教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「希望に向かって前進しなさい」
 






■聖書箇所

「列王記 第二 7章 1節〜9節」
7: 1 エリシャは言った。「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』」
7: 2 しかし、侍従で、王がその腕に寄りかかっていた者が、神の人に答えて言った。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」そこで、彼は言った。「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」
7: 3 さて、町の門の入口に四人のらい病人がいた。彼らは互いに言った。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。
7: 4 たとい、私たちが町にはいろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営にはいり込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」
7: 5 こうして、彼らはアラムの陣営に行こうと、夕暮れになって立ち上がり、アラムの陣営の端まで来た。見ると、なんと、そこにはだれもいなかった。
7: 6 主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。」と言って、
7: 7 夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。
7: 8 このらい病人たちは、陣営の端に来て、一つの天幕にはいり、食べたり飲んだりして、そこから、銀や金や衣服を持ち出し、それを隠しに行った。また、戻って来ては、ほかの天幕にはいり、そこから持ち出し、それを隠しに行った。
7: 9 彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」




キリスト教は、希望の宗教です。イエス様の苦難と十字架の死がいくら凄絶であり、絶望であるとしても、それは燦爛たる復活の栄光が前提された序曲に過ぎないものでありました。

歴史を通して、教会は数多い迫害と患難を通過して参りましたが、決して敗亡するとか、この世から教会の痕跡が消し去られるようなことはありませんでした。なぜなら、教会に深く根を下ろしている復活の希望の故なのです。苦難がいかに甚だしくても、希望がある限り、苦難はもはや絶望ではありません。

「ヘブル人への手紙 12章 2節」は、『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』と記しています。

イエス様ご自身も、未来にある希望と喜びがあったゆえに十字架の苦難をよく忍ぶことができた、と言われています。イエス様がよみがえられたので、私たちが遭遇するすべての苦難の中にも復活の希望がいっぱいに満ちているのです。IMF寒波がいくら厳しくても、イエス様を信じる私たちには既に復活の希望がありますので、IMF寒波の中でも花のつぼみがほころびつつあります。私たちは苦難の中にあっても目を上げて、もうすぐ咲き誇るようになる希望の花を根気強く見続けなければなりません。これがまことの信仰なのです。このような信仰がある時、神様はその信仰を通して奇跡をほどこしてくださるのです。




第一、サマリヤの凄惨な苦難

イスラエルのサマリヤ城が、アラムの王ベン・ハダデの大軍に包囲されました。一日が過ぎ、一ヶ月が過ぎても包囲を解いて撤収する気配がありません。城内は、飢えで見るに忍びない有様でありました。備蓄した糧食が尽きました。水さえも枯渇するようになりました。その飢えが如何に甚だしかったか、驢馬の頭とか、甚だしくは鳩の糞までもが食べ物としてひどく高い値段で売られるようになりました。

そうしたある日、イスラエルの王が城壁を通りかかると、ひとりの女が「王様、お救いください。」と叫びました。すると王は、「主があなたを救われないのなら、どのようにして、私があなたを救うことができようか。打ち場の物をもってか。それとも、酒ぶねの物をもってか。」(列王記 第二 6章27節)と答えました。すると女は、城内で起こっている悲惨な状況を次のように話しました。

「私たちはあまりにも飢えており、腹がへっていましたので、昨日は私の子供、今日はあの女の子供を煮て食べることに約束しました。それで私の子供はもう煮て食べました。ところが今日、あの女の子供を煮て食べる番ですが、あの女が自分の子供を隠してしまって、出してくれません。どうしたら良いでしょうか? この問題を解決してください…。」

王が、この女の言う事を聞いて、自分の服を引き裂きました。そして王宮に戻ってきて、臣下の者を呼んで言いました。「きょう、シャファテの子エリシャの首が彼の上についていれば、神がこの私を幾重にも罰せられますように。」(列王記 第二 6章31節) 王は惨めなほどに絶望し、自暴自棄に陥ってしまいました。

それで、王の使者たちがエリシャを殺そうとして探して行きました。その時、エリシャは既に神様の御霊に感動されて、王が自分を殺そうとして派遣した使者が来ることを知っていました。それでエリシャは、「使者が来たら、戸を閉めて入れないようにしなさい。」と戸締りをさせました。その言葉が終わらないうちに、王の使者たちが到着しました。




第二、エリシャの「希望の神学」

その時、エリシャは、偉大な希望のメッセージを宣布しました。『「主のことばを聞きなさい。主はこう仰せられる。『あすの今ごろ、サマリヤの門で、上等の小麦粉一セアが一シェケルで、大麦二セアが一シェケルで売られるようになる。』(列王記 第二 7章 1節) 人の考えでは、到底夢にも見られない話しです。驢馬の頭とか、鳩の糞が高価で取引されている状況の中で、上等の小麦粉と大麦がそれも安い値段で、サマリヤの城門で売られるようになる、と予言するエリシャの言葉を信ずる人があるでしょうか? それも1ヶ月後とか、1年後ではなく、明日の今ごろ、そのようなことが起こるという予言です。

そうするや、王が派遣した一人の王の侍従がエリシャに向かって言いました。「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんな事があるだろうか。」(列王記 第二 7章 2節) そのようなことを言うのは、当時の状況では「肉の人」として当然なことかも知れません。しかしその時、この「絶望の神学」を主張した人に対して、エリシャは厳しい審きを言い渡しました。『「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」』(列王記 第二 7章 2節)

神様は、挫折と絶望に瀕しているとき、エリシャを通して偉大な希望を宣べ伝えられたのです。エリシャはまさに、「希望の神学」を宣べ伝えた人です。しかし、希望の神学を受け入れずに、絶望の神学を主張した人に対しては、神様は峻厳な審きを下します。神様は、希望の神様です。挫折と絶望の神様ではありません。神様は、私たちに希望を与えようと願っておられるのです。

「詩篇 62篇 5節〜6節」は、『私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。』と記しています。私たちが、天と地を造られた神様を黙って待ち望んでいたら、神様から私たちに希望が満ち溢れ出る、という御言葉です。ところがこんにち、栄光を後ろにして苦難だけを賛美する神学者が少なくありません。彼らは、キリスト教の信仰とは「苦難の中で美しくなる」と主張します。

もしも、そうであるとしたら、全世界を背に負っている、「栄光が溢れる」アメリカの教会はみな堕落した教会でしょうか。そうではありません。アメリカの教会はこんにちも、栄光の中に立っておりながら現在、世界宣教のほとんど大部分の責任を負っています。

苦難は、「悔い改め」と「練られた品性」を生み出し、もっと大きい栄光を与えるための手段です。決して苦難それ自体が美しいものではありません。私たちが苦難に直面してこそ、痛く悔い改め、率直に罪を告白し、そして主である神様を探し求めるようになるのです。また、苦難を通して私たちの我執が砕け、不従順の壁が崩れ、神様を信頼するようになるのです。このように苦難は、神様にあって大きいお恵みに与かる手段になるのであって、決して苦難自体が美しいとか、美化されるべきものではありません。

まことの神学とは、苦難を通して根気強く、私たちに希望と栄光を与えてくださる神様を待ち望み、信仰により祈って神様の祝福を戴くようになる、ということです。苦難という「外的圧力」によってだけ成長する教会は、病的な教会です。ある人たちは、苦難に遭ってこそ、教会が成長し発展すると言います。鞭に打たれたら勉強し、そうでなかったら勉強しない学生があるとしたら、その学生は病的なのです。自ら進んで勉強するのが正常です。

私たちが苦難に遭う前に、聖霊さまによりバプテスマを受け、御言葉を通して神様に会い、自ら献身し、奉仕し、忠誠をつくす、そして絶えず祈る教会が正常的な教会なのです。我が神様は、「哀歌 3章32節〜33節」を通して、『たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない。』と仰せられました。

人生が、苦しみ、悩むようにするのが神様の本来の御心ではありません。人々が堕落し、主に背を向け、神様の御心通りに暮さないので、「立ち帰らせる」ために、神様は苦難も仕向け、鞭打ちにも会わせるのです。

神様の祝福とお恵み充満な中で、自ら進んで十字架を負い、犠牲を払う教会がまことに健全な教会です。神様の祝福とお恵みが充満な中で、神様に仕え、お隣りを顧み、キリストの栄光のために暮す、そのような個人の信仰がまことの信仰です。いつも打たれて痣(あざ)だらけになり、血みどろになってからようやく目がさめて悔い改め、その時になって立ち帰る、これは病的な信仰であって、正常的な信仰と言えるものではありません。

けれども、人生には苦難が必要です。なぜかと言うと、人間はいつも驕慢であり、傲慢です。そして肉の欲、目の欲、この世の自慢を追求しては堕落しますので、神様がわざわざ、砕き、悔い改めさせ、悟らせる一つの手段として、苦難をご使用なさるのです。しかし、苦難それ自体が目的ではありません。神様が願われるのは、私たちに希望を与え、私たちを祝福してくださることです。

「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」には、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と記録されてあり、「ヨハネの福音書 10章10節」には、『盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。』と記録されています。また「詩篇 23篇 1節」は、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』と記録しています。

ですから、私たちに迫ってくる色々な試練と患難は、それ自体が目的ではありません。私たちをもっと大きい希望と栄光に導いて行くために、私たちを予め準備させる手段である、ということを私たちは知らなければなりません。従って、神様は、私たちに希望を与えてくださる神様です。しかし、希望を受け入れずに疑い、絶望し、挫折する人は、神様が厳しく審かれるのです。

サマリヤ城が、アラムの王ベン・ハダデの大軍に包囲されて挫折し、凄絶な絶望におちいっているのにも、神様の人エリシャを殺そうとして使者を遣わしたのにも、神様はエリシャの口を通して希望を宣布なさいました。それも、一ヶ月や一年のあとのことではなく、すぐその翌日に、サマリヤ城の入り口に食べ物が満ち溢れるようになるであろう、と予言しました。希望の宣布なのです。

その希望を受け入れずに拒否した高官の侍従に対しては、同じエリシャの口を通して「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」(列王記 第二 7章 2節)と峻厳な審きを宣布しました。




第三、希望と絶望、どちらを選ぶべきでしょうか

サマリヤ城の入り口に、らい病患者4人が座っておりました。当時の掟によって、彼らは城内に入ることができません。彼らは餓えきって、立ち上がる力もありませんでした。唇も、鼻も、手の指も、足も、病菌に蝕(むしば)まれ爛れてかたちがなく、全身が腐って膿みだらけの、それこそ挫折と絶望の人たちでありました。

彼らはお互いに言い合いました。「私たちはどうして死ぬまでここにすわっていなければならないのだろうか。たとい、私たちが町にはいろうと言っても、町はききんなので、私たちはそこで死ななければならない。ここにすわっていても死んでしまう。さあ今、アラムの陣営にはいり込もう。もし彼らが私たちを生かしておいてくれるなら、私たちは生きのびられる。もし殺すなら、そのときは死ぬまでのことだ。」(列王記 第二 7章 3節〜4節)

彼らは、挫折し絶望したまま、座って運命の死の日を待つべきか、それとも、希望に向かって前進すべきか、を決めるために話し合っていました。彼らは、「サマリヤ城内には希望がない。そこは限りない餓えと挫折と絶望だけだ。アラム軍隊は敵ではあるが、彼らの中には食べて、飲んで、生きていける希望がある。だから、立ち上がって希望に向かって前進しよう・・・。」という結論に達しました。彼らがアラムの陣中に入って行ったところで、アラムの軍人たちが彼らを生かしてくれるはずがありません。それにも拘らず、そこには食べ物があり、飲み物があるという希望が、彼らを動かしました。

「エレミヤ書 29章11節〜13節」は、『わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。・・主の御告げ。・・それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう。』と記しています。

私たちに対する神様の計画は、災いではなく、平安です。将来と希望を与えようと言うのが神様の計画なのです。サマリヤの偉大な学者たちを通して、あいは軍隊を通して、又は銀や金を通してイスラエルを救おうとなさったのではありません。小さい希望ではあっても、希望に向かって前進して行くらい病患者たちを通して、神様はイスラエルを救おうと決められたのです。

神様が開くと、誰も閉じる者がなく、神様が閉じると、誰も開く者がありません。神様は天地万物を造られました。天と地とその中のすべてを造られた神様は、全知全能・無所不在なるお方です。神様はどのような人であっても、絶望した軍人、挫折した学者、悲観する指導者はご使用なさいません。いくら賎しく、見栄えが劣る人間であっても、希望を持っている人であったら、神様はご使用してくださるのです。

聖書「詩篇 146篇 5節〜7節」は、このように記録しています。『幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。 主は天と地と海とその中のいっさいを造った方。とこしえまでも真実を守り、しいたげられる者のためにさばきを行ない、飢えた者にパンを与える方。主は捕われ人を解放される。』

4人のらい病患者が、日暮れになって揃って立ち上がりました。足指が腐っているので歩みが不自由です。全身の膿みが痛く、からだは均衡が取れません。それでも4人は互いに足となり、手となって、希望に向かって前進して行きました。倒れたら助け上げ、座り込んだら引っ張って上げながら、互いに励まし合いました。希望を持っている人たちには、神様が共にいてくださるのです。

4人のらい病患者たちに、神様が共にいてくださるや、奇跡が起こりました。『主がアラムの陣営に、戦車の響き、馬のいななき、大軍勢の騒ぎを聞かせられたので、彼らは口々に、「あれ。イスラエルの王が、ヘテ人の王たち、エジプトの王たちを雇って、われわれを襲うのだ。」と言って、夕暮れになると、彼らは立って逃げ、彼らの天幕や馬やろば、すなわち、陣営をそのまま置き去りにして、いのちからがら逃げ去ったのであった。』(列王記 第二 7章 6節〜7節)

4人のらい病患者たちが、アラムの陣営の端まで来て見ると、馬などはそのままありましたが、人は誰ひとりいません。彼らは天幕の中に入って、食べたり飲んだりし、そこから銀や金や衣服を持ち出して隠しました。そして、『彼らは話し合って言った。「私たちのしていることは正しくない。きょうは、良い知らせの日なのに、私たちはためらっている。もし明け方まで待っていたら、私たちは罰を受けるだろう。さあ、行って、王の家に知らせよう。」』(列王記 第二 7章 9節)

彼らは、サマリヤの町に行ってすべてを告げました。それで、イスラエル人たちが直ちにアラムの陣営を占領し、翌日の朝、サマリヤの城門にどんなにたくさんの小麦粉と大麦が積まれ、満ち溢れたか、上等の小麦粉1セアが1シェケルで、大麦2セアが1シェケルで売られるようになりました。エリシャの希望の宣布と、らい病人たちの希望に向けての行進が、想像を超越した救いと祝福をもたらしました。希望がない時には、神様がみわざを働かしてくださいません。

只今、IMF寒波によって、我が国の政府とか、事業家とか、労働者、農民、市民・・・、すべての人々の希望の燈火が消えかけています。その上に、思いも寄らない大暴雨により韓国の経済全般が致命的な打撃を受けました。私たちはここで、よろめいたり、たじろぎを見せています。果たして、明日は希望があるだろうか? 失業して、家族との生活に絶望し、挫折するしかないサラリーマンや労働者たちが、どこから希望を見出すことができるでしょうか?

ここで、もしも私たちが挫折したら、神様は私たちから離れて行かれます。このような逆境と患難は、神様が私たちを鞭打って、悔い改めるように、そして主の下に立ち帰るようにするためのものである、ということを知らなければなりません。私たちの間違った生活と考えを痛く悔い改め、間違った言葉と行動を率直に言い表し告白して、今すぐ、主を仰ぎ見、希望に向かって前進しなければならないのです。絶対に絶望してはいけません。私たちは、「4人のらい病人」よりはるかに良い位置にあるのです。

私たちは、アラムの大軍に包囲されたサマリヤの城内で、ろばの頭とか、鳩の糞を食べながら生きている彼らよりすぐれた境遇におかれています。ですから私たちは、希望を失ってはいけません。私たちがキリスト・イエスにあって神様を見上げ、希望を抱えて、熱心に生きて行くとき、神様は私たちと共にいてくださいます。そうなれば、敵悪魔は一つの道から攻撃して来ては、七つの道に逃げ去るようになります。

また聖書は、「絶望の信奉者」が生んだ結果に対しても、「列王記第二 7章17節〜20節」に次のように記録しています。『王は例の侍従、その腕に王が寄りかかっていた侍従を門の管理に当たらせたが、民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。王が神の人のところに下って行ったとき話した神の人のことばのとおりであった。神の人が王に、「あすの今ごろ、サマリヤの門で、大麦二セアが一シェケルで、上等の小麦粉一セアが一シェケルで売られるようになる。」と言ったとき、侍従は神の人に答えて、「たとい、主が天に窓を作られるにしても、そんなことがあるだろうか。」と言った。そこで、彼は、「確かに、あなたは自分の目でそれを見るが、それを食べることはできない。」と言った。そのとおりのことが彼に実現した。民が門で彼を踏みつけたので、彼は死んだ。』

「絶望の信仰」を抱いている人は、自分が信じた通りに「死」以外には結果がありません。希望に対する抵抗は、取りも直さず「死」を意味します。「詩篇 30篇 4節〜5節」は、『聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。』と記しており、「詩篇 30篇11節〜12節」は、『あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。私のたましいがあなたをほめ歌い、黙っていることがないために。私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。』と記しています。

希望を抱いている人には、涙の時間が過ぎたあとに大きな喜びが訪れます。悲しみが変わって、喜び踊るようにしてくださるのです。ですから、聖徒の皆さん! 私たちはイエス・キリストにあって現実と未来に、永遠の希望を持つことができるのです。イエス様が、私たちを熱く愛して下さり、今も愛して居られるからです。




お祈り

全知全能で、愛であられる、我が父なる神様! 只今韓国が、アラムの大軍に包囲されたサマリヤ城のようになって、希望を失ってしまった国民が日ごとに増えています。

しかし、私たちが、この凄絶な状況の中にありながらも、主イエス・キリストにあって神様への信仰を篤くし、希望を捨てずに、希望の神様に向かって悔い改め、切に祈り、求めれば、神様が、私たちに巨大な勝利と、解放と、自由を与えてくださることを信じます。

栄光であられる我が神様! IMFに取り囲まれ、天災地変に囲まれて苦しんでいる我が民族に、希望のメッセージを与えてくださって有り難うございます。

父なる神様! どんなことがあっても最後まで、希望を抱いて生きて行く私たちとなるように、助けてください。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!