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「ダビデ、サウル、そしてゴリヤテ」
 






■聖書箇所

「サムエル記 第一 17章31節〜37節」
17:31 ダビデが言ったことを人々が聞いて、それをサウルに知らせたので、サウルはダビデを呼び寄せた。
17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」
17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」
17:34 ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、
17:35 私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。
17:36 このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」
17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」




ペリシテの大将軍「ゴリヤテ」の前で、イスラエルの王である「サウル」と彼の軍隊は、風前の灯火のようでありました。しかし「ダビデ」は、堂々としていました。彼らはみな同じく神様の選民であり、神様を崇め、神様に仕える人たちでありました。サウルと彼の軍隊は、ゴリヤテの気勢に押されて恐怖におののいていましたが、幼い牧童に過ぎないダビデは、どうして意気揚々とはりきっていたのでしょうか? それは、ダビデが神様を信頼していたからであります。

私たちは現在、我が国に襲ってきたIMF経済難局を、ちょうどサウルと彼の軍隊がゴリヤテを見詰めているがごとくに見ています。IMF経済難局である"ゴリヤテの気勢"に押されて破産の目に会うか? そうでなければIMF経済難局という"ゴリヤテの気勢"に打ち勝って、かえってもっと大きい発展と成功をもたらすようにするか? は、私たちの信仰意志に関わっているのです。




第一、現実の間違った状況に痛憤しなければなりません

サウル王は、ゴリヤテの侮辱的挑発に恐れをなし、逃げ場をさがすのにいそがしい有様でありました。ゴリヤテが現われて大言壮語するや、山川草木が震え上がり、サウルと彼の軍隊は恐怖に震え、逃げ場をさがして這いまわりました。この時ダビデは、ゴリヤテの挑戦の前に崩れるイスラエルの軍隊を見て痛憤を感じました。人が目の前の難局を見て痛憤を感じないのでは、その難局に対処することができません。「サムエル記 第一 17章26節」は、『ダビデは、そばに立っている人たちに、こう言った。「このペリシテ人を打って、イスラエルのそしりをすすぐ者には、どうされるのですか。この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」』と記録しています。

神様の軍隊であるイスラエルが、ゴリヤテの前で震え上がるのを見て幼いダビデは痛憤を感じました。これが、サウルとダビデの違う点です。サウルは痛憤を感じませんでした。サウルは恐怖におびえて、何をどうして良いか知りませんでしたが、ダビデは、割礼を受けていないペリシテ人が神様の軍隊を侮辱しているのを見て、心を痛め、口惜しがり、憤怒を感じました。

現在の私たちの状況を見詰めて、痛憤を感じる政治家がたくさんいなければなりません。政治家たちが胸を打ち叩いて痛憤し、哀しみ、問題を解決しなければならない、と飛びかからなければなりません。国民が襤褸をまとい、飢えるのにも無感覚で、ただ権力を握り、それを行使しようとするだけでは、神様は助けてはくださいません。

また、現実的状況を見詰めて、痛憤を感じる事業家たちがいなければなりません。物質にだけ執着して、会社が倒れ、社員たちが道端に追い出されても知らん顔をしては、その国は滅びます。骨を削る苦痛があっても、国と会社と社員を助けなければならない、株と家をみな売ってでも事業に投資し、負債を減らし、国を助けなければ… と、痛憤を感じる事業家があってこそ、神様が私たちを助けてくださるのです。

そして、痛憤する労働者たちがいなければなりません。善し悪しだけを指摘し合い、責任転嫁に暇がなくては、何も成就させることができません。どのような職種・職分であろうと勤勉に働き、経済建設に一生懸命励もうとする、そのように痛憤を感ずる労働者と国民になって、豪華・贅沢・浪費を追放しなければなりません。痛憤を感ずる人だけが奮発して、改革と変化をもたらすのです。

個人生活も同じことです。現実的生活の不足を見詰めて痛憤を感じ、涙を流しながら覚悟と決意を新たにする、そのような人に神様はお恵みと愛をほどこしてくださいます。家族を十分に、立派に養えないのを見て痛憤を感ずる家長がいなければなりません。夫と子どもたちを顧みるのに不十分であることから痛憤を感ずる主婦がいなければなりません。現実の実情から父母への孝行が足りないとして痛憤を感じ、胸を痛める子どもたちがいなければなりません。このような人たちが集まったら、運命と環境を変化させる奇跡が起こるようになるのです。

サウルと彼の軍隊がゴリヤテの前で自分たちの身の安全をはかり、逃げまわる時、牧童ダビデは、ゴリヤテに痛憤を感じました。神様の軍隊をなぶるゴリヤテを赦すことができませんでした。それで、神様はダビデをご使用なさったのです。




第二、神様に対する確実な知識がなければなりません

サウル王は、神様の偉大さを知っておりませんでした。聖書を見ますと、『サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」』(サムエル記 第一 17章33節)と記しています。

ダビデが神様に拠り頼んで出陣しようとする時、サウルは「お前はまだ幼い少年であるし、あのゴリヤテは小さい時から勇士であり、大将軍である。お前は彼に勝てない。」と言いました。サウル王は、危機に直面した時、神様の御力に拠り頼む方法を知っていなかったのです。ダビデは、小さく幼い牧童でありましたが、神様に対する確実な知識を持っておりました。また、神様に対する体験的知識を持っておりました。

「サムエル記 第一 17章34節〜37節」に、『ダビデはサウルに言った。「しもべは、父のために羊の群れを飼っています。獅子や、熊が来て、群れの羊を取って行くと、私はそのあとを追って出て、それを殺し、その口から羊を救い出します。それが私に襲いかかるときは、そのひげをつかんで打ち殺しています。/このしもべは、獅子でも、熊でも打ち殺しました。あの割礼を受けていないペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をなぶったのですから。」ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」』と記されています。

これは、確実な体験談です。神様に対することは一言も言わなかったサウル王に比べて、ダビデは、幼い牧童に過ぎませんでしたが、神様が共に居てくださるから、獅子の口と熊の爪から救ってくださったその方が、このペリシテ人からも間違いなく救ってくださる、と告白したのです。

私たちが難局に直面し、これを克服するためには、神様をはっきりと知らなければなりません。神様を知らずに、現実の環境だけを見渡して恐れ慄いては、何もできません。十字架を通して私たちに注いでくださる神様の愛を、私たちは知らなければならないのです。神様は、ガルバリの十字架に釘付けになられたイエス・キリストを通して、私たちに絶え間なく言っておられます。十字架の上に釘付けになられて、身を裂き、血を流して死なれながら、私たちに仰せられた神様のメッセージを私たちが確かに知っているなら、私たちはどのような危機も克服することができるのです。

「イザヤ書 53章 5節〜6節」は、『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。』と証ししています。これがすなわち十字架のメッセージです。まさに、赦しと義のメッセージです。このメッセージを受け入れて、悔い改めたら、赦しと義をいただいて、堂々たる信仰生活をして行けるのです。

そして神様は、キリストの十字架を通して、神様の家族の一員として私たちを招請するというメッセージを伝えておられます。私たちに聖霊を注いでくださり、神様の愛を注いでくださり、神様の子どもにしてくださると言われます。神様の家族の一員になるということを知ったら、どんなに堂々たるものでしょうか? 熊や獅子が怖いですか? ゴリヤテが恐ろしいですか? ですから、十字架から私たちに伝えられる神様のメッセージを、私たちがはっきりと悟り知らなければなりません。

また神様は、私たちに癒しのメッセージを伝えておられます。キリストは私たちの悲しみを担い、キリストの打ち傷によって私たちは癒されたと十字架から伝えておられます。もうどのような病気も私たちを害することはできません。しかし、神様がいくら私たちに仰せられても、私たちが受け入れなければ無用の物になってしまいます。十字架を通して今も神様は、祝福とすべてに幸いを得るようにと言っておられます。貧乏から解放され、心に大きな信仰を得ることができます。

また、十字架を通して神様は天国の栄光への招請をしておられます。疲れ、重荷を負っている人たちを招いておられるのです。もしも、私たちの住まいである地上の幕屋が壊れても、人の手によらない永遠の幕屋がイエス・キリストを通して与えられると、神様は私たちにメッセージを伝えておられます。永遠の幕屋が備えられてあるので、私たちはこの世を去ることが恐くありません。

こんにち、私たちも個人の運命や国家的運命を克服するためには、神様に対する確固たる知識を持っていなければなりません。十字架を見上げて、五重の福音と三重の祝福の確実なメッセージを知らなければならないのです。そのメッセージに拠り頼んで、私たちの環境の中に押し迫ってくるゴリヤテを恐れずに、立ち向かって行かなければならないのです。




第三、大胆になって、恐れるようなことがあってはなりません

サウル王とイスラエルの軍隊は、ゴリヤテが現われて、いつもと同じ文句を繰り返すのを聞くや、肝をつぶしてその前を逃げました。恐ろしかったからであります。モーセの後継ぎとして、ヨシュアを立てられる時、神様は仰せられました。『あなたの一生の間、だれひとりとしてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしは、モーセとともにいたように、あなたとともにいよう。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない。強くあれ。雄々しくあれ。わたしが彼らに与えるとその先祖たちに誓った地を、あなたは、この民に継がせなければならないからだ。ただ強く、雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じたすべての律法を守り行なえ。これを離れて右にも左にもそれてはならない。それは、あなたが行く所ではどこででも、あなたが栄えるためである。この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が、あなたの行く所どこにでも、あなたとともにあるからである。」』(ヨシュア記 1章 5節〜9節)

サウル王には、強く雄々しい心がありませんでした。「サムエル記 第一 17章24節〜25節」は、『イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」』と記録しています。

しかし、強く、雄々しいダビデをご覧ください。ダビデは、サウル王に「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」(サムエル記 第一 17章32節)と申し出ました。神様は強く、雄々しい人をご使用なさいます。環境の条件に恐れをなして、縮こまり、後ろに退く人をご使用なさいません。熱い信仰を持って、天が崩れ地が消えようとも、勇気と力を持った人を神様がご使用なさるのです。

私たちが、強く、雄々しくあるためにはどうしなければならないでしょうか? 「ヘブル人への手紙 10章35節」に、『ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。』と記されています。強く、雄々しくあるためには、いつも御言葉を口ずさまなければなりません。聖書にも、『この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行なうためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。』(ヨシュア記 1章 8節)と記されています。

また、深い祈りをささげなければなりません。祈りは、神様との対話です。神様の御前に祈れば、心配、懸念、不安、焦燥、絶望が霧のように消え去り、勇気と大胆さが生じます。

神様は、私たちを助けるために「助け主聖霊さま」を遣わしてくださいましたから、聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼まなければなりません。「詩篇 3篇 6節〜7節」は、『私を取り囲んでいる幾万の民をも私は恐れない。主よ。立ち上がってください。私の神。私をお救いください。あなたは私のすべての敵の頬を打ち、悪者の歯を打ち砕いてくださいます。』と記しています。

その次に、従順に聞き従う暮らしをしてこそ、大胆になれるのです。神様に逆らいながら暮らしたら、良心が苦しくなって、大胆になれません。




第四、不可能に挑戦する信仰がなければなりません

サウル王は不可能に挑戦する信仰がありませんでした。聖書に、『サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」』(サムエル記 第一 17章33節)と記されています。このようにサウル王は、前もって不可能だと言ったのです。

しかしダビデは、不可能に挑戦する信仰がありました。『ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」サウルはダビデに言った。「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」』(サムエル記 第一 17章37節) ダビデは、不可能に対して挑戦しようと勇みました。私たちが神様を信じるのであれば、不可能に挑戦するようにならなければなりません。天地と万物を造られた神様を信じるのですから、私たちができないことに挑戦するのが信仰なのです。

「マルコの福音書 11章22節〜24節」は、『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」』と記しています。

不可能に挑戦するのが、神様を信じる人です。神様の偉大さを知り、夢を持って不可能に挑戦すれば、神様が共に居てくださいます。イスラエルの民のなかの12人の偵察隊員が偵察して帰ってきた時、その中の10名は挑戦する心がありませんでした。「その町々は城壁を持ち、非常に大きく、私たちが行き巡って探った地は、その住民を食い尽くす地だ。私たちがそこで見た民はみな、背の高い者たちだ。私たちには自分がいなごのように見えた。私たちはそこに入れない…」と言いました。しかし、ヨシュアとカレブの二人は、「彼らの守りは、彼らから取り去られている。彼らは私たちの餌食となる。もし私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちにくださる。私たちは占領することができる… 」と挑戦する意志がありました。

IMFの経済的危機に直面して、数多い人たちが否定的な物の言い方をします。しかし、このような事に対して挑戦するのが信仰です。私たちが信仰をもって挑戦すれば、ゴリヤテはつぶされることになっているのです。




第五、奇跡を期待しなければなりません

サウル王は、理性主義者でありました。「サムエル記 第一 17章38節〜39節」を見ますと、『サウルはダビデに自分のよろいかぶとを着させた。頭には青銅のかぶとをかぶらせ、身にはよろいを着けさせた。ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。慣れていなかったからである。それから、ダビデはサウルに言った。「こんなものを着けては、歩くこともできません。慣れていないからです。」ダビデはそれを脱ぎ… 』と記録されています。サウル王は、戦争で勝つためには完全武装をしなければならない、と考えました。

しかしダビデは、神様が共に居てくださるのだから、特別な道具は必要がない。あるそのままで行っても勝つ、と考えました。ダビデは、すべてのことにおいて、いつも、神様が「御臨在」しておられることを信じました。そして、奇跡を期待しました。

聖書は、『自分の杖を手に取り、川から五つのなめらかな石を選んできて、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にして、あのペリシテ人に近づいた。そのペリシテ人も盾持ちを先に立て、ダビデのほうにじりじりと進んで来た。ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」』(サムエル記 第一 17章40節〜44節)と、ゴリヤテの状況を記録しています。

これに対してダビデは、「サムエル記 第一 17章45節〜47節」で、『ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はお前たちをわれわれの手に渡される。」』と答えました。

ここに、サウル王とダビデの違う点があります。サウル王は「現代武器をもって出陣してこそ、ゴリヤテと対決することができる」と考えましたが、ダビデは「持っている、そのまま、自分の杖と、五つのなめらかな石と、石投げを手にして、神様が共に居てくだされば勝つ」と信じました。この世の信じない人たちは、しきりに人間の知恵と知識と手段方法を動員します。私たちが知らなければならないことは、私たちの考えの中に「十字架を加えて、いつも神様を計算に入れなければ」なりません。

神様は、奇跡の神様であられます。時間と空間と歴史とすべての環境と運命を自由になさる神様であられます。神様から風が吹いてきたら、すべての問題が解決されます。IMF経済難局も、神様だけ拠り頼んで押し進めば良いのです。私たちが神様に仕えながら、崇め、そして祈らなければならないのです。そうしたら、神様の御力によって、私たち個人と国家の運命が違ってくるようになります。

ペリシテの将軍ゴリヤテの前に立ったサウル王とダビデは、全く同じイスラエル人であり、神様の選民であり、神様から全く同じ特権を持たされた人でありました。しかし、ダビデは勝利を収める将軍になりました。彼の信仰姿勢のお陰であったのです。こんにち、IMF経済危機というゴリヤテの前に立っている私たちが、ダビデのように、正しい信仰と、正しい生活態度を保持すれば、十分に勝って余りがあるのです。




お祈り

聖く、愛であられる天のお父さま! 今、この時間、私たちはIMFという、ゴリヤテのような経済難局の前に立っております。目の前が真っ暗です。何をどうして良いか? 判りません。

サウル王が、ゴリヤテの前で恐れ、おののいている時、ダビデは堂々と、そのゴリヤテを打って勝ち、勝利を収めました。私たちがみな、ダビデのようになれるように助けてください。

現実の毎日だけを見渡して、恐れ、おののかずに、痛憤を感ずるようにしてください。そして、信仰をもって押し進み、神様と共に働き、運命と環境を変化させることができるように助けてください。イエス様の御名によって、切にお祈り申し上げます。アーメン!