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「なぜ、祈るべきでしょうか」
 






■聖書箇所

「エペソ人への手紙 6章18節〜19節」
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。
6:19 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。




獣は、命にかかわる危険に遭っても祈ることがありません。何故かと言えば、獣のたましいの中には神様に対する先天的認識、即ち、"教わったことがないのにも、生まれつき持っている認識"がないからです。しかし人は生まれる時から、教わらなくても、そのたましいの中に潜在的「神様意識」があります。

それで普段、全く神様を信じず、考えることもない人が、生命の危険にぶつかったら、つい神様に助けを求めるようになります。私たちが持っている「神様に対する知識」は、人の考えで創り出されたものではありません。神様が、イスラエルの歴史を通してご自分を現わされ、2000年前に、その御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされて、人間たちが「イエス様の中に現わされた神様」を見、聞き、触り、体験させました。私たちは、このイエス様を信じる事によって主である神様に仕えるようになり、神様は私たちの「お父さま」になられ、私たちは『神様の子』になりました。このような関係が結ばれましたので、必然的に、「父なる神様」と私たちの交わりは「祈り」を通してだけなされるのです。




第一、神様は私たちの祈りを望んでおられます

神様は私たちを愛しておられます。愛は、限り無くその対象と対話を交わし、一緒にいる事を欲します。これを通して、愛はより一層深まります。父母が、その子供たちとの対話を望むのは当然な事です。夫婦のあいだでも、愛し合っていれば愛し合っている程、多くの時間を一緒に過ごしたがり、より多くの対話を望みます。愛する友人とのあいだでも、毎日のように会って互いに話しを交わしたくなります。

私たちの神様も私たちを愛しておられるので、私たちと一緒におられ、私たちと話し合いたいと望んでおられますが、そのような交わりは、まさに私たちのお祈りによってなされるのです。

旧約時代には、神様のみもとに出て行くときは「いけにえ・お供え物」を持ってきて、それを捧げる事によって神様にお会いしました。こんにちの私たちの「いけにえ・お供え物」は、神様に捧げる「礼拝と賛美とお祈り」です。ソロモン王が、主の祭壇に一千頭の全焼のいけにえを捧げて祝福されたように、私たちが神様に継続して礼拝と賛美とお祈りを捧げれば、神様は大いに喜ばれて、神様ご自身を私たちに現されるようになります。「詩篇 50篇23節」は、『感謝のいけにえをささげる人は、わたしをあがめよう。その道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せよう。』と記しています。

お祈りを通して、私たちは神様の至聖所に入り、神様の眷属としての深い喜びを得るようになります。「詩篇 16篇 8節〜9節」に、『私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。私の身もまた安らかに住まおう。』と記されています。

私たちが祈ることをせず、この世の中でさまよいながら生きているときにも、主のもとに立ち帰って、神様にお祈りを捧げたら、私たちはイエス・キリストを通して神様の至聖所に入り、神様の御座の前で神様と対話し、神様の前で神様に愛される子として交わり合うようになるのです。祈りは、神様のお望みを叶えて差し上げる道であり、祈りは、神様に喜び楽しんで頂き、栄光を帰す道具になるのです。




第二、お祈りだけが聖霊充満の道です

私たちは、肉にあって生き、絶えず肉の世界を見、聞き、話し、臭いを嗅ぎ、接触していますので、肉的思考でいっぱいになっています。このような中で、神の御国が臨むようになり、父なる神様と主イエス・キリストと交わることができるようにするには、聖霊様が私たちの中に臨んでこそ可能です。

五旬節の日が近づきながら、120名ほどの門弟たちが10日間祈りに専念するや、突然、天から激しい風が吹いて来るような響きが起こり、炎のような分かれた舌が現われて、一人一人の上に留まりました。すると、彼らがみな聖霊に満たされて、聖霊が話させてくださる通りに、他国の言葉で話し出しました。その時から、彼らのたましいは天の御国でいっぱいに満たされました。それで彼らは外に出て行って、天国の福音を証しすることができました。

祈りは、聖霊様の生ける水を飲むことができるパイプになるのです。「ヨハネの福音書 7章37節〜38節」は、『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』と記しています。

このように、私たちがキリストから生ける水を飲むことができるパイプが、まさに祈りなのです。貯水池に水がいくら豊富であっても、そこに連結されたパイプがなかったら、人々が飲み、洗い、浴びることができる水は得られません。パイプを連結しなければならないのです。祈りはまさに、イエス様に連結して聖霊さまの生ける水を充分に飲むことができるパイプになるのです。それで、祈りに熱心な教会には生ける水が溢れ出て、エデンの園のように、エリムのオアシスのように、素晴らしい聖霊の実を結ぶ場所になるのです。また、祈りを通して聖霊さまと交われば、聖霊さまの感化・感動を受けるようになります。

聖霊さまは私たちの中に入って来られて、私たちの汚れと醜悪な罪を痛く悔い改めさせ、告白させ、洗い清めてくださいます。また、聖霊さまは私たちに悟りを与えられて、真っ暗な闇の中から脱け出て天国を知るようにしてくださり、神様とイエス・キリストを知るようにして、永遠の未来を見渡すことができるようにしてくださるのです。

聖霊さまが来られたら、心に感動を受けて、休みなく感謝と涙のお祈りを捧げるようになり、心に慰めを増し加えて下さいます。いくら世の中が苦しく、深く傷ついているとしても、祈りを通して聖霊さまが来られたら、その満ち溢れる慰めによって、すべての傷を克服し、打ち勝って生きて行くことができる力が与えられるのです。

また、聖霊さまは私たちに啓示を与えて下さいます。以前は到底悟れなかった聖書の御言葉も、聖霊さまが臨まれると、深く栄光なる主の啓示を悟るようにしてくださって、身も心も天の御国に向かうようにしてくださいます。それだけではなく、聖霊さまは私たちの生を導いてくださいます。私たちの牧者となられて、神様の祭壇に私たち自身を献身し、委ねることができるように助けてくださるのです。

このような、聖霊さまの驚くべきみわざを体験するためには、私たちは祈らなければなりません。祈らないことには、決して聖霊充満に与かることができず、聖霊さまとの交わりと、天国の栄光を体験することができません。




第三、祈りの火花の中で悪霊は追い出されます

 アダムとエバが堕落した後、サタンがこの世を占領して、盗み、殺し、滅亡させる仕業を人たちに継続しています。しかし、私たちが祈ったら、イエス・キリストの御名とその血潮の御力によって、悪霊は追い出されます。祈るとき、主の血潮の御力が効果を発揮するのです。

「使徒の働き 8章 6節〜8節」は、『群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大ぜいの中風の者や足のきかない者は直ったからである。それでその町に大きな喜びが起こった。』と記録しています。

悪霊は、霊的・精神的・肉体的汚染の原因になります。汚れた霊が入って来ると、私たちの人格が汚染され、悪い霊がくっついたら悪に汚染されます。嘘をつく霊に取りつかれたら汚染されて嘘吐きになり、占う霊に取りつかれたら占いに依存して、僥倖だけを待ち望むようになり、世俗の悪霊に憑かれたらこの世の風習に追従して、精神的汚れに染まってしまうのです。抑圧する悪霊に取り付かれたらストレスを受けて、心身に変化を起こして挫折し、絶望するようになります。

このような悪霊のために人たちが汚染されて、非人間的な行動や思考がなされるのです。従って祈りは、このような全人的な汚染を払い除くことができます。祈りを通して聖霊様がみわざを働かせば、悪霊はすべて追い出されるようになるのです。「使徒の働き 10章38節」は、『それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。』と記しています。

私たちが祈り、悔い改めたら、主の血潮の御力によって汚染された心身が悪霊から解放され、自由を得ます。祈りを通して悪霊が追い出されたその跡が、聖霊によって占められたら、聖霊の実が結ばれます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和及び自制のような良い実を、神様の御霊が私たちの中に実るようにして下さるのです。




第四、祈りだけが神様の御手を動かします

天と地を造られ、世界とその中のすべてのものを造られた神様、その神様が私たちの為にみわざを働かしてくださるようにするには、私たちが祈らなければなりません。「詩篇 91篇15節」は、『彼が、わたしを呼び求めれば、わたしは、彼に答えよう。わたしは苦しみのときに彼とともにいて、彼を救い彼に誉れを与えよう。』と記しており、「エレミヤ書 33章 3節」は、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記録しています。

また「ルカの福音書 18章 1節」は、『いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。』と記しており、「ヤコブの手紙 4章 1節〜2節」は、『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。』と記録しています。

モ−セの生涯をご覧下さい。エジプトから出たイスラエルの民の前は、紅海にさえぎられて行く道がなく、後ろからはエジプトの大軍勢がすぐ近くまで追撃して来ました。イスラエルの民は皆、泣き喚き、嘆き、悲しみ、叫びました。その時、モ−セが主に祈るや、神様の御力が現れました。「出エジプト記 14章15節〜16節」に、『主はモーセに仰せられた。「なぜあなたはわたしに向かって叫ぶのか。イスラエル人に前進するように言え。あなたは、あなたの杖を上げ、あなたの手を海の上に差し伸ばし、海を分けて、イスラエル人が海の真中のかわいた地を進み行くようにせよ。』と記録されています。

モ−セが祈らなかったなら、神様の御力は現れなかったでしょう。マラの苦い水がどのようにして甘くなったでしょうか? 「出エジプト記 15章25節」は、『モーセは主に叫んだ。すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。』と記録しています。

イギリスに、有名な祈りの勇士「ジョ−ジ・ミュ−ラ−」と言う牧師がおられました。彼は、アシュリ・タウンと言う所に大きな孤児院を建てました。そこに収容されている二千名の孤児たちを食べさせ、着せ、教え、そしてみんな結婚をさせました。彼は、一生を孤児のために捧げましたが、どの個人にも、どの社会団体にも、またどこの教会にも、「援助」を乞う等した事が一度もありませんでした。ただ、一冊の聖書だけを持って、神様の祭壇にひれ伏してお祈りを捧げた、まことに偉大な信仰の勇士でありました。

とても寒い、冬のある日のことです。孤児院のボイラ−が故障を起こしました。修理するには一週間もかかるとのことです。子供たちがみな凍え死ぬ状態におかれました。ミュ−ラ−牧師は少しも動揺する気色がなく、聖書を手にして教会に行きました。そして、神様の前にひざまずいて祈りました。明朝からは、ボイラ−の火を完全に消さなければなりません。

ところが、ボイラ−の修理を始める前に、突然東風が吹き始めました。イギリス全国の寒い冬の気候が、暖かい春の気候に変化しました。それが一週間続きました。その間、ボイラ−を稼動する必要がありませんでした。皆さん、このように祈りは、環境までも変化させる力があるのです。

神様は、私たちが神様に拠り頼むとき、想像も出来ない奇跡を施してくださいます。そのようなみわざは、私たちがお祈り捧げてこそなされるのです。

 こんにち、韓国の5万の教会・一千二百万の聖徒が力を合わせて、我が国の経済的「冬」に打ち勝つこができるようにしてくださいと祈ったら、神様は瞬く間に、春風を吹かせて下さいます。神様の御力と栄光が現れるのです。ですから私たちがもっと熱く祈ったら、イギリスの寒い冬に春を来させた神様は、IMFという我が国の寒い経済的「冬」を、祝福の春に変化させてくださるはずです。




第五、贖いの祈りを捧げなければなりません

神様の助けが、お隣り、社会、国家に臨むようにするためには、私たちが祈らなければなりません。ですから私たちは、家族のための祈りを怠ってはなりません。「使徒の働 10章 2節」は、『彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、』と、コルネリオについて記しており、「使徒の働き 16章31節」は、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。』と記しています。

神様は、家族の中の一人がイエス様を信じたら、その家の全員が救われるようにと望まれます。ですから子供が救いを得たら、父母と兄弟が救われるように祈らなければならず、夫はその妻と子供たちの救いのために、妻はその夫と子供たちの救いのために祈らなければなりません。

私たちの祈りは絶対に、地に落ちて「無」になることがありません。ジョ−ジ・ミュ−ラ−牧師は、友人が遺言のように頼んだその友人の子供の為に、40年間祈り続けました。しかし、その子は変化されませんでした。ところが、その友人の子がジョ−ジ・ミュ−ラ−牧師のお葬式に来て、棺が墓の中に下ろされるのを見るや、その場にひざまずいて悔い改め、イエス様を信じるようになったという記録があります。祈りの働きは、私たちが生きていようが、死んでいようが、止むことがありません。

ですから私たちは、家族の為の贖いの祈りを継続しなければならないのです。「コリント人への手紙 第二 9章 8節」は、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。』と記しています。

神様は、私たちに祝福を与えようと望んでおられます。神様の望みを叶えて差し上げるために祈らなければなりません。私たちの事業の為に、生活の為に、隣人の為に、民族の為に、絶えず祈らなければならないのです。祈ることができるのは、私たちの特権です。私たちが祈れば、神様は助けの御手を差し伸べてくださいます。

「申命記 28章 7節〜8節」は、『主は、あなたに立ち向かって来る敵を、あなたの前で敗走させる。彼らは、一つの道からあなたを攻撃し、あなたの前から七つの道に逃げ去ろう。主は、あなたのために、あなたの穀物倉とあなたのすべての手のわざを祝福してくださることを定めておられる。あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたを祝福される。』と記録しています。

また私たちは、国家と指導者たちのために祈り、民族のためにも祈らなければなりません。「テモテへの手紙 第一 2章 1節〜2節」は、『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。』と記しています。

聖書は確かに、王と高い地位にいるすべての人々のために祈りなさい、と記しています。私たちを指導する大統領と高官たちと政治家たちが国を良く治めれば、私たちは安らかに、秩序ある社会で、羨ましいことがない暮らしをして行くことができますが、彼らが間違った政治・指導をするときは、経済が破綻し、犯罪が蔓延して、私たちの生活は完全に破壊されるようになります。ですから私たちは、指導者たちのために熱心に祈らなければならないのです。

そして私たちは、教会、聖職者、教会の役員、すべての聖徒さんたちのための祈りも怠ってはなりません。「コロサイ人への手紙 4章 2節〜3節」は、『目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。』と記しています。

私たちに霊的「食糧」を供給し、私たちを導く主のしもべたち、また、長老、按手執事、勧事、地域長、区域長、教会学校の先生たち、また、主のために働き、苦労している人々のために絶えず祈り、神様のお恵みが臨むように、休みなく祈願しなければならないのです。

祈りは、父なる神様との深い交わりがもたらす大きな喜びと安らぎがありますが、同時に、悪霊と戦う霊的戦争、贖いの祈りの重荷もあります。私たちは、益々祈りに励み、努めなければなりません。祈りは、黙っていても自然にできるものではありません。熱い信仰の聖徒たちが互いに、引いて上げ、押して上げながら、熱心に祈ることができるように相互協力しなければならないのです

祈りは、神様が私たちに与えてくださった特権であり、天の御国を開ける鍵であり、悪霊を退治する力であり、神様の御手を動かす権勢となるのです。常に、目を覚まして祈る聖徒さんたちとなられますよう、主の御名によって祝福し、祈願致します。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、我が父なる神様! 神様が私たちを救ってくださり、神様に祈ることができる特権を与えてくださって有り難うございます。私たちが、イエス・キリストの十字架に拠り頼んで呼ばわり、祈るとき、神様は私たちに驚くべきみわざを施してくださいました。感謝申し上げます。

祈ることができないようにする、悪霊の妨げをすべて退けて下さい。すべての人々が目を覚まして祈りに励み、益々聖霊充満になって、もっともっと熱心に、心を尽くして主に呼ばわり、祈って、すべてに恵まれ、そして主を畏敬するように知恵と聡明と明哲と力を与えてください。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。ア−メン。