがしきりにお隣から仕えてもらおうとして高慢であったら、却って指差され、さげすまれ、冷遇されます。自分が80代の人であっても、隣人のすべてに協力し、仕えて上げたら、何も言わなくても、隣人たちが尊敬してくれるし、また仕えてくれるのです。「マタイの福音書 7章12節」に、『それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。』と言われているのです。

まず、お隣をもてなして上げなければなりません。子どもも、親を良くもてなしたら、親は、良くもてなしてくれるその子どもにもっと与えて上げたくなるのです。私たちが隣人にまことを尽くしてもてなし、仕えて上げたら、その隣人が大小のことにかかわらず、愛を返してくれる、尊敬してくれるようになるのです。私たちはクリスチャンとして、隣人に仕え、持っている良いものを分かち合う人生を生きなければならないのです。

ベッサイダの荒野で、ある少年が自分がひもじく、腹がへっているのにもかかわらず、持っていたパン五つと魚二匹を差し出しました。それを主が受け取られて、男だけで5,000名にのぼる群集を満腹させ、12のかごにもいっぱいに残りました。少年が分かち合ったので、主が祝福してくださったのです。パン五つと魚二匹を少年が一人で持っていた時には、主が祝福してくださいませんでした。しかし、それを群集のために差し出して分かち合おうとした時、主が祝福してくださって、12のかごにいっぱい残りました。それをどうしたでしょうか?その少年に褒美として与えて上げたはずです。

従って、「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」と言われた神様の御言葉は、真実なのです。

世界的富豪であった‘カーネギー’は、「財産を持って死ぬのは、人間として恥ずかしい事である。」という名言を残しました。彼はもともとスコットランドの貧しい農夫の息子として生まれましたが、経済不況により13歳のときにアメリカに移民しました。彼が勉強したのは小学校4年生の時までで、それが彼の学歴の全部です。しかし彼は、立派なクリスチャンとして分かち合う原理を身に付け、それを実践した人でありました。その法則を通して凄い富豪になったのです。

神様の祝福にあずかって巨富になった彼は、そのお金を社会に還元しようと努力しました。教育、文化、芸術、救済、平和のために多くの研究所を設立し、慈善事業にも大いに投資しました。芸術の振興のために“カーネギー・ホール”を建築し、その他にも“カーネギー研究所”“カーネギー基金”“カーネギー教育振興財団”“カーネギー国際平和財団”などを設立しました。また、各地方の教会に約7,000台の‘パイプオルガン’を寄贈し、2,800余の図書館に運営資金を提供しました。‘カーネギー’が生前に社会に寄贈したお金を現在の貨幣で換算したら、何兆億ウオンも超えると言われています。

このように、彼がいつも分かち合う人生を生きたので、神様が‘カーネギー’に絶え間なく祝福を注いでくださり、彼の名前が死後にも全天下に広く知らされて、各国民の口に上っているのです。このような一つの例を見ても、神様が人たちに数々の物質を与えてくださるのは、お隣に仕え、分かち合うようにするためであることを知ることができます。

「ヨハネの手紙 第一 3章18節〜19節」に、『子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。それによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。』と記録されています。「テモテ人への手紙 第一 6章18節」には、『また、人の益を計り、良い行ないに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。』しなさいとあり、また、「ヘブル人への手紙 13章16節」には、『善を行なうことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。』と記されています。

私たちは「助けてくれ」と言わずに、「助けてあげる」人生を生きなければなりません。「ヤコブへの手紙 1章27節」に、『父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。』と言われています。自分の女房を誇ることは、“人間の出来損ない”だと韓国では言われていますが、私ももう70歳になったのですから、構わないと思います。

女房が、実は誇らしいのです。少しも顔に出さずに30余名の孤児たちを食べさせ、着させ、教育させており、また30余名の家無き老人たちを祈祷院の一角に収容して顧みているのです。女房は、誰にも話さずに孤児院を建て、養老院を建てて、私たちの生活費を節約しては、収入の大半を孤児たちのために、老人たちのために使用しているのです。いつも彼らのために祈り、何か良いものがあったら、そこに持っていってあげるのです。

聖徒さんたちが、私に服用しなさいといってビタミンとかを持ってくると、直ぐに見えなくなります。「どうしたか?」と言ったら、「養老院に持っていってあげましたよ!」と言うのです。息子が血液循環促進に良いと言いながら、足をマッサージする器具を買ってきてくれました。たまたま時間があったのでそれを使用してみようとしましたが、家の中のどこにもありません。「どうしんだ?」と聞いたら、「養老院に持っていってあげましたよ!」と言うのです。人たちは良くご存じないことですが、これらのことが、私には誇りになるのです。

「父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。」と言われたのです。皆さん、私たちクリスチャンは苦しい目に会っている人たちを助けてあげる人生を暮らさなければなりません。苦しい目に会っている人たち、疎外されて悲しんでいる人たちに無関心であってはならないのです。このような行為が神様に栄光をお帰しし、神様から喜んでいただく生活態度なのです。これが愛なのです。「ペテロの手紙 第一 4章 8節」に、『何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。』と記録されています。

愛は実践しなければなりません。「ヨハネの手紙 第一 4章10節〜12節」に、『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。』と記録されています。

「あ〜、私は神様を愛します。ハレルヤ!徹夜祈祷にも参加し、祈祷院に行って断食しながら祈りもし、異言も語り、いつも神様を賛美しています…。」と言います。こう言う人が、家では夫婦間で争い合い、隣人とは怒鳴り合い、欲は人一倍多いです。これがまことの信仰でしょうか?偽りであり、偽善者です。皆さん、愛があるところに神様がおられるのです。神様は、愛です。

私がいつか、話したと思いますが、昔、西大門教会の時のことです。私たちの教会に「主のしもべ」になりたいと志願する人が訪ねてきました。それで私と面談しました。「私は、三角山に上って断食祈祷も数限りなく捧げ、伝道も熱心にしています。私は、主に献身的に忠誠を尽くしている者です…。」と自己紹介をしてくれました。それで私が、家族関係を訊きました。

「家族がおられますか?」「はい。家内がおります。」「お子さんは?」「息子一人に、娘が二人います。」「今、どこに住んでいますか?」「主を愛しますので、私はみんな捨てて、別れました。」と言うのでありました。その答えに、私はショックを受けてしまいました。「何です?」すると、彼は胸を張って言いました。「主だけを愛するために、みんな捨てて別れました。今は、私一人で暮らしています。」私は、彼をまともに見返しながら、言ってあげました。「私も、あなたを主の栄光のために、見たくありません。」

主だけを愛するために家族を捨てた、と言うその人に、まことの愛があるはずがありません。自分の家族を愛しない人は、神様を信じない人よりももっと悪いのです。愛があるところに、神様がおられるのです。いくら宗教的行事を立派に執行し、霊的な行動をしているとしても、愛がなかったら、偽者です。偽善者です。

皆さん、救われていない、アダムの古い人として生まれた人は、貪欲なので、何でも自己中心的に暮らし、「くれ!」とだけ言います。しかし、古い人がキリストと共に十字架で死に、葬られてから、新しく生まれた人は、キリストと共に生き、キリストがその人の中で生きてくださるので仕える暮らしをし、与えながら生きる人生を歩むのです。苦しみに会っている人と一緒に十字架を負い、その苦しみに同参する人生を生きる人が、まことのクリスチャンなのです。

クリスチャンは、苦しみに会っている人を助けて上げながら暮らさなければなりません。現在、全世界のクリスチャンたちの収入が年に6兆5千億ドルだと言われています。韓国の貨幣で約6,000兆ウオンに達し、世界の資源の3分の2を所有していると言います。また、クリスチャンの1人平均年間収入は4,500ドルに及び、これはノンクリスチャンたちの3倍に達するのだと、“ワールド・クリスチャン・アルマネック”の1998年の統計に発表されました。神様が、世界の富の3分の2を、イエス様を信じる人たちに与えられたのです。

世界のお金持ちの中で、3分の2がクリスチャンたちなのです。この計算ですと、クリスチャンの年間平均収入は4,500ドルであると言うことになります。ノンクリスチャンたちの3倍に達します。何故、このように神様がイエス様を信じる人たちに富をたくさん分け与えて下さったのでしょうか...?それは、貧しく、飢えている隣人と主の愛で分かち合いなさい、そして愛し、彼らに仕えなさい、として祝福してくださったのです。

私たちクリスチャンが、それを自分のものとしてしまい、自分の人生だけ豊かに生きようとしたら、それは大間違いです。私たちがイエス様に従ってキリストの愛を実践し、神様の御言葉に従順に聞き従うとき、神様は益々もっとたくさんの祝福を私たちに注いでくださるのです。わが国も、短期間の間に良い暮らしをするようになりました。その理由は、韓国なりに色々な条件があったでしょうが、私たちクリスチャンが見るとき、1,200万のキリスト教信者がおり、みんなが神様を愛し、畏敬し、数多い慈善事業を展開しているからではないでしょうか。私たちは、数限りなく分かち合っているのです。

ある人たちは、ヨイド純福音教会のような大きな教会で何をしているのだろう…かと言います。今回、西南アジアに“津波台風”と言われる大きな災難が襲ってきました。そのことを聞いた私は、一晩中眠ることができませんでした。あまりにも胸が痛かったのです。明くる日の朝早く、私たちの教会で始めた“NGO”即ち、非政府機構である「善良な人たちの会」の代表である‘イ・ビョンフン’長老様に電話をかけました。

「長老様、早く出発してください。医療陣、復旧要員たちを早く出発させて、一時も早く、彼らを助けなければなりません…。」「今、お金がないのですが…。」「先ず、教会から25万ドルを出します。長老さんたちからは後で合意を得ます。今は、長老さんたちの合意を得る時間がありません。早く出発してください…。」その災難の現場に、韓国から救護団体として真っ先に駆けつけたのは、私たちヨイド純福音教会の“善良な人たちの会”の会員たちでありました。彼らは現地に飛んで行って、倉庫にむしろを敷き、蚊に噛まれながら寝起きし、病人たちを治療し、衛生施設を設置してあげ、貧しい負傷者たちに手術をほどこしてあげました。

その間、私たちは北朝鮮に少なくない援助をほどこしました。北朝鮮の食糧難を助けるために、大量の改良‘とうもろこし’の種を援助しました。北朝鮮の各地で栽培されています。また、今度は改良‘ポテト’の種を援助してくれと言って来たので、それも援助してあげようと計画しています。北朝鮮の結核患者たちのために数十億ウオンを費やしました。また北朝鮮から‘豆の粉砕工場’を建ててくれと言われたので、それも論議中です。

イラクの難民たちのためにも、私たちの教会ではあらん限りの力を尽くして援助しました。私たちの教会が、ヨルダン川の水を受け入れてから始終隣に流し出してあげているガリラヤ湖のように生命力があるのは、祝福をいただいてからは絶えずお隣と分かち合っているからなのです。私たちは、3,000名を超える子どもたちに“無料心臓手術”をほどこしました。また私たちは、500教会を開拓するために汗水惜しまずに努めています。4,000余の農漁村教会の教職者たちの生活を助けています…。

右手がすることを左手が知らないようにしなさい、と言われているので、暗々のうちにして来ました。ところが人たちは、大きな教会が欲だけが深くて、何にもしない、と言っているのです。私たちが欲だけ満足させながら今日に至ったのであったら、とうの昔に、死海のようになってしまったに間違いありません。数多い援助をしてきたので、神様が継続してヨイド純福音教会を祝福してくださるのです。これが、クリスチャンたちがすべき当然なことなのです。

私たちは、新しく造られた者たちです。昔の、古いアダムの子孫の貪欲は過ぎ去りました。キリストと共に、私たちは人類に仕え、福音を伝播し、隣人と分かち合う生活をしているのです。これが、クリスチャンである私たちの生存の本然の姿勢なのです。

第3に、私たちクリスチャンたちは自然を愛する人生を生きなければなりません。私たちは、自然を保護しなければならないのです。自然も、私たちと共に暮らすように神様が造って置かれたのです。木や、草や、花や、動物も、昆虫までも、私たち人間たちと一緒に暮らす権利があるのです。神様が、人類と一緒に生存するようにと自然の中にそれらをも造ってくださったのです。それらが滅亡されたら、人類も死にます。動植物を顧みながら、人間はそれらと一緒に暮らさなければならないのです。

「ローマ人への手紙 8章21節〜22節」を見ますと、『被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。』と記録されています。被造物が今まで、共にうめき、共に産みの苦しみをして来たのです。それは、悪い主人に会ったからなのです。

人たちが、自然を濫獲しています。木も勝手に切り倒し、河川も顧みないのでやたらに腐らし、工場の廃水を無神経に流して魚が棲息することができず、生ごみで土地を汚染させ…、あまりにも自然を踏みにじったので、自然が黙っていることができなくなりました。

昔、私が幼かった時、田舎では人たちが田植えをしましたが、田植えの後には、畦道に豆を植えました。ところが私のお祖母さんがいつも、「豆を植えるときには、種の豆を三つずつだけ蒔くんだよ!」と言われました。長い杖のような棒竿で畦道をぐっと突き、そこに豆を三つ入れてから、足の踵で踏みつけて埋めます。農村で育たなかった人はわかりません。

それで私が、「お祖母さん、なぜ、豆の種を必ず三つだけ蒔かなければならないのですか?」と訊きました。お祖母さんの答えは、こうです。「あ〜、人だけが生きているのではないからだよ。三つを蒔いたら、一つは地の中にいる虫共が食べるのだよ。その次には、鳥や野生の動物が一つを食べるのよ。3番目のを人が食べるようになるのだよ。お互いに分かち合いながら食べて生きていくのだ…。」昔の人たちは、誰かが教えてあげなくても、自然と共に生きることを知っていたのです。イエス・キリストの救いは人にだけ及ぶのではなく、自然にも及ぶのです。

私は、驚くべき話を読んだことがあります。全羅北道のある農村の水田が、隣の水田に比べて収穫量がずば抜けて多いと言うことが知られました。同じ村の水田はそうでありませんが、格別にその水田の収穫が多かったのです。不審に思った人たちが、その水田の主人に、どうしてなのか訊ねました。すると、その水田の主人が次のように答えた、と言います。

「そうですね。私が特別にしたことはありませんよ。ただ、私は毎日、水田の稲たちと話しを交わします。朝、水田に行っては、稲たちにむかって、“よく寝たかい?”暑い日には、“お前たちも、さぞ暑いだろうなぁ。この暑さに勝ってくれて、ありがとう!”…このように、話を交わしたこと以外には、何もしていませんが…。」

他の人たちのより、その人の水田の稲は格別に立派に育ち、収穫も目に付いて多かったと言います。動物も同様ではないでしょうか。皆さん、家に帰られたら、飼い犬を足で蹴ってみてください。そうしたら、その人だけ帰ってきたら、犬は尻尾を腹の内側まで巻き込んで、耳を下げ、横目でその人を意識しながら、隅のほうに隠れてしまうはずです。しかし、飼い犬を「お、愛するよ。かわいいやつ!」と言いながら撫でてあげたら、その主人が帰ってきたときにその飼い犬は、飛び上がりながら喜び、歓迎してくれるのです。愛は、動物にも植物にも生気を与えます。しかし憎しみは、動物にも植物にも滅亡を与えるようになります。

私たちがあまりにも私たちの自然環境を愛さなかったので、こんにち、自然環境が憤怒したのです。地球上の気象異変をご覧ください。いくらか前には西南アジアで、津波台風が突発して15万名もの人たちが死に、数多い人たちが今も失踪中です。これ以外にも、地球の至るところで自然災害が絶え間なく起こっています。北ヨーロッパでは、継続する暴風雨と強風で人が16名も死亡し、飛行機、船舶、自動車などが大部分交通マヒでオールストップしました。

イギリスの北部アイルランドでは、40年ぶりの最悪の暴雨で河川が氾濫し、人命被害が続出しています。ロシアの‘サンテベテロブルク’は、これまた暴雨によって都会の一部が水の下になり、一部地下鉄が閉鎖されました。ところが‘モスクワ’は凄く暑く、寒い冬なのに、今は春日和だと報じられました。アメリカの‘カリフォルニア’には決して雪が降るとか、水が凍ることがないのですが、5日間も継続された凄い雪で、完全に山が雪で覆われ、その上に暴雨で10日現在、9名の死亡者が発生しました。

ブラジルでは、旱魃と暴雨がいっぺんに襲ってきて、一部地方に非常事態が宣布されました。韓国にも、冬が短くなり、1月中旬に入った今日の朝になって、少量の雪が降りました。雪がない冬なのです。私が最初にソウルに上京してきた1954年には、いかに雪が降り積もったのか口では表現できない有様でありました。ところが今は、ソウルに雪が見えません。気象変化が起こったのです。先月、アルゼンチンの‘ブエノスアイレス’で、UN気候協約総会が開かれました。そこに参加した気象専門家たちは、このような自然災害が環境破壊による災難であると指摘しました。

人間があまりにも環境を無視して、踏みにじり、濫獲し、破壊してきたので、自然界が怒りを発したのです。自然界の怒りは恐ろしいものです。長い間忍耐するように見えますが、一度怒りを発したら、地震で、津波で、暴雨、酷暑…で襲ってきます。そうしたら人間はそれに対抗するところか、逃げ場もなくなるのです。イエス・キリストの愛を、私たちは自然にも施さなければなりません。

神様が、「世を愛された」のです。神様が、「人を愛された」とは記録されていません。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と聖書に記録されているのです。イエス様は、人と社会と自然を同時にみな愛されたのです。ですから私たちは、自分だけ救われるのではなく、隣人も救われるようにし、自然も救いのお恵みに与るようにしなければならないのです。人間が自然を保存し、顧みようとせずに、却って利己的に、貪欲で自然を支配し、破壊し、利用しようとしたら、自然は人間に向かって反撥するようになるのです。

与える者が、受ける者より幸いである、と言われました。与える人生、分かち合う人生の中にまことの幸福と喜びと満足があります。継続して捧げる人生を生きるとき、継続して祝福とお恵みが臨み、満ち溢れるようになるのです。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。」と言われたのです。

新しく生まれたクリスチャンとして、貪欲の古いアダムの人生からきれいに離れ、神様に仕え、神様に捧げ、隣人と分かち合い、祝福された皆さんとなりますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。






お祈り

聖く、愛であられる、わが父なる神様!

私たちの古い人・アダムは、貪欲に縛られていつももっと持ち、もっと奪い取ろうとする闘争に余念がありませんでした。その結果、いつも不幸であり、苦しく、争闘の絶え間がありませんでした。

全知全能であられる、我らの天のお父さま!

キリストにあって新しく生まれた私たちは、古い人を清算し、新しく造られたものとなり、イエス様の人、キリストが私たちの中で生きてくださるクリスチャンとして、神様に仕える人、隣人と分かち合う人生、いつも神様に全てを捧げながら生きる人、全てを愛しながら生きていく人となりますように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!