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「神様が憎む罪」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 1章28節〜32節」
1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、
1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、
1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。




今日、私は皆さんたちとご一緒に、『神様が憎む罪』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

昔、孔子は、「天に従う者は栄え、天に逆らう者は滅びる」と言いました。これは、長い年月を生きて来る間に人間が蓄積した生活の知恵であり、経験から得ることができた教訓なのです。悪を行なう者が一時的には「栄える」ように見えますが、終局には皆、歴史の審判を受けて滅亡する事実を、私たちは目の前に見ております。

宇宙に神様が生きておられ、神様が人生と歴史を支配しておられる以上、神様の品性と御心に逆らっては、「幸いを得る」ことは決してありません。聖書には、神様が憎む罪、すなわち、もう少ししたら神様の審きに会うようになる罪に関して、詳細に記録しています。




第一、どん欲の罪

その第1の罪が「どん欲」の罪です。どん欲とは、自分の身分や分際を飛び越えた欲望を言います。皆さん、アダムとエバが堕落した理由が何であったでしょうか?どん欲の罠にかかったからでありました。人として造られたのですから、人として暮らさなければならなかったのです。ところが彼等は、神様のようになろうとしました。それは悪魔の誘惑に陥ったからでありました。人としての身分を飛び越えて神様のようになろうと、神様の命令に逆らって彼らは善悪の知識の木の実を取って食べて滅亡の運命に落ち込んでしまったのです。

今、我が国を混雑に追い込んだ罪の原因はみな、どん欲が故に起こった騒動です。過去に大統領であった人、過去に長官であった人、権力を握っていた人、財閥のオーナーたち…、彼等がなぜ列を成して手錠をかけられ、毎日のようにニュースの焦点になり、辱しめと監禁の憂き目に会っているのでしょうか?それは、彼らが過去にどん欲の奴隷となっていたからなのです。

聖書「ヤコブの手紙 1章14節〜15節」に、『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記されています。欲がはらむと罪を生む、と言われました。罪とは、的を外れたことを言うのです。欲がはらむと、自分の目的を達成するために「的を外れて」横道にそれて行き、罪を犯すようになるのです。

また、罪が熟すると死を生む、と言われました。こんにち、過去に大統領であった人が手段方法構わずに数千億ウオンのお金を掻き集め、権力維持のために銃剣を使用して数多くの国民を殺害する行動を敢えてやってのかし、それが永遠に隠せると思っていたのに今日に至ってそれらがすべて暴かれて、彼らは手錠をかけられ、列を成して、死の道へと歩む動機となってしまいました。

皆さん、神様は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになるのです。どん欲を蒔いたら、正しい道からそれて遂には死を刈り取るようになるのです。「ヨハネの手紙 第一 2章16節〜17節」に、『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。』と記録されています。

この世で、どん欲に溺れ、情欲の奴隷となって、肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求し、世俗に従って生きる人たちは、この世と一緒に消え去ります。ただ一筋に、神様の御心に従って生きる人だけが永遠に生きることができるのです。

すべての罪の中でもっとも根源的な罪が、アダムとエバを堕落させたどん欲の罪です。ですから私たちは、私たちの身分が何であるかを良く知り、私たちの分際を良くわきまえて、身分と分際にふさわしく生きて行かなければなりません。それらを飛び越えて欲を出したら、人は悪魔の罠に直ぐに引っ掛かってしまうのです。

ですから私たちは、現在、私たちの周囲で起こっている数多い不幸を見つめて、他人事と思わずに、自分自身の胸に手を置いて、私たちもどん欲の奴隷になったらあのようになるのだと反省してみる機会としなければなりません。神様は必ず、どん欲の罪を審かれます。人はどん欲を知らず知らずのうちに起こします。そうしてからは、どん欲を満足させるために正しい道からそれて行きます。そして、それで構わないと思います。しかし神様は、燃える炎のような目で観察なさり、時が来たら審かれるのです。




第二、不義の罪

その次に神様が憎み、審かれる罪は不義の罪です。不義とは、正しい道から外れたことであり、不正なことを言うのです。真っ直ぐに行かなければならないのに、人は意外と正しい道を捨てて曲がった道に行きたがります。その結果、腐敗してしまうようになります。

私は今回、ケニアのサファリ高速道路を見て、心に感じたことが凄く多いです。ケニアの首都からサファリを見に行くためには、約8時間も高速道路をバスに乗って行かなければなりません。本当に、それはそれは広いアフリカの草原でありました。そこには獅子が歩き回っており、麒麟があり、象があり、豹もありで…、色々な動物たちが本当にたくさん住んでおりました。

その高速道路をケニア政府が7年に亘って敷設したと言います。ところが、アスファルトを舗装したその高速道路が、敷設してからいくらも経たずにあっちこっちが裂けたり、割れたりして壊れ出しました。車が思うとおりに高速道路を走ることがとてもできません。今は、アスファルトの上を避けて脇の土道を車が走ります。そうなると砂埃は容赦なく舞い上がり、バスがとてつもなくガタガタと大きな音を出しながら揺れ動き、踊ります。そんな道を8時間もバスで運ばれましたので、到着するや私はへたばってしまいました。

政府が借款を得て、そして7年もかかってその高速道路の敷設工事を終えました。アスファルトの厚さが紙切れのように薄いです。それで舗装道路は裂けたり、割れたりして自動車がその上を走ることができません。政府がせびり取り、長官がせびり取り、知事が、面長がせびり、業者が儲けた後に、アスファルトは紙切れのように薄く敷いて置いたので、一般国民たちは砂埃を浴び、アスファルトの高速道路は使えず、脇の土道を車が走らなければない羽目に陥りました。アスファルトが無い方が却って優っていると言える実情でありました。

それを見て、私はアフリカの悲劇を痛感しました。何故か、アフリカにそのような不義と不正がある以上は、その国には希望がない、と見たからです。いくら外国から借款を受け入れ、それでいくら事業を展開するとしても、殆どが賄賂とか横領とかで消費され、それで政権を握っている権力者やその筋の役人たちだけが蓄財し、国民たちは依然として貧しく、飢え、苦しみの目に会っているのです。不正と腐敗がどんなに恐ろしいものであるかを、私は今度のアフリカ旅行で切実に見せ付けられました。

アフリカ大陸が皆さん、貧しく、そして飢えているのは、支援がないのでそうなのではありません。そこの人たちが怠け者なので、働かないから…そうなのではありません。政権を握っている権力者たちや、政府の役人たちが公然と不正、腐敗を犯し、すべての資源を独占しているので、それで全国民が気落ちしており、苦しみの中で暮らしております。従って、そこに福音が伝播され、全国民が悔い改めて、不正、腐敗がなくならない限り、その国に希望はないのです。

私は外国に出て行っていながらも、韓国のニュースはいつも見ています。韓国の大統領が検察によって不正を犯した容疑者として告訴され、権力家と見なされた数多くの政治家たちが逮捕されて手錠をかけられ、財閥たちが裁判に付せられること…を、悪いこととだけ思われますが、良いことでもあるのです。

これは、過去、不正と腐敗を犯した権力者たちと政府の役人たち、財閥の一部のオーナーたちがその間、韓国の財貨を独占するみたいに欲しい侭に振舞ってきたのですが、それを神様が審かれる時が到来したのです。歴史を正しく作り直さなければならないのです。歴史が正しく作り直されなければ、韓国の民族も良くなることができません。そのままほったらかして置いたら、韓国も、アフリカのようになってしまいます。

連日、新聞、TV、ラジオに報道され、国際ニュースで取り上げられる、韓国の不正腐敗事件の暴露は、これは正に神様が韓国民族を助けて下さるがために清掃作業をしてくださる信号なのです。これらを掃除して捨てない限り、韓国の民族には希望がありません。大統領も不正を犯したなら、逮捕して裁判にかけなければなりません。総理だろうが、長官だろうが、財閥家だろうが…、不正と腐敗は国民個人と国家を滅ぼすようにするのです。それらを抉り取り、取り除かないことには希望がありません。

「ペテロの手紙 第二 2章 9節」に、『これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。』と記録されています。これは、主が審く、と言うことです。

一方、「イザヤ書 55章 7節」に、『悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』と記録されています。不義と不正を悔い改めて、主の下に立ち返れば、主が赦してくださり、癒してくださり、新しくしてくださると言うのです。

一つの国が、不正と腐敗を捨てて正義に戻って来たら、神様が赦してくださり、癒してくださり、神様の祝福が臨むようになるのです。ですから、私たち個人の暮らしにおいても、私たちは不義の罪の奴隷となってはいけないのです。




第三、偽りの罪

神様が憎む罪が偽りの罪です。なぜかと言えば、神様は真理であられ、神様はまことであられるからです。「エレミヤ書 10章10節」を見ますと、『しかし、主はまことの神、生ける神、とこしえの王。その怒りに地は震え、その憤りに国々は耐えられない。』と記録されています。偽りは、神様を否定する行いであり、悪魔と調子を合わせることです。悪魔は偽り者なのです。

「ヨハネの福音書 8章44節」に、『あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。』と記録されています。悪魔は偽り者なのです。また偽りの父でもあるのです。

悪魔がすることは何でしょうか。盗み、殺し、滅亡させるだけです。悪魔と一つになって、一時的には何ともないと思いがちですが、大きな誤解です。悪魔の終局的目的は破滅をもたらすことです。盗み、殺し、滅亡させるのですから、偽りに騙され、嘘を言う人は、遂には霊と心とからだと生活全体が盗まれ、殺され、滅亡されてしまうのです。

人たちは、偽りが永遠に隠しおおせるものと思いますが、偽りは霧と同様です。霧が立ち込んだら山も見えず、野も見えず、森林も見えませんが、それはあくまでも一時的な現象です。太陽が昇って陽が差し始めたら霧は跡形もなくなり、山川草木がみな露わに現われます。そのように、偽りが立ち込んだ霧に包まれたように一時的には隠されますが、主の明るい太陽の陽が差して審きが臨んだら、偽りはすべて暴かれて、全天下の明るみにさらされ、羞恥と刑罰を受けるようになるのです。

偽りの衣をまとい、偽りの陰に隠れようとする人は愚かな人です。神様は偽りを憎み、嘘を言う人は火と硫黄が燃える池に投げ込まれると言われました。こんにち、数多くの偽りが毎日のように新聞に報道され、TVに暴かれています。そんなにも本当だと信じていたことが、全部偽りであると暴き出されているのです。それらが破綻をもたらすのです。神様は偽りを審かれるのです。




第四、背きの罪

神様が憎む罪の中に背きの罪があります。愛と真実と恵みを受けたのにも拘わらず、背き、振り捨て、却って仇で返す…、このようなことは主が憎み、審きます。イスカリオテ・ユダをご覧ください。イエス様は、12弟子の中でユダをもっとも愛されました。それで彼に金庫を任せました。皆さん、金庫を任したと言うことは、その人をもっとも信任したと言うことです。12弟子の中でイスカリオテ・ユダに金庫を任せました。

それにも拘わらずイスカリオテ・ユダは、金庫からお金を盗み出しもしましたが、最後には、どん欲によってイエス様を売りました。ユダヤ人たちとローマ人たちにイエス・キリストを売って、それでキリストが捕らえられて十字架に釘付けられ、身を裂き血を流して死なれました。それを見て、はじめて良心の呵責を受けるようになったユダは首を吊って自殺しましたが、彼はまっさかさまに落ち、からだは真っ二つに裂け、はらわたが全部飛び出してしまった、と聖書に記録されています。

こんにち、背信者の代表がまさにイスカリオテ・ユダなのです。熱い愛と真実と恵みを受けたのにも拘わらず、彼はそれを仇で返したのです。

皆さん、人たちを見ますと、平凡な人たちは恵みを受けても、受けなかったように振る舞い、直ぐに忘れてしまいます。善良な人たちは、恵みを感謝で返します。悪い人たちは、恵みをほどこしたら仇で返します。それで、恵みをほどこすと言うことは実に難しいことです。

私たちは、神様からお恵みをほどこしていただいたのですから、感謝し、賛美しなければなりません。イエス様が身を裂き、血を流して、私たちに代わって罪をすべて背負って、清算してくださったのですから、そのお恵みと、その愛に、私たちは絶え間なく感謝し、献身しながら、生きて行かなければならないのです。神様のお恵みに対して、知らん顔をして生きる、そのような不義の人になってはなりません。

あまりにも多くの人たちが、恵みを感謝で返さずに仇で返しています。しかし、その罪は必ず審かれます。恵みを仇で返す、その背きの罪に対して、神様は黙って見過ごしはなさいません。神様は追いかけて行ってでも、必ずその罪を審かれます。




第五、高慢の罪

神様が憎む罪が、高慢の罪です。高慢は、自分自らを自分の分際をはるかに越えて偉いと思うことです。皆さん、高慢の故に第1番目に神様から捨てられたのが天使長「ルシファー」です。神様が造られた天使の中でもっとも美しく、力があり、権勢があり、栄光であった天使が「ルシファー」でありました。

ルシファーは、自分に力があり、権勢があり、美しく、もっとも栄光であったことを知っており、それで高慢になって、神様を押し出して自分が神様の御座を簒奪しようとしたので追い出されて、悪魔になりました。ほかの天使3分の1を誘って天から追い出され、空中で権勢を握った者となり、こんにち、堕落した天使たちと悪霊たちとぐるになって神様のご使役に反対し、人たちを罪悪で縛って神様がおられない地獄に落とし入れようとあらゆる悪行を躍起になって働いているのが、このルシファーなのです。

「イザヤ書 14章12節〜15節」を見ますと、『 暁の子、明けの明星よ。どうしてあなたは天から落ちたのか。国々を打ち破った者よ。どうしてあなたは地に切り倒されたのか。 あなたは心の中で言った。「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山にすわろう。 密雲の頂に上り、いと高き方のようになろう。」14:15 しかし、あなたはよみに落とされ、穴の底に落とされる。』と記録されています。

「エゼキエル書 28章15節〜17節」を見ますと、ルシファーの堕落をこのように記録しています。『 あなたの行ないは、あなたが造られた日からあなたに不正が見いだされるまでは、完全だった。 あなたの商いが繁盛すると、あなたのうちに暴虐が満ち、あなたは罪を犯した。そこで、わたしはあなたを汚れたものとして神の山から追い出し、守護者ケルブが火の石の間からあなたを消えうせさせた。 あなたの心は自分の美しさに高ぶり、その輝きのために自分の知恵を腐らせた。そこで、わたしはあなたを地に投げ出し、王たちの前に見せものとした。』

そのように神様は、華やかで、美しく、権勢あるものとして造られたルシファーも、神様に敵対して自分の身分を捨て、自分の分際をわきまえずに、自分を高めようとしたとき、神様は彼を選び取って追い出してしまい、それで彼はサタンになってしまいました。

 人間も、バベル塔の教訓を教わらなければなりません。ノアの子孫たちがシヌアルの地に集まり、塔を建ててその頂きが天に届くようにして、我々も神様と同等になろうと合意をして、行動に移りました。その結果、彼らは神様から審かれて塔は崩れ、彼らは地の全面に散らされてしまいました。

こんにちも皆さん、私たちが自分の身分を忘れ、分際をわきまえずに高慢になって、神様のように高くなろうとしたら、必ず審かれます。聖書「箴言 16章18節」に、『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』と記録されています。また「ヤコブの手紙 4章 6節」に、『神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。』とも記録されています。

ですから私たちは、いつも神様の御前でへりくだり、自分の愚かであることを痛く悲しみ、そして砕かれて悔い改めながら暮らして行かなければなりません。自分が「もう、これで良い。」と高慢になり、自分の分際もわきまえずに自己自慢をするのでは、神様から審かれます。神様は、高ぶる者を退け、そのような人を審かれるのです。




第六、神様を信じない罪

神様が憎む罪が、神様を信じない罪です。皆さん、罪の中でもっとも重い罪が神様を信じない罪です。神様が造られた万物が、神様の創造のお手際を見せてくれています。「ローマ人への手紙 1章20節」に、『神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。』と記録されています。

私は今回、サファリを旅行して来ました。アフリカに行って色々な動物を見るとき、神様がおられなかったなら、あんなにたくさんの種類の動物を造ることができただろうか…、と感嘆しました。麒麟の群れが首を天に向けて走っていました。どうしてあれ等が偶然にできたものだと言えるだろうか…。獅子のうなり声、河馬の水の中でのほえ声、数え切れない鹿の群れ、羊の群れ…、これらを見るとき、これは神様でなければ到底どの誰も造ることはできない…、こんなに色々で種類別の動物を造ることは神様だけが可能なのだ、と思わざるを得ませんでした。

私たちが夜の空を見上げますと、数え切れない多くの星があります。サファリでは空の星が手に取れそうに近く、鮮やかに見えます。そんなにも星が玲瓏なものであるとは思いませんでした。その数多い星を誰が造ったでしょうか。地球の森羅万象を誰が造ったでしょうか。皆さん、万物が神様の創造のお手際を見せております。それにも拘わらず、人たちは神様を無視し、神様を信じようとしません。この罪が恐ろしい罪なのです。

聖書は、神様と御子イエス様の救いをはっきりと私たちに啓示しています。「コリント人への手紙 第一 15章 3節〜4節」を見ますと、『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと…、』と記録しています。

また聖書は、イエス様がこの世にこられることを300回も預言し、イエス様が来られて十字架に釘付けられ、死なれてから、三日目によみがえられることを明々白々と預言しましたが、それらがその通りに成し遂げられました。それで、神様の御子イエス様は、罪を犯し、不義で、醜悪な私たちの罪を代わりに背負い、ご自分の御身体で罪をすべて審かれ、贖われて、誰でもイエス様を信じたら滅びず、永遠のいのちを得るように、道を開いてくださったのです。

こんにち、全天下万国で、東西を問わずに、知識のある者も、無い者も、イエス様を信じたら救いを得るように神様がその道を開いて置かれたのです。アフリカの奥地に住み、字とは一つも知らない人たちも、福音を聞いてからは出て来て悔い改め、そんなにも喜び踊り、嬉しくて地上を転がり回りました。皆さん、私たちの主イエス・キリストを受け入れず、信じない罪がこの世でもっとも大きな罪です。

この世の中で罪を犯したので地獄に行くのではなく、その罪を代わりに背負い、贖ってくださったイエス様に背いたので地獄に行くのです。人たちはこんにち、自分の行為の罪の故に地獄に行くのではありません。信じないから地獄に行くのです。

神様の御霊、即ち聖霊さまが常に私たちに臨まれて、感動、感化させてくださるのです。「ヨハネの福音書 14章26節」に、『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』と記録されています。

聖霊さまがみわざを働かせてくださいます。神様が造られた万物が神様を見せてくれます。その御子イエス様が来られて十字架を背負われ、私たちのすべての罪と死を代わりに御身体をもって審かれ、私たちに救いの道を開いてくださいました。聖霊さまがこれらを私たちが悟るように、御言葉を通して聞かせてくださり、聖書を通して語ってくださいます。そうであるのにも神様を信じず、従順に聞き従わず、愛さない者は、自己破滅を自ら招くようになるのです。

聖書「ヨハネの福音書 3章36節」に、『御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。』と記録されているのです。

皆さん、考えてみてください。神様は、実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛されました。そして、その御子が私たちの代わりにすべての罪を背負われ、すべての不義をその身を持って審き、すべてを清算してくださいました。そうしてくださった後に、誰でも来なさい、誰でも来なさい、来て信じたら、赦して上げ、救って上げます…と言われます。それなのに、このような神様のお恵みに背を向けて、審きを免れることができるでしょうか?

その御子までもが、私たちの罪を背負って十字架に架かられたとき、神様がいかに厳しく、情け容赦なく審かれたことか、堪えられずに「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と慟哭なさいました。それなのに、私たちのような平凡な人間が神様に背いて、最後の日に神様が審かれるとき、その神様の審きをどのようにして堪え得ることができるでしょうか。火と硫黄が燃える池が思い浮かびます。手に一本の刺が刺さっても痛くて堪えられない私たちです。

火と硫黄が燃える池に落ち込んで、世々長く、永遠にその苦しみの中で苦痛の目に会う、と言われたのです。人は、その栄華のうちに留まれない。人は滅び失せる獣に等しい、と言われました。救っていただけないのなら、生れなかったほうが良いのです。なぜ?人は神様に似るように、神様のかたちに造られた霊ですので、肉体は滅びても霊は永遠に生きるからです。

皆さんは、霊が肉体を着て暮らしているのです。地上の肉の幕屋が壊れたら、人の手によらない永遠の幕屋が私たちにはあるのです。救われた人は天の御国に行き、救われない人はゴミのように地獄に捨てられるのです。そして永遠無窮に苦しみに会うようになるのです。それで、神様を信じず、イエス・キリストを信じない罪がもっとも恐ろしい破滅の罪なのです。この罪は必ず審かれます。

どん欲と、不義と、偽りと、背きと、高慢と、不信仰は、すべての罪の源泉です。このような罪たちが、自己破滅の種となります。そして、このような罪を犯す人が、神様の審きの対象になってしまうのです。

ですから私たちは、イエス・キリストを信じて、このような罪を犯さないように努力しなければなりません。このような罪たちが私たちと共にいたら、その罪に従って私たちは審きに会います。

こんにち、韓国の社会で審きに会う人たちを私たちは目で見ております。彼らは一時、人たちから尊敬され、人たちの上に君臨しておりました。権勢と力と威厳がありましたが、一方、隠された罪を持っていました。神様がその罪悪を露わにされて、審かれるとき、彼らは絶望におちいり、手錠をかけられて刑務所に閉じ込められる苦しみに会うようになるのです。罪はいつかは審かれるようになっているのです。

ひとえに、イエス・キリストを信じて赦しを受け、義と、真理と、聖きで造られた新しい人を着て、神様に仕えながら生きる人たちが、この世でもっとも平安で、喜ばしく、祝福された人生を暮らし、永遠なる天国にまで行けるようになるのです。




お祈り

全知全能であられ、聖き、我が父なる神様! イエス様が血を流されて、私たちのすべての罪を贖ってくださいました。このイエス様を、私たちが信じ、正しく暮らし、聖く暮らし、真理に従って暮らし、高ぶらずに敬虔に暮らしたら、神様が祝福してくださって、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得、この世から天国にまで行けるようにしてくださって、有り難うございます。

愛であられる、我が天のお父さま! 私たちの社会を神様が清めてくださり、神様の審きをくだしておられることを私たちは目で見ております。

父なる神様! これらを教訓として、私たちも、どん欲とか、不義とか、偽り、高慢、背き、神様を信じない不信仰の罪に陥ることがないように助けてください。主を信じ、正しく、敬虔に暮らして行けるように導いてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!