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「ここまで主が私たちを助けて下さった」
 






■聖書箇所

「サムエル記 第一 7章 7節〜12節」
7: 7 イスラエルの人々のミヅパに集まったことがペリシテびとに聞えたので、ペリシテびとの君たちは、イスラエルに攻め上ってきた。イスラエルの人々はそれを聞いて、ペリシテびとを恐れた。
7: 8 そしてイスラエルの人々はサムエルに言った、「われわれのため、われわれの神、主に叫ぶことを、やめないでください。そうすれば主がペリシテびとの手からわれわれを救い出されるでしょう」。
7: 9 そこでサムエルは乳を飲む小羊一頭をとり、これを全き燔祭として主にささげた。そしてサムエルはイスラエルのために主に叫んだので、主はこれに答えられた。
7:10 サムエルが燔祭をささげていた時、ペリシテびとはイスラエルと戦おうとして近づいてきた。しかし主はその日、大いなる雷をペリシテびとの上にとどろかせて、彼らを乱されたので、彼らはイスラエルびとの前に敗れて逃げた。
7:11 イスラエルの人々はミヅパを出てペリシテびとを追い、これを撃って、ベテカルの下まで行った。
7:12 その時サムエルは一つの石をとってミヅパとエシャナの間にすえ、「主は今に至るまでわれわれを助けられた」と言って、その名をエベネゼルと名づけた。




人たちは、我が神様を「エベン・エゼルの神様」とも呼びます。その理由は、こうです。サムエルがミツパでイスラエルの民たちをみな集めて、大規模に「悔い改める運動」を起こしました。偶像と邪神を崇拝した罪を深く悔い改め、すべてを言い表し、偶像を一斉に取り除いて捨て、主のもとに立ち返る巨大な民族的リバイバルでありました。

その時、イスラエルの民たちがミツパに集まっている、ということを聞いたペリシテ人たちが群れをなして、総攻撃して来ました。これを聞いてイスラエルの民たちは、サムエルの前に出てきて言いました。「私たちの神、主に叫ぶのをやめないでください。私たちをペリシテ人の手から救ってくださるように。」(サムエル記 第一 7章 8節)

サムエルが、乳離れしていない子羊1頭を取り、焼き尽くす全焼のいけにえとして主に捧げ、そして主に呼び求め祈るや、青天霹靂の異変が起こりました。攻め込んで来るペリシテ人の大軍のただ中に雷が落下し、落雷の轟音が天地を震動させました。ペリシテ人の大軍が驚いて右往左往する時、イスラエル軍が攻撃して勝利をおさめました。それから、イスラエル軍がミツパから出てペリシテ軍を追撃してベテ・カルの下に至るようになりました。そこでサムエルは、石をミツパとシエンの間に立てて置いて、『エベン・エゼル』と命名し、「ここまで、主が私たちを助けてくださった。」と言いました。それで、主を「エベン・エゼルの神様」とも呼ぶようになったのです。

私たちの教会は、「1958年5月18日」大棗洞(テェジョドン)の山で設立され、悪魔との戦いを始めました。「1961年」西大門に、「1973年」にヨイドに移ったあと、悪魔との戦いで勝利に勝利を重ねながら『エベン・エゼル』すなわち、ここまで来るようになりました。主が私たちを助けてくださったからです。最初「5名」で始めた教会が、「1998年5月18日」には、登録聖徒「72万人」に及ぶようになりました。「チェジャシル(崔子実)断食祈祷院」「韓世大学校」「エリム福祉タウン」「アメリカのL.A.にあるベテスタ神学大学」「純福音神学院」そして、私たちの自慢である福音を載せた「国民日報」まで設立し、運営する、それこそ大きな教会になりました。

この時点において、私たちは歩みを止め、過去を振り返ってみながら、神様がなぜ、今まで私たちを助けてくださり、祝福してくださったかを考えてみなければならないと思います。




第一、十字架の購いの福音

私たちは、宗教や哲学を伝えず、儀式や形式に囚われることなく、イエス・キリストが十字架に釘付けになられた贖いのお恵みを強力に証しして参りました。使徒パウロ先生は、「コリント人への手紙 第一 2章 1節〜2節」を通して、『さて兄弟たち。私があなたがたのところへ行ったとき、私は、すぐれたことば、すぐれた知恵を用いて、神のあかしを宣べ伝えることはしませんでした。なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。』と告白しています。

また、「コリント人への手紙 第一 1章18節〜25節」は、『十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。』と記しています。

私たちの「ヨイド純福音教会」が、今日まで神様のお助けをいただき、40年間、筆舌に尽くしがたい祝福にあずかった理由は、私たちが十字架に釘付けられたイエス・キリストの福音を宣べ伝えたからです。私たちは「五重の福音」を絶え間なく伝えてまいりました。イエス様は十字架の苦難を通して、私たちに赦しと義の道を大きく開いてくださいました。私たちは罪を犯し、不義をはたらき、醜悪きわまりない存在です。私たちは原罪と自犯罪によって、永遠に滅亡するしかありませんでした。

「ヨハネの福音書 3章16節」は、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と記しています。イエス様を「救い主」と信じるとき、キリストの尊い血潮が私たちの罪を洗い清めてくれます。また「イザヤ書 53章 5節」は、『彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』と記録しています。

このように、イエス・キリストが十字架の上で私たちの原罪と自犯罪を代わりに担われて、身を裂き、血を流してくださることによって、私たちの永遠の罪をなくしてくださり、不義と醜悪を遠く取り除いてくださって、私たちがイエス・キリストに拠り頼んで神様の前に堂々と立つことができるお恵みをほどこしてくださいました。

私たちはまた、聖潔と聖霊充満の福音を宣べ伝えてまいりました。私たちは、憎しみと貪欲を除き、愛と聖と力ある暮らしをするようにするキリストの貴重な血の力を証ししてまいりました。「テトスへの手紙 3章 6節〜7節」は、『神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。』と記しています。

イエス・キリストの尊い血潮によって、神様と私たちとのあいだの「隔ての壁」が崩れ、取り払われました。そして、神様の愛で満たしてくださったので、貪欲の奴隷から解放されました。

また私たちは、いやしといのちの福音を宣べ伝えてまいりました。「使徒の働き 10章38節」は、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記しています。イエス・キリストが十字架の上で、私たちの痛みをにない、私たちの病を負われ、血を流されたので、悪魔に虐(しいた)げられているすべての人たちを血潮の御力でいやして下さるのです。

「ペテロの手紙 第一 2章24節」は、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記しています。いやしといのちは、天国のみわざです。それで私たちの教会は、いやしといのちの福音をイエス・キリストの御力によって証しして参りました。それで「エベン・エゼル」の神様が今まで助けてくださったのです。

私たちは、呪いから解放される祝福の福音を宣べ伝えました。「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」に記録されている通り、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』という福音の御言葉を、力強く宣べ伝えてまいりました。

それから、復活と永遠のいのちの天国の福音を宣べ伝えました。「コリント人への手紙 第二 5章 1節」に、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』と記されています。この御言葉のごとく、私たちの教会は強く雄々しく、キリストを信じることによって永遠なる世界と、新しい生活が始まるようになることを断固として証ししました。




第二、聖霊のバプテスマの体験

イエス・キリストを信じたら、聖霊さまが私たちの中に入って来られて、新しく生まれるようにしてくださり、永遠のいのちを得るようにしてくださり、神様の子となるようにしてくださいます。「使徒の働き 1章 8節」は、『聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。』と記しています。それで私たちの教会は、聖霊さまのお導きによって異国の言葉で話すようになることを恐れてはならない、と強く伝えてまいりました。

私たちは40年の間、世俗や悪霊と少しも妥協することなく、聖徒さんたちに絶えず聖霊さまがどのようなお方であるかを宣べ伝えてまいりました。聖徒さんたちは聖霊のバプテスマを頂き、火のような能力で福音を伝えることができました。聖霊のバプテスマを頂いた人たちは、聖霊の賜物を頂きました。知恵のことば、知識のことば、信仰、いやしの賜物、奇跡を行なう力、予言、霊を見分ける力、異言、または異言を解き明かす力… を頂いて、神様の御力によって悪魔の陣を破り、天の御国を建てることに全力を尽くしました。

それだけでなく、私たちは絶え間なく聖霊さまとの交わりを保ちながら暮らしました。「ヨハネの福音書 14章16節〜17節」は、『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。』と記録しています。

この「助け主聖霊さま」が私たちのうちに来ておられますので、私たちはいつも、聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼み、そして聖霊さまのお助けにあずかり、神様にあって驚くべき祝福を享受しながら生きていけるようになったのです。




第三、強力な希望の宣布

世の中は絶望的です。人は霊的に死んだのですから霊的に絶望であり、肉体は病気にかかって死ぬのですから肉体的に絶望であり、環境的にあざみといばらが生じる呪いを受けて暮らしていますのでこれも絶望であり、永遠の地獄に落ちますので、未来も絶望です。人生は初めから最後まで、キリストなしには完全な絶望なのです。しかし私たちは、その絶望のなかで「良き神様」及び「三重の祝福」を休みなく宣べ伝えました。

「マタイの福音書 7章11節」に、『してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。』と記されてあり、「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」は、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と記録しています。

私たちの教会では、良き神様を発見して、その神様を伝えました。如何に真っ暗で、全く前が見えない絶望のどん底にあっても、良き神様が入って来られたら、私たちのなかにみわざを働かしてくださって、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべてに幸いを得、健康になる、という福音を宣べ伝えました。目には何も見えず、耳には何も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、気落ちせずに、夢と希望をもって良き神様を信じなさい、と私たちは伝道しました。その結果、主である我が神様が、私たちの教会と共にいてくださいました。

また私たちは、イエス様を信じる時、儀式的に、形式的に信じることをせず、実践的に信じるように教えて参りました。「十戒」を守り行ない、「主の日」を聖く守り、「十分の一」を捧げ、神様に感謝し、その感謝を口に出して認めながら、肯定的に、積極的に、創造的に暮らしなさい、と教え、導きました。

「申命記 28章 1節〜6節」の御言葉です。『もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行なうなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。あなたがあなたの神、主の御声に聞き従うので、次のすべての祝福があなたに臨み、あなたは祝福される。あなたは、町にあっても祝福され、野にあっても祝福される。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、家畜の産むもの、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊も祝福される。あなたのかごも、こね鉢も祝福される。あなたは、はいるときも祝福され、出て行くときにも祝福される。』

今、いくらIMF環境によって、私たちの生活が苦しく、真っ暗であっても、私たちは希望を捨てることができません。それは、私たちには良き神様がおられるからです。天と地と世界と、その中のすべてのものを造られた全知全能なる神様の、その権威と御力は限りがありませんので、神様に拠り頼んだら不可能がありません。




第四、熱心な祈り

祈りは、神様との交わりです。「マタイの福音書 6章33節」は、『だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。』と記しています。「神の国とその義とを求める」まず第一の方法が祈りです。私たちの教会は、神様の前に徹夜祈祷、断食祈祷、叫び呼ばわる祈祷、早天祈祷を捧げながら熱心に主を探し求めました。

「エレミヤ書 33章 3節」にある、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』との御言葉に拠り頼んで、主に呼ばわり祈ったので、主は、私たちの想像をはるかに超えた、色々な「理解を越えた大いなる事」を現わしてくださいました。神様が応答してくださったのです。

お祈りのもっとも大きい効果は、悪魔との「霊的戦い」で現われます。「ヤコブの手紙 4章 7節〜8節」は、『ですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』と記しています。悪魔は私たちの環境の中で、盗み、殺し、滅亡させることを行なっています。この悪魔に対抗して戦うことが、祈ることなのです。

お祈りは、悪魔を退かせます。40年のあいだ、私たちは集まる度ごとに主に呼ばわり祈りました。祈り、求めたので、神様がこんにちまで私たちを祝福してくださったのです。




第五、福音の証し

私たちは熱心に家族を伝道して、主のもとに家族を導き出しました。私たちの教会は、時を得ようが、そうでなかろうが、家族とお隣りの伝道に積極に励みました。また大小を問わず、国内に教会開拓するのはもちろん、全世界に数多い宣教師を送り出しました。「マタイの福音書 16章15節〜18節」は、『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」』と記しています。

宣教師の生活は、決してロマンチックなものではありません。赴任したところの水が悪く、環境がとても困難であり、生活も「成り立たず」、異邦民族に面と向かって福音を宣べ伝えるということは、それこそ大きな犠牲が強要される仕事です。私たちの宣教師たちが全天下、万国に出て行って福音を証しするとき、私たちの教会がうしろで彼らのために祈り、物質的に後援することを怠らなかったので、「エベン・エゼル」の神様がその間、祝福してくださったのです。神様の最大の関心事は、福音伝播と伝道に注がれています。

福音は、人間を救うがために、ひとり子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の愛を宣布することです。それで、伝道する個人と、伝道する教会と、その国家を神様が祝福してくださるのです。我が神様が「韓国」を建てられたのは、福音を宣べ伝える国にするために建てられたのです。我が民族が心から悔い改め、神様が与えてくださった「使命」を真剣に受け入れて、全天下に福音を宣べ伝えたら、天からの祝福が満ち溢れるようになるのです。

神様が、私たちの味方となられたら、どこの誰が私たちに敵対することができるでしょう。ご自分の御子をさえ惜しまずに、私たちに与えてくださった神様が、その御子と共に何を私たちに与えてくださらないことがあるでしょうか? 私たちがその御子を崇めたら、神様が私たちを救い出してくださいます。私たちがその御子に栄光をお返ししたら、神様の救いが私たちに臨むのです。




第六、活発な平信徒運動

私たちの教会は、聖霊さまのお導きに従ってそのあいだ平信徒運動を積極的に展開してまいりました。区域長、地域長、児童区域長、児童地域長を任命して、平信徒たちが区域に行って主の家族たちをかえりみるようにしたのです。五つの家庭、または、それ以上の家庭を集めておいて、彼らに御言葉を証しし、一緒に礼拝を捧げ、一緒に祈りながら絶えずかえりみました。これが平信徒運動なのです。

純福音宣教連合会は、国内すべての職種・階層 及び 全世界を伝道すべく創立されました。神様のお召しに与かって福音を宣べ伝える実業家たちの団体です。このような団体を組織したのも、私たちの教会が初めてであり、これを実践したのも、私たちの教会が初めてでありました。また、私たちの教会には男・女宣教会を始め、各機関があって、そこで献身的な奉仕が行われています。これらを神様が大いに喜ばれて、私たちの教会がこのように成長したのであります。

それだけでなく、私たちの教会は世界最大の規模にふさわしく、総合的・体系的「教育」をしております。教会学校の幼児部から、児童部、中等部、高等部 及び 青年局、そして壮年を対象とする平信徒教育各課程、老年を対象とした栄光宣教大学に至るまで、集いがあるところには教育と福音伝播を並行しています。

私たちは、神様が喜んでくださる、以上の六か項目の「福音伝播」手段を、少しも等閑(なおざり)にしてはいけません。もう私たちは、長い広野の試練を通過しました。これからの私たちの前には、巨大な乳と蜜が流れる大地があります。

「ヨシュア記 1章 3節」は、『あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。』と記しており、「イザヤ書 54章 2節〜3節」も、『あなたの天幕の場所を広げ、あなたの住まいの幕を惜しみなく張り伸ばし、綱を長くし、鉄のくいを強固にせよ。あなたは右と左にふえ広がり、あなたの子孫は、国々を所有し、荒れ果てた町々を人の住む所とするからだ。』と記録しています。

私たちには、すべてが整備されました。教会があり、聖徒さんたちがみな、訓練を受け、みんながお恵みを充満するまでに頂きました。これからは、全世界に向かって福音を宣べ伝えるべき時です。すべてがみな準備されたのです。「申命記 28章12節〜14節」は、『主は、その恵みの倉、天を開き、時にかなって雨をあなたの地に与え、あなたのすべての手のわざを祝福される。それであなたは多くの国々に貸すであろうが、借りることはない。私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行なうなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。あなたは、私が、きょう、あなたがたに命じるこのすべてのことばを離れて右や左にそれ、ほかの神々に従い、それに仕えてはならない。』と記しています。

「エベン・エゼル」の神様、今まで私たちを助けてくださった神様、その神様が今まで助けてくださった理由を私たちが悟り、力を尽くして継続してその道を歩めば、私たちは今までよりも30倍、60倍、100倍のもっと大きい働きをすることができるのです。




お祈り

聖く、全知全能で、栄光であられる我が神様! 「エベン・エゼル」の神様! 今、私たちがここに至るまで助けてくださり、大いなるお恵みと祝福を降り注いでくださったので、乳と蜜が流れる地に入って行きます。今後は、乳と蜜が流れる地に入って、神様が与えてくださるお恵みと祝福を刈り入れるようになります。

主である神様、只今、信仰により、主の前に頭を下げている聖徒さんたちが、どこに居ようとかえりみてください。頭とならせ、尾とはならせないでください。上に居て、下へは下らず、貸すことはあっても、借りることはないようにして下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!