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「背後で働かれる神様」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 8章33節〜39節」
8:33 神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。
8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。
8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。
8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。
8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。
8:38 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、
8:39 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。





今日、私は皆さんたちとご一緒に、『背後で働かれる神様』という題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

ある日、私は蟻が熱心に餌を探し求めながら走り回っているのを見て、飯粒を一つ、その蟻の前に落としてあげました。見ていると、蟻は自分がその飯粒を発見したと思って、喜び踊りながら飯粒をくわえて熱心に後ずさりしなががら運び始めました。その時、他の蟻が通り過ぎながらそれを見て、その飯粒を奪おうとして飛び掛りました。蟻2匹が互いに死に物狂いで争い出しました。1匹は奪おうとし、1匹は奪われたら死ぬかも知れないといった、すさまじい剣幕で争いました。

それで私が、ボールペンの先であとから来た蟻をぽんとはね飛ばしました。その蟻は簡単にはね飛ばされてしまいました。一方、最初から飯粒に取り組んでいた蟻は、意気揚揚として飯粒を引っ張って行き、はね飛ばされた蟻は、“あいつの力は、凄いなぁ”と驚いたふうに、またと飛び掛ろうとはしませんでした。それを見て、私は呟きました。「争いはお前たちがしたんだけど、勝敗は私が決めてあげたんだよ。この争いの背後の力は、私だったのさ!」と言って笑いました。

人生40代を越した人は、人間の人生が自分の力だけで何とかできる、という風に考える事ができなくなります。





第一、イスラエルの運命を決定した背後の力

年を取ったら、人たちはかすかながら、目に見えない強力な背後の力によって運命が決定される、と感じるようになります。それで人たちは“運命”という言葉を使用もし、或いは、知ることができるかもとの期待から、占いなどに頼ったりもします。そのような人たちは、人間が想像することもできない強力な力が背後で自分を左右している、と思うからです。

私たちが聖書を見ますと、イスラエルの運命を決定したのは、エジプトでもなく、イスラエルでもなく、背後で働かれる非常に強い神様の見えない力であり、影響力でありました。イスラエルの民たちがモーセに従って、430年間奴隷生活をしていたエジプトを出て、意気揚揚と行軍し始めましたが、いくらも行けずに紅海が現れて茫々たる大きな海が行き先をさえぎりました。それこそ想像を絶する難関にぶつかるようになったのです。それだけではありません。彼らの後をエジプトの大軍が、彼らを再び捕虜にして元のように奴隷にしようと恐ろしい勢いで追跡して来ました。

「出エジプト記 14章 5節〜7節」を見ますと、『民の逃げたことがエジプトの王に告げられると、パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。「われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。」 そこでパロは戦車を整え、自分でその軍勢を率い、 えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。』と記録されています。

エジプトの王パロが全軍総動員令を下して、王自らそれらを率いて追跡して来たのです。その軍勢の前でイスラエルの運命は風前の灯でありました。前に進もうにも紅海がさえぎっています。絶望的な危機に瀕してイスラエルの民たちは手も足も出ませんでした。戦ったところで勝敗は見え透いています。再び捕虜になるか、紅海の海に溺れて死ぬか、二つに一つでありました。行くにも退くにも絶望でありました。

「出エジプト記 14章11節〜12節」に、『そしてモーセに言った。「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるのですか。私たちをエジプトから連れ出したりして、いったい何ということを私たちにしてくれたのです。私たちがエジプトであなたに言ったことは、こうではありませんでしたか。『私たちのことはかまわないで、私たちをエジプトに仕えさせてください。』事実、エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」』と記録されています。イスラエルの民たちは嘆き、モーセを恨みだしました。

しかし、ここでモーセは、エジプト人も知らず、イスラエルの民たちも知らない事を知りました。ある個人や国家の運命は、その背後の偉大な神様の御力が決定すると言う事実です。いくら大軍であっても戦争に必ず勝つということはなく、いくら良く走るとしても必ず1等をするという法はないと、聖書に記録されているのです。運命は、背後におられる神様の御力が左右するのです。

「出エジプト記 14章13節〜14節」の御言葉です。『それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」』想像もすることのできない話です。最大強国であるエジプトの大軍が後ろに押し迫っており、茫々たる大海が前をさえぎっているのに、モーセが、運命の決定は神様の御手の中にあるのであって、現実的な状況にあるのではない、と叫んでいるのですから、一般の人の常識ではとても正常であるとは思えなかったのです。

しかし、こんにち、私たちが見ている現実的なすべての問題の背後には神様がおられるのです。宇宙を造られた神様は、宇宙の主人であられ、宇宙を支配しておられます。歴史を造られた神様は、歴史の主人であられ、歴史を支配しておられます。人間を造られた神様は人間の主人となられて、人間の生死禍福をつかさどられるのです。運命は背後にある主の御力によって決定されるのです。

1967年6月に、イスラエルとアラブ連合軍の間に“6日戦争”がありました。ネゲブ渓谷の戦闘で要衝地帯を守っていたイスラエル軍20名が、エジプト軍3個師団の攻撃を受けました。この要衝地帯が崩れたら、エジプトの大軍はまっすぐにエルサレムに進撃することができるのです。四方を包囲したエジプト軍は、絶対的に強力な火力を動員して猛烈に攻撃を展開しました。イスラエル軍20名は必死になって抵抗しましたが、とても力不足でありました。占領されることは、もう時間問題でありました。

ところが突然、猛烈に攻撃を展開していたエジプト軍2個師団が、みな後ろを振り向いて退却しはじめました。そしてもう一つの1個師団はみな、武器を捨てて両手をあげ、降伏してきました。イスラエル軍20名は何がなんだか知らずに、自分たちに向かって降伏してくるエジプト軍を口を開けたまま見つめていました。

ところが、降伏してイスラエル軍の陣営に来たエジプト軍の将兵たちは、そこにイスラエルの軍人がただの20名しかいないのを見て凄く驚きながら、こう訊いたと言います。「他の兵士たちはみな、どこにいますか?」「私たちは、最初から20名しかいなかったんですよ。」「いやー、私たちはあなたがたの他に、巨大な大軍が陣を敷き始めたのを確かに見て、この戦いでは全く勝算がないのを見て取って降参したのです。他の2個師団もそれで退却してしまったのです...。」

エジプトの将兵たちが見たのは、イスラエルの背後で彼らを守っていた神様の軍隊であったのです。運命の決定は、人間の力によるものではありません。その背後におられる神様の御手によって決定されるのであることを私たちは知らなければならないのです。それでは、背後におられる偉大な神様の御手を何をもって動かすことができるでしょうか?それは聖徒さんたちの祈りです。私たちの運命を左右する神様の御手は、聖徒さんたちの祈りが動かすのです。





第二、背後の力は祈りを通して現れます。

イスラエルの民たちがレフィディムに来た時、アマレクが攻めて来ました。イスラエルの民たちは、エジプトから出て来て長い旅に疲れていました。食事も栄養も十分でなく、軍隊として組織されてもおらず、それこそ戦争にあっては烏合の衆に過ぎませんでした。それに反して、アマレクは立派に武装しており、訓練も受けており、食事も十分に摂取している軍隊でありました。イスラエルの民たちは、瞬く間に敗退し始めました。イスラエルの民たちの運命は、風前の灯のようでありました。

そうした時、モーセはアロンとフルを連れて戦場を見下ろすことができる丘の頂きに登り、両手をあげて祈り始めました。直前まで、アマレクに攻め立てられて支離滅裂していたイスラエルの民たちに、一騎当千の素晴らしい力が臨みました。イスラエルの民たちは立ち返って、アマレクの軍隊を破竹の勢いで攻め立てました。アマレクは忽ち敗退し始めました。

ところが、モーセが疲れて手を降ろして祈ることを止めるや、アマレクの軍隊がすぐに優勢に戻って攻勢を取り、イスラエルの民たちは敗れはじめ、崩れだしました。それでモーセが両手をあげて祈ると、イスラエルの民たちが優勢になり、モーセが手を降ろして祈らずに休むと、アマレクの軍隊が優勢になる現象が現れました。

イスラエルとアマレクは、代理戦争をしていたのです。ヨシュアが指揮するイスラエルの民たちは神様の軍隊であり、アマレクは悪魔の軍隊です。それで、背後で祈らなかったら、悪魔がアマレクの軍隊に力を与えるのでイスラエルに勝ち、モーセが祈ったら聖霊の力と天使たちが来てイスラエルを助けるのでアマレクを撃って優勢になりました。

モーセが疲れ、手が重くなってきたので、アロンとフルが石を持ってきてその上にモーセが腰掛けるようにし、彼らはこちら側とあちら側からモーセの手を支えてあげました。それでモーセは日が暮れるまで、両手を上げて祈り続けることができました。そのお陰でヨシュアとイスラエルの民たちの軍隊には、神様の見えない背後の力が継続して注がれ、遂にはアマレクの軍隊を滅ぼし、偉大な勝利をもたらすことができました。

「エレミヤ書 33章 3節」に、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記録されています。神様の御手を動かすのは、呼ばわり祈ることにあるのです。私たちが祈り、呼ばわらなかったら、私たちの背後の力はみわざを働かすことができないのです。

それで、地を造られた主、それを形造って確立させた主、その名は主である方がこう仰せられるのです。わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなることを、あなたに告げよう...と。私たちの背後の偉大な力は、私たちの祈りを通して、私たちの中に現れるという事を、私たちは知らなければならないのです。





第三、私たちの歩みは神様が移してくださいます。

1940年、第2次世界大戦当時の出来事です。イギリス軍33万5千名がドイツ軍に追われ、フランス領の小さな漁村で包囲されました。何重にもドイツ軍のタンクと機甲部隊に包囲され、空中ではドイツの戦闘爆撃機たちが爆弾を投下し、機銃掃射を浴びせました。海ではドイツの潜水艦艦隊が、イギリスのどんな軍艦も近寄ることができないように厳重に警戒していました。もうイギリス軍33万5千名もの大軍は、そこで全滅するか、捕虜になるかしか、ほかには道が全くありませんでした。

そうなるとしたら、ヨーロッパはドイツ・ナチスの手中に入ってしまいます。これこそ、紅海の海辺でイスラエルの民たちが当面したのと同じ状況でありました。後退しようにも海がさえぎっており、その海中にはドイツの精鋭海軍が陣を敷いて待機しております。空中はドイツの空軍が掌握してひっきりなしに攻撃して来ます。地上ではドイツの機械化大部隊が押し迫って来ています。イギリスの33万5千名の大軍はどうすることもできず、全滅の危機に瀕してしまいました。

その時、イギリスの首相‘チャーチル卿’が、イギリス全国の教会と教職者たちには勿論、イエス・キリストを信じない国民にも、イギリスのために、今孤立している33万5千名のイギリス軍のために、一斉に祈ってくれるように全国に呼びかけました。全国民が一日中、神様に向かって祈りました。クリスチャンたちは断食しながら祈りました。‘チャーチル’首相は、自らウェストミンスター教会堂の聖歌隊の中に席を取って座り、彼も一日中、主に呼ばわり祈りました。

これは、昔話ではありません。第2次世界大戦当時の出来事なのです。人間として袋小路に閉じ込められ、権力でも能力でもどうすることもできなくなった時、神様に呼ばわり祈ったのです。そうするや、理解を越えた大いなる奇跡が起こりました。神様の兵器が現れたのです。突然悪天候が襲ってきて、海が巨大な波で荒れ狂い、激しい暴風雨が吹き付けて、ドイツのタンク部隊が泥道のなかで一歩も動くことができなくなりました。飛行機も全く飛ぶことができません。

ドイツの機械化部隊も水浸しの泥道にはまって居座りになってしまい、飛行機も飛べず、ドイツ海軍の潜水艦群も海が荒れて動けなくなりました。そんな悪天候、まれに見る暴風雨が瞬間、イギリス軍33万5千名が駐屯している地域ではきれいに止みました。他の地域では未だに悪天候が荒れ狂っていたのですが、イギリス軍の大部隊がいる地域だけが晴れたのです。それで、イギリスの大部隊はありとあらゆる船舶を利用してそこを撤収し、無事に生還することができました。

イギリス軍が撤収し終わるや、悪天候は晴れて、ドイツ軍が一斉に攻撃を開始しましたが、そこには既に、イギリス軍隊は一人も残っていませんでした。イギリス本国に無事に撤収したイギリス軍は再編成されて、‘モンゴメリー’元帥が再編成されたイギリス軍を率いてエジプトに進撃、エジプトからヨーロッパ大陸に向かって進軍...、結局ドイツは敗亡してしまいました。

皆さん、祈りが滅亡に瀕していたイギリスを救い、ヨーロッパ一帯を救うことができたのです。勝敗は、背後の力によるのです。人の権勢や能力でできるものではありません。背後で、聖霊さまが天の御使いたちを連れてきて戦ったら、どんなことにも勝てないことがないのです。人としてはできないことがいくらでもありますが、神様の御霊がなさることには、できないことが何もないということを、私たちは知らなければならないのです。人がいくら知恵があり、聡明で、手段と方法と力が多いと言っても、運命の決定は神様がなさるのです。

「箴言 16章 1節」に、『人は心に計画を持つ。主はその舌に答えを下さる。』と言われました。また、「箴言 16章 9節」には、『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』と記録されています。人の歩みは、神様が移されるということをいつも念頭に置かなければなりません。

面白いお話しがあります。朝鮮朝時代に、太宗(テジョン)がすべての政事を息子の世宗(セジョン)大王に譲位して、豊穣(プンヤン)宮で暮らしていた時のことです。或る日、太宗が庭を散策しておりましたが、二人の廷臣が天と人に関して論じているのを偶然に聞きました。甲の廷臣が、「富貴と栄達は、すべて王様の手によるんだよ。」と主張しました。ところが乙の廷臣がその意見に反駁しました。「何を言ってるのだ。そうじゃないよ。金持ちになれるとか、高官になれることは、すべて天の意思がなすことだよ...。」

これを聞いた太宗は、「怪しからん奴だ。階級が高くなるとか、立身出世するのは王が決めることなのだ。どうして天がそういうことをすると言うんだ...。」それで、息子の世宗大王あてに書状を一札書きました。「この書状を持っていく者の階級を一つ高めてください。宜しく頼みます...。」それを封筒に入れて封印をし、「富貴と栄達は、すべて王様による。」と主張した廷臣・甲を呼んで、それを世宗大王に直接持っていくように命じました。甲は、内容も知らずに「はい。かしこまりました。」と、書状を受け取って、王宮に向かって出発しました。

廷臣・甲は、書状を持参して世宗大王がおられる王宮に向かいましたが、突然、腹痛が起こりました。下痢を何回もし、腸が断ち切られるように痛いので、動くこともできなくなりました。それで、やむなく「すべての祝福は、天から来る。」と主張した廷臣・乙に、「これは太宗様の命令だ。早く世宗大王様に持っていってくれ。私は、トイレに行かなければならない。」と頼みました。何も知らない廷臣・乙が、世宗大王のところへ書状を持っていって差し上げました。

書状を受け取った世宗大王が、内容を読むや「あはは...。」と笑われてから、「一階級、特進!」と、乙の廷臣を昇進させてくれました。明くる日、太宗が見ると、これは、どうしたことか、自分が特進を頼んだ廷臣は進級せず、進級させてはいけない廷臣が進級されています。それで廷臣・甲を呼んで訊かれました。「どうしたのだ。すべての幸福は王様の手による、と主張したお前を進級させてくれるように書状を書いたんだが、お前は進級せず、却って、天が幸福を与える、と主張した奴が進級しているじゃないか...?」「どうも、恐縮です。実は、突然、腹痛を起こして、その書状を乙に頼んで、持って行ってもらいました...。」それで、太宗が、「王も、天の心は動かすことはできないのだ!」と、嘆くように漏らしたと言います。

人生の生死禍福は、神様の御手にかかっているのです。富も栄誉もすべて神様から来るのです。人間が、いくら計画を立てても、それを成功させてくれるのは神様なのです。韓国に、「尽人事待天命」という言葉があります。人がすべきことをし尽くしてから、次には神様の命を待たなければならないということです。人が立ち上がり、座るのは、神様の御手によるのであって、人によるのではないのです。

ヤコブの12人の息子のうち、11番目の息子であるヨセフは、立派な信仰の持ち主でありました。ほかの兄弟たちは信仰心がありませんでしたが、ヨセフは篤実な信仰の人でありました。いつも絶えず祈り、御言葉を口ずさみ、神様といつも交わりを持っていましたので、神様がヨセフに特別な夢を見せてもくださいました。

彼が、兄さんたちと一緒に畑で束をたばねていた時、兄さんたちの束が自分の束を取り囲んで、自分の束にお辞儀をする夢も見ました。太陽と月と11の星が、彼を伏し拝んでいる夢も見ました。これを口に出して言ったので、兄さんたちが怒り、「お前の父と母、そして兄さんたちが地に伏して、お前を拝むとでも言うのか...?」と言って、ヨセフを非難しました。

ところが或る日、兄さんたちが羊の群れを飼っている時、父ヤコブがヨセフに、「兄さんたちのところへ、使いに行って来てくれ。」と言いました。それでヨセフが、包んでくれた食べ物を持参して兄さんたちがいるところへ行きました。兄さんたちはヨセフが来るのを遠くから見て、「見ろ。あの、夢見る奴がやって来る。あいつを殺して、悪い獣が食い殺したと言おう。あいつの夢がどうなるか、見ようではないか...。」ヨセフの兄さんたちが、神様に挑戦したのです。

なぜなら、神様が、御心を既にヨセフに見せてくださいました。ヨセフの運命は、神様が背後で左右なさるのであって、兄さんたちがどうのこうのと動かすことができるものではありません。ところが兄さんたちは、ヨセフを殺して、その夢がどうなるか見ようとして、近づいて来たヨセフを捕らえて裸にし、ヨセフを荒野の水がない穴に投げ込みました。荒野の穴の中に投げ込まれたヨセフは、救い出してくれる人がないので、そこで飢え死にするしかありません。兄さんたちも声を出して笑いながら、ヨセフはもう死んだのだと思い、ヨセフ自身も、これでは助からないと思いました。

ところが、人の運命は神様が左右なさいます。ちょうどその時、イシュマエル人の隊商がそこを通りかかりました。彼らはエジプトへ下って行くところでありました。ヨセフの兄さんたちは、「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。ヨセフを、イシュマエル人に売り飛ばそう。」それで、彼らはヨセフを穴から引き出し、銀20枚を貰ってイシュマエル人に売りました。

ご覧ください。兄さんたちはヨセフを殺そうとして荒野の水がない穴に投げ込みましたが、ヨセフを救い出すみわざは神様が背後で働かせられたのです。人間の生死禍福は、背後におられる神様が左右なさるのです。ヨセフは、イシュマエル人の隊商に連れられて行き、エジプトの奴隷市場で売られるようになりました。どうする術もなく、奴隷市場で売られるのだと思い勝ちですが、これはみな背後での神様のみわざによるのです。

なぜなら、ポティファルというエジプトの王様の廷臣であり、侍従長でもある身分の高い人が、ちょうど奴隷が必要なので来てから、ヨセフを買い取りました。ですから、ヨセフが売られて行くのも背後におられる神様がみわざを働かせてくださったからのです。ポティファルの家に行って働く時にも、神様が背後でみわざを働かせてくださいますので、ヨセフがすることは何でも立派に成功しました。神様が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対することができるでしょうか。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子と一緒にすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう...。

ヨセフがすることは、何でも立派に成功しました。神様が共にいてくだされば、すべてに幸いを得るようになるのです。それで、ヨセフに祝福が臨むので、することなすことがすべて立派に成功します。ポティファルがそれを見て驚きました。「奴隷を一人、買って来ておいたんだが、素晴らしいじゃないか。あいつがすることは、何でも立派だ!」ポティファルは、ヨセフをことのほかに愛するようになりました。

暫くしてからヨセフは、その家と全財産とを管理する総務になりました。ヨセフは体格も良く、美男子でありました。ヨセフの主人ポティファルの妻が、ヨセフに目をつけ始めました。自分の夫より、ヨセフがもっと男らしく見えました。遂に、その主人の妻がヨセフを誘惑するようになりました。機会があるごとに、「私と寝ておくれ。」と言い寄りました。いつもヨセフは拒みましたが、主人の妻の誘惑はますます嵩じていきました。

「創世記 39章 8節〜10節」に、『しかし、彼は拒んで主人の妻に言った。「ご覧ください。私の主人は、家の中のことは何でも私に任せ、気を使わず、全財産を私の手にゆだねられました。ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。』と記録されています。

ところが、機会が到来しました。或る日、ヨセフが仕事をしようとして家に入りました。ちょうどその時、家の者どもが外で働いていたので、家の中には誰もいませんでした。主人の妻がヨセフに抱きつきました。「私と寝ておくれ。」彼女はヨセフの上着を掴んで離しません。ヨセフは、上着を彼女の手に残したまま、逃げて外へ出ました。

逆上した主人の妻が、突然、大きな声で喚きだしました。「ヨセフが、私を強姦しようとしました。私が大声を張り上げて拒んだので、あの男が脱いだ上着を私の傍に残しておいたまま、逃げて外へ出て行きました...。」その声を聞いて、外で働いていた家の者どもが家の中に入って来ました。主人のポティファルも帰宅しました。ヨセフには、弁明の余地がありませんでした。事実を見た人が一人もいません。ポティファルの妻の手には、自分の上着が残っているのです。

妻の言うことを聞いて、ポティファルは怒りに燃えました。ヨセフを殴りつけ半殺しにして、王の囚人が監禁されている監獄に、ヨセフを投獄しました。私たちが見る時、あまりにも悔しく、恨めしいことです。弁明はおろか、一言もものが言えずに、完全に濡れ衣を着せられて投獄されたのです。しかし、彼の運命は、神様が背後でみわざを働かしておられました。投獄されて、ヨセフは挫折し、絶望しましたけれども、神様がすべてのことに干渉してくださって、驚くべき結果が現れます。

ヨセフが監禁されている監獄に、王様の献酌官と調理官が、王様の怒りを買って監禁されるようになりました。ヨセフは彼らの付け人にされたので、よく世話して上げました。ところが或る日、彼らが各々夢を見て、その夢の解き明かしをヨセフに頼みました。それで夢の話を聞いたヨセフが、夢を解き明かして上げましたが、その解き明かし通りに、三日目に献酌官は罪が赦されて復職し、調理官は木につるされました。

その時、ヨセフが献酌官に頼みました。「創世記 40章14節〜15節」に、こう記されています。『あなたがしあわせになったときには、きっと私を思い出してください。私に恵みを施してください。私のことをパロに話してください。この家から私が出られるようにしてください。実は私は、ヘブル人の国から、さらわれて来たのです。ここでも私は投獄されるようなことは何もしていないのです。』ところが、監獄から出て復職した献酌官は、それから2年間もヨセフのことをきれいに忘れて過ごしました。

ヨセフが挫折と絶望の中で暮らしていましたが、神様は背後でみわざを働かせておられました。結局、2年が過ぎた後に、エジプトのパロ王が夢を見てから心が騒がしくなり、夢の解き明かしを求めましたが、誰もパロ王の夢を解き明かしする者がいませんでした。その時、献酌官が膝を叩いてから王様に申し上げました。「私が監獄に入れられていた時、凄く夢の解き明かしを立派にするヘブル人の若者がいました。彼が、私たちの夢を解き明かした通りに私はもとの地位に戻され、調理官は木につるされました...。」

それを聞いたパロ王が、「早く、その若者を呼んで来い!」と、命令を下しました。それで人々は急いで地下牢からヨセフを連れ出し、ひげを剃らせ、着物を着替えさせてから、パロ王の前に立たせました。パロ王が、自分の夢の話をして上げるや、ヨセフは立派にその夢を解き明かしました。

「王様の夢の通りに、エジプトに七年間の大豊作が訪れます。その後に七年間の飢饉が起こって、豊作はみな忘れられます。ですから、七年間の豊作の時に知恵のある官吏を任命して、豊作の時の穀物を蓄え、七年間の飢饉の時に備えてください...。」これを聞いたパロ王は、膝を叩いて喜びました。「あなたのように、さとくて知恵のある人はほかにない。この人を、総理大臣に任命する...!」

ヨセフのその間の人生を見る時、すべてが偶然に、または人の手によってなされたように見えますが、その背後には神様がおられて、みわざを働かしてくださったのです。ヨセフが、荒野で水がない穴に投げ込まれたのも、その背後には神様がおられてみわざを働かしてくださったのであり、救い出されたのも神様のみわざによるのであり、イシュマエルの隊商に売られ、それからポティファルの奴隷に売られたのも、ポティファルの妻から濡れ衣を着せられたのも、神様が背後でみわざを働かしてくださったのです。

それだけではありません。監獄に入れられたのも、パロ王の王宮に入って、総理大臣になったのも、背後の神様がみわざを働かしてくださったからなのです。聖書に記録されています。『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』(ローマ人への手紙8:28)

「箴言 16章33節」に、『くじは、ひざに投げられるが、そのすべての決定は、主から来る。』と記録されています。熱心にくじを引いても、結果は神様が決められるのです。一生懸命に水のない穴にヨセフを投げ込みましたが、結果は神様がなさる通りになり、奴隷として売り飛ばしても、どの家の奴隷になるかは神様が決められるのです。ポティファルの妻が逆上してヨセフが殺したい程に憎かったのですが、ヨセフの運命は神様が決定され、一度入ったら出られないと言われる王の囚人が監禁される監獄に入れられても、結果は神様の御心によるのです。くじは、膝に投げられますが、そのすべての決定は、主から来るのです。

1942年11月28日、土曜日は、米国のボストン大学が、その年の最後のアメリカンフッドボールの競技をする日でありました。米国では、アメリカンフッドボールと言ったら全国の国民が熱狂します。ボストン・レッドサックス・チームは、選手が全員クリスチャンたちでありました。彼らは祈りながら準備し、戦力が劣るホーリー・クロース・チームとの競技では充分に勝つことができると自信満々でありました。それで勝った後にはパーティーを開くつもりで、有名なホテルで1泊しながら盛大に祝おうと言うことになって、すべて予約しておき、万端の準備を整えました。

ところが、試合が開始するや、予想とは全く違い、ボストン・チームは苦戦しました。選手たちが度々しくじり、呼吸も合わず、あっけなく相手に負けてしまいました。彼らは、なぜこういう結果になったのか、理解することができませんでした。私たちは熱心に祈り、汗を流して準備してきたのに、神様がなぜ、こうなさったのだろうか。彼らは体力も気力も尽き果ててしまいました。失意に落ち込んだまま、ホテルの予約も何もかもみな取り消しして、彼らは各々家に帰りました。

ところが次の日の朝、朝刊新聞を開いてみた選手たちはびっくり驚きました。パーティーを開こうとして予約したホテルが火災を起して、無残にも491名のホテルの客が命を失った、と報道されていました。もしも彼らがそのホテルで、パーティーの後に寝込んでいたのだったら、選手全員が焼け死にするしかなかったかも知れません。

彼らが試合で負けたのは、神様の御手によるものであったのだと悟った彼らは、ひざまずき、ひれ伏して、「負けるようにしてくださった神様に、感謝します!」と、みんなが感謝の祈りを捧げました。大小にかかわらず、すべては神様が主管なさるのです。それで、たとえ私たちの考えではそうでないと思われても、正しい方向に向かって人の歩みを移されるのは神様なのです。神様はアルファであり、オメガであり、最初であられ、最後であられ、初めとなられ、終わりとなられますので、遠くを見つめて計画を立てられ、すべてを備えられるのです。

「アドナイ・イルエ」であられるのです。神様は私たちのために、備えて下さるお方です。予め知っておられるので、前もって準備してくださるのです。神様が、ご自分を愛する者のために備えて置かれたすべてのものは、目で見ることができず、耳で聞くことができず、心で思うこともできなかったものなのです。神様は、私たちのために理解を越えた大いなる事を備えておられるのです。このすべては祈る人によって、神様が直々に関与なさり、みわざを働かしてくださるのです。

人生は、いつも不安です。なぜなら、人間は明日を予測することができない不確実性に取り囲まれており、また、押し迫ってくるすべての問題を解決する能力がないからです。しかし、私たちの人生が私たちによって決定されるのではなく、背後で働いておられる神様によるのである事を知るようになったら、心が平安になり、確信を持って神様に拠り頼み、神様を見上げながら生きて行くことができるようになります。

「ローマ人への手紙 8章33節〜39節」の御言葉を、皆さん、一緒に声を出して奉読しましょう。

『神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。 私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。』

ですから、私たちが誇るべきものがどこにあるでしょうか?人間の高慢が立ち得るところがどこにあるでしょうか?私たちの生死禍福は、全知全能であられ、昨日も今日も、いつまでも同じ神様の御手にあるのです。私たちが祈り、呼ばわれば、神様は私たち人生の最悪を最善のものに変化させてくださり、私たちが祈らず、呼ばわり求めなかったら、そのまま自分の運命の道を歩んで行くしかないようになるのです。

いつも祈り、主に呼ばわり求めて、各々の人生が神様の干渉に与り、最悪だと思われることたちが神様の御手によって最善のものに変化する奇跡を体験する皆さんとなりますよう、主の御名によって祈ります。

聖書に記録されています。『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたの鞭とあなたの杖、それが私の慰めです。』(詩篇23:4)主の鞭は、私たちを導いてくれます。知恵と聡明と明哲と力を持っている主の鞭と、全能なる主の杖が私たちを慰めてくれるのです。私たちが祈る時、神様の知恵と聡明と明哲と力が私たちを導き、神様の全能なる杖が私たちを保護してくれるのです。

私たちが祈ったら、主が、敵の前で私たちのために食事をととのえてくださり、私たちの頭に油をそそいでくださり、私たちの杯があふれるようにしてくださいます。イエス・キリストは、昨日も、今日も、いつまでも同じです。主は、永遠なる愛で皆さんを愛してくださり、愛する皆さんに、魂が幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、健康であるようにと願っておられるのです。

神様は仰せられます。『彼がわたしを愛しているから、わたしは彼を助け出そう。彼がわたしの名を知っているから、わたしは彼を高く上げよう。彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』(詩篇91:14〜16)





お祈り

聖く、栄光であられる、わが父なる神様!

人生の道は人の手にあるのではなく、神様の御手にあります。私たちの運命が私たちによるのではなく、神様によります。

全知全能であられ、愛であられる、父なる神様!

全世界のすべてが私を殺そうとしても、神様が殺そうとなさらなければ、私は絶対に死にません。周囲の全部のものたちが私を倒そうとしても、神様が倒そうとなさらなければ、誰も倒すことができません。聖書に、「主は、わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。主は、ご自分の羽で、あなたを覆われる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、砦である。あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。」と言われています。

聖き、わが天のお父さま!

イエス・キリストの十字架の尊い血潮で代価を払って贖われた主の民たちが、一つ所に集まりました。この民たちの呼ばわり祈る声に耳を傾けてください。この民たちの人生を神様が親しく、力の御手で導いてください。

永遠なる愛であられ、主である、わが神様!

今日、この主の民たちをみな、抱いてくださって、川を渡り、砂漠を通ってください。そして、みんなが、魂に幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、命を得るにしても豊かに得るように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!