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「神が備えられたすべて」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 2章 9節〜10節」
2: 9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。




世の中の父母は自分の子供たちの為に、幼い時から、大きくなって父母の膝元を離れるまで細心の注意を払い、大切に顧みます。尚の事、神様は、神様の子供たちを更なる愛をもって顧みて下さり、彼らの暮らしのすべてを備えて下さいます。

また、神様は「全知」であられますので、私たちの一生の「初めから終わりまで」を残らずご存知です。そして神様は「全能」であられますので、私たちが生きていく間に巡り会うすべての問題・苦難に対する確実な「解答」をもっておられます。尚、神様は「無所不在」なるお方ですので、いつも、何処ででも、私たちと共におられます。

それで、神様を知り、信じ、信頼する人は、どのような立場やどのような環境にあっても、恐れず、慌てずに、神様だけを見詰め、信じ、待ち望むことができるのです。




第一、 主は、理解を越えた大いなる事を備えておられます

イスラエルの民たちがエジプトから出て、乳と蜜の流れるカナンの地に向って行進する時、彼らは紅海という障害にぶつかりました。彼らの前には洋々たる海がありました。船もなく、橋もありません。そのようなところへ背後からは、エジプトのパロ王が大軍隊を率いて、再びイスラエルを捕虜にすべく疾風のように追跡して来ました。イスラエルの民たちは完全に、エジプトの大軍隊と紅海の海水の間に閉じ込められました。

彼らの環境は、人間的な目では絶望でした。紅海の海に溺れて死ぬか、そうでなければ再びエジプトの捕虜になって惨たらしく生きるか、ほかに道がありませんでした。このような凄絶な絶望に陥ったイスラエルの民たちは皆が、嘆きながら神様とモーセを怨みました。

その時、モーセが神様に祈り、神様はモーセを通して紅海の海が分かれる奇跡を施されました。海の下に大通りを備えて置かれたのです。イスラエルの民たちはエジプトの大軍から逃れて無事に紅海の真ん中を通って広野に出て行き、追跡して来たエジプトの大軍隊は全軍が海に溺れて死にました。

神様は、人間が想像することもできない「不可能」な事をなさいます。神様は、ご自分を愛する者のために驚くべきことを備えられます。イスラエルの民は、紅海の海が分かれるとは夢にも思いませんでした。エジプトの大軍は、尚更、考えもしなかったことでありました。イスラエルの民たちは、もう死んだと絶望し、エジプトの大軍は、イスラエルは袋のねずみで、もう完全に捕らえたものと考えました。ところが神様は、人間の想像をはるかに越えて、海の下にイスラエルの民が通って行ける「いのちの道」を備えて置かれたのであります。

イスラエルの民が荒野へ出て行き、三日間歩きましたが水が見つからず、喉が渇きました。彼らがマラにたどり着いた時、水を発見しましたが、それは苦くて飲むことができませんでした。再び、大きな試練にぶっつかりました。彼らは喉が渇いて死にそうであり、水を見つけはしたが苦くて飲むことができませんでした。民は不平をつぶやき出しました。

その時、モーセが、神様に叫び祈りました。神様がモーセに一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れました。すると、苦い水が甘い水になりました。神様は、長い年月の間その木を備えて置かれました。イスラエルの民がそこに来ることを既に知っておられて、この世の基(もとい)がおかれる前からその木を準備して置かれたのです。

苦痛が襲って来る時、神様はそれを解決することができる道を既に備えておられます。神様は、イスラエルの民のために既に「マナ」を備えて置かれました。人たちは「マナ」を見た事もありません。神様は奇跡を施されて、40年の間、荒野でその数多い民たちが毎日食べることができる「マナ」を既に準備しておかれ、食べさせて下さいました。驚くべき事です。 また、彼らが肉が食べたい時には、既に「鶉(うずら)」を備えて置かれて、彼らの前に「鶉」が塵芥の如く落ちるようになさいました。飽きるほどに、鶉を食べさせて下さったのです。

イエス様を信じる人たちの為にも、そして教会の為にも、主はすべてのものを既に備えておられるのです。




第二、 主は小さい事にも備えておられます

主は、巨大な事とか、国のため、または、名もない小さな人のためにも備えておられるます。神様は、個人にもっと深い関心を持っておられます。聖書「ヨナ書」を通して、個人に関心を持っておられる神様にお会いすることができます。

「ヨナ」は、神様の「ニネベに行きなさい」という命令に背いて、反対側の「タルシシュ」に行く船に乗り、船底に降りて行ってぐっすり寝込んでしまいました。しかし神様は、ヨナを絶対にニネベに行かせなければなりませんでしたので、船が進めないように、大風と暴風を備えられました。自然的に起こる波浪ではありません。神様が気象を変化させ、巨大な荒波を造って航海を阻止されました。

私たちも間違った道を行けば、神様が風波を起こして、私たちの行く道を阻まれます。「出来ないようにする」のも、神様が備えられた道なのです。「出来るようにする」事だけを神様が備えられると考えてはいけません。ヨナが「ニネベ」以外の所には行けないようにしたのも、神様が備えられた事でありました。

神様は、反抗するヨナが海に投げ込まれるようになさいました。それで、船長を筆頭に船員たちがヨナを抱えて海に投げ込みました。一方、神様は既に大きな魚を備えられて、ヨナを飲み込むようになさいました。ヨナは魚の腹の中に入って、三日三晩を過ごしました。

ヨナは、魚の腹の中から主に祈りました。そうすると神様は、魚に命じて、ヨナを陸地に吐き出させました。ヨナは魚の腹から出て来て、悔い改め、主の御言葉の通りに、立ってニネベに行きました。そして、一日中「もう四十日すると、ニネベは滅ぼされる!」と歩き回りながら叫びました。

ヨナの通告を聞いたニネベの王と、すべての人々と、獣も牛も羊までもが断食しながら、灰の中に座って、各々悪の道を歩み暴虐な行いをした事を痛く悔い改めました。それで神様は、彼らに下すと言っておられた災いを思い直して、彼らを憐れみ、その燃える怒りをおさめられました。

ニネベがイスラエルを侵略して、イスラエルを悩まし、多くのイスラエルの民たちを捕虜にするなど暴虐を働いたので、ヨナはニネベが滅亡するようにと願いました。そのように願いながらも、神様の命令なので止むを得ず「悔い改めよ!」と叫びはしましたが、心の中では「悔い改めないように」と願ったかも知れません。ところが、彼らは悔い改めました。しかし、もしも主が再び思い直されて、ニネベを審かれるかも知れないと思って、ヨナは町から出て、町の東の方に座り、そこに自分で仮小屋を作って、町の中で何が起こるかを見極めようと、その陰の下に座っていました。

聖書を見ますと、その時、神である主は、一夜のうちに一本の藤ごまを備えられたと記されています。藤ごまは一夜のうちに育つものではありません。藤ごまが小さい芽を出してから背が伸び、葉が生えるまで育つには時間がかかります。ところが、一夜のうちに藤ごまの茎がぐんぐんと成長して、ヨナが目が覚めて起きてみると小屋の上をおおうように、藤ごまの葉が生えのびていました。日照りを藤ごまの葉が覆って陰をつくり、その下でヨナは非常に喜びました。

神様は、ヨナ一人のために藤ごままでも備えられるお方であります。ヨナはこの藤ごまを非常に喜んだ、と聖書に記されています。しかし、翌日の夜明けに神様は一匹の虫を備えられました。「ヨナ書 4章 7節」に、『しかし、神は、翌日の夜明けに、一匹の虫を備えられた。虫がその藤ごまをかんだので、藤ごまは枯れた。』と記されています。このように神様は、小さい虫も備えられます。

「ヨナ書 4章 8節」は、『太陽が上ったとき、神は焼けつくような東風を備えられた。太陽がヨナの頭に照りつけたので、彼は衰え果て、自分の死を願って言った。「私は生きているより死んだほうがましだ。」』と記しています。神様が東風を備えられました。焼けつくような熱い風が吹いて来るので、ヨナは耐えられなくなって、生きているより死んだ方がましだと思うようになりました。

その時、神様はヨナにこのように教訓なさいました。「ヨナ書 4章 9節〜11節」の御言葉です。『すると、神はヨナに仰せられた。「このとうごまのために、あなたは当然のことのように怒るのか。」ヨナは言った。「私が死ぬほど怒るのは当然のことです。」主は仰せられた。「あなたは、自分で骨折らず、育てもせず、一夜で生え、一夜で滅びたこのとうごまを惜しんでいる。まして、わたしは、この大きな町ニネベを惜しまないでいられようか。そこには、右も左もわきまえない十二万以上の人間と、数多くの家畜とがいるではないか。」』




第三、 主はご自分を愛する者のために備えられます

聖書「コリント人への手紙 第一 2章 9節」に、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』と記されています。

先ず、私たちが悟らなければならない事は、神様が私たち人生のためにすべてを備えて置かれた、という事実です。私たちがどのような苦難に瀕しても、主は既に、問題解決の道を備えて置かれたという事実を信じなければなりません。信じる時、心に安らぎを保つことができます。

「詩篇 139篇16節」は、『あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。』と記しています。ですから、私たちの一生は既に、神様のご計画の中にあります。神様は、私たちの一生を既に主の書物にすべて記録して置かれました。神様の道に従って行く私たちに、神様が私たちの暮らしの為に備えられるのは当然なことなのです。

神様の道を捨て、神様に逆らうのであったら、神様が備えられるのは暴風雨しかありません。一生を暮らして行く間中、神様が私たちの歩むべき道を備えて置かれたのだという事実を、私たちは知らなければならないのです。そして、神様が備えられた道を歩んで行くためには、私たちの暮らし自体が神様の御臨在を認め、受け容れた暮らしとならなければなりません。

聖書は、『神の国とその義とを先ず第一に求めなさい。』と、私たちに教えています。私たちが暮らして行きながら、「先にすべき事は先に」、「後にすべき事は後に」する、この順序を正確に守れば、神様が備えられた道を歩んで行くことができます。

私たちは人生にあって、神様への奉仕を先ずしなければなりません。自分の事、又はこの世の仕事を先にせず、神様への奉仕を最優先にすれば、この世の事は神様が自然的にみな解決して下さいます。人たちの中には、この世の仕事を先ず片づけてから、時間が余ったら神様に奉仕すると考える人が多いです。しかし、そのように暮らすことは間違った人生です。

そして、その義を先ず求める、ということは、義であられるイエス様を信じることです。「テレサ」修道女は、18歳の時にインドへ行って、貧しい人たちの為に一生を捧げました。彼女はいのちを賭けて、暮らしの中にイエス様の義を求めました。その結果、「テレサ」修道女が死の道に歩んで行ったこんにち、全世界がどのように彼女を慕い、追悼しながら、悲しんでいますか? 神の国を先ず第一に求める暮らしをしたので、すべての人たちが彼女を崇め慕っているのです。

私たちが暮らしの中で、神の国とその義とを先ず第一に求める事は、イエス様を信じ、イエス様の義を先ず私たちの生活の中で追求する事です。神の国とその義とを先ず第一に求める暮らしをする時、天と地とこの世のすべてを造られた、全知全能・無所不在なる神様が、私たちのすべてを聞きかなえて下さるのです。

そして、私たちはすべての暮らしの中で神様の御心を悟り知るよう、努力しなければなりません。「ローマ人への手紙 12章 2節」には、『この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。』と記されてあり、「エペソ人への手紙 5章15節〜17節」には、『そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。』と記されています。

主の御心を理解する事ができない人は、愚かな人であり、理解する事ができる人は、賢い人です。私たちが、主の御心を知ろうと切に慕い求めれば、主が私たちに御心を見せて下さいます。私たちが願わなければ、見せて下さいませんが、私たちが主の御心を知ろうと努力すれば、御言葉を通して、聖霊さまを通して、主が、主の御心を知るようにして下います。私たちは、最善を尽くして主の御心を悟ろうと努力し、自分の心の中に「これが主の御心だ!」と悟るようになれば、それに絶対に従って行かなければなりません。

その次に、私たちは備えられる主の御手を祈り求めなければなりません。何事でも、祈り求めなければなりません。神の御国は求める事から始まるのです。私たちの教会に出席なさる、ある姉妹の証しによりますと、彼女の子宮に大きな「こぶ」ができて、それが益々大きくなって行きました。それで凄い苦痛に襲われ、多量の出血があり、苦しい日々を過ごしました。病院では手術を勧めました。彼女は苦しい毎日の中で初めて伝道されて、私たちの教会に出席し、切に神様に熱く祈り求めました。「神様! 私の腹の中にある瘤(こぶ)を取り除いて下さい。」

礼拝を捧げたあと、病人の為の「癒しの祈り」の時間に腹に手を置いていましたが、突然、腹の中に動揺があり、気持ちが爽快になり、腹の中から何かが離れ去るように感じた瞬間、苦痛が消え、全身が軽くなりました。病院に行ってみました。お医者先生が驚きながら「どのようにして、そんなに大きい瘤の塊(かたまり)が瞬く間に消えてしまったのですか?」と尋ねました。神様の御心に従って切に祈り求めたので、神様がみわざを働かして下さったのです。

「エレミヤ書 33章 3節」に、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記されています。ですから、神様の備えられた御手を切に探し求め、祈らなければなりません。呼ばわり、祈る時、主が備えられたものを現わして下さるのです。

それから、主を信じ、そして備えて下さる事を期待しなければなりません。「エペソ人への手紙 3章20節」に、『どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方…』と記されています。必ず主が「備えられた道」を見せて下さる事と信じて、祈り、待ち望まなければならないのです。私たちが信じて、祈り、待ち望む時、神様の御力とみわざが現われます。

今回の「区域長セミナー」に来られて説教して下さった「フィリピンのデイビッド・ソブレペナ牧師先生」が、このような証しをなさいました。先生が教会を建てている時、セメントが切れました。大きい教会を建てていたのですが、セメントが切れてしまったのです。露出した鉄筋から赤い錆水が流れ始め、建築中の建物が見苦しい姿を呈しました。

ある日、誰かが電話を掛けてきて、苦情以上のひどい悪口を言いながら、「教会を建てると言いながら、鉄筋をそんなに露(あら)わに突き出させて、都市の美観を傷つけてどうするつもりだ。牧師に言え。私に電話せよと…!」 牧師先生がその事を聞かれて、電話を掛けたところ、その人が電話口に出るや否や、又も誹謗しながら、「教会を完工させる事ができないなら、最初から止めるべきだ。途中で手を上げてしまって、何だ、その様は。見苦しくて、物が言えない。町の美観も傷つけて…、教会ともあろうものが、それで良いのかっ!」と、ガミガミ怒鳴りました。

それで、デイビッド牧師が、「私たちは世の人とは違って、予算とか、計算とかをしながら建てるのではなく、万軍の主・神様を信じる信仰によって建てます。暫くは私たちがお金が不足してどうにもなりませんが、しかし、神様がすぐに継続して建てるようにして下さいます…。」と、丁寧に答えました。

すると、その人が相変わらず怒鳴りながら、「私が毎日その前を通るのだが、あなた達の教会の為にいつも気分を壊すので、もう堪らないんだ。何が足らなくて続けられないのだ?」と喚くので、セメントがないのだと、率直に答えて上げました。するとその人が、即座に、セメント数千袋を買うお金を、小切手で寄越して来たと言います。

信者でもなく、教会に顔も出さない人が大金を出してくれたので、教会を完成させました。神様が、烏に命じてパンと肉とを運ばせて「エリヤ」に食べさせたように、到底想像もしなかったところに備えて置かれて、主がそれを供給して下さいました。

常に、予め備えられる神様を信じて暮らして行けば、数多い難関や苦難にぶっつかった時、いつも考えもしなかった奇跡的「解答」(御答え)が私たちの前に現われます。聖書に、こう記されています。『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。:悪を行なう者は断ち切られる。しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。』(詩篇 37篇 5節〜6節:37篇 9節)




お祈り

全能であられ、聖なる、我が父なる神様! 主が私たちの一生をすべて知っておられ、私たちの人生行路に必要なものを満たして下さる為に、すべてを備えておられる事に感謝申し上げます。

救いを備えられた神様が、二千年前にその御子イエス様をお遣わしなさって、体を裂き、血を流して、私たちの罪を一方的に赦して下さり、救いを一方的に備えて置かれて、今日に至っては誰もがイエス様を信じれば滅亡する事なく、永遠のいのちを得るようにして下さって有難うございます。

すべての聖徒さんたちが皆、すべてを備えられた主である神様を知り、信じ、信頼して、神様の御力に拠り頼んで苦労する事なく、血みどろにならず、破滅されずに、悠々と成功し、勝利を収める人生を暮らすように導いて下さり、助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン!