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「深みに漕ぎ出して、網をおろしなさい」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 5章 1節〜7節」
5: 1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、
5: 2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。
5: 3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。
5: 4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。
5: 5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」
5: 6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
5: 7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。




イエス様が、ゲネサレ湖の岸辺で御言葉を伝えておられましたが、ちょうどそこに小船が二艘ありました。漁師たちが夜通し働いて、朝になって船から降りて網を洗っている時、イエス様がそのうちの一つの船に乗られました。その船はシモン・ペテロの船でした。イエス様が、陸から少し漕ぎ出すように頼まれました。そしてイエス様はその船に座られて、群衆に神様の御言葉を宣べ伝えられました。

主が御言葉をみな終えられてから、シモン・ペテロに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を獲りなさい。』(ルカの福音書 5章4節)と言われました。ペテロは夜通し網をおろして、一匹の魚も獲る事ができなかったのですが、ペテロは御言葉に拠り頼んで、深い所に行って網をおろしました。すると魚がたくさん入って網が破れそうになりました。ペテロは別の船にいる仲間に助けを請い、自分の船にも、仲間の船にも、魚をいっぱいに満たしました。




第一、神様の御国とその義とを先ず第1に求める従順

シモン・ペテロが、イエス様に船をお貸しして、イエス・キリストに仕えたと言うこの事実が、私たちが注目しなければならない事実です。何故かと言えば、シモン・ペテロには、その船は彼の事業道具であり、生計維持のために欠かせぬ道具でありました。魚を獲る、獲れないは、彼の全家族が生きるか、死ぬかの問題であります。家族の生計が漁の多寡にかかっておりました。

ところが、主がその船に乗られ、世俗的な生業をいったん中止して、福音伝播と天国事業の為に船を貸してくれと要求なさったのです。シモン・ペテロは、「すみません。今は船を整備しなければならず、網を洗って繕ろわなければなりませんので、私には時間がありません。どうぞ他所に行ってください。」と拒むこともできました。しかし、シモン・ペテロは何とも言わずに、イエス様に船を貸して差し上げました。イエス様に船を差し出して、黙って見ているシモンを見て仲間たちは、嘲笑ったはずです。

こんにちも、イエス様は私たちに突然、私たちの職場、私たちの時間、私たちの努力を要求なさる時があります。言うまでもなく主は、「主の日を聖なる日として守るよう」事業や職業を暫時中断しなさい、と要求なさいます。ペテロに、船を岸から少し漕ぎ出すように頼んで、その船を御言葉を教える講壇にされた如く、主は、今日も私たちに、事業や生計手段などを暫く中断しなさいと言われます。

また、主が必要となさる時は、忙しくても時間と体を捧げて献身するように命じられます。それを理解する事ができない家族や友達は、狂信者だとして非難し、イエス様を信じる態度が間違っていると後ろ指を差したりもします。しかし、ペテロの船を借りられたイエス様が、その船を借りた代価を厚く報償して下さったように、こんにちも、私たちがイエス様にこのように仕えれば、その代価を必ず主が報償して下さいます。

聖書には、主がペテロに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を獲りなさい。』と言われたと記されています。ペテロが夜通し網をおろしたのは、ガリラヤ湖の浅い岸辺でありました。夜には魚が浅い岸辺に出て来ますので、浅い所に網をおろし、また夜は真っ暗で何も見えませんし、危険ですから、深い所に船を漕いで入ることをしません。ところが主が、その浅い所を離れて、『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を獲りなさい。』と言われました。

主は私たちに、浅い所を離れて、深い所に行って網をおろしなさいと言われます。浅い所を離れなさいと言う事は、私たちが生活しながら、苦難を通して砕かれなければならないと言う事です。この世の暮らしは、浅い暮らしです。私たちがこの浅い暮らしから離れて、深い所に入って行くためには、苦難に遭わないことには不可能です。深い所に行く道は、まさに苦難の道です。この過程を通して、真理の深い海に入って行くことができるのです。

真理の深い海とは、他ならぬ神様の懐(ふところ)を言うのです。私たちが、浅い世を離れて深い神様の懐の中に入って行くためには、苦痛の道を通らなければなりません。苦痛の洞窟はまさに深い所にあるのです。




第二、苦難は有益をもたらしてくれます

「詩篇 119篇67節」に、『苦しみに会う前には、私はあやまちを犯しました。しかし今は、あなたのことばを守ります。』と記されています。

何故、苦難に遭わなければ私たちは深い所に入って行くことができないのでしょうか? 私たちは、苦難を通して悔い改めるようになるからです。苦難に遭う前には、肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求しながら、世俗に心酔して暮らします。しかし、私たちの生活の中に苦痛が襲ってくる、試練が迫ってくると、この世の中で自分が拠り頼んでいたものが、全く無力である事実を発見するようになります。苦痛が襲ってきたら、この世に縛っている「この世の絆(きずな)」が一つずつ、断ち切られるようになります。

この世の患難は、私たちをこの世に縛り付けている絆を、一つ、一つ、断ち切ってくれます。この世の中で、富貴・栄華・功名に豊かに与かり、何一つ不足・不自由がない人たちは、神様の懐(ふところ)に向かって入って行こうとしません。苦難が、深い世界に入って行く道なのです。大小を問わず試練とか、苦難、このようなものが私たちに襲って来て、私たちをこの世に縛っている絆をみな、断ち切ってくれるのです。苦難は、私たちに必ずしも損になるものではありません。苦難が私たちに大きな有益をもたらす場合が多いです。 ただ、苦難のトンネルを通過してこそ、人たちは浅い利己主義、我執、不従順を離れて、深い献身と従順の世界に入って行くことができるのです。苦痛にぶつかれば、利己主義が砕かれ、堅固な我執の殻が砕かれ、不従順が砕かれます。そうしてこそ、自分から抜け出て神様の世界に入って行くことができる道が開かれます。

「詩篇 119篇71節」には、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。』と記されています。苦難に遭う前には、神様の戒めを守ろうとせず、関心もありませんが、苦難に遭って自己が砕かれ、そしてはじめて、神様を畏敬するようになり、神様の戒めを守るようになります。苦難を通してはじめて、深い所から聞こえて来る神様の御声に耳を傾けるようになるのです。

浅いこの世の中で利己主義的に暮らす時には、世俗と貪欲の声しか耳に入ってきません。肉の欲、目の欲、この世の自慢以外には聞こえません。目に見えるものはみな、すべてこの世のものばかりです。しかし、苦痛を通して自我が砕かれた後は、この世の声が遠くなり、深い神様の懐の中から響いて来る神様の御声が、心の中に聞こえ始めます。

自分が苦痛の目に遭い、耐えられなくて神様の聖殿に来てひれ伏しているので、はじめて、講壇で御言葉を宣べ伝えている主の僕(しもべ)の声が、自分の心の琴線に触れ、胸を熱くします。私たちが苦痛を通して砕かれたあとに聖書を読むと、聖書の一節、一節が私たち自身に向かって仰せられている事を悟り、蜜よりも何よりも甘く、美味しくなります。

詩篇を見ますと、『主よ。深い淵から、私はあなたを呼び求めます。主よ。私の声を聞いてください。私の願いの声に耳を傾けてください。』(詩篇 130篇 1節〜2節) 『私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます。私のたましいは、夜回りが夜明けを待つのにまさり、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。』(詩篇 130篇 5節〜6節)と記されています。

深い淵から呼び求めると言うことは、深い苦痛の中から主に呼び求めると言うことです。苦痛は、高いのではなく、深いものです。苦痛の目に遭えば、その中で私たちは、はじめて神様に向かって、声高く呼び求め始めるようになります。ですから、私たちが苦難を避けてはいけません。

こんにち、教会に来てイエス様を救い主として受けいれ、信じ、神様の深い胸の中に抱かれた人の中で、大なり小なり苦痛の目に遭わなかった人は誰一人おりません。この世の中で富貴・栄華・功名に浸り、少しも苦痛の目に遭わない人は神様から捨てられた人です。そのような人は、この世の中で暫くは快楽にふけり、楽しいか知れませんが、彼らは深い所に入れなかったので、永遠のいのちを得る事ができず、神様の愛を知らず、天国に入る資格を得ずじまいになってしまって、かえって呪われた人生になってしまいます。

ですから、試練や患難に遭ったら、悲しまずに、かえって喜ぶようになりますよう、主の御名によって祈願致します。




第三、神様の深い胸の中に導くイエス様

試練と患難は、私たちへの主の御声です。私たちが苦難を体験する事によって浅い世界を離れるとしても、深い所に入って行くのはイエス様を信じ、従順に聞き従ってこそ、可能です。深い所は、まさにイエス様を通して入って行く神様の懐(ふところ)です。この宇宙のもっとも深い所がまさに神様のふところです。深い所に入りなさいと言うことは、即ち、神様の懐の中に入りなさいと言うことです。

そして深い所に入る道は、イエス様を通す以外にはありません。イエス様が、『わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、誰一人父のみもとに来ることはありません。』(ヨハネの福音書 14章 6節)と言われました。私たちが、いくら浅い世の中を離れると言っても、イエス様の道を通らないことには、神様の深い胸の中に入ることができません。イエス様だけが、私たちを深い所に導くことができます。何故かと言えば、イエス様ご自身が十字架の苦痛を通して、神様のみもとに行く道を広々と開け放して置かれたからです。

主は、この世に来られて、何か立派な哲学とか、一時的・世俗的教訓を教えられたのではありません。主が、十字架に釘付けられて限りない苦痛に会われました。それは、私たちの疾病、呪い、絶望と死を、主が背負って、神様の懐の中に入るすべてを塞ぐ壁を十字架の上で取り壊してしまう為でありました。イエス様が、御体を裂かれ、血を流して、神様のみもとに入って行く道を塞ぐ「罪悪の壁」をみな取り壊して、深い世界に入る道を開いて置かれたのです。

「ヘブル人への手紙 10章19節〜20節」は、『こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。』と記しています。

私たちは、神様の懐(ふところ)に抱かれて、網をおろさなければなりません。神様を信じ、神様に拠り頼み、神様の御力によって、この世に網をおろさなければならないのです。この世で暮らす人たちは、人間の知恵と知識と手段・方法で暮らしの網をおろしながら生きますが、私たちは、この世の浅い所を離れ、イエス・キリストを通して神様の深い懐に抱かれて、神様と共に人生を暮らします。

皆一緒にこの世で暮らしますが、霊的に、一人は神様の懐の外の浅い所に居り、ほかの人はイエス様を通して深い神様の懐の中に居るのです。一人は浅い岸辺で人間の手段と方法で暮らし、ほかの人はイエス様と共に神様の深い懐の中に入って、神様のお恵みと奇跡で暮らすのです。信仰を持って暮らす時、私たちの暮らしの中に奇跡が起こります。私たちの事業に奇跡が起こり、私たちの職場と家庭に奇跡が起こるのです。私たち個人の暮らしに奇跡が起こるのです。何故かと言えば、私たちが神様の深い懐の中で網をおろすからです。




第四、祈りの網をおろしましょう

イエス様は、ペテロに『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚を獲りなさい。』と言われましたが、私たちの「網」は何でしょうか? それはまさに「祈り」が私たちの「網」です。祈りを通して、私たちは神様の懐の中で魚を獲るのです。熱心に祈らなければ、神様の懐の中でも何も起こりません。私たちは神様の懐の中で、イエス様の御名によって主である神様に切に祈らなければなりません。

『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ書 33章 3節)と言われました。何事でも、イエス様の御名によって祈り求めれば、答えて下さいます。得られないのは、求めなかったからです。これが聖書の教えです。ですから、私たちが深い所、神様の懐の中に入って来たなら、昼夜、イエス様の御名によって神様の御前に切に呼ばわり、「祈りの網」をおろさなければなりません。

それでは、私たちは網をおろして、何を獲るのでしょうか? 網をおろして「赦し」と「義」の魚を獲るのです。私たちが、神様の懐の中に抱かれて切に祈れば、私たちのすべての過去の罪が赦され、そして神様が義と認めて下さる魚を獲ります。網が破れそうになる程、神様が赦しと義の魚で満たして下さるのです。

また、私たちは深い所で祈りの網をおろして、和解と愛の魚を獲り、喜びと癒しの魚を獲らなければなりません。神様の懐に抱かれて祈れば、神様が私たちに喜びで満たして下さいます。神様の懐の中で祈る人であれば、誰として喜びの魚で満たされない人はありません。神様の懐の中に抱かれて「祈りの網」をおろすのですから、私たちは癒しの魚を獲ります。私たちの肉体が病気に罹(かか)り、心が病気に罹り、生活が病気に罹ったとしても、神様は私たちを癒す神様であられますので、イエス・キリストを通して神様は私たちに「癒し」を与えて下さり、霊肉共にもっと健康であるようにと願われます。

そして私たちは、神様の深い所で「祈りの網」をおろして、祝福とすべてに幸いを得る魚を獲ります。私たちの神様の中には祝福があり、幸いがあります。この世には呪いがあり、貧乏があり、絶望がありますが、神様の懐の中には幸いがあります。祝福があります。神様の懐の中にあって、私たちは野にいても祝福され、家にいても祝福され、私たちのかごも、こね鉢も祝福されるようになるのです。

神様は、失敗なさったことがなく、貧乏であったことがなく、呪われたことがありません。私たちの神様は、幸いの神様であられます。神様は祝福と成功の根源であられます。その懐の深い所に行って祈りで網をおろしたら、どうして神様から祝福とすべての幸いとお恵みを頂けないことがあるでしょうか。

私たちは又、神様の懐の中の深い所に入って行って網をおろしたら、永遠のいのちと、天国の魚を獲ります。そこには永遠のいのちがあり、天国の栄光があります。死亡と黄泉(よみ)はみな去って、天国の栄光で満たされています。涙も悩みも嘆きも、離別することや苦しむことがない麗しい天国を、私たちは「祈りの網」いっぱいに獲って引き上げることができるのです。

これから私たちは、キリストにあってこのように祈らなければなりません。「主よ。御言葉によってもっと深く入るようにして下さい。聖霊さまによってもっと深く入って行けるようにして下さい。従順に聞き従うことによってもっと深く入るようにして下さり、信仰によってもっと深く入るようにして下さい!」

神様の懐の中にもっと深く入って、そこに祈りの網をおろす者は皆、神様の奇跡を体験するようになるのです。たましいが幸いを得ているように、すべての点でも幸いを得、また健康で、いのちを得るにしても満ち溢れるように得る奇跡的みわざが、神様の懐の中で起こるようになるのです。




お祈り

聖く、栄光であられる、父なる神様! 神様を知らない人たちは、この世の浅い岸辺で暮らしてから去って行きます。ところがイエス様を信じる人たちの中にも、神様の深い所を恐れて、浅い岸辺で暮らしてから去って行く人たちがあまりにたくさん居ります。

個人や家庭や生活や国家的に暴風が襲ってくる時、それは、この世の絆を断ち切り、自分の利己主義と我執と不従順を取り除いて、イエス様に従って深い所に帰って来いと言う、神様のお招きであることを人たちが悟るようにして下さい。父なる神様! 私たちがもっと深く、私たちの故郷である神様の懐の中に入って、祈りと信仰で網をおろすようにして下さい。そうして、自分の船も満たし、ほかの船も満たして上げる、神様のみわざを体験することができるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!