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「生活の中での信仰」
 






■聖書箇所

「へブル人への手紙 11章 1節〜6節」
11: 1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
11: 2 昔の人々はこの信仰によって称賛されました。
11: 3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11: 4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。
11: 5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。
11: 6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。




インドがイギリスの植民地であった時代に、イギリス総督が、ある地方の富豪に自動車1台を寄贈しました。ところが、いくらか過ぎてから見ると、その富豪は自動車の前に牛を2頭繋いで、自動車を引っ張らせているではありませんか。その自動車は牛数十頭よりももっと強い力を発揮することができるのにも拘わらず、その富豪はそれを知らなかったので、牛に自動車を引かせていたのです。

主が、私たちに与えて下さった信仰は、山を移すことができる程の力があります。しかし私たちは、その信仰を毎日の日常生活の中でどのように使用したら良いか、知っておりません。それで、信仰の偉大な力が私たちを引いて行くのではなく、私たちが信仰を引いて行こうとして、とても苦労しています。

今、私たちはIMF寒波の中で大きな苦痛に会っています。今こそ、神様が私たちに与えて下さった信仰の力に拠り頼んで暮らして行くべき時代です。それでは、どのようにしたら私たちの信仰を使用することができるでしょうか?




第一、 目標がはっきりしていなければなりません

『信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。』(ヘブル人への手紙 11章 1節)と聖書に記されています。私たちがいくら信じようとしても、望む目標が不確かであれば、決して何も信じることができません。たくさんの人が「信じよう」として虚しく足掻きますが、成果を収めることはできません。彼らが、心の中に信仰の目標を立てていないからです。

競走する時、目標なしに走っては、いくら早く走っても何にもなりません。私が小学校に入学する時には受験制度があって、試験の一つとして運動場に並ばせて競走させました。日本人の先生は日本語で話すので内容を知らぬまま、走れ、という合図に私は走り出しました。走ることには普段から自信があった私は、家に帰れ、と言われたのだと思って家に向かって思い切り走りました。ところが後ろから父親が追いかけて来ながら、大声で私の名前を呼ぶのでした。振返ってみると、ほかの学生たちは皆、既に運動場を一回りしてもとの位置に帰ってきておりました。小学校入学するにあたって不合格の恥をみるかも知れない瞬間でありました。いくら走ることに自信があっても、目標が定かでなければ何の価値もありません。

私が米国のスプリングフイールドで、今は天国に召された「ジン・モーメン博士」の車に同乗したことがありました。その時、一人の男性が荷台に高く荷物を積んだ自転車に乗って汗を流しながら、熱心にペダルを踏んで走るのが見えました。「ジン・モーメン博士」が自動車を運転しながら彼を指して、「あの人は、スプリングフイールドでもっとも真面目に働く人ですが、いつも貧しく暮らしています。それは、何の目標もなくその日その日を暮らしているからです。」と説明してくれました。

私たちが信仰を活用するためには、私たちの生活の中に確かな信仰の目標が立てられていなければなりません。神様は、私たちの心の中に熱い希望を持たして下さり、人生の目標を持たせて下さいます。「ピリピ人への手紙 2章13節」は、『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』と記しています。

私たちが切実に願い、祈り求める時、神様は私たちの心の中に熱い希望を持つようにして下さいます。この希望を通して私たちは、生活の目標と方向を定めることができるのです。私たちがある目標をたてる時、それが貪欲や悪い動機からの目標になってはいけません。「ヤコブの手紙 4章 3節」に、『願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』と記されています。目標は、神様に喜んで戴けるものでなければなりません。従って、私たちが確かな目標を設定する時から、信仰のみわざが始まるのです。

イスラエルの民たちがエジプトから出て、乳と蜜が流れるカナンの地にいく時、雲の柱と火の柱が彼らの行く道を導いてくれました。このように聖霊さまも、私たちの生活の目標をはっきりと設定して下さいます。ですから、私たちは心を空けて、主の前に待ち望まなければならず、切実に祈り求めなければなりません。職場を失ったとか、名誉退職(勧告辞職)させられたとか、事業が潰れた時、私たちはどうすべきでしょうか。新しく目標設定をしなければならないのです。難関の前に挫折してはいけません。神様は、私たちのために新しく目標を設定して下さいます。

「コリント人への手紙 第一 2章 9節」は、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』と記しています。

神様は、私たちのために既にすべてを備えて置かれました。我が神様が備えて置かれたその道を熱く祈り求めたら、聖霊の雲の柱と火の柱が、私たちの心の中に湧き上がる「希望」を与えて下さるか、又は、私たちの前にまっすぐな大道が見える「門」を開いて下さって、私たちに行くべき道・目標をはっきりと知るようにして下さいます。私たちは、神様が啓示して下さったその目標に向かって、力強く駆けて行かなければならないのです。

「ヘブル人への手紙 11章 6節」に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記されています。神様は、求める人を素手で帰らせる事はなさいません。必ず報いて下さいます。お恵みと祝福を与えて下さる神様なのです。ですから、私たちの信仰生活は、心の中にはっきりした目標をたてて出発しなければなりません。




第二、「見渡す法則」を使用しなければなりません

神様は、無いものを有るもののようにお呼びになると言われました。そうだとすれば、私たちも、無いものを有るもののように見渡さなければなりません。「見渡す」ということは、非常に重要です。神様が成しておかれたものを、「見渡す」こと、これは私たちの信仰生活にとても重要なことです。

アブラハムが、エジプトを出てカナンの地に上って来た時、神様は彼に非常に多くの金・銀と、多くの家畜を与えて下さいました。しかし、甥ロトとの間に絶えず紛争が起こりました。仕方なく甥ロトと別れた時、神様がアブラハムを呼ばれました。そして、仰せられました。『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。』(創世紀 13章14節) それから、アブラハムが見渡している土地を、アブラハムとアブラハムの子孫に永久に与えよう、と約束なさいました。

その時まで、カナンの地はアブラハムのものではありませんでした。カナンの地は、カナンの住民たちが占領して暮らしていました。そうであるのにも拘わらず、無いものを有るもののように呼ばれる神様は、アブラハムに東西南北を見渡すようになさりながら、自分のものになっておらず(未だ無いものを)、あたかも自分のものになったが如くに(有るもののように)見渡しなさいと仰せられました。神様は、元来無いものを有るもののように呼ばれる神様でありますから、私たちも、神様と共に暮らすためには、無いものを有るもののように見渡さなければならないと言うことです。

アブラハムが、カナンの地に入って来てから10年が過ぎ、85歳になっても、彼には子どもがいませんでした。子どもを与えて下さいと請い求めるうち、神様がアブラハムを夜中に連れ出して、天を見上げて星を見渡すようになさいました。神様が仰せられる通りに、アブラハムは天の星を見上げながら限りなく数えました。神様が、『あなたの子孫はこのようになる。』(創世紀 15章 5節)と、アブラハムに仰せられました。神様がなぜ、真夜中にアブラハムを呼び出してこのように仰せられたでしょうか?

そこには「見渡す法則」という信仰の「みわざ」があったからです。アブラハムが天を見上げ、星を数えることを通して、自分の子孫があの星のように多くなるという夢を持つようにして下さったのです。彼の年85歳、彼の妻は75歳でありました。言い換えれば、生理学的に子どもを得ることができない老人同士でしたけれども、アブラハムは天の星を見上げて数えた後からは、その様なことには全然気にせずに暮らしました。環境にこだわらずに彼は、「数多い子孫の父」になる、と心の中に「見渡し」ながら、信じたのです。

聖書は、『彼は、主を信じた。』(創世紀 15章 6節)と記しています。「見渡す法則」です。アブラハムが、それを昼夜なく心の中に見渡す時、それを通して神様の御霊の驚くべきみわざがほどこされるのです。教会に、なぜ十字架を立てるのでしょうか? 見渡す法則です。十字架は、イエス・キリストが2千年前に、私たちのために釘付けられて身を裂き、血を流して下さったことを見せてくれるものです。何の意味もなく、十字架を見るのではありません。十字架を見るたびに、その十字架の事件が起こった歴史を私たちが記憶から呼び起こしながら見なければなりません。

イエス・キリストの十字架の苦難を通して、私の罪がすべて審かれ、それによって私は罪から解放されたのだ、ということを「ご覧なさい」として十字架を立てておくのです。十字架を見上げるたびに、イエス・キリストを通して一生の罪が赦された、ということを心の中で見渡し、十字架を通して、神様と私たちとのあいだの「隔ての壁」が取り壊されて、神様と私たちのあいだに対話が取り交わされるようになり、主が私たちのうちに、私たちが主のうちにとどまるという現実を見渡しなさい、ということです。

また、十字架を見上げるたびに、イエス様はあそこで、私たちの痛みを親しくになわれ、私たちの病気を負い、私たちが患っているその苦痛をすべてご自分のものとなされて、主が私たちに癒(いや)しをほどこして下さるのだ、という事実を見渡し、心の中に信じなさいということです。現在、私たちはIMF寒波の中に置かれていますが、十字架を一心に見上げなければなりません。

私たちの呪いをすべて背負われ、茨(いばら)と薊(あざみ)をみな取り除き、私たち人生のすべての貧しさを主が来られて滅ぼしてしまわれました。「コリント人への手紙 第二 8章 9節」に仰せられた、『あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。』という、その十字架を熱く見上げなければならないのです。

聖書「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」の御言葉です。『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』

十字架を見上げながら、そこから私たちは、自分たちの人生のあらゆる呪いから解放されたことを体験しなければなりません。自分の古い人は脱ぎ捨てて、十字架を通して新しい人になった、という事実を見渡しなさいということです。十字架を見上げる時、死んで地獄に行く自分の姿は去り、そこから、死と陰府(よみ)を撤廃して天国と永遠のいのちを持って来られるキリストを見渡しなさい、ということです。

聖書に、『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』(コリント人への手紙 第二 5章17節)と記録されているように、十字架を見上げて、新しく造られた者になった自分の姿を心の中に受け入れなさい、ということです。「見渡す法則」とは、いつも心の中に見渡しながら、深く認識しなさいということです。

私たちは、心の中に描き夢見ながら、計画した目標が成就する様相をいつも見渡さなければならないのです。目標を確かにたてたなら、その目標が成就する様を心の中にいつも見渡しなさいということです。ちょうどヤコブが、木の若枝を組み合わせて色がまだらになるようにし、それを羊の群れに差し向かいに置いて、その前で羊が子を産むごとに、しま毛、ぶち毛、まだら毛の子を産むだろうと、いつもその様相を心の中に見渡しながら是認したように、見渡しなさいということです。

私たちはいつも、目標が成就した様相を心の中に見渡さなければなりません。IMF寒波の中にあって、失敗し、絶望せざるを得ない事ばかり考えて、悲観していてはいけません。我が国が新しくなり、健康になり、秩序が立つようになり、また、豊かで富強な国になることを、心の中に見渡さなければならないのです。この真っ暗やみの時に、ますます光り輝く希望を抱き、それが成就する様を見渡さなければなりません。この「見渡す法則」を正しく使用する個人や民族は興(おこ)り、栄えるようになるのです。聖書にも、夢のない民族は滅びると記録されています。

見渡す法則とは、心の中に希望を抱くことを言います。神様は、見渡す法則を使用する人を通して聖霊のみわざをほどこして下さいます。聖霊をすべての人に注いで、年寄りは夢を見、若い男は幻を見るようにすると言われました。夢と幻が現実になるようにみわざを働かして下さると言われたのです。ですから、夢と幻を胸に抱いていない人は、創造的現実をもたらすことも、それを体験することもできないのです。




第三、信仰を持たなければなりません

私たちは先ず、神様が「信仰」を与えて下さったことに感謝することを忘れてはいけません。私たちが生まれる時は、目・鼻・口・耳をみな持って生まれます。乞い求めなくても、既に与えて下さったのです。与えて下さったものを賢明に使用すれば、それがもっと健康になり、丈夫になるのです。同様に、私たちが生まれ出る時に既に「信仰」を与えて下さいました。イエス様を信じて新しく生まれた人には、既に神様が信仰を与えて下さったのです。

「ローマ人への手紙 12章 3節」は、『私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。』と記録しています。

既に主は、量りに応じて信仰を与えてから、生まれるようになさったのです。その信仰を休みなく活用する人は、信仰が育ちます。しかし信仰を使用しなければ、その信仰は萎縮していきます。私たちが心の中に「信じる!」と決めることは、まさしく私たちの心の選択によるのです。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には何も触れるものがなくても、信じなければならないのです。

「ヤコブの手紙 1章 6節〜8節」は、『ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。』と記しています。信仰は、神様が与えて下さったものですから、私たちは「信じる」ことに決定しなければなりません。暴風雨・竜巻が荒れ狂っても、私たちは「信じる」ことに決めなければならないのです。そして、揺れ動かされてはいけません。

信じたあとは、忍耐しながら待ち望まなければなりません。信仰の結実が見える時まで、気落ちせずに待たなければならないのです。何かの本に、このような話が載っていました。アメリカで、金鉱を開発する人がいました。全財産を投じて機械と土地を買いました。所がいくら穴を掘っても、金脈を発見することができません。疲れ果てたその人は、それ以上は堪えられず、結局機械も土地も他人に売り渡してしまいました。

それを買い入れた人は、僅か数メートルを掘った所で、巨大な金脈を発見しました。最初の人があと数メートルだけ掘っていたら、少しだけもっと忍耐して掘ったら、彼が巨大な金脈を発見することができた筈です。成功直前に放棄してしまったのです。信仰も同様です。目標に到達する直前が、もっとも疲労困憊する時期です。朝日が昇る直前がもっとも暗いのと同じく、信仰の目標に到達する直前がもっとも気落ちしやすく、挫折しやすいのです。そのような時にそばで誰かが激励して上げたら、その人は信仰をもって勝ち抜くことができるのです。

従って信仰生活は一人でするよりも、2,3人が集まってする方が良いのです。一人が倒れたら、他の人が立ちあがらせて上げ、一人が気落ちしたら、他の人が支えて上げる…、そのようにして互いに励ましあい、鼓舞しあう時、私たちは信仰の結実をみることができるのです。

「ローマ人への手紙 10章17節」は、『そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。』と記録しており、「コリント人への手紙 第二 5章 7節」は、『確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。』と記しています。また、「ヘブル人への手紙 10章38節」には、『わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。』と記録されています。信じることにしたら、最後まで信じなければなりません。信じると言って途中で放棄して、うしろに退いてはいけません。

忍耐する信仰を保持しながら、私たちは口で是認しなければなりません。「マルコの福音書 11章22節〜24節」の御言葉です。『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

次に、強く、雄々しく、信仰を宣言しなければなりません。神様は、アブラハムに星を数えるようになさっただけではありません。アブラハムが99歳になった時、神様は彼の名前を変えて下さいました。夢に見たことが、成就して現実となるように、毎日のごとく是認するようになさったのです。

信仰が生活化されるためには、三つの段階を経なければなりません。大小を問わずに目標を確かに設定して、その目標を「見渡し」ながら、熱く祈り、そして成就すると信じなければなりません。そうしてから、絶えず夢を見ることです。成就された姿を「見渡す」のです。病人は、治った自分の姿をいつも心の中に見渡さなければなりません。事業を始める時には、その事業が成功する様相を見渡さなければなりません。家族の救いを願う人は、その家族が救われて教会に出席する姿を見渡さなければならないのです。

成功を望む人は、自分が成功した姿を心の中でいつも見渡さなければならないのです。目には何も見えるものがなく、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものがなくても、「信じます!」と是認しなければならないのです。その次には、神様に感謝しながら、祈ることです。「天のお父さま! 私が目標をたてて、見渡す法則通りに見渡しながら信ずるようにして下さって有り難うございます。私が信じる通りに、主が成就させてください。私が信じる通りに、主が奇跡をほどこしてください…。」 このように私たちが実践すれば、神様が与えてくださった信仰を生活の中で使用することができます。

祈るたびごとに、十字架を見上げ、十字架に掛けられたイエス・キリストが、私たちのために成就しておかれたすべてを、いつも心の中で想像しながら見渡すようにしてください。「出来るものなら、と言うのか。信じる者にはどんな事でも出来るのです。」(マルコの福音書 9章23節)と言われました。ただ私たちの信仰を通して、神様はみわざを働かしてくださるのです。




お祈り

愛であられ、聖なる、我が天のお父さま! 信仰の創始者であられ、完成者であられるイエス様を見上げるように導いて下さって有り難うございます。

私たちを召されて、神様と共に暮らして行ける道を教えて下さったことに感謝申し上げます。聖霊様のお導きに与かって、大小の目標を確実に立てるように助けて下さい。

 そして、その目標が成就された夢をいつも見ながら、 最後まで信じ、すべてを忍耐し、口で強く雄々しく宣言し、熱く祈る私たちとなるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!