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「祝福と苦難のビビンパ(混ぜご飯)」
 






■聖書箇所

「エレミヤ書 48章11節〜12節」
48:11 モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。
48:12 「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。




今日、私は皆さんとご一緒に、『祝福と苦難のビビンパ(混ぜご飯)』という題目でお恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

私が日本で福音を証しした時、ひとりの日本人牧師先生が私に、こう質問なさいました。「日本人は、ご飯とおかずを混ぜて食べることは絶対しませんが、なぜ、韓国人はご飯とおかずを混ぜて“ビビンパ”にして食べるのでしょうか?」それは、私も知るはずがありませんでした。それで、私が臨機応変で答えを作りました。

「あー、それはですね。日本は独立された島国で、歴史上、外部からの侵略を受けることがなかったのですが、韓国は大陸に繋がっている半島なので、5,000年の歴史の中で大陸から数限りなく侵略を受け、また日本からも征服しようとする侵略を絶え間なく受けたので、韓国民はゆっくりとご飯とおかずを別々に整えて食べる時間がなかったのです。絶え間なく侵略に対して対応しなければならず、働かなければならんかったので、予めご飯におかずを混ぜて、それをさっさっと混ぜてから食べたのです。時間がかからないんですからね。そのうえに、そうして食べたら、それなりにまた美味しいんですよ...。」

そのように答えはしたものの、実際にはそれが本当なのか、そうでないのか、私も知りませんでした。ところが、信仰は本当に、神様が祝福と苦難の“ビビンパ”を食べるように作ってくださるのです。




第一、平安であったら滓がたまるようになります。

第1番目に、私たちがあまりにも平安であったら、信仰的に滓がたまるようになります。皆さん、静かで水が動かない湖に行ってご覧ください。凄くたくさんの苔が生えて成長しています。しかし揺れ動く海辺に行ってみたら、決して苔が生えていません。

イスラエルの民たちは昔、ぶとう酒を作る時、大きな桶にぶとうを取ってきて入れて、足を洗ってその中に入り、ぶとうを踏み潰しました。そうしたらぶとうのジュースの中にぶとうの実の皮の屑が滓となって混じっているようになります。それを静かに何時間か置いておいたら、滓は沈みジュースは上に浮かびますので、そのジュースをほかの器に移します。そのように何回か移してから長時間貯蔵しますと、ジュースが後には香ばしく美味しいぶとう酒になります。

主が、それを例に取りあげて、モアブに対して言われました。モアブとは、イスラエルの辺境にある国です。ところが、モアブは昔から平安で、強国の捕虜になったこともないので、ちょうど滓が混じっているぶとう酒のようでありました。なぜなら、この器からあの器へ、またあの器からこの器へと何回も移されてこそ滓がなくなり、臭いがせず、香ばしくなるのですが、『モアブは若い時から安らかであった。彼はぶどう酒のかすの上にじっとたまっていて、器から器へあけられたこともなく、捕囚として連れて行かれたこともなかった。それゆえ、その味はそのまま残り、かおりも変わらなかった。「それゆえ、見よ、その日が来る。・・主の御告げ。・・その日、わたしは、彼に酒蔵の番人を送る。彼らはそれを器から移し、その器をあけ、そのつぼを砕く。」』(エレミヤ書48:11〜12)

そなまま捨て置いたので、モアブという国は古い習慣と伝統に安住しており、古い味が残っており、香りが変化せず、腐敗した、と言われたのです。それで、神様が、モアブを変化させるためには侵略に会わせ、苦しみが訪れるようにしなければならないと言われたのです。私は、この神様の御言葉を譬えとして、私たちの信仰生活に適応させてみようと思います。

私たちの信仰生活がモアブのように平安で、安易なものであったら、信仰に滓が溜まります。私たちの信仰生活にどのような滓が溜まるか、と言いますと、霊的生活に対する無関心の滓が溜まります。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配もせず、富貴・栄華・功名がそのままあったら、霊的生活に滓が溜まって、霊的生活が死んでなくなるようになるのです。霊的生活に無関心になるのです。祈りに無関心になり、御言葉を読むことにも無関心になり、悔い改め、伝道し、信仰生活をすることに無関心になってしまうのです。それでは、信仰が離れ去ってしまいます。

「ルカの福音書 21章34節」に、『あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。』と記録されています。主のご再臨の日が近づいてきているのです。この世の世俗に溺れて放蕩し、酒に酔い、この世のことだけを追求して主を忘れ、霊的生活に無関心な時間を費やしている時に、突然主が来られたら、審きを免れることができないということです。霊的生活に対する無関心は、私たちの信仰の翼をへし折る結果を招いてしまうのです。

この世で一番美しいところが“ニュージーランド”であると言われております。神様がエデンの園を移される時に、そこの一部分を残したところが“ニュージーランド”であると言います。その“ニュージーランド”には猛獣がいません。ライオンも虎も狼も、猛獣がそこにはいないのです。それで“ニュージーランド”だけは、羊を飼う時、牧者がおりません。そのまま、丘とか野原に放牧したら、羊が自分で食べ、勝手に寝ます。そうしながら育っていきます。

ところが“ニュージーランド”には、非常に稀なことですが、キーウィなど飛べない鳥が5種類も棲息しています。色も美しく鳥は鳥ですが、彼らは空を飛ぶことができず、木の枝にはい上がり、地上では歩き回るだけです。なぜ、そうでしょうか。命を脅かす獣がないからです。狐も鼬(イタチ)もライオンも熊もないので、危険なことに会うとか、命を脅かされることがありません。それで飛ぶ必要がないのです。卵から出て来てから、空を飛び回ったことがありません。歩き回るだけなので、翼とか羽とかが退化してしまい、飛べないのです。

また、彼らは飛ぼうともしません。飛ぶことに無関心なのです。何がために飛ぶか。飛ぶ必要がないのに...。ゆっくりと歩き回りながら、餌だけ捜して食べたらいいのだ、とした生活ぶりです。私たちの信仰生活も、全くこれと同様です。あまり長い間平安が継続したら、霊的翼が退化してしまい、祈ることも、御言葉を読むことも、伝道も、宣教事業も...すべてしなくなってしまうのです。それで、無関心の滓が溜まるようになります。

また、平安が継続したら怠惰の滓が溜まります。「ルカの福音書 21章36節」に、『しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。』と言われました。いつも油断せずに祈るためには、霊的に勤勉でなければなりません。「マタイの福音書 26章41節」にも、『誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。』と、主が言われました。

「箴言 19章15節」に、『怠惰は人を深い眠りに陥らせ、なまけ者は飢える。』と記録されています。苦しみに会う時には、朝早く起きて早天祈祷にも参加し、徹夜礼拝にも参加し、又は断食祈祷院にも行きますが、平安になったら怠惰の滓ができて、朝早く起きるのが面倒くさくなって早天祈祷をやめます。徹夜礼拝…、そんなのは昔したことであって、今はもう要らないのだと思うようになります。祈祷会にも顔を出しません。怠惰が入ってきて、霊的にいつからか飢えるようになるのです。

ずっと古い話ですが、米国のフロリダ州で起こった奇怪な事件です。その海辺には鴎(かもめ)が凄くたくさん棲息していたのですが、それらがみんな飢え死にしました。それで学者たちが、海辺には小魚もたくさん棲んでいるのに、なぜ、鴎の群れが死んだのだろうかと、調査をしました。その海辺は漁村がある港町で、たくさんの「海老捕り」専門の漁船がそこに立ち寄っては、網に残っている海老たちを払い落として、そこで網を修理してから再び「海老捕り」に沖に出て行きました。

それで、数多い鴎たちが網から払い落とされた海老を、何の苦労もせずに拾って食べることができたので、海面を翔け回りながら敢えて餌捕りする必要がありませんでした。それで鴎たちはいつも、漁船が入ってきて払い落とす海老を拾い取って食べたのですが、気候の変化で海流が変わり、海老の群れがずっと南の方の移って行ったので、漁船たちも南方に移動して行ってしまいました。従って、その海辺には海老捕り専門の漁船が来なくなり、その漁船たちが来て網から払い落とす海老もなくなって、ただで拾い食べていた鴎たちは腹がへってきました。いつもただで海老を拾い取って食べたことが習慣になっていた鴎たちは、怠惰におちいり、海辺に近寄ってくる小魚を獲って食べる苦労が嫌になった鴎たちは、漁船が払い落としてくれる海老がいなくなるや、彼らは飢え死にし始めたのです。

怠惰だと言うものは、こんなにも恐いものです。目の前に魚が泳ぎ回っていても、怠惰が身にしみて、それからは魚を獲って食べようとしません。私たちは平安であったら、怠惰の滓がたまって、聖書を読もうとしなくなります。祈ろうともしません。教会にも、やっと週に1回来るか、又はそれもしなくなります。怠惰は恐ろしい滓となるのです。平安が継続したら、本当に色々な汚れた滓がたまるようになるのです。

‘アンセルムス’は、「怠慢は、生きている人の墓である。」と言いました。怠慢が入ってきたら、貪欲の滓もたまります。平安であったら、貪欲の滓がたまるのです。勤勉に働いたら、貪欲が入ってくる時間がありません。怠け者の心は悪魔の工場であるとも言われています。怠けるので、平安であるので、悪魔が入ってきて貪欲をもたらすのです。アダムとエバが、なぜ堕落したでしょうか。生活が難しく、苦しいので堕落したのではありません。

神様がエデンの楽園を造ってくださり、食べるもの、居所も、あまりにも美しく、豊かにしてくださったので、朝起きてから、夜まで、何もすることがありませんでした。自然と彼らは怠け者になりました。それで悪魔のささやきが強く作用し、貪欲が彼らの心に入ってくるようになったのです。怠け者の心に貪欲が入ってくるのです。勤勉な人の心には貪欲が入ってくる隙間がありません。それでアダムは、人である彼が善悪の知識の木の実を取って食べてとんでもないことに欲を張り、堕落したのです。

「ヤコブの手紙 1章14節〜15節」に、『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記録されています。

また、平安であったら、高慢の滓がたまります。いつも競争相手がなく、平安の中で暮らす時、高慢が忍び込むのです。高慢であったら、倒れやすいです。「箴言 16章18節」に、『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』と記録されているのです。また、「ホセア書 13章 6節」に、『しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた。』と記録されています。腹がいっぱいになったら、神様を捜し求めることをせず、神様を忘れてしまうと言われたのです。従って、あまり平安であったら、高慢の滓がたまり、神様を忘れてしまうようになるのです。

また、平安に付随的について来るのが世の快楽の滓です。平安であったら淫蕩にふけるようになり、酒に酔うようになります。勤勉に働く人には、淫蕩とか酒に酔うとかする暇がありません。しかし富み、高慢になったら、酒を飲むようになり、淫蕩に落ち入るようになるのです。「ガラテヤ人への手紙 5章19節」に、『肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色…。』と記録されています。平安になり、霊的生活を追求しなかったら、肉の行いが顕著に現われます。肉の行いは間違いなく、酒に酔い、放蕩したくなり、色を好むようになるのです。それで、平安が必ずしも良いものではない、と言うことを私たちは知らなければならないのです。

‘マルチン・ルター’が宗教改革に対して悩んでいた際、或る日次のような夢を見ました。サタンが、世の中のクリスチャンたちを全滅させるために作戦を練りながら、部下の悪霊共から報告を受けていました。最初の悪霊が前に来て、報告しました。「首領殿!私はクリスチャンたちが砂漠を歩いていくようにしました。人生が砂漠のように悪条件だらけにして、しかもそこにライオンを送り込み、彼らに噛み付き、食い千切るようにしました。ところが、クリスチャンたちは益々熱心に彼らの神に呼ばわり祈り、助けを求めるので、私のやり方が失敗してしまいました。」

次の悪霊が来て、報告しました。「私は、クリスチャンたちが人生において大きな暴風雨に出会うように仕向けました。船が破船するほどの危険に瀕し、ついには船が暗礁に衝突したのですが、彼らは激しく自分たちの神を探し求め、祈り、気が狂ったように大きく賛美するので、失敗してしまいました。」

すると、3番目の悪霊が来て、笑いながら余裕綽々とした表情で報告しました。「あはは…、首領殿!私は、約10年間ほど、クリスチャンたちに無風状態を作ってあげました。すべてに良い目が出る、試練には遭わない、平安が継続するようにして上げました。食べたいものは食べさせ、着たいものは着ることができるようにしてあげたのです。すると、10名のうち10名が皆、徐々に世俗的になって行き、酒を飲み出し、肉の歓楽に溺れ、だんだんと堕落していくのを見ました...。」悪霊共が、このようにサタンに報告するのを夢の中で聞いたと言うのです。

私たちの人生に祝福だけが継続されたら、結局には神様から離れるようになる危険があるのです。それで、祝福が継続し、平安が長続きしたら、その人生には必ず滓が溜まると言うことを、私たちは知らなければならないのです。




第二、苦難は変化をもたらします。

第2番目に、神様は、上等のぶとう酒を造るためには、この器からあの器へとしきりに踏み躙ったぶとうの汁を移さなければならない、と言われました。これは 苦難のことを指して言われたのです。苦難は滓が残らないようにし、朽ちかける臭いをなくして、ぶとう酒を透明な高級のものとするだけではなく、香ばしくします。苦難は、変化をもたらすのです。苦難の目に会ったら、人は悔い改めるようになるのです。

皆さん、安らかに暮らす人は悔い改めることをしません。苦しみに会う時、人は悔い改めるようになるのです。放蕩者をご覧ください。父親から財産の分け前をもらって大きく富んだ者となり、遠くの国へ行って、お金を湯水のように使い果たしました。彼にお金がある時には、友達も多く、数多い女達が付きまといました。彼はこの世の人生天国で、欲しいままに、したい放題に暮らしました。

ところが、お金を使い果たし、その国に飢饉が襲ってくるや、彼は素寒貧になってしまいました。たまたま職場にありついたのですが、それは田舎で豚の世話をすることでありました。働いている途中に腹がへって堪らなくなりました。豚の食べるいなご豆を横取りして食べようとしてから、彼は豚に噛まれてひどい傷を受けました。痛みと苦しみと悲しみが襲って来るや、彼は口に出して呟きました。

『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』(ルカの福音書15:17〜19)こう言ってから、彼は自分の父親のもとに帰りました。この放蕩者が、富貴・栄華・功名がある時には、肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求しながら暮らしましたが、苦難に襲われるや、悔い改めるようになったのです。

「ホセア書 5章15節〜 6章 1節」を見ますと、『彼らが自分の罪を認め、わたしの顔を慕い求めるまで、わたしはわたしの所に戻っていよう。彼らは苦しみながら、わたしを捜し求めよう。 「さあ、主に立ち返ろう。主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、私たちを打ったが、また、包んでくださるからだ。」』と記録しています。神様がそのように言われたのです。人が神様を忘れ去り、我が侭勝手に暮らす時には、神様はご自分の所へ戻られ、その人からはお顔を隠していよう、と言われるのです。

しかし、彼らが苦難に会い、悲しい時、神様に立ち返り、神様を捜し求めたら、その時には現われてあげ、助けてあげよう、と言われたのです。これを見る時、苦難は人を悔い改めるようにする変化をもたらすのです。

‘ジョン・バニャン’は、「試練と苦難は、私たちが神様を捜し求めるようにする。」と言いました。また、‘マルチン・ルター’は、「試練がなく、すべてのことが順調に運ぶ時がもっとも危険な試練である。なぜなら、そのような時に人間は神様を忘れ去ろうとする誘惑を受けるからである。神様が試練を与えてくださらない時は、この世の10の試練に会う時よりももっと恐れおののきなさい。」と語りました。

試練に遭ったら、人たちは緊張し、熱心に神様に祈るようになります。そうでなく平安であったら、人たちは神様を捜し求めず、怠惰に溺れるようになります。私たちは苦しみに遭う時反省し、悔い改めるようになります。苦難に遭う前には、世俗になじみ、貪欲に釣られて堕落の道に歩みますが、甚だしい苦しみに襲われて苦しむようになったら、貪欲と世俗を脱ぎ捨てて、主よ、拠り所がありません...と両手をあげて神様を捜し求め、祈りに励むようになるのです。

「詩篇 119篇107節」に、『私はひどく悩んでいます。主よ。みことばのとおりに私を生かしてください。』「ペテロの手紙 第一 4章 2節」には、『こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。』と記録されています。

人は苦難に遭う時、古い習慣を脱ぎ捨てて、新しくなるのです。人生の真っ暗いトンネルを通る時、人は変化されるようになるのです。平安ですべてに幸いである時には、変化されません。人生の暗いトンネルを通過する時に変化され、新しい人になって更なる幸福を体験するようになるのです。従って苦難は、私たちを反省させ、悔い改めさせる機会となるのです。苦しむ時に、人は砕かれます。器は砕かれたら使い物になりませんが、人は砕かれてこそ、用いられるのです。

自己中心になり、自分の我執通りに暮らし、自分が最高であると高ぶる人には、友人もなく、神様も彼から離れられます。この世で砕かれてこそ、その人は人間らしく暮らすようになります。砕かれた旦那さん、砕かれた奥さん、砕かれた子どもたち、砕かれた隣人たちが一緒になって暮らしたら、互いに理解し、同情し、忍耐し、愛し、譲り合いながら暮らして行くことができるようになるのです。

皆さん、胡桃をどのように砕きますか。金槌で叩いて砕きます。胡桃を、そのまま手で揉んでは砕かれません。胡桃のように堅い私たちを砕くためには、苦難の金槌で叩かなければならないのです。苦しくなってこそ、私たちは砕かれて、主の前に降伏するのです。

ヨナをご覧ください。ヨナは神様を愛する人でありましたけれども、神様が「敵の国であるニネベに行って、そこで福音を宣べ伝えなさい。」と言われた時、神様に逆らってタルシシュ行きの船に乗り、船底に降りて行って寝込みました。神様が大風を吹きつけたので海に暴風が起こり、船が難破しそうになるや、恐れにおののき出した船員たちが、誰のせいで苦難が襲ってきたのかと、原因を確かめたところ、それがヨナのためであることが知れました。それでもヨナは、暴風雨の中で悔い改めずに、「私を捕らえて、海に投げ込みなさい。」と言いました。

ヨナを海の中に投げ込むや、海は激しい怒りを止めて静かになりました。その時、神様が備えられた大きな魚がヨナを飲み込みました。ヨナは魚の腹の中にいながらも、1日間、2日間...、その苦しみの中でも悔い改めずに辛抱し、粘りました。ところが神様のお許しがないので、自分が魚の腹の中で消化されないことを悟りました。これでは、自分は永遠に魚の腹の中で苦しまなければならないのか...と、ヨナは恐くなりました。それでヨナは砕かれて、そこではじめて彼は神様に悔い改めの祈りを捧げて、神様に立ち返りました。それで神様は、魚がヨナを吐き出すようになさり、ヨナが再び神様から与えられた使命を果すように、彼を用いられたのです。

「詩篇 119篇67節」に、『苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。』とあります。「ヘブル人への手紙 5章 8節〜10節」には、『キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、神によって、メルキゼデクの位に等しい大祭司ととなえられたのです。』と記録されています。また、「詩篇119篇71節」にも、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』と記録されているのです。

私は、47年間の私の牧会生活を振り返って見る時、私にもっとも有益であった時が苦難に遭った時でありました。安らかな時は、そのまま「ハレルヤ!」と喜びながら過ごしましたが、苦難に遭う時には自分自らをかえりみ、悔い改め、痛切に主を捜し求め始めることによって、霊的に成長し、神様にもっと近づいて行くようになり、私の信仰が成熟して行くのを体験するようになるのです。それで、苦難は私たちの人生に絶対に必要なのです。

苦難に遭うようになったら、私たちは神様を捜し求めるようになります。神様を捜し求めなかったら破滅に会います。最近、有名なTVタレントも実業家も自殺するのを見ます。人生の夢と希望を失ってしまったら、自ら自ずと絶望するようになります。ところが、神様を信じる人は苦難に遭ったら自滅するとか、又は絶望せずに、神様を捜し求めるようになります。苦難が、神様を捜し求め、呼ばわり祈るようにするのです。

「詩篇 50篇15節」に、『苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。』「詩篇 64篇 1節」に、『神よ。私の嘆くとき、その声を聞いてください。恐るべき敵から、私のいのちを守ってください。』また、「詩篇119篇153節」には、『私の悩みを顧み、私を助け出してください。私はあなたのみおしえを忘れません。』と記録されています。クリスチャンは、苦難に遭ったら自分を助け出してくださることのできる方が神様お一人だけであることを知っているので、神様にすがり付き、祈り求めます。

そして、苦難に遭う時に、信仰に熱心になるようになります。そんなにも熱く主を信じ、立派に仕えていた聖徒さんも、生活に祝福していただき、平安になったら、信仰がなまぬるくなり、その次には、だんだんと世俗に溺れ込むようになります。これが人なのです。祝福していただく程に熱くなったら素晴らしいのですが、祝福していただく程に信仰が冷めていくのです。

私たちは、6・25韓国戦争以後に教会がどんなに熱かったか知れません。韓国の聖徒さんたちが世界最初に、早天祈祷を熱く捧げました。朝4時半に教会に集まって呼ばわり祈りました。また、世界最初に徹夜祈祷を毎週ごとに捧げました。それだけでしょうか。夜、山に登って祈り、賛美を捧げました。これも韓国の教会が世界で初めてしたのです。山に祈祷処を設けて、登って行って断食しながら呼ばわり祈る熱心さで信仰に邁進し、神様を拝み、崇めました。

その結果、神様が韓国の教会を祝福してくださり、韓国の聖徒さんたちを祝福してくださり、同時に韓国をも祝福してくださったので、今は韓国人が美味しいものを腹いっぱい食べ、立派な着物を着るようになり、富んだ生活を営み、平安になるや、韓国の教会が怠惰に成り下がるようになってしまいました。熱烈な早天祈祷、熱心な徹夜祈祷、山に登っての祈りが徐々に形式化していき、韓国の教会がその場で足踏みしながら発展していきません。信仰の熱心と、神様への信頼を失いかけているのです。

私たちが信仰の熱心と、神様への信頼を取り戻さなければ、神様は二つの方法のうちの一つを選ばれるようになります。一つは、聖霊を注いでくださって、私たちが信仰に熱心になるようにみわざを働かしてくださることです。もう一つの方法は、私たちが迫害と試練に襲われるようになさって、主に呼ばわり祈りようになさることです。私は、聖徒の皆さんが迫害とか試練に襲われる前に主のもとに立ち返って悔い改め、呼ばわり祈り、聖霊充満をいただくようになることを切に願っています。

「ヨハネの黙示録 3章16節」に、『このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。』と記録されています。「コリント人への手紙 第二 7章11節」には、『ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。また、弁明、憤り、恐れ、慕う心、熱意を起こさせ、処罰を断行させたことでしょう。あの問題について、あなたがたは、自分たちがすべての点で潔白であることを証明したのです。』と記されています。

こんにち、私たちは自ら、悲しく思わなければなりません。私たちがどうして、信仰の熱心を失ったのでしょうか。神様に絶対に拠り頼み、信頼し、熱心で忠実であったクリスチャンがどこにいったのでしょうか。私たちが自ら悲しみ、信仰に熱心になったら、艱難の目に遭わず、神様が私たちを誠実なクリスチャンに復旧させてくださることができるのです。

今まで、学会で原因を発見することができずにいる中の一つが、鰒(あわび)の執着力であると言われています。私は海女たちの言うことを聞いたことがありますが、海の中に深く潜って貝とか鰒とかを獲る時、特に鰒の場合は、ちょっと触れたらナイフでいくら岩や岩礁から取り離そうとしても取り離せないと言います。海の中の岩を砕くことはできても、その岩に吸い付いている鰒を取り離すことはとてもできないというのです。それで、ひそかに近寄って行ってすばやくナイフで取り離さずに、下手に触ったら絶対に岩から取り離せない、と言います。

鰒は大概が海の中の岩礁などに棲息しているのですが、どんなに力強くぴったりとくっ付いているのか、岩の表面を切り取ることはできても鰒類は思う通りにいかないと言いました。学者たちは、鰒類がこのように岩礁の表面に強くくっ付いている理由は、長い間波や海流と戦った結果であると言います。鰒類が耐えている波の力は、時速484キロメートルの風とも同じであると言いました。凄い力が鰒を岩から外して押し流そうとするのですが、それに抵抗するために鰒は毎日岩に食いつくのだそうです。海に波が立ったら、鰒はすばやく岩に食いつくのだそうです。それで鰒の執着力がものすごく発達するのだと言うのです。

同じく、苦難は私たちをしてもっと熱心に神様に近づくようにするのです。苦難を克服するために全力を尽くす間、私たちの信仰はますます熱心になり、力強くなって、どのような試練、艱難に会おうとも揺り動かされることがないようになるのです。ですから、苦難の鍛錬は私たちの信仰生活に必要なのです。




第三、祝福と苦難のビビンパ

それでは、第3番目に、クリスチャンの人生はどうでなければならないのでしょうか?「祝福と苦難のビビンパ」を食べなければならないのです。皆さん、ご飯別に、おかず別に...食べてはいけません。祝福もいただき、苦難もいただく、ビビンパを食べなければならないのです。苦難だけが継続したら、失望し、挫折します。しかし、私たちがいくら甚だしい苦難に会おうとも、神様の御国では、神様が夢と希望を与えてくださり、慰めを与えてくだします。

『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』(詩篇23:4)私たちクリスチャンは、父母、兄弟、妻子がみな離れ去り、自分が失敗し、狼狽せざるを得ない立場に置かれても、又はもっとも深い死の陰の谷に落ち込んでも、祈る時、神様が「わたしが、ここに居るよ。わたしが、共に居てあげるよ!」と、驚くべき心の慰めと平安を与えてくださるのです。これが、イエス様を信じる人と、信じない人との差異なのです。

イエス様を信じる人は、死の陰の谷に下りて行っても、神様が「わたしが、ここに居るよ!」と言われながら、大きなお恵みで夢と希望を与えてくださり、慰めてくださるので、それを通して神様の祝福を期待する希望を捨てることがないようになるのです。艱難の目に会うとき、夢と希望を与えてくださり、神様が必ず祝福してくださる、という確信を持つことができるので、クリスチャンは苦難に勝つことができるのです。

そうでなく、継続して苦難の目に会うのであったら、誰でも夢と希望を失ってしまい、自滅するしかありません。しかし、私たちの神様は、暫くの間苦難の目に会うようになされてから、砕かれ、悔い改めたら、遂には祝福して上げたいと願われる神様なのです。

また、祝福だけ継続しても、人たちは神様から離れます。人はあまり平安であったら、安逸で怠惰に落ち入るようになります。

「申命記 8章11節〜16節」に、『気をつけなさい。私が、きょう、あなたに命じる主の命令と、主の定めと、主のおきてとを守らず、あなたの神、主を忘れることがないように。 あなたが食べて満ち足り、りっぱな家を建てて住み、あなたの牛や羊の群れがふえ、金銀が増し、あなたの所有物がみな増し加わり、あなたの心が高ぶり、あなたの神、主を忘れる、そういうことがないように。――主は、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出し、燃える蛇やさそりのいるあの大きな恐ろしい荒野、水のない、かわききった地を通らせ、堅い岩から、あなたのために水を流れ出させ、あなたの先祖たちの知らなかったマナを、荒野であなたに食べさせられた。それは、あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。』と記録されています。

私たちの神様も、実に頭が痛いのです。苦難だけを与えたら落胆して挫折し、祝福だけを与えたら怠惰になって神様を離れ去るようになり、それで、継続して祝福してあげる訳にもいかず、継続して苦難を与える訳にもいかないので、祝福と苦難の“ビビンパ”を食べさせるしかないのが、私たちの神様の立場なのです。

アフリカの国際会議で、あるアフリカ代表が講演しながら、「私は、アフリカ人たちが出世しないようにと祈っています。」と言いました。なぜか?英国がアフリカの多くの国を占領した後、エリートたちを連れて行って、英国で大学教育をさせました。それで、英国で高等教育を受け、修士、博士の学位を獲ってからアフリカに帰ってきたら、英国で勉強してきた人たちの95%から99%のエリートたちが堕落して神様に背を向け、信仰を失ってしまうからであると言うのです。従って、英国で勉強して学位を取ってアフリカに帰ってきて信仰を失ってしまい、堕落するよりは、かえって出世せずに、神様を熱心に信じ、主に仕える方が良いと思う、と説明しました。

人は、平安な環境の中で人生を生きて行ったら、信仰から遠ざかるようになります。ですから、私たちは平安である時、いつも目を覚ましていなければなりません。信仰の“ビビンパ”を私たちは忘れてはなりません。苦難の時には、神様がもう間もなく祝福してくださる、という希望を失ってはならないのです。苦難の中に神様の祝福と恵みの御手が隠れているのですから、苦難も祝福の“ビビンパ”なのです。

エレミヤの「哀歌 3章19節〜22節」を見ますと、『私の悩みとさすらいの思い出は、苦よもぎと苦味だけ。 私のたましいは、ただこれを思い出しては沈む。 私はこれを思い返す。それゆえ、私は待ち望む。 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。』と記録しています。また、同じく「哀歌 3章32節」には、『たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。』と記録されています。これが、イエス様を信じる人たちの希望です。

極限の苦難に襲われて絶望せざるを得ない場合でも、神様の憐れみと慈しみと恵みと祝福がまた、追いついて来る、と言うのです。に、『あなたがたのあった試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。』(コリント人への手紙第一10章13節)と言われました。

真っ暗闇かと思ったら、明るい光が私たちの前を照らしてくれるのです。行く道がない暗闇の洞窟に入ったかと思ったら、神様がその洞窟の向こうに出て行くトンネルを見せてくださるのです。神様はまた、私たちが悪にぶつかったと思ったら、直ぐに善に変える奇跡をほどこしてくださいます。絶望かと思って座り込んだら、今度は希望の門を開いてくださるのです。自滅だとがっかりしたら、神様は成功の門も開いてくださるのです。ですから、苦難と祝福はいつも“ビビンパ”となって一緒に来るのです。私たちクリスチャンは、苦難だけに会うのではないということを知らなければなりません。

そして、祝福していただく時には、苦難の鞭も来ると言うことを記憶しなければなりません。祝福だけがあるのだと思って「ハレルヤ!」と叫んではならないのです。祝福の中で怠惰に落ち入らないようにと、神様は苦難も与えられ、“ビビンパ”を食べるようになさるのだ、と言うことを忘れてはならないのです。

「ヘブル人への手紙 12章 6節」に、『主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。』と記録されています。また「ヘブル人への手紙 12章10節〜11節」に、『なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』と記録されているのです。

ですから、苦難に会う時には祝福がもう直ぐに来ることを思って喜び、祝福していただいている時には、神様の御手の懲らしめの鞭が臨んで、怠惰に落ち込まないように叩いてくださることを喜ばなければなりません。苦難の時にも祝福の“ビビンパ”が、祝福の時にも苦難の“ビビンパ”を食べるようになるのだ、と言うことを忘れない皆さんとなりますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。

植物学者の言うことによりますと、冬が過ぎた後、暖かい春が訪れたら、強い風が吹いてきます。春の間「花をねたむ風」が吹くのです。なぜでしょうか。冬の間ぐっすりと眠っていた木が、春になっても根から水分を吸い上げようとしないので、葉が芽を出し、花が咲き、そして実を結ばなければならないのですが、木が眠りから目を覚まそうとしません。木が眠りから目を覚まさせるのが風だと言うのです。風が吹いて木をひどく揺り動かしたら、根っこまで揺り動かされて、「あ〜、春が来たんだな!」と、木が悟って目をきれいに覚まし、再び活動を始めるのだそうです。

私たちの信仰生活も同様です。私たちが風のない穏やかな環境に置かれますと、眠ってしまいます。世俗の眠りに深く落ちいるのです。しかし、風が吹いてきて私たちを揺り動かしたら、私たちが世俗の眠りから目を覚まし、「あ〜、これは大変だ。気をつけなければ...。」ということになって、祈りを捧げて聖霊の生ける水を受け入れ、信仰の花を咲かせて実を結ぶようになるのです。

私は、執事さんの一人から凄く素晴らしいお話しを聞きました。その執事さんが、黄色い花を咲かせる‘つるバラ’を買ってきて、自宅の庭にそれを植えてから、真心を込めて育てながら花が咲く日を待ちました。ところが何年が過ぎても花が咲きません。その執事さんはその間、色々と‘つるバラ’を顧みて上げたのです。水は勿論毎日定期的に充分に注いで上げ、肥料も値段の高い高級なものを買ってきて惜しみなく使用しました。ところが、バラのつるは青々と生い茂り、立派に成長してくれますが、全然花が咲きません。

それで、その黄色い‘つるバラ’を買い求めた店に行って、「あなたのお店で’つるバラ‘を買ったのですが、花が咲きません。私が真心込めて肥料もやり、毎日水も注いであげ、全力を尽くして顧みて来たのですが、全然、花が咲きません。枝だけが凄く青々と生い茂って垣根をいっぱいに蔽っているだけで、何年が過ぎたのにも全く花を咲かせないのですが、これどうしたことでしょうか?」

すると、それを聞いた店の主人が声を出して笑いながら、次のように説明したと言いました。「あはは・・。‘つるバラ’に肥料をやり、水を毎日注いであげたからそのバラが花を咲かせないのですよ。‘つるバラ’が花を咲かせるようにするためには、肥料をやったり、水をやったりしてはいけないのです。撒いた肥料を全部取り除き、柔らかい土も取り除いて、荒い土に砂利を混ぜて植え直してください。そうして、水も2~3日に1回、少しだけ注いで上げ、枝は容赦なく剪定してください。そのように荒く扱ったら、春になってからその‘つるバラ’が花を咲かせるはずです...。」

それを聞いて、家に帰ってきた執事さんが、花屋の言った通りに、‘つるバラ’を迫害でもするみたいに扱ったところ、次の年の春に黄色くきれいな花が、いっぱいに咲いたと言いながら、次のように付け加えました。「祝福だけして貰ったら、人たちは世の中に流れ込んで、信仰には怠惰になり、祈りの実、伝道の実、献身の実の花は咲かせません。祝福と共に患難と試練が襲ってきて苦しくなったら、その時から、人たちは祈りの花も咲かせ、美しい信仰の実も結ぶようになって、神様に献身し、忠誠を尽くすようになる、と言うことを悟りました。」と、そのように話すのを聞きました。

ですから皆さん、私たちの信仰生活と言うのは、いつも平安であっても良いのではなく、いつも患難の連続であってもならないのです。

神様から祝福していただく時には、益々気を引き締めて、その祝福に安住したら患難の風が吹き、茨の道を歩いて行くようになるということに常に注意しなければなりません。また、苦難に会う時には、しっかりと悔い改めて、希望を失うことなく、もう直ぐに神様の祝福が臨む、ということも忘れてはなりません。

ですから、私たちの信仰生活には、いつも祝福と共に苦難が伴い、苦難に襲われたと思ったら又、神様の祝福が後について来る“ビビンパ信仰”であることを必ず心に刻んで、御言葉の上に堅固に立って生きて行く皆さんとなりますよう、主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。




お祈り

無限なる愛であられる、父なるわが神様!

神様が、私たちを愛する子どもを教育し、育てるように、いつも顧みてくださる事に感謝申し上げます。あまり良くしてあげてもならず、あまり悪くしてあげてもならず、良くしてあげる一方、鞭で打ってもくださり、また、鞭で打たれると思うや、すぐに祝福してくださり、いつも均等に立派なクリスチャンとなるように配慮してくださって、本当に有り難うございます。

私たちが皆、円満な信仰人格者となって、お父様から喜んでいただける、善良な主の子どもたちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!