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「私たちを解放してくださるイエス様」
 






■聖書箇所

「ガラテヤ人への手紙 5章 1節」
5: 1 キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『私たちを解放してくださるイエス様』と言う題目で、御言葉を分かち合いたいと思います。

私は先週、バージニアにある大学校に行って講義をし、セミナーを導くことになりました。私はそこの「ハウンド・イン」と言うホテルに泊まっていました。そのホテルのベル・ボーイは黒人で、年は45歳程度でありました。そのベル・ボーイはとても柔和で、親切で、顔にはいつも笑みを浮かべており、顔色の良い人でありました。

そこの集会に参加しているたくさんの牧師先生たちが、私と朝食を一緒にしたい、昼食を共にして欲しい、夕食を一緒にしたいのだが…、とひっきりなしに誘うのでとても辛い思いをしました。それで或る日の昼、今日の昼飯はどこかで静かにひとりで食べよう…と心に決めて、ひそかにその黒人のベル・ボーイを呼んで「この付近にベトナム食堂がありますね。そこに行って食事をしたいんですが、案内していただけるでしょうか…?」と頼みました。

彼は快く承知してくれて、ホテルの自動車を運転して来て私を乗せてくれました。そしてベトナム食堂に向けて走り出しました。私の記憶では、そのベトナム食堂はホテルからそんなに遠くない所にあったのですが、彼は道を間違えて高速道路に上り、とんでもない遠くにあるタイ人経営の食堂の前に私を降ろしてくれました。その自動車がいったんホテルに戻り、それから又私を乗せてくれるために、そこまで来るということは時間的にも困難であり、昼食時間も少なからず過ぎていたので、「私と一緒に、ここで食事をしましょう。」と彼を誘って食堂に入り、一緒にそこで食事をしました。

ところが、食事をしながらその黒人のベル・ボーイが涙を流すのでありました。「あんた、なぜ泣くんですか?」と、驚いて私が訊きました。すると彼は、「牧師さん、こんな奇蹟がまたとどこにあるでしょうか?私みたいな人間が、有名な牧師先生と食事を一緒にするということは夢にも知らなかったことです…。」そして、彼は次のように話しました。

彼は2年前に、私が書いた「祈祷」に関する本を読んだと言いました。その本を読みながら感動して、彼は神様に祈ったと言います。「主である神様!私も趙繩(チョー・ヨンギ)牧師に1回お会いして、食事でも一緒にすることができるようしてください…。」そのように祈りながらも、彼は、自分のように名もない黒人を、どうして趙先生が一緒に食事をしてくださるだろうか、と自分自身を嘲笑ったと言いました。

今回、見ると、たくさんの牧師先生たちが互いに先を争うように趙先生と食事を一緒にしようと騒いでいるのに、まして自分にその幸運が回って来ようとは露も思わなかったと言います。ところが今日、このように、趙先生と向かい合って一緒に食事をするようになりました。これは、まさしく神様が私の祈りに答えてくださったのだと悟り、感謝、感激して、つい涙がこぼれました、と言うのでありました。

その話を聞いて、私も非常に感動しました。誰にも会わずに、ひとりで静かに食事がしたかったのですが、神様がこの黒人をして道を間違えるようになさり、ついには彼と一緒に食事をするようになさったことを思うとき、神様がこの人の祈りを本当に聞き叶えてくださったのだと言うことを私も悟りました。黒人のベル・ボーイの名前は「ブラウン・レドック」さんでしたが、彼は、次のように証しをしてくれました。

私は、ご承知の通り黒ん坊の家庭で生まれました。私の親父が、私が幼いときに母を捨てて離婚したお蔭で、私はお母さんの手一つで育てられながら、充分に学校教育も受けることができず、子どものときから習ったのが盗みでした。10代の半ばからは私はギャング団の一員となり、銃器を持参して、盗賊たちが手に入れた金品を奪い取る仕事をしました。盗賊たちが「盗んで来た」と言う情報を入手したら、その盗賊たちを襲って盗品をまた奪い取る働きをしたのです。または、麻薬商人たちが麻薬を大量に入手したとの情報が入ったら、その麻薬商人たちを攻撃して麻薬を奪取もしました。

いつも恐ろしい銃撃戦が展開されました。それで私は、何回も刑務所にぶち込まれたり、釈放されたりしました。そうする間に、私が属しているギャング団が一人ふたり銃に撃たれて死んで行き、ついには全滅してしまいました。私一人だけが残ったのです。いくつかの暴力団が一人になった私を狙い始めました。そのことを知った母が、「ニュージャージーにいるお父さんの所へ逃げて行って、そこに隠れていなさい…。」と言うので、私は親父の所に逃げて行きました。

私の親父は、そのとき4番目の女と暮らしていました。私はその家に隠れて過ごしました。そうした或る日、親父の4番目の奥さんが、「教会に一緒に行きませんか…。」と、私を誘いました。その婦人は熱烈なクリスチャンでありました。私は、「私のような人間が…、教会には行けませんよ。私は神様とは関係もなく、信じもしませんからね。」と断りました。

すると、彼女は、「いや、あなたにイエスを信じなさいとして教会に行きましょうと言うのではありません。私の行く教会にきれいで可愛い娘さんがいるの。この娘さんをあんたに紹介したいので教会に一緒に行きましょうと言ったのよ。イエスを信じなさいとは言わんわ。」と言うのでありました。「そうですか?本当に、きれいな処女を紹介してくれるんですね?」「勿論よ…!」それでその日、その娘さんに会いに教会に行ったのですが、娘さんには会えず、イエス様に会うようになってしまったんです。

私は、その日、牧師先生の説教に深く感動されて、涙を流しながらイエス様を救い主として受け入れました。礼拝が終わった後、牧師先生が私に近づいて来られて、「主の子よ。あんたは険しい生活をして来ましたね。聖霊さまを信じて、聖霊充満に与るようになりなさい。そうしたら、聖霊さまがあなたの一生を変化させてくださいます…。」と言われました。それで、私は聖霊が何なのかも知らないまま、「聖霊充満になりたいです。聖霊をください…。」と、呼ばわりました。全身が熱くなって来ました。汗がぽろぽろと流れ出しました。そのとき、聖霊が臨まれて異言を話すようになり、私は変化されました。

彼は、食事することも忘れて語り続けました。「私は、その間麻薬を吸う、飲む、注射を打つ…で、麻薬の恍惚境に溺れて生きて参りましたが、聖霊に満たされて見ますと、聖霊が与えてくれる平安と喜びは麻薬とは比較にならないものがありました。私はイエス・キリストによつてはっきりと変化されてしまいました。性格も変化され、心も変化され、麻薬中毒からも完全に解放されました。こんなに変化された私は、そこで神学校に入って勉強しました…。

神学校を終えてから、私はもとの家に帰って来ました。そして、盗みを働き麻薬に中毒されかけている黒ん坊の青少年たちを中心に伝道をし始めました。今は教会も小さいですが開拓しました。昼はホテルで働き、夜は教会に行って牧会しています…。」

私は、彼のために熱く祈って上げました。食堂を出て、自動車でホテルに戻る途中、彼は賛美を歌い始めました。彼は凄く陽気になっていました。彼の賛美はプロそこのけの上手さでありましたので、私は舌を巻いて驚きました。彼は黒人の貧民窟で生まれ、教育も別に受けておらず、強盗は働き、麻薬にも中毒していた、人間のくずのような存在でありました。ところが、イエス様に出会ってからは全く変化されて、凶悪であった彼が今は、神に従順に聞き従いながら福音を宣べ伝え、自分より環境が悪い貧しい人たちにイエス・キリストを証しする主のしもべとなったのです。

そこで私は、私たちを解放させてくださるイエス様を見せ付けられたような気がしました。その人にあっては、イエス・キリストは宗教ではありませんでした。哲学でもありませんでした。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも同じ私たちの主であられます。イエス・キリストは今も生きておられて、人のたましいと肉と生活を変化させる偉大な救い主であられることを、私は事新しく悟って、感激しました。

皆さん、イエス様がこんにち、私たちを訪れてくださったらどのようなことをなさるでしょうか? 私たちがイエス様にお会いしたら、果して「ブラウン・レドック」さんのように、本当にイエス・キリストによって解放と自由を享受しながら生きていくことができるでしょうか? 聖書は「ガラテヤ人への手紙 5章 1節」に、『キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。』と記録しています。




第一、罪の力とその結果からの解放

第1番目に、私たちの主は、罪の力とその結果から私たちを解放させてくださいます。人間は、母の胎の中に懐妊されるときに既に罪人として懐妊され、生まれるときから罪人として生まれ出ます。ある若い聖徒さんが私のところに来て、激しく抗議したことがありました。「牧師先生、なぜ私が犯していない罪の責任を負わなければならないのですか? アダムが罪を犯したなら、アダムがその罪の責任を負わなければならないのす。アダムの子孫だとして、私がアダムの罪の責任を負うということはもってのほかです。それは間違いです…。」

それで、私がその青年に言いました。「間違いだろうが、そうでないだろうが、事実がそうなのをどうしますか。考えてご覧なさい。豆を蒔いた所には豆が生え、小豆を蒔いた所には小豆が生えるのです。アダムを蒔いたのですから、アダムが生えるのは当然の理です。アダムを蒔いたのに、イエス様が生える訳はないじゃありませんか。アダムが原罪を犯して、神様から捨てられた状態で私たちの祖先となりましたから、私たちはみんな捨てられた所から生まれ、原罪をもっているのです。」

皆さん、私たちは母の腹の中に既に罪人として懐妊され、生まれるときから罪人なのです。聖書「ローマ人への手紙 5章15節」を見ますと、『ただし、恵みには違反のばあいとは違う点があります。もしひとりの違反によって多くの人が死んだとすれば、それにもまして、神の恵みとひとりの人イエス・キリストの恵みによる賜物とは、多くの人々に満ちあふれるのです。』と記録されています。ひとりの人・アダムが罪を犯したので、その子孫もみんな罪の死の罠にかかってこの世に生まれ出るのです

ですから、私たちが不平を言ってもほかに道理がないのです。「私は法がなくても生きて行けます。」「私は善良な人なのです。」「イエスを信じなくても私は救われます…。」と言う人がいますが、愚かな話しです。その人がいくら「法がなくても生きて行ける人」であっても、いくら「善良な人」であっても、アダムから生まれ出た人はアダムの子孫なのです。その人は「原罪」を背負って生まれ出たのですから、既に死に縛られて生まれ出たのです。従って、主を信じず救われずにそのまま生きては、永遠の滅亡に落ち込んでしまうのです。

人間は、いくら善良であっても、肉から出たのですから肉なのです。人が水と聖霊によって新しく生まれなければ、絶対に天の御国を見ることはできません。それだけではありません。人たちはたくさんの「自犯罪」を犯しました。原罪によって私たちは罪の捕虜となっているだけではなく、この世を生きながら自犯罪を犯しているのです。不義を犯し、嘘を言い、強盗も働き、姦通もし、放蕩し、貪欲である…など、あらゆる罪をみな犯しました。

「エペソ人への手紙 2章 1節〜2節」を見ますと、『あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』と記録されています。人たちは罪・咎がどんなに多いか知れません。人間は原罪と自犯罪によって徹底的に死にました。人間は自らどのような倫理と道徳的な善い行いをしても永遠に生きることはできません。どのような宗教を信じても永遠に生きることはできないのです。

ひとえに、私たちに代わって原罪と自犯罪を背負って罪に問われ、十字架の上で身を裂き血を流して、私たちの罪を贖ってくださることのできる方は、天下にイエス様しかおられないのです。ほかの方たちは立派な宗教をもたらしました。道徳をもたらしました。しかし、私たちの罪を贖ってくださるためにさばかれて、身を裂き血を流して死なれたのはイエス様しかおられないのです。

「使徒の働き 4章12節」に、『この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。』と記されています。また、イエス様が言われました。『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネの福音書 14章 6節)ですから、今日、イエス・キリストを救い主として信じたら、キリストの血潮によって私たちの原罪が赦され、数多い自犯罪が洗い去られて、私たちは罪の定めから解放されるようになるのです。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」を見ますと、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記録されています。

「ブラウン・レドック」さんのように凶悪で悪逆無道な犯罪人もイエス様に会ったので、その血潮によって原罪とすべての自犯罪から洗い聖められて、麻薬中毒からも解放され、まことの自由を得たので、羊のように温順で善良な人となり、多くの人たちに福音を伝え、彼らのために祈る人となり、彼らを罪から救い出そうと努力する人になったのです。

こんにち、私たちを本当に変化させることのできる方はイエス・キリストしかいないのです。




第二、憎しみの束縛から解放

第2番目に、イエス・キリストは私たちを憎しみの束縛から解放させてくださいます。この世のすべての人たちは、生まれるときから心の中に憎しみを持って生まれます。この世でもっとも恐ろしい害毒が憎しみです。この憎しみによって兄弟の仲が割れます。父母と子どもが仲違いし、隣人との間に紛争が起こり、国と国が対立し、世界が互いに噛み合い、争い合うようになるのです。この憎しみを解決することのできる方はイエス様しかありません。

イエス様が十字架の上で祈られた内容を私たちは覚えています。その内容はあきれ返るほどです。敵たちがイエス様を捕らえて顔につばきをかけ、拳で殴りつけ、平手で打ち、いばらの冠を頭にかぶらせ、葦で頭をたたき、鞭で無数に打ち、十字架に釘付けにしてからは頭を振りながら罵りました。そして嘲りました。

そのとき、イエス様はどうなさったでしょうか。「ルカの福音書 23章33節〜34節」を見ますと、『「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。』と記録されています。

イエス様は、ご自分を侮辱し、十字架に釘付けにして殺そうとする敵たちを呪うとか、罪に定めることをなさいませんでした。彼らへの憎しみを主は、愛を持って克服なさり、却って彼らのために祝福してくださいました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです…。」ご自分を今、凄惨に殺そうとしている人たちのために、主は却って赦しを乞われました。それは、キリストが愛によって憎しみを克服なさった偉大なみわざを起こされたのです。

それでこんにち、イエス・キリストのうちにあってだけ憎しみを克服することのできる力が生じるのです。イエス様の外で、いくら修養し道徳を磨いても、憎しみを克服することのできる力は生じません。しかし、イエス様が私たちの中に入って来られたら、私たちはイエス様と手に手を取り合って、ご自分を殺そうとする敵たちを赦し祝福して上げられた、その偉大な愛の御力によって私たちが憎い相手を愛することができ、私たちが憎い相手のために祈ることができるようになるのです。

私がアメリカで、有名なバプテスマ教会の「スタンリー」牧師先生が説教なさるのをTVを通して視聴しました。「スタンリー」牧師先生にひとりの憎い相手がいました。直接に会って話し合うと、互いに言い合い、争う結果しか得られないので、実際に椅子を一つ目の前に持って来て置いて、そこに憎い相手が坐っていて、ご自分を見つめているのだ想像しながら、彼に向かって話しかけた、と言うのです。

「おい、君。私があんたをそんなに愛し、色々とあんたの要求を聞き入れて上げたのに、私にこんなに報いるって法があるか?あんたは詐欺師じゃないか?私をこんなに苦しめるとは何事だ?あんたは悪い人じゃないか…?あんたみたいな人間は罰を受けなければならん。刑務所にぶち込まれなきゃならん…。恩を仇で返す人間がどこにいる…悪い人間だ、あんたは。」

それから先生は継続して、彼に向かって言ったそうです。「しかし私は、イエス・キリストの血潮によって、あんたを赦して上げる。だから今日以後からは、あんたをもう憎まない。私はあんたを赦す…。」そう言ってから、「主よ。感謝します!」と祈り、そして立ち上がったら、相手に対する憎しみがきれいに解消されてしまう、と言うのでありました。

それで、その後、その相手に実際に会っても、既にご自分が相手を目の前の椅子に腰掛けさせて叱ったし、赦して上げたので、心に憎しみがないので彼と握手をし、「元気か?神様が祝福してくださいますよう、祈るよ!」と言うことができると言うのでありました。それを聞いて、私は強く感動しました。

その後、私も椅子を一つ、目の前に持って来て置いて、想像の中で或る憎い人をそこに坐らせてから、思う存分に悪口を言い、叱りつけました。「悪い奴、お前みたいな人間は生きる価値がない。どうして人間が、そんなに悪いことをするんだ。愛を仇で返すのは人間じゃない。お前みたいな人間は、本当に殴りつけてやりたい…。」

言いたい放題きめつけてから、その後に私は言いました。「しかし、あなたをイエス様の血潮によって赦す!これからはもう、私はあなたを怨んだり、憎んだりしない。帰りなさい。」そのように、憎い人を一人ひとり、椅子に坐らせて叱り、赦して上げて帰らせてからは、私の心の中がどんなに爽快になったか知れません。

こんにち、憎しみを克服した方はイエス様しかおられませんから、「スタンリー」牧師先生が言われたように皆さんも、憎い人がいたら今日家に帰られて、椅子を一つ前に置いてそこに憎い相手を想像の中で坐らせてから、目をつぶって、言いたい放題に悪口も言い、叱り飛ばしもしてご覧ください。実際に相手に面と向かって悪口を言ったら相手が拳を握って飛び掛って来るでしょうから、そうはせずに、想像の中で悪口を嫌になるほど言い、殴って上げ、そうした後にイエス様の血潮によって赦して上げてください。

そうしたら、その後からは相手の人に会っても憎くはなく、赦しの主のみわざが働いてくださって効果が生じるのです。




第三、どん欲からの解放

第3番目に、私たちは、イエス・キリストによってどん欲から解放されることができます。悪魔が使用するもっとも恐い武器がどん欲です。前のロ・テウ大統領をご覧ください。この世の中で一国の大統領までしたのですから、それで満足すべきだったのです。一生一代の大統領という権力と名誉を手に握ったのですから、それ以上は望まないのが当然です。ところが彼は、何千億ウォンと言う莫大なお金を隠し持っていたと言います。私は考えれば考えるほど呆れてものが言えません。この人は大統領を勤めたのではなく、その間強盗を働いたのです。

何故、このようになるのでしょうか?どん欲に目がくらんだからです。人は、分際をわきまえずにそれを飛び越えると欲望が生じ、それで不義を行なうようになり、平気で嘘をつくようになり、習慣的に人を騙すようになります。

アダムとエバは、エデンの園で何一つ不足がない素晴らしい環境の中に置かれていました。ところがどん欲が入って来るや、神様のようになろうとする間違った思いを抱くようになりました。それで、神様が堅く禁じられた善悪の木の実を取って食べてしまいました。その結果はエデンからの追放でありました。その事に味を占めた悪魔が、神様の御子イエス様も堕落させようとして、どん欲で誘惑しました。

しかしイエス様は、どん欲に目がくらむようなお方ではありませんでした。四十日四十夜断食したあと空腹を感じておられたイエス様に、悪魔が「あなたが神の子なら、この石がパンになるようにして食べなさい。」と誘惑しました。それに対してイエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉による。」と、断固として拒絶なさいました。

その次に悪魔は、神殿の頂きにイエス様を立たせてから言いました。「あなたが神の子なら、下に身を投げて安全に着地してみなさい。そうしたらあなたは天下の人々から素晴らしい人気者になるでしょうから。」そのときも、イエス様は「あなたの神である主を試みてはならない、とも書いてある。」と言われて、きっぱりと拒否なさいました。

それからまた、悪魔が「もしひれ伏して私を拝むなら、この世のすべての国々とその栄華をあなたに差し上げましょう。」と誘惑しました。そのときもイエス様は、「引き下がれ、サタン。あなたの神である主を拝み、主だけに仕えよ、と書いてある。」と言われて、断固として悪魔の誘惑を退けられました。

どん欲が偶像崇拝です。どん欲に溺れたら、人間は悲惨な境遇に落ち込んでしまうのです。皆さん、人間を破滅するようにする罪は、道徳的堕落と、不正腐敗と、どん欲です。人が道徳的に堕落して淫乱・放蕩するようになったら、個人も家庭も国家もみな崩れてしまうのです。皆さん、ソドムとゴモラが道徳的な堕落の故に火と硫黄によって焼かれて消え去ってしまったではありませんか。ローマのもっとも発達した都市ポンペイは道徳的な堕落によって火山が爆発し、その火山灰に埋没してしまったではありませんか。道徳的な堕落は、個人や社会や国家を破滅させるのです。

また不正腐敗は、人たちが互いに不信し合うようにし、それで気落ちするようにして、おのずとバベル塔のように崩れるようにします。どん欲は人間が嘘つきになるようにします。どん欲が入って来ると、人は自分の分際を飛び越えた欲望を持つようになり、不正を犯し、嘘をつき、騙し、人間を人間以下にしてしまうのです。

「テモテへの手紙 第一 6章 6節〜10節」を見ますと、『 しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。 私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。 衣食があれば、それで満足すべきです。 金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。 金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。』と記録されています。

ですから私たちは、どん欲が偶像崇拝であることを知って、神様に仕え、神様の御心通りに暮らさなければなりません。そうしたら、神様が私たちに祝福してくださる通りに暮らすようになるのです。貪欲を捨ててこそ、私たちは真実な心、平安な心で人生を生きて行くことができるのです。




第四、絶望の鎖を断ち切る希望

第4番目に、私たちの主イエス・キリストの前に出て来たら、主は絶望の鎖を断ち切って私たちに希望を与えてくださいます。皆さん、人間にもたらされた絶対絶望は死です。死よりもそれ以上の絶対絶望はありません。

私たちの主イエス様は、十字架の上に釘付けにされ、身を裂き血を流されながら、もっとも痛く苦しい死を迎えられました。イエス様は死なれてから死の谷を通られ、三日目に死と陰府(黄泉)にすべて勝たれてよみがえられたのです。

それで「コリント人への手紙 第一 15章20節〜22節」に、『 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。』と記録されているのです。

イエス様が親しく死の谷を通られてからよみがえられたので、これからは私たち一人ひとりが死んで死の谷を通るとき、イエス様を信じる人はイエス様の御手を取って通るようになりますので、恐くないのです。イエス様は言われます。わたしが既にこの谷を通りました。この谷にわたしがすべて勝ってしまい、征服してしまいました。わたしに拠り頼みなさい。死は絶対にあなたに害を及ぼすことができません。わたしが、あなたと共にいます。わたしが既に死の谷を通って経験し、克服したので、あなたは少しも苦しみに会うことはありません。わたしに拠り頼みなさい…。

従って、私たちはイエス様と共に死の目に会うときも、絶対絶望のその瞬間にも、このように言うことができます。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」と。

絶対絶望の死の鎖をイエス様が断ち切られて、私たちに解放と自由を与えてくださったのです。そして私たちの主は、それだけではなく、私たちの暮らしにあって、すべての良いこと、すべての悪いことを通して、すべてが私たちの益となるようにしてくださるのです。

ヨセフをご覧ください。ヨセフは兄さんたちの手によって売り飛ばされて、エジプトで10年間以上を奴隷生活し、監獄にもぶち込まれたあげくに、後には国務総理大臣になって、兄さんたちを皆エジプトに呼び入れて食べさせ、生きて行けるようにしました。父親が死ぬや、兄さんたちはヨセフが報復するかも知れないと恐れて、ヨセフの前にひざまずいたとき、ヨセフは言いました。「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それは今日のようにして、多くの人々を生かしておくためでした…。」

皆さん、私たちがイエス・キリストのうちにいたら、良いことだけを主が良いようにしてくださるだけでなく、私たちに迫って来る悪いことまでも、主はすべてを働かせて益としてくださるのです。「ローマ人への手紙 8章28節」に、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』と記録されています。

イエス様を信じ、神様に従順に聞き従い、主に仕えながら暮らす人は、この世を生きて行きながら、成功したときにも感謝し、失敗したときにも感謝しなければならないのです。良いことがあるときにも感謝し、悪いことがあるときにも感謝しなければならないのです。なぜ?神様がすべてを働かせて益としてくださるからです。

どのような絶望の鎖も、私たちの主キリストによって断ち切られてしまいます。主イエス様を信じる人たちは、真実な意味においてまことの自由を得た人たちであり、解放を得た人たちであるからなのです。罪から、憎しみから、どん欲と絶望と死から、永遠に解放された人がまさにイエス・キリストを信じる人たちなのです。

キリストが私たちに自由を与えてくださいました。ですから信仰に堅く立って、またと奴隷のくびきを負わされてはなりません。私たちは奴隷のくびきをすべて脱ぎ捨てて、イエス様にあって、罪悪でない赦しと義を、そして憎しみでない赦しと愛を、また自分の分際をわきまえていつも神様に感謝する人生を生きて行かなければならないのです。そうすることによって、私たちは絶望から限りない希望を持って生きて行くことができるようになるのです。

「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」と言われたイエス様の「三重の祝福」が、イエス・キリストにあって私たちの生涯の中ですべて成就されるようになるのです。

皆さん、心をいっぱいに開いてイエス様を胸の中に迎え入れ、イエス様に全幅的に拠り頼み、キリストにあって自由を宣布してください。キリストにあって解放を宣布してください。私たちは奴隷ではなく、自由な人、解放された人としてキリストと共に永遠の天国まで行くことができるようになったのです。




お祈り

聖く、栄光であられる、我が父なる神様! こんにち、黒人牧師「ブラウン・レドック」先生のように、険悪な世の中で罪と悪霊と麻薬と凶悪な鎖に縛られているとしても、イエス様の中に入ったらすべて解放を得ることができると言う真理を悟りました。

イエス様が十字架の上で、「完了した!」と言われたとき、主が私たちのすべての犯罪と罪悪の負債を清算してしまわれ、私たちに解放と自由を与えて下さってことに感謝申し上げます。

よみがえられたイエス様! まことの解放者であり、まことの自由を与えてくださったお方として、今日、聖霊の御力によって私たちの中に来ておられることを感謝申し上げます。

私たちは、イエス様を信じます。感謝します。賛美します。拠り頼みます。聖霊さまの御力によって、罪と死の鎖から私たちすべてを解放させてください。私たちが神様の栄光で満たされるようにしてください。天の御国が私たちの中に満ち溢れるようにしてください。

私たちが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康で、そして、いのちを得るにしても溢れるまでに得るように、キリストのみわざで私たちを祝福してください。

私たちの主・イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!