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「激しく攻める者だけが奪い取る天国」
 






■聖書箇所

「ヘブル人への手紙 4章 6節〜11節」
4: 6 こういうわけで、その安息にはいる人々がまだ残っており、前に福音を説き聞かされた人々は、不従順のゆえにはいれなかったのですから、
4: 7 神は再びある日を「きょう。」と定めて、長い年月の後に、前に言われたと同じように、ダビデを通して、「きょう、もし御声を聞くならば、あなたがたの心をかたくなにしてはならない。」と語られたのです。
4: 8 もしヨシュアが彼らに安息を与えたのであったら、神はそのあとで別の日のことを話されることはなかったでしょう。
4: 9 したがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
4:10 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
4:11 ですから、私たちは、この安息にはいるよう力を尽くして努め、あの不従順の例にならって落後する者が、ひとりもいないようにしようではありませんか。




神様は、イスラエルの民のために乳と蜜が流れるカナンの地を備えて置かれました。そして、広野を通ってカナンの地に入って行く民たちに、「その地を激しく攻めて占領しなさい。」と命令なさいました。しかし、悲しくも「第一世代」はカナンの地に入ることができずに、広野で死にました。

彼らは、カナンの地を占領する資格を持っていなかったので、主が与えてくださったその地を所有することができなかったのです。次の「第二世代」になって、ヨシュアとカレブにより、彼らはカナンの地に入ることができました。

私たちは皆、アダムの子孫として「アダムの広野」で生まれ、数々の苦痛と悲しみと難儀を経験しながら暮して参りました。ところが、二千年前に神様の御子イエス様が来られ、十字架のお供え物になられることによって、主が備えられた「五重の福音」の乳と、「三重の祝福」の蜜が流れる地に私たちを招いておられます。

「マタイの福音書 11章12節」は、『バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。』と記しています。イエス様が備えてくださったカナンの天国も、激しく攻めてこそ享受することができるのです。ですから、主が十字架を通して成就されたイエス・キリストのカナンの地を得るためには、私たちは資格を求めなければなりません。

それでは、どのような資格を求めてこそ、イエス様が備えられた乳と蜜が流れるカナンの地を占領することができるでしょうか?




第一、確実な知識と明確な夢がなければなりません

私たちに与えられた神様のお恵みが何であるかを確実に知らないことには、私たちは行動することができません。私たちが寝ても覚めても忘れてはならないことは、イエス様が来られて十字架に釘付けられ、苦難に会われたことによって、私たちを「アダムの広野」から救い出してくださったという事実です。イエス様が、その贖いの苦難を通して私たちを救われた、という知識が私たちに確実にあってこそ、私たちはその祝福の地に入ることができます。

イエス様が、身を裂き血をながされたのは、何の意味もなくそうなられたのではありません。主が十字架の苦難を通して私たちの罪を永遠に贖われた、というこの知識を、私たちは確実に持っていなければならないのです。私たちの過去と現在と未来の罪が、イエス・キリストの十字架の血潮と、その苦難を通してすべて清算された、という事実を、私たちは心の中に確実に悟り、知らなければなりません。私たちを占領し、捕虜にしていた敵悪魔とこの世は、イエス・キリストによって追い出されました。

私たちは、キリストにより天国が臨み、聖霊さまが私たちを占領して天の御国のみわざを施してくださる、という事実をはっきり知らなければなりません。イエス様が十字架を通して、私たちのすべての悲しみと病気を担って行かれた、という事実を悟らなければならないのです。キリストが勝利なさったと言うことを知らないことには、私たちは悪魔から解放されることができません。

悪魔は、絶え間なく私たちに、呪いと貧乏から解放されることは絶対にないと言います。それも敵たちの口を通してではなく、時には「神学者たち」の口を通して、あいは「主のしもべ」の口を通してそのように言っています。従って真理を確実に知らないことには、つい惑わされたり、こんがらがるようになって、私たちに与えられたキリストの乳と蜜が流れるカナンの地を占領することができません。

イエス様が十字架に架けられ、私たちに代わって死なれて、死と陰府(よみ)を撤廃なさり、私たちに復活と永遠のいのちと天国を与えてくださった事実を確実に知らなければなりません。悪魔の惑わしに迷わずに勝って、キリストが十字架で私たちの代わりになられ、私たちを贖ってくださったその真理をはっきりと悟り、変わることがない神様のお恵みと、約束の上に立って前進して行くことができる信仰を持っていなければなりません。

そして、このような確実な知識をもって、「こういう人になりたい!」と言う夢をみなければなりません。夢があってこそ、その夢に向かって駆けていくことができます。夢がなければ、生きて行く目標がありません。十字架を通して、イエス様が私たちになしてくださった「新しい人」に対する確かな夢を持っていなければなりません。そうしてこそ、私たちがイエス・キリストのカナンの地に入って行くことができるのです。




第二、切なる願いがなければなりません

私たちがキリストの真理を知っても、そこに入って行きたいという熱く切実な願いがなければ入って行くことはできません。神様は、私たちの心の中に願いを持たせてからみわざを働かされます。「ピリピ人への手紙 2章13節」は、『神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。』と記しています。

主は、心に願いがない人にはみわざを働かせることができません。「マルコの福音書 10章51節」に、『そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」』と記録されています。このように盲人は、「目が見えるようになりたい」という切なる願いがあったのです。

私たちの心の中に、「切実な願い」があるか、どうか、確認しなければなりません。願い事がなく、ただ漠然として焦点がない目をしている人のためには、主は働いてくださいません。腹のへった人が食べ物を熱心に捜しまわるのと同じく、また病気の人が直りたいと切に願うのと同様に、私たちの心の中に切なる願いがなければなりません。「エレミヤ書 33章 3節」に、『わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、あなたの知らない、理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。』と記されています。

呼ばわる祈りというのは、それこそ切迫した心の表現です。ですから、熱い祈りがなければなりません。




第三、断固とした信仰を持たなければなりません

妥協する信仰、揺れ動く信仰を持ってはいけません。信仰は心の選択です。主は、信仰が弱かったり、薄い人たちを叱られました。神様は、人々各自に信仰の量(はか)りを分け与えてくださいました。信仰とは、心の選択です。それで、大暴風を大なぎになさるとき、主は弟子たちに『なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちだ。』と言われながら叱られたのです。

信仰が無かったら、叱る必要がありません。「信仰の薄い者」というのは、「信仰」より「疑い」が強い人を指します。水に沈みかけたペテロに、『信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。』と言われながら叱られた理由も、ペテロが「信仰」を選ばずに「疑い」選んだからでした。信仰は、私たちの心の中の選択であることを知らなければなりません。

「薄い信仰」の故に叱られ、「断固とした信仰」の故に褒められることは、私たちの選ぶところによるものです。ですから私たちは、断固とした信仰の道を選ばなければなりません。信仰の先祖アブラハムは、年100歳になって信仰の道を選びました。

聖書「ローマ人への手紙 4章18節〜22節」に、『彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。』と記されています。

この聖書の御言葉によりますと、アブラハムは「信じることができない」条件が色々とありました。疑わしい条件がそんなにあったのにも拘らず、アブラハムは「疑い」とか「不信仰」を選ばずに、「信仰」を選んだのです。信じることに決断を下したのです。

聖書「マタイの福音書 21章21節〜22節」をご覧下さい。『イエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言っても、そのとおりになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」』

私たちは、「自分の信仰が薄い」と考えます。「それで出来なかった」と結論を出します。これは「欺かれる」ことです。疑うことに決めたので出た結果なのです。「疑い」を選び、「信じる」ことを捨てることにしたので、「信じられない」ようになるのです。いくら環境が難しく、誘惑が多く、試練が重ねられても、心に「信じる」ことに決心したら、「信じる」ことができるようになっているのです。

神様が約束なさったことは必ず成就すると信じて、感謝し、どのような逆境が迫って来ても、神様だけに拠り頼み、神様を礼拝し、賛美する、そのような信仰を持ってこそ、カナンの地に入ることができるのです。




第四、強く、大胆でなければなりません

人生にあって、感覚や環境に逆風が吹くのは当然な道理です。ペテロが水の上を歩いて行くとき、イエス様だけが居られたのではありません。風も吹いていました。イエス様が居られても、試練と患難は襲ってきます。ペテロがイエス様だけを見て歩いて行ったら、波がいくら荒く、風がいかに強く吹きまくっても、何の影響もなかったでしょう。

ところが、ペテロは風と波を見てこわくなりました。それで、水の上を歩いて行く途中に沈みかけました。ですから、強く、大胆でなければなりません。この世には、イエス様だけが居られるのではなく、罪、病気、貧乏、逆境、悲しみ、死…なども共にあります。ですから、強く雄々しく大胆な信仰をもって暮して行かなければならないのです。環境より大きい神様を見つめ、御言葉を口ずさみ、勇気をもたなければなりません。

ダビデをご覧下さい。彼は幼い牧童に過ぎませんでしたが、巨人ゴリヤテの前に立ったとき、「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と大言壮語しました。いかに強く、大胆であったかわかりません。

悪魔は、神様の大いなるみわざが起こりそうだと見定めたら、先に来て狂ったように猛り、暴れ、妨害し、飛びかかってきます。これが悪魔の習性です。気落ちさせ、沈み込むようにして、主のお恵みに与かることができないようにするためです。ですから、一旦信じたなら、暴風雨が吹きまくろうが、荒波が猛り狂おうが、私たちはイエス様だけを見つめなければなりません。

そして、すべて主に拠り頼み、強く、大胆な信仰と、度胸を持っていなければなりません。信仰は、強く、大胆であるとき実があるのです。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなく、漆黒の暗闇であっても、肯定的で、積極的で、創造的なことを話し、笑いながら暮して行かなければなりません。少しの難しい目に会っても、「主が私たちを捨てられたのだ。神様が私を祝福してくださると言うのに、なぜ、こんなことが生じたのだろうか? もう私は滅亡だ…。」と嘆いたら、悪魔は「しめた!」として喜び踊ります。

イスラエルの民たちもそうでありました。神様が、乳と蜜が流れる地に入っていきなさい、と言ってくださったのにも拘らず、彼らは事ある毎に不平・不満をつぶやきました。その結果、「第一世代」は結局乳と蜜が流れるカナンの地に入ることができなかったのです。

逆境は迫ってくることになっているのです。呪われた地で逆境は迫ってくるしかありません。けれども、神様が居られるのですから、神様を信じ、拠り頼んで暮して行けば、私たちは勝つことができます。

逆境に遭って恐れる人は、最初から信仰の冒険を始めてはなりません。信仰の冒険を望む人に、逆境が襲うのは当然なことです。神様を信じるあつい信仰、強く雄々しく、大胆な信仰をもっていてこそ、私たちは乳と蜜が流れる地に入って行くことができるのです。




第五、小さい勝利に満足してはいけません

イスラエルの民たちは、カナンの地を全部、完全に占領せずに、つい妥協してしまいました。「ヨシュア記 17章13節」に、『イスラエル人は、強くなってから、カナン人に苦役を課したが、彼らを追い払ってしまうことはなかった。』と記されています。「民数記 33章55節〜56節」にも、『もしその地の住民をあなたがたの前から追い払わなければ、あなたがたが残しておく者たちは、あなたがたの目のとげとなり、わき腹のいばらとなり、彼らはあなたがたの住むその土地であなたがたを悩ますようになる。そしてわたしは、彼らに対してしようと計ったとおりをあなたがたにしよう。』と記されています。

私たちが主を信じ、信仰をもって暮して行くとき、瞬く間に何かが、いっぺんに起こるのではありません。少しずつ、少しずつ、勝利をおさめるようになるのです。いっぺんに成されるのではありません。

悪魔は、一斉に退きはしません。少しずつ、少しずつ、どうしようにも術(すべ)がないので押し出されるような、そのような退き方で退いて行きます。ですから、私たちが捧げた祈りがいっぺんに答えられないといって、気落ちしてはいけません。

また、ちょっとした勝利をおさめたとして、それに満足し、「もうしめたものだ!」と座ってしまってもいけません。私たちは続けて前進し、最後まで圧迫しなければなりません。続けて呼ばわり、祈って、悪魔の残滓が根こそぎになり、悪魔が逃げてしまうまで、激しく攻めなければならないのです。

イエス・キリストを信じるようになったと言って、満足してはいけません。自分の中にある「捨てるべきもの」をすべて、追い出さなければなりません。酒を飲むことも、タバコを吸う習慣も、みな追い出さなければなりません。ばくちを打つ悪習も追い出さなければなりません。世の腐敗はすべて追い出さなければなりません。

信じるとして、ようやく救われたことに満足してはいけません。「イエスを信じて救われたから、これで良いんだ」と済まさずに、救われたなら、からだの病気もみな追い出さなければならないのです。肺病も、心臓病も、関節炎も、糖尿病も…、すべて追い出してこそ、強靭な信仰の所有者になれるのです。

小さい勝利に満足してはいけません。イエス・キリストを信じて、ようやく「新しく生まれた」ことに安心すべきではなく、「私が祝福されたのだから、ほかの人たちも祝福されるように導こう。」「主の御名によって、他人も助けてあげなければ…。」という、あつい信仰、心の姿勢が必要です。

旧約時代の選民・イスラエルの民たちを、広野で過ごしてから去って行った人たちと、乳と蜜が流れるカナンの地に入って暮してから去って行った人たちと、二通りに区分することができます。みな同じ選民ですが、広野で悲しく泣きながら死んでいった選民もあり、乳と蜜が流れるカナンの地に入って豊富にすべてを享受して暮してから死んでいった人たちもいます。それは、主がわざと差別されたのではありません。自分たちが各々その道を選んだのです。

資格を得られなかった人たちは、広野で暮しました。資格を取得した人たちは、祝福のカナンの地に入って行って、そこを占領しました。こんにちも、イエス様を信じながらも「アダムの広野」で暮してから死んでいく人があり、「イエス様のカナンの地」に入って豊かに暮してから死んでいく人がいます。その区分は私たち各々が選ぶのであって、神様がそうされるのではありません。

ですから、私たちは自ら資格を具備しなければなりません。確実な知識をもち、夢をもたなければなりません。あつい心からの願いをもって、切々たる祈りを捧げなければなりません。断固とした信仰の決断を下さなければならず、そして心を強く雄々しく大胆にして、迫って来るすべての敵の逆境に遭っても恐れることがないようにならなければなりません。

小さい勝利に満足せずに、「悪」を最後まで圧迫して追い出し、根こそぎにして、神様が与えてくださったすべてを占領するまで推し進む、そのような資格を具(そな)えたら、私たちはカナンの地に入って暮らすことができるのです。そのような資格を具えなかったら、ようやく救われたことだけに満足して、一つの足は「カナンの地」に入れ、もう一つの足は「アダムの広野」に置いて、悲しみ苦しみながら、主からのお恵みと特権は悪魔に奪われたまま暮してから、天に召されるようになるのです。

主は、私たちがたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康で、そしていのちを得るにしても豊かに得るようにと願っておられます。また、貸すことはあっても借りることがない、そのような人生を生きるようにと願っておられます。




お祈り

聖く、全知全能で、愛であられる、天の父なる神様! こんにち数多いクリスチャンたちが、一方の足は「キリストの地」に、もう一方の足は「アダムの広野」に置いて、悲しみと苦しみの中で暮しております。従い、私たちに与えてくださった「主からの特権」を享受することが出来ずに暮してから、天に召されます。それは、主が私たちのために備えられたすべてを、私たちが占領することができなかったからです。

『バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。』と仰せられました。私たちが激しく攻めて奪い取らないことには、黙って座っていては何もできないことを、今日知りました。

私たちがその資格を得るために、みんなが祈りと信仰の勇士になって激しく攻め、奪い取ることができるようにしてください。悪魔の仕業を滅ぼして、勝利の生活をすることができるように祝福してください。

イエス様の御名によって、切にお祈り申し上げます。アーメン!