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「牧者と羊」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 10章11節〜16節」
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。また、わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。
10:16 わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。




今日、私は皆さんと一緒に『牧者と羊』という題目で御言葉を分かち合おうと思います。

この地球の上で、もっとも多い牧草地を保有している国は、恐らく「ニュージランド」ではないかと思います。その国は、殆どの平地が牧草地に開墾されており、「羊の数」が人口の数よりも多い国です。

ところが驚く事には、その国では牧者が羊を飼っている姿を全く見る事ができません。羊を、山や平原に放牧しています。理由は、「ニュージランド」には獅子、虎、狼など、猛獣がないからだと言うのです。そこは羊の楽園です。

しかし、イスラエルはそうでありません。目に見える土地は殆どが不毛の地であり、水も甚だ乏しいです。その上に、獅子や狼など猛獣が住んでいるので、ともすれば、羊の命を奪われます。地形も危険なところが多く、それこそ「死の陰の谷」のようです。

ここでは、牧者なしに羊がひとりで生存する事はとても難しいです。イスラエルの広野は、ちょうど私たちが住んでいるこの世と似ています。アダムが作っておいた広野で暮す人生は、絶え間なく、盗み取る環境と敵たちに露出されています。本当に「命の糧と水」を得る事が難しく、人生の道に険しい山と断崖が至る所にあります。

従って、私たちには本当に「牧者」が必要です。牧者なしに暮して行くという事は、余りにも苦しく、難しく、危険で、無謀です。ところが、聖書に私たちの「主」が、『わたしは良き牧者です。』と言われました。又ダビデも、『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』と賛美しました。これは、私たちと神様との関係は、牧者と羊の関係であるという事実を宣布しているのです。




第一、牧者であられるイエス様がなさるお仕事

牧者であられるイエス様が、私たちの中に来られてなさるお仕事に関して、私たちははっきりと知らなければなりません。

イエス様は、広野でさ迷う「ご自分の羊」を探して、教会という囲いに集めるお仕事をなさいます。アダムとエバ以後、人たちは、はるかに遠い世の中に出てしまいました。「アダムの広野」でさ迷いながら、猛獣に裂かれ、険しい山と断崖であえぎ、苦しんでから、滅亡におちいります。主が来られたのは、主の羊たちを先ず探すお仕事をなさるためです。主は牧者であられますので、ご自分が飼う羊を探します。

どのように羊を探されるでしょうか。主は「伝道」を通して羊を探しておられます。「コリント人への手紙 第一 1章21節」に、『事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。』と記されています。

伝道するのが、愚かな事に見えます。私たちが隣人に伝道して、その人を神のもとに導くという事が果たして可能だろうか?と考えます。私も、人たちに伝道する度毎に、「あの人が、私の言う事を聞いて、回心し、イエス様を信じて、神様のもとに立ち帰るだろうか?」と、疑心が生じます。それにも拘らず、その伝道の言葉を聞いて人たちは回心して、イエス様のもとに立ち帰ります。何故でしょうか? 私たちの牧者は、伝道を通してご自分の羊を救われるからです。

ですから、皆さんの唇を通して出る「伝道の言葉」がまさに、神様がそれを通して、広野でさ迷い、あえいでいる羊を探して、囲いに連れ帰る道となるのです。何故かと言えば、主の羊は、主の御声を聞いて従うからです。広野でさ迷い、あえいでいる人も、伝道の言葉を聞くとき、「我が主の御声だ!」と聞き分けます。

主の羊は、主の御声を知っています。主の羊でなかったら、主の御声を知りません。「ヨハネの福音書 10章 1節〜3節」に、『「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門からはいらないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。しかし、門からはいる者は、その羊の牧者です。門番は彼のために開き、羊はその声を聞き分けます。彼は自分の羊をその名で呼んで連れ出します。』と言われました。

イエス様が、私たちの名を呼びながら、私たちに伝道の言葉を通して近づいて来られる時、イエス様の羊であったら主の御声を聞き分けて、心に感動し、主に従います。皆さんは、皆イエス様の羊であるので、伝道されたとき主の御声を聞き分けて、感動し、こんにち、「囲いである教会」に来られるようになったのです。ですから、牧者であられるイエス様がなさるお仕事は、ご自分の羊を探して、教会という囲いに呼び集める事です。

そして、イエス様がそこで、私たちを新しく造られたものにして下さるのです。主が、土で人を造られ、いのちの息を吹き込んで「生きもの」となるようになさいましたが、こんにち、私たちは十字架の苦難を通して、主が新しく造られました。イエス様は「古い人」をみな十字架に連れて上られて、釘付けにし、身を裂き、血を流して、みな葬ってしまわれ、復活を通して、「新しく造られた者」にして下さいました。

ですから私たちは、広野であえぐ、捨てられた、そのような羊ではなく、囲いに入ってきて、主から「新しく造られた者」に変化された存在なのです。私たちは宗教や儀式を得たのではありません。教育を受けたのでもありません。イエス・キリストを通して、新しく生まれたのです。『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』

昔とは全く違う存在として、主が、私たちを新しく造って下さったのです。主は、私たちの罪を赦して下さり、義の人にして下さったのです。私たちの中に、義の証印を押して下さったのです。主は、悪魔の世界から私たちを救い出して、私たちの中に聖霊が臨むようにして下さり、天国が臨むようにして下さったのです。そして主は、私たちを、悲しみと苦しみから解放させて下さり、病気が癒されるように恵みを施して下さり、呪いから解放され、貧乏と絶望から救われたアブラハムの子孫となるようにして下さり、復活と永遠のいのちと天国を得た人に、新しく造って下さったのです。

ですから、私たちは、私たちの牧者イエス様に従って来て、完全に「新しく造られた人」になった事を認識しなければなりません。「古い人」の中で暮してはいけません。私たちは、新しい人になりました。

又、私たちの牧者は、私たちを「御言葉と聖霊」で養われます。これから主は、私たちに御言葉を与えて下さって、私たちが「御言葉の糧」をいつも食べ、お祈りを通して「生ける水」を飲み、御言葉と聖霊で私たちが育つようにして下さいます。御言葉が無くては育たず、聖霊の生ける水を飲まない事には育つ事ができません。御言葉を読み、聞き、口ずさみ、祈る事によって、私たちが生ける水を飲むのです。「ヨハネの福音書 7章37節〜38節」に、『さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「誰でも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」』と言われました。

従って、皆さん! 私たちの主は、必ず私たちが育つようにして下さいます。私たちのたましいがキリストに型取り造られ、日に日に成長して、将来、天国に上って神様のすべての栄光を享受する事ができる資格者になれるようにして下さいます。ですから私たちは、御言葉を聞き、御言葉を読み、口ずさみ、祈り、聖霊によって生ける水を飲んで、そうして私たちのたましいが益々成長するようになるのです。

又、私たちの牧者は、私たちが試練と苦難を通して世俗の皮を脱ぐようにし、霊的な人に変化されるようにします。私たちが暮して行く間、私たちを祝福して下さると同時に、試練の谷、患難のトンネルを通るようになさいます。試練と苦難を通して、私たちは「古い人の皮」を脱ぐのです。バナナの皮を剥くように、主は、試練と患難を通して、私たちの「古い人」を脱ぎとり、もっと砕かれ、もっと従順になり、もっと正直で、もっと信仰の人に変化するようになさるのです。

ですから、皆さんが色々な試みに会うときには、心から喜んで下さい。その試練を通して、皆さんの「古い人」の皮が剥がれ、「肉の人」が離れ去り、「霊的な人」に変化されるからです。試練と患難に会わない信者は、変化されません。試練を通して皆さんは、栄光から栄光へと変化されて行くのです。

年月が過ぎた後、後ろを振り返って見て下さい。自分に、大小の様々な試練があったけれども、もう私は「古い人」ではないのだ。試練を通して「古い人」はすべて脱ぎ捨てて、「新しい人」になったのだ、という事を悟り知るようになります。

主は、私たちの「良い牧者」です。死の陰の谷を通る度毎に、私たちの「古い人」を脱がせ、「新しい人」に変化させて、神様の栄光の子となるようして下さるのです。

そして、私たちの牧者の究極的な目的は、私たちを天国に導いて行く事です。皆さん! 私たちが暮しているこの世と、肉の世界は、永遠なものではありません。水のように流れ去ってしまいます。ここに恋々とする人は,後に、この世と一緒に捨てられてしまいます。

しかし、主がこの世に来られて、ご自分の羊を呼び集め、教会という「囲い」に連れて来て、変化させ、育たせるる理由は、最終的に「永遠の天国」を与えるためなのです。キリストと共に神様の前に出て来て、私たちが婚姻の宴会を開き、キリストと共に神様の前で宇宙を相続し、神様の眷属となって、神様と共に永遠に暮すようにする為なのです。

私たちは、肉の幕屋がこわれても、一緒に消え去る存在ではありません。聖書に、皆さん一人一人が「神様に型取り造られた」と言われました。神様は「霊」であられます。礼拝者たちは霊とまことによって礼拝するように、と言われたごとく、皆さんは「霊」です。肉ではありません。肉だけで出来たのであったら、神様を捜しはしません。

インドには「猿」が凄くたくさんいますが、猿が神様を捜し、宗教を持ったことはありません。お寺や教会堂を建てたことがありません。なぜでしょう? それは霊がないからです。肉体的には知恵もあり、賢いですが、霊がないので神様を捜しません。しかし、背丈が小さいアフリカの"ピグミ族"から、氷の家に住む"エスキモー"に至るまで、人がいる所にはどこにも、宗教があります。

なぜでしょうか? 人の中には霊があるからです。霊は、性急に「永遠性」を捜し求めています。間違った道に踏み込んで偶像・邪神を拝むこともありますが、その霊は、性急に「永遠」なるものを捜しているのです。70年前には、共産主義が「無神論」を教育し、あんなにも宗教を迫害しましたが、70年が過ぎて、共産主義が崩れ去ったところ、ソ連には驚くほどに神様を信じ、神様に拠り頼む信仰が「火が燃え上がる」ように起こった事実を見る事ができます。

なぜでしょうか? 人は、その中に霊があり、霊は永遠を慕い、絶対者を捜し求めているからです。ですから我が主は、私たちの「内なる人」を救い出して、永遠の天国の栄光に一緒に入るようにする、良い牧者となられるのです。




第二、羊である私たちがすべき事

羊である私たちは、何をすべきでしょうか。皆さんと私は、羊です。羊が、牧者であられるイエス様に従って出て参りました。私たちがすべき事は何でしょうか? 私たちは先ず、「牧者の愛を絶対的に信頼」しなければならないのです。

ダビデが歌ったように、『主は私の羊飼い。私は、乏しい事がありません。』 牧者を信頼してついて行ったら、乏しい事がない人生を暮すように導いて下さる、と言う事を私たちは、はっきり知らなければならないのです。我が神様は、私たちを「緑の牧場に伏させて」主のお恵みに与からせ、「憩いの水のほとりに伴われて」命の生ける水を飲まして下さり、私たちの「たましいを生き返らせて」、虚しく、罪悪がいっぱいに満ちているこの世の中を正しく暮して行くように、手を取って導いて下さる、と言う事を私たちは信じなければならないのです。

絶対に牧者を信頼して、従って行かなければなりません。牧者を信じずに右往左往したら、牧者が私たち「羊」の世話をする事ができません。私たちは、一旦イエス・キリストを牧者として受け入れ、信じたなら、その牧者が「私のすべてを、必ず責任を負ってくださる」と信じなければなりません。

自分の過去も、現在も、未来も、すべてを牧者に委ねて、生死禍福・栄枯盛衰を問わずに「私は牧者のものです。」と決めて、ついて行かなければなりません。私たちの牧者は、良き神様です。良い牧者です。乏しい事がないように顧みてくださる神様なのです。何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、すべてを主が顧みて下さいます。

どこに、子どもを顧みない父母がいるでしょうか? どこに、羊を顧みない牧者がいるでしょうか? 神様は今も、私たちを顧みておられます。神様は、私たちのすべての「必要」を充足させてくださり、私たちに霊的「いのち」を与えてくださり、そして私たちを「正しい道」に導いて下さいます。「詩篇 37篇 5節〜6節」に、『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。主は、あなたの義を光のように、あなたのさばきを真昼のように輝かされる。』と記録されています。

神様は、遠い所に居られるのではありません。聖霊さまを通して、時間と空間を超越して、今、神様は私たちと共に居られ、私たちは神様のふところにあって、「一つの眷族」として暮しているのです。私たちが、「神の国とその義」を求めれば、牧者が私たちにすべてを増し加えて下さいます。

また、私たちが患難に遭ったとき、「絶対に見捨てられない」と言う事を知らなければなりません。人々は、信仰生活をする中で患難に遭ったら、「神様が私を捨てた。」「私は捨てられた。」と慌てます。牧者は、羊が患難に遭遇したときも、絶対に羊から離れ去りません。

「詩篇 23篇 4節」に、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』と記されています。「死の陰の谷」で父母も、兄弟も、親友もみな離れ去ったとしても、イエス様は、主の権威と御力で「死の陰の谷」に私たちと共におられ、私たちを救い出して下さると言うのです。

「イザヤ書 43章 2節」に、『あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。』と記されています。私たちが患難に遭った時、弱くなってはいけません。私たちを愛する主にあって、私たちは充分に勝つことができるのです。

 私たちの為に十字架で死なれ、葬られ、そして復活までなさったイエス様は、どのような患難も苦痛も、征服し得なかった事がありません。イエス・キリストにあって、私たちはすべてに充分に勝つことができるのです。

聖書には、『主は洪水の上に座し』、私たちの所に来られると記されています。私たちの人生には、大小を問わずに数多い試練と患難の洪水が押し寄せて参ります。皆さん! 過ぎし夏、洪水が押し寄せて来ました。その洪水が過ぎ去ったあと、村が、町が、流されてなくなりました。洪水とは恐ろしいものです。しかし、人生に押し寄せてくる色々な逆境と患難の洪水の上に主が座し、洪水を「車」として訪ねて来られる、と言うのです。

私たちに、患難と苦しみの洪水が訪れるとき、洪水だけを見て、怨み、嘆き、逃げ出さずに、その「洪水の車」に乗って来られる主の前に跪いて、砕かれ、悔い改めて、主を救い主として受け入れ、すべてを主に拠り頼んで下さい。主が洪水から降りられ、洪水は止んでしまいます。試練と患難の洪水が襲ってくるのは、主が、私たちを砕き、私たちに恵みをほどこす為に乗って来られるからです。

洪水が、私たちを破滅させる事は決してありません。主が、洪水という「車」に乗って来られるからです。患難に遭った時、私たちが悔い改め、両手を上げて出て来たら、主は却ってその患難を通して、私たちにもっと大きい「有益」と「祝福」を与えて下さるのです。

また、私たちが牧者に従って行く時、この世の「敵」たちから頻繁に攻撃を受けるようになります。数多い敵たちが私たちを苦しめ、捕らえ、殺そうとして襲って来ます。「盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする」為です。しかし、私たちに牧者がある以上、少しも心配する事はありません。敵の来襲に狼狽せずに、私たちはただ牧者に従順に聞き従って行けば良いのです。

「詩篇 27篇 1節〜3節」に、『主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。』と記録されています。

また「詩篇 23篇 5節」には、『私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いで下さいます。私の杯は、溢れています。』と記録されています。私たちには、私たちの為に戦って下さる牧者がいます。獰猛な獅子や狼が襲って来たとき、私たちが獅子や狼と戦う事はできません。牧者が戦って下さるのです。主が、私たちの為に戦って、私たちを救い出して下さるのです。

ですから私たちは、敵が襲って来ても、主を見上げ、主をほめ歌い、主に拠り頼んで、敵を恐れてはならないのです。それは、敵が襲って来たら、その機会を利用して主が私たちに「食事をととのえ、良く食べさせて」、敵よりも栄えるようにして下さり、「油を注いで」杯が溢れる人生を暮すようにして下さるからです。

そして終局的に、私たちが知らなければならない事は、私たちの行く所は「父の家」です。この世には、私たちの永遠の住まいがありません。私たちは、この世を旅人と寄留者のように通り過ぎます。この世に永遠に安住するとして座り込む人は、愚かな人です。金も、銀も、富貴も、地位も、名誉も、権力も、私たちがこの世に、永遠に暮すようにしてくれる事はできません。

私たちは、速やかに飛んで行きます。終局的に、人生はすべて皆この世から離れて、向こう側の世界、即ち、「天国」か「地獄」、「栄光」か「永遠の恥」の、二つのうちの一つの世界に入って行くように定められているのです。 

「ヨハネの黙示録 7章17節」に、『なぜなら、御座の正面におられる小羊が、彼らの牧者となり、いのちの水の泉に導いて下さるからです。また、神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取って下さるのです。』と記されています。私たちが「父の家」に入って行ったら、そこでもイエス様が私たちの牧者となられて、「いのちの水の泉」に導いて下さり、私たちの「目の涙を拭い取って下さる」のです。

私たちの主は、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、又わたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをも居らせる為です。』(ヨハネの福音書 14章 1節〜3節)と親しく私たちに仰せられました。

パウロ先生も、『私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。』(コリント人への手紙 第二 5章 1節)と言われました。牧者は、羊である私たちを、そこ(天にある永遠の家)に導いて行きますので、私たちも「天のお父さまの家」を人生の目標としなければなりません。方向転換をしてはいけません。私たちの終局的人生の目標は「御父の家」です。

そして私たちは、私たちの牧者イエス・キリストと共に暮すとき、牧者に対して完全に献身しなければなりません。牧者が羊を飼うのは、後に「羊の毛」を得るためなのです。主と共に暮すとき、主が私たちを食べさせ、着させ、祝福して下さいます。私たちの「富貴・栄華・功名」がみな、羊の毛なのです。私たちが人生にあって得たすべての「富貴・栄華・功名」を主の祭壇に載せて、主の栄光の為に使用しなければなりません。

私たち「クリスチャン」は、何一つ、自分のものがありません。「富貴・栄華・功名」がすべて、主から参りましたから、みな主の祭壇に載せて置いて、いつでも主が必要と言われれば「差し上げる」、そのように献身する生活を営まなければなりません。「コリント人への手紙 第一 10章31節」に、『こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わす為にしなさい。』と言われました。

「コリント人への手紙 第二 9章10節」には、『蒔く人に種と食べるパンを備えてくださる方は、あなたがたにも蒔く種を備え、それをふやし、あなたがたの義の実を増し加えて下さいます。』と記されてあり、「マタイの福音書 22章37節」に、『イエスは彼に言われた。「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」』と言われました。

ですから、私たちはすべてを主の祭壇に載せて置き、「主が必要とあれば、いつでも毛を刈り取って下さい。主よ。いつでも私のものをご存分にご使用して下さい。」と、献身する生活をしながら、牧者に従わなければなりません。

また羊は、体も命も、「食べ物」や「供え物」として捧げます。必要とあれば、自分のからだを牧者の「食べ物」として捧げ、祭壇の「供え物」として捧げます。「ローマ人への手紙 12章 1節〜2節」に、『そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、即ち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知る為に、心の一新によって自分を変えなさい。』と言われました。

私たちは、自分の人生を「聖い、生きた供え物」として、父なる神様に捧げる暮しをしなければならないのです。私たちの肉体の中に存在する「いのち」を、完全に主に捧げて、主のしもべとして暮さなければならないのです。これが、こんにち、羊がしなければならない事です。羊は、牧者に対する絶対的な信頼を持って、信じ、従順に聞き従わなければなりません。私たちの牧者に、私たちの人生すべてを献身し、委ねきって暮さなければならないのです。

皆さん!「牧者と羊」の関係は、それこそ「相互依存」の関係です。私たちは、イエス様といつも共におり、イエス様のお助けを受けない事には、生きて行くことができません。イエス様も、私たちに依存して天の御国を建てておられるのです。イエス様と私たちは、永遠・無窮に、いつも共に暮して行かなければなりません。

「ヨハネの福音書 10章14節〜16節」の御言葉です。『わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。又、わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。又、わたしは羊の為にわたしのいのちを捨てます。わたしには又、この囲いに属さないほかの羊があります。わたしはそれをも導かなければなりません。彼らはわたしの声に聞き従い、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。』

イスラエルの民が、イエス様の「肉の選民」であるとしたら、私たちは「霊の選民」です。イエス様がその時、イスラエルに属さない、その囲いに居なかった羊、異邦の羊をも導かなければならないと言われました。私たちは「異邦の羊」として、主のお導きをいただいて、一つの囲いである教会に入って来ているのです。ですから私たちは、牧者がいない羊たちではありません。牧者なしに、山や野をさ迷う「野の獣」ではありません。24時間、牧者が共に居られ、牧者のお世話に与かっている、神様の貴重な羊です。

私たちの牧者は、私たちを救う為にいのちを捨てられたイエス様なのです。ですから、主は決して私たちを捨てることがなく、決して私たちから離れて行くことがありません。主は、天と地のすべての権威を持っておられる牧者です。私たちが主を見つめ、主を信じ、主に拠り頼んで暮して行けば、主が私たちを導いて、私たちのたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを豊かに得る羊となるように導いて下さるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、父なる神様!

私たちは「捨てられた羊」ではありません。牧者がいない「野の獣」でもありません。主が、私たちを羊として捜して下さり、主が、私たちを毎日々々世話して下さり、育てて下さって有り難うございます。

牧者であられる父なる神様! 私たちの主イエス様! 私たちは、神様とイエス・キリストを信じ、拠り頼み、従順に聞き従う羊たちです。

私たちが、神様に拠り頼み、従順に聞き従うとき、神様の偉大な御力と権威が共に居て下さいます。いつも私たちにいのちを豊かに与えて下さい。すべての敵と悪霊を退かせて下さい。勝利の満ち足りた人生を暮すように助けて下さい。そして、天国に行けるように導いて下さい。

イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。アーメン!