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「汚染され腐敗した暮らしを清くする為に」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 6章10節〜12節」
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。




漢江(ハンガン)の汚染度が甚だしくて、上水道源としては使えなくなったと言います。それで、人々は漢江の水を清くしようとして、いろいろと努力をしています。しかし、そのような努力にも拘わらず汚染度が良くならないのは、漢江の上流から夥(おびただ)しい汚染物質を放流しているからです。従って、漢江の下流で水を清くしようとする事は、とても不可能な事です。 春川(チュンチョン)に行く道を車を走らせながら見ると、漢江上流の川岸に櫛の歯のように建てられている数多いモ−テルや食堂等を見る事ができます。そのような宿泊施設や食堂等から出てくる汚水・廃水が漢江を汚い川にしているのです。このような状況では、漢江の水はこれからも継続汚染されるしかありません。上流から浄化せずに下流の水を清くしようとする事は、空しい努力に過ぎません。

私たちの霊的、精神的、そして社会的生活に押し寄せて来る数多い不正・腐敗も、現場でそれを正しく直そうといくら努力してもそれはできない事です。何故なら、現実に起こるその数多い問題の背後には、肉の目には見えない根源的原因があるからです。この霊的原因を取り除かない限り、現実の暮らしの汚染をいくら清くしようと努力しても失敗してしまいます。




第一、霊的・精神的生活汚染の根源

神様が、アダムとエバを造られた時、ご自身の形に造られたので、アダムとエバは神様のように正しく、真実で、聖く、義でありました。ところが、アダムとエバが堕落の泥沼に陥ってからは、そのようなものをすべて失ってしまいました。神様は罪悪を造られた事もなく、私たちに罪を犯すように命じた事もありません。アダムとエバが神様の命令に逆らい、神様がいのちの根源であるのに、それを自ら断ち切りました。神様のいのちの絆から断たれた者は腐敗してしまいます。

貪欲の故に神様の命令に逆らって、善悪を知る知識の木の実を取って食べ、神様から離れて独立を宣布し、悪魔と手を組んで世の中に出て来たアダムとエバは、神様の聖く、明るく、輝かしいいのちの絆から断ち切られて、彼らは悪魔と共に腐敗し始めました。誰でも、神様から捨てられたら腐敗します。

アダムとエバは、永遠なるいのちから断たれて悪魔のしもべとなり、悪魔は限りない腐敗を人たちの中にもたらしました。悪魔は盗み、殺し、滅亡させる源泉です。悪魔はすべての不義と、不正と、腐敗の原因なのです。ですから、悪魔に捕らわれて悪魔と一緒に暮らす以上、その心の中の腐敗は限りがありません。いくら高等教育を受け、文化水準が高くても、中心が腐敗しておれば、その人は腐敗します。また、倫理と道徳感をもっていても、中心が腐敗していたら、倫理・道徳を守り抜く事はできません。

人々の心の中にある不正と腐敗を通して、限りなく破壊するサタンの活動が続く限り、いくら法律と制度があっても、それによって私たちの社会が浄化される事はなく、私たちの暮らしを清くする事はできないのです。




第二、人間を破壊するサタンの活動

悪魔は、数多い悪霊たちを手下に率いています。悪魔は最初は、神様の天使長でありましたが、堕落して天使長の座から追い出されました。それで悪魔は、空中の権勢を掌握して神様に敵対し、神様が造られた人間たちを堕落させ、その人間たちを操って盗み、殺し、滅亡させる仕事をさせる事によって、神様に苦痛を加えようと活動しています。

悪魔の手下の悪霊の中に、汚れた霊がいます。この汚れた霊は人の中に入って来て、汚染の源泉になります。廃水を清い水の中に流し込めば、清い水がみな腐ってしまうのは当然の理です。そのように霊的廃水である汚れた霊は、人々を汚染させるのです。

悪霊が人の中に入って来たら、その人は他の人たちを苦しめます。自身も苦しみに会い、隣人も苦痛の目に会わせます。悪い夫は妻と家族を苦しませ、悪い妻は夫と家庭を破綻に至らせます。悪い隣人がいれば、他の隣人たちが苦痛を受け、社会共同体の中に悪霊が入って来たら、その社会が苦しい目に会います。この悪霊を追い出さない事には、苦しみを取り除く事はできません。この悪霊は何処に行っても悪をもって人々に甚だしい苦痛と煩(わずら)いを与えます。この悪霊を除去しない限り、この世の苦痛と社会の悪はなくなりません。

そして、偽りの預言をする悪霊がいます。この偽りを言う悪霊は、もちろん占いをする人たちの所に行って偽りを言わせ、一般の人々の中に入っては偽りの約束をさせ、嘘で騙し、いつも嘘を吐(つ)いて人々を失敗させ、苦難の目に会わせます。

また、この世の流れに従うようにする悪霊がいます。「エペソ人への手紙 2章 2節」に、『そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。』と記されています。この世の流れとは、この世の堕落した暮らしと、間違った慣習を言うのです。この悪霊はこの世の「文化」の中に入り込んで、人たちに不品行を行わせ、放蕩するようにし、虚栄に溺れさせます。この世の流れに従うようにする悪霊は、神様を知る事ができないようにし、イエス様に従順に従わないようにします。また、巫女を敬わせる、偶像を崇拝させる、占いを信じるようにする、酒やばくちに浸らせる…等、人々を破滅に引き込みます。

貪欲の悪霊がいます。「コロサイ人への手紙 3章 5節」に、『ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。』と記録されています。貪欲はすべての罪の根源です。アダムとエバが心の中に貪欲が生じるや、神様に背くようになりました。

「朴・チョロンチョロン・ビッナリ」と言う8才の女の子を誘拐した犯人は、妊娠8ケ月の若い主婦でありました。その心の中にお金に対する貪欲が生じるや、殺人までするようになってしまったのです。この世のすべての罪の根源は、貪欲から出ます。自分の身の程をわきまえ、神様が与えて下さる信仰の量りに従って、謙虚に生きる時、幸福な暮らしをする事ができるのです。

その次には、柔弱と疾病の悪霊がいます。「使徒の働き 10章38節」は、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記録しています。

こんにち、医者たちは病気の80%以上がストレスから来ると言っています。ストレスによって心に苦痛、悩み、焦燥が生じ、それによって人たちがいろいろな病気に罹ると言います。それでは、ストレスの正体は何でしょうか? 他ならぬ悪霊が来てストレスを与えるのです。世の中の人たちはよく、「悪霊に憑かれた」と言う表現を使用します。春になっても、石に押さえつけられている草は、黄色くなっていて育ちません。石に押さえつけられている以上、それはいつも黄色いです。力がありません。しかし石を退(ど)かしてやったら、青々と育ち始めます。このように、人は悪霊に心と肉体が押さえつけられていろいろな病気に罹ります。柔弱と疾病の悪霊を追い出せば、自然と私たちは健康を回復するようになります。

その他に、宗教的悪霊がいます。「テモテへの手紙 第一 4章 1節」には、『しかし、御霊が明らかに言われるように、後の時代になると、ある人たちは惑わす霊と悪霊の教えとに心を奪われ、信仰から離れるようになります。』と記されています。宗教的悪霊たちは、“私たちに従って来なさい。救われます。私たちが永遠の天国に案内します。”と言いながら数多い宗教を建てますが、最終目的は、まことの真理であり、愛であられるイエス・キリストから離れさせる事なのです。

神様は、唯一なるお方です。神様と人間の間を取り成す方も、「イエス・キリスト」お一人だけです。「イエス・キリスト」を離れては、いくら麗しい形式や儀式で崇高に見える宗教でも、それは宗教的悪霊による惑わしであり、悪霊の教えに心を奪われて崇高に見えるだけなのです。数多い宗教がありますが、ひとえに真の救いの道は、「イエス様」お一人だけです。イエス様以外には、どのような人間も救い主になる事はできません。ですから、宗教的悪霊に引っ張られて行くと、信仰的に腐敗し、破綻に追い込まれます。




第三、腐敗の源泉・悪魔と悪霊を追い出す為には?

悪魔と悪霊を、私たちの力では追い出す事ができません。アダムとエバが堕落して神様から離れたので、アダムとエバ以後に生まれた全ての人類は、母親の胎内から既に罪人として、また悪魔のしもべとして生まれるようになりました。しかし、神様の御子イエス様がこの世に来られて、アダムとエバの堕落によって人類に負わされた罪を贖って下さり、悪魔のすべての武装を解除されました。

イエス様は、神様と私たちの間に隔てがあった過去の事を罪と定めるサタンの計略を砕いて、神様と私たちが和解する事ができるようになさいました。人々を盗み、殺し、滅亡させるくびきを、イエス様が完全に破壊してしまわれたのです。罪のくびき、苦難のくびき、疾病、貧乏、呪い…のくびきを、イエス様がすべて取り除いて下さいました。

「コロサイ人への手紙 2章15節」は、『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記しており、「ヨハネの手紙 第一 3章 8節」には、『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』と記されています。悪魔に勝つ事ができる力は、私たちの主イエス・キリストの十字架の贖いによって、私たちに与えられるのです。

こんにち、人たちがこのイエス・キリストのお恵みを知らないので、今も悪魔に捕らえられていますが、悔い改めて、イエス様を救い主として迎え入れ、主の懐に入って来たら、イエス・キリストにあって、私たちは解放と自由を得るようになります。真の解放と自由は、イエス・キリストのうちにあるのです。主は今日、私たちに聖なる御霊・聖霊様を注いで下さいました。私たちがイエス様を信じる時、主は私たちを聖くして下さり、悪魔に敵対して勝つ事ができるように、主は聖霊様を通して力を注いで下さるのです。

「テトスへの手紙 3章 6節〜8節」には、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。これは信頼できることばですから、私は、あなたがこれらのことについて、確信をもって話すように願っています。それは、神を信じている人々が、良いわざに励むことを心がけるようになるためです。これらのことは良いことであって、人々に有益なことです。』と記録されています。

私たちがイエス様を信じる時、主は聖霊様を私たちの心の中に注いで下さって、聖霊により悪霊に敵対して勝つ事ができる、根源的なる「力」を私たちに与えて下さるのです。聖霊が臨まれれば、私たちは力を受け、敵悪魔に対抗する力が生じます。霊は霊によって敵対しなければなりません。悪霊には、聖霊をもってはじめて敵対する事ができるのです。

そして聖霊さまは、真理を悟らせて下さり、私たちの位置を確実に知るようにして下さいます。「ヨハネの福音書 16章13節」は、『しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。』と記しています。このように、主は私たちに真理を悟らせて下さるのです。この世のすべての罪悪と汚染と腐敗と絶望の根源が何であるかを悟るようにして下さり、これに対する偉大な摂理がイエス・キリストにあって、既にすべて完了されたと言う事実を、私たちに悟らせて下さるのです。

そうして主は、私たちがイエス様にあって、新しく造られた者になった事を知るようにして下さいます。「コリント人への手紙 第二 5章17節」は、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と私たちに教えています。

救いを受ける事ができない肉の「外の人」は、十字架でイエス様と共に釘付けられて死に、葬って清算されてしまいました。肉の「内の人」なる私たちは、イエス様にあって新しく生まれ、もう霊的「人」になってしまったのです。霊が死んでいた時は、悪魔にしもべとして仕えましたが、私たち霊的「人」は、霊が生き返り、聖霊様と同行するので、悪魔に打ち勝つようになるのです。聖書は、私たちが悪魔に勝つ理由は、私たちの中におられる方が、世にいる悪魔より大きく強いからである、と言われます。

私たちの中に聖霊様が臨在しておられ、私たちが今からは肉の人ではなく、霊的「人」になりましたから、悪霊に打ち勝つしかありません。聖書には、『神である主は蛇に仰せられた。一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。』と、神様が蛇を呪われたと記録されています。蛇は、ちりを食べて生きるようになっています。蛇は、サタンを象徴しています。ところが、人間の本質が「ちり」であるので、サタンは人間を食べて生きるようになっています。アダムとエバが堕落した時、ちりになりました。彼らは肉体になってしまいました。それで、アダムとエバは悪魔の餌食になったのです。

今からは、私たちは「ちり」ではなく霊です。霊を、ちりを食べる悪魔が飲み込む事はできません。聖霊様が私たちの中に留まっておられますから、私たちは霊的「人」なのです。ですから、古い肉の人は過ぎ去って、今はイエス様のうちにあって、霊的「人」に変化されました。私たちは悪魔の餌食ではなく、悪魔に打ち勝つ人となったのです。主は、私たちを強く雄々しく大胆にして下さいました。

「ヨハネの福音書 16章33節」は、『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」』と記しています。強く、雄々しく、恐れず、驚かず、後に退かずに、イエス様の御名によって悪魔に敵対して、悪霊を退かせなければなりません。私たちが祈りと信仰によって悪魔を退かせ、悪霊を追い出して、主の御国を拡張する神様の道具にならなければならないのです。

「マルコの福音書 16章17節〜18節」に、『信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』とイエス様が仰せられました。また「ヤコブの手紙 4章 7節」にも、『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。』と記されています。ですから、私たちはイエス・キリストにあって勝利者であり、すべての悪霊の仕業に対して充分に勝つ事ができるのです。

私たちの格闘は、血肉に対するものではありません。言い換えれば、この「世の人」と「物質」に対するものではありません。私たちの戦いは、すべての支配と権威、この世の暗闇の背後の操縦者であり、空中の権威を持った悪い霊たちに対する戦いです。これらは物質的な存在ではありません。霊的存在なのです。

これら悪い霊たちとの戦いは、真理を知り、真理を信じて、断固とした、そして粘り強い祈りの戦いを通してこそ、これらを退ける事ができるのです。そうする時、私たちは根源的に変化されます。私たちの胸の中に変化が起こります。罪人と極悪人の胸の中にも変化をもたらします。私たちはこれを通して、変化された家庭、変化された社会、変化された国家と世界を建てて行く事ができるのです。

イエス・キリストを救い主として受け入れる時、イエス・キリストの無限なる愛と全知全能なる御力によって、私たちは信仰と希望が満ち溢れるようになり、愛と喜びと平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制の実を結び、真の「クリスチャン」になる事ができるのです。




お祈り

父なる神様!聖書を通して、「吠え猛ける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら歩き回っている悪魔」に対し、信仰を堅くして立ち向かいなさいと仰せられました。私たちがイエス様に拠り頼んで、強い力を発揮する事ができる、強く雄々しい信仰を持つようにお恵みを施して下さい。

私たちの目には見えませんけれども、悪い霊たちが世の中を駆け回りながら、若い人達を捕らえ、中年も老人たちも捕らえて、盗み、殺し、滅亡させる事ばかりさせております。

 父なる神様! 私たちは真理を知り、真理を悟りました。尚、イエス様にあって大いなる勝利と解放と自由を得た事を知っており、すべての悪い霊の支配と権威から解放された事を知っております。ですから、イエス様の御名によって、悪魔と悪霊を断固と退ける事ができるように助けて下さい。

確実に追い出してしまう事ができるようにして下さい。そして、常に御言葉と祈りで武装して、いつも悪魔と悪霊に打ち勝ちながら、主の福音を宣べ伝える勤めを果たす事ができるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!