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「大洪水の車の上に着座された神様」
 






■聖書箇所

「詩篇 29篇10節〜11節」
29:10 主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。
29:11 主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。




今日、私は皆さんたちとご一緒に『大洪水の車の上に着座された神様』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

人類の文明は交通手段の発展と共に成長して来た、と言っても言い過ぎではないと思います。初めは両足で歩くのが全部でしたが、その次には動物が引く車に乗り、次には自転車に乗り、自動車、飛行機…と発展して参りました。

どころが、今日奉読した聖書には、神様はこのような交通手段を使わず、大洪水の時、その洪水の上に着座された、と記録してあります。即ち、言い換えれば、洪水とは、速く流れる川水ですが、その上に座られてその洪水を交通手段として、神様は私たちに来られる、と言うのです。

英語の翻訳は、韓国語より、もっと確かにこのように記録しています。 "The load sits enthroned over the flood"主は洪水の上に御座を造られ、その上に座って洪水に乗って来られる、と言っています。この御言葉は、私たちに何を教える為にこのような表現をご使用なされたのでしょうか。この御言葉には、私たちに教えて下さる深い意味があります。




第一、大洪水の上に着座なされた神様

神様は洪水のとき、洪水の上に御座を設けられ、その上に乗って来られると言われました。洪水とは何の意味でしょうか?洪水とは、正常的で平安に流れる川の流れではありません。大きな試練や患難が私たちの暮らしに襲ってくる事を言います。

私たちは一生を暮らしながら、大小さまざまな洪水を経験する時が多くあります。思いもよらない大きな試練と患難が、洪水のように私たちに襲って来て、私たちのすべてを掻っ攫って行く、そのような経験をした事が1回や2回ではありません。このように洪水が私たちに襲って来ますと、普通の人たちはこの洪水を見て驚き、肝を潰してしまいます。脅えて、どうすれば良いか判らず右往左往します。生きる道を失い、狼狽し、挫折し、洪水によってすべてが破滅に至ってしまう人たちがたくさんおります。

しかし、イエス様を信じる人たちは洪水を見る時、今日、この聖書が私たちに啓示して下さる御言葉に従って見なければなりません。なぜなら、洪水は洪水そのものだけが来るのではないのです。人生に近づいて来る試練と患難の洪水は、その上に神様が御座を設けられて、その洪水に乗って私たちに近づいて来られることを知らなければなりません。

神様はそのまま私たちの所に来られても良いのに、何故、洪水に乗って来られるのでしょうか?何故、試練と患難と言う洪水に乗って、神様が私たちに近づいて来られるのでしょうか?私たちが神様をよく信じて従順に聞き従い、主の御心通りに暮らすとすれば、神様は私たちに洪水を送り、その上に乗って私たちに近づいて来られる訳がありません。

しかし、皆さん、神様が私たちの所へ洪水に乗って来られる理由は、私たちが、神様に背いて不従順し、人間本位主義に立って自分勝手に暮らすので、人間を砕き悟らせ変化させるために、神様は洪水に乗って私たちに近づいて来られるのです。

ですから、私たちは、試練と患難と苦しみが近づく時、その試練と患難と苦しみを見て喚き叫んではいけません。その洪水の上に着座されて、その洪水に乗って来られる神様を見る事が出来るようにならなければなりません。神様と私たちとの関係が正しくなれば、洪水は鎮まるようになるのです。神様と私との関係が正しくなかったら、洪水に上に乗って来られる神様と私との関係が悪くなったのですから、洪水は継続して襲って来るでしょう。その洪水に私たちは呑み込まれてしまうのです。

こんにち、この世に襲って来る洪水は、その上に神様が乗っておられ、支配しておられると言う事を知らなければなりません。神様と私たちとの関係が正しかったら、神様は洪水を鎮められます。洪水から降りて、洪水を止めて下さいます。ですから、私たちに洪水が襲って来る時は、洪水の上に着座しておられる神様を見上げて、その御前に悔い改め、すべてを告白しなければなりません。

人々が滅亡されるのは、悔い改めないからです。人たちが地獄に落ちて行くのは自分の罪の為であり、主の前に悔い改めないからです。人間に最も貴重な事は主の御前に悔い改めることです。すべての人たちが罪を犯したので、神様の栄光に至る事ができません。しかし、悔い改める人は皆赦されて、神様の栄光に至る事ができるのです。もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、全ての悪から私たちをきよめて下さるのです。

ところが、私たちが罪がないと主張し、罪を隠して頑なになれば、神様は洪水に乗って私たちの所に来られます。そして、その洪水に呑み込まれてしまう悲劇的な体験をするようになるのです。

ですから、洪水が近づいて来る時、私たちは神様の前にひれ伏して悔い改め、罪を告白して私たちの間違った人生を清算しなければなりません。私たちの高慢を散々に打ち砕き、神様の御前にひれ伏して、従順に聞き従う暮らしをしなければならないのです。確実に献身する心で、神様の御前に信仰を持って出て来なければならないのです。そうすれば私たちの神様は、洪水から降りてこられて私たちを懐に抱いて下さり、かえって洪水の上に乗って勝利を収めながら暮らせるようにして下さるのです。

皆さん、洪水が私たちには現実的に苦しく辛い事ではありますが、ここで知らなければならないことは、その洪水が神様を私たちの人生の中に案内して来る車になると言うことを悟らなければなりません。もし、洪水が近づいて来なかったら、私たちは悔い改めず、洪水の上に乗って来られる神様を迎い入れ、拠り頼むようにならなかったでしょう。ですから私たちは、洪水を体験しなかったら永遠に滅ぼされてしまったかも知れません。今日も神様は、洪水に乗って私たちの所に来られ、私たちを悔い改めさせ、すべてを告白させ、私たちに悟りを与えられ、変化させて、神様のまことの民として下さる、と言う事を知らなければならないのです。

「詩篇 30篇 4節〜6節」に、『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」』と記録されています。ですから、洪水に乗って来られるこの神様を私たちはいつも見上げて、洪水それ自体だけを見て脅えずに、その上に乗って来られた神様の御前にひれ伏し、砕かれる私たちにならなければならなりません。




第二、神様は永遠に王様として、御座に着いておれます

聖書に『主はとこしえに王として、御座について居られる。』と言われました。こんにち、人々は神様を王様として認めません。神様を自分の生活の小さな一部分として考えている人もおり、神様を全然認めず、自分が自分の人生の王になって暮らしている人たちが殆どです。しかし、洪水に乗って来られる神様は、正に王様として御座に着かれて居られ、王様としてこの宇宙を支配しておられるのです。

何故かとい言いますと、神様は宇宙を創造なさり、宇宙が存在するようにされたのですから、宇宙は神様のものです。神様は宇宙を支配し、治める王様である事は当然です。神様は親しくその御言葉をもって、天ともろもろの天の天、地と海とその中のすべてのものを造られました。造られた方が造ったものを所有し、造られた方が造った物を支配するのは当然なことです。

ですから、宇宙の王様は神様である事を私たちは知らなければなりません。そればかりではなく、主は人間の歴史と生死禍福を支配される王様です。人たちは自分自ら人間の歴史を支配すると考えますが、人間の歴史のアルファとオメガは主である神様のものです。歴史の始まりも神様が、歴史の終末も神様が決定なさるのです。

既に「ヨハネの黙示録」には、神様がこの歴史を終わらせて、新しい天と新しいエルサレムを創造なさる御姿をはっきりと記録しています。ですから、歴史は正にその終末に向かって流れているのです。こんにち、人々は歴史を自分の掌の上に置いて動かしていると考えます。

特に、北朝鮮のキム・ジョンイル(金正日)のような人たちが、北朝鮮の歴史を自分の掌に握って支配していると錯覚しています。しかし、70年前に建てられた共産主義の宗主国であるソ連でさえ歴史の流れの前に膝を屈して共産主義が粉々に崩れてしまい、レ−ニンの銅像が地べたに引き倒されてしまいました。

まして、小さい北朝鮮の取るに足ら無いキム・ジョンイルが、歴史を手のひらに握って自分勝手に歴史を動かせると言えるでしょうか。歴史の車輪がその上を通り過ぎる時、彼のような存在は粉々に打ち砕かれてしまいます。主は洪水に乗られて、今北朝鮮の上に降りて行かれる途中です。あそこは、政治、経済、教育、文化、軍事、産業など凡てが大混乱と苦しみに会っており、洪水に悩まされています。神様が審いておられるのです。悔い改めて立ち返るか、神様の審きを受けて洪水に呑み込まれるか、二つに一つしかありません。

聖書を見ますと、ネブガデネザル王がバビロンの宮殿の上を歩きながら、町を見下ろし誇らしげに思いながら言いました。「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか。」すると、この言葉がまだ王の口にあるうちに天から声ありました。『ネブカデネザル王。あなたに告げる。国はあなたから取り去られた。あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、こうして七つの時があなたの上を過ぎ、ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。』(ダニエル書 4章31節〜32節)

ネブガデネザル王がその当時、天下を号令しがらその栄華が極に達していましたが、高慢で自慢する人となり、自分の力と自分の威厳と権勢によって国を建てたと自惚れていた時、神様は彼を精神病者にならせて、七年の間、牛のように草を食べ、天の露に濡れて生き、その次に、遂に彼が悔い改めるや神様は彼の王位を回復して下さいました。

その時の事を、聖書ははっきりと、『いと高き方が人間の国を支配し、その国を御心にかなう者にお与えになる。』と記しています。皆さん、ネブガデネザル王はこのような体験をした後に、ついに人間の歴史は神様が支配するものであって、人が支配するものではない事を悟るようになりました。ですから、こんにち私たちが暮らしているこの世の中のすべての歴史は、主である神様の御手の中にあるのです。アメリカにあるのでもなく、ソ連に、日本にあるのでもありません。ヨーロッパにもありません。人間の歴史を支配されるのは神様なのです。神様は王様として、とこしえに御座についておられるのです。

皆さん、個人の暮らしを支配なされる王も神様であられます。私たちの人生を創造なさり、私たちを滅亡から贖って下さった神様は、私たちの生涯を所有しておられます。私たちの現在も、私たちの未来も私たちのものではなく、私たちのすべては神様のものです。ですから、私たちの人生を設計なされた神様に、全面的に私たち自身を献身しなければなりません。私たちの主は、私たちの一生を設計して置かれたのです。

神様がご自分を愛する者の為に備えて下さったものはすべて、『目が見た事のないもの、耳が聞いた事のないもの、そして、人の心に思い浮かんだ事のないものである。』と聖書に記されています。皆さんと私の人生は、既に備えられた人生です。皆さんと私の人生は、神様が予め設計しておかれたのです。ですから神様に心から仕え、神様が私たちの人生を設計して置かれたその設計通りに暮らしたら、私たちの神様は、私たちの歩みごとにすべてを備えておかれ、私たちを導いて下さるのです。

しかし、神様が私たちのために設計しておかれたその人生に逆らい、背を向けて、私たちが勝手に暮らすとしたら、その時から神様と継続争いながら人生を暮らさなければならなくなります。いばらとあざみの道を歩いて行かなければならなくなるのです。『人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。』と聖書に記録されています。ですから、神様と共に人生を暮らす人が最も幸福な人なのです。

神様は私たち人生の為に、用意周到に最初から最後までアルファとオメガで設計しておかれたのです。皆さんと私は、偶然にこの地に投げ出された存在ではありません。皆さんと私の人生は、神様のご計画によってこの世に生まれるようになさり、この世が造られる前に神様の御心によって私たちは召され、イエス様にあって救いを受けるようになされたのですから、私たちの未来も神様の御手によって既に設計されているのです。

ですから、主の御前にひれ伏して「主よ!、主は陶器師であられ、私は土器に過ぎません。主が私を造られた通りに従順に聞き従いながら生きて行きたいです。」と祈らなければなりません。神様中心に立って、従順に聞き従いながら暮らそうとしたら、主は皆さんの手を取って導いて下さいます。私たちの人生の目的は何でしょうか?私たちは、主である神様に礼拝を捧げ、従順に聞き従い、心から仕えながら生きることです。

皆さんと私はこの世の中で、自分の肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求するようにと造られたのではありません。私たちは、神様に仕えるために造られたのです。家庭で、職場で、また事業場で、神様に仕えるために私たちは造られたのです。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、命を尽くして、神様に仕える人生を暮らしたら、神様は私たちを祝福して下さるのです。

『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と言われました。人生は偶然に回って行くものではありません。人が努力し苦労するとして、自分の思いのままになるのでもありません。人は神様の摂理によって、運命が定められているのです。

ですから、神様を離れて人生を暮らそうとする人は、余りにも愚かな人であり、拳(こぶし)で岩を割ろうとする無謀な人です。このような人は、終局的には神様から見捨てられて永遠に火と硫黄が燃える池に、ゴミ屑のように捨てられてしまいます。自分が自分の人生の王様になろうとしては絶対にいけません。そうする時、主である神様は洪水の車に乗って来られて、私たちが王でないことを見せて下さるために、私たちを打ち砕かれます。神様だけが洪水を支配するまことの王様でありますから、皆さんの人生の中に、神様を王様として着座していただき、皆さんの胸の中に王様として着座して下さった神様が、皆さんの人生を支配されますよう主の御名によって祈願致します。




第三、神様がご自身の民に力と平安を与えられます

聖書を見ますと、神様を王として仕えている者には、主がご自分の民に力となられ、平安となられると記録しています。皆さん、この世を暮らしながら無力であることを感じる時がどんなに多いことでしょう。しかし、私たちが神様を心の中に王様として着座していただき、王様として仕えれば、神様が私たちの生活に力となって下さると言われたのです。私たちには力と知恵がないために倒れる時があまりにも多いのですが、神様が私たちの力となって下さるのですから、なんと素晴らしく、感謝すべきことでしょうか。

国が強ければ、その国の民たちは何処へ行っても、国が力になってくれるので侘びしさや孤独を感じることがありません。こんにちこの世は、力がなければ、その人は人たちに踏み躙られ、悲劇的な立場に立たれるようになります。個人や国家がみな同様なのです。ところが、主を信じる人たちは神様が力になって下さり、顧みて下さるようになります。罪を犯して気落ちしている時、神様は赦して下さり、再起の力を与えて下さるのです。

ペテロが、「イエス・キリスト」を知らないと3回も否認し、呪ったのにも、主は彼を捨てられませんでした。よみがえられた時に真っ先に、ペテロに伝えなさいと言われ、主が先ずペテロに御姿を現わして下さいました。気落ちしていましたが、悔い改めた時、再び起たせてくださり、力を与えて下さったのです。

皆さん!パウロ先生は数もなく人たちから見捨てられ、彼の生涯は監獄から監獄へと転々する暮らしでありましたが、神様が監獄の中にいる彼に力を与えて下さったので、彼は真理でありいのちである神様の御言葉を根気強く記録して、こんにち、新約聖書の大部分を監獄で記録して私たちの命の糧となるようにしてくれました。人たちから見捨てられて一人寂しい時に、我が主である神様は私たちと共に居られて、私たちに力となって下さるのです。

それでパウロ先生は、「ピリピ人への手紙 4章12節〜13節」に、『私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と言われたのです。私たちの主は、私たちの中で私たちの力となって下さり、どのような境遇にも適応する事ができるように、私たちを助けて下さるのです。

私たちが生活に失敗して絶望する時が、どれほど多いでしょうか。そして愛する兄弟たちと友人たちがすべてて離れて行き、自分一人だけが見捨てられたと絶望するようになる時も、神様は私たちの力になって下さって、あらためて再起する事ができるようにして下さるのです。人生の危機に瀕した時、天地のすべての不幸が襲ってくる時、天地を造られ、万有の主である神様が共に居て下さって、力となって下さるのです。

「イザヤ書 40章27節〜31節」を見ますと、『ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている。」と。あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。』と記されています。

ですから主である神様は、今日も皆さんと私の力になって下さるために、『すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしの所に来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と言われたのです。神様を私たちの中に王様として迎え入れたら、神様は私たちの人生の力となって下さるのです。

それだけではなく、主である神様は、私たちに平安を与えて上げようと言われました。神様は「アドナイ・シャロム!」平和の神様です。神様が私たちに王様としてご 臨在しておられると、私たちの心の中に平安が満ち溢れます。「ピリピ人への手紙 4章 6節〜8節」に、『何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもって捧げる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。』と記されているのです。

李承晩(リ・スンマン)大統領の時代に、無任所大臣を勤めた故"バク・ヨンスク"さんの証しは、私の心に今も感動を与えてくれます。「6.25朝鮮戦争」が勃発した時、彼女は避難することが出来ずにソウルに残っていました。北朝鮮軍がソウルを占領した時、彼女は平凡な行商人に変装して、頭には売り物籠を載せ、ゴム靴を履き、継ぎ接ぎだらけの着物を着て、漢江を渡り南へ南へと避難して行きました。ところが、天安(チョンアン)と言う所で共産軍に捕らえられました。彼女は酷い拷問を受け、夜通し取り調べられた結果、彼女が無任所大臣であったことが発覚してしまいました。

彼女はまだ若い女性でありました。彼女は行商人であると言い張りましたが、手がこんなにきれいであり、商売をしていると言うが足もこんなに綺麗で柔肌である筈がない、あなたは嘘を言っている…、と追求された結果、遂に閣僚経歴の人である事が発覚し、簡単に人民裁判に回されて死刑宣告を言い渡され、寒い冬、彼女は背中に共産軍の銃口を突き付けられたまま死刑執行場に引き連れられて行きました。朝の冷たい空気の中に、太陽の光が照り輝き始めました。

彼女は共産軍の銃口に小突かれながら、天安の或る山麓に向かって歩いて行きました。その時彼女は、自分が過ごして来た過去が、巻紙のように繰り広げられたと言います。彼女は教会に形式的に出席していました。ただ教会に行ったら良いと言われたからであって、心から「イエス・キリスト」を救い主として迎え入れてはいませんでした。その間ずっと教会に出席していましたが、「イエス」を知りませんでした。死に向かって歩いて行きながら彼女は、過去に独立運動もし、国会議員にも、無任所大臣にもなりましたが、生きて来た過去の一切がすべて、何一つ意味がなかった、と言います。『空の空、すべては空…。』死に向かって歩いて行きながら彼女は、生きて来たすべてが空虚で無意味なものであったことを悟ったと言います。

その時、彼女ははじめて神に叫び呼ばわりました。彼女は死刑執行場に引き連れられて行きながら、「父なる神様!私は一生を神様なしに暮らして参りました。一生をこの世のために生きて来ました。私は教会に出席はしていましたが、イエス様を知らずに過ごしました。今日、私は罪を悔い改めます。すべての罪を告白します。死に向かって歩いて行くここで、イエス様を救い主として迎え入れます。イエス様!私を救って下さい!。」と、切に祈り求めました。

すると突然、彼女のたましいの中に太陽よりも輝かしい光りが入って来て、不安と恐怖が瞬間的に雪が溶けるように消え去りました。彼女の心は安らぎに満たされました。死に向かって歩いて行く足取りが余りにも平安で、嬉しさがこみあがって来ました。彼女は喉が張り裂けるほどに、「主よ、いよいよ近づかん、わが踏むべき十字架の・・・"と賛美歌を歌い始めました。後ろにいた共産軍の兵士が銃口で背中を小突きながら、"静かにしろっ!"と怒鳴りました。

しかし彼女は、「今死にに行くこの場で、私はあなたの言うことに従う事はできません。私はどうせ死ぬのですから、愛するイエス様を賛美するだけです。」と言って、継続声高く讃美歌を歌いました。そうして山麓に着いて見ると、既に穴が掘ってありました。穴の前で手を縛って立たされてから、"最後に言いたいことがあれば言え。"と言う共産軍兵士の言葉に「最後の祈りを捧げたいです。」と答えました。

ところが、何とも心が平安で気持ちが良く、死に対する恐怖が全然なかったと言います。こうして、一生を顧みるようにして下さった神様に感謝し、十字架に釘付けられて身を裂き、血を流されたイエス・キリスト、そして救って下さり、今すぐ天国に迎い入れて下さるイエス様に感謝してから、自分の背中に銃口を向けている共産軍兵士のために祈りました。「神様!この青年は私を、自分の意思によって死刑するのではなく、共産軍に引っ張られて来て、彼の上官の命令を受けて私を殺すようになったのですから、殺人の罪を赦して下さり、彼を救って下さい。イエス様を信じて、彼も天国へ行けるように導いて下さい…。」と切に祈ってから、その兵士に向かって、「さー、撃ちなさい。」と呼びかけました。ところが、彼は撃たなかったと言います。

「早く撃ちなさい!」と言うや、彼はしくしく泣きながら、"あなたが私を泣かせたじゃありませんか。"と言ったと言います。「それでは、泣かずに早く撃ちなさい。」と言うと、その青年は、"私は共産軍に徴集される前には、家族が皆イエスを信じる家庭で育ちました。私の母が教会の執事で、朝夕祈りましたが、今、あなたが祈ったのと同じく私の母も毎日祈っていました…。母が思い出されて、あなたを撃つ事ができません。"と言いながら、目隠しはずし、縛っていた捕縄も解いてくれながら、"今、天に向かって撃ちますから、あなたは早く逃げなさい。私はあなたを撃つ事ができません。"そこで彼女は、無我夢中で履いていた草鞋(わらじ)を手にとり、死にものぐるいで逃げましたが、その兵士は空に向かって機関短銃を撃ちまくり、それから何もない墓穴を土で埋めてから帰って行ったと言います。

その後、バク・ヨンスクさんはソウルが奪還されてから、国会議員になって国会に入り、最初の「国会朝餐祈祷会」を組織し、「大統領の為の朝餐祈祷会」も彼女が組織しました。彼女が私を自分の家に招いて、この証しを聞かしてくれました。そして彼女は、「私は一生を政治家として暮らし、政治的栄華にも随分恵まれましたが、死の前に立った時は、すべてが空しく、何の甲斐がなく、今から政治家として残った余生を生きる間は、どのようにしてでも、大統領や政治家たちを全てイエス様のもとに導き、福音を伝える為に生きるつもりです…。」と語るのを聞いたことがあります。その時彼女は、イエス様が心の中に入って来られた時、死に向かって行くその足取りが余りにも軽く、平安で、喜悦に満ち溢れたと、語りました。主であられる神様が私たちに平安を与えて下さらなかったら、そのような平安は私たちが得ることは出来ません。神様は、ご自分の民に平安を与えると言われたのです。

私たちが暮らしながら洪水に遭った時、洪水に乗って来られた神様にお会いして、神様の御前に出て行くようになれば、その洪水が却って祝福に変化するのです。そして洪水の体験を通じて砕かれ、従順に聞き従うようになり、正しい信仰の中に立つようになれば、神様が王様として私たちの中に着座されるようになります。私たちが神様を王様として崇め、伏し拝み、お仕えしながら暮らす時、神様は私たちの力となって下さり、私たちの平安となって下さり、私たちを祝福して下さるのです。




お祈り

全能であられ、聖なる我が父なる神様!主が、王様として仕えられず、王様として礼拝されずに居られる事を余りにも残念に思います。ほとんどの聖徒たちが神様を「主よ!」「主よ!」と呼ばわっていますが、神様を王様として崇めず、王様として認めておりません。

それで主である神様は、洪水の上に着座されて私たちに近づいて来られるのです。人たちは洪水に遭って苦難と患難の中で砕かれ、そうしてからはじめて神様を王様として崇め、仕えるようになります。

愛であられる我が神様!神様は永遠なる万物の王様であられ、歴史の王様であられ、私たち人生の王様であられます。今日、王の王、主の主であられる神様の前に膝をかがめて悔い改め、すべての罪を告白し、神様を私たち人生の中に王様として迎え入れ、礼拝を捧げ、心から仕えながら生きる私たちとなるように助けて下さい。

神様の御子「イエス・キリスト」を救い主として受け入れ、私たちが神様を王様として仕えながら生きる時、神様が私たちの力となって下さり、神様が私たちの平和となって下さり、この世では平和、主の御国入って行っては祝福となって下さることを感謝しながら、イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!