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「感謝の力」
 






■聖書箇所

「詩篇 103篇 1節〜5節」
103: 1 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。
103: 2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
103: 3 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、
103: 4 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、
103: 5 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。


 今日、私は皆さんとご一緒に『感謝の力』と言う題目でお恵みを分かち合いたいと思います。

 こんにち、私たちが教会で捧げる収穫感謝祭の起源は、大略こうです。1620年9月に、イギリスの保守的な清教徒(Puritans)102名が、イギリスの国教の甚だしい迫害を避け、信仰の自由を探して「メイ・フラワー」と言う小さな帆船に乗って難儀を極めた航海の末に、険しい大西洋を「九死に一生を得る」思いで渡って、12月にアメリカ新大陸の北側に上陸しました。

 しかし、彼らを待っていたのは酷烈な寒さと、飢えと、風土病でありました。結局、その年に半数以上の人たちがいのちを失いました。それでも残った人たちは、不屈の信仰と熱情で団結して、すべての試練を克服し、挫折しませんでした。

 翌年の春、彼らは教会を建て、友好的な原住民たちから穀物の種を得る一方、農作法を教わって地を耕し、1621年の秋には貴重な収穫を得るようになりました。それで彼らは、収穫した穀物と涙で神様に感謝のお供え物を捧げました。そして、その間協力してくれたインディアンたちを招いて三日間、収穫感謝の宴会を催しました。これが起源となって、アメリカの第16代大統領リンカーンがアメリカ全域に毎年の祝祭季節として公布し、今日に至るようになりました。

 ここで重要なのは、数多い苦難と逆境に会いながらも清教徒たちが落胆するとか、挫折するとかせず、怨むとか不平を言うとか嘆くとかもせずに、彼らが毎年、収穫した最初の穀物を感謝と賛美をもって敬虔に神様に捧げた「感謝の偉大な力」がどのようなものであったかを知ることです。そして私たちが確信するのは、彼らの信仰と溢れる感謝が神様の祝福を招いて、こんにちの、繁栄し、豊かなアメリカがあるようにした、と言う事実です。

 聖書に、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』(詩篇 50篇23節)と記録されています。皆さん、感謝が私たちの神様の御前にいかに香ばしい供え物となるのかを知らなければなりません。

 私たちの神様は、怨みとか不平とか嘆きに対して怒りを発せられます。イスラエルの民たちがエジプトから出て来て、乳と蜜の流れるカナンの地に向かって行くとき、途中の荒野で色々な逆境にぶっつかるや、彼らは神様に対して怨み、不平を呟き、嘆きもしました。そのとき神様は彼らに対して怒りを発せられました。結局には、神様が親しく導き出されたイスラエルの民は一人残らずみな荒野で滅亡されてしまいました。

 それは、神様が怨みと不平と嘆きをいかに憎まれたかを見せてくれる実例です。そして私たちは、敵悪魔が人たちをそそのかして絶え間なく怨み、不平を言い、嘆くようにすると言う事実を知らなければなりません。



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第一、私たちが感謝しなければならない理由

 一方、我が神様が喜ばれるのは、どのような逆境の中にいても神様を信じ、キリストに拠り頼み、環境に左右されず、心配、懸念を一切主に委ねて、感謝と賛美の礼拝を捧げることであることを悟らなければなりません。神様はこのような礼拝を受け入れられ、喜ばれ、神様の御力をこのような人たちに施す、と言われました。

 私たちは聖書に記録されている数々の事件を通して、良く知っています。パウロとシラスがピリピで福音を宣べ伝える途中、役人たちに捕らえられてひどい鞭打ちに会い、飢え疲れたまま、監獄の深い奥の牢に閉じ込められました。両手と両足には鉄の手かせ、足かせが掛けられました。彼らは打たれた所がうずき、痛みました。腹も空いていました。土牢の中の色々な虫がからだに這い上がって来て噛み回り、苦痛を与えました。

 それにも拘わらず二人は、怨むとか不平を呟くとか嘆くとかせずに、神様の前にひれ伏して祈り、真夜中ごろに感謝と賛美の礼拝を捧げました。そうするとき、神様がどんなに喜ばれたことか、その感謝と賛美の礼拝に拍子をあわせてピリピの監獄を神様の御力で土台から揺り動かされました。そうするや、監獄のとびらがたちまち全部開かれ、彼らの鉄の手かせ、足かせが解けてしまい、却って、ピリピ監獄の看守とその家族たちがみな救われる神様のみわざが起こりました。そしてピリピにイエス・キリストの教会を建てることができる機会を得るようになりました。

 皆さん、感謝することほど、神様に栄光をお帰しし、神様に喜んでいただき、神様を嬉しくして差し上げることができることは他にはありません。一方、怨み、不平を呟き、嘆くことほど、神様を怒らせ、神様を悲しくさせ、神様に苦痛を加えることは他にないのです。

 人たちは良く言います。「人間がどのようにして、いつも感謝ばかりしながら生きて行くことができますか…?」「この世には、感謝することができない条件がざらにあるのに、どんなにして感謝ばかりしながら生きて行けますか…?」

 私たちが先ず感謝しなければならないことは、この世に生まれ出るとき、虫や動物として生まれず、人間として生まれたことを感謝しなければならないのです。色々・数々の生き物がこの世に生まれ出ます。その中で皆さんだけが人として生まれました。私たちが「蛆虫」として生まれることもでき、蛙とか蛇として生まれることもあり得たことです。しかし私たちは、神様に似るように、神様と同じ形で生まれたこと、この事実を当然のことと思ってはならないのです。このようなことに対しても、私たちは神様に深く感謝しなければなりません。

 また、韓国人として見るときには、韓国5千年の歴史の中で私たちがもっとも住み良い時期に生まれて、生きていると言うことを皆さん、感謝したことがあるでしょうか。日本の植民地時代とか、韓国6.25戦争中とか…、そのときの受難、苦痛、惨めさは筆舌で表現できるものではありませんでした。しかし、今はどうでしょうか。繁栄、平安、幸福な生活を私たちは自由を満喫しながら暮らしております。この時期に生まれて生きていることを、私たちは神様に感謝しなければなりません。

 また、私たちは明るい太陽、空気、水、穀物、親切で柔和な隣人…を与えてくださった神様に感謝しなければなりません。私は、不治の病に罹って時限的人生を生きている或る青年の証しを読んだことがあります。

 その青年は、もういくばくも生きて行かれないことを知っていました。お医者は「お弔いの準備をしなさい。」と家族に言い渡しました。それで彼は病院から退院しました。その時から、その青年は涙を流しながら手記を書き綴り始めました。

 彼の手記を見ますと、病院から死ぬと言われた後、時限的人生を生きながら外に出て太陽の陽射しを見たところ、その陽射しがそんなにも有り難いことを、そのときまで彼は全く知らなかった、と言います。その前までは、太陽とその陽射しが有り難いものであるとは全然気付かなかったと記していました。

 また、彼は思い切り深く空気を吸い込んだと言います。そのときまでは、空気があるので呼吸をすることが出来るのだとは、意識したことがなかったそうです。ところが、空気がそんなにも甘く、美味しく、有り難いものであるとは、人生始まって以来最初の体験であると、彼は記述していました。それで彼は、継続して深く深く、肺の奥底まで空気を吸い込んだと言いました。

 そして彼は、水を飲むのにも一口ずつ、口の中に水を溜めてからは吟味しながら飲み込むと書いていました。水の美味しさ、喉を潤ってくれる清涼さ、有り難さを彼は生まれて初めて知ったと言います。それで彼は、一口ひとくち、水の味を味わいながら、吟味しながら少しずつ飲むのだと記述していました。

 ご飯を食べるときも彼は、もうこれが最後の食事になるかも…との思いから、飯粒を一粒一粒噛みしめながら、味わいながら食べると言いました。ご飯がそんなにも美味しく、有り難いものであるとは、そのときまで露も知らずに生きて来たと彼は手記の中で述懐しました。

 そして、父母や家族たちの温かい慰めの言葉、友人たちの激励と慰労の一言ひとことが、そんなにも涙ぐましいほどに、本当に有り難いと彼は記していました。

 彼は「もう死ぬ」と言われる前には、全くこのようなことは感じた覚えがないと言いました。人生の終末を目の前に控えて彼は、この世に生まれて、このすべてを享受することができる特権を神様が与えてくださったことに心から本当に感謝する、と書き残して彼はこの世を去って行きました。

 皆さん、感謝することを知らないことよりもっと冷酷で、非人間的なことはありません。この世の人たちの中には、恵みに浴してもその恵みに対して無関心な人があまりにもたくさんあります。この世の人たちは良く言います。「恵みは水に刻み、怨みは石に刻む」と。怨みは石に刻み込んで永久に忘れず、恵みはすぐに忘れてしまう、と言うのです。

 または、恵みを仇で返す…卑劣な動物的人間がどんなに多いことか知れません。それで韓国の諺に、「髪の毛の黒い動物は助けて上げるな。」と言うのがあります。髪の毛の黒い動物とは人間のことです。また、「水に溺れた人を救い出して上げたところ、自分の荷物も捜してくれと言う。」との諺もあります。いのちを助けて上げたのに、欲まで出す、怪しからん人がいると言うことです。

 私たちは、神様が造られたこの世を暮らしながら、私たちのすべての周囲環境に対して心から感謝する人たちとならなければなりません。そうするとき、私たちの神様は私たちを喜んでくださり、私たちをもっともっと深く、力強くふところに抱いて下さるようになるのです。



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第二、「ノーマン・ピンセント・ピール博士」のお話し

 「ノーマン・ピンセント・ピール博士」のお話しを読んで、私が深く感動したことがあります。アメリカで「肯定的思考方式」(Positive Thinking)と言う本を出版して、空前のペストセラーにしたその方が、次のような話しを彼の本に書きました。

 彼が事務室にいるとき、或る人が「あなたと、是非信仰相談がしたいです…。」と懇請して来たので、「来て下さい。」と応じてあげました。すると間もなく、中年の男性が訪れて来ました。その男性は髪の毛がぼうぼうで伸び放題、ネクタイは曲がったまま、洋服もさんざんに古びており、靴も磨かない泥まみれでありました。髭もざらざらで剃らずの疲れた顔つきでありました。

 その男性は、力なく椅子に腰を下ろすや、話し出しました。「私は、捨てられた人生です。私はこの世に持っているものが何もありません。全くの素寒貧です。毎日、朝から夜まで職場を探してさすらっていますが、誰も私を雇ってくれません。人たちはみんな、私を嫌っています。私は、もう生きて行く勇気を失ってしまいました。今日、牧師先生に相談に与っていただいてはおりますが、実際に私は何も期待していません…。」

 それで、「ノーマン・ピンセント・ピール博士」は何も言わずに、引出から白紙を1枚取り出して彼の前に差し出しました。そして鉛筆を1本、彼に渡しました。そうしてから、口を開きました。「私がこれから、幾つか質問をしますから、それに対するお答えをその白紙に書き入れてください…。」

 「先ず、あなたには奥さんがおられますか?」<はい。おります。何の稼ぎもできない、甲斐の無い愚かな夫ですが、それでも一緒に暮らしてくれている善良な女です。>「お、立派なご夫人ですね。そのことを書き込んでください。それから、お子さんをお持ちですか?」<はい。子どもが5人、おります。学校にも行かせることができず、良い食事をさせることもできませんが、それでも父母に反発することがなく、着実に教会にも顔を出しており、祈りも熱心に捧げてくれている、素直な子どもたちが5人います。>

 「それじゃ、立派な子どもが5人いると書き入れてください。それから、あなたはご飯はよく召し上がりますか?」彼は照れくさそうに笑いながら、<食欲旺盛です。何でも良く食べます。食べ物が不足して充分に食べれない実状です。>「そうですか…。有り難いことですね。お金持ちであり、美味しい食べ物が目の前にあっても、病気などで食事ができない人が意外とたくさんあります。では、何でも良く食べます、と書いて下さい。」

 そうした後に、「あなたは、夜、良く眠りますか?」<はい。横になったら、直ぐに寝付きます。>「そうですか…。それは、大きな祝福ですね。眠れないので、ベットに横になって寝返りを打ちながら苦しんでいる人が相当にあるんですがね。良く寝ます、と書き込んでください。その次に、あなたには親友がいますか?」

 <殆どの友たちが私から離れて行きましたが、それでも、幾人かの友人はいます。私とは親しい友人たちです。>「ほー、それじゃ、親友がいます、と書いてください。次に、あなたは健康ですか?」<はい。別に痛い所がありません。私は健康です。>「それじゃ、私は健康です、と書き込んでください。」

 そうしてから、「ノーマン・ピンセント・ピール博士」は改まった語調で言いました。「あなたが今まで書き込んだ内容を、声を出して、読んでいただきましょうか。」<はい、じゃ、読みます。善良な妻がおります。素直な子どもが5人、います。何でも良く食べます。良く寝ます。それから、親友がいます。私は健康です。>

 そこで、「ノーマン・ピンセント・ピール博士」が言いました。「あなたは、ここに入って来て、私の前で、持っているものが何も無く、全くの素寒貧です、と言いました。ところがあなたはたくさんのものをお持ちではありませんか。そんなに持っておられるんでは、あなたは幸福なお方です。神様に感謝しても余りあるほどです。なぜ、何もないと不平を言うのですか?」すると、相手は頭を掻きながら、<知りませんでした。私は何もないと思っていたんですがね。そうして見ると、私も色んなものを持っているんですね…。>

 「あなたに一言、言わせて頂きます。今からは、無いものばかり考えて不平を呟くことはやめて、あなたに与えられているものを持って神様に感謝することから始めてください。そうしたら、あなた自身が如何にたくさんの物持ちであるかを知るようになります。そうなったら、あなたの印象は変わるはずです。そうしてから、職場を探してください。あなた自身が‘物持ちである’と思うときに、他の人もあなたに職場を与えたくなるのです。あなた自身が‘何も無い’と思うときには、誰もあなたに職場を与えようとはしません…。

 聖書「マタイの福音書 13章12節」に、『持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまいます。』と言われました。あなたが、‘何も持っていない’と思う以上、神様はあなたに何も与えてはくださいません。あなたが、今持っているもので感謝し始めるとき、神様はあなたに色々な必要なものを与えてくださるようになります…。」

 その人は椅子から立ち上がって、「有り難うございます!」とお礼を言ってから、家に帰って行きました。そして、色々と考え込みました。「僕には、善良な妻がいる。可愛い子どもたちもいる。僕は、何でも良く食べる。そして健康だ。友だちもいる。色んなのをたくさん持っている…。」

 そして、彼は鏡をのぞいて見ました。「オヤ?色んなのを持っている俺が、これは何だ。こんなスタイルで生きていかれるか?物持ちらしく見えなきゃ…!」それで彼は早速に、洗面場に入って行って顔と髪を石鹸できれいに洗い、髭も剃り、ネクタイも良いもので結びなおしました。洋服もきちんと手入れをし、ズボンにもアイロンをかけてちゃんと折り目をつけました。靴もちゃんと磨きました。そうしてから、鏡を通して自分を眺め回しました。

 鏡の中の彼は、彼自身が感心するほどに紳士らしく見えました。それで彼は、自分の胸をぽんと叩いてから、胸を張って、「求人」広告を出した会社を訪問しました。彼はストレートに採用されました。職場を得たのです。

 彼は家に戻るや、「ノーマン・ピンセント・ピール博士」に電話をかけました。「先生!先生とお会いしてから、私の人生がはっきりと変わってしまいました。私が色んなものの所有主であると言うことを知ってからは、乞食みたいな格好をせず、物持ちらしく身なりを整え、そして、僕は物持ちだと考えながら相手に接したところが、自信が溢れ、活気に満たされ、とても肯定的な人間になりました。そして職場を求めてインタビューに応じたところ、相手の人が凄く良い印象を受けたらしく、素晴らしい条件で私を採用してくれました。私は新しい人間になりました…。」

 皆さん、「私は絶望だ。私はどこからも採用してもらえない。人たちは私を嫌う。」と言ったような思考の人は、この世のゴミなのです。しかし、自分が持っているものを一々数えてみて、それらを与えて下さった神様に感謝し始めると、神様がその感謝の生け贄を受け入れられて喜ばれ、持っている者にはもっと与えられて豊かな者にしてくださるのです。

 ですから皆さん、私たちはこの世を暮らしながら、怨んだり、不平を呟いたり、嘆いたりしてはならないのです。「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまいます。」と言われた「マタイの福音書 13章12節」の御言葉を、胸の中に深く覚えていなければなりません。持っていてこそ、神様がもっと豊かに与えてくださるのです。

 「大麦のパン五つと小さい魚二匹」があったので、イエス様は男たちだけでも五千人の大群衆を十分に食べさせ、十二のかごがいっぱいになるほどの余りを残す奇蹟をほどこされました。ですから私たちは、いつも私たちの環境の中には無い物を探し回って怨んだり、嘆いたりせずに、有る物を探して神様に感謝と賛美の礼拝を捧げ、いつも肯定的である皆さんとなられますよう、主の御名によって祝福します。



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第三、主のうちにあって、持っているものをいつも覚えていてください。

 皆さん、今日、奉読した聖書の御言葉「詩篇 103篇 1節〜5節」は、私たちが神様からいただいたものを何一つ忘れてはならない、と教えています。『 わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。 主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、 あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、 あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』

 このように有り難い神様を、人たちはほめたたえ、そのお恵みを忘れるな、と言うのです。神様のお恵みを何一つ忘れず、私たちが神様をほめたたえるとき、その神様が私たちの中に現われてくださると言うのです。私たちがそのお恵みをみんな忘れてしまって、神様に感謝と賛美の礼拝を捧げなかったら、神様は私たちの中に現われてくださることができないのです。

 皆さん、私たちは罪を赦された「義人」であることを記憶しなければなりません。聖書「ローマ人への手紙 3章23節〜24節」に、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』と記録されています。私たちは、イエス様を信じることによって罪が赦され、義の人となった、と言うことを記憶しなければならないのです。

 そして、この事実をもって私たちはイエス様のお恵みに常に感謝し、賛美しなければなりません。私たちは罪を赦されて、義の人となったのです。私たちは何も持っていない人たちではありません。私たちは色々なものを持っているのです。私たちは神様と和解し、聖霊さまの愛と聖めを受けたことをいつも心の中に記憶していなければならないのです。「ローマ人への手紙 5章11節」に、『そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。』と記録されています。

 また「ローマ人への手紙 5章 5節」に、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』と記録されています。イエス・キリストの血潮によって神様と和解され、聖霊が私たちの心の中に臨んで下さって神様の愛を注いでくださり、神様の聖めを注いでくださったのですから、私たちはキリストにあって神様の愛と聖さをいただいた人たちであるのです。

 私たちは、神様の愛を持った人たちであり、神様の聖さを持った人たちですから、いかに驚くべき宝物を持っている人たちなのか知れません。私たちはこれを覚えていなければならないのです。忘れてはならないのです。これを持って、神様にいつも感謝しなければならないのです。

 私たちは、神様が私たちに与えてくださった癒しの祝福を記憶していなければなりません。「マラキ書 4章 2節」に何と言われているでしょうか。『しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。』と記録されているのです。

 私たちの主イエス・キリストによって私たちの心の中に癒しの光線を照らして上げて、牛舎の子牛のように跳ね回るようにしてあげる、と言われたのです。こんにち皆さん、科学的に考えて見ても、私たちに色々な癒しの光線を人たちが発明して癒してくれています。神様は、癒しの聖霊の光線を発して私たちのたましいと心とからだと生活を癒してくださるのです。私たちは癒しの祝福をいただいています。これを私たちは神様の御前で記憶して、神様に感謝しなければならないのです。

 そして私たちを、呪いから解放させてくださったことにいつも感謝しなければなりません。私たちは、もうこれ以上あざみといばらの上で転がり回りながら暮らすことはないのです。この世の人たちは、いくら富貴、栄華、功名を持っているとしてもあざみといばらの敷布の上で苦しみながら暮らしています。それでいつも心身が血みどろになって生きているのです。

 しかし私たちは、イエス・キリストの中にあって呪いの刺の敷布から解き放たれた、と言う事実を心の中に悟って、神様に感謝しなければなりません。キリストは、私たちのために呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださったのです。これを私たちは、記憶しなければならないのです。

 私たちはまた、天国と永生を与えてくださった神様を記憶しなければなりません。『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネ 3章16節)と聖書に記録されています。主である神様が与えてくださった、このすべてのお恵みを私たちは心の中にしっかりと記憶して、主の御名をほめたたえなければならないのです。そして感謝しなければならないのです。

 イエス様の内にある人たちには、感謝すべき条件がキリストの十字架の中で溢れるまでにいくらでもあります。この世の中のものをすべて失ってしまうとしても、キリスト・イエスの中で神様が与えてくださった「五重の福音」と「三重の祝福」の約束だけでも、私たちは一日中感謝しても限(キリ)がないのです。このように感謝の生け贄を捧げる人の祈りを神様が聞かれて、その人と同行して上げようと神様は願われるのです。



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第四、主にあって暮らしたら悪い事も良い事となり、益として返って来ます。

 イエス様を信じる人たちが主のうちにあって暮らしたら、悪い事も良い事となり、すべてが益となって返って来ます。それはひとえに神様の無限なる愛と、豊かで底知れないお恵みと、奇蹟のみわざにによるものです。私たちにはそのような神様がおられるのですから、良いことだけをもって感謝せずに、私たちに悪いことが襲って来るとしても神様に感謝しなければなりません。主のうちにある者には、神様がすべてを働かせて益としてくださるからです。

 ヨセフをご覧ください。ヨセフは神様を畏敬する人でありました。しかし17歳のとき父ヤコブの指示に従って、羊の群れを飼っている兄さんたちのところへ食べ物を持参して使いに行きました。ところが、兄さんたちは彼に飛びかかって服を剥ぎ取り、殴りつけてから、イシュマエル人の隊商に売り飛ばしました。それでヨセフは奴隷として引き連れられて行きました。いかに悲劇なのか知れません。どんなに悪いことに出会ったか知れません。

 ヨセフはエジプトに連れて行かれて、そこのポティファルと言う人の家に売られました。それで、そこで彼は何年間か奴隷生活をしました。その奴隷生活の中でヨセフは、いくらでも怨み、嘆くことがあったにも拘わらず、彼はいっさい神様を怨むとか嘆くとかしませんでした。それで彼の年28歳ぐらいになったとき、ヨセフはポティファルの妻から濡れ衣を着せられて、ポティファルからは死なないまでに殴られ、踏み躙られ、傷を負って、王の囚人が監禁されている監獄に入れられました。これはいかにヨセフには悪いことか知れません。

 しかしヨセフは、最後まで良き神様を信じ、拠り頼みました。その結果、その監獄生活2年後に、彼はエジプトの国務総理に抜擢されました。ヨセフに襲って来た悪いことすべてが、結局には、ヨセフをエジプトの国務総理となる高速道路に乗せるようにしたのです。

 ヨセフは、「創世記 50章20節」にあるように、『あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。』と、恐縮して自分の前にひざまずいている兄さんたちに語りました。

悪いことも、すべてを働かせて益としてくださる全知全能なる神様が私たちと共におられるのです。私たちに襲って来る悪いことも、主のうちにいる人たちにはすべてが益と変化されるのです。

使徒パウロ先生が、行くところ至るところで打たれ、監獄に投げ込まれました。ほかの弟子たちはそんなにまで苦難の目に会わずに福音を伝えましたが、パウロ先生はいつも苦難の連続でありました。彼にはいつも、悪いことばかりが付きまといました。早く走り回りながら福音を証ししなければなりませんのに、ひと月、ふた月…一年も、規約なき監獄生活をしました。それは彼にとっては物凄く悪いことでありました。仕方なくパウロ先生は、ほかにすべき仕事もありませんでしたので、あっちこっちの教会に手紙を書きました。祈ってから、聖霊さまが導かれるままに手紙を書いたのがこんにち、新約聖書の殆ど3分の2に相当する分量を、そのときパウロ先生が書かれたのです。

パウロ先生が監獄に閉じ込められていたので、そのとき、そこで書かれた手紙が今は全世界を巡りながら教会を建てているのです。今もパウロ先生の手紙が全天下で、人たちに激励と信仰を与え、キリストの御体である教会を建てています。今顧みるとき、パウロ先生がもっと監獄に長く入っておられたら良かったとも思えられます。それでもっとたくさんの聖書を書かれたならもっと良かったのではなかろうかと思われるのです。

ですから皆さん、人の考えで良かったとして、それが最後まで良いことでもなく、人の考えで悪いと考えられるとして、それが最後まで悪いことでもありません。キリストのうちにいたら、良いことは良いから良く、悪いことは神様が良いことに変化させてくださるから良いのです。それで、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と言われた神様の教訓が、このような理由のためなのです。

私は、精神病院に入院した娘を持っている或る父親の話を聞きました。ひとり娘でありました。自動車にはねられて脳をやられ、精神病院に入院していました。夜昼となく、大声で喚いたり、自分の髪の毛をむしったり、父母が傍に来ても、それが誰か知りません。それで父親があまりにも不憫なので、朝夕、その精神病院を訪れて看病しましたが、それが父親であることを娘は分別することができませんでした。父親の心は千切れて死にたいほどに痛切でありました。

一日中、「私の娘を生き返らせてください。」と、父親は神様に熱く熱く呼ばわり祈りました。ところがお医者たちは、「この娘さんは脳が損傷したので、元に返ることはできません。」「もう、これ以上は、手の施しようがありません…。」と言っていました。それでも父親は、気落ちせずに継続して神様に祈り、呼ばわりました。

その日も、自動車を運転しながら娘が入院している精神病院に向かっていました。運転しながら神様に祈りました。「主である、我が神様!私のひとり娘が精神病院に入院しています。気違いになっています。このまま、一生を終えさせることはできません。どうしても、このままで死なせることはできません。どうか娘を直してください。助けてください…。」そのとき、胸の奥から何かがこみ上げてくるのを感じました。熱い涙がとめどもなく流れ出しました。それで車を人道の側に駐車させて、ハンドルを握ったまま、顔を伏せて声を出して泣きました。

そのとき、聖霊の囁きのような声が聞こえて来たと言います。「あなたは、娘さんが気違いになったことを感謝した覚えがありますか?」<何ですと?娘が気違いになったのに、それが感謝すべきことですか?>「いや、あなたは今までいつも、何故、こうなったんですか?神様、私の娘がどうしてこうなるように捨て置かれたのですか?と、怨むばかりで、神様にただの一度も、そのことで感謝したことがありません。あなたが今日、娘が自動車事故で精神異常になったことを、神様に感謝してみなさい。神様!有り難うございますと、一度、感謝してご覧なさい。」と言う、強い指示があったと言います。

彼は、思いがけなくも「父なる神様!私のひとり娘が交通事故に遭って脳に損傷を負い、精神病者になったことを感謝します!」と、口に出して言いました。そして実はそう言いながらも、内心、自分も可笑しくなったのではないか、と危惧感があったと言います。一方、誰にと言うこともなく、恥ずかしかったとも言いました。

娘が気違いになったのに、有り難い?こんなことがどこにある…?しかし、内的の強い声があるので、「神様!私の娘が気違いになりました。有り難うございます。今、私のひとり娘が精神病院に入院しています。感謝します!」と祈った後、再び病院に向かって車を運転して行きながら、一方、心の中で“娘のために、私の信仰も可笑しくなってしまったぞ。私も狂い出したのかな…。”

そう思いながら、病院の中に入って行ったと言います。すると、担当のお医者さんが飛び出して来ながら、「あなたの娘さんが回復の気味を見せていますよっ。お父さんを探しています。早く、入って行って見なさい。」と言うのでありました。それで病室に飛び込むように入って行きました。すると、娘さんが小さい声で、「お父さん!」と呼ぶのでありました。「あ、私だよ。分かるか?」娘さんは半分からだを起こして、父親の首に手を回しながら、「お父さん。私がなぜ、ここに来ているの?お父さん…!」瞬間父親は、その間の何年間と言う苦しかった歳月が一瞬に記憶から消え去ったと言いました。

それは神様の奇蹟でしかない、と言いました。神様のお恵みと奇蹟によって、その娘さんはだんだんと良くなり、遂には完全に直った、と言うのでありました。彼は、何年もの間、いつも怨み、いつも不平を言い、「何故、私の娘がこうならなければならないのですか…?神様、どうして、こんなことがあって良いですか…?」と、怨み混ざりの祈りだけをして来たのですが、その日、聖霊が彼の心の中に強力に、「あなたの娘さんが精神病者になったことを、感謝したことがありますか?」と言われる神様の御声に、逆境にあるのにも拘わらず、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、感謝し始めるや、神様の栄光が臨まれ、奇蹟が起こって、癒されるようになったと、彼は言いました。

皆さん、聖書に、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』(箴言 17章22節)と記録されています。怨み、不平、憎悪、嘆き…等々は心を否定的にし、肉体の抵抗力を弱化させて重病に罹るようにしてしまうのです。しかし、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝したら、エンドルフィンが溢れるまでに出て来て心も喜ばしくなり、肉体も健康になってしまうのです。

私たちが神様にいつも感謝しながら暮らすと、第1に、神様が喜ばれて私たちを祝福してくださり、第2には、私たちの心が肯定的で、積極的で、創造的になり、溢れる喜びが出て来て心身が幸福になり、健やかになりますので長生きするようになり、従って神様と共に働くことができるようになるのです。

ですから、私たちは1年に1回ずつだけ収穫感謝祭を捧げるべきではなく、年中行事として1年365日間、いつも心の中に感謝が溢れ、神様を賛美し、神様と手に手を取り合って、神様と共に人生を暮らす皆さんとなりますよう、主の御名によって祈願します。




お祈り

聖く、全知全能であられる、我が神様! 「感謝の生け贄を捧げる人は、わたしを崇めよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。」と、神様は仰せられました。

愛であられる、父なる我が神様! 私たちは、その間、あまりにも乾き切った人生を生きて参りました。神様のお恵みを知らない、愚かな人生を暮らして参りました。どうかお赦しください。

私たちの愚鈍で無感覚な心霊を改めて、御言葉で耕し返すことができるように、助けてください。主に感謝し、賛美しながら生きて行く私たちとなるように助けてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!