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「死後の世界」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 15篇50節〜58節」
15:50 兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。
15:51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。
15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
15:53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。
15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。
15:55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
15:56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
15:57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。




死は、長く、深く、はるかの向こうまで続いているトンネルと同じです。人たちはこの世の人生の終わりに、死と言う、はるかに遠くまで続いている真っ暗いトンネルを覗いて見る時、その終わりが見えず、向こう側の出口が全然見えないので絶望します。それで無神論者たちは、死は全的に無の世界に帰る事であり、死はそれ自体そのまま、永遠に無くなると言っています。不可知論者たちは、死の向こう岸に、生があるのか無いのか判らない、と言います。実存主義者たちは、生とは、今この現実世界の中でしか論ずることができないと主張し、死の向こう側に対しては考える必要がない、と言います。

それでは、聖書は、死の向こう側の世界に関して、何と言っているでしょうか?




第一、旧約聖書が言う「人間と死後の世界」

人間は、神様のかたち通りに創造されました。聖書は、神様は霊であられると教えています。人間は、神様のかたちに、神様ご自身のかたちに創造されましたので、当然、霊に造られたのです。その霊が、私たちを助けるために私たちの肉体のなかに今、留(とど)まっているのです。ですから、人間は霊をもっているので、神様と交わることができ、対話することができるのです。今まで、いくら発達した動物でも、神様と交わりをもったと言う記録は全くありません。動物には霊が無いので、霊的対話ができないだけでなく、霊的な要求もないのです。

これに比べて人間は、神様の前で罪を犯してから追い出されはしましたけれども、霊的交わりを慕っているために、人間が暮らしているところでは何処にも、宗教があります。アフリカのピグミー族から始まり、アラスカの氷の家に住む人たちまで全てが、自分たちなりの宗教をもっています。どうしてでしょうか? 人には根本的にその中に霊がありますので、霊との交わりを慕うようになっているのです。その手段として、宗教を作り出すのです。霊は死にませんので、人間は天国や地獄に行くにしても、永遠に消滅することはありません。

アダムの七代孫エノクは300年の間、神様に同行してから、そのまま天に昇りました。「創世記 5章22節〜24節」は、『エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。エノクの一生は三百六十五年であった。エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。』と記録しています。それは、人間が死なない永遠の存在であるので、神様がそのようになさったのです。

また、エリヤの昇天事件も記録されています。エリヤは、その弟子エリシャが見ている前で、突然天から現われた火の馬と火の戦車に二人の間が分け隔てられ、エリヤは竜巻に乗って天に上って行きました。エリヤが上って行くのを見て、エリシャは、『わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。』(列王記 第二 2章12節)と大声で叫びました。そして、エリヤの身から落ちた外套を拾い上げて引き返し、ヨルダン川の水を打つや、ヨルダン川の水が両側に分かれた、と聖書に記録されています。このようにエリヤも、死なずに天に上りました。

もし、人が霊的な存在でなく、永遠に生きる存在でないとしたら、神様がエリヤを竜巻に乗せて、天に連れて行かれる理由が何処にあるでしょうか? 人間は、物質的な存在だけでなく、霊的な存在であり、物質の世界の中で暮らすだけでなく、霊的な世界でも暮らしますので、いつも物質の世界と霊的な世界を往来することができるように造られているのです。そして 霊であられる神様と、霊的な存在である人間だけが交わることができるのです。

ですから神様は、必要であれば、死と言う過程を無視して、霊の世界に人間を連れて行かれることもあると言うことを、これらの事実を通して明らかに証明しているのです。




第二、新約聖書が言う「死後の世界」

イエス様は、完全な神様が完全な人として来られて、この世で33年間、みわざを働かしてくださってから、十字架で死なれ、墓に葬られてから3日目によみがえられて、天に上って行かれました。イエス様は、この世でみわざを働かされながら、たくさんの死んだ人を生き返らせました。これは、イエス様が神様の御子であられることを証明するだけでなく、人間は霊と肉が分離されたら死ぬが、霊が戻って来たら、再び生き返ると言う事実を明らかに証明するものでもあります。

イエス様が、天の御国を説き、福音を宣べ伝えられながら、各種の悪霊に憑かれていた人たち救っておられる時、ユダヤ人で会堂管理者であるヤイロの娘が死にました。ところが、この会堂管理者の切な嘆願を聞かれたイエス様が彼の家に行かれて、彼の娘を生き返らせた記録が聖書にあります。

「ルカの福音書 8章53節〜56節」に、『人々は、娘が死んだ事を知っていたので、イエスをあざ笑っていた。しかしイエスは、娘の手を取って、叫んで言われた。「子供よ。起きなさい。」 すると、娘の霊が戻って、娘は直ちに起き上がった。それでイエスは、娘に食事をさせるように言いつけられた。両親がひどく驚いていると、イエスは、この出来事をだれにも話さないように命じられた。』と記されています。

子供に、「起きなさい。」と言われたところ、その霊が戻って来たと言うのです。その子の霊が肉体を離れて出て行っ時は、死んでいましたが、天の国の王様であられるイエス様が、「戻れ」と言われるや、霊が戻って来て、死んでいた子が生き返ったのです。人間は、霊がその肉体の中に留まるのであり、肉体の幕屋を脱ぎ捨てるとしても、その霊が無くならないのは、霊は死ぬことがなく永遠に生きるからです。

またイエス様は、ナインの町の寡婦(やもめ)の息子も生き返えらせてくださいました。「ルカの福音書 7章11節〜16節」は、『それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。町の人たちが大ぜいその母親につき添っていた。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めたので、イエスは彼を母親に返された。人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現われた。」とか、「神がその民を顧みてくださった。」などと言って、神をあがめた。』と記しています。

ナインの町の寡婦の息子は、死んでから何日も経っていました。それで葬儀を済ますために棺がかつぎ出され、寡婦である母親が泣きながらついて歩き、大勢の町の人たちがその母親に付き添っていました。イエス様は、その寡婦が泣いているのをご覧になってかわいそうに思い、近寄って棺に御手をかけられ、かついでいる人たちを立ち止まらせました。そして、「青年よ。起きなさい。」と言われました。そうするや、すぐにその霊が戻って来て、寡婦の息子が生き返りました。

もっとも劇的な事件は、ラザロのよみがえりです。ラザロは死んでからもはや四日も過ぎており、墓に葬られて、もう臭くなっていました。それでラザロの姉妹マルタとマリヤは、墓の石を取りのける事をためらいました。しかし、イエス様は墓の石を取りのけなさい、と命じられた後、墓の入り口に立って、『ラザロよ。出て来なさい。』と大声で叫ばれました。ラザロは、手と足を長い布で巻かれたままで出て来ました。墓に入って既に肉体は腐敗していました。医学的には絶対に生き返る事ができません。それにも拘わらず、イエス様がその霊を呼び戻されるや、腐敗したからだが即時に生き返えって立ち上がり、歩いて出てきました。これで、人はただの物質的な存在だけではないと言うことです。霊が入って来ると生き、霊が離れて行くと死にます。私たちのまことの姿が肉体ではなく、霊であるという事実を聖書は見せてくれているのです。

イエス様が、ペテロとヤコブとヨハネを連れて高い山に導いて行かれたことがあります。そこで祈られる時、主の御衣が非常に白く光り、目がまぶしい程に輝きました。その時、モ−セとエリヤが現れて、イエス様と共に語り合いました。それを見てペテロが感動しました。そしてイエス様に、「先生、私たちがここにいることは、素晴らしいことです。私たちが幕屋を三つ造ります。一つは主の為に、一つはモ−セの為に、一つはエリヤの為に造ります。」と言いました。すると、雲が湧き起こってその人々をおおい、雲の中から『これは、私の愛する子、彼の言う事を聞きなさい。』と言う声がしました。そして雲が消えてなくなりました。彼らが気がついて見回すと、そこにはイエス様だけがおられました。

モ−セは、カナンの地に入ることができず、ピスガの山で死にました。エリヤは、そのからだを持ったそのまま天に上りました。ところが、彼らがイエス様の前に現れたのです。それで、人はからだの内にあろうが、からだの外にあろうが、全く同じであると言うのです。肉は去っても、霊は永遠に生きるという事実を見せてくれています。

イエス様の死とよみがえりをご覧下さい。私たちと同じく、幼子として出生して、33年間成長なさいました。そして、人間のすべての苦痛に会われ、十字架で死なれる時、右側の強盗と左側の強盗と共に釘付けられましたが、右側の強盗がイエス様に、「イエス様、あなたの御国の位にお着きになる時には、私を思い出して下さい。」と言いました。その時、イエス様は、『あなたは今日、私と共にパラダイスにいます。』(ルカの福音書 23章42節〜43節)と仰せられました。肉体がパラダイスにいるようになったのでしょうか? そうではありません。右側の強盗の霊がパラダイスにいるようになったのです。現実的には、イエス様は墓に葬られ、右側の強盗はすねを折られて死にました。

イエス様は、人間の姿そのままの肉のからだが霊のからだに変化された事を、復活を通して見せて下さいました。「コリント人への手紙 第一 15章44節〜45節」は、『血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。』と記録しています。




第三、使徒時代と死後の世界

使徒たちは、イエス様がよみがえられた後に、あっちこっちと至るところに現れるの見て、人は死んでから消え失せるのではなく、永遠に生きるということを知るようになりました。彼らは、主の為に死んでも、永遠に生きるという事を確信するようになったのです。よみがえられたイエス・キリストに触って見たり、イエス様と一緒に座って食事も共にし、また、新しい教訓を頂きもしました。

イエス・キリストの弟子であるペテロも、死んだ人を生き返らせました。いつも多くの良いわざと、たくさんの施しをしていたドルカスと言う女性がいました。彼女を慕っていた数多い人たちが、ヨッパにいるペテロに人を送って、「早く来て、ドルカスを生き返らせて下さい」と頼みました。ペテロはそこに来て、屋上の間に置かれているドルカスの為に、切に祈りました。祈り終わってから、遺体のほうを向いて、「起きなさい。」と言いました。そうするや、ドルカスは生き返りました。イエス様が死んだ者を生き返らせたように、ペテロも死んだ人を生き返らせました。

使徒パウロも、死んだ人を生き返らせたと記録されています。使徒パウロが、主日の説教を朝から始めたのが、明くる日の明け方まで続けました。その時、窓のところに腰かけて説教を聞いていたユテコが、ひどく眠気がさして、とうとう眠り込んでしまい、三階の窓から下に落ちて死にました。使徒パウロはユテコの所に降りて行って、祈ってから、「心配する事はない。まだ命があります。」と言いながら、抱き上げるや、ユテコは立ち上がりました。生き返ったのです。イエス様のように使徒たちも祈ったら、神様がその霊を呼び入れて下さるのを知ることができます。

使徒パウロ先生ご自身も、大変な体験をしました。「コリント人への手紙 第二 12章 1節」以降を見ますと、使徒パウロは、福音を証している途中に人たちに捕われて、石で打ち殺されました。人たちは彼が死んだのを確認してから、郊外に運んでいって投げ捨てました。弟子たちが死んだ使徒パウロ先生の遺骸問題で祈っていたところ、既に死んだパウロ先生が生き返りました。使徒パウロは14年が過ぎた後に、その事件を聖書に記録しました。14年前に、使徒パウロはこの死の経験を通して、彼の内の人がパラダイスに引き上げられて、到底、言葉では言い表せない場面を見たが、彼は肉体のままであったか、肉体を離れてであったか、知らない、と言いました。死と言うのは、もっと美しく、最高の栄光の世界に入る事です。使徒パウロは、この体験をした後は、いつも天国を懐(なつ)かしがりました。

「ピリピ人への手紙 1章21節〜23節」は、『私にとっては、生きる事はキリスト、死ぬ事もまた益です。しかし、もしこの肉体の命が続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶ事になるので、どちらを選んだら良いのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストと共にいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。』と記録しています。

使徒パウロは、むしろ、肉体を離れてイエス・キリストと共にいる事が、はるかに優(まさ)っていると言いました。パウロは死を望んでいました。「コリント人への手紙 第二 5章 1節」にも、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と記されています。「コリント人への手紙 第二 5章 8節〜9節」も、『私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうが良いと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれる事です。』と記録しています。使徒パウロは、イエス様と共にいるのが何よりも良い! と言ったのです。私たちが肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちは主をあがめ、主に仕える、と彼は言いました。

ペテロもこのような告白をしました。「ペテロの手紙 第一 1章12節〜14節」は、『ですから、すでにこれらのことを知っており、現に持っている真理に堅く立っているあなたがたであるとはいえ、私はいつもこれらのことを、あなたがたに思い起こさせようとするのです。私が地上の幕屋にいる間は、これらのことを思い起こさせることによって、あなたがたを奮い立たせることを、私のなすべきことと思っています。それは、私たちの主イエス・キリストも、私にはっきりお示しになったとおり、私がこの幕屋を脱ぎ捨てるのが間近に迫っているのを知っているからです。』と記録しています。

ペテロは臨終前に、自分が地上の幕屋を脱ぎ捨てるのが、間近に迫っている事を知っていると言いました。幕屋とは何でしょうか? 天幕です。彼はこの世を去る日が近づいて来たとは言っていません。幕屋で暮らすうちに、主が仰せられた通り、幕屋を脱ぎ捨てて、主のみもとに行く時間が間近に迫って来た、と言いました。

使徒ヨハネをご覧ください。使徒ヨハネは、ロ−マ皇帝に迫害されて、パトモス島に島流しされました。神様は、そこで使徒ヨハネに驚くべき幻を見せてくださいました。「ヨハネの黙示録 4章 1節〜6節」に、『その後、私は見た。見よ。天に一つの開いた門があった。また、先にラッパのような声で私に呼びかけるのが聞こえたあの初めの声が言った。「ここに上れ。この後、必ず起こる事をあなたに示そう。」 たちまち私は御霊に感じた。すると見よ。天に一つの御座があり、その御座に着いている方があり、その方は、碧玉や赤めのうのように見え、その御座の回りには、緑玉のように見える虹があった。また、御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。御座からいなずまと声と雷鳴が起こった。七つのともしびが御座の前で燃えていた。神の七つの御霊である。御座の前は、水晶に似たガラスの海のようであった。御座の中央と御座の回りに、前もうしろも目で満ちた四つの生き物がいた。』と記されています。

使徒ヨハネは、パトモス島で天の開いた窓から聞こえてくる声に従って、天に上って行きました。そこには、神様が御座に着いておられました。そして、24人の長老たちがする事を見ました。12人の長老は旧約を代表し、12人の長老は新約を代表します。旧約で救われた人、新約で救われた代表たちが、既に金の冠を頭に被り、白い衣を着て、御座の回りに座っているのを見ました。ですから、人は死んで無くなるのではなく、天の門が開かれて天に上る、という事実を使徒ヨハネははっきりと見、そして体験したのです。

「ヨハネの福音書 14章 1節〜3節」は、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と記しています。

私たちはこの世で暮らしてから、死んでなくなってしまう存在ではありません。肉の幕屋がこわれたら、主は私たちを導いて、涙も心配も嘆きも離別することも、患う事もない、永遠なる天国に連れて行くのです。人間が死ぬ事によって、すべてが終わると言うのは、悪魔の嘘です。私たちが肉の幕屋を脱ぎ捨てる時、ある人は、「貧乏人ラザロ」のようにパラダイスに行き、この世でキリストに背き、神様を無視した「金持ち」のような人は、ハデスに落ちて行くのです。

「ヘブル人への手紙 9章27節」に、『そして、人間には、一度死ぬ事と死後にさばきを受ける事が定まっているように、』と記されています。私たちは、キリストが十字架で私たちに代わって審きを受けられましたので、死からいのちに移され、赦しと義で栄光の天国に入ることができるようになったのです。ですから、無神論者とか実存主義者とかが、死んだら無くなると主張するような話しに誘惑されないようにしましょう。私たちはもう暫くの後に、この肉の幕屋を脱ぎ捨てて永遠に天国に入って、主と共に暮らすようになるでしょうし、その前に主が臨まれれば、私たちは主にあって変化され、弱いからだが強いからだに、醜いからだが栄光のからだに、肉のからだが霊のからだに変化されて、主と共に永遠に生きるようになるのです。

私たちは霊的存在であるので、天国で神様と永遠に生きるか、神様に背いて地獄に落ち込んで永遠に審かれか、二つに一つです。人間には中間位置は、あり得ません。避けることができないのです。肉体も死に、霊も死ぬとしたら、それより以上、もっと悲惨なことがどこにあるでしょうか。主がお恵みを施される時、私たちは切に祈り、主が差し伸べられる救いの御手に取り縋って、永遠のいのちを得なければなりません。




お祈り

全知全能であられ、聖なる、我が父なる神様! ヨブは、人が死んだら再び生き返る事ができるかどうかを、神様に質問致しました。しかし、私たちには、私たちの主イエス・キリストが死なれてからよみがえられたことによって、永遠に救われたという事実を悟り、知るようにしてくださって有り難うございます。

いま、私たちはこの世におりますが、暫くの後にはこの世と肉体を離れるようになります。一人残らず、キリストを信じ、主イエス・キリストの十字架に拠り頼んで、皆が永遠なる天国で会うことができるようにして下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン!