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「神様があなたがたに望んでおられる事」
 






■聖書箇所

「テサロニケ人への手紙 第一 5章16節〜18節」
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。




秋の収穫感謝祭の起源は、1620年イギリスの清教徒たちが、自国政府の酷すぎる宗教迫害を逃れて、唯一の神様に自由に礼拝を捧げるべく、102名が「メイフラワー」(Mayflower)という小さい帆船に乗って海に乗り出しました。彼らは65日間、九死一生の思いで大西洋を渡り、新大陸アメリカの東部に上陸しましたが、その年の冬、物凄い寒さと風土病に見舞われて、約半分に近い人たちが死んで行きました。

明くる年、熱心に荒れ地を開墾して農業に励み、秋になって豊かに収穫をしてから、彼らを色々と助けてくれた現地のインディアンたちを招待して、神様に感謝の礼拝を捧げました。これがこの感謝祭の起源となりました。彼らは、数多い逆境と苦難でいっぱいの環境であったのにも拘わらず、不平を呟くとか、怨んだりなどせずに、あくまでも肯定的な生活態度を一貫し、神様に感謝を捧げました。

神様が、これをとてもお喜びになられて、それ以後アメリカを豊かに祝福して下さいました。それでこんにち、アメリカが地上でもっとも強く、最大の豊かな国になったのです。私たちもこの清教徒たちのように、逆境と艱難と難局に襲われても、心から神様に感謝しながら人生を生きて行かなければなりません。

神様が「私たちに望んでおられる事」は、難しく、手が届かない遠い所にあるものではありません。すべての人々が知り、悟り、実践することができる、とても身近な所にあります。




第一、「いつも喜んでいなさい」

私たちが悲しみ、嘆き、そして否定的に暮らす事を、神様は望みません。どのような環境にあっても、心に喜びを持って、神様の前で楽しく人生を暮らすことが、神様が私たちに望んでおられる事なのです。

それでは、私たちがどうしたら、いつも喜んでいることができるでしょうか。神様の愛を考える時、私たちは喜ばずにはいられません。父母から愛されている子供たちは、心の中が喜びで満ち溢れています。夫から愛されている奥さんの顔は、光り輝いています。それは、夫が奥さんを愛しているので、奥さんの心の中に喜びがあるからです。奥さんから愛され、あたたかく優しい手で世話して貰っている夫は、堂々と胸を張って、勇気と力ある活動をしながら、その心の中には喜びと楽しさでいっぱいです。また、お隣り同士が互いに愛し合えば、喜びが満ち、笑いが溢れます。

神様は、私たちを愛するあまり独り子イエス様を遣わされて、十字架で体を裂き、血を流すようにまでなさいました。この神様の愛を私たちが心の中に受け入れたら、私たちは心から喜ばずにはいられません。「詩篇 16篇11節」は、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記しています。イエス・キリストを信じ、神様と共にいるという人が、いつも憂鬱であり、挫折し、絶望するとすれば、それは何かが間違っているのです。

神様の属性は、喜びです。「詩篇 4篇 7節」は、『あなたは私の心に喜びを下さいました。それは穀物と新しいぶどう酒が豊かにある時にもまさっています。』と記しています。神様がこのような喜びを与えて下さって、私たちに勇気と力を持つようにして下さるのです。

喜びが充満であれば、力が生じます。私たちは肉の人となって、肉の欲、目の欲、この世の自慢の虜(とりこ)になり、悪魔の奴隷になって生きて来ましたが、イエス様を信じるようになってからは、「霊的」人に変化されました。私たちが霊的な人になったことを喜ばなければなりません。聖書は、『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙 第二 5章17節)と記しています。私たちは、キリストにあって肉の人が滅び、イエス・キリストによって、霊の人に変化されたのです。

「エペソ人への手紙 4章22節〜24節」にも、『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記されています。新しい人は、どういう人でしょうか。罪を脱ぎ捨てた人なのです。罪の誘惑と、罪の支配から解放と自由を得た人なのです。

古い人、肉の人は罪の奴隷ですが、新しい人、霊の人は罪を支配し、罪を追い出す力がある人です。私たちは霊の人になったのですから、神様が共にいて下さる人です。肉の人は、神様から捨てられ、疎外され、遠く離れて、わびしく、孤独な暮らしをしますが、霊の人は、キリスト・イエスにあって、聖霊により神様と和解し、私たちが神様の中にとどまり、神様が私たちの中にとどまりますので、神様と同行する人になったのですから、本当に喜ばざるを得ません。

肉の人は、悪魔から支配され、あらゆる病気と苦痛の奴隷になっていますが、霊の人は、悪魔を踏みにじり、追い出し、イエス様の御名によって病気を癒し、健康な人に変えられるのです。また肉の人は、この世で呪いの奴隷になり、貧乏に引きずり回され、挫折し、絶望しますが、霊の人は、神様と共に人生を暮らしますので、運命と環境を支配し、呪いを追い出し、貧乏を踏みにじり捨てて、アブラハムへの祝福で満ち溢れる暮らしをする事ができるようになるのです。

肉の人は、滅亡する人です。肉の幕屋が壊れたら、地獄に落ち込みます。しかし霊の人は、肉の幕屋が壊れても、人の手によらない、天にある永遠の家に入って行きますので、私たちは心から嬉しく、本当に喜ばざるを得ません。

私たちの変えられた身分を考える時、私たちは嬉しくなり、心から喜ぶようになります。私たちは、キリストにあって新しい人になりましたから、夢と幻を抱いて喜び、楽しく暮らさなければならないのです。

そして、私たちの名前が天国に記録されるのですから、私たちは喜ばなければなりません。聖書に、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。』(ルカの福音書 10章19節〜20節)と記されています。

私たちが、イエス様を救い主として受け入れているので、私たちの名前が天に記録されています。天に、私たちの名前が記録されているということは、天に私たちの住まいがあり、私たちは天国の市民になったということです。それで、私たちの肉の幕屋が壊れても私たちが心配も懸念もしないのは、人の手によらない、永遠の家が私たちにあることを知っているからです。

イエス様が、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、又わたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』(ヨハネの福音書 14章 1節〜3節)と仰せられました。これは、まさしく私たちの為に言われたことです。

主と共にいる人たちは、その名前が天に記録されているのです。天国で、涙も心配も嘆きも、離別することも、失う事も全くない、永遠なる栄光の場所で暮らす事になるのです。このような事を考える時、私たちは心から喜ばずにはいられません。

私たちは、喜びを選び、悲しみを選んではいけません。嬉しい事を選び、憂鬱とか挫折とかを選んではいけません。人は世を暮らしながら、絶え間なく自分の生き方を選ばなければなりません。それで私たちは、悲しみを選ばずに喜びを選ばなければならず、挫折を選ばずに嬉しい事を選んで、いつも喜びながら、神様の御前に笑顔をお見せする時、神様の御心をなすことになり、そういう人を神様は喜ばれて、祝福して下さるのです。

聖徒の皆さん、胸の中を喜びで満たして下さい。家に帰っても、喜びで家庭を満たして下さい。勤務場所にも、周囲・環境にも喜びを伝えて下さい。四方八方が喜びで充満になる時、人々が陽気になり、弾みがつき、生気に溢れて、肯定的、積極的、創造的な暮らしをし、あらゆる難関を克服して行くことができます。




第二、「絶えず祈りなさい」

私たちが自覚していませんが、私たちは絶えず呼吸をしています。起きている時も呼吸をし、寝ている時も自動的に呼吸をしています。呼吸をしなければ死にます。霊的な呼吸は、他ならぬ「お祈り」なのです。私たちの霊は、いつも神様を慕っており、私たちの心が思索に忙しく、体が働いていても、霊は祈り、賛美します。ですから、私たちの霊を聖霊で充満にさせて、絶えず神様に向かって祈り、賛美するようにしなければなりません。

呼吸をする時、酸素を吸い込み、二酸化炭素を吐き出すように、私たちは絶えずお祈りを通して、聖霊を迎え入れ、罪を吐き出さなければなりません。お祈りは、まさに神様との愛の対話であります。お互いに理解し、情を深め、より良い共同体を作り上げるために対話が必要なのです。対話が断絶すれば誤解が生じ、憎しみが生まれ、その誤解が別の誤解を呼び、その憎しみがまた別の憎しみを招いて、終局には大きい破壊をもたらすようになるのです。

お隣りと垣を隔てていれば、お隣り同士の情が通じません。そうせずにいつでも、どこででも挨拶し合い、会って話し合えば、理解と同情と愛が溢れるようになります。しかし対話が断絶すれば、憎しみが積もるようになります。対話が円満に継続すれば、憎しみは消え去って、愛が満ち溢れるようになります。神様へのお祈りも同様です。

私たちが、毎日神様と対話をすれば、神様に対する愛が深くなり、神様も私たちをもっと深く理解して下さるようになるのです。平素お祈りを積み重ねておけば、神様との理解と愛が深くなって、私たちが難しい目に遭った時、主に呼ばわり祈れば、主が瞬く間に来られて私たちの手を取って下さり、一緒に問題を解決して下さいます。祈りとは、神様と一緒に働く事です。「コリント人への手紙 第二 6章 1節〜2節」に、『私たちは神と共に働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにして下さい。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。』と記されています。

恵みの時に答える、と言われましたが、答えを得る為には呼ばわり祈らなければなりません。それで、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』(エレミヤ書 33章 3節)と言われたのです。理解を越えた大いなる事を、私たち人間は知りません。それで私たちは、神様に呼ばわり祈らなければならないのです。聖書は、『彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。』(詩篇 91編15節)と記しています。呼び求めるとは、切なる祈りを言うのであり、切なる祈りとは、真心がこもった丹念なお祈りを言うのです。

神様に切に祈り求めるのには、真心がこもっていなければなりません。自分の心を引き締め落ち着かせて、早天にとか、徹夜しながら、又は断食しながら祈り、貴重な物質を感謝をもって捧げる等しながら、真心を込めて祈らなければならないのです。このような祈りは、霊的に自己成長の原動力になるのです。

また聖書は、『あなたがたがわたしにとどまり、わたしの言葉があなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたの欲しいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたの為にそれが叶えられます。あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となる事によって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。』(ヨハネの福音書 15章 7節〜8節)と記しています。私たちが祈り求めて、多くの実を結べば、それだけ私たちが成長することになるのです。

私たちが、霊的な実、健康の実、生活の祝福の実を結べば、私たちの信仰が育ち、成長します。ですから私たちは、絶えず祈らなければなりません。これが、神様が望んでおられることです。




第三、「すべての事について、感謝しなさい」

「すべての事について、感謝しなさい」という事は、良い事がある時だけでなく、悪い事がある時にも感謝し、一時的な感謝でなく、いつも絶えず感謝しなさいと言うことです。私たちは、過ぎた過去を顧みながら感謝しなければなりません。怨みと嘆きは傷痕(きずあと)を深めますが、感謝には癒す力があるのです。過去、悲しみに会った事、恨めしかった事、苦痛な目に会った事…等を思い起こして歯ぎしりし、怨み、くやしがる…等すれば、過去の傷が再び甦って、益々苦しくなるのです。

しかし、私たちが過去の良くなかった事にまで感謝すれば、その感謝は偉大な治癒力を発揮します。過去の傷をきれいに洗い流してくれるのです。それで「ピリピ人への手紙 4章 4節」に、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。』と記してあるのです。

イギリスの有名な「マルチン・ヘンリー」牧師は、一日中説教をしてから家に帰る途中、強盗に襲われて、死ぬか判らない程殴られました。彼は道端に倒れて気を失い、明け方になって露に濡れてから目を覚ましました。人たちが彼を家に連れて行きました。家で治療を受けてようやく健康を取り戻した彼が、教会に出て講壇に立ちました。彼は、強盗に襲われた事件に対して、三つの事を感謝しながら説教をしました。

第1に、「私が強盗に出遭って殴られましたが、死ななかった事に感謝します。」第2に、「私もイエス様を信じなかったら、あのような強盗になる可能性がいくらでもありました。しかしイエス様のお恵みによって、牧師になった事に感謝します。」第3に、「強盗に襲われて殴られ、お金を盗られましたけれども、彼らが私の信仰は奪って行く事ができませんでした。それで、この事に感謝します。」

彼は、強盗に襲われたことを怨み、不平を言うべきであるのにも拘わらず、かえって強盗に出遭った事を感謝する事によって、その心に癒しを受けました。過去の傷を感謝する時、誰もが癒されるのです。そして過去の祝福を感謝する時、その幸福が現在においても満ち溢れるのです。過去の事を記憶して感謝すれば、過去のその幸福が現在にまで相次いで、心の中に幸福と喜びをもたらすのです。

また私たちは、現在を感謝しなければなりません。不平、不満、怨み等は自分を悩まし、不幸にします。一日中、会社や外で急がしく働いた夫たちが帰宅するや、奥さんから同情を得ようとして「今日は本当に辛かったよ。上役からはガミガミ言われる、下の者は言う通りに動いてくれず、とんだ事ばかりしでかす、物品代は入らない…。今日は本当に死にそうだった…。」と言うのであれば、それを聞かされる奥さんの気持ちはとても苦痛です。怨みや不平や不満等は、自分も聞く人も苦しめ、そして不幸にします。

反対に、夫が一日中会社で働いて帰宅した時に、奥さんが「今日はもう死にたい。もう堪らないわ。子供たちはいくら叱っても言う事を聞かない、洗濯物は山ほど…。これはもう人生ではないわ…。」と言うのであったら、外で働いて、疲れて帰って来た夫の気持ちは形容できるものではありません。お隣りから同情を得ようとして、安易に不平・不満は言ってはなりません。聞く人はかえって、その人を嫌がり、敬遠するようになります。ですから私たちは、いつも肯定的な話、積極的な話、創造的な話、そして喜ばしい話をしなければなりません。

怨みとか不平は、悪魔に付け込む隙を与えます。悪魔はいつも、怨み、不平、不満を投げ与えて、それを餌(えさ)にして私たちを拘束しようとします。アダムとエバに悪魔が何と言ったでしょうか。『善悪の知識の木からは取って食べてはならない。』と神様が言われたのに、悪魔は不満を注入しようとして、「園のどんな木からも取って食べてはならない、と神は、本当に言われたのですか?」と聞きました。そして、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神様のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」と唆(そそのか)しながら、不平を注入しました。アダムとエバの心の中に不平・不満が入るや、悪魔の奴隷になってしまいました。

悪魔が付け込まないようにするには、いつも肯定的・積極的態度で人生を暮らさなければなりません。「コリント人への手紙 第一 10章10節〜11節」に、『また、彼らの中のある人たちがつぶやいたのにならってつぶやいてはいけません。彼らは滅ぼす者に滅ぼされました。これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。』と記されています。不平・不満そして怨みは、滅亡を自ら招く事であるという事を知らなければなりません。

また、私たちは「現在」に感謝しながら暮らさなければなりません。「詩篇 50篇23節」には、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と記されています。ある人は、現在の状態が良くないのに、どうして感謝するのか、と言います。病気に罹っているのに感謝しなければならないのですか? 会社(事業)が目茶苦茶になっているのに? 不渡りを出してしまったのに? 泥棒に盗まれたのに感謝せよ、と言うのですか? そうです! 感謝しなければなりません。感謝してこそ、神様のみわざが現われて、変化させて下さることができるからなのです。

そして、私たちは未来に感謝しながら暮らさなければなりません。未来は神様の手の内にあり、神様は私たちの牧者であられます。未来を運営なさるお方が、神様なのです。神様がおられない未来を見渡してはいけません。神様の御手を通して未来を見渡す時、私たちは希望にあふれ、勇気を持つことができるのです。永遠なる未来は何でしょうか。天国の栄光の約束を私たちは持っているではありませんか。

「ヨハネの黙示録 22章 3節〜5節」に、『もはや、呪われるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の名がついている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは永遠に王である。』と記されています。これが私たちの未来の運命なのです。




お祈り

愛であられる我が父なる神様! 神様は私たちに、『いつも喜んでいなさい。』『絶えず祈りなさい。』『すべての事について感謝しなさい。』と言われました。これが、神様が私たちに望んでおられる事であると仰せられました。神様のお望み通りに私たちが実践せずに、どうして私たちが神様の御心通りに暮らすと言う事ができるでしょうか。

父なる我が神様! 私たちが今まで暮らして来ながら、喜ばずに悲しみ、祈らずに嘆き、感謝せずに怨み、不平を言いながら暮らしてきた罪を、今日、すべて洗い清める事ができるように助けて下さい。聖霊さまのお助けを頂いて、「いつも喜んでおり」「絶えず祈り」「すべての事について、感謝する」生活を営むように努力し、気をつかい、忠実に励む私たちとなって、お父さまの御心を成就し、お父さまの愛にあずかり、油注がれる私たちになれるように、助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り致します。アーメン!