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「光の子供らしく歩みなさい」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 5章 1節〜8節」
5: 1 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。
5: 2 また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。
5: 3 あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。
5: 4 また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。
5: 5 あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
5: 6 むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。
5: 7 ですから、彼らの仲間になってはいけません。
5: 8 あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。




私たちが救われるのは、ひとえにイエス様の十字架の贖いを信じる事によるのです。しかし、救われてから神様の子どもになったなら、神様から熱心に教わる者とならなければなりません。「エペソ人への手紙 4章22節〜24節」に、『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記録されています。

神様にかたどられて、義と真理と聖なる者に造られた'新しい人'を着て暮らす時、神様と隔てがない交わりがなされ、何でも祈り求めることは聞き叶えて頂くようになり、そして霊的暮らしをするようになります。私たちが、神様に喜んでいただける霊的暮らしをするためには、守らなければならない幾つかの事柄があります。




第一、義の生活を営む為には、「して良い事・悪い事」の区別(限界)を確実に決めなければなりません

私たちは心の中に、義と聖なる事と、そうでない事に関する境界線を確実に決めて置かなければなりません。人々がこの線をはっきりと決めていないので、暗く曖昧な、混沌とした生活をするようになるのです。その境界を指定しているのが、『十戒』です。「ヨハネの手紙 第一 3章24節」に、『神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。』と記録されています。

私たちが、イエス様を信じて救われ、神様の戒めを守れば、私たちの中に聖霊様が臨まれて、みわざを働かして下さるのです。ですから、私たちは『十戒』によるはっきりした境界線を引いて置かなければなりません。そして、絶対に境界線は越えない、と言う確固たる決心をしてこそ、私たちが義の生活をする事ができるのです。

神様は、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。」と言われました。神様以外に、ほかの神々を崇めることは罪悪です。そして、「偶像を拝んではならず、主である神様の御名をみだりに唱えてはならない。」と命令なさいました。「聖なる神様の御名を傷つけることはしません。」と言う決断をしなければなりません。また、「安息日を聖なる日」として守らなければなりません。6日間は世の中で暮らしますが、7日目である「聖日/主日」には、主の御体である教会に出席して、神様に礼拝を捧げなければなりません。

次に、人間関係の戒めがあります。「あなたの父と母を敬え。」と言われました。現代社会の核家族化は家族を散り散りにさせ、相互無関心で通すようにしています。お互いに余りにも忙しくて、あいは困窮な毎日の気忙しい暮らしなので時間がない、と弁明するかも知れませんが、そうだといって父母を敬うことを、おろそかにする人は決して神様から愛される事はありません。

また、「殺してはならない。」と言われました。実際には人を殺さなくても、心の中に「殺してしまいたいほどの憎しみ」を抱くようになれば、それは殺人したも同様です。従って、心の中に境界線をはっきりと設置して、殺してしまいたいほどの憎しみが生じるときには、必ず境界線に因って阻止しなければなりません。

「姦淫してはならない。」ことも守らなければならない境界線です。こんにち、性道徳がとても乱れています。それで姦淫をしてからも、恥ずかしいと思わない人が増えてまいりました。発覚されなかったらそれで良い、と錯覚しています。ですから私たちクリスチャンは、心の中に神様が命じられた境界線をはっきりと保持しなければなりません。私は絶対に、姦淫するなど思いもよらない。私はこの境界線を絶対に越えない。決して越えない、という堅い決心をしなければならないのです。

「盗んではならない。」と言われました。神様に捧げる十分の一も勿論盗まず、世の中の物も盗んではなりません。盗んだ物を持って、どれほど豊かに、どれほど心安らかに、満足しながら暮らしていけるでしょうか。 正義を守ることによって得られる満足と喜びと幸福がはるかに大きく、それこそが素晴らしい人生なのです。

「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない。」と言われました。隣人を批評するとか、非難するにしても、正確にするのではなく、悪意的に、ありもしないことを更につけ加えるのが一般的傾向です。また、「あなたの隣人のものを欲しがってはならない。」と言われました。隣人が自分よりすこしでも「良く」なれば、それを嫉んで、誹謗し、攻撃し、謗(そし)ります。もうそのようなおぞましいことは絶対にしない、と心に悲壮なまでの覚悟と決心をしなければなりません。

このように、私たちが心の中に断固とした線を引いておいてから、それでもこの境界線を犯したら、その結果は、神様との交わりは断たれ、良心の呵責の故に心が暗くなる、と言う事実を知らなければなりません。




第二、罪を犯した時には、徹底的に悔い改めて罪を洗い清めなければなりません

「ヨハネの手紙 第一 1章 9節」に、『もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。』と言われました。サウルとダビデをご覧ください。サウルも罪を犯し、ダビデはサウルよりももっと恐ろしい罪を犯しましたが、二人の犯罪の結果は大いに相違がありました。サウルは、預言者サムエルが来て罪を犯したことを責めた時、長々と弁解しました。しかしダビデは、直ちに王の座から降りてひれ伏し、罪の赦しを切に求めました。それで神様は、ダビデを赦されました。

アダムとエバは何故捨てられたのでしょうか。神様がアダムとエバを殺そうとなさったなら、エデンの園で探すなど、しなかったでしょう。神様はアダムとエバがどのような罪を犯し、何処に隠れているかをすべて知っておられました。彼らに悔い改める機会を与えようとして、一応呼ばれたのです。彼らがどうか悔い改めるようにと、望まれたのです。ところが、アダムとエバは最後まで弁解しました。アダムは、神様が助け手として造って下さったエバに誘惑されたと言い、エバは蛇に騙されたと主張しました。悔い改めることも、言い表すこともせずに、ひたすら弁解しました。その結果、神様から見捨てられました。

私たちが罪を犯した時、それを妥当化してはいけません。弁解してもいけません。心の中から罪を吐き出し、徹底的に悔い改めて立ち返らなければなりません。数多い人々が口先だけでは悔い改めますが、行為そのものは改めません。それで犯罪が継続繰り返されるのです。罪を犯した時には徹底的に悔い改めて、犯罪を断固として繰り返さないように立ち返らなければなりません。そうしてこそ、私たちは義の道を歩むことができるのです。




第三、いつも聖霊さまのお助けを祈り求めなければなりません

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」に、『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』と記されています。罪と死の原理が私たちを縛って引いて行こうとしても、聖霊さまが罪と死の原理から私たちを解放したと言われたのですから、私たちは聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼み、継続して聖霊さまの助けを祈り求めなければなりません。 「ローマ人への手紙 8章26節」は、『御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。』と記録しています。聖霊さまは、弱い私たちを助けて下さり、勝利するように取り成して下さるのです。




第四、いつも御言葉を読み、口ずさまなければなりません

私たちはこの世で暮らしながら、各種の公害に汚染されます。私たちが毎日シャワ−をするのは、このように汚染された体をきれいにするためです。イエス様が「最後の晩餐」の時、弟子たちの足を洗って上げました。弟子たちの足は、砂埃(すなぼこり)や芥(ごみ)だらけの道をサンダルを履いて歩いていたので、非常に汚(よご)れていました。その足を、イエス様は親しく水で洗って上げられたのです。ペテロの番になったとき、「主よ。決して私の足をお洗いにならないで下さい。」と言うペテロに、イエス様は、『もし私が洗わなければ、あなたは私と何の関係もありません。』と言われました。

イエス・キリストを救い主として迎え入れた人は、一生の罪をも赦されます。ところで、足は行為を意味します。毎日の生活の行為は、意識・無意識のうちにいつも汚れていきます。ですから毎日毎時、悔い改めなければならないのです。それで、イエス様が弟子たちの足を洗って上げられました。それでは、私たちは何をもって洗わなければならないでしょうか。それは、神様の御言葉です。神様の御言葉を読むとき、その御言葉が私たちの中に入って来て、私たちを聖潔にし下さるのです。「ヨハネの福音書 15章 2節」は、『わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。』と記しています。

このため、私たちが神様の御言葉を聞く時に、きれいになります。私たちが教会に来て礼拝し、説教を聞く事によって、御言葉のシャワ−を浴びるようになるのです。御言葉が夕立のように降り注いで、私たちを洗ってくれるのです。心の中のすべての不義と罪がみな洗い流されます。不信仰も洗い流されるのです。




第五、いつも祈りに励まなければなりません

私たちが試みに会うのは、祈りが足りないからです。私たちが熱心に祈り、主と交わるようになれば、試みに会う危険が忍び寄って来ても、それに打ち勝つ事ができる力が生じます。「ヤコブの手紙 1章14節〜15節」は、『人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。』と記しています。

私たちが祈り、神様と交われば、私たちの心の中の貪欲がすべて追い出されますので、罪を犯さないようになるのです。「ペテロの手紙 第一 5章 8節」は、『身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。』と記しています。しかし私たちが祈っていたら、悪霊は一つの道から私たちに攻撃してきて、七つの道に逃げ去るようになるのです。「マタイの福音書 6章13節」に、『私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。』と記録されています。

毎日、私たちは試みに会います。それで、毎日のように祈らなければならないのです。祈りが、私たちを天の霊的世界と連結させてくれます。祈りが、罪の世界 及び 敵悪魔との関係を断ち切ってくれるのです。




第六、罪や悪は真似てもならず、誘惑がある場所は避けなければなりません

「エペソ人への手紙 5章 3節〜4節」の、『あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。』と仰せられた御言葉のように、互いに集まっては自分も知らぬ間に、あらゆる不品行や、汚れたことや、貪欲な話しをし、冗談を言い合います。このような事が私たちのたましいを汚すのです。

私たちが愚かな話や、戯言(たわごと)を言い合っているうちに私たちのたましいは汚れるのです。私たちが汚い泥沼に行って遊んだら、全身が汚くなります。工場の煙突の煙の中を通ったら、全身にあらゆる塵芥と煤煙がくっつきます。罪や悪は真似をしてもいけません。「テサロニケ人への手紙 第一 5章21節〜22節」に、『 すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。悪はどんな悪でも避けなさい。』と言われました。

この頃は、ビデオを通して、あいはTVとか雑誌に出る淫乱、放蕩、汚れ… 等による悪い影響がいくらでも身近に及んでいます。このようなものを、私たちは極力避けなければなりません。汚らわしい内容の雑誌を読まない、淫らな光景を見せるビデオを見ないようにしなければなりません。そのような物を見る眼を通して、貪欲の悪霊が入って来るのです。

「コリント人への手紙 第一 3章16節〜17節」に、『あなたがたは神の神殿であり、神の御霊があなたがたに宿っておられることを知らないのですか。もし、だれかが神の神殿をこわすなら、神がその人を滅ぼされます。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたがその神殿です。』と記録されています。私たちは、イエス・キリストの血しおによって洗い清められ、聖霊さまが来て住んでおられる聖い神殿です。淫乱、放蕩、汚れが蔓延(はびこ)っている、そのようなところを私たちが歩き回る事はできません。

人は、誰もが、誘惑されれば陥(おとしい)れられる可能性を持っているのです。キリストのように、絶対に罪と関わりのない人はおりません。ですから、罪(悪)がある所は避けなければなりません。誘惑の場から、意識的に遠く離れなければならないのです。




第七、清潔で道徳的な環境、善良で聖潔な友達とは近づきにならなければなりません

学校の周辺に放置されているビデオ店、漫画店、酒場やその他の有害環境に対する心配の声があります。何故なら、子どもたちが毎日通っているその道端に、有害なビデオ店や漫画店、そして淫乱な場所がたくさんあるのに、どのようにして子どもたちがそれらの誘惑を避ける事ができるだろうか、ということです。

「エペソ人への手紙 5章 5節〜7節」に、『あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。むなしいことばに、だまされてはいけません。こういう行ないのゆえに、神の怒りは不従順な子らに下るのです。ですから、彼らの仲間になってはいけません。』と記されています。私たちがイエス様を信じると言いながらも、相変わらず淫行を行い、汚れており、貪欲で、偶像を崇拝していたら、キリストから離れて行くことになります。

イエス・キリストが臨んでおられるのに、どうして、醜悪で、汚く、放蕩、淫乱な行ないをする事ができるでしょうか。「コリント人への手紙 第一 15章33節〜34節」に、『思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。目をさまして、正しい生活を送り、罪をやめなさい。神についての正しい知識を持っていない人たちがいます。私はあなたがたをはずかしめるために、こう言っているのです。』と記されています。

良い友だちと交わらなければなりません。酒飲みと交わったら酒を飲むようになります。ばくち打ちと交わったら、ばくち打ちになります。盗む人と交わったら盗人になります。不品行な人と交わったら、不品行を行なう所に連れて行かれるようになります。ですから、私たちは良い友だちと交わり、悪い友だちは避けなければなりません。良い友だちと交われば、いつも義と聖と聖潔と、神の国に対する話を交わし、神様との深い交わりを通して、神様の愛とお恵みの中に深く入るようになるのです。

私たちが誰と交際し、誰と付き合うかが、私たちの人格形成に絶対に重要な影響を及ぼします。私たちの子どもたちが、どのような友だちと付き合っているか、関心を持って見なければなりません。子どもたちが悪い友だちと付き合えば、絶対に正しい道に歩まないようになります。後には必ず悪い友だちと同じく、悪い人間になります。ですから私たち父母の立場からは、主をあがめ、熱心に神様に仕える、そのような友だちと付き合うように祈り、導いて上げなければなりません。

「コリント人への手紙 第二 7章 1節」は、『愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。』と記しています。私たちクリスチャンが、この罪の世の中で暮らす間に努力しなければならないことは、霊と肉が完全に、汚れから聖潔になって暮らすようにすることです。これが、私たちが毎日しなければならない戦いです。イエス様を信じるとして、この世とは別のものになる、恰(あたか)も天使の存在と同様になるのではありません。

私たちは、心の中にイエス様を救い主として受け入れ、聖霊さまのお助けを受けて、悪魔の誘惑と絶えず、毎日のように戦わなければならないのです。戦わずに放棄したら、私たちは罪に巻き込まれて、流れ去られるようになってしまいます。それで信仰にあって聖徒は、毎日のように戦わなければなりません。そうして自分の人生の境界線をはっきりと定めて置いた後、どんなことがあってもその境界線は守る、と言う確固たる決心を持って信仰生活をしなければなりません。罪から離れ、義と真理と聖なる中で神様と交わる時、まことの平安と喜びと幸福を体験するようになり、そのような人の祈りは、神様が喜んで聞き叶えてくださるのです。

「エペソ人への手紙 5章 8節」は、『あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。』と記録しています。イエス様を信じる前の私たちは、暗闇でした。私たちの目である良心が真っ暗であったので、全身も真っ暗でありました。立ち居振舞い、生活全体が暗闇の中にあったので、悪魔の奴隷となって引きずり回されました。

しかし、今は私たちの心の中に光が入ってきて、私たちの良心がキリストによって明るい光りに照らされています。全身が明るくなりました。ですから私たちは、光の子どもらしく光の中で暮らさなければなりません。「ヨハネの手紙 第一 3章21節〜22節」に、『愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、また求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行なっているからです。 』と記されています。私たちが主の戒めを守り、主の御前に喜ばれることを行い、良心の呵責がなく、強く雄々しかったら、どんな事でも祈り求めれば、神様が聞き叶えて下さると言われたのです。

心に罪があれば、大胆さは失ってしまいます。心に罪がなければ、神様の御前に強く雄々しく大胆に祈る事ができます。そして、神様の応答をいただく事ができるのです。ですから、旅人の道、荒野の道のようなこの世の道を歩んで行くあいだに、私たちが昼夜努力しなければならないことは、神様によって義と真理と聖なるものに造られた新しい人として歩まなければならない、ということです。力強く立ち上がって、行くところ毎に、光の子どもとして神様に栄光を帰し、義と、聖と、まことを持って暮らす私たちとならなければならないのです。




お祈り

聖く、栄光であられる父なる神様! この世は悪魔の支配を受ける悪い者たちによって、汚く、醜く、混濁しています。私たちが世の中から召されて、教会に出席しているは、神様の子どもとして、義と真理と聖で造られた新しい人を着て、この世の光と塩になって暮らしなさいと言う、神様の思し召しである事と信じ、告白します。

主である神様! 私たちを助けて下さい。私たちがこの世で光と塩になって暮らせるように助けて下さい。これからは暗闇でなく、光ですので、光明な光を照らせるように助けて下さい。神様の戒めを守り、私たちが当然暮らして行く境界を明らかに設計し、堅い決心と覚悟をする事ができるように助けて下さい。

私たちに悔い改める霊を降り注いでくださって、すべての罪を悔い改め、罪を永遠にうしろに投げ捨てる事ができるように助けてください。 イエス様の御名によってお祈り申し上げます。 ア−メン。