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「まことの解放と自由」
 






■聖書箇所

「ルカの福音書 4章16節〜21節」
4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読しようとして立たれた。
4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた。
4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、
4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」
4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。
4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました。」




神様は、1945年8月15日、アメリカを始めとした連合軍の「世界第2次大戦」勝利による(即ち、他人による)日本帝国からの解放と自由を私たちに与えて下さいました。私たちは先ず、私たちの名前を取り戻し、私たちの言葉即ち、韓国語を自由に使うことができるようになりました。(当時韓国は、日本植民地政策により強制的に、日本人式名前に「創氏改名」するよう、日本語を日常語・国語として使用するよう、強要されていました。)

1948年には、私たちの政府が樹立され、私たちの「太極旗」(国旗)が空にはためきました。解放と自由、この二つの言葉は圧政と束縛を体験しないことには、そのまことの意味を深く知ることができません。

しかし、私たちがいくら「環境的」に解放と自由を享受するようになったと言っても、それはまことの解放と自由ではありません。私たち自身が、悪魔と罪悪の束縛と拘束から解かれて、まことの自由を得ない限り、それはまことの解放と自由とは言えないのです。人間は皆、アダムの子孫です。アダムが堕落して悪魔と罪の僕(しもべ)となったその時以来、すべての人は生れた時から悪魔と罪の僕として生れるようになりました。

私たちは、私たち自身の力ではこの僕(しもべ)の生活から脱出することができません。それで、二千年前に神様の御子イエス様が来られて、私たちにまことの解放と自由を与える為に、私たちの罪、不義、醜悪、呪い、疾病…そして死を担って、十字架で苦難に会われました。イエス様は、その苦難を通して、私たちにまことの解放と自由を与えようとなさいました。




第一、貧しい人々に福音を伝えて、まことの解放と自由を与えられるイエス様

「創世紀 1章26節〜29節」に、『そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」ついで神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与えた。それがあなたがたの食物となる。』と記されています。

神様が人を造られた時、支配者として、王として造られて、生活に少しも不足する事がないようにと豊かに備えて下さり、アダムとエバのためにエデンの楽園を準備されました。元来、アダムとエバは貧しく暮らすように造られたのではなく、貧乏な環境の中に投げ出されたのでもありません。ところが、アダムとエバの子孫である私たちに貧乏が訪れたその理由は、私たちが堕落したために刑罰として襲ってきたのです。

「創世記 3章17節〜19節」は、『また、アダムに仰せられた。「あなたが、妻の声に聞き従い、食べてはならないとわたしが命じておいた木から食べたので、土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。あなたは、一生、苦しんで食を得なければならない。土地は、あなたのために、いばらとあざみを生えさせ、あなたは、野の草を食べなければならない。あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、あなたは土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」』と記しています。

こんにち、アフリカや北朝鮮等、貧乏がもたらす凄絶な絶望をご覧ください。赤貧と飢餓がもたらす破滅を見て下さい。イエス様が、この刑罰の束縛から私たちを解放させて下さいました。「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』と記されています。イエス様は、富んでおられる神様であるのに、人として来られて、貧乏なナザレの大工の家で育ちました。主は、ご使役を始められてからも貧乏を担われました。

「ガラテヤ人への手紙 3章13節」は、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。』と記しています。これは、キリスト・イエスによって、アブラハムへの祝福が異邦人にも及ぶようになさるためであります。イエス様がこの世に来られて、人類に刑罰として襲ってきた呪いを御体をもって返済なされたことを言うのです。

イエス・キリストがこの世に来られたのは、アダムとエバ以後、人たちが神様に背いたので受けるようになった、神様の刑罰としての貧乏と呪いを、イエス様がおん自ら御体でみな返済なさって、貧乏の代わりに祝福を、呪いの代わりにアブラハムへの祝福を私たちにも与えられるためでありました。

イエス様が、十字架に釘付けになられて息を引き取られる直前、『完了した。』と叫ばれました。それは主が、貧乏と呪いから、私たちにまことの解放と自由を与えたと宣布なさる「一言」でありました。キリスト・イエスにあって、私たちの御父が私たちに与えて下さったお恵みと愛と自由と解放は、まさに貧乏と呪いからの解放と自由を言うのです。ですから、イエス様にあって、私たちはすべての点で幸いを得るようになっているのです。




第二、捕らわれ人に、まことの解放と自由を与える為に来られたイエス様

神様は、絶対自由を持っておられるお方です。神様は、どこの誰からも束縛されたことがなく、束縛されることもない全知全能、無所不在なる神様です。人は、神様ご自身のかたちに造られました。人が神様に仕え、神様中心に暮らす間は、決してどのような束縛も受けることがありません。

しかし、人が神様中心に暮らす生活から離れたら、その時から、不安、恐怖、絶望、悪霊、罪、疾病、貧乏、憎悪、死…等、数多い破壊的勢力の捕虜になります。悪魔は、人たちを不安の捕虜にし、恐怖で束縛し、絶望、罪、疾病、貧乏、憎悪、死…等で、きつく縛りつけてしまいます。

人間は、生まれる時から悪魔の僕(しもべ)として生れ、悪霊の奴隷になって暮らしています。イエス様は、十字架でこのすべての敵対勢力を審かれ、復活を通して完全に打ち勝たれ、今は私たちの中に入って来られて、私たちを自由にして下さる偉大な力となっておられます。

「コロサイ人への手紙 2章14節〜15節」は、『いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記しています。主は、十字架に釘付けになられて「人類は悪のしもべである」との文書をみな破り捨てられ、悪魔の支配と権威に打ち勝って、私たちにまことの自由と解放を与えて下さったのです。

私たち自身に、力があるのではありません。私たちには、私たち自身を自由にし、解放させる力がありません。しかし、私たちの為に自由と解放をもたらして下さったイエス・キリストを救い主として心の中に受け入れるその時、イエス様が私たちの中に入って来られて、まことの自由と解放を与えて下さるのです。

私は、アメリカのある姉妹の証しを聞きました。彼女は16歳の時からお酒を飲み始めて、とうとう酒癖が悪い大酒飲みになりました。沢山の人たちから暴行され、悪い男の友たちに会って麻薬中毒者になりました。アルコール中毒、麻薬中毒者になり、初子を産みましたが、子供に乳房をくわえさせたまま、酒に酔って伏し寝をしたはずみに子供が息を詰まらせて死んでしまいました。

朝日が昇る時からお酒を飲み始めたら、晩まで飲み、その次には麻薬に浸りました。夫とも離婚してほかの男と暮らしながら、精神的苦痛から解放されようとして病院に入院もし、薬ものみ、色々と治療を試みましたが、それでも彼女は解放されることができませんでした。そうするうち、友人の一人が自動車事故で死に、そのお葬式に顔を出した所で牧師先生の説教を聞きました。そこで、心に大いなる感動を受けました。それで日曜日(聖日)に、彼女はその牧師先生が仕えている教会に出席しました。

牧師が礼拝を導いていました。人たちが拍手をし、手をかかげて喜び、賛美するのを見て、自分もあのようになることができないかしら? と熱くお恵みを思慕するようになりました。「主よ。私の力では、このアルコール中毒から逃れることができません。私の力では、この麻薬中毒からも抜け出ることができません。私は完全に麻薬の捕虜になりました。主よ、私を助けて下さい!」彼女は切に主を捜し、熱く祈り求めました。

そうするうち、主の御力が彼女の中に臨み始めました。彼女は徐々にイエス・キリストの御名に依り縋る中で、アルコール中毒と麻薬中毒から解放さていきました。一緒に暮らしている男もイエス様のもとに導いて、彼を酒の中毒からも、麻薬の中毒からも解放を得るようにしました。

このように、主イエス様が私たちの中に臨まれれば、主は、捕らわれ人である私たちを完全に自由にする偉大なみわざを働かして下さいます。私たちの中に、キリストが偉大な御力でまことの自由と解放を得させるみわざを働かして下さいますので、私たちは罪と悪魔の束縛と呪いからまことの解放と自由を得る事ができるのです。




第三、盲人の目を開いて、まことの解放と自由を与えて下さるイエス様

人は、「霊の目」と「肉の目」の二つの目を持っています。私たちが最初に造られた時は、霊の目が開かれていて、神様を見、霊の世界を見ながら神様と交際し、アダムとエバは神様の手を取ってエデンの園を散歩しながら神様と対話を交わしました。ところが罪に因って霊の目が遠くなりました。そして、霊の世界を見る事ができなくなったので、霊の世界との交わりが断ち切られてしまいました。その結果、感覚の奴隷になり、情欲とこの世の貪欲のしもべになってしまいました。

「ヨハネの手紙 第一 2章16節」は、『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』と記しています。アダムとその子孫たちは完全に霊が死んだので、霊の世界を失ってしまい、この世に従属し、情欲の奴隷となって暮らすようになりました。しかし、イエス様が来られて、新しく生れるようにして下さり、霊の目を開いて下さいました。

主が、私たちに代わって罪の刑罰を受けられ、神様と人たちとの間の罪の「隔ての壁」を取壊してしまわれたので、今は私たちの主イエス・キリストにあって霊的世界が私たちに近づいて来るようになりました。イエス様を救い主として受け入れたら、私たちは新しく生れて霊的に生き返り、霊の目が開かれるようになるのです。

「ヨハネの福音書 3章 5節」は、『イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。」』 「コリント人への手紙 第二 5章17節」は、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記しています。

イエス様にあって、古い人と肉の人が清算され、「霊の人」に新しく造られるようになります。それで、キリストにあって「霊の人」に新しく生れるや、霊の目が明るくなり、神様が居られる事と、主が救い主であられる事、聖霊様が助け主となられて私たちと共に居られる事を知るようになります。また、聖書が神様の御言葉である事を知るようになり、この世が神様の審きを受けて火に焼かれてしまい、新しい天と新しい地、新しいエルサレムが近づいて来ると言う真理を悟るようになります。このような真理と知識は、霊の目が開かれた人だけが悟り、知るるようになるのです。

十字架の道は、滅亡する者たちには愚かな事のように見えますが、救いを受けた私たちには、神様の御力であり、神様の知恵であるのです。霊の目が開かれた人だけが、霊的世界を見る事ができます。イエス様がこの世に来られて、霊的「暗闇」から完全な、まことの自由と解放を与えて下さるのです。




第四、虐げられている人々に、まことの解放と自由を与えて下さるイエス様

堕落する前の人たちは、疲れる事がなく、重荷を背負わなかったので、虐げられる事がありませんでした。冬の間中、岩の下に圧し付けられた草は、春になっても芽を出すことができません。岩を押しのけて見たら、草は黄色くなって生気がありません。しかし、太陽の光を受けたら、まもなく青々と育つようになります。

人も、悪魔に虐げられていたら、霊と心と体と生活が育ちません。悪魔が来るのは、盗み、殺し、滅亡させる事だけをする為です。しかし、イエス様が来られたのは、人間生活の疲れと、疾病の重荷を代わりに背負って、私たちにまことの解放と自由を与えて下さるためです。

「マタイの福音書 11章28節〜30節」に、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」』と記されています。イエス様は、十字架のくびきを通して私たちを解放して下さり、自由にして下さると言われたのです。

「使徒の働き 10章38節」は、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記しています。制せられ、虐げられている暮らしから解放と自由を得、いのちを豊かに得て、聖霊さまの生気で充満な生活を営む事ができる道は、イエス様を救い主として受け入れる道しか、ほかに道がありません。

イエス様が来られたら、虐げられている人々を自由にして下さいます。何故かと言えば、強いものが弱いものに打ち勝つからです。イエス様は、天と地のすべての権威を持っておられる強いお方です。キリストが、私たちの為に犠牲の代価を支払われたので、悪魔を退かせてしまい、重荷を投げ捨てて、私たちにまことの解放と自由を与えて下さるのです。

イスラエルの民には、「ヨベルの年」と言う制度がありました。彼らがカナンの地に入って来た以後、神様が命じられた通りに、彼らは七年の安息の年が七たび過ぎて、つまり四十九年目に彼らは盛大な「罪の為のいけにえ」を捧げ、その贖罪の日に全土に角笛を鳴り響かせます。そして、五十年目に「ヨベルの年」を宣布します。そうしたら、すべての「しもべ」たちは解放されて家に帰って行き、売ってしまった家屋や農地は元の主人が返して貰います。イスラエル民族最大の慶事がまさに「ヨベルの年」で、しもべ暮らしも「ヨベルの年」になる時までだけします。五十年目に皆を公平にならしめる神様のみわざでした。

「ルカの福音書」にある如く、イエス様に「主の恵みの年」を告げ知らせるようになさったのは、主が来られて、私たちにこの「ヨベルの年」を宣布なさる為でした。即ち、過去、私たちが日本に奪われたすべてを、終戦(8.15)と共に取り返したように、アダムが罪を犯して失ってしまったすべてを、イエス様が来られて取り返して下さいました。これからは、貧しい人々には福音を、捕らわれ人には赦免を、盲人には目が開かれるようにして自由を与えて下さり、虐げられている人々には解放を与えて下さる神様のみわざが、イエス様を信じる人たちの中に現われるように、主がなさるのです。

ですから、私たちは立ち上がって、強く雄々しく大胆に、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康にして下さったイエス様に仕えながら、信仰を持ってイエス様の愛を主張し、肯定的、積極的、創造的思考の持ち主になって、「出来る」「なせば成る」「やって見よう」の信仰で暮らして行かなければなりません。皆さんがそのような信仰を持って暮らして下さいますよう祝福し、祈願致します。




お祈り

全知全能で、聖く、そして栄光であられる、父なる神様。主イエス・キリストが私たちに「ヨベルの年」を与えて下さった事に感謝します。私たちはアダムとエバの堕落以後、しもべとして生れて、虐げられながら暮らして参りました。誰も、私たちを解放させてくれる事ができず、自由にしてくれる事ができなかったのですが、イエス様が来られて、私たちにまことの解放と自由を与えて下さって有難うございます。

私たちの代わりに十字架を背負われ、体を裂き、血を流して下さって、私たちを貧乏から解放して下さり、束縛から自由になるようにして下さり、暗いところにあっても見る事ができるようにして下さり、虐げから自由を得させて下さり、主の恵みの年を告げ知らせて下さって有難うございます。

キリストの祝福の中で、いのちを豊かに得ながら暮らし、主が備えられた天国に入って行く私たちとなるようにして下さい。イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。