教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「心の一新によって自分を変えなさい」
 






■聖書箇所

「ローマ人への手紙 12章 1節〜2節」
12: 1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12: 2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。




私たちはいつも、自分の目の中にある梁(はり)には気がつきません。かえって他人の目の中にある塵(ちり)を見ては非難します。ところがイエス様は、『先ず、自分の目の中にある梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、塵を取り除く事ができます。』と言われました。私たちはいつも、自分の目の中にある梁はそのままにしておいて、他人の目の中にある塵だけを指摘し、それをもって、他人を批評したり、貶(けな)したりします。この御言葉は、「先ず、あなたが変化して、そして、然る後に他人を変化させるようにしなさい。」と言う主の諭しです。

こんにち我が国は、換骨奪胎(かんこつだったい)してこそ、生き残る事ができます。ところが、私たちは皆、他人が変化する事を望んでいます。会社は、労働者が変化する事を望んでおり、労働者は、会社が変化する事を望んでおります。政府は、国民が変化する事を望んでおり、国民は、政府が変化する事を望んでおります。どのようにしたら我が国と、我が民族にまことの変化が起こるようになるでしょうか?




第一、堕落した人間の本能は、「全てが相手の所為」です

アダムとエバは、神様が『食べてはならない。』と仰せられた、園の中央にある善悪の知識の木の実を取って食べました。そして彼らは裸である事を知り、神様の御顔を避けて、木の間に身を隠しました。その時、神様が、『あなたは、食べてはならない、と命じておいた木の実を食べたのか?』と聞かれました。アダムは、「神様とエバの所為(せい)」にしました。

「創世記 3章12節」を見ますと、『あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。』と、アダムは弁明しました。アダムは真っ先に、神様の所為にしました。"神様が私のそばに置かれたこの女が…"と主張したのです。即ち「神様が私にエバをくれたので」と、第一次的責任は神様にあると言ったのです。そして第二次的責任は、「エバが、あの木から取ってくれたので、食べたのです」と、即ち、エバの所為であると弁明しました。

そこで、神様はエバに聞かれました。エバは、『蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。』(創世記 3章13節)と、蛇に責任を転嫁しました。いつも、間違いを自分の所為にせずに、他人の所為にする、このような腐敗が人間の中に入って来るようになったのです。

カインが、弟アベルに襲いかかって打ち殺した理由も、"アベルの所為で、自分のささげ物が主の目に留められなかった"と考えたからです。神様が、アベルのささげ物には目を留められましたが、カインのささげ物には目を留められませんでした。これを、"自分の間違ったささげ物の所為ではなく、アベルが、羊の初子の中から最良の物をささげなかったなら、神様が仕方なく、自分のささげ物に目を留めて下さったはずなのに、アベルの所為で、自分のささげ物には神様が目を留めて下さらないのだ。"と考えたのです。それで結局、弟を殺してしまう悲劇的な事件が起こってしまいました。

私たちが、深く悟らなければならない事は、すべてにあって、私たちは自分を顧みようとはせずに、他人をしきりに非難する慣行を持っていると言う事実です。いわゆる「顧みて他を言う」事をしないのです。ある本に引用された内容ですが、アメリカのシンシン刑務所の死刑囚の中で、死刑執行場に連れて行かれる時、自分の犯罪の所為で死刑されるのだ、と言った人は一人もいなかったと言います。政府や社会の所為にするとか、父母や家族たちの所為であると主張し、自分が罪を犯したので死刑されるのだ、と言う人は一人もいなかったと言うのです。

主は、このような世態に対して、『何故あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、「あなたの目のちりを取らせてください。」などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。』(マタイの福音書 7章 3節〜4節)と厳重に警告しておられます。自分自身が変化してこそ、他人に変化を強要する事ができる権利があるのです。「全ては自分の所為である。」として、自分がへりくだる時に、お隣りを変化させることができるのです。全ては他人の所為であって、自分の所為ではないとして、非難と攻撃の矢を他人に向けたら、自分も変化せず、他人も変化させる事ができません。




第二、「シナイ山」と「ゲッセマネの丘」の差異

神様は、イスラエルの民たちをエジプトから連れ出して、シナイ山で「十戒」を与えられました。十戒を与える時に、『シナイ山は全山が煙っていた。それは主が火の中にあって、山の上に降りて来られたからである。その煙りは、かまどの煙のように立ち上がり、全山が激しく震えた。角笛の音が、いよいよ高くなった。』(出エジプト記 19章18節〜19節)と聖書に記されています。

モ−セをシナイ山の頂に呼び寄せられた神様は、『わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。自分のために偶像を造ってはならない。それらを拝んだり、仕えてはならない。主の御名を、みだりに唱えてはならない。安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。あなたの父と母を敬え。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。すべて隣人のものを欲しがってはならない。』(出エジプト記 20章 3節〜17節)と、厳しい戒めを与えられました。

シナイ山で神様は、罪を犯した人間を厳しく審くと言われました。ところが、人たちが神様の厳しい命令に従順に聞き従ったでしょうか? そうではありません。神様を恐れて避けようとし、ますます反抗し、背き…、そしてその結果、罪の奴隷となって、結局は神様から捨てられてしまいました。神様が律法をもって人生を治められる時には、人間は律法に対して抵抗し、逆らい、律法を犯すので、審きを免れる事ができませんでした。律法は、人間を一人も変化させることができませんでした。人間は、外部勢力から強圧されるとして、強制的に屈服されるとか、強制的に変化されるのではないと言うことです。一時的に従順に聞き従い、屈服し、変化されることはあるでしょうけれども、実際には、心中にもっと強い反抗心を起こすのです。

ところが神様は、ゲッセマネの丘で人生を治める方法に変化をもたらされました。神様は、律法を与えてますます厳しく審くのではなく、大きな愛とお恵みを持って私たち人生の前に現わられました。言い換えれば、神様は人間を救う方法を変えられたのです。イエス様が、まことの人として来られて、全ての人類の罪を負われました。私たちが罪を犯し、不義を働き、醜悪で、捨てられるべきであるのにも拘わらず、私たちに罪を問わずに、イエス様が十字架に釘付けられて身を裂き、血を流されながら、数々の苦痛と艱難と侮辱を耐え抜いて、代わりに私たちを贖われ、ついに主は、『完了した。』と仰せられて息を引き取られました。

神様は、十字架に釘付けにされて苦難に会われたイエス様を、私たちに救いの条件として提示なさいました。聖書に『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びる事なく、永遠のいのちを持つためである。』(ヨハネの福音書 3章16節)と記されています。

それで、私たちの罪を親しく担われた十字架のイエス様を見上げる時、私たちの心の中に大きな変化が起こります。神様のその大きな愛とお恵みと赦しの前に、私たちは砕かれるのです。その愛には抵抗する事ができません。イエス・キリストの十字架の前にひざまずいて涙を流しながら、「私は罪人です。私を赦して下さい。これからは、生きようが死のうが、栄えようが滅ぼうが、何がどうなろうとも、イエス様に私の一生をお委ねして暮らして行きます。」と、このような巨大な変化の渦巻きが、十字架を通して私たちの心の中に押し寄せて来るようになるのです。

誰かが強要してそのようになるのではなく、自ら進んで主の日を聖く守り、十分の一を捧げ、神様を賛美し、祈り、伝道します。何故そのようになるのでしょうか? それは神様の所為です。キリストのうちにある神様の愛が、私たちを変化させるのです。

変化は、力によって起こるものではありません。愛が、心の中に大きなわざを働かしてくれるのです。イエス様を信じる人々がみな変化を受けるようになるのは、神様が命令し、審くからではなく、私たちに罪を問わずに、イエス様が直接私たちの罪を負って下さり、自ら審きを受けられて、血を流してまで、私たちを愛された事を見せて下さったからです。




第三、「自分の所為」にして自分が変化したら、隣人が変化します

夫が妻に、子供の教育が間違っている、家計簿がきれいに整理できていない、家の中の掃除が行き届いていない… などと細かい事までほじくりだして文句を言ったら、妻は変化されず、かえって律法的な夫から遠く離れようとします。逆らうようにもなります。ますます抵抗し、変化されようとしません。夫が妻を変化させるためには、夫が先ず変化してこそ可能なのです。夫が先に十字架を背負って、妻の咎(とが)を赦し、愛で抱き寄せ、夫が代わって苦痛を担う、そのように愛し、いつくしみ、忍耐する姿を見せるようになる時、妻は変化されます。

「ペテロの手紙 第一 3章 7節」は、『同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だと言う事をわきまえて妻と共に生活し、いのちの恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。』と記しています。

それでは、妻が夫を変化させる為にはどうしたら良いでしょうか? しきりに愚痴をこぼしたり、責めたりして、争いをいどめば、夫は遠くへ逃げてしまいます。律法的な尺度で夫を判断したら、妻を愛するようになり、家庭的な夫になるだろうと、多くの女性たちが錯覚しています。それはとても間違った考えです。十字架を負わなければなりません。夫が過ちを犯し、また、夫が理性的に行動しないとしても、寛大に扱わなければなりません。それが十字架を負う事です。かえって前よりも愛して上げ、激励を惜しまず、温和に対応してあげれば、それが夫に変化のつむじ風を起こします。他の人に変化させてしまいます。

「ペテロの手紙 第一 3章 1節〜2節」は、『同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。』と記録しています。

次のような、ある婦人の証しを聞いた事があります。その婦人の夫は、とても律法的で、高圧的で、気むずかしい人でありました。ちょっとした金使いも、すべて調べる有り様でした。ある日、夫と争い合いながら、その婦人は心の中に大きな悟りを得ました。自分の目の中にある梁を見るようになったのです。そのような時に、たまたま同窓会に行き、帰りに友達をその家まで送ってあげたために、夜遅く家に帰って来ました。予想した通り、家では大騒ぎがおこっていました。頭の頂まで怒りを発した夫は、大声で怒鳴りながら自動車のキ−とクレジット・カ−ドまで奪って、奥さんを小部屋に追い出しました。

その婦人は、一言の弁解もせずに、翌朝早く起きて、念を入れて夫に朝ご飯を作って上げました。午後には、夫に電話を掛けて謝りました。その後から、夫の態度が180度変わって、とても寛大で温厚な人格に変化したと言います。

また、ニュ−ヨ−クでも有名なやくざの頭目ニキ・クル−スと言う人が変化されましたが、それはワ−ル・カ−ズン牧師の犠牲と献身がもたらしたイエス・キリストの愛のお陰でありました。数々の悪事を欲しいままにするニキ・クル−ス集団に対しては、ニュ−ヨ−クの警察までも手が付けられない程でありました。ところが、アメリカのある田舎でワ−ル・カ−ズンと言う牧師が祈りを捧げていたところ、神様から、ニュ−ヨ−クのハレム街に行って福音を宣べ伝えなさい、と言われました。彼は、ニュ−ヨ−クが何処にあるかも知らなかったのですが、とにかく飛行機に乗りました。

ワ−ル・カ−ズン牧師がたどり着いたそこは、ニキ・クル−ス組が支配している無法地帯でありました。ニキ・クル−スの縄張りの中の道端に立って、ワ−ル・カ−ズン牧師は大きな声で、神様の福音を宣べ伝え始めました。突然現れたワ−ル・カ−ズン牧師を、そのままにしておくニキ・クル−スではありません。行きずりながらワ−ル・カ−ズン牧師の伝道する姿を見たニキ・クル−スは、文句無しにワ−ル・カ−ズン牧師をところ構わずに殴り、気絶して倒れたワ−ル・カ−ズン牧師を道端に捨て置いて悠々と立ち去る浪籍を働きました。

ところが、その翌日、全身生々しい傷だらけのワ−ル・カ−ズン牧師が不自由なからだで、同じ場所に立って伝道しておりました。それを見たニキ・クル−スは、ワ−ル・カ−ズン牧師を力いっぱい突き飛ばそうとしました。その時、ワ−ル・カ−ズン牧師はニキ・クル−スの手をつかんで、"神様は、それでもあなたを愛しておられます!"と懇願するように主の愛を伝えました。ニキ・クル−スは衝撃を受けました。そんなに殴られたのにも、柔和な目で相変わらず神の愛を説き話すワ−ル・カ−ズン牧師を見て、これは普通の人ではない、と感じました。

その夜からニキ・クル−スの網膜に、ワ−ル・カ−ズン牧師の姿がたえず浮かび上がりました。遂に、ニキ・クル−スは部下たちを引き連れて、ワ−ル・カ−ズン牧師の前に膝をかがめて過去を悔い改め、すべての凶器を惜しげなく捨てると同時に、組織をきれいに解散してしまいました。そして、神学校に入って勉強した彼は、牧師になって、世界的なリバイバル師になりました。

アメリカ連邦法院やFBIやニュ−ヨ−ク警察が、あらゆる国家法律を動員してこの人を逮捕し、変化させようとしましたが、変化どころか、犯罪の証拠も確保できなかったのです。それを、名もない田舎の牧師が変化させました。理由もなく殴られましたが、仇(あだ)を仇で返さず、愛を施した故に、その愛の力が、強制的な法律による国家の権力よりも強く働いて、ニキ・クル−スを変化させてしまったのです。万一、ワ−ル・カ−ズン牧師が愛を施さなかったら、ニキ・クル−スのような人は絶対に変化される事がありません。

私たちは、先ず自分から変化しなければなりません。そうすれば、他人も変化されるようになるのです。他人が変化したら自分も変化する、と言う考えは、順序からして間違っているのです。ですから、「妻が変化したら、夫である自分もする」または「夫が変化したら、妻である自分も変化する」と言う事は、大きな間違いです。他人の事は考えずに自分から変化しなけばなりません。




第四、「自分の所為である」という十字架を負いましょう

天と地と世界と、その中のすべてをお造りになられた神様に、何一つ、できない事があるでしょうか? 全知全能であられる神様も、律法と外部的強圧によって人を変化させはしませんでした。人を変化させるために、神様はその独り子イエス・キリストをさえ、人として世に遣わされて、罪もなく十字架を負い、身を裂き、血を流す「愛」を施すようになさいました。まさに、この愛を通して人々が変化されるのだ、という事を知って下さい。

神様でさえ、律法と審きによって人間を変化させはしませんでした。それなのに、私たち人間が、この世の法律で人を変化させる事ができるでしょうか? イエス・キリストが十字架を負って身を裂き、血を流しながら愛を施こされる時、すべてを「他人の所為」とせずに、すべてを「ご自分の所為」として抱きかかえて、十字架を負われました。

世界が、その十字架を通して変化され、救われました。従って、私たちが変化されるためには、イエス・キリストのその十字架を先ず背負わなければなりません。法律とか権力、または暴力などで人を変化させる事はできません。愛でだけ、変化させる事ができますが、愛は、愛する者が十字架を背負ってこそ力を発揮します。「愛される者が十字架を背負う」のではなく、「愛する者が十字架を背負う」のです。夫が十字架を背負ってこそ妻が変化され、妻が十字架を背負ってこそ夫が変化されるのです。父母が十字架を背負ってこそ子供たちが変化されるのです。国家が十字架を負う時、国民は変化されます。労働者が十字架を負う時、使用者が変化され、使用者が十字架を負えば、労働者が変化されるのです。

こんにち経済的危機を迎えた我が国民の間には、すべてが自分の所為でなく他人の所為である、といった傾向が濃厚です。それで、律法と審きで継続支配したら誰も変化されず、そこには葛藤と反目があるだけです。大小すべての事を自分の所為にして、自分が十字架を負い、自分が苦難に挑戦していったら、その自分によって大きな変化がもたらされます。このIMF寒波にあって、私みたいな小さい者が、どのようにして変化をもたらす事ができようか、と考えてはいけません。自分から変化し始めて、水道の水も節約する、電気も節約する、コンセントのコ−ドも抜いておく、このような小さい事から始めなければなりません。そうしたら、小さな自分から始めた変化が、全国民に及ぶようになるのです。

巨大な変化は、小さい自分から始じまるものです。他人が変化する事を待たずに、自分から変化するクリスチャンたちにならなければなりません。私たちの周囲は、みんなが変化して行きつつあります。あいは善良に、あいはもっと悪くも変化しています。こうした時こそ、変化の原動力が「自分にあるのだ。」と言う事を知らなければなりません。

「箴言 4章23節」を通して、『力の限り見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。』と言われました。「ガラデヤ人への手紙 6章 7節〜8節」には、『思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。自分の肉の為に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、御霊の為に蒔く者は、御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。』と記されています。私たちは十字架を背負って、御霊の為に蒔きながら、暮らして行かなければなりません。




お祈り

愛であられ、聖なる神様! 私たちはあまりにも長い間、利己主義的・自己中心的に暮らして参りました。また、すべてを他人の所為にし、自分の所為とは考えない習慣のなかで暮らして参りました。

我が国の社会が、このように継続混乱しておるのも、誰もが十字架を背負おうとしなかったからです。すべてが皆、他人が十字架を負う事を待ったのです。我が父なる神様! すべての大きな変化の始まりが、至極小さい自分から始まると言う事を私たちが皆、悟り知るようにして下さい。

 天のお父さま! 我が国民がすべて、主のもとに立ち返るように導いて下さい。そして何事でも、良くない事はすべて他人の所為にせず、自分の所為にして、自分が苦難に耐え、自分が十字架を負い、自分から愛をほどこし、自分を犠牲にすることによって、我が国民全部に変化の巨大な運動が起こるように助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!