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「人生と思い煩い、心配、懸念」
 






■聖書箇所

「ピリピ人への手紙 4章 6節〜7節」
4: 6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4: 7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。




私は、今日、皆さんたちとご一緒に『人生と思い煩い、心配、懸念』という題目で、お恵みの神様の御言葉を分かち合いたいと思います。

家やビルに火災が起こった時、その火よりももっと恐いのが煙です。大概、煙のために窒息して多くの犠牲者が生じます。火災が起こったら、犠牲者の60%が一酸化炭素が含まれている煙のために窒息して、死亡するのです。人間の人生にも、疲れ、重荷、苦しいことよりも、その重荷とか、苦しいこと自体よりも、重荷や苦しみによって生じる思い煩い、心配、懸念、不安、焦燥などが心に破綻をもたらします。

生活苦とか、事業問題で思い煩い、心配し、それに耐えられなくなって精神的破綻に会い、自殺するなど、不幸な最後を迎える人が少なくありません。それでは、このように煙みたいに生ずる思い煩い、心配、懸念などをどうしたら良いでしょうか?




第一、思い煩い、心配、懸念は百害あって一利なしです。

私たちは、思い煩い、心配、懸念に対する理解を確かにしなければなりません。思い煩い、心配、懸念はそれこそ百害あって一利なしであることを認識しなければならないのです。それらは、タバコと全く同じです。何の益も助けも私たちに与えることができません。思い煩い、心配、懸念するといって環境が変化するのでもありません。家庭も、職場も、生活も変化されはしません。思い煩い、心配、懸念が貧しい人生を豊かにしてくれるのでもなく、年老いた人が若くなることができるのでもありません。病人が思い煩い、心配、懸念するからといって癒されるのでもなく、死ぬべき人が生き返るのでもありません。「生・老・病・死」…このすべてにあって、思い煩いや心配や懸念は何の足しにもならないのです。

イエス様が、「マタイの福音書 6章27節」を通して、『あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。』と言われました。また「マタイの福音書 5章36節」を通しては、『あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。』とも言われました。人の思い煩い、心配とか懸念とかは、全く無用の長物なのです。そうであるにも拘わらず、人たちは毎日、公害も同様の思い煩い、心配、懸念の中で暮らしています。心配しようとも、しなくとも、私たち人生の中で起こるべきことはすべて起こっています。

‘ノーマン・ビンセント・ピール’博士は、「つまらない心配」に対する或る研究機関の調査結果を引用して、次のように語りました。「人が心配することの中で、実際に起こらないことに対する心配が40%、すでに過ぎ去ったことに対する心配が30%、別に重要でもないことに対する心配が22%、人間の力ではどうしようもないことに対する心配が4%である…。」と。言い換えれば、人たちが思い煩い、心配し、懸念することの96%が、実際には無用の心配であり、無用の懸念であると言うことです。

一方、人たちが思い煩い、心配し、懸念することの中で実際に起こることは僅か4%に過ぎないのですが、それも、人たちが心配し、懸念するとして少しも変化されることはないと言うのです。従って、人たちが思い煩い、心配し、懸念することは大概が実際には起こらないのです。皆さん、心配とか懸念とかは、私たちに凄い害を及ぼす公害です。精神的に絶望と落胆をもたらすものなのです。

私も、実は思い煩いとか、心配、懸念を多くした人のひとりです。しかし70歳になった今は、心配事や懸念されることがあったら、その殆どが起こることがなく、心配したといって解決することができるのでもないことをその間たしかに経験して来ましたので、「思い煩ったり、心配したり、懸念したりするな!」と自分に言い聞かせて済まします。

「箴言15章13節」に、『心に喜びがあれば顔色を良くする。心に憂いがあれば気はふさぐ。』と記録されています。心配事や憂いがある人の顔をご覧ください。顔につやがありません。瞼は重く垂れ下がっており、生気がありません。誰が見ても、心配や懸念や憂いがある人はその人の顔を見たら分かります。それほどに、心の心配や懸念が肉体的な健康にもショックを与えるということを私たちは知ることができます。

イギリスの‘アーザー・レンク’という実業家は、事業に関する苦悶と心配でいつも不安でありました。そうした或る日、心配や思い煩いをせずに生きることはできないかと思案をめぐらした結果、素晴らしい妙案が思い浮かびました。「そうだ。これからは月曜日から日曜日まで毎日思い煩わずに、1週間に1回、中間の水曜日の1日だけ、全部まとめて心配し、考えることにしよう…!」それで、月曜日、火曜日に生じる心配や懸念をメモして、準備した“心配懸念函”に投入しました。木、金、土、日曜日の思い煩い、心配事もすべてメモしてその函に入れました。

そうして、水曜日にそれらを取り出して一つ一つ読みながら、考え、心配し始めました。そうする中で、思い煩い、心配し、懸念した事柄が、実際に何日か過ぎてからは、大概が解決されてしまったいるとか、別に不安がらなくても良かったことたちであった事実を発見しました。結局、‘アーザー・レンク’氏は、「そうなんだ。心配事が実際には何日か過ぎてからみたら、何でもないことたちだったんだ。心配し、思い煩ったとしてそれらが解決されるものではないんだ…。」と悟ってからは、一切心配したり思い煩ったりしなくなった、と証ししました。

第2次世界大戦当時、約20万名の米国軍人が戦死しました。ところが、同じ時期に約200万名の米国人が、息子や兄弟を戦場に送り出して心配、不安、焦燥しながら心臓麻痺などで死亡したと言います。戦場で戦死した人は20万名ですが、心臓麻痺などで国内で死亡した人が200万名に及んだと言うのです。10倍もの人たちが思い煩い、心配、懸念、不安、焦燥、絶望で死亡しました。このように、疾病や戦争よりももっと恐ろしいのが心配、懸念、思い煩いなのです。

実際に、糖尿病患者を対象に調査した結果、心に心配事があったら、糖の数値が急激に上昇すると言います。高血圧患者も同様です。お医者さんたちは、赦せない、寛容することができない憎悪が高血圧を悪化させると言いました。

何日か前に、親しい人たちと食事を一緒にしました。‘金章煥’(キム・ジャンフアン)牧師先生も同席していました。一人が、「私は、或る人が憎くてたまらないんです。この恨みは死んでも消え去ることがないと思います。」と、冗談でもなく真面目な表情で語りました。すると、‘キム・ジャンフアン’牧師が飛び上がらんばかりに驚きながら、「あなた、ガンに罹りますよ。心配、悩み、憎悪を心に抱いていたら、それがガンを誘発するんですよ!」と強く主張しました。私は心の中で、“あんなにも、面前で過酷なことが良くも言えるものだ。”と思いましたが、一方、考えてみたら、‘キム牧師’は正しい事を言われたのです。

そうです。憎悪や心配、懸念は、結局はガンを発生させたり、凄い病気をもたらすようにするのです。思い煩いはまた、虫歯も生じさせると言われています。米国“ノースト・ウェスターン”大学の‘レオナルド・ポストイック’博士によりますと、人が思い煩い、心配、懸念するようになったら、唾の分泌が抑制されると言いました。皆さん、凄く心配したり、怒ったりしたら口の中が乾きます。口内の唾が乾きます。それで口内の唾液が中性化されないので虫歯など、口内疾病を起すと言うのです。

米国の中央北部、“ウィスコンシン州にあるモンロー病院”の院長‘スィンデラー’博士は、「リウマチの30%が心配、思い煩い、不安、絶望の故に生じ、皮膚病の33%は、心の混乱と苦痛で生じるのである。」と発表しました。このように、大多数の疾病が外部からの肉体的刺激によるのではなく、無気力感、挫折感、不安、思い煩い、恐怖、敗北感など、情緒的理由で発生するのです。それで、‘プラトー’博士は「医師たちのもっとも大きな過ちは、患者の精神的面は捨て置いて、肉体だけを治療しようとすることである。」と言い切りました。

皆さん、思い煩いと心配がなぜ、恐いのでしょうか。聖書に、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』(箴言17:22)と記録されています。医学的に説明したら、私たちの自律神経が自律器官の中に入っていますが、私たちが思い煩い、心配したりしたら、自律神経の一部分が私たちの心臓、胃腸、または腎臓、膵臓など、自律神経で動作する器官を破壊すると言います。それを交感神経と言うのですが、私たちが思い煩い、心配し、不安がったりしたら交感神経が活性化して私たちを破壊するのです。

それで、心臓の動悸が激しくなり、食べたものが消化されず、小便の色がまっ黄色くなるなどの現象を起します。しかし、信仰、希望、愛、義、喜びを持って心が安らかであったら、副交感神経を刺激して体を癒し、健康にしてくれるのです。皆さん、聖書の御言葉は、すでに数千年前に、こんにちの科学が発見した事実を明らかに記述しているのです。

『陽気な心は健康を良くし・・・。』心が楽しく、陽気であったら、副交感神経を刺激するので、私たちの体内にあるすべての器官を健康にします。『陰気な心は骨を枯らす・・・。』心の思い煩い、心配、不安、憎悪などは、交感神経を刺激して活性化させ、骨までも枯らす、言われたのです。骨が枯れるのに、肝臓、腎臓、胃腸が完全で、穏やかであるはずがありません。

ですから皆さん、家庭生活しながら夫婦の間でよく意見衝突したり、子供たちのために傷心することがあると思います。そのような時には、十分に気をつけなければなりません。このように怒りを発したり、苦しんだり、思い煩ったりしたら、交感神経を刺激して心臓や肝臓や腎臓をやられるかも知れないからです。胃腸に異常が生じるかも知れないのです。そうなったら自分だけ損するのだ。止めよう…。こう、早く自制しなければなりません。

反対に、心に平安をもって、家族を愛し、何かあっても忍耐し、赦し、慈しみをほどこしたら、副交感神経を活性化させて、体が健康になり、ちょっとした体の故障は癒されるのです。胃腸病も癒され、心臓の動悸も鎮まり、小便の色も清くなり、腰の痛みもなおります。

私は、ソウルの延世大学校の教授先生が、こう言われるのを聞きました。一人がカンカンに怒った時、その人の口にビニール袋をあてて、凄く怒っているその人の息を採取し、それを冷凍した後、水に変換させて注射器に入れ、ネズミに注射したところ、2分も経たずにそのネズミが死んでしまったそうです。怒りを発したら、いかに恐ろしい毒がその人の息から出るのか知れません。それを液化してネズミに注射したところ、そのネズミが死んだと言うのです。

ですから、思い煩い、心配、懸念、焦燥、絶望は、霊的に私たちを暗鬱にするだけではなく、精神的にも恐ろしいストレスをもたらし、そのストレスが肉体的には私たちの交感神経に作用して、心臓、腎臓、肝臓、胃腸全般に凄い破壊を及ぼし、形容することのできない病気を患うようにすると言うのです。それで、こんにちお医者先生たちが言われるのです。「人の肉体の病の60%は、精神から来るのです。」と。家に火災が起こった時、60%の人たちがガスによって窒息死するのと同じく、こんにち、人たちの肉体の病気60%以上が、心の思い煩い、心配、絶望、憎悪・・・などから発生するのです。

皆さん、思い煩い、心配、不安、焦燥、絶望、憎悪などがそのまま私たちの肉体に破壊をもたらすのです。それが本当かなーと、半信半疑の聖徒さんもおられることと思います。思い違いをしてはいけません。科学的に証明された事実なのです。ですから、思い煩い、心配、不安、挫折、悲哀、憎悪などが心の中に起こったら、直ぐに、「あはー、私の中の交感神経が活性化されたな!もう、その神経がすべての器官を破壊するかも知れない・・・。」と、現状把握をしなければなりません。

そして、すばやく、「そうだ。副交感神経を活性化させて、私の体が若くなり、すべてが癒され、体調が良くなるようにしなければ・・・。」と悟り、自分自身の心を支配しなければならないのです。これは、主が言われる愛を実践したら、直ちに副交感神経を活性化させることができます。相手を赦し、愛し、理解したら、心が平安になります。

人は、公害が押し迫ってくるのをどうすることもできません。公害をなくすことができないのです。風が吹き付けるとか、雨が降って公害を消し去るようにしてくれない限り、人たちの力で公害をなくすことはとてもできないのです。人たちは公害の中で呼吸しながら生きており、その中で生活しています。思い煩い、心配、懸念、嫉妬、憎悪・・・など、これが公害なのです。これらを克服しようにも、人の力ではできません。それでは、どうしたら良いでしょうか?




第二、思い煩いを克服するために

思い煩いや心配事があったら、それを見つめ、または抱きしめて、自分が煩ったり、心配したりせずに、それらを誰かに任せなければならなりません。煩い、心配の重荷を誰かに委ねてしまわなければならないのです。それも完全に委ねてしまわなければならないのです。しかし、それもたやすいことではありません。或る人は、思い煩いや心配事の重荷を委ねるとして朝早く教会に来て熱心に祈り、そうした後には、帰る時にまたそれらを抱え、背負って行きます。これが問題なのです。

人は、思い煩いや心配、懸念、憎悪・・・などを委ねることのできるところがなければなりません。それが信仰です。信仰がないことには、思い煩い、心配などを委ねるところがありません。信仰がない人は、すべてのことを自分の力で解決しようとするので、思い煩い、心配、懸念、憎悪に勝つことができないのです。最近、そのようなことによって高血圧、心臓病、糖尿病、関節炎などの重病に罹り、命まで失ってしまう人が少なくありません。憎しみがつのって殺人までもするのです。

‘マルチン・ルター’は、宗教改革運動を起した以後、毎日、極度の思い煩いと精神的苦しみに会いました。なぜなら、一介の神父がヨーロッパを掌握している教皇庁と対決して宗教改革運動を起したのですから、凄い圧力を受けたのです。

それで、彼は色々と思い煩い、心配と恐怖で苦しみに会っていましたが、或る日偶然に、餌を食べてから木の枝で安らかに居眠りしている小さな鳥一羽を見て、大きく悟りました。「あの小さな鳥は、明日食べることに関しても、今日の夜の寝場所に対しても、何の心配もないんだ。鳥までもがすべてのことを神様に委ねて、何の思い煩いも心配もなく昼寝をしているのに、なぜ、私はそんなにも多くの思い煩い、心配をするのだろうか。あの小さな鳥一羽をさえ顧みてくださる神様なら、ご自分の子どもはどんなに愛しく思われ、保護してくださるだろうか・・・!」

‘ルター’は、自分もその鳥のように、神様を信じ、すべての心配事を神様に委ねることに決心しました。鳥も神様を信じて、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか・・・と心配せずに、あのように平安なのに、鳥より貴重な私がなぜ、思い煩い、心配し、不安、焦燥しなければならないのか?その時以後、‘マルチン・ルター’は勇気と力を得て、教皇庁を相手にして戦って勝ち、宗教改革という偉大な結実を得ることができたのです。

私たちには、思い煩いや心配事を委ねることのできる神様がおられるのです。ところが、人たちがよくする質問があります。「本当に、神様に、私たちの思い煩い、心配などを委ねたら、解決してくださるだろうか?私たちの個人問題、家庭問題、子どもの問題、事業問題・・・などを神様に委ねたら、解決していただくことができますか・・・?」

「イザヤ書40章27節〜31節」をご覧ください。『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』

神様が、私たちの苦しい問題を解決してくださることができるでしょうか・・・、と訊くのですか?皆さん、「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない・・・。」限界がない御力を持っておられる神様です。主は永遠の神様です。地の果てまで創造された神様です。測り知れない英知を持っておられる神様です。その神様が、私たちの思い煩い、心配、懸念・・・など、負ってあげる、と言われたのです。

そのような御力のある神様が果たして、自分のような人間を知ってくださるだろうか?地球の上には数十億の人間が暮らしているのに、虫けらのような人間である自分の願い事を聞いてくださるだろうか・・・?果たして神様が、自分の重荷を負ってくださることを喜ばれるだろうか・・・?このような疑いを持っている人もいます。

「マタイの福音書11章28節〜30節」に、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。』と記録されています。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と言われたのです。お金持ちだけ来なさい、高等教育を受けた人だけ来なさい、立派な人だけ来なさい、健康な人は来なさい・・・、と言われたのではありません。疲れた人、重荷を負っている人たちよ。皆、わたしのところに来なさい。男女老幼、貧富貴賎を問わずに、すべての人たちよ。皆、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます・・・と言われたのです。

主が、直接に招いておられるのです。私たちが、重荷を負ってください、と懇願するのでなく、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。」と、主がおん自ら志願して、私たちの重荷を負ってあげよう、と望んでおられるのです。「ペテロの手紙 第一 5章 7節」に、『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』と記録されているのです。

それで、私たちから思い煩いと一切の心配事を委ねてもらって、解決することのできる力ある神様がおられ、しかも委ねてくれ、と志願しておられる、そのお方が私たちに手を伸ばして「来なさい」と言われるのに、私たちが思い煩いや心配事を背負って苦しく生きて行く必要があるでしょうか?

賛美歌「347番」(聖歌)を見ますと、“いかに恐るべき事ありとも”という歌詞で始まっています。皆さん、一緒にこの賛美を捧げましょうか。


♪いかに 恐るべき事 ありとも 御翼の 陰は やすらかなり
♪愛の神は いかなる時にも 頼るながみ 保護し たまわん
 いかなる時にも、愛の神様は私たちを保護してくださるのです。イエス様をご覧ください。神様の御子であられるのに、親しく肉の衣を着て来られ、罪深い人間たちと一緒に暮らされました。しかも、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」と言われる程に、貧しく暮らされました。それで主は、人類の事情を誰よりも良く知っておられ、遂には人類の「重荷」をすべて負われて、十字架で死なれました。

「♪罪 咎を担う 友なるイエスに 打ち明け得るとは いかなる幸ぞ 安きのなき者 悩みおう者 友なるイエスをば 訪れよかし♪」(聖歌607番)という賛美歌もあります。私たちは神様に、心配、懸念、思い煩い・・・すべてをみな、お委ねすることができるのです。主であるイエス・キリストは、私たちのこの世の重荷、疾病、呪い、死と、永遠の滅亡の荷までも負ってくださいました。皆さん、私たちの主イエス様が、友なるイエス様が私たちと共にいてくださるのです。

「イザヤ書53章 4節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』と記録されています。また「詩篇68篇19節」には、『ほむべきかな。日々、私たちのために、重荷をになわれる主。私たちの救いであられる神。セラ』と記録されているのです。

「ヨハネの福音書16章33節」を通して、『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。』と、主が仰せられました。既にこの世に勝たれた主が、私たちと共に居られるのです。




第三、あなたがたの思い煩いを主に委ねなさい。

私たちは、毎日、私たちの思い煩い、心配・・・などを積極的に主にお委ねしなければなりません。クリスチャンは、神様から選ばれた人たちです。この世のすべての重荷を主に委ねることができる資格があるのです。それでは、どうしたら思い煩い、心配、懸念・・・など重荷を主にお委ねすることができるでしょうか?私たちは、感謝をもって捧げる祈りと願いによってお委ねすることができるのです。イエス様を信じない人たちは、祈ることを知らないだけでなく、祈ったとしても、主の耳にはそれが届かないのです。私たちはイエス様の御名によって祈る権威が与えられているのですから、私たちが祈り、願ったら、私たちは心の中の重荷を主の前に下ろすことができ、それで心に安らぎを得ることができるのです。

エレミヤの「哀歌 3章33節」に、『主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。』と記録されています。そして、「エレミヤ書29章11節〜13節」には、『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。 あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。 もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』と記録されています。

祈りと願いをもって、主の前に出て行かなければならないのです。私たちは祈る時に、あいまいな内容を、それも繰り返す祈りを捧げてはいけません。確かではっきりした内容の祈りを捧げなければならないのです。私は、心に煩い事や心配事、不安、焦燥または絶望が襲って来たら、神様の前に出て行って、白紙に鉛筆で書き込みします。なぜかと言うと、心が混雑しているので、そのままの状態で祈ったら、つまらない事までやたらに繰り返し繰り返し祈るようになるからです。

それで、神様に手紙を書きます。「父なる神様。私は今日、あまりにも苦しいです。こういう事と、ああいう事とで、苦しみ、悩んでいます。天のお父さま。どうか、私を助けてください・・・。」私はそれを読むように、集中的に祈ります。書いてあるのを読みながら祈りますので、あれこれと要らない事まで繰り返す事もなく、的確ではっきりした事を祈るようになります。そうしたら、凄く効果がある祈りを捧げることができます。

皆さんも、実際にそうやって見てください。心配、思い煩いなどで複雑な心情になっているのですから、要らない事まで繰り返し祈り、意味もなく要領を得ない祈りを長時間捧げることになる場合が少なくありません。ある人は、修辞を羅列することに気を使い過ごして、自分でも意味のわからない祈りを捧げます。「全知全能で、愛であられ、昔もいまし、今もいまし、昨日も今日も、いつまでも同じく・・・。」そうなさらずに、簡潔に、しかしはっきりとした内容の、神様への手紙を書いて、それを手にして読みながら祈ってみてください。

私は、書いた手紙を数十回、数百回も読み返しながら祈ります。そうしたらつまらない事を繰り返して祈る事もなく、はっきりとした確かな内容の祈りを捧げることができます。そうしたら、神様に自分の苦しみ、悩み、思う煩い事をお委ねすることができます。「詩篇55篇22節」に、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』と記録されています。

また神様は、私たちが条理に合わないことを長い時間かけて、長たらしく祈らなくても、私たちの祈りを聞いてくださるのです。イギリスの監理教(メソジスト)創始者である‘ジョン・ウエスレー’は、いつもすべてを主に拠り頼んで生きた人です。彼は問題があるごとに、神様に明瞭、簡潔に祈ったことで有名です。生前に彼が記した日記を見たら、よく分かります。その一部を、ご紹介させていただきます。

4月24日(木曜日):私たちは‘ボルタン’から‘リュエル’までの8マイルを、馬に乗って駆けて行った。約4時間がかかった。私がメッセージを宣べ始めた時、太陽の日差しが私の横顔に照り付けて、それが熱く、とても耐えられない程であった。それで私は、神様に向かって、心の中で「どうか雲を遣わして、太陽の日差しをさえぎってください!」と祈った。すると、暫くしてから雲が現れて太陽をさえぎり、私は難なくメッセージを最後まで、日陰の中で宣べ伝えることができた・・・。」簡潔な祈りです。“どうか雲を遣わして、太陽の日差しをさえぎってください!”簡単明瞭な祈りです。

4月25日(金曜日):私は、10時ごろに‘デトモールテン’で集会を導いた。午後3時ごろには、‘ヘプトンストール’に行って、丘の上でメッセージを宣べた。ところが、メッセージを宣べ始めるや、雨が降り出した。私は神様に、「メッセージを宣べ終わるまで、雨が降らないようにしてください。」と祈った。すると、実際に雨が止んで、私がメッセージを宣べ終わるまで、雨が降らなかった。その雨が、私がメッセージを宣べ終わるや降りだし始めた・・・。

私も、旧ソ連時代に‘シベリヤ’地域に行って福音を宣べ伝える時、太陽が照り輝いてそれが酷く熱く、到底メッセージを宣べ伝えることができませんでした。それで、講壇に座って祈りました。「主よ。何とか雲が、照り輝く太陽の日差しをさえぎってくれるように、みわざを働かして、助けてください!」そうしてから、講壇に立ってメッセージを宣べ伝え始めました。すると、小さい雲が現れて太陽をさえぎり、太陽と一緒に移動しました。私のメッセージが終わるまで、雲が太陽の日差しを遮ってくれる体験をしたことがあります。

祈りの内容が荘厳で、物々しく、修辞がたくさん入っていることで、神様から聞いていただこうとしてはいけません。簡単明瞭で、単純に見えるまでに簡潔な祈りを、繰り返し繰り返し祈ることによって、神様から答えていただくようにしてください。簡潔で、明瞭な祈りが、そしてその祈りが繰り返される時、力ある祈りになるのです。

「ルカの福音書 18章」に、不正な裁判官のところへ出て行って呼ばわる寡の祈りは、あまりにも単純でありました。「私の相手を裁いて、私を守ってください。」それを継続反復しました。その反復が効果を高めて、ついに不正な裁判官も、その寡の訴えを聞き入れました。

また、私たちが祈る時、情熱的に祈り求めなければなりません。切実に、心の中からこみ上げて来る熱情をもって、祈らなければなりません。頭の中から思い浮かぶ冷たい祈りでなくて、心から湧き上がる熱い願いがいっぱいに盛り込まれている切実な祈りでなければならないのです。

「エレミヤ書33章 3節」にも、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記録されています。“呼べ”と言われたのは、切なさと懇願と訴えが混じっている、熱い願い事を口にだして叫ぶが如くに祈りなさい、と言うことです。「詩篇142篇 1節」にも、『私は主に向かい、声をあげて叫びます。声をあげ、主にあわれみを請います。』と記録されています。

「サムエル記 第一 1章10節」に、『ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。』と記されています。心が痛んでいるのですから、激しく泣かざるを得ません。そういう心情で祈るのですから、身悶えしながら声を張り上げて呼ばわり祈るようになるのです。そのような熱情的な懇願と必死な願いがこもった祈りに、主は耳を傾けてくださるのです。

私はいつだったか、脳性麻痺の息子のことで熱く呼ばわり祈り、主から答えていただいた一人の聖徒さんの証しを聞いたことがあります。この聖徒さんは、出産予定日を何日か前にして突然に腹が痛くなり、それで急いで産婦人科病院に入院して、吸入分娩器具を使って子供の頭を機械で掴んで引き出し、子を産みました。産んだ当時はなんともなかったのですが、機械が子供の頭をきつく掴みすぎて脳に傷を負わせ、脳性麻痺になったのです。

ほかの子供たちは立派にすくすくと育ちましたが、この聖徒さんの息子は3歳になっても少しも動けずに、いつも横になって過ごすしかない全身麻痺の患者になりました。その子の父母はあまりにも心が苦しく、悩ましく、息子の将来が不安で堪りませんでした。そうした時に伝道されて、私たちの教会に出席するようになりました。

神様の御言葉を聞いて、心に信仰と勇気が生じました。ある日の夜、その子の母親が祈っていましたが、余りにも切実に涙を流し、汗をだくだく流しながら祈るので、旦那さんがそれを見て心配になり、「おいっ、いいか?気をつけろよっ!」と、奥さんを止めようとしました。ところが奥さんは旦那さんの手を振り払い、死ぬか生きるかの気勢で神様にすがり付き、継続して祈り続けました。

その時、子供の母親に聖霊が臨んで本人も分からない異言を話し出し、益々声を大きく張り上げて喚くように叫び、祈りました。その時傍に立っていた父親も、全身が電流に触れたようにぴりぴりっとするのを感じたと言います。それで彼も奥さんの手を取って一緒に祈りましたが、奥さんの祈りが旦那さんにも伝わって、夫婦が夜通し、全身が汗まみれになり、声が嗄れるまでに、息子を癒してください、と祈ったと言います。

あくる日の夜明けになって、涙にまみれ、汗だくだくであった祈りを終えて、子供が寝ている部屋のふすまを開けて入って行くや、3歳の子供が起き上がって、「ママ!」と言いながら近づいて来たと言います。神様が答えてくださったのです。切実に呼ばわり祈った願いが答えられ、神様の癒しの御力がその子供の家に臨んだのです。皆さん、祈りは切実な心で捧げなければならないのです。ただ形式的に捧げる祈りには、何の力もありません。

そして、祈りは最後まで耐え抜かなければなりません。私たちが祈ることは、悪魔との格闘であり、更には神様に懇願する事ですから、悪魔と戦って勝ち抜き、私たちの信仰を神様にお伝えすることができる忍耐が必要です。

今は、ほとんどの家庭がガスとか油を使用して暖房とか炊事をするので、たきぎがどんなものか知りませんが、私が幼かった時には、たきぎを使って部屋を暖め、ご飯を炊きました。それで学校が終わってから家に帰ったら、たきぎを取り集めるために山によく行きました。その時は、普通の木を刈り取ったら巡査(今の警察官)に引っ張られて行きます。それで木を刈り取ったら、急いで根まで掘り出さなければなりませんでした。

それがもの凄く骨が折れるのです。適当な木を切り倒してからは、根が張っているところを鎌で土を掘り、鍬で掘り下げてから、木の根を引き抜きます。当初は根っこがびくともしません。そうしたらまた土を掘り下げ、根を引き抜こうとあらん限りの力をつくして引き上げようと努力します。

それでも引き抜けなかったら、少し休んでから、また土を掘り下げ、根っこを掴んで力いっぱいに引き抜こうと試みますが、そんなに簡単には成功しません。それで 今度はいろいろと引き動かし、また土を掘り下げては引き抜こうと渾身の力で、死ぬか生きるかの格闘を続ける如くに引っ張り出します。すると遂には、つつつーっと音を出してからは、ざくっと根が引き出されます。

この頃、私は悪魔と戦うときにはいつも、幼かった時、木の根を引き抜くときのことが思い出されます。「お前が今は、少しも動かないが、もう直ぐにつつつーと音を出して引き抜かれてしまうんだ。もう直ぐ、お前は私の手で引き抜かれるのだ。だから私は、後ろに引き下がらない。お前が引き抜かれるのだ。私は退かないぞっ!」木の根を引き抜いた時の経験が、悪魔と戦うのに凄く助けになります。忍耐しながら、根気強く祈らなければなりません。最後まで頑張ったら、勝つのです。

「ヘブル人への手紙10章36節〜38節」に、『あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。 「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。8 わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」』と言われているのです。

「ルカの福音書18章 7節」には、『まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。』と記録されています。夜も昼も呼ばわり祈ることです。それで私たちが、思い煩い、心配事を主に委ねるために、忍耐をもって呼ばわり祈ったら、思い煩い、心配事が私たちの心から根こそぎ引き抜かれてしまうのです。

そして、信仰に基づく祈りを捧げなければなりません。必ず、奇跡が起こることを期待しなければならないのです。私なんかが祈ったところで、なんの効き目があるだろうか・・・。このように考えたら、絶対にいけません。聖書に、「神を信じなさい。山に向かって、海に入れ、と命じ、その通りになると信じたら、その通りになるのです。」と記録されています。

皆さん、山がどんなに動いて海に入ることが出来るでしょうか。しかし、私たちの人生に個人問題、家庭問題、生活の問題、子供の問題、事業の問題・・・など、山のような問題が押し迫ってくる時があります。これらの問題が果たして解決されるでしょうか。自分の力ではできません。聖書が言っているのは、神様を信じなさい。神様を信じる信仰で山を動かしなさい、ということです。イエス様を信じない人は、夢にもできないことですが、イエス様を信じる人は人生問題に対して、神様を信じて挑戦しなさい、ということです。

それでは、信仰とは何でしょうか。信仰とは、神様が奇跡をほどこしてくださることを信じることです。「私たちには信仰が生じません。」という人がいます。信仰が生じないのではありません。イエス様を信じたら、神様がその人にふさわしい信仰を与えてくださいます。皆さん、生まれる時から、目鼻立ちが揃っており、肢体が整っているのです。気分がいいので腕が上がり、気分が悪いので腕が上がらないのではありません。腕が上がったり下がったりするのは、自分の自律的選択によるのです。

寒いから足が動かず、暑いから足が動くのではありません。自分の選択なのです。信仰も、自分の選択です。気持ちがいいから信じられ、気持ちが悪いから信じられないのではありません。目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものがなくても、自分の前途が漆黒のように真っ暗くても、自分が信じると決めたら信じることができるのです。信仰は選択です。

ですから、私たちに巨大な山のような難しい問題が迫ってきたとしても、その山を見つめずに、神様を見つめて「主よ。奇跡が起こることを信じます!」と言いながら、祈らなければならないのです。天が崩れ、地が消え去ることはあっても、主の御言葉は変わることがないのです。その主の御言葉がどこにあるのでしょうか。聖書にあります。

天の心が聖書の中にあるのです。この聖書に記録されている御言葉を信じることに決心して信じたら、結局は、山が退いて行きます。自分が退くことはありません。それで、私たちは神様の奇跡を期待し、信仰に基づく祈りを捧げなければならないのです。「マルコの福音書11章24節」に、『だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』と記録されています。

思い煩いとは、小さな火種と同様で、早く消し去らなかったら家全体を焼き尽くします。小さな火種、それが何でしょうか。タバコの火、マッチ軸一本で点く火・・・。それが何で問題なのか、とも言えます。しかし、捨て置いたらそれが家全部を焼いてしまうのです。思い煩い、心配、懸念・・・、心に少し生ずるこれらが、何がそんなに問題なのか、と思われます。しかし、それらを軽くみて捨て置いたら、体全体を蝕んでしまうのです。思い煩いは、個人の心を荒廃化させ、生活の中から喜びと活力を奪い去り、人生の雰囲気を台無しにして、多くの人たちを不幸に追い込みます。

「ピリピ人への手紙 4章 4節〜7節」に、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』と記録されています。

“嬉しいことがある時に、喜びなさい”とは言っていません。「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と、命令しているのです。なぜでしょうか。喜びは、私たちの中で自律神経を刺激して、心の悩みや苦しみが癒され、体が安らぎを得て健康になるからなのです。愛とか信仰とか希望とかは、私たちのからだの自律神経を刺激して、私たちに健康と平安をもたらします。

ところが、思い煩い、心配、懸念、不安、焦燥、絶望・・・などは、私たちのからだに破壊をもたらすのです。それで聖書に、「いつも主にあって喜びなさい。」と命令されているのです。喜びは、神様にも栄光になりますが、私たちの心に平安をもたらし、肉体に健康をもたらすのです。心の喜びは健康を良くします。喜びは、私たちの体内の製薬工場を稼動させるのです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ人への手紙4:6)何も思い煩うな。個人、家庭、生活、子供、事業・・・など、何も思い煩うな。神様が居られるのだ。力ある神様が居られ、その神様が、あなたがたの思い煩い、心配など、重荷一切をわたしに委ねなさい、と願って居られるのだ。だから、はっきりと、簡単明瞭に、そして熱情と信仰で神様に祈り、神様に委ねなさい、と言うことです。

「そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4:7)そうすれば、神様の平安が臨み、神様が私たちの重荷を受け持ってくださるので、思いも心も安らかになる、と言われたのです。皆さん、私たちが思い煩い、心配、不安、焦燥、絶望、憎悪・・・のようなものを抱いて暮らすのは、霊的破壊、心の破壊、そして肉体の滅びを招きます。

皆さん、怒りを発し、興奮したら、心臓が激しく動悸します。心臓が破壊される前兆です。心に苦しみがある人の小便は、まっ黄色いです。腎臓に破壊が訪れる前兆です。従って、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るためには、何よりも、私たちの人生に公害をもたらす思い煩い、心配、不安、焦燥、絶望・・・などを取り除かなければならないのです。これらを軽く思ってはいけません。それらが家全部を焼き尽くす火種になるのです。

私たちには、全知全能で、愛であられる神様が居られます。信仰と祈りによって、私たちはすべての思い煩い、心配、絶望・・・など、すべての重荷を神様にお委ねすることができるのです。そうしたら、私たちの心の中を、平安と喜びで満たすことができ、従って、私たちの霊も心も体も生活も、健康で、幸福になることができるのです。




お祈り

全知全能で、聖き、わが父なる神様!

私たちは、この世に生まれる時から、思い煩い、心配、懸念、不安、焦燥、絶望の公害の中で生まれ、その中で暮らしながら、心も、体も、生活も、不幸で黄色く色褪せ、病弱になり、いろいろと思い煩いながら生きて参りました。心配、懸念、不安、焦燥、絶望、憎悪・・・など、人生の重荷を私たちの力では解決することができません。

しかし、今は、イエス様が来られて私たちに神様が居られる事を教えてくださり、神様が私たちの人生のすべての重荷を委ねさせて貰いたいと望んで居られる事実を悟らせてくださいました。神様には、私たちのすべての重荷を受け持って解決してくださる御力があることを信じます。いや、主イエス様が既に十字架で、私たちのすべての重荷を負ってくださったことを信じます。

愛であられる、父なる神様!

どうか私たちが、もっとはっきりと、簡単明瞭に、感謝をもって捧げる祈りを通して、私たちの思い煩いをすべて神様にお委ねすることができるように助けてください。私たちの全ての重荷を神様にお委ねすることができるように、知恵と聡明と明哲と力を与えてください。そうして、霊肉ともに平安で、健康で、幸福に生きていけるように助けてください。主の栄光で満たされた人生を生きていくことができるように助けてください。

すべて、イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!