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「死者の中からの復活に達したいのです」
 






■聖書箇所

「ピリピ人への手紙 3章10節〜12節」
3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:12 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。
3:11 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。




イエス様の復活事件は、「絶対的な絶望」に対する「絶対的な希望」の宣布です。人間は、アダムの堕落以後、罪責感と罪に定められた絶望、人生の虚無と無意味の絶望、死と無に帰るしかない絶望に瀕しました。人間のどのような努力も、罪から解放されることができず、自分がどこから来て、どこに行くのかも知らず、時限的人生にあって意味と価値を見出すことができず、死という絶対的な絶望を克服することができません。

ところがイエス様が、完全な神様が完全な人として来られて、人間に代わって罪と虚無と死を担われ、墓に葬られてから三日目によみがえられました。このことで、私たちの罪をきれいに、永遠に清算してくださり、私たちに永久に神様に仕える、生きる目的と価値を提供してくださり、死と陰府(よみ)を完全に征服なさいました。「絶対的な絶望から絶対的な希望をもたらしたキリスト」にあって、絶望は征服され、希望が満ち溢れるようになりました。




第一、キリストの苦しみに与かることを知りたい

使徒パウロ先生は、どの誰よりもイエス様の「救いの事件」を深く理解しました。私たちがイエス様の十字架の事件を簡単に、客観的にながめている時、パウロ先生は十字架に一緒に参与することを教えました。イエス様は、私たちに代わって罪を担われ、病気を負い、呪われて十字架にかけられ、私たちの代わりに死なれました。このような福音の理解は、初級学問的理解です。

これに一歩進んで、私たちはイエス様の十字架に対する高等学問的理解をするようにならなければなりません。パウロ先生は、まさしくこの初級学問的な十字架の理解を飛び越えて、高等学問的なキリストの苦難を理解するように、私たちに教えています。

「ローマ人への手紙 6章 3節〜8節」は、『それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。』と記しています。

私たちの暮らしが、キリストの苦難に一緒に参与すると言うのです。私たちが「水のバプテスマ」を受けることは、イエス・キリストと共に十字架に釘付けられて死に、葬られてから、キリストと共によみがえることを象徴的に見せてくれる厳粛な儀式です。「コロサイ人への手紙 2章12節」に、『あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』と記されています。

これが、キリストの苦難に対する高等学問的理解です。神様は、私たちがイエス様を客観的立場から、私の罪のために死なれた、とだけ信じるのではなく、今からはイエス・キリストにあって、キリストと共に私たちが死に、葬られてから、よみがえった、という事実を私たちに教えようと願っておられるのです。

私たちはキリストにあって、キリストと共に罪に対して死にました。罪に対して死に、捨てられた状況に対して死に、病気に対して死に、呪いに対して死に、死と陰府(よみ)に対して死んだのです。イエス様にあっての死は、罪に対して反応をせず、捨てられた状況に対しても反応をせず、病気に対しても、呪いに対しても、死と陰府に対しても、反応をしないことです。

私たちが、イエス・キリストによって罪に対して死んだ、ということは、罪との関係が断ち切られたことを意味します。キリストと一緒に私たちは捨てられた状況から死にました。キリストと一緒に病気に対しても関係が断ち切られました。キリストと一緒に呪いと苦難に対して私たちは死にました。もう私たちは、死と陰府の世界とは断絶されました。何の関係もなくなったのです。

私たちが「キリストと共に死んだ」という事実を、私たちクリスチャンは心の奥深く悟らなければなりません。キリストが、私たちに代わって十字架で死なれたことは言うまでもありませんが、一歩進んで、キリストと共に十字架に釘付けられ、共に苦難に会い、共に死に、共に葬られて、私たちの「古い人」がきれいに、イエス・キリストにあって清算された、という事実を信じなければならないのです。




第二、キリストの復活の力を知りたい

キリストと共に死んだのなら、キリストと共によみがえるのは当然なことです。「ローマ人への手紙 6章 5節〜8節」に、『もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。』と記録されています。

私たちは、自らの力で死んだのでもなく、また生きるのでもありません。私たちがイエス・キリストの中に入って行くことで、キリストと共に死に、共によみがえったのです。神様が、私たちをキリストの中に入れてくだったので、キリストが十字架に釘付けられる時、私たちも一緒に釘付けられ、イエス様が死なれる時、私たちも一緒に死に、墓にも一緒に入り、イエス様がよみがえられる時、キリストにあって私たちも一緒によみがえったのです。ですから、私たちはこの復活の意味を深く知らなければなりません。

復活は、イエス・キリストが罪に勝って復活なさったので、私たちも、代価を払うことなく得るようになりました。私たちはもう、キリストによって罪に勝ち、義によって復活した人たちなのです。捨てられたことに打ち勝って、和解と愛と神様の家族に復活しました。キリストが病気と苦難に勝って、癒しと健康で救ってくだったので、私たちはイエス様にあって病気を脱ぎ捨て、健康と癒しで復活しました。また、キリストにあって呪いと失敗に勝って、祝福で復活したのであり、キリストにあって死と陰府に勝って、永遠のいのちと天国で復活したのです。

「コリント人への手紙 第二 5章17節」に、『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と記されています。

私たちは、過ぎ去った過去が完全に新しくなった、ということを確実に認識しなければなりません。キリストにあって復活したので、私たちは義人になり、神様の家族になり、癒しを受けた人、祝福された人、天国と永遠のいのちを得た新しい人になったことをはっきり認識しなければならないのです。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなった事実を心の中に認識しなければ、復活の信仰をもって暮らして行くことはできません。

キリスト教信仰とは、宗教や儀式ではありません。根本的な「生」での変化を言うのです。復活信仰の極致は、聖書「コロサイ人への手紙 2章13節〜15節」で見ることができます。『あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』

これは、キリストと共に私たちが十字架に釘付けられて死に、そして復活したことによって、十字架を通して主は、古い人を支配する律法をみな、十字架に釘付けにして除いてしまわれ、二度と、イエス様を信じて救われた人々を律法が干渉することは無いと言うことです。律法は古い人には干渉しても、新しくなった人とは何の関係もない、と言うことです。「すべての支配と権威」とは、悪魔の支配と権威を言うのです。古い人を盗み、殺し、滅亡させた悪魔の支配と権威を、主がみな武装解除してしまい、すべて破壊してしまわれました。

従って、悪魔は古い人だけを支配します。もうこの新しくなった私たちとは何の関係もありません。新しくなった人に対しては、悪魔は既に武装解除されました。これがまさに、復活信仰の極致なのです。

「エペソ人への手紙 2章 4節〜6節」で、『しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・ キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。』と仰せられたように、私たちの信仰は、死のうが生きようがキリストと共にあることです。イエス様と共によみがえらせ、神様が、イエス様にあって私たちを共に天の御座の右側にすわらせたと仰せられました。

イエス様のうちにある私たちは、からだはこの世にいますが、内の人はキリストと共に神様の御座の右側に座っているのです。イエス・キリストにあって、もう律法もみな清算されてしまい、悪魔の支配と権威もみな解体されてしまい、死と陰府は永遠に遠退き、私たちは既にキリストにあってよみがえって、キリストの御座の右側に座っているのです。時が至れば、これが実際に現われるようになるのです。これが復活信仰の極致です。

また、イエス・キリストと共によみがえったなら、キリストにあって、王として治めなければなりません。王は支配するものです。キリストにあって古いものは過ぎ去り、新しく造られたものとなって、王としてすべてを治めなければならないのです。暗闇の勢力を支配し、私たちに敵対するものをすべて支配し、私たちの暮らしを破滅しようとする死も、私たちは支配しなければならないのです。




第三、どうにかして、復活に達したい

使徒パウロは、自分の暮らしの中にキリストの復活が満ち溢れ、その中で暮らしたいと望みました。私たちがキリストの復活の権威を悟り、キリストの苦難に参与したことを知ったなら、今からはいつも、キリストの復活が溢れるその中で暮らして行かなければなりません。キリストは常に救う立場におられ、勝利者としておられるのですから、キリストと共に生きて行く私たちは、いつも復活の生命を体験しながら暮らすようにならなければなりません。

使徒パウロは、十字架の死と復活に対して、とても深い理解をしていました。それに加えて、その理論を実際に体験しようと猛烈に慕い、努力しました。「ピリピ人への手紙 3章11節〜12節」は、『どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。』と記しています。

使徒パウロは猛烈に、キリストの復活の中に深く入って行き、あとで、完全に自分も復活することを願いました。私たちも、イエス様の死と復活に実際に参与することができるように、全力を尽くして努力しなければなりません。

私たちがパウロ先生のように、キリストの復活に参与し、もっと深くキリストの復活を体験しようとするなら、第1に、イエス様と共にした死と復活を深く理解しなければなりません。ホセアは、『わたしの民は知識がないので滅ぼされる…。』(ホセア書 4章 6節)と言いました。また聖書には、『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』(ヨハネの福音書 8章32節)と記しています。「ローマ人への手紙 6章 3節」には、『それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。』と記されています。

私たちは、キリストと共に死んだ事実を確実に悟り知らなければなりません。私たち古い人、私たち血肉の人は、キリストと共に、一緒にバプテスマを受けたので実際に神様の前で死んだという事実を深く理解し、はっきりと知らなければなりません。「ローマ人への手紙 6章 6節〜8節」は、『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。』と記しています。

私たちがキリストと共に死んだのであれば、また、キリストと共に生きることにもなると信じなければなりません。このように、私たちは心の中に新しい真理を悟り知らなければならないのです。イエス様の死は即ち、私たちの死であり、イエス様の墓は、私たちの墓であり、イエス様の復活は、私たちの復活なのです。

第2に、私たちの考えが新しくならなければなりません。「ローマ人への手紙 6章11節」は、『このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。』と記しています。私たちの考えが、これからは完全に変わらなければなりません。もう新しく造られた者となって、キリストにあって義人になり、愛と聖霊充満に与かり、癒しと健康を得、アブラハムへの祝福を受け、天国と永遠のいのちを得た人であると、変わらなければならないのです。私たちが信じない人と違うのは、心と考えです。私たちがイエス・キリストの十字架を見る時、考えが「古い人」の時とは違わなければなりません。

第3に、十字架を通して死に、また、よみがえった自分をいつも見詰めなければなりません。「ヘブル人への手紙 12章 2節」は、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』と記しています。私たちは「見詰める法則」を使用しなければなりません。いつ、どこででも十字架を見詰める時、心の中に絵を描かなければなりません。十字架にキリストと共に釘付けられて、死に、葬られてしまった「古い人」を清算して、キリストにあって新しく復活した事実を、心の中に夢見るがごとくに描かなければならないのです。

見詰める法則には、偉大な力があります。私たちがイエス・キリストのよみがえられた姿を見詰めれば、栄光から栄光にその姿が似て行くのです。いつも私たちは、十字架を通して変化された自分の姿を心の中に描かなければなりません。信仰の世界に入ったアブラハムとヤコブは、見詰める法則を通して大いなる祝福を受けました。ですから、私たちは十字架を通して、自分が死んで、葬られ、キリストによってよみがえった新しい人になり、義人になったのを見詰めてください。神様の家族の一員になり、神様と対話しながら、神様の熱い愛の中で、神様と一緒に暮らすご自分の姿をたえず、心の中に描き、見詰めてください。

病気を脱ぎ捨てて、健康になった自分の姿を見詰め、呪いと苦難を脱ぎ捨てて、アブラハムへの祝福に参与した自分の姿を見詰め、死と陰府の勢力から完全に解放されて、天国の永遠の楽園で生活する自分の姿を見詰めなければならないのです。

第4に、私たちは切に主を慕いながら、強く生きて行かなければなりません。「ローマ人への手紙 6章12節〜13節」に、『ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。』と記されています。

罪が近づいて来たら、イエス様の御名によって退かせなければなりません。悪魔が私たちを支配することができないようにしなければならないのです。そうするためには、絶えず祈り、追い払わなければなりません。そして、新しく造られた者になったことを口で是認しなければなりません。「キリストにあって、私は祝福された人だ。キリストにあって、天国と永遠のいのちが私のものだ。敵悪魔は退け!」

イエス様の死と復活の事件は、私たち個人個人の暮らしの中に継続される体験なのです。私たちの暮らしは、使徒パウロ先生が言ったように、毎日のように死に、毎日のようによみがえる暮らしの連続となって、だんだんと、深い復活の海の中に入って行って、王としてすべてを支配するようにならなければなりません。復活の生命で暮らす私たちとならなければならないのです。

そして、主が再臨なさるその日に、私たちは完全によみがえった姿に変化して、死ぬべきからだが永遠に生きるからだに、醜悪なからだが栄光のからだに、肉のからだが霊的からだに変化されて、キリストと共に、永遠なる天国で暮らすようになるのです。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、我が父なる神様! 今日、この時間、私たちがイエス・キリストの十字架の死と、復活事件を、歴史的事件として客観的に見ることをせず、主観的に、自分と共に起こった体験として受け入れるように助けてください。

私たちが、イエス様と共に十字架に釘付けられ、私たちがイエス様と共に死んで葬られ、そしてイエス様と共によみがえった事実を、悟り知るようにしてくださって有り難うございます。すべての聖徒さんたちが、もう古い人が清算されて、キリストにあって復活した新しい人として立ち上がり、復活のいのちの下で、各々の運命と環境を支配する王として暮らせるように助けてください。

挫折と絶望は永遠に征服され、永遠の希望が私たちのものになったことを知って、絶対絶望を絶対希望に変化させたキリストにあって、いつも希望に溢れ、喜びが湧き上がり、何事にも創造的な私たちとなるようにしてください。

私たちの主イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!