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「人生にくたびれ、落胆する時」
 






■聖書箇所

「ヤコブの手紙 5章 7節〜11節」
5: 7 こういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
5: 8 あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
5: 9 兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
5:10 苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
5:11 見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。




今日、私は皆さんとともに、『人生にくたびれ、落胆する時』という題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

聖書に出てくる人物の中で、もっとも大きな試練と不幸に会って絶望した人がいます。それはヨブという人でありました。彼は一時、東の人々の中で一番の富豪であり、潔白で正しい人でありました。彼には息子が7人、娘が3人、羊が7千頭、らくだが3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭、それに非常に多くの男女のしもべがありました。そして彼は、潔白で、正しく、主である神を恐れ、悪から遠ざかっていましたので、神様から親しくほめられるほどでありました。

ところが彼は1日のうちに、家が崩壊して息子も娘もみな失い、異邦人の盗賊たちに襲われて家畜をすべて奪われてしまいました。瞬く間に素寒貧になりました。その上に、全身に悪性の腫物が生じて、灰の中にすわって土器のかけらで自分の身を掻く、そのような哀れな身の上になりました。その時、彼の妻までもが来て「神を呪って死になさい。」と暴言を吐いて離れて行きました。

ヨブを慰めに来た3人の友人さえも、ヨブを「あなたの罪のために、神から罰を受けるのだ。」と責めました。しかしヨブはそうした中で、嘆き、落胆はしましたが、最後まで神様を怨むとか、信仰を捨てることはしませんでした。




第一、偉大な信仰者にも落胆することが訪れます

皆さん、偉大な信仰者だからといって、絶対に落胆するようなことがやってこないのではありません。神様をあつく信じ、信仰を立派に守る人であるのに、何故不幸が訪れ、試練や患難が襲って来るのでしょうか?神様は、偉大な信仰者であるからといって「あなたは不幸にも会わず、試練にも患難にも会わず、落胆するようなことにも見舞われることはない・・・。」と、免責特権を与えられはしません。

皆さん!聖書を見ますと、偉大な信仰の父であるアブラハムは、神様から約束をいただいて、75才の時に生まれ故郷、父の家を離れて約束の地に行きましたが、そこには大きな試練と患難が彼を待っていました。カナンの地に入って行きましたが、飢饉で食べるもの、飲む水がありませんでした。引き連れてきた家畜はみんな飢えて死んでしまい、しもべや親戚の人たちはみな去って行き、彼は拠り頼むところがない、大きな試練にぶっつかりました。

アブラハムは偉大な信仰者でありました。それにもかかわらず、彼は落胆して妻と一緒にエジプトに下って行きましたが、エジプトのパロ王が彼の妻サラの美しさを見て彼女を奪い、自分の妻にしてしまいました。天地が真っ暗になる試練と苦難でありました。幾日か過ぎてから、神様がそのような環境から救い出して下さいましたが、偉大な信仰者だからといって、試練と患難に襲われることがないのではありません。

またイサクは、「全焼のいけにえとして、イサクをわたしに捧げなさい。」という神様の命令を受けた父アブラハムに連れられて、モリヤ山に行きました。イサクは成人になる前に死ななければなりませんでした。父が彼を縛って祭壇の上のたきぎの上に置くとき、イサクは深い絶望に陥りました。主の御使いが天から「彼を殺してはならない。」と叫ばなかったら、イサクの心臓には父の刀が刺されていたでしょう。なぜ、選ばれたイサクにこのような苦難が襲い、落胆するしかないことが起こったのでしょうか。

ヤコブも同様です。母の兄ラバンの家で20年間しもべの生活をした後、やっと財産を集めて妻子とともに故郷に向かって帰る途中、兄エサウが400人の兵士を引率して彼を殺しに来る、という知らせを聞いて彼は落胆し、絶望しました。肝胆が冷え、腸がちぎれるようでありました。大きな試練と患難と落胆に襲われました。

ヨセフも同様でありました。後にエジプトの総理大臣になりましたが、ヨセフは17才の時に、兄さんたちから憎まれてエジプトへ行く隊商に売られ、ポテファルの家で10年間奴隷生活をしました。あらゆる侮辱と屈辱に会い、ようやくその家の管理人となって少しは楽になったときに、今度は濡れ衣を着せられてヨセフは監獄に閉じ込まれました。いつ出られるかも知らずに3年の間監獄暮らしをしました。17才の時に故郷を離れ、13年の間彼が大きくなるまで、ヨセフは数多くの試練に会い、大きく落胆もしました。

モーセにもそのようなことがありました。モーセは40才の時に、革命を起こして国を救おうとしましたが、かえって同族の背信にあって彼は逃げ出し、ミリアムの荒野へ行って若い青春を40年間もさまよいながら涙の日々を送り、80才になるまでそこで過ごしました。彼の絶望はあまりにも大きいものでありました。彼は立っても坐っても涙を流しました。

もちろん、この偉大な信仰者たちは、最終的には神が近づいて来られて彼らを大きく用いられ、人類の歴史を変化させて、私たちの生活に偉大な光を投げてくれました。しかし彼らの初期には、信仰者だとして神様が彼らに落胆や試練や苦難に会わないように、それらを免除して上げることはなさいませんでした。




第二、なぜ、信仰者に落胆することが訪れるでしょうか

人たちはよく、このような質問をします。「なぜ、信仰者に落胆するようなことが訪れるのですか?」「なぜ、あの長老様にそんなことが起こったのでしょうか?」「なぜ、執事さんのお宅にそのような患難が襲って来たのですか?」「なぜ、あの牧師先生がそのような悲劇に遭わなければならないのですか・・・?」

皆さん、最近の国民日報に現在の農水産部長官である長老様の証しが載っています。私はその証しを読んで感動しました。彼の奥さんが早天祈祷からの帰りに教会の前で交通事故に遭い、脳震盪を起こして入院しましたが、手術を受ける途中に亡くなられました。奥さんが亡くなられてからいくらも経たずに母親が亡くなられました。母親が亡くなられてから1年も経たずに、今度は父親が亡くなられました。引き続く家族の死に会って、彼は完全に絶望しました。イエスを信じる人に、何故、このようなことが起こるのでしょうか?

もちろん、彼は今や長老であり、農水産部の長官にまでなりましたが、以前は多くの人々から、「イエスを信じているのになぜ、あんな目に遭うのか?イエスを信じて得る利益は何か?イエスを信じると言うのに、どうして神がそのような試練と患難から助け出してくれないのか・・・?」という質問を浴びせられていたのです。

しかし皆さん!私たちに試練と患難が襲ってくるのは、神様の綿密な計画と御心があるからなのです。私たち人間は皆、アダムとエバの子孫であり、その血統を受け継いでいるので堕落した存在です。神を信じずに不従順し、拒み、逆らった罪が心の中にたまっているのです。それで、神が人間をしもべとしてご使用なさるためには、砕かずにはご使用することができません。私たちに数多くの試練と患難がやってくるのは、私たちの我執と自我を砕くためなのです。

人間は、自分の誇りと自分の能力に拠り頼み、それを自慢しながら生きています。少しでも仕事がうまく捗ると、自分の知恵や知識、能力、手段、方法によってすべて成功したのだ。私を見なさい、と自分を自慢します。人間の一番恐ろしい罪が高慢です。『高ぶりは破滅に先立ち、心の高慢は倒れに先立つ。』と、聖書に記されています。しかし、人間はこの高慢の罪を自ら脱ぎ捨てることができません。ただ、試練にあって心に落胆が襲ってきたとき、人間は自慢と能力の限界をはじめて悟るようになります。

「コリント人への手紙 第二 10章 5節」には、『私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ…、』と記されています。神様は、人間の高慢と人間の自慢を破棄させ、砕くために落胆を経験するようになさるのです。人間は落胆を体験しない事には自我中心の我執が砕かれません。我執が砕かれていない人を神は用いられません。そのような人に祝福や神の仕事を任せては天の御国がめちゃくちゃになってしまいます。

それで、神に大いに祝福される人は、神から大いに砕かれた人です。自我が砕かれて神の前に完全に降伏したその人を、神は祝福して下さるのです。試練と患難と落胆が襲って来ないことには、人の我執は砕かれません。信仰者に落胆することが訪れるのは、神がこれから先、祝福して上げるためにその信仰者の自我を砕くためなのです。

また、真実な神の人にするために試練が見舞い、落胆することが訪れるのです。人が自分の道を捨てて、神の道に歩むようにすることは容易なことではありません。自分の道を行く人は、自分の道が良い、自分の計画が正しいと思い、そうして自分の地位、名誉、権力、富貴、栄華、快楽を追求します。しかし、試練と患難と苦難が襲ってきて、地位も名誉も権力も富貴も快楽もすべて奪っていってしまいます。全く素手になります。

そうなってから初めて、私の道が間違っていたのだ!神の道、神の御国とその義とをまず求めながら生きる道が、まことの道なのだ、と悟るようになります。「天のお父さま、私に臨んでください。私を助けてください。主の前に両手を上げます。主が私を憐れんで下さらなかったら、私はどうしましょうか・・・。」と、そのように変化するのです。これは落胆される体験をしてこそ、起こる変化です。

そのような体験をしてから初めて、『主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい…。』と言うことを悟るようになるのです。そうして、神様の御力に拠り頼まないことには、すべてのことが空しいことを悟って、真実で純粋な信仰に立ち返るようになります。それこそまことに砕かれ、心から悔い改めるようになるのです。

「イザヤ書 55章 6節〜7節」に、『主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。』と記されています。

ですから、不純な動機で人生を生きていた人が試練に遭って落胆し、苦難に陥ったときにはじめて砕かれて信実な信仰者になり、まことの神の人に造られるのです。そうするために、神は私たちに落胆する事をもたらされるのです。また、私たちが試練と患難にぶつかって落胆したり涙を流してみてこそ、強靭な信仰者になれるのです。

子どもを育てるとき、強健な子どもにするためには苦労をさせなければなりません。昔の諺にも、憎い子には餅を余計にやる!愛する子には旅をさせよ!と言われています。旅に出したら、何を食べようか?何を飲もうか?どこで寝ようか…?すべてを自分が判断し、自分が解決しなければなりませんから、苦労するようになります。

この頃の子どもたちは、親の言うことをなかなか聞かず、よく抵抗します。また、たやすく挫折したり、落胆したり、簡単に犯罪の巣窟に陥ったりします。それは苦労を知らずに育ったからです。あまりにも'過保護'され、苦しみや悲しみに会ったことがないので、ちょっとした困難にも落胆し、挫折してしまいます。強い信仰の人格者に造り上げるために神は色々な試練と苦難を送られて、それらにぶつかるようになさるのです。そして、人たちはこれらを克服してこそ、信仰の勝利者になれるのです。

ですから、試練と患難を涙を飲んで耐え抜き、それを祈りを通して消化してこそ、強い信仰者になることができるのです。平坦な道だけを歩いて行っては、絶対に強い信仰者にはなれません。神が用いようとなさればなさるほど強い信仰者につくりあげます。強い聖徒になるためには、激烈な試練と患難を経験しなければなりません。

皆さん!運動する人は絶えず体に重い荷重を加えたり、肉体の限界点を苦しみながら克服する訓練をします。そうしてこそ筋力が発達し、力が強くなるのです。抵抗力が生じるのです。「ヤコブの手紙 1章 2節〜4節」に、『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』と記されています。

また、試練と患難が襲って来たとか、落胆することが起こってこそ、神の栄光を体験することができるようになるのです。人間が落胆したときに神の救いが現れるようになります。人たちは、自信満々であり、すべてが自分の思う通りに捗る、といった時には神の救いを願いません。神が来られて働いてくださる隙を与えないのです。

神が「わたしと少し話をしましょう。」といくら言われても、「私、今忙しいです。後にしてください。」と言います。「わたしがあなたの生活に入っていって、一緒に働くようにしましょう。」と言っても、「要りません。今は助けて貰う必要がありません。私の力で充分にできます。」こうして、神が共に働いてくださる機会を、隙を与えないのです。

しかし、落胆するときには、「神様、私を助けて下さい!」と、主に機会を差し上げます。主が人間社会に干渉することができるようにして差し上げるのです。それで、主が来られて助けて下さり、神の奇跡を体験するようになるのです。私たちが苦難と患難に遭ったときに神を体験するのであって、すべてが順調で幸いであるときには、神を体験すべき事がありません。

私たちが苦難にぶっつかって主に呼ばわり求めれば、神は「イザヤ書 41章10節」を通してこう仰せられます。『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。』皆さん!神の助けを求める人に、神がこうして下さるのです。助けを求めない人には、主がこのようにしてはくださいません。




第三、落胆する時にはどうすべきでしょうか?

それでは、私たちが落胆する時にはどうすべきでしょうか?落胆する時に、どのような姿勢を取らなければならないでしょうか?皆さん、落胆することに出会って破滅される人もあり、落胆することが起きたときに却ってそれを克服して、もっと偉大な人生の道に踏み出す人もいます。落胆は人を破滅させることもあり、却って私たちを立てて偉大な勝利者にしてくれることもあるのです。

落胆それ自体に問題があるのではありません。落胆が襲ってきたときに、それに対応する私たちの姿勢に問題があるのです。私たちは落胆する時に、どのような姿勢で人生を生きて行かなければならないでしょうか。

まず第1に、落胆する時には、すべてを差し置いて私たちは教会に出てくるか、祈祷院に行って、呼ばわり祈り求めなければなりません。なぜなら「ヤコブの手紙 5章13節」に、『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい…。』と言われたからです。また、『あなたはわたしを呼べ。そうすれば、わたしはあなたに答え、あなたの知らない、理解を超えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と言われました。神はひとえに祈る人とのみ共にいて下さいます。祈るとき、私たちの人生に神が入って来られてみわざを働かして下さるのです。

ですから、皆さん!私たちが苦難に遭い、落胆する時、人たちを訪ねて行って何とか同情を受けようとしたり、慰めて貰おうとしてはなりません。人たちは、落胆したり、捨てられた人の側には立ってくれないからです。怨み、嘆き、寝込むとして問題が解決されるのではありません。自分の力で解決しようとしても何の役にも立ちません。水におぼれて死にかけている人が、自分の力で水から出て来ることはできないのです。

落胆するその時、私たちには神の助けが必要ですから、祈らなければならないのです。「ローマ人への手紙 12章12節」に、『望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。』と記されています。また、『あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。』とイエス様は言われました。

私たちの主イエス・キリストの働きを通して見ても、祈らないのに主が行って癒して上げたり、助けて上げたりしたことはありません。主が、盲人の乞食バルテマイが座っている前を通って行かれました。それを知ったバルテマイが叫び祈ったときに、主が向きを変えて呼び寄せられ、彼を助けて下さいました。祈る前には、そのまま通り過ぎて行かれたのです。

ですから、落胆する時は、私たちはすべてを差し置いて神の前に悔い改め、告白し、砕かれ、祈るときであるということを悟って、祈る場所に入って行かなければならないのです。

第2番目に、落胆する時には、希望と肯定的な心とを捨ててはいけません。落胆すれば、悪魔がやってきて私たちの心に重くのしかかります。そうしてから、こう言います。「あなたに苦しみを与えるあの人を、今すぐにナイフで刺し殺しなさい。」「斧で、彼の後頭部を叩き割ってしまいなさい。」「薬を飲んで、自殺しなさい。」「仇を討ちなさい。」「勝手になれと放棄して、すべて諦めてしまいなさい…。」と。

このように、サタンは私たちに否定的な考えを注入します。このようなサタンの囁きに惑わされて事件を起こし、社会を驚かせ、その内容が新聞の社会面に大きく載せられることが多くあります。私たちは、落胆する時には、それこそ希望と肯定的な心とをしっかりと両手で掴み、握らなければなりません。絶対に、敵悪魔が来て私たちを落胆させるとか、否定的な人にさせることができないようにしなければなりません。

「ヘブル人への手紙 12章 2節〜3節」を見ますと、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。』と記されています。

イエスを考えなければなりません。主イエスはそんなに愛し、恵みを施した罪人たちに捨てられ、訴えられて十字架につけられましたが、主は落胆したり、彼らを憎んだり、呪ったりしませんでした。否定的な考えをしたり、放棄したりしませんでした。主は最後まで神にご自分のすべてを委ねられました。

皆さん!同様な苦難に遭い、それらに勝った聖書の人物と聖徒たちの生涯を、私たちは落胆する時に振り返り、調べて見る必要があります。私は今のこの教会を建てるとき、本当に耐えられない多くの試練に遭い、数もなく落胆しました。そうしたとき、私が胸にいつも抱いて過ごした本があります。それは"聖書"と"ジョージ・ミュラーの本"でありました。

ジョージ・ミュラーはドイツ人でありましたが、英国に渡って行って英語を勉強し、宣教師になろうとしました。ところが、英国にあまりにも多くの孤児たちが道端に溢れており、飢えにあえいでいるのを見て、『神は孤児を助ける方であり、孤児としいたげられているものをかばってくださる方であり、孤児とやもめをささえられる…。』という詩篇の御言葉を思い出して、孤児たちの父になろうと決心しました。

彼は、誰にも物乞いをせず、誰からも助けを受けずに、ただ、跪いて神に祈ることにより約2,3千名の孤児たちを食べさせ、着させ、学ばせ、結婚もさせたという、ジョージ・ミュラーの偉大な生涯を記述した彼の自叙伝を、私はいつも胸に抱いて過ごしました。

なぜ?あまりにも周囲環境が苦しく、落胆するしかない羽目に陥り、目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もないとき、聖書の御言葉とジョージ・ミュラーの体験、現実に私たちの世代に生きたジョージ・ミュラーが神に祈ってその苦難を克服した体験談が、私にいつも勇気と希望と肯定的な心を持つようにしてくれたのです。

それらを通して私は、落胆することなく、逃げ出すこともせず、すべてに勝つことができました。ですから落胆する時には、希望と肯定的な心を持たなければなりません。希望と肯定的な考えを持たせてくれるそのような本を読み、そのような人たちに会わなければならないのです。

第3番目に、落胆する時、私たちは神の御言葉に深く沈み込まなければなりません。なぜなら、信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについての御言葉によるのだからです。御言葉以外には、私たちに信仰を与えてくれるものがありません。人たちに会えば、大概が責めるか、教訓をしようとします。落胆した人に助けの手を差し伸べようとする人は別にいません。また助けをほどこすこともできません。ひとえに私たちを絶望から救い出すことができるのは神様だけです。

それでは、神をどこで会うことができるでしょうか?神は聖書の中で会うことができるのです。私たちが聖書を「創世記から黙示録」まで深く読み、口ずさみ、聖書の中にとっぷりと浸かっていたら、神の御言葉が私たちの心の中に大いなる力で癒しのみわざを働かして下さいます。落胆する全ての要素をみな取り除き、心の否定的なとげををみな抜き取り、心を信仰と御言葉で満たしてくれるのです。それで、「出来る!」「やってみよう!」「もう一度やってみよう!」という勇気を持たせてくれるのです。これが聖書の御言葉の偉大な力です。ですから落胆する時には、いつもよりも聖書の奉読を熱心に継続しなければなりません。

もちろん皆さん、平素も聖書を組織的に、また継続的に読み、研究しなければなりません。神の御言葉を一日でも読まないとしたら、もはや信仰が揺れ動き始めたのです。聖書は「信仰の糧」です。ご飯を食べずに活動することができるでしょうか。信仰の栄養がまさに御言葉ですから、御言葉をいつも読み、聞き、口ずさまなければならないのです。

「マタイの福音書 4章 4節」に、『イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」』と記されています。

第4番目に、私たちが落胆する時には、執り成しの祈りを頼まなければなりません。自分の力では耐え抜くことが難しいですから、落胆する時には、一番近い人たち、主のしもべとか、長老、勤事、地域長、区域長、教区の家族たちに祈りの助けを求めなければならないのです。皆さん!執り成しの祈りには凄い力があります。韓国に「紙一枚も相持ちすれば楽だ。」("易いことでも共同ですれば能率が上がる"の意)という諺があるではありませんか。一人が千人を追い、二人が万人を敗走させると言われました。執り成しの祈りには、そのように力があるのです。

祈りの同志があるということは、素晴らしい祝福です。私は、牧師の中でももっとも祝福された牧師です。なぜかと言えば、私たちの教会の70万を越える聖徒さんたちが、祈るときに必ず一度は私のために祈って下さるからです。その力がどんなに大きく強いでしょうか。凄い力です。その力があるので今日も私は牧会をすることができるのあり、世界宣教にも駆けまわることができるのです。私が自分の力で何かをしたことは一つもありません。

皆さん!聖書を見ますと、使徒パウロ先生は、手紙を書くときにいつも聖徒たちに祈りを頼みました。自分が開拓した教会、自分が救った人々にいつも祈りを頼みました。「テサロニケ人への手紙 第二 3章 1節」を見ますと、『終わりに、兄弟たちよ。私たちのために祈ってください。主のみことばが、あなたがたのところでと同じように早く広まり、またあがめられますように。』と書き送りました。

「サムエル記 第一 7章 8節〜9節」を見ますと、『そこでイスラエル人はサムエルに言った。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」サムエルは乳離れしていない子羊一頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主にささげた。サムエルはイスラエルのために主に叫んだ。それで主は彼に答えられた。』と記されています。

このように皆さん、執り成しの祈りはあまりにも大きな力を持っています。患難にぶっつかり、落胆する時は、自分自らはなかなか祈る力が生じません。絶望状態に置かれたときには、自分に代わって祈ってくれるように、よく祈る人にお願いしましょう。そうしたら、その人たちが皆さんのために祈るのを神が聞かれて、皆さんに助けの御手を差し伸べて下さるのです。

第5番目に、試練と患難が襲って来て落胆する時、皆さん!無条件に感謝してください。『すべての事について、感謝しなさい。』と言われたのですから、感謝する条件を考えずに感謝しなければなりません。良い事があるときにだけ感謝するのではなく、悪い事があるときにも感謝し、成功したときにだけ感謝するのではなく、失敗したときにも感謝し、健康であるときにだけ感謝すべきではなく、病気のときにも感謝しなければなりません。

「詩篇 29篇10節〜11節」に、『主は、大洪水のときに御座に着かれた。まことに、主は、とこしえに王として御座に着いておられる。主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。』と記されています。主は洪水の上に座って、洪水を車にして私たちのところに来られると言うのです。ですから試練と患難が押し寄せてきた時、私たちの目にはそれが試練と患難に見えますが、聖書にはその試練と患難の洪水の上に神が乗って来られると言われたのです。

試練が訪れたら、神も共に来られるのです。神は王として来られますので、試練の洪水を支配することができます。洪水が押し寄せて来た時、私たちがそれを退けようとしたり、怨んだり、足掻いたりしたら、神が乗って来られる車を退けることになります。試練と患難が通り過ぎた後には、それと同等、或いはそれ以上の祝福が私たちに近づいて来ます。なぜかと言えば、試練と患難は神が乗って来られる車であるからです。

神の車を、私たちが奪ったらどうなるでしょうか。洪水の時、神はその洪水の上に座っておられるのです。洪水に乗って来られるのです。ですから、試練や患難が襲ってきたときには、「我が神よ!試練に会ったことを感謝します。患難に会ったことを感謝します。この試練と患難を通して神が私の人生に入って来られて、私が知らない偉大な事を私に成就させてくださることと信じます!」と告白しましょう。

「ローマ人への手紙 8章28節」に、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』と記されています。「神よ!この試練と患難を通して、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを信じます。有り難うございます!」と、感謝しなければなりません。『感謝のいけにえを捧げる人は、わたしを崇めよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と言われました。

第6番目に、落胆する時は、忍耐すべき時です。綱に縋って断崖を下りて行くとき、綱の最後の部分に至ったら、その部分を手にしっかりと巻きつけて、次ぎの手段を考えます。暴風雨は、時が至ったら止みます。十五夜の満月(望月)も、時が経ったら欠け始めます。暴風がいくら激しくても、時間が経ったら通り過ぎてしまうのです。ですから、暴風が通り過ぎるまで、目をつぶって待たなければなりません。落胆して後に退いてはいけません。

『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』と聖書に記されています。ですから皆さん、絶対に後に退いてはいけません。忍耐しなければならないのです。試練を上手に克服したら、いつも試練の洪水は祝福の車に変わります。

ヨブは極限の厳しい試練を立派に耐え抜いたあげくに、倍の祝福をいただきました。『主はヨブの前の半生よりあとの半生をもっと祝福された。それで彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。また、息子七人、娘三人を持った。』と、聖書に記録されるほどに神から祝福されました。また、ヨブは140才まで生きながら、自分の子と、その子の子たちを4代目まで見ました。

試練と患難だけがあるのではありません。その後に私たちの神は、それと同等、或いはそれ以上の祝福を持って必ず近づいて来られるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、私たちの父なる神様!私たちは生きて行きながら、落胆する時が多くあります。私たちは真っ暗な闇夜に会った時、東西南北が判断し得なくなったとき、絶望します。しかし、全知全能なる天のお父さま!私たちが試練と患難の死の陰の谷を歩くとき毎に、目には見えないけれども神様が私たちと共にいて下さり、主のむちと主の杖で私たちを導いて下さるということを悟るようにして下さい。

そうして下さることによって、私たちが落胆することがないように助けて下さい。落胆する時には、我が父なる神様!私たちが正しい態度を持って克服することができるように助けて下さい。私たちの主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン!