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「私たちの聞いたことを、だれが信じたか」
 






■聖書箇所

「イザヤ書 53章 1節〜8節」
53: 1 私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。
53: 2 彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
53: 3 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
53: 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53: 5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53: 6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
53: 7 彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
53: 8 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。




私は、皆さんとご一緒に、『私たちの聞いたことを、だれが信じたか』という題目で、お恵みの御言葉を分かち合いたいと思います。

人間の想像をはるかに超越し、常識に反した事件に会った時、私たちは言います。「一体、このような事を誰が信じるだろうか!」イエス様のご誕生と、そのご生涯に関した啓示をいただい時、イザヤは唖然となり、嘆息しました。「私たちの聞いたことを、だれが信じてくれるだろうか?」神様のひとり子イエス様のご誕生は、最初からあまりにも悲劇的なものでありました。イザヤは言いました。「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」

果して、イエス様は砂漠の地のような貧民窟ナザレの、貧しい家門の乙女マリヤのからだに宿られ、貧しい家の弱々しい子どもとしてお生まれになられたので、豪壮な家門とか、高官、富豪の家で生まれた子どものように、多くの人たちから喜ばれるとか、祝福されるとか、賞賛を受けるとかすることがありませんでした。悲しいほどに普通の子どもとしてこの世にお生まれになられました。

イエス様の人生に対して、イザヤはこう言いました。「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされた...。」本当に、イエス様は、ユダヤ教の指導者たちとかパリサイ人たち、サドカイ人たち、律法学者たち、社会の指導者たちからさげすまれ、卑しい人として扱われました。

そして、イエス様は、「悲しみの人で病を知っていた。」と、イザヤは言いました。イエス様の生活は、空を天井にして露宿される日々であり、貧寒そのものであり、人間の病苦の故に、いつも心が痛む一生でありました。第2位の神様であられるイエス様が人としてこの世に来られて、こんなにも待遇されず、無視されるとは誰が想像し得たことでしょうか。

イエス様が来られるずっと昔の預言者イザヤも、首を左右に振りながら、信じられないことだ、と言いました。同じく私たちも、こんにち、イエス様のことを伝える時、そんなことがあり得るとはとても信じることができないのです。ところが、主が来られる7百年前にイザヤは、イエス・キリストが来られて会われることになる苦難を、詳細に幻で見て、今の世の新聞記者たちが事件を報道するように、「イザヤ書53章」を通して立派に予言しています。




第一、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」

第1番目に、「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。」と言いました。「イザヤ書 53章 3節〜4節」に記録されています。『彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。』

イエス様は、ご使役の3分の2を病を癒すことに費やされました。主が、「悔い改めなさい。天国が近づいたのだから。」と言われてから、直ぐに始められたのが、悪霊を追い出し、病を癒されたことであったのです。キリストの福音事業と癒しの働きは、分離しようにも分離することができません。

「マタイの福音書 4章23節〜24節」に、『イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。』と記録されています

ですから、イエス・キリストの福音事業は、癒しの働きでもあるのです。イエス様が伝えられた天の御国は、癒しの御国です。天国は、癒すところなのです。こんにちも、イエス・キリストの福音を証しする時、私たちが天の御国を伝えると同時に、病の癒しに関しても伝えなければならないのは、天国の基礎が病の癒しにあるからです。

イエス様は、12弟子と70人の弟子たち、そしてその後の全てのクリスチャンたちに、病人を直しなさい、と断固として言われました。「マタイの福音書 10章 1節」を見ますと、『イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。』と記録されています。

出て行って福音を宣べ伝える時、病人を癒し、悪霊を追い出しなさい、と言われたのです。福音の要素の中に、病気の癒しは必ず一緒にいなければなりません。イエス様を信じて罪の赦しを受けなさい、と言うことと、イエス様を信じて病の癒しを受けなさい、と言うことは、手の裏と表のようなものです。分離しようにも分離することができません。

「ルカの福音書 10章19節」に、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』と記録されています。70人の弟子たちを二人ずつ、ご自分が行かれるつもりの町や村にお遣わしになってから、主が言われたのです。

そして最後に、主はよみがえられてから天に昇られる前に、弟子たちに言われました。「マルコの福音書 16章17節〜18節」の御言葉です。『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。』

イエス様は熱心なほどの執着心をもって、病を癒しなさい、と言われたのです。普通の宗教的な儀式や形式で病を癒しなさい、と言われたのではありません。主は御心の中に大きな負担を持たれ、病人を見たら心が痛くなるほどに悲しみを感じられたのです。病人と同じく苦痛を感じられたのです。病人と苦しみを共にしてくださったのです。どんなにしてでも病人を癒してあげようと、努力なさったのです。

聖書の原語に、“スブランコニジョマイ”と言うヘラ語がありますが、私たちの言葉では、「可哀相に思われた」または「憐れまれた」と翻訳されています。心に深い悲しみを感じると言う言葉です。このような単語は聖書に12回出ますが、その中の8回が、イエス様の御心を表現する時に使用されました。その中で5回は、病人と死者をご覧になられた時に、3回は飢えて苦しんでいる時とか、牧者がいない羊のようにさまよっている民たちを見られた時に感じられた感情を表現することに用いられました。

主は、病に罹って苦しんでいる人を見られる時、心に深い悲しみを感じられたのです。「あー、可哀相だな。」と軽く感じられたのではありません。病気に罹って苦しんでいる人の心が、いかに悲しいものであるかわかりません。その悲しみを、主は共に感じられた、と言うことです。それで、どんなにしてでも病人を癒して上げなければ、という強迫観念を主は感じておられたのです。主は、病人を軽く見ただけで通り過ぎることのできないお方なのです。主は、苦しんでいる病人と全く同じ悲嘆を感じられたのです。

また主は、飢えで苦しんでいるとか、牧者がいない羊のようにさまよっている民たちをご覧になりながら、心の中に深い悲しみを感じられるのです。「キリストには代えられません。」(聖歌521)という賛美歌があります。イエス様は、私たちの悲しみ、苦しみ、悩みを共に背負ってくださり、私たちの人生に実際に参与してくださるお方なのだからです。主は、傍観者ではありません。私たちに哲学や宗教を教える先生ではないのです。

主は、私たちの人生の苦しみを共にしてくださり、私たちの頚木を代わりに負ってくださるために来られたので、主は実の私たちの救い主となられ、私たちの心に大きな感動を与えてくださるのです。イエス様の御心は人間の病のためにいつも重く、私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださるのです。主はいつも、病人のために心が重かったのです。

「マタイの福音書 9章35節〜36節」に、『それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。』と記録されています。また「マタイの福音書 14章14節」にも、『イエスは舟から上がられると、多くの群衆を見られ、彼らを深くあわれんで、彼らの病気を直された。』と記録されています。

キリストは、病人をご覧になられる時、その心の深いところから負担を感じられ、悲しまれ、憐れみと哀しみを感じられたのです。また主は、全身と御心いっぱいに私たちの病を代わりに担ってくださいました。それで主は、ついに鞭打ちに会われて全身が散々に裂かれ、血を流され、私たちのすべての咎と罪を負ってくださり、人類のすべての病を癒されたのです。「イザヤ書 53章 5節」に、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記録されています。

「ペテロの手紙 第一 2章24節」に、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記録されています。主が、ローマのピラト総督の庭で死刑を言い渡され、ローマ軍人たちのたむろしている広場に連れ出されて、どんなに鞭で打たれ、殴られ、侮辱されたか知れません。当時の鞭の端には鉄の鉤が付いていました。その鉤が、打たれる度ごとに皮膚を裂き、肉をえぐり取りました。鮮血が流れました。

なぜ、主がそのように鞭に打たれたのでしょうか?主は、人類の病を代わりに清算しなければ...、病の代価を払わなければ...と、堅く決心しておられたので、その痛さ、その苦しみを耐え抜いてくださったのです。代価がなしに得られるものはどこにもありません。イエス様は、身を裂き血を流されることによって、私たちのすべての病を贖ってくださったのです。ですから、クリスチャンは病を患ってはなりません。病に勝たなければならないのです。

イエス様がそのように、苦しみに会われ、煩悶なさり、結局には鞭打ちに会われることによって私たちの病を清算なさったのですから、イエス様のその愛を思っても私たちは病に勝たなければならず、病を追い出さなければならず、病の癒しを受けなければならないのです。私たちの病の癒しというものは、そんなに単純なことではありません。イエス様がそんなにも熱く願われ、その願われたことを成就することなのです。

キリストは、昨日も今日もいつまでも同じであると言われました。こんにちもイエス様は、皆さんが病を患ったら、心を痛まれ、悲しまれ、苦しがられるのです。従って私たちは、病を癒していただくために祈り、私たちの各種の病をナザレ・イエスの御名によって断固として退かせなければならないのです。病は不法なものです。病は癒されなければなりません。病は癒されることになっているのです。私たちは法的に、既に2,000年前から癒されているのです。主の栄光のためにも、病から解放されなければなりません。

病に罹ることが主の栄光ではなく、病から解放されることが主に栄光をお帰しすることなのです。人類の病は、主の悲しみです。病は、主の御心には苦痛なのです。主の悲しみと苦痛を取り除くことのできる道は、病を追い出してしまうことです。

“純福音家族新聞”2004年5月8日日付に載っている恩平大教区の‘ソン・ムンクン’女性執事さんの証しを読んで、私は大いに感動しました。‘ソン’執事さんは、血圧がちょっと高いということのほかには、別に病気がなく、健康に暮らして来られました。ところが2003年5月頃から、突然目に付くほどに体が痩せていくので、病院に行かれて検査を受けました。ところが検査結果、肝臓ガン末期であり、既にガン細胞が肺臓にまで転移していて、お医者先生は「もう、遅れて、手の施しようがありません。家に帰って楽に余生を過ごしてください。」と宣言しました。年寄なので抗癌治療も放射線治療もすることができないということでありました。

その日以後、執事さんはガンであるということを知ったので色々と苦しみ始めました。食事は勿論、水も飲むことが難しくなり、たまに喀血をし、呼吸するにのも骨が折れるほどになりました。驚いた家族たちは3日間の断食祈祷を始めました。教区でも全教区会員が心を一つにして21日間のダニエル祈祷を捧げだしました。執事さんは祈りながら、イエス様を見つめました。

ピラトの庭から連れ出され、頑丈なローマ軍人たちから鞭打ちに会われました。背中が散々に裂かれ、血を流される主の姿が心の中に思い浮かびました。あんなにも苦しみに会われながら私たちの病を代わりに担われたのだから、私がこんな病気に罹ったのは主の御心ではないのだ。これは悪魔がもたらしたものなのだ。声をだして、断固とした口調で、イエス様の御名によって繰り返し、繰り返し悪魔を叱りつけ、追い出しました。「ガンを持ってきた敵悪魔は、退けっ!」「病気は、離れ去れっ!」

そうしてから、ある日、‘ソン・ムンクン’執事さんが私のところに来ました。私が、按手しながら熱く祈って上げました。そうした後、家に帰って行く途中、不思議にも執事さんは体からも、心からも苦しみが徐々に消え去り始めたと言いました。咳もしなくなり、喀血も止み、食事もするようになり、夜も苦しむことなく眠れたと言いました。その年の12月に、病院に行って再検査を受けました。ところが、お医者先生が訝しげな表情で問いました。「もしも、ここでなく、他の病院に行かれたのでしょうか?そうでなかったら、何か、うちの処方以外のお薬を服用しておられるのでしょうか...?」

それで、執事さんは「いいえ、そんなことありませんが...。」と答えたところ、お医者先生が撮影した写真を見せてくれながら、「奇跡です!」と言ったそうです。写真を見たところ、最初に撮った写真には明確に、ガン細胞が肝臓と肺臓に転移していたのですが、今度の写真にはガンが跡形もなく、肝臓も肺臓もきれいであったと言いました。きれいに癒されてしまったのです。

イエス様が鞭打ちに会われて、背中が散々に裂かれたのは、私たちすべての人間の疾病を代わりに担ってくださるためであったのです。ですから誰でも、イエス様を見上げ、信じて、祈ったら、こんにちも、イエス様は喜んで御手をのばされ、按手してくださり、癒してくださるのです。今の“苦難週間”にイザヤが予言して言った如く、「彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」のです。

イエス様は既に、皆さんの疾病を代わりに担われたのです。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになってくださった。」のです。その代価が何でしょうか。癒しと健康がその代価となるのです。私たちは、癒されなければなりません。私たちは健康でなければならないのです。そうしてこそ、主が代わりに病を負い、私の痛みを担ってくださったことに対する答えとなるのです。皆さんは、病の癒しを受けることが主の完全な御心であることを絶対に疑わない人たちとなってくださいますよう、祈願します。




第二、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」

第2番目に、聖書に、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。」と記録されています。皆さん、主が両手と両足には釘が刺され、頭にはとげの冠を被せられました。私たちが手でいかに多くの罪を犯し、足でいかに多くの罪を犯し、頭の中でどんなにたくさんの罪を犯したでしょうか。罪と咎だらけの人間です。この世には、罪と咎がない人は一人もいません。衣をはたいて芥や塵の出ない人は誰もいないと言われているのです。汚れた人生そのままでは、私たちは誰一人神様の前に堂々と立つことのできる人は誰もいないのです。

私たちがいくら、善を行い、立派なことをし、苦行を積んだとしても、罪と咎のない人は誰一人いないのです。世の中自体が罪悪の沼です。ここに住んでいる人たちが、罪と咎を犯さないことはできないのです。それが現実であり、今の世の中です。それで、イエス様が刺し通されたのは人間たちの罪であると言われたのです。

「ヘブル人への手紙 9章22節」に、『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。』と記録されています。また「ヘブル人への手紙 13章12節」にも、『ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。』と記録しているのです。

主が、手と足に流されたその血潮で、私たちの一生の罪と咎を清算してくださったのです。生まれた時から死ぬまでの、人生の罪と咎を主がすべて清算してくださったのです。イエス様が十字架の上で、「完了した。」と言われた時、私たちのすべての罪と咎を永遠に清算してしまわれたのです。

そして、心的・内的なものは私たちが犯した罪のためなのです。外側の傷は目に見えますけれども、内側の傷は目に見えません。私は、日本総督府時代の末期から6.25韓国戦争を通しながら成長しました。私は兄弟が9人だったのです。ですから、どんなに窮乏な時代、難しく困難な時期を過ごしながら成長したか、想像するに難しくありません。それで、私のお母さんが9人の兄弟たちを育てながらいつも口癖のように言われました。「辛くてたまらない。」「私の心臓が破裂しそうだ...。」

しかし、私は心の中で“果して、どんなにつらいのだろうか?”“どうして、心臓が破裂しそうなのだろう...?”目にそれが見えないのですから、知るはずがありません。お母さんが“辛くて、死にそうだ。”と言われても、“心臓が破裂しそうだ...。”と言われても、私の目には見えませんので、理解ができませんでした。皆さん、辛く、心臓が破裂しそうだと簡単に言いますけれども、それは目に見える苦しみより以上に苦しいものです。

イエス様は、十字架に釘付けられる時、私たちのすべての罪と咎を背負って、濡れ衣を着せられる辛い思いで苦難に会われたのです。イエス様の辛さを、私たちは想像することができません。その時、イエス様の心は辛さで耐えられないものであったはずです。その時、イエス様の心臓は破裂して、すべての血潮と水分をみな流されました。「イザヤ書 52章14節」に、『多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――』と記されています。

「詩篇 22篇14節」を見ますと、『私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。』と記録されています。私たちの主イエス・キリストの十字架の苦難は、私たちが第3者の立場で見る、そのようなものではなかったのです。人間を造られた責任、人間に対する限りない愛の故に、主は言葉では言い尽くせない、恐ろしい苦痛を背負ってくださったのです。

私は、ある夫婦の話を聞きました。子どもを生んで育てましたが、その子どもが間違ったことばかりしでかします。子どもが離婚し、そして毎日朝晩酒に酔っ払い、放蕩し、ばくちに耽り、父母の財産もみな売り飛ばしました。それで、この夫婦の心は筆舌では表現できない、悩ましく、苦しい毎日でありました。

ある日の夜、その夫婦は顔を見合わせながら、ため息と共に言い合いました。「お前さん、子どもがないのが、幸いだと言われているでしょう...?私たちは、息子の故にこんなに苦しい目に会っているんだ。もう、息子は居ないものと考えましょう。うちは子を産まなかったのだと思って、息子のことは忘れてしまいましょうよ...。そして、うち同士で余生を楽しく生きて行こう...ね!息子のやつのために、いつまでも苦しいことに巻き添えを食うことは、もう真っ平ごめんだ...。息子は息子、私たちは私たちなんだ。息子を産んでいないんだ、と思って、今日からは、息子のことは忘れましょう...。」「そうですね!そうしましょう。息子のことは忘れ捨てて、私たちだけでも平安に暮らして行きましょう...!」

そうして、寝床に老夫婦は入り、息子のことは忘れ去って、寝ることにしました。ところが、いつまで経っても老夫婦は寝つけませんでした。二人とも、長い嘆息を漏らしながら、寝られません。奥さんが、先に口を開きました。「息子のことは忘れて寝ましょう、と言いいながら、なぜ、ため息ばかり吐きながら寝ませんの...?」「産まなかったことにしようとしても、産んで育てたのに、どうしたら良いか、わからんのよ!」

夫婦は、夜通し、相変わらず息子のことが心配で、心苦しく、眠ることができませんでした。親子は、いくら忘れようとしても忘れられないものです。断ち切ることのできない因縁で、堅く結ばれているのです。父母と子どもは、このようにどうすることもできない因縁で結ばれているのです。それで、その関係は断ち切ろうにも、たやすく断ち切ることができないのです。産まなかったことにしようとしても、それはできないのです。

私たちに対する神様の御心も、これと全く同じです。造らなかったことにしようとしても、それができないのは、私たちを神様のかたちに似るように造られたからです。それで、神様と私たちはどうすることもできない因縁で結ばれているのです。私たちを造られた責任、人間たちに対する断ち切ることのできない愛が、神様の御心を悩ませているのです。

神様は、人類が堕落したために余りにも長い間悩まれ、苦しく思っておられるのです。「私が罪を犯し、堕落したのに、それが神様と何の関係があると言うのだ...?」と思うのは、人間の考えです。それは、子どもが父母に対して言うことと同様なことです。「私が悪いことをしたのに、お父さん、お母さんがなぜ心配するのですか?」「この野郎、お前も大きくなって、子どもを生んでみなさい。その時には、分かるだろうから!」このように、父母は、子どもが理解してくれないので嘆息するのです。同様に、神様も嘆息なさるのです。

私たちは、神様が私たちのために心を悩ましておられることを理解することができません。神様は、人間を造られた以後から、今まで、いつも心配してくださり、悩んでおられるのです。

「イザヤ書 53章 6節」に、『私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』と記録されています。私たちはみな、自分勝手に生きて来ました。我が侭で、強情で、利己的に生きて来たのです。それにもかかわらず、神様は私たちの罪と咎を御子イエス様に負わせて私たちの代わりに審かれ、イエス様が流された尊い血潮で私たちを清めてくださり、罪を赦され、義としてくださり、私たちを再び救ってあげようとなされるのです。その神様の心情を考えてみてください。

「詩篇103篇13節」に、『父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。』と記録されています。父なる神様が私たちを憐れまれる心情は、何によっても消し去ることのできない愛なのです。それで、その愛の故に神様は苦しんでおられるのです。いくら断ち切ろうとしても断ち切ることのできない、人間に対するその愛の故に、父なる神様が苦しんでおられ、ひとり子を遣わしてくださり、その御子イエス様はついに私たちのために十字架に架けられるようになったのです。

淡水魚の一種に、“トゲウオ”と言う魚があることをご存知のことと思います。この“トゲウオ”は、産卵期になりますとオスが誠意をつくして水草の中に場所を作り、メスは産卵を終えるやどこかに行ってしまいます。そして戻って来ません。オスは、その卵を保護するために夜昼となく眠りません。ほかの魚が来て卵を食べてしまうかも…と心配して、その卵を守り、継続鰭(ひれ)を動かして、新鮮な酸素が含まれている水を卵に向かって送ります。食べもせず、寝もせず、休みもせずに、卵を保護し、酸素を供給します。

最後には、卵が孵化して子が生まれたら、オスは疲れ果てて死んでしまいます。そうしたら、子たちが全部自分の父親であるオスのからだにくっついて、その肉をかじり取って食べながら成長するのです。これが“トゲウオ”です。“トゲウオ”の父性愛は驚くべきものです。自分の命を懸けて子を孵化させ、自分の肉で子たちを成長させてあげるのです。

神様が、私たちのためにいのちまで与えてくださったのは、私たちを愛するからでありました。父母が子どもを愛する、それ以上の愛をもって、私たちの苦しみに神様が同参してくださったのは、神様のその何物をもっても断ち切ることのできない愛のゆえであるのです。“トゲウオ”という淡水魚も、子のために命を捨てるのですが、神様は、神様のかたちに似るように造られた人生のために、その御子イエス様のいのちを捨てるようになさったのです。




第三、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし」

第3番目に、聖書は、「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらした。」と記録しています。「懲らしめ」とは、間違ったことをしたことに対する代価として苦しみを受けることを言います。私たちが会社から懲らしめられたら、月給が削減されたり、職位が低くなることもあり、甚だしい時には追い出されることもあるのです。間違ったことを仕出かしたら、懲らしめられます。イエス様の33年間の地上での生活は、人間の為に懲らしめられる生活でありました。

王の王であり、主の主であられるお方がイエス様です。父なる神様の御心に従って、天地を造られたお方がイエス様なのです。天国と天使たちがみな、その前にひざまずいて伏し拝みました。そのイエス様が乙女マリヤのからだを通して、人間としてこの世に来られ、人間として33年間生活された、と言うことは言うに言えない苦しみであり、悲しみでありました。

イエス様の生活自体が、「懲らしめられる」ことでありました。神様は、イエス様を懲らしめることによって、追い出された人生たちをイエス様を通して、元の神様のふところに戻ってくることができる道を拓くためにそのようになさったのです。「ピリピ人への手紙 2章 8節」に、『キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』と記録されています。

アダムがエデンの園から追い出された後に作った世の中は、呪われた世の中でありました。イエス様は呪われた世の中を全部引き寄せ、抱いてくださって、呪いを清算してくださり、この世に神様の御国が臨むようになさるために来られたのです。「マルコの福音書 10章45節」に、『人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。』と記録されているのです。

十字架を肩に担いで、ゴルゴタに向かって行かれるイエス様のみすぼらしい姿、そして、神様から見捨てられて十字架に架けられているイエス様の姿を思ってみてください。神様の御子です。神様なのです。その方がなぜ、そのようにみすぼらしくなられて十字架を担ぎ、凄惨なまでに血みどろになられて、人たちから指さされ、唾を吐きかけられ、ローマの軍人たちから殴られ、鞭に打たれながら、十字架を引きずってゴルゴタの丘の上に上って行かれたのでしょうか...。

私たちのために、懲らしめられたのです。私たちのために、神様から罰を受けられたのです。主が十字架に釘付けになられた時、「マルコの福音書15章34節」をご覧ください。『そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。』と記録されています。

主イエス様は、創世以後、神様と分離されたことがありません。いつも御父と御子は、共におられました。ところが、肉を着て来られた後、十字架に釘付けられた時には、神様が背を向けられました。見捨てられると言うことは、いかに苦しいことか分かりません。特に、凄く愛する人から見捨てられる時、その苦しみは筆舌では言い尽くせないものです。イエス様は、十字架に釘付けられて苦しみに会う時に、神様から見捨てられてしまわれました。

全人類の罪をすべて背負って、到底神様が目を開いて見るに忍びない罪人となって、十字架に架けられている、そのイエス様...。神様が御怒りの審きをなさる時、神様は背を向けてしまわれたのです。イエス様には、絶望でありました。神様から見捨てられ、愛する弟子たちから見捨てられ、全人類からも見捨てられて、サタンの歓喜の中で十字架に架けられている時、主は、その極限の状況の中で叫ばれました。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか...!」

聖書を見ますと、イエス様が、神様を神様とは呼ばれませんでした。いつも「父」と呼ばれました。ところが、十字架での極限の苦しみの時には、「父」と呼ぶことができませんでした。見捨てられたのですから、もう「父」ではなかったのです。厳格な「審き主」です。主は、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と慟哭しながら呼ばわるしかなかったのです。

多くの人たちが、十字架の処刑を単純に、木に人を釘付けにするものだとしか思いません。しかし、今までの研究結果によりますと、十字架に釘付けにすることは、最後の順序としてすることであって、十字架の刑を言い渡されたら、その刑罰は恐ろしい鞭打ちから始まるそうです。その上に、当時使用した鞭の端には鉛とか、動物の骨などが付けられていて、1回打たれたらそれが肉の中に食い込んで肉が裂かれ、骨にも傷つける程であると言います。また、その苦痛もこれまた酷くて、その当時には鞭で打たれることだけで即死する罪人が多かったと記録されています。

それだけではありません。お天気が暑かったので、鞭に打たれて裂かれた傷は直ぐに膿み出し、炎症を起こし始めて、罪人の体には火のような熱が生じたと言われます。どんなに苦しいことでしょうか。その苦痛は表現できないものだそうです。その状態で、自分が釘付けにされる2メートル相当の重い十字架を担ぎ、引きずりながら刑場まで行くのです。そうしてから、十字架の刑が執行されるのですが、この十字架の刑の苦しみは私たちが想像もすることができないものなのです。

“ケンバス大学”の解剖学教授である‘ハワード・ネツキー’教授は、十字架の処刑の苦痛を医学的に分析して、次のように発表しました。「体重が両手を貫いている釘にかかるので、肉が引き裂かれ、多くの血を流し、その疼痛は罪人をすぐに気絶させる程のものである。また、胸から腕にかけて筋肉が極度に引き伸ばされ、呼吸障害を起こして息苦しくなる。筋肉が動いてくれてこそ呼吸をすることができるのだが、吊るされているので呼吸が困難になり、酸素不足で全身に痙攣を起こすようになる。罪人がこの症状を少しでも緩和させようとして体を上に持ち上げようとしたら、その時ごとに体重が足の甲を貫いている釘にかかるので、その苦痛はさらに加重される...。」

私たちの主イエス様は、この苦しみを6時間も耐えられました。午前9時に十字架に釘付けられ、10時、11時、12時...、そして12時に、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」と叫ばれてから、1時、2時、3時まで、十字架に架けられておられたのです。主が、「完了した!」と宣言されるまで、6時間のあいだ、人間としては極限以上の苦しい目に会われたのです。

私は、いつか祈っている最中に、イエス様の十字架に釘付けられておられる御姿を見たことがあります。祈っている中で、突然余りにも悲しくなって私が声を出して泣きました。泣いているのに幻を通して、ガルバリの十字架に釘付けになられているイエス様の御姿を見るようになりました。ローマ軍人たちが大声で喚き、軍馬が駆け回っており、槍や剣があちこちでひらめき、人たちがイエス様に向かって指さしながら悪口雑言を欲しいままにし、イエス様は十字架に架けられておられました。ひどく孤独に見えました。

その御姿は、余りにも凄絶なので見つめることができませんでした。ところが、天を背景にして賛美の歌が聞こえました。“いかに苦しいか、十字架の手足、罪もないのに、イエスは十字架に、地をも空をも、草木も泣いて、太陽もうしない、光は消えた。アア、たえない主の、愛とわに。アア、ときわに、救いの川、流れる...。”私は、本当に感激してしまいました。私は一群の人たちの傍に立って、果てしなく泣きました。そこには、一団の女性たちが集まって、恥ずかしいことも知らずに声を張り上げて泣いていました。イエス様について来た女性たちでありました。私もその中に混じって、大声を出して泣きました。そして、自分の泣き声に驚いて幻から目が覚めました。

それで、急いで記憶をたどりながら書いたのが、こんにち、私たちが賛美する「ゴルゴタの丘」と題した福音聖歌です。皆さん、「1節」だけ、一緒に賛美しましょう。

「いかに苦しいか、十字架の手足、罪もないのに、イエスは十字架に、地をも空をも、草木も泣いて、太陽もうしない、光は消えた。アア、たえない主の、愛とわに。アア、ときわに、救いの川、流れる。」

皆さん、イエス様は既に、無残な殴打と鞭打ちに完全に参った状態で十字架に架けられ、吊るされておられました。呼吸困難と過大な出血、瞬間瞬間絶え間なく襲う極度の苦痛の中で、死んで行かれました。私たちが受けるべき懲らしめを代わりに受けられながら、死なれるまで私たちを愛してくださったのです。愛とは何でしょうか。愛は、証明されなければならないのです。口先だけで美辞麗句を並べ、詩的に表現する愛が、愛なのではありません。証明されなければならないのです。イエス様は十字架の上で、私たちを如何に愛しているかを克明に証明してくださいました。

私は、このような話しを読んだことがあります。ある田舎に、裕福な家庭がありました。夫は、朝早く働きに出かけてからは、夕暮れが過ぎるまで働き、遅く帰って来ました。生活に余裕はありましたが、奥さんは孤独でありました。夫が、自分をもう愛さないのだ、私はもう必要がない人間になったのだ、と思い、憂鬱で悲しい日々を暮らしました。生きて行きたい意欲がだんだんと薄れていきました。

その結果、盲腸炎になり、痛いのにもそのまま我慢して、自分の生を放棄しました。盲腸炎が悪化して腹膜炎を起こしました。田舎の病院に背負って行きましたが、既に「時遅し」と診断されました。それでも、結果が不安ではありましたが、手術してもらいました。今度は、血が不足だと言われました。血液不足で死ぬかも知れない、と言われました。夫は慌てましたが、それでも...と言うことになって、夫の血液を検査してみたところ、血液型が奥さんのと一致しました。

それで、血液不足で昏睡状態の奥さんの傍に横たわって、夫の血液を奥さんの血管に流し込み始めました。プラスチック管を通して、夫の血液が奥さんの血管に流れ込むのが目に見えました。夫は、手を握ったり開いたりしながら奥さんの表情を注視していました。暫くの間、夫の血液が奥さんの体の中に流れ込み、奥さんが意識を回復し始めました。

奥さんの目に、傍に横になっている夫が見え、その夫の腕からプラスチック管を通して、夫の鮮血が自分の血管に流れ込んでいるのが見えました。奥さんは感激しました。「あー、私が誤解していたのだ。夫が私には、もう無関心で、愛してくれるどころか、私をもう捨てたのだと思っていたのに、私が間違っていたのだ。私が死にそうになったので、夫は自分の血液まで私に分けてくれているのだ。私の主人は、私を愛していたのだ...!」

奥さんは、健康を取り戻したくなりました。夫に、献身的に仕えてあげたくなりました。彼女は新しい意欲に駆られました。それで、肯定的な思考の人になり、勇気を得て難関を乗り越え、元気になって、夫を心から愛するようになり、立派な家庭主婦になった、と言います。

彼女が、日常において夫を憎み、恨みもし、夫が自分を愛さないのだと挫折していましたが、自分が死の境をさ迷う時、夫が直接、血液を腕から抜いて自分に供給してくれるのを見た時、殊更なる夫の愛を確認したのです。愛は、体験することができなければなりません。愛は、証明されなければならないのです。

イエス様は、このような懲らしめを通して人間の反逆の罪を清算なさり、人間と神様との間に和解と平和をもたらしてくださったのですから、イエス様は本当に人類を愛した、と言うことを証明なさったのです。罪を犯し、不義で、醜悪なので見捨てられて当然であり、千万回審きを受けて然るべき私たちのために、主は、神様の御前で人類に代わって懲らしめられ、すべての人類の罪悪を清算なさり、その尊い血潮でカーペットを敷いてくださり、神様の御座の前に私たちが皆、行くことができるようにしてくださったのです。

「コリント人への手紙 第二 5章21節」に、『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』と記録されているのです。また「ヨハネの手紙 第一 2章 2節」には、『この方こそ、私たちの罪のための、――私たちの罪だけでなく全世界のための、――なだめの供え物なのです。』と記録されています。

主イエス様は、私たちのための「なだめの供え物」になってくださったのです。私たちは罪を犯し、不義と醜悪で見捨てられて然るべき存在でありますけれども、イエス・キリストを通して父なる神様の前に出て行ったら、神様は無条件的に私たちの罪を赦してくださり、私たちを義としてくださり、両手を伸ばして私たちを抱いてくださり、子どもとしてくださり、神様の霊である聖霊を注いでくださるのです。

これは、如何に驚くべきお恵みか分かりません。これは、権力によっても、能力によってもできないことです。私たちの善なる行動とか、苦行によっても絶対にできないことです。私たちの主イエス・キリストの十字架の苦難を通してだけ、私たちは神様の前に出て行くことができるようになったのです。

聖書は、「彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」と記録しているのです。主の犠牲が、私たちに如何に大きな神様のお恵みなのか、記憶しなければなりません。

「イザヤ書 53章 7節〜8節」に、『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。 しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。』と記録されています。

2,000年前に、パレスタインのある僻地でローマ総督ピラトから裁判を受け、処刑されたイエス様の苦難のまことの意味を人たちは余りにも理解することができない、として聖書は嘆いているのです。イエス様の苦難は、当然のことながら、刑罰を受けて地獄で滅亡されなければならない私たちの罪の故であることを知らなければなりません。

これからは、イエス様を私たちの救い主として、神様として迎え入れ、救いを受けて、キリストのお恵みで永遠に、神様と共に天国で生きる皆さんとなりますよう、主の御名によってお祈り申し上げます。




お祈り

無限なる愛であられ、聖き、われ等の父なる神様!

私たちは滅亡されなければならない、罪悪の子たちです。神様の怒りをかって、永遠に地獄の炎の池に落ち込まなければならない私たちに代わって、イエス様が筆舌では表現することができない苦しみに会われ、私たちの罪をすべて清算してくださったことに心から感謝申し上げます。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行ったのですが、私たちの罪を主イエス様が代わりに担ってくださり、清算してくださいましたので、もう誰でも、イエス様を信じたら滅亡されず、永遠の命を得るようにしてくださったことに、再三、心から感謝申し上げます。

私たちの父なる神様!

イエス様を救い主として迎え入れ、苦難を通して私たちを救ってくださったキリストのお恵みに感謝し、神様を心から賛美し、主のお恵みの中で今から永遠に、主と共に生きる私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!