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「神様中心に立ちなさい」
 






■聖書箇所

「へブル人への手紙 4章 9節〜11節」
4: 9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。




私は、毎年数回ずつ、海外に出て聖会を導きます。ところが、たまに私達が聖会を主催・主管して開く場合があります。そういう時は、私達が聖会のすべてに責任を負わなければなりません。聖会を開く場所を物色する、必要な人員を動員する、広報もする、それに予算の樹立から執行…等々、相当苦労をします。ほんとうに毎日汗びっしょりになります。

しかし、こういうケースはたまにある事で、たいていは私を招いた国の宗教団体が聖会を主催し、主管します。その時は、私はなんの配慮も心配もする必要がありません。場所の物色から、人員の動員、広報、予算の樹立・執行まで主催側が全部やります。私はただ、祈りに力を入れ、主の福音を宣べ伝えるだけでいいのです。主催側が全部責任を負ってやってくれるので、私はほかの事には心を使う事なくまっすぐ聖会を導くことができます。

私はこの話を、神様と人間の関係に譬えたいと思います。何故、こんにち、人間は汗を流さなければ食べて行けないのでしょうか? もともと人間は、このように呪われた存在ではないのに、何故、このように苦労しながら暮らさなければならないのでしょうか。




第一、宇宙の主催者であられ、主管者であられる神様

神様は天地万物の主催者であられ、主管者であられます。聖書は、『初めに、神が天と地を創造した。』(創世記 1章 1節)と記しています。この宇宙は神様が主管して創造されたものであって、人間の主管の下に創造されたものではありません。神様が親しく、御言葉で、光と大空と海、地と植物、太陽と月と星、鳥類と魚類と動物類、そして人を造られました。

したがって、宇宙の主催者は神様であられ、宇宙の主管者も神様であられます。それで人間は神様を礼拝し、信じ、ほめたたえなければなりません。そして神様に従順に聞き従いさえすれば、人間は平安に暮らす事ができるようになっています。どの行事においても主催側・主管者がすべてに責任を負うのです。被造物である人間の生活も宇宙の主催者であり、主管者であられる神様が、すべてに責任を負って下さるのです。

それなら、なぜこんにち、人々にとって生きることがこんなにも苦しいのでしょうか。なぜ人間は、何を食べるか、何を飲むか、何を着るかのことでもがいているのでしょうか。なぜ人間は、利権のために同族同士で、民族と民族で血を流しながら戦うのでしょうか。どうして、この地には恨みと憎しみと戦争と殺傷が絶えないのでしょうか。なぜ、こんなに病にかかった人が多く、いたるところに飢饉と地震と死があるのでしょうか。なぜ人間の生活がこんなに荒廃したのでしょう。

人間がこのようになってしまったのは、人間が、宇宙の主管者である神様から離れて、自分がこの世の主催者、主管者になろうとしたからです。人を堕落させる為に、悪魔が人の所に来て、『あなたがたが善悪の知識の木の実を食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。』と唆(そそのか)しました。アダムとエバはこの誘いに惑わされました。サタンが人を惑わす時は、いつも栄光と所有の「甘さ」だけを言います。それに伴う「責任」に関しては何も説明しません。主催者となり主管者となることは、創造主であられる神様の権限です。被造物である人間にはその権限がありません。

父なる神様は、全宇宙万物を造られた創造主であり、主人です。したがって、神様が宇宙の主催者であられ、主管者であられるのです。私達が、何かを自分で成し遂げようとして、主催者になり主管者になって足掻いてはなりません。主催者・主管者であられる神様が先に立って仕事をなさるのですから、私達はその後に従って行くようにしなければならないのです。




第二、人間の悲劇と絶望

アダムとエバは、力も資格もない癖に、宇宙の主管者である神様のようになろうとしました。彼らは神様の御心に逆らいました。その結果、人間がこんにち、これほどまでに悲惨な存在になってしまったのです。人間は、自分の罪の問題を自ら解決することができません。精神的・肉体的「病」の問題を自分で解決することができません。人間は、呪いの問題、死の問題を自ら解決することができません。このように自分では解決する事ができない問題を抱えている人間が、いかにして幸福な人生を送る事ができるでしょうか。それでこんにち人間は、アダムとエバの破綻を引き継いで、その破綻された人生を生き続けているのです。

私たちの教会のある長老様から、心に感動を与える話を聞いた事があります。この長老様は2年前に、長男が結婚したので、長老様と奥さんは一階に、僅かな収入しかない息子は嫁さんと一緒に二階に住むことになりました。息子が結婚して一年くらい経った時、その嫁さんが息子に、『あなた、なぜ親の家で住まなきゃならないの? 全く不自由で、少しも気楽にいられないじゃないの。親と一緒に住むのはもう大嫌い。この家を出て私達だけで自由に暮らしましょうよ。』とそそのかしたらしく、息子が長老様に、「お父さん、私たち家を出て、独立したいと思います…。」と言い出しました。目敏くその心中を見抜いた長老様が、「あんたの嫁が、そう言い張るのか?」と聞いたところ、「いや、私の考えです…。」とまじめな顔をして答えたそうです。

長老様は、息子が自分の給料だけでは生活が難しいとは知っていましたが、もう大人になった息子夫婦を強いて引き止める訳にもいかないので、「よし、わかった。じゃ、小さいマンションをひとつ買ってあげよう。ところが一つ、確かにしておくべき事がある。一度出て行ったら、親から離れて独立するんだぞ。生活のすべてをお前が賄わなければならん。少しでも生活費を要求したりしちゃいけないと言うことだ。自分の人生は、自分が責任を負わなければならん。」と言い渡して、息子とその嫁を出して上げました。

それから一年ほど経ってから、息子が来て泣き面を見せながら、親と再び一緒に暮らしたいと言い出したそうです。自分の収入だけではとても生活が難しく、かなり苦しんだように見えました。それでも、「なぜだ?」と理由を聞いたところ、「どう考えても、親に仕えずに、外で自分達だけで暮らすのは、親不孝だと思われますので…。私たち、家に戻って来てお父さん、お母さんに仕えながら一緒に暮らそうと思います…。」と答えたそうです。親不孝だ、何だと殊勝な口実で心底を隠していることが分からないのではありませんが、どうしますか。息子が、生活が困難なので親の下に戻って来たいと言うのに。それで、「そうしなさい。ここで当分間、生活費は心配せずに暮らしなさい。給料は貯めておいた方がいいよ。」と言って上げたそうです。この息子と嫁さんは、ふたたび一緒に暮らすようになり、それからは、あまりにも謙虚によく仕えてくれている、と話して下さいました。

私は、長老様のこの話を聞いて、神様を離れた人生の不幸を思ってみました。だれであれ、主人になってすべてを主管しようとすれば、必ず責任が伴います。神様を離れたアダムとエバが、果たして自分達で自立していけるくらい偉大であり、それだけの能力を持った存在だったでしょうか。そうでなかったので、彼らは絶望に陥り、彼らの子孫である私たち人間も悲劇的な存在になってしまいました。それで、この世にはこんなに罪が氾濫し、戦争と飢饉と虚無と死が充満しているのです。




第三、救いの主催者であられ、主管者であられる神様

それでは、人間には永遠に希望がないのでしょうか。そうではありません。人間を造られた神様は、愛と救いの神様であられます。人間の状況をご覧になられた神様は、人間を救うことにして、その計画を立てられました。即ち二千年前に、神様がこの世にひとり子イエス・キリストを遣わされました。それから神様は、イエス様をして救いの福音を宣べ伝えさせ、人間に代わって十字架の刑罰を受けるようにし、そして死なせました。最初のアダムの犯罪によって引き起こされた人生の悲劇、その破綻の責任を、最後のアダムであるイエス様が直接担って、十字架で死なれたのです。

イエス様は、十字架の上で血を流すことによって、人間の罪をすべて清算なさいました。天と地の間で、十字架の苦難を受けることによって、神様と人間との間に置かれていた「隔ての壁」を崩してしまわれました。呪いの象徴である十字架を背負われることによって、私たちを呪いから贖い出して下さいました。親しく死なれることによって、死亡も清算なさいました。そして、燦爛とよみがえられたことによって、人間に復活と永遠のいのちを下さる救い主となられました。

このように、神様はイエス様を通して永遠の救いを備えられました。それから、信仰によってこれを受け入れる人を、再びご自分の子として下さり、ご自分の責任と権限の下に置かれます。主催者は、すべての行事に対する責任を負います。イエス様を通した「救い」を計画され、それを完成なさった神様は、悔い改め、信仰によってこれを受け入れる人を、この世の主催者であり主管者として責任を負って、顧みて下さるのです。

老若男女、貧富貴賤を問わずに、誰でも、主を信じさえすれば、神様の御力と責任の中に属することができます。天と地とその中のすべてのものを造られた神様は、信じる者たちの為に永遠なる世界を備えて置かれました。イエス様も、確かに言われました。『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』(ヨハネの福音書 14章 1節〜3節)

そこは、神様ご自身が共に居られて、目の涙をすっかり拭い取って下さり、死もなく、心配も、戦いも、呪いも、離別も、泣く事がない所です。そこは義と平和と喜びが永遠に満ち溢れる所です。誰でもイエス・キリストを信じさえすれば、この世の中で神様のお恵みを体験するだけでなく、永遠なる天国に入って行って、永遠に生きる事ができます。なぜなら、悔い改めた人は、神様との関係を回復した人であり、神様の権限と責任に属している人だからです。




第四、神様が責任を負って下さる人生

一方、ある人たちは、『そうだとしたら、神様が人生の細微な事まで責任を負って下さいますか? 私たちが単に天国に行くことだけで神様の責任が終わるのではないでしょうか?』と、質問するかも知れません。簡単に申し上げますと、神様は、主を信じる人の人生を全般的に責任を負って、顧みて下さいます。イエス様は確かに、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』(マタイの福音書 11章28節)と言われました。

この御言葉はどういう意味でしょうか。「信じる者たちの暮らし全体を、最後まで責任を負う。」という意味です。本来、「仕事」は神様のものです。聖書は、『地を造られた主。それを形造って確立させた主…』(エレミヤ書 33章 2節)と、はっきり記しています。神様は、天地と万物を造られ、運行しておられる宇宙の創造主であられ、主催者です。宇宙の事はすべて神様の権限です。にも拘わらず、人間が主の仕事(権限)を簒奪しようと企み、反逆罪を犯して、神様から捨てられてしまいました。

悔い改めた私たちが、はっきりと知らなければならない事は、「霊的救い」も神様の主権の中にあり、人間のすべての事も、神様の主権の中にあると言う事実です。「仕事」の主人は神様です。人間が「仕事」の主権者になる事はできません。従って、私たちが仕事を全的に背負って苦しむのは、とても悲劇であり、間違ったことです。それでは、このような事実をご存知の聖徒さんは、神様の御前でどのような態度を取るべきでしょうか?

第1に、私たちは「人間中心に暮らした罪」を悔い改めなければなりません。イエス様は、『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。』(マタイの福音書 4章17節)と言われました。悔い改める人が天国を体験することができます。「悔い改める」とは、どういう事でしょうか? それは、自分が主催者になって人生を主管しようとする態度を捨てて、宇宙の主催者である神様を心の中心に迎え入れる事を言います。

人間が、まことに価値があり、祝福された人生を暮らしたいなら、人本(人間本位)主義を徹底的に捨てて、神本(神様本位)主義に立ち返る事です。人本主義を捨てる事、これが「悔い改める」ことです。まことの「悔い改め」、根本的「悔い改め」は、主催に関する認識を「人間中心」から、「神様中心」に変える事です。

こんにち、多くの人たちが口では「主よ! 主よ!」と呼ばわりながらも、まことの安息と喜びを得ることができずにさ迷っているのは、この主催に関する価値観を確実に定立していないからです。このような人たちは、自分が主催者なので、礼拝も、献金も、奉仕も、伝道も、自分勝手にします。そうしながら「主よ! 祝福して下さい。平安と健康を与えて下さい。」と祈ります。

このような人が即ち、「祈福的信仰」の人です。このような人は、「祝福」を受ける手段として神様を利用するだけで、神様を、徹底的に敬い、心からひれ伏して拝み、絶対に拠り頼むべき対象であるとは考えません。まことの信仰の人とは、「人本主義」を捨てて、「神本主義」を確立した人です。私たちの霊も、心も、体も、生活も、また妻や夫も、子供も、家庭も、すべて神様の御心に従う暮らし、これが聖徒の正しい信仰態度であり、悔い改めた態度です。

私たちがこのような態度で暮らせば、神様が私たちのすべてに責任を負って下さいます。そして私たちの心には、平安と喜びが臨みます。そうでなく、自分で問題を解決しようとする人は、人生が呪わしく、苦痛であるしかありません。こういう人は、顔に呪いの汗を絶えず流さなければなりません。

第2に、私たちは神様にすべてを委ねなければなりません。聖書は、『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない。』(詩篇 55篇22節)と記しています。人生の主管者が神様であるとするなら、私たちがその神様にすべてをお委ねしなければなりません。口では「神様は主催者であられます。」と言いながら、問題を「自分が抱きかかえて」解決しようとしているとすれば、これはどんなに悲劇的なことでしょうか? 人生に関する責任と権限が主にあるのですから、私たちは小さい事から大きい事まで、すべてを主にお委ねして、その御心に従順に聞き従う暮らしをしていかなければなりません。こうする人が、神様のお恵みを享受することができるのです。

第3に、私たちは信じなければなりません。私たちの荷(問題)を引き受けて下さったお方は、天地と万物を創造なさり、運行しておられる神様です。その神様が、子である私たちにどうして良い結果を与えて下さらないでしょうか。ですから、私たちが一旦神様にお委ねしたなら、目には何の徴も見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものがなくても、責任を負って下さることと信じて、信仰の行進を続けて行かなければなりません。

第4に、私たちは従順に聞き従わなければなりません。被主催者は、主催者の指示に従わなければならないのです。ですから、『十戒を守りなさい。』と言われた仰せに、私たちは従順に聞き従わなければなりません。『主の日を聖く守り、十分の一と奉納物を捧げよ。』との、この仰せに従順に従わなければなりません。『福音を宣べ伝え、聖なる生活をせよ。』との仰せにも、『隣人を愛し、光と塩の役割をせよ。』との仰せにも、私たちは従順に聞き従わなければなりません。そうする時、神様が私たちを益々愛して下さり、私たちのすべてに責任を負って下さるのです。

第5番目、私たちは感謝しなければなりません。神様が主催者となられて私たちを顧みて下さるのですから、そして永遠のいのちの道まで導いて下さるのですから、どんなに有難いことでしょうか。感謝は、私たちの神本主義をもっと堅固にします。悪魔は、不平を言わせる事で私たちの神本主義を崩そうとします。私たちはこのような悪魔の作戦に騙されずに、目先に神様のお恵みが現われなくても、絶えず神様に感謝しなければなりません。

私たちが「感謝する」信仰を堅く保てば、安息することができます。神様が私たちを顧みて下さると思えば、心が平安になり、余裕も生じます。人が焦燥するのは、神様に感謝する信仰がないからです。今の緊迫した現代生活の中で、安息がどんなに重要か知りません。 安息がない人は、健康と生活を自ら荒廃させます。人が何故、安息を享受することができないのでしょうか? 神様にすべてをお委ねせず、そして感謝しないからです。

神様にお委ねもせず、感謝もしない人は、自分が自ら「仕事」の主催者になるので、苦しまなければならず、汗を流さなければなりません。その結果は「疲労困憊」です。このように疲労困憊した生活をしておられる聖徒さんは居られませんか? 人生の「仕事」の主催権は神様の領域内にあります。ですから皆さんは、主催者であられる神様にすべてを徹底的にお委ねして、ただ感謝しながら暮らして下さい。そうすれば、まことの安息を享受することができます。

過去の私は、「牧会」が自分の仕事であると認識して、自分でしようと全力を傾けました。それで疲労困憊して、安息がなかった時がありました。後になって私は、牧会も、生活も、すべてが神様の仕事であることを知りました。これを知った私は、すべてを神様にお委ねして、「神様。お委ねさせて下さって有難うございます。私はただ、使い者に過ぎません。責任を負って下さい。」と告白しながら感謝しました。そうするや、疲労も苦難も去って、平安と喜びが満ち溢れました。自ら「仕事」をしようとせずに、神様にお委ねして、感謝して下さい。そうする時、まことの安息を享受することができます。

人間の幸福と不幸は、主管と責任を正しく認識しているか、いないかにかかっています。ところがこんにち、数多い人たちがアダムの反逆を踏襲して、神様を人生の主催者であり、責任者として認めないので、不幸を自ら招いております。人間がまことの幸福な人生を暮らす為には、悔い改めて、神本主義に堅く立ち、神様の御心に従順に聞き従う信仰を持たなければなりません。

このような信仰を保って、この世と、永遠なる天の御国で、祝福された暮らしをなさいますよう、主の御名によって祝福し、祈願します。




お祈り

全能であられ、聖なる天のお父様!

こんにち、多くの人たちが心に平安がなく、風に吹かれる葦のように、荒れる海の波涛のように、落ち着きがなく、心細く、懸念と心配と恐怖の中で暮らしております。

人間の暮らしにこのような苦難が襲うようになったのは、人間が、自分たちの人生を正しい道に導いて上げようと願われる、愛の神様の御手から逸脱した事から始まった事を悟りました。

今も主は、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と仰せられながら、私たちを招いておられます。

こんにち、私たちの遠くなった耳を開いて下さって、主の御声を聞くことができるようにして下さい。そして、主の御前に私たちの重荷を下ろして、安らかな生活を営むことができるように助けて下さい。

主イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!