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「モーセの杖と十字架」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第一 1章17節〜19節」
1:17 キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマを授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
1:19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」




イスラエルの民たちは、モ−セの導きによってエジプト人から解放されました。430年間の苦しい奴隷生活から解放されたのですから、その喜びは言葉では表現できないものがありました。乳と蜜が流れる地に向かって彼等は行進して行き、紅海の前まで来ました。海が彼らの前をさえぎっていました。彼らは前進することができる道を探すことができないので、立ち止まってしまいました。

ところへ、背後からパロの軍隊が疾風怒涛の如くに迫って参りました。イスラエルの民たちは、水に溺れて死ぬか、捕虜になるか、と言う絶望的な状況に置かれてしまいました。彼らは、嘆き、わめき、大声を張り上げて騒ぎ出しました。そしてモ−セに向かって、「エジプトには墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で死なせるのですか?」と怨みの声を浴びせました。

その時、モ−セが主に呼ばわり祈りました。すると、主が仰せられました。『なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。』(出エジプト記 14章15節〜16節)それで、モ−セが杖を手にして海の上に手を差し伸ばすと、主は一晩中強い東風で海を退かせ、水が分かれて、海の底が乾いた陸地になりました。

イスラエルの民たちは、老若男女を問わずに皆が、海の真中の乾いた地を通って、向こう側の安全地帯に行く事ができました。再度の主の仰せにしたがって、モ−セが海の上にまた手を差し伸ばしたとき、海がもとの状態に戻って、彼らのあとを追って海に入ったエジプトの軍勢と戦車と騎兵を覆い、みなを水葬してしまいました。

こんにち、私たちは人生を暮らして行きながら、このような紅海に会うときがあります。アダムとエバの子孫として生まれた私たちは、生まれた時から紅海があります。それでは、どのようにしたらこの紅海を渡ることができるでしょうか? モ−セの杖は何処にあるのでしょうか? 皆さん、神様は私たちが紅海を渡る事ができるようにするために、イエス・キリストを遣わして下さいました。それで、モ−セに杖を与えられたように、こんにち、私たちには十字架があるのです。

モーセの手にある杖が神様の権威と力でみわざを働かせるように、私たちの手に持たされている十字架がこんにち、権威と力をもって私たちの胸の中に波打っている紅海を分けるようにしてくれるのです。




第一、罪悪の紅海

私たちは生まれる時から、胸の中に波打つ罪悪の紅海があります。すべての人たちは、この罪の海にさえぎられて絶望に陥っています。過去に犯した罪も海を成しており、現在犯している罪も海を成しています。罪の恐ろしい力が海のように、私たちの胸の中に波打っているのです。

「ローマ人への手紙 3章10節〜12節」は、『それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」』と記しています。「ローマ人への手紙 3章23節」にも『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、』と記されています。

誰が、この波打つ胸の中の紅海を渡って、赦しと義の美しい地に渡れるようにする事ができるでしようか? 私たちには、この胸に波打つ罪悪の紅海を分けることができる何の力もありません。正しくそこに、紅海を分けることができる杖を与えて下さったのが、即ち、十字架です。私たちがイエス・キリストの十字架を胸に抱けば、罪悪の海が分かれ、赦しと義の道が広々と明るく開かれるようになるのです。

私たちの義とされる行動とか道徳的・倫理的生活、決心や覚悟や修養などでは、この胸の中で波打っている罪悪の紅海を分ける事ができません。しかし、イエス様が十字架に釘付けられて、その罪悪をすべて清算なさり、罪の勢力を滅ぼされた、その十字架を私たちが胸の中に抱けば、私たちの胸の中にある罪悪の紅海が分かれるようになるのです。

「ヘブル人への手紙 10章19節〜20節」は、『こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。』と記しています。

イエス様の御体が十字架の上で裂かれ、血を流されたことによって、罪悪の勢力が滅ぼされたのです。十字架以外には、私たちの胸の中で波打っている罪悪の紅海を分ける事ができる力は、どこにも誰にもありません。「ローマ人への手紙 3章24節」に、『ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』と記されています。

罪を犯したのにも拘わらず、愚かであるのにも拘わらず、見捨てられて当然であるのにも拘わらず、罪悪に波打っている海に、あちらに押し流され、こちらに押し流されながら流れて行く私たち人生が、主の十字架を胸に抱けば、その海が分かれるようになります。罪悪の紅海が分けられて、私たちは赦しと義の美しい園に入っていくことができるのです。




第二、世俗の紅海

「ヨハネの手紙 第一 2章16節」を見ますと、『すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。』と記録されています。この世の自慢、この世の欲、この世の貪欲と世俗が、私たちの胸の中に満ち溢れているのです。この世俗の紅海を分けて、神様と共にいることができるようにする偉大な力を、私たちが何処から得ることができるでしょうか? 私たちに押し迫って来るこの世俗の紅海を、どのようにして分けることができるでしょうか? 私たちがイエス・キリストの十字架を胸に抱けば、この世俗の紅海が分かれます。

聖霊さまが来られ、霊の目を開けて下さることによって、宇宙を造られた神様を知るようになり、救い主イエス様を固く確実に信じるようになり、神様の子となったお恵みを享受することができるようになるのです。このすべての道が十字架によって開かれるのです。ですから、十字架の力だけが、私たちの胸の中に天の御国が臨むようにし、聖霊充満にしてくださる驚くべき御力を現すのです。

誰がこの世俗に打ち勝つ事ができますか? 誰が胸の中の世俗を追い出すことができますか? 誰が世俗の海を分けることができますか? それができるのは、十字架だけです。十字架を引き寄せて抱けば、市場の真中にも神様が臨まれます。イエス・キリストの十字架を抱きかかえれば、強盗の巣窟のなかにも神様が臨むようになるのです。十字架は、世俗を分けて、天の御国が臨むようにする権能の杖となるからです。




第三、疾病の紅海

私たちは生まれる時から、疾病の紅海と遭遇するようになっています。霊的の病気があります。不信仰と不従順と言う霊的の紅海が私たちの中に波打っています。数多い人たちが霊的疾病に罹って身悶えしています。彼らは不信仰と不従順の奴隷になつているのです。不安、焦燥、恐怖、絶望、憤怒、嫉妬、憎しみ、不品行、放蕩… など、心にいっぱいの病的現象が、紅海のように心の中に波打っているのです。

私たちのたましいと心と体のなかで波打つ、この疾病の紅海を誰が分ける事ができるでしょうか? 修養や道徳でしょうか? もっとたくさんの教育でしょうか? もっと多くの律法でしょうか? もっと厳しい刑罰でしょうか? そうではありません。十字架を胸に抱きかかえれば、疾病の海が分かれてしまうのです。

心の不信仰と不従順の波が分かれます。心の不安、焦燥、絶望、憤怒、嫉妬、不品行、憎しみ、放蕩の海の水が分かれてしまうのです。肉身の苦痛と苦しみの疾病の海が分かれるのです。十字架以外には、私たちの心の中に波打つこの疾病の紅海を分けてしまう力がどこにも、誰にもありません。私たちが十字架を胸に抱きかかえて祈り始めたら、神様の御力が臨んで、すべての疾病の海は分かれ、癒しが臨み、乳と蜜が流れる美しい地に渡って行く事ができるようになるのです。

「マタイの福音書 8章17節」は、『これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記しています。イエス様が十字架を通して、私たちの悲しみを親しく担われ、病を背負われました。「ペテロの手紙 第一 2章24節」は、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記しています。

ですから、たましいと心と体の中で波打っている疾病の海が退き、健康で、乳と蜜が流れる地に私たちは渡って行くことができるのです。十字架の権能の杖を私たちが胸の中に抱きかかえたら、その十字架から満ち溢れ出るキリストの救いのみわざが、疾病の紅海を分けて、私たちを導いて下さるのです。




第四、呪いと失敗の紅海

アダムがエデンの園から追い出された後に、アダムとその子孫たちには、呪いと失敗の紅海が波打ち、神様との間を塞ぎました。エデンの園は、神様が人類のために備えられた美しい所でありました。エデンの園には罪がありませんでした。憎しみも疾病もなく、呪いも死もありませんでした。たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で満たされたところでありました。何を食べようか? 何を飲もうか? 何を着ようか? といった心配もありませんでした。何故なら、神様がエデンの園にアダムとエバとその子孫たちのためにすべてを備えておかれたからです。

しかし、アダムとエバが神様に背き、神様のように「主人」になろうとして追い出されてからは、呪いの問題を解決しないことには、神様が備えられたすべてと、私たち人類との間には波打つ呪いの紅海が塞いでいます。 誰も、神様が備えておかれた世界に渡って行くことができません。神様の祝福の御手を取る事ができないのです。

「ヨブ記 5章 7節」は、『人は生まれると苦しみに会う。火花が上に飛ぶように。』と記録しています。誰が、呪いと苦難と貧乏の紅海を分けて神様の御手を取ることができるでしょうか? 「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」は、『キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。』と記しています。十字架には、イエス・キリストの権勢が盛られています。呪いの紅海を分けて、アブラハムへの祝福の地に渡って行くことができる偉大なる力があるのです。

歴史を通して、十字架を抱きかかえた個人と民族は栄え、まことの勝利を得ました。十字架に背を向け、十字架に反逆した国と個人はみな滅んだか、または破滅の道を辿(たど)りました。十字架は、私たちが神様の御手を取ることができるか、できないかの分かれ道になるのです。イエス・キリストの十字架を胸の中に深く抱きかかえて祈ったら、私たちの胸の中に波打つ呪いの紅海が分かれるのです。貧乏と呪いの海が分かれるのです。失敗と失望の呪いの海が分かれるのです。IMFの海も分かれてしまいます。そして、主が備えられた美しいカナンの地に到達する事ができるようになるのです。

「ヨハネの福音書 10章10節」には、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と記してあり、「コリント人への手紙 第一 2章 9節」は、『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮んだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」』と記されています。

主は、この備えておかれた地に来るようにと、私たちに手招きしておられます。その地に入っていく道は、十字架しかありません。私たちが十字架を胸に抱いて、いたく悔い改め、告白し、拠り頼み、神様に呼ばわり祈れば、この呪いと失敗の紅海は分かれて、イエス様が備えられた美しい地に私たちは渡って行くことができるようになるのです。




第五、死の紅海

今までに、死の紅海を渡って行った人は誰もいません。人には、一度死ぬことが定まっています。すべての人々は罪を犯したために、その代価として死ななければならないのです。しかしイエス様は、この死の海を渡って行かれました。

十字架に釘付けられ、死なれて葬られてから、三日目に蘇られることによって、この死の波打つ紅海を分けられたのです。「コリント人への手紙 第一 15章 3節〜4節」に、『私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、』と記録されています。

従って、イエス様が死なれてから蘇られた権勢と御力が与えられているこの十字架を、私たちが胸に抱きかかえれば、私たちの中で波打っている死の海が分かれて、天国への道が大きく開かれるのです。「ヨハネの福音書 14章 6節」は、『イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」』と記しています。死の紅海がいくら波打ちながら近寄って来るとしても、キリストの十字架を私たちの心の中に力強く抱きかかえれば、その十字架を通して神様の御力が現われて、死の勢力が退き、死の紅海が分かれて、その中に栄光なる天国への美しい道が私たちの前に広広とひらかれるようになるのです。

主は、私たちに何の力も与えずにこの世に出されたのではありません。モ−セは、ホレブの山に現れた神様の前で、「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。私はイスラエルの民を救い出すことができません。」と言ったときに、神様は、『あなたの手にあるそれは何か?』と聞かれました。モ−セは、「これは杖です。」と答えました。

主はこの杖に、権勢と能力を与えられました。それで、モ−セは80才になっていましたが、神様が与えて下さった権能の杖を持ってエジプトに渡り、その杖を通して現れる神様の権勢でパロを屈服させて、300万のイスラエルの民を、430年間奴隷生活をしていたエジプトから連れ出しました。その権能の杖で海を分け、その権能の杖ですべての奇しきわざと不思議なことを行いながら、40年間の荒野の生活を過ごすことができたのです。

私たちも同様です。何の力もない私たちが主の御前に出れば、主は私たちに能力の杖を与えて下さいます。十字架の杖なのです。私たちがこの十字架に拠り頼めば、こんにち主が備えられた乳と蜜が流れる地、五重の福音と三重の祝福の世界に入って行けるようになるのです。十字架だけが、挫折と絶望で波打っている紅海、失敗と呪いの紅海を分けて、乳と蜜が流れる地に私たちを導き入れる、神様の能力の杖になってくれるのです。この十字架に拠り頼めば、死も退き、陰府(よみ)も退き、地獄も退きます。死亡が波打つ紅海はみな退き、分かれて、そこに天国への道が広々と開かれるのです。

十字架は、イエス・キリストが私たちのためのいけにえになられたところです。完全な神様が、完全な人になられて、33年のあいだ生きられ、私たちのためのいけにえになられて、十字架で死なれました。彼は、神様の前に、人間のすべての「罪のためのいけにえ」となられ、その「罪の報償のためのそなえもの」となられ、私たちの「軟弱と不足を贖う全焼のいけにえ」となられ、神様と私たちの間の、「隔ての壁のための和解のいけにえ」となられ、神様に栄光と感謝を捧げる「感謝のそなえもの」となられて、身を裂き、血を流して、私たちのために犠牲になられました。十字架は正にその祭壇になったのです。

ですから、十字架の下にひれ伏して、私たちの罪を悔い改め、十字架を心に抱きしめて、十字架を拠り頼んで祈らなければならないのです。私たちの祈祷の祭壇は、他の所にはありません。私たちがいくら人間の知識と聡明を持っていても、それによって神様の前に出ることはできません。雄弁であるとして、聞き叶えて頂けるものではありません。十字架の前に出て行き、十字架を胸に抱きしめ、十字架に拠り頼み、私たちの主の御名によって祈れば、紅海は分かれるのです。

たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得るみわざが現れるようになるのです。これは力でもってもできず、何をもってもできません。ただ、十字架を通して現れる聖霊さまの御力によってだけできるのです。ですから、私たちは弱くありません。私たちは見捨てられていません。私たちは孤独でもなく、無能力でもありまぜん。何故なら、私たちには「十字架の権能の杖」があるからです。この十字架は、いつも私たちの身近にあります。

私たちが十字架に拠り頼んで、その祭壇で呼ばわり祈れば、どのような紅海もみな分かれてしまい、私たちに救いの栄光なる道が広々と開かれるようになるのです。ですから、十字架の道を離れてはいけません。十字架の道に背を向けてはいけません。いつも十字架を抱きかかえて跪(ひざまづ)き、十字架を仰ぎ見上げて拠り頼み、イエス様の御名によって祈って下さい。そうする時、天の御国は私たちのものになります。神様の権威が私たちに臨むのです。神様のお恵みが、私たちに満ち溢れるようになるのです。




お祈り

聖く、全知全能で、栄光であられる父なる神様! 私たちは何の力もなく、無能です。口も舌も重いので、話も上手にすることができません。しかし、モーセに「権能の杖」を与えられたように、私たちにも「権能の十字架」を与えてくださったことに心から感謝申し上げます。

私たちには十字架があるので、私たちは滅びません。十字架を胸に抱きしめたら、私たちの心の中で波打っているすべての、敵悪魔の紅海が分かれてしまいます。十字架の道は、神様の知恵であり、神様の力です。十字架は、イエス・キリストの能力です。

私たちがみな、益々十字架に拠り頼み、十字架を心から熱く賛美しながら、もっと主に従順に聞き従って行けるように助けてください。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。 アーメン!