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「敵を克服する道」
 






■聖書箇所

「マタイの福音書 5章38節〜41節」
5:38 『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
5:40 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。
5:41 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。


今日、私は皆さんたちとご一緒に、『敵を克服する道』という題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

南アフリカの黒人民権運動家‘ネルソン・マンデラ’は、白人政府の迫害を受けて終身懲役を言い渡され、27年間も監獄で暮らしました。青春の大部分を監獄で過ごしたのですから、彼の苦痛と怨恨は言い表せないものがあったはずです。彼が44歳で監獄に閉じ込められ、72歳になった年に、監獄から解放されました。そして76歳の年に南アフリカ共和国の大統領に当選しました。その時、全世界が彼に注目しました。なぜなら、常識的に考える時、彼が白人に対して復讐するに違いないと思ったからです。

ところが、彼は大統領になるや、すぐに赦しと和解を宣言し、黒白が一緒に調和する国をつくることに努力しだし始めました。彼は、もっとも成功的に恨みを克服した偉人です。敵に対する恨みを克服するということは、そんなに容易いことではありません。

今日は、主が命じられた、敵に対する私たちの態度がどうでなければならないかを、聖書を通して教わりたいと思います。




第一、復讐してはいけません。

第1番目に、主は「復讐をしてはいけない」と言われました。「ローマ人への手紙 12章17節〜21節」に、『だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。』と記録されています。

私たちが思う時、復讐したら恨みが晴れ、気が清々して喜びたくなるはずです。しかし、神様は、「復讐はわたしのすることである。」と言われ、復讐は神様の特権なのだから神様に任せなさい、と言われました。そして私たちには、敵に善をほどこしなさい、と言われるのです。言い換えれば、復讐する権利は人にはなく、神様にある、と言うことです。ですから、私たちが復讐することは、神様の権利を侵害することになるのです。

「申命記 32章35節」に、『復讐と報いとは、わたしのもの、それは、彼らの足がよろめくときのため。彼らのわざわいの日は近く、来るべきことが、すみやかに来るからだ。』と記録されているのです。

そして、私たちに言われることは、敵を顧みてあげなさい、と言うことです。「箴言 25章21節〜22節」に、『もしあなたを憎む者が飢えているなら、パンを食べさせ、渇いているなら、水を飲ませよ。あなたはこうして彼の頭に燃える炭火を積むことになり、主があなたに報いてくださる。』と言われています。私たちに、敵が飢えているならパンを食べさせ、渇いているなら水を飲ませなさい、と言われたのです。そうしたら、それが敵の頭に燃える炭火を積むことになる、と言うのです。

皆さん、ここで言われる“炭火”とは、神様の審きを言うのです。燃える炭火を頭に積んだら、その人は焼け死にするようになります。人が、敵に善をほどこしたら、ほどこしただけ、燃える炭火を敵の頭に積むことになり、必ず、神様が敵を審くと言うことです。そして、敵に善をほどこした人には、神様が祝福してくださるのです。

1960年、当時、“エクアドル”の‘アウカ族’はあまりにも暴虐なので、誰も彼らに接近しようとしませんでした。宣教師を志願する人たちまでも、‘アウカ族’が住んでいるところに行くということは思いもよらない事でありました。ところが米国の“フィターン大学”を首席卒業した‘ジム・エリオット’が保証されている教授の職位まで振り捨てて、福音を伝えるために‘アウカ族’が住んでいるところに行きましたが、いくらも経たずに彼は‘アウカ族’の攻撃を受けて、さんざんに引き裂かれて死にました。

後で、彼を訪ねて行った人たちが、‘ジム・エリオッと’の死体を発見しました。本国に一人残されていた‘ジム・エリオット’の若い奥さんがそれを聞いて、1年間看護婦訓練を受けた後に、愛する夫が死んだ地域に宣教師を志願して行きました。自分も夫のように、彼らのために命を捧げようと覚悟してのことでありました。しかし‘アウカ族’には、女性に害を加えることは卑怯なことである、とした伝統があったので、夫人が来て彼らの住居地のそばの洞窟を手入れして、そこで暮らすのにも、害を加えようとはしませんでした。

夫人はそこに住み着いてから、一生懸命に病人たちを顧みてあげ、献身的に働きながら暮らしました。その姿を見守っていた酋長がある日、彼女を訪ねてきて訊きました。「あなたは誰ですか?何がために、私たちのためにこのように苦労をしているのですか?」そうするや、夫人が次のように答えました。「私は、5年前に、あなたたちが殺した白人の妻です。あなたたちは私の夫を殺しましたが、私は神様の愛を伝えようとして、あなたたちに仕えるためにここに来て、働いているのです。」

これを聞いた酋長は、大いに感動してしまいました。そして、このことは直ぐに部族全部に伝えられて、‘アウカ族’全部がイエス・キリストを救い主として受け入れる大きな奇跡が起こりました。こんにち、この部族はみな、イエス・キリストを信ずる人たちになってしまったのです。

敵に復讐することは、私たちの権限外のことです。かえって、私たちは敵を顧みてあげ、構ってあげることによって、善で悪に勝たなければならないと聖書に記録されているのです。私たちは、善をほどこすことによって悪に勝たなければなりません。私たち人間の本性は、目には目で、歯には歯で、力には力で復讐するのが本性であり、そうしたら気が清々して、嬉しくなります。しかし神様は、そうしなさいとは言っておられません。善をもって悪を圧倒して勝ってしまいなさい、と言われるのです。

そうしてこそ、悪の悪循環を断ち切ることができるのです。悪を悪で仕返ししたら、悪は継続し、絶えることがありません。憎悪を憎悪で復讐したら、その憎悪は限りなく続きます。力に対して力で仕返しをしたら、力の争いは限りなく継続するのです。ですから、誰かは悪の悪循環を断ち切らなければならないのです。「箴言 17章13節」に、『善に代えて悪を返すなら、その家から悪が離れない。』と記録されています。

私は、47年間牧会して参りながら、悪をもって善に仕返しすることを少なからず見てきました。多くの愛を受け、善のほどこしを受けていながら、それに対して悪で仕返しするのをたくさん見ました。ところが、それ以後、その人の家庭から悪が離れ去りませんでした。愛と善に対して悪で仕返しをしたら、悪がその家の玄関から出て行かないのです。「箴言24章17節」に、『あなたの敵が倒れるとき、喜んではならない。彼がつまずくとき、あなたは心から楽しんではならない。』と記録されているのです。

神様を信じるクリスチャンは、敵に対して復讐してはならない。悪に対して善で報いなさい。善で悪に勝ちなさい。復讐することは神様の権利である。神様の権利を侵害してはならない。神様にすべてを委ねなさい。時が至ったら、神様が報いる、と言われたのです。「詩篇 37篇 1節〜2節」に、『悪を行なう者に対して腹を立てるな。不正を行なう者に対してねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまちしおれ、青草のように枯れるのだ。』と言われている御言葉を忘れてはなりません。すべてを神様にお委ねして、私たちは、善で悪に勝たなければならないのです。

中国の有名な伝道者であった‘ウィチマン・リー’は、若い時には農業に従事していました。或る日、彼が夜おそくまで田に水を引いてから、あくる日の朝行って見ると、田の水がみななくっていました。調べて見たところ、下の田の主人が田の畦を切り裂いて、‘ウィチマン・リー’の田の水をみんな自分の田に引き抜いていったのでありました。それで、切り裂かれたところを埋め直してから、水を自分の田に満たして置きましたが、あくる日の朝出て行って見たら、また畦を切り裂いて、水を全部引き抜いていきました。

憤りが湧き起こりましたが、それでも黙って、畦道を埋め直してから水を満たして置きました。ところがあくる日、行って見るとまた、水を引き抜いていってしまいました。5日間も継続してそんなことをするので、下の田の主人の家に訪ねていって、抗議しました。「私が汗を流して水を汲んで田に満たして置いたのに、何であなたが簡単に毎日、畦道を切り裂いて私の田の水を引き抜いていくのですか・・・?」すると、その人が“悪かった。ごめんなさい。”と謝りました。

‘ウィチマン・リー’は信仰心の篤い人でありました。彼は家に帰って来てから、いろいろと神様に祈りを捧げました。ところが、なぜか、気が安らかでありません。田の水のことで、当然なことを抗議して来たのですが、それがなぜか、気にかかりました。それで、継続して祈りました。

すると、「あなたは、普通の世の人ではない。クリスチャンではないか。その人がしきりにあなたの田の水を抜いて持っていくのは、自分の田に水がないからなのだよ。あなたがまず、その人の田に水を満たして上げてから、あなたの田に水を満たしてご覧なさい。その人が、またとあなたの田の水を引き抜いて行くことはないだろうから・・・。」と言われる神様の御声が聞こえてきました。

「そうです。主よ、愚かな私を赦してください。分かりました!」そして彼は、あくる日の朝早く出て行って、ポンプを持って水を汲み上げ、下の田にいっぱい水を満たして上げてから、自分の田にも水を満たしました。その次からは、下の田の主人が畦道を切り裂いて、彼の田の水を抜いて行くようなことをしなくなりました。いつの間にか、彼は下の田の主人や、その家族たちとも親しく交わるようになり、ついには、下の田の主人の家族全員が悔い改めて、イエス様を信じるようになった、という証しを読んだことがあります。

悪を善で勝たなければならないのです。悪を悪で仕返ししたら、悪の悪循環がもっと盛んになって、悪で覆われる世の中になってしまいます。聖書には、敵を愛しなさい、とまで言われています。実際に、自分を愛してくれる人を愛することも難しいのに、まして敵を愛するということは並大抵のことではありません。

しかし、皆さん、神様が私たちを愛してくださったことをご覧ください。「神は、実に、世を愛された。」と聖書に記録されています。世の人たちが神様に反逆し、背き、敵対したのにも、神様は、「そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」のです。そして私たちを救うために、イエス様が十字架に釘付けられました。イエス様は、ご自分を十字架に釘付けにし、つばきを吐きかけ、頭を振りながら悪口雑言する人たちを、祝福してくださいました。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。』(ルカの福音書23:34)

イエス様は、人間としては到底想像もすることができないことをなさいました。それで私たちの主・イエス様は、主を救い主として受け入れ、主に従う人たちに、「主のように生きなさい。」と言われるのです。私たちの力では、それはできません。

私は、毎日「主の祈り」を繰り返して口ずさみ、黙想します。「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください・・・。」ここまでは、すらすらと口ずさむことができます。ところが、その次の、「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました・・・。」ここは、中々直ぐには口に出して言えません。

私たちは、自分に罪を犯した人たちを赦してあげることが、とてもできないのです。或る日、私は、神様に率直に告白しました。「父なる神様!私に罪を犯した人を、私はとても赦して上げることができません・・・。」すると、聖霊さまの御声が聞こえました。「十字架を抱いて、相手を見つめてご覧。あなたの力で赦して上げることができないのは当然です。いかにして人が、自分に罪を犯した人、自分に傷つけた人を赦すことができるでしょう。しかし、十字架を抱いてから、相手を見つめてご覧なさい・・・。」

それで私は、心の中で十字架を抱いてから、相手の顔を思い浮かべてみました。イエス様の十字架は、敵を赦された十字架です。私のような罪深い人間も赦してくださった十字架です。イエス様の十字架を抱いてからは、私は敵を赦してあげない訳にはいきませんでした。「主よ。私を赦してください。」と、私は祈りました。すると、「私も、私の敵を赦します。」という祈りが、私の意思とは関係なく出て来ました。相次いで、「私が、私の敵を赦したように、主も、私を赦してください!」という祈りが涙と共に、すらすらと口に出して言うことができました。

十字架の力に拠り頼まないことには、私たち人間の力では、敵を赦すことも、愛することもできません。イエス様に忠実に仕えるために、イエス様の栄光のために、イエス様の御力によってだけ、私たちは敵を赦し、敵を愛することができるのです。

「マタイの福音書 5章44節〜48節」に、『しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』と記録されています。

このような御言葉に接する時、人の心には凄い葛藤が生じます。なぜかと言えば、人間はアダムの子孫で、あまりにも自己中心に人生を生きてきました。自分の好きな道を歩んできたのです。ところが、イエス様を信じてからは、主が、あなたの道に歩まずに、今からはわたしの道に歩みなさい、と言われるのです。自分の好きな人生の道に歩まずに、イエス様の道に従って生きて行こうとするのですから、葛藤が生じるのです。その葛藤は、なまやさしいものではありません。

ヤコブは、ヤボクの渡しで天の御使いと格闘をしました。ヤコブは、自分を殺そうとして駆けつけて来る兄さん一行を避けるために、妻子と財産をすべて捨てて、逃げようとしました。これが、自分の道なのです。ヤコブは逃げようと思いをめぐらしているのに、夜、主の御使いが現れて、彼を妻子のところに帰って行け、というのです。“渡しを渡って、家族のところに帰って行け!”それが神様の道であると言うのです。

ヤコブは自分の道に逃げようとし、神様は帰って行って、妻子たちと共に、生きるにしても一緒に生き、死ぬにしても一緒に死に・・・、責任を負う神様の道に行きなさいと言うので、格闘が始まりました。ヤコブは自分の道に行こうとし、神様は神様の道に行きなさいということで、二人は夜明けまで格闘を継続しました。朝になろうとした時、神の御使いは思うように行かないので、ヤコブのもものつがいを打ちました。ヤコブはびっこをひくようになりました。びっこをひきながらは逃げられません。彼が降伏して、神様の道に行きますと心に決めてから、自分を祝福してくださいとねだりました。

神様の道に歩むと言うことは、たやすいことではありません。ところが、聖書を読むと、今までは自分の道に生きて来たが、今からは自分の道を捨てて、神様の道に歩みなさい、と言われるのですから、心に葛藤が生じるのです。それで、主と格闘するしかありません。しかし、人は信仰生活を通して、徐々に自分の道を捨てるようになり、神様の道にだんだんと踏む入るようになるのです。

それが、一朝一夕にできるものではありません。私たちは生活して行きながら神様と必ず格闘するようになり、それで負傷をし、もものつがいが外れる体験をしながら、だんだんと自分の道を捨てて、主の道に歩むようになるのです。敵を愛することは、それは私たちの道ではありません。私たちの道は、敵に復讐することです。敵を踏み躙ることです。それが私たちの道なのです。

ところが主は、「あなたの道に歩まずに、わたしの道に歩みなさい。わたしの道は、敵を祝福してあげることです。敵を愛することです。善をもって悪に勝ちなさい・・・。」と言われるのです。「ルカの福音書 6章27節〜28節」を見ますと、『しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。』と記録されているのです。

米国の第16代大統領‘エイブラハム・リンカーン’がなぜ、そんなにも偉大な人物だと言われるのでしょうか。‘エィブラハム・リンカーン’は、熱心なクリスチャンでありました。彼は小学校もろくに卒業していない人でありましたが、主を信じて生きてくる過程で、数多い試練を経験しました。苦しい人生を通して、彼は自分の道を捨て、神様の道に歩むようになり、それで大統領になった人です。試練や苦難を体験せずには、人たちは中々自分の道を捨てようとしません。苦しい目に会った時に、人たちは初めて自分の道を捨てて神様の道を選ぶようになるのです。

‘エィブラハム・リンカーン’が大統領に立候補した時のことです。彼の政敵の一人に、‘ステントーン’と言う人がいました。‘ステントーン’は選挙期間中、継続して‘リンカーン’を中傷し、有りもしないことを捏造して誹謗しました。甚だしくは‘リンカーン’の顔形を問題にして、「あの、サルのような顔をした奴・・・。」とまで言いました。そのように侮辱され、踏み躙られました。しかし、そんなことがあったのにも拘わらず、‘リンカーン’は大統領に当選した後、‘ステントーン’を陸軍大臣という要職に任命しました。

‘リンカーン’の側近の人たちは、そのことに対して凄く反撥しました。しかし‘リンカーン’は、このように説明しました。「彼は私の強敵です。ですから、より強い愛を送らなければなりません。また、たとえ彼が私には敵であったにしても、米国国民には、彼は敵ではないのです。今、南北戦争中です。私たちに必要なのは、‘ステントーン’のような有能な人材です。国家・民族のためには、個人的な敵であるとの感情は克服しなければなりません・・・。」

その後、陸軍大臣に任命された‘ステントーン’は、‘リンカーン大統領’にはなくてはならない、忠実な大臣になりました。彼は、アメリカの発展に素晴らしい貢献をしました。‘リンカーン’がこの世を去って行った時に、誰よりも悲しんだのは‘ステントーン’でありました。彼は‘リンカーン’の葬式の時に棺の前で、「この世の中で、もっとも偉大な星が去ってしまった。」と言いながら、声を出して泣きました。

皆さん、私たちが記憶しなければならないことは、「悪に勝つのは、ただ善しかない。」という事実です。善だけが、悪の輪を断ち切ることができるのです。悪で悪の輪を断ち切ることはできないのです。善で悪に勝たなければならないのです。西洋の格言に、次のようなのがあります。「善に対して悪で仕返しするのは、悪魔の仕業である。悪を悪で報いるのは、人のすることである。悪を善で返すのは神様と同じ行為である。」ですから私たちに、悪に対して善で報いなさい、ということは、人の道ではなく、神様の道に歩みなさいと言うことです。私たちは、主の道に歩まなければなりません。


第二、敵から攻撃を受ける時

第2番目に、私たちが敵から攻撃を受ける時、対抗せずに黙って動かずにいたら、敵が来て私たちに思う存分噛み付き、したい放題に裂き千切るはずではないか、と思われます。しかし、実際にはそうではありません。私たちが敵に対して、私たちの力で仕返しをせず、抵抗しない時、私たちの代わりに戦ってくださる方がおられます。その方が神様なのです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする。』(ローマ人への手紙12:19)と、主が言われたのです。神様が、神様の時に、神様の方法で復讐をする、と言われたのです。

復讐をしないのではありません。神様も復讐なさるのです。神様が最後の審きの時に、サタンとその手下のものたちを火と硫黄で燃える、永遠の池に投げ込まれるのです。最後の審きの日に、主に背き、反逆した人たちを皆、火と硫黄の燃える永遠の池に投げ込まれるのです。神様はご自身の義のために、私たちの犯した罪を忍耐をもって見逃してくださり、その私たちに慈しみと憐れみをほどこしてくださいますが、しかし時が至ったら、容赦なく復讐なさる神様です。全然、復讐することがない神様ではないのです。

神様は、私たちが敵に対して復讐する愚を犯すかもと心配なさって、「復讐はわたしのすることである。」と仰せられ、私たちには敵に対して善をほどこしなさい、と言われたのです。それでは、敵から攻撃を受ける時、私たちはどうしなければならないでしょうか?

「詩篇 91篇 1節〜3節」に、『いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。 私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神。」と。 主は狩人のわなから、恐ろしい疫病から、あなたを救い出されるからである。』と記録されています。

私は、毎日、この御言葉を暗誦します。なぜかと言えば、この御言葉がありますので、私たちは心に平安を保ち、敵に復讐しなくても良いからなのです。敵が、一つの道から来て攻撃し、私の前から七つの道に逃げ去るようになるのは、私の故ではなく、主が「わが避け所、わが砦、私の信頼するわが神様」となられるからなのです。

ヨセフが、兄さんたちの所へ食べ物を持って行きました。ところが、兄さんたちはヨセフの手から食べ物を奪い取ってから、ヨセフに飛びかかって着物をはぎ取り、“こいつの夢がどうなるか、見よう。”と言って、ヨセフを穴に投げ込みました。水がない穴でありましたけれども、ヨセフはそこで飢え渇いて死ぬしかない羽目に陥りました。兄さんたちが敵になってヨセフを殺そうとしましたが、しかし、神様が共に居てくださったら、敵たちの思う通りにはならないのです。

ヨセフは神様を信じる人であり、神様の前で夢と希望を持っていたのです。それで、神様がその時、イシュマエル人の隊商がそこを通りかかるようになさいました。そして、ヨセフの兄さんたちの心に欲が湧き起こるようになさいました。「弟を殺し、その血を隠したとて、何の益になろう。ヨセフをイシュマエル人の隊商に売って、お金にしよう・・・。」その考えは、神様が彼らの心に注ぎ込んだものでありました。彼らは、ヨセフを穴から引き上げて、銀二十枚で隊商に売り飛ばしました。敵がヨセフを殺そうとしましたが、敵の思う通りになるのではありません。神様が、背後でみわざを働かしておられるからなのです。

遠い後の日、ヨセフがエジプトの国務総理大臣になった時、その前にひれ伏している兄さんたちにヨセフが言いました。『あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』(創世記50:20)悪を善に変えられる神様が、クリスチャンである私たちと共におられるのです。運命を変えられる神様が、「私たちの避け所、私たちの砦、私たちが信頼する神様」であられるのです。

その全知全能なる神様を、私たちは「背後の力」としており、その神様に私たちが拠り頼んでいるので、私たちは敵の思う通りにはならないのです。皆さん、自信を持って暮らしてください。敵が攻撃してくる時、最悪を最善に、悲劇を喜劇に、悪を善に変えられる神様が、私たちと共におられるのです。

イスラエルの民たちがエジプトから逃げ出て、紅海の海辺まで来た時、彼らの進路を海がさえぎりました。イスラエルの民たちは絶望しました。彼らを追跡して来たエジプトの大軍は、「イスラエルの民たちが、荒野に閉じ込められた。」と思い、ますます意気揚揚となりました。イスラエルの民たちには最悪でありました。ところが神様が、それを最善に変えられました。

海の水が分かれて陸地になり、イスラエルの民たちは海の真中の乾いた地を進んで行きました。海の水は彼らのために右と左で壁となったのです。その後を追ってエジプトの大軍も海に入りましたが、海の水がもとの状態に戻り、エジプトの大軍は海の水におおわれて全滅してしまいました。最悪を最善に変えられる神様なのです。

イスラエルの民たちが愚かにも、彼らの力でエジプトの最新鋭の大軍と戦おうとしたなら、イスラエルは全滅されてしまったはずです。彼らは戦いを神様に委ねました。神様に拠り頼みました。『神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。』(ローマ人への手紙8:31〜32)神様は、最悪を最善のものに変えられる神様なのです。

神様は、絶望を希望に変えてくださるのです。死をも生に変えてくださるのです。神様が共にいてくださったので、ネブカデネザルの怒りの火の炉も、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを焼き殺すことができませんでした。ネブカデネザル王は、当時天下の大王であったのです。彼の権威の前では、誰も口を利くことができませんでした。生殺与奪の権利が彼の手にありました。

ネブカデネザル王が、バビロンのドラの平野に金の像を造って立て、全国の太守、長官、及び諸州のすべての高官を召集して金の像の奉献式に出席させました。そして像に向かってひれ伏して一斉に拝むように命令しました。ところが、ネブカデネザル王に任命されてバビロン州の事務をつかさどっていた、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは、ユダから捕らわれて来ていた身の上でしたが、像の前にひれ伏しもせず、拝むこともしませんでした。このことで王が怒りたけりました。

王は、3人をその前に連れて来させて、厳しく言い渡しました。「私がもう一度、機会を与える。もろもろの楽器が鳴り響いたら、私が造って立てた金の像を拝め。」シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は決然として答えました。「私たちは、絶対に拝みません。」「それなら、お前たちを直ちに、火の燃える炉の中に投げ込むぞ!」「そうなったら、私たちの神様は、火の燃える炉から私たちを救い出します。もしそうでなくても、私たちはあなたが立てた金の像を拝むことはしません・・・。」3人は、断固として拒みました。

ネブカデネザル王は、全身を震わせながら怒りに満ち、炉を普通より七倍熱くせよ、と命じました。全ての人たちは、もう3人の運命は終わったと思いました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは衣服を着たまま縛られて、炉の中に投げ込まれました。炉が甚だ熱かったので、3人を縛って、炉の中に投げ込んだ者たちが火炎で焼き殺されました。

その時、ネブカデネザル王の目に、炉の中の4人の姿が見えました。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの3人は、彼らを縛っていた縄は焼かれましたが、彼らは頭の毛1本焼かれず、何の害も受けていませんでした。初めて見る第4の人は、神の子のように神々しく見えました。ネブカデネザル王はあまりにも驚いて、「いと高き神のしもべ、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴよ。すぐ出て来なさい。」と3人を呼び出しました。

3人が、燃える火の炉の中から出て来ました。火は彼らの体には効き目がなく、彼らの衣服もそのままで、火のにおいもしませんでした。それを確かめたネブカデネザル王は、嘆くが如くに告白しました。「ダニエル書 3章28節」に、『ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。」』と記録されています。

命令に従わなかったので、怒りに満ちたネブカデネザル王も、神様の前にひざまずいてしまいました。「復讐は、わたしのすることである。わたしが復讐する。」と言われた神様が、本当に素晴らしく復讐されたのです。ネブカデネザルのように暴悪な王も、神様の前にひざまずき、王の王であられる神様を敬い拝むようになったのです。

私たちは、ダリヨス王の時、獅子の穴に投げ込まれたダニエルの話を知っています。ダニエルは国務総理でありましたが、ダニエルは同僚たちの嫉妬に会い、彼らの謀略によって獅子の穴に投げ込まれました。ダニエルには何の罪もなかったのに、獅子の穴に投げ込まれるようになったのです。ダニエルを嫉妬した人たちは、ダニエルが餓えた獅子の穴の中に投げ込まれたのですから、肉は食い裂かれ、骨は噛み砕かれて、ダニエルはもう死んだものと思いました。

しかし、その日の夜が過ぎ、あくる日の夜明けに日が輝き出すや、ダリヨス王が獅子の穴へ急いで行きました。そして、穴の中に向かって悲痛な声で呼びかけました。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか?」すると、中からダニエルが答えました。

「ダニエル書 6章22節〜23節」に、次のように記録されています。『「私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。』

敵が、いくら殺そうとしても、神様が共にいて下されば殺すことができません。却って、その機会が昇進する機会となるのです。シャデラクとメシャクとアベデ・ネゴも、燃える火の炉の事件以後に、彼らの地位が高められました。ダニエルはペルシヤで、王様の次にあたる高い地位に昇り、非常に栄えました。

神様が私たちの味方であったら、誰が私たちに敵対することができるでしょう。皆さん、復讐することは私たちにあるのではありません。神様が復讐してくださるのです。神様が復讐してくださる時は、見事に、素晴らしく復讐してくださいます。私たち人間がするように、血みどろで、生臭くはなさいません。お見事に相手を屈服させ、栄光を増し加えるみわざをほどこされるのです。

「詩篇 91篇 4節〜8節」の御言葉を、皆さん、一緒に声を出して奉読しましょう。『主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。あなたは、その翼の下に身を避ける。主の真実は、大盾であり、とりでである。 あなたは夜の恐怖も恐れず、昼に飛び来る矢も恐れない。 また、暗やみに歩き回る疫病も、真昼に荒らす滅びをも。 千人が、あなたのかたわらに、万人が、あなたの右手に倒れても、それはあなたには、近づかない。 あなたはただ、それを目にし、悪者への報いを見るだけである。』

皆さん、神様の御心を悟っていただけたと思います。それで、私たちに、神様に拠り頼み、敵には善をほどこせ、と言われるのです。私たちが善をほどこすことによって、私たちは神様から祝福していただける条件が成立し、私たちが敵に善をほどこしたから、神様は敵に、私たちに代わって仕返しをしてくださることができる条件が成立するのです。私たちが敵に復讐し血みどろになったら、神様が私たちに祝福してくださる条件もなく、神様が敵に、私たちに代わって仕返しをしてくださることができる条件もなくなってしまうのです。

敵に、善をほどこすとはいかに美しいことでしょうか。神様が、私たちを祝福してくださることができる条件になるのです。また、私たちが敵に恵みをあたえ、善をほどこすのにも敵が継続敵対するのですから、神様が敵を審かれる条件が成立するのです。神様は、まどろむ事もない神様です。無責任な神様ではないのです。そして神様は、その御子を十字架で死なせながら私たちを贖ってくださいました。私たちは、そんなに簡単に、神様から見捨てられる存在ではないのです。

スコットランドの独立運動家であった‘ロバート・ブルース’は、本当に篤実な信仰の人でありました。彼は、スコットランドが英国から独立するために駆け回っていたので、英国の情報系統の軍人たちから絶え間なく狙われていました。或る日、政敵たちに追われて逃げる途中、山の中に逃げ込み、そこの小さな洞窟に飛び込みました。もうそれ以上は逃げ延びるすべがなかったのです。

彼は、洞窟の中に息をひそめて隠れていました。そして、目をつぶって祈りました。「父なる神様!私はもう、これ以上逃げ延びることができません。私を追跡して、敵たちが近づいて来ています。ここはご覧の如く、洞窟の中です。私はどうすることもできません。神様!私を守ってください・・・!」ところが、追跡者たちの足音が聞こえました。彼らが洞窟の前で立ち止まりました。「まさか、この穴の中に隠れているのではないだろうな・・・?」「いや、入って見なきゃ、わからんよ。」「おい、人が入って行った形跡がないじゃないか?」「どうして、それが分かるんだ・・・?」「見てみろよ。入口にこんなに蜘蛛の巣が張ってあるじゃないか。人がこの洞窟に逃げ込んだなら、蜘蛛の巣がこんなにきれいに張られているはずがないじゃないか・・・。」そう言い合いながら、追跡者たちが山から下りて行きました。

もう、逮捕される、と思っていた‘ロバート’は、追跡者たちの足音が遠く去って行ったのを確かめてから、洞窟の入口の方に這い出して来ました。見ると、いつの間にか神様が数百匹の蜘蛛を遣わされて、洞窟の入口にいっぱい、蜘蛛の巣を張らせて置かれたのを見ることができました。人の考えと、神様の考えとには大いなる隔たりがあるのです。彼が入って行く時には、蜘蛛の巣がなかったのです。ところが、神様は瞬く間に数百匹の蜘蛛を備えられて、洞窟の入口を蜘蛛の巣でふさいでくださいました。敵たちは、それを見て追跡を諦めて立ち去り、彼は、それで命拾いをすることができました。

神様は、このように奇跡をほどこされるのです。皆さん、聖書に「アドナイ・イルエ」と記されています。神様はすべてを既にご存知なので、備えてくださる神様なのです。神様がご自分を愛する者たちのために備えておかれたものは、人が目で見たこともなく、耳で聞いたこともなく、心で思ったこともないものである、と言われているのです。私たちの想像をはるかに越えて、「アドナイ・イルエ」である神様は既に知っておられ、すべてを予め備えて置かれるのです。神様を信じる人たちが敵から攻撃を受ける時、神様は、それこそ神秘な方法でご自分の民たちを保護してくださるのです。


第三、敵が来たら、福も来ます。

そして第3番目に、私たちが知らなければならないことは、敵が来たら、福も転がり込んで来る、と言う事実です。「詩篇 23篇 5節」に、『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。』と記録されています。「敵の前で・・・」と言われました。敵が目を開いて見ているのです。その敵の前で、神様は、私たちのために食事をととのえてくださり、頭に油を注いで、杯が溢れるようにしてくださる、と言うのです。

皆さん、敵がいなかったら、神様は私たちに、食事をととのえてくださいません。頭に油も注いでくださいません。敵が来たら、その敵の前で、神様は私たちに食事をととのえてくださり、頭に油を注いでくださるのです。イスラエルの民たちをご覧ください。パロ王が見る前で、荒野で神様が食事をととのえてくださいました。パロ王は思いました。「あはー、彼らが紅海は渡ったが、広漠とした荒野に入って行ったのだから、水もない、食べ物もない、生きて行けるはずがない。もう、みんな死んだ体なのだ。」と。

しかし神様は、パロ王が見ている前で、イスラエルの民たちに食事をととのえてくださいました。「詩篇105篇39節〜41節」に、『主は、雲を広げて仕切りの幕とし、夜には火を与えて照らされた。民が願い求めると、主はうずらをもたらし、また、天からのパンで彼らを満ち足らわせた。主が岩を開かれると、水がほとばしり出た。水は砂漠を川となって流れた。』と記録されています。

パロ王は、イスラエルの民たちが荒野に入って行ったので、昼は太陽のためにあまりにも熱く、夜は冷えてあまりにも寒く、食べ物もないのだから、焼け死に、凍り死に、餓え死にするものと思いました。ところが、神様が、昼には雲を広げて仕切りの幕としてくださり、夜には火を与えて照らされて、暖かくしてくださいました。そして、鶉を送ってくださって肉を食べさせてくださり、マナを降らせて日用の糧としてくださり、岩を打つと岩が砕かれて、そこから余りある水が出るようにしてくださり・・・、敵の目の前で素晴らしい食事をととのえてくださったのです。

イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じく、神様の約束の御言葉は変わることがないのです。私たちがこの世で、荒野の生活をしていますけれども、私たちは絶対に死にません。神様が、私たちの敵の前で、私たちに食事をととのえてくださるのです。敵が来なかったら、神様は私たちに食事をととのえてくださらないのです。敵が来たら、その前で私たちに、神様が食事をととのえてくださり、私たちの頭に油を注いでくださるのです。

油とは、何でしょうか。神様が私たちの頭に油を注いでくださったら、私たちに力が生じるのです。聖書に、『サムソンは彼の父母とともに、ティムナに下って行き、ティムナのぶどう畑にやって来た。見よ。一頭の若い獅子がほえたけりながら彼に向かって来た。このとき、主の霊が激しく彼の上に下って、彼は、まるで子やぎを引き裂くように、それを引き裂いた。彼はその手に何も持っていなかった。』(士師記14:5〜6参照)と記録されています。神様が、サムソンの頭に油を注いでくださったのです。敵が刃向かって来たら、神様は私たちの頭に油を注いでくださって、私たちに驚くべき力が増し加わるようにしてくださるのです。

また、神様が私たちの頭に油を注いでくださると言うことは、喜びを与えてくださると言うことです。神様から油を注いでいただいたら、心に喜びが満ち溢れるようになります。敵が襲って来たら、恨めしく、不平を言うようになり、嘆きもし、挫折もし、憂鬱にもなります。ところが、敵の前で頭に聖霊の油を注いでいただいたら、心が喜び、踊るようになるのです。

「イザヤ書 61章 3節」を見ますと、『シオンの悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである。彼らは、義の樫の木、栄光を現わす主の植木と呼ばれよう。』と記されています。神様から頭に油を注いでいただいたら、喜びが来ます。聖霊の油を注いでもらったら、心に喜びが溢れるようになるのです。この世を生きて行く人には、心の喜びがもっとも大きな力になります。心の力を失ったら、いくら若くて健康な人でもすぐに倒れてしまいます。

エリヤが気落ちして、えにしだの木の陰に座り、「主よ。もう十分です。私の命を取ってくいださい・・・。」と、自分の死を願って神様に祈りました。心の力は、聖霊の油を注がれたときに臨むのです。それで、私たちは祈る時にいつも、「父なる神様!私に聖霊の油を注いでください!」と願い求めなければならないのです。喜びがあってこそ、主婦は幸福に満たされて家事に勤しむことができるのです。旦那さんも喜びが溢れる時に、家庭のために、家族のために熱心に働くことができます。喜びがあってこそ、子どもたちも健康に育ち、勉強にも精を出すのです。

心の喜びは、私たちには凄く立派な財宝になります。お金が多いことから喜ぶことができるようになるのではありません。地位が高くなったとして喜ぶことができるのでもありません。お金持ちも自殺します。地位の高い人も自殺するのを見ます。神様の聖霊が臨んだら、喜びが来るのです。ですから、求めなければなりません。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。私たちに喜びがないのは、求めなかったからなのです。

こんにち、人たちはたましいに喜びが満ちるようにと祈らず、求めません。主である神様!私のたましいが喜ぶようにしてください、と祈り求めなければなりません。ヤコブが、ヤボクの渡しで腿のつがいが外れた時、神様の御使いに取りすがったまま、「私を祝福してください。でなかったら、あなたを去らせません。」と、手を離さずに叫び求めました。どんなに強引であったのか、御使いが「あなたの名は何というのか?」「ヤコブです。」「ヤコブとは、詐欺師のことだ。それは、自分の道にだけ歩む人だ。あなたの名は、イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

ヤコブがどんなに執拗に叫び求めたか、神様が彼を祝福してあげない訳にはいかなかったのです。私たちも、神様に祝福してくださいと、呼ばわり祈らなければなりません。ねだらないのに、望みを叶えてくれる人はいないのです。私たちの心に喜びが満ち溢れることが、最高の祝福なのです。私たちの心に、喜び、平安、愛・・・が満ち溢れたら、家庭も立派に顧みることができ、事業もぐんぐんと栄え、成長させることができます。

私たちは毎日のように、「愛であられる神様!私のたましいに、聖霊の油を注いでくださって、喜びで満ち溢れるように祝福してください!」と祈り求めなければなりません。「詩篇 30篇11節」を見ますと、『あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。』と記録されています。これが、イエス・キリストを信じる人たちが得ることのできる相続なのです。

この世の、信じない人たちは、喜びをどこの、誰に求めて得ることができるでしょうか。それで彼らは、酒に浸り、麻薬中毒になり、タバコを手から離せず、淫乱に走って肉体的悦楽を楽しみますが、そのようなものはみな、瞬間的な喜びに過ぎず、瞬く間に消え去ります。神様が私たちに与えてくださる喜びは、聖霊を通して与えてくださる喜びです。敵が来て、私たちを恐れおののくようにし、挫折するようにし、落胆してしまうようにしますが、その敵の前で、神様は、私たちに食事をととのえてくさるのです。それで私たちは、力に満たされ、生気溢れるようになるのです。

そして次には、「私の杯は、溢れています。」と言われています。杯が溢れている、と言うことは、満足した人生を生きている、と言うことです。杯が中ほどまで満たされているとか、なみなみと満たされていると言うのではなく、溢れているのですから、それは満足した人生を言うのであり、分かち合う人生を言うのです。私たちクリスチャンがなぜ、色々と隣人たちと分かち合うのでしょうか。絶望的な人たちが、私たちから主の愛と恵みと福音を分けてもらったら、その人たちもイエス・キリストを信じるようになり、天国に対する希望を得るようになるのです。

私たちは、キリストの十字架の血潮を通して、赦しと義と栄光の衣を着るようになり、聖と聖霊充満の衣を着るようになり、癒しと健康の衣を着るようになり、アブラハムへの祝福とすべてに幸いを得る衣を着るようになり、復活と永遠の命と祝福の衣を着るようになって、成功を得たのですから、私たちの杯は溢れているのです。それで、「自分自身を愛するように、隣人を愛しなさい。」と言われた主の御言葉に従って、私たちは隣人と分かち合わなければならないと言うことです。

私たちは、隣人とも分かち合い、自然とも分かち合う人生を生きなければなりません。私たちクリスチャンが、分かち合う人生を生きることができるのは、神様が私たちの杯が溢れるようにして下さるからなのです。敵の前で、神様は私たちの杯が溢れるようにしてくださるのです。

「詩篇91篇16節」に、『わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。』と言われました。杯が溢れることは、満足した人生を言うのです。その満足した人生の一つが、長生きするようにしてくださることなのです。また、「詩篇103篇 5節」には、『あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』と記録されています。神様が良いもので満たしてくださって、私たちの人生を満足させてくださると言われたのです。

皆さん、私たちは長い間、北朝鮮を頭に載せて暮らして来ました。金日成と金正一の父子は、代を継いで私たちを盗み、殺し、滅亡させようとしました。わが韓国の政治、経済、教育、文化、軍事、産業・・・すべてが、北朝鮮との連結の中で成されています。どうする術もなく、私たちの人生全部が北朝鮮との関係の中で呼吸し、成されて行かざるを得ない立場に置かれているのです。北朝鮮をどのように処理すべきか・・・。この問題をもって保守と進歩が対立し、社会的葛藤をもたらしています。

しかし、私たちクリスチャンが見る時は、北朝鮮が敵となって、私たちを盗み、殺し、滅亡させようとあらゆる手段を講じましたけれども、韓国に5万の教会、10万の主のしもべ、1,200万の聖徒がいるので、神様が、神様の民たちのために敵の前で食事をととのえてくださったのです。私たちには何一つ、自慢すべきことがありません。政治が良かったのでもありません。私たちが事業を立派にしたのでもありません。

それにも拘わらず、韓国で“88オリンピック”もし、“世界博覧会”も開き、神様が祝福してくださったので国民所得が1万ドルを越えるようになり、IMFに会っても、すぐにそれを克服することができ、どのような試練にも打ち勝つことができたのは、神様が韓国民に、敵の前で食事をととのえてくださり、頭に油を注いでくださったからなのです。このようなみわざをほどこしてくださったと言うことは、神様が私たちと共にいて下さる証拠です。神様が共にいてくださらなかったら、私たちは何もすることができません。

「マタイの福音書 5章38節〜41節」に、『『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。 しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。 あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。 あなたに一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。』と記録されています。

私は長い間、この御言葉が好きでありませんでした。それで聖書を読む時、この御言葉が出て来たら、ここは読まずに飛び越えたこともあります。「ここは、私に該当する御言葉ではない。主か、聖者でなければできないことなのだ。私のような人間には、とてもできない・・・。」しかし一方、この御言葉がいつも心の隅を占めていて、私を悩ましました。

人が生きて行く間、大小を問わず敵に会い、ぶつかるようになります。その時毎に、この御言葉が気にかかりました。目には目で、歯には歯で、暴力には暴力で仕返ししたら良いのですが、主は、悪い者には手向かうな。右の頬を打つ者には左の頬も向けて上げよ。下着を取ろうとする者には上着も脱いでやれ。一ミリオンを一緒に行こうと強いるなら二ミリオンを行ってあげなさい。そうして譲歩の美徳を積みなさい。それで私は、心の中でいつも呟きました。「それは、あまりにも無力で、敗北主義者の行動です。私には、とてもできません・・・。」

しかし、主は言われました。「十字架に架かっているわたしを見なさい。そう・・・、無気力で、敗北者のように見えるでしょう。天と地を造られた神様の子であると言いながら、十字架に釘付けられて、身を裂かれ、血を流して死にました。無気力で、敗北者のように見える末路でありました。しかし、わたしは三日目によみがえって、王の王、主の主になりました。わたしの一言で天が震え、地が揺れ動きます・・・。」

主の御言葉に忠実に聞き従う時、私たちは無気力で、敗北者のように見えます。その私たちに、再び生気が満ち溢れるようにしてくださるのは、私たちの創造主であられる神様なのです。私たちには、その神様が共にいてくださって、みわざを働かせてくださるのです。敵が右の頬を打ったからといって、私たちも敵の右の頬を打ち返したら、神様のなさることがなくなってしまいます。神様が介入することができる隙間がなくなってしまうのです。

私たちが、右の頬を打たれてから左の頬も打ちなさいと向ける時、その時には、神様が言われたい御言葉が生じるのです。下着を取ろうとする者に上着まで脱いであげたら、神様が介入すことのできる余地が生じるのです。一ミリオンを一緒に行こうと強いられる時、二ミリオンを一緒に行ってあげたら、神様が干渉なさることができる空間が生じるのです。「見なさい。わたしの民が、相手の敵に手向かわず、柔和に譲歩し、立派にわたしの言った言葉に聞き従いました。従って、わたしがわたしの民を祝福してあげるのは当然のことです。そして、わたしの民を苦しめた者にわたしが罰を下すのは、義に適った正当な処置です・・・。」神様が関与なさることができる道が、それで開かれるのです。

皆さん、私たちの主イエス・キリストを信じる信仰は、敗北主義ではありません。無気力な人間になれと言うことではないのです。私たちがもっと寛容である時に、それによって神様が人生に介入されることのできる道が開かれるのです。ですから、この真理を悟ったら、まことに敵を克服して勝利する人生の道が、まさにこの道であることを知るようになるのです。

自分の道に歩むべきか、神様の道に歩んで行くべきか・・・。神様の道を選んだら、神様が共にいてくださり、神様が干渉してくださり、神様が私たちの手を取って私たちと共に歩んでくださることのできる空間を、私たちは神様に提供して差し上げることができるのです。

ですから皆さん、自分で敵に復讐しないようにしてください。敵に復讐するのは、神様がなさることなのです。ですから、復讐は神様にお委ねして、敵が餓えたら食べさせ、敵が渇いたら飲ませてあげ、敵のために祈り、悪を善で返す皆さんとなりますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。




お祈り

全知全能であられ、聖き、我らの父なる神様!

人生を生きて行く時、人の道があり、神様の道があることを悟りました。私たちはみな、人の道に歩み、人の道に生きるように訓練され、そのように生きて参りました。

しかし、イエス様が来られてからは、私たちには神様の道が提示され、私たちの心には凄い葛藤が生じて、それで身悶えしています。ヤコブのように格闘しています。私たちは人の道に歩もうとするのですが、神様は、神様の道に歩みなさいと言われるのです。私たちは人間らしく、歯には歯で、目には目で、力には力で仕返しをしようとするのですが、神様はすべて「愛で報いなさい!」と言われます。

愛であられる、父なる神様!

私たちが、神様の道に歩むことができるように助けてください。人間の道、人の道を捨てて、神様の言われる御言葉を受け入れ、その御言葉に従順に聞き従って、神様の民らしく、神様の子らしく生きることによって、神様が私たちの避け所、砦、信頼する神様となってくださることができるように、私たちを導いてください。敵に対して、神様が私たちのために戦ってくださることを、もっと強く信じる私たちとなるように、助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!