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「イエス様が会われた罪人たち」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 3章16節〜18節」
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
3:17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。
3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。




今日、私は皆さんと一緒に『イエス様が会われた罪人たち』と言う題目で、御言葉を分かち合おうと思います。

アダムの子孫たちは皆、罪人です。イエス様が会われた人たちは皆、罪人でありました。その中で、イエス様が「個別的」に会った罪人がいます。イエス様がこの罪人たちとどのように相対なさったかを知る事は、同じ罪人である私たちに大きなお恵みになるのです。




第一、パリサイ人「シモン」の家で会われた罪深い女

第1番目に、主が個人的に会われた罪人は、パリサイ人「シモン」の家で会われた一人の女です。「ルカの福音書 7章36節〜50節」に、こう記録されています。

イエス様が、カペナウムで、あるパリサイ人から食事に招かれて、その家に入って行かれました。その時、後について来て、イエス様の足に涙をぽろぽろと流す一人の女がいました。瞬く間に、イエス様の足はその女の涙で濡れました。彼女はイエス様について来ながら、自分の数限りない罪を深く悔い改め、涙を流しながら告白しました。

そうしてから、感激と畏敬の表現として、自分の髪の毛でイエス様の足を拭いました。こんにちも、女性の髪の毛はとても貴重なものです。埃とちりで汚れているイエス様の足を涙で濡らし、彼女は自分の髪の毛でイエス様の足の汚れをきれいに拭い取りました。そして、座っておられるイエス様の足に口づけしました。それは最高の服従と尊敬を表する行動です。

それから、彼女は持って来た香油をイエス様の足に、壷ごと傾けて注ぎました。香油は、元来髪に塗るものです。ユダヤ人の習慣では、来客がある場合、足を洗う水を出して上げます。その次に頭に塗るようにと、ほんの僅かの香油を上げます。この貴重な香油をその女は、恐れ多くてイエス様の頭髪に塗ることができないまま、イエス様の足に注ぎました。

その時、パリサイ人・シモンの表情が変わりました。「もしも、イエスが本当に預言者であり、神様の御子であるなら、この女がどんなに汚い罪人であるかを知って、そばにも寄せつけないはずだ。ところが、女がそばに来て涙を流し、髪の毛で足を洗い、口づけし、香油を注ぐのも、するに任せるとは…。イエスは預言者でもなく、神様の子でもないのだ…。」

そのようにシモンが失望している時、イエス様が仰せられました。『シモン。あなたに言いたいことがあります。』シモンが答えました。「先生。お話し下さい。」

イエス様は言われました。『ある金貸しが、二人の債務者を呼びました。一人は500デナリを、もう一人は50デナリを借りていました。二人とも返すことができなかったので、金貸しは二人とも、返済無用にして上げました。二人のうち、誰が金貸しに余計に感謝するようになるでしょうか?』 すると、シモンが答えました。「余計に返済無用にして貰った方だと思います。」

イエス様が仰せられました。『あなたの判断は当たっています。』そして、続けてシモンに仰せられました。『わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に、安値の油も塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に高価な香油を塗ってくれました。それ程に、あなたはわたしをなおざりにし、わたしを無視しました。 だから、わたしは言うのです。"この女の多くの罪は赦されています。"彼女はよけい愛したからです。』

聖書「ルカの福音書 7章48節」と「50節」を見ましょう。『そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。』(48節)『イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」』(50節)イエス様のこの仰せに、パリサイ人・シモンは唖然となって、「ヒャー、イエス様はみんな知っていたのだ…!」と心の中で呟きました。皆さん!「罪の赦しと愛」は、深い比例関係にあるのです。少し赦された者は少し愛し、余計に赦された者は余計に愛するようになるのです。

こんにち、私たちがこの世を暮しながら、お恵みにより、私たちがどんなに大きな罪人であるかを悟れば悟る程、主のお赦しに感謝するようになり、その結果、イエス様を余計愛するようになります。幼い時から、牧師や長老の家庭で育った人たちは、いつも信仰の中で成長したので、「赦された、その深い恵みと愛」に無感覚であり、「意識的愛」を持つ傾向が随分とあります。

しかし、世の中で"したい放題"放蕩し、罪に深く染まった人が悔い改めて、主のもとに帰ってきたら、自分の罪の甚だしさを思い出し、「イエス様が十字架の血潮で洗い清めて下さった」その愛を深く悟って、涙を流し、声を出して泣きながら感謝し、心を尽くして礼拝を捧げる人になります。

私たちの信仰が成長すればするほど、自分が主に逆らって犯した罪の深さを余計に悟るようになります。罪の深さを悟れば悟るほど、赦された量の多さを悟るようになり、そうなったら、主を余計に愛するようになります。主が仰せられたように、「50デナリ」の人よりも、「500デナリ」を返済無用にして貰った人が余計に愛するようになる理由が、ここにあるのです。

罪の赦しと、それに対する愛は、比例関係にあります。少し赦された人は少し愛し、たくさん赦された人はたくさん愛します。ところが実際には、私たちの罪が「少ないので、少し赦される」のではありません。私たちは大きな罪人たちです。母の胎に宿るときから罪によって宿り、生まれる時から罪の中に生まれたのです。

この世に、罪を犯さない義人は一人もいません。罪の大小は別に差がなく、そこに問題があるのではありません。自分の罪をどれ位深く悟ったか、に差があり問題があるのです。聖霊さまが臨んで恵んで下されば、自分には罪がないと思っていた人たちまでもが、胸をたたいて悔い改めるようになり、自分の罪の深さを悟って慟哭し、そして、赦される大いなるお恵みをいただいて、イエス様を余計に愛するようになるのです。

この女は、知らない人がない「罪深い女」でありました。彼女がイエス様の前にすべての罪を悔い改め、告白し、慟哭しながら髪の毛でその足をきれいに拭い、香油を壷ごと足に注いだのは、イエス様に対する感謝の思いがそれ程大きかったからです。イエス様が赦して下さった事を信じ、その感激があまりにも大きかったので、彼女は主をそれ程におもてなししたのです。

こんにちも、私たちがイエス様をどのくらい愛するかによって、自分がどのくらい赦されたかを悟ることができます。そして、キリストを愛したら愛するほど、主に余計服従するようになります。この女のように、自分の髪の毛でイエス様の足をきれいに拭うほどに献身し、その足に口づけするほどに完全にしもべとして服従し、持ち物一切を捧げて主に礼拝するようになるのです。

たくさん赦された人は余計に愛し、少し赦されたと思う人は少し愛します。全く同じく赦されたのですが、その悟りに従って、たくさん赦されたと思う人があり、少し赦されたと思う人があるのです。




第二、「スカルの町の井戸端」の女

第2番目に、イエス様が会われた罪人は「スカルの町の井戸端」の女です。「ヨハネの福音書 4章 1節〜30節」に記録されています。

主は、ユダヤを去って、またガリラヤに行かれる時、サマリヤの中心部を通る近道を選んで行かれました。主が、追われる人のように早足で歩かれるので、弟子たちは汗をかきながら従って行きました。真昼頃に、サマリヤの外郭にある「スカルの町の井戸端」につきました。そこに、主は腰を下ろして誰かを待っておられました。弟子たちは食べ物を買いに町へ入って行きました。

その時、一人の女が水を汲みに来ました。真昼間に水を汲みに出て来たのは、朝や日暮れには大勢の人たちが井戸端に集まるので、それを避けるためなのです。何かいわくのある女です。イエス様は、この女に会われるために強行軍してこられたのでありました。

女は、周囲を見まわすこともなく、足早に井戸に向かいました。そこで、イエス様がその女に話しかけられました。『わたしに、水を飲ませてください。』すると、女は、はっと驚きながら、「あなたはユダヤ人ではありませんか。ユダヤ人はサマリヤの人を犬扱いしているのに…、犬のようなサマリヤの女である私にどうして水をくれとおっしゃるのですか?」

それを聞いて、イエス様が女に言われました。『もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。』

すると女は、呆れたといった表情で言い返しました。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、この井戸は深いのです。その生ける水をどこから手にお入れになるのですか。あなたは、私たちの先祖ヤコブよりも偉いのでしょうか。ヤコブは私たちにこの井戸を与え、彼自身も、彼の子たちも家畜も、この井戸から飲んだのです。」

それに対して、イエス様は核心を衝いて言われました。『この水を飲む者は誰でも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者は誰でも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』この仰せは、女の心の琴線に触れました。

この井戸の水は、飲んでも、飲んでも、また渇く…。この世の快楽を追求する人は、地位、名誉、権勢、富貴を追い回し、それを得ても満足せず、継続して渇く、と言うのです。世のもので渇きを癒そうとすればする程、渇く。しかし、わたしが与える水は泉となって、永遠のいのちへの水が湧き出る、との主の御言葉に、女は目を輝かせながら言いました。「先生。私が渇く事がなく、もうここまで汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

イエス様は、女を悔い改めさせるために誘導なさいました。イエス様は、この女がどんなに罪深い女であるかを知っておられました。この女は、最初結婚した夫と離婚し、再婚した夫は捨て、3回目に結婚した夫も、4回目の夫も、5回目の夫とも別れて、今の6番目の男は、結婚もせずに行き当たりばったりに会った男との同棲生活でありました。

夫を意のままに捨てた女ですから、それなりに「力」のある女性であったようです。主は、この女を悔い改めさせるに当たって奇抜な方法をご使用なさいました。私たちのような平凡な人であったら、「汚れた女、早く悔い改めろ。この罪人が、売春婦が、悔い改めろ! そうしなかったら、地獄に落ちて火にやかれるぞっ!…」このように言ったでしょう。

ところが主は、そうなさいませんでした。人には、自尊心があります。自尊心は、人間を守る最後の防壁です。主は、人間の自尊心には手を触れません。その人が自ら自尊心の扉を開くようになさいます。人たちは容易く、相手の自尊心を踏みにじります。それで、深い傷を与えます。人が自尊心に傷を負ったら、人である事を拒みます。獣になるのです。

こんにち、数多い夫婦が離婚するのは、夫婦の間で些少な事から争いが始まり、夫が奥さんの自尊心を踏みにじる、奥さんが夫の自尊心を傷付ける、それが取り戻すことのできない原因になって、万事休す! 互いに仇敵になるのです。

イエス様は、たとえ罪深い人間であっても、悔い改めさせる時、相手の自尊心を尊重なさいます。自ら自分の心を開いて悔い改めるようになさいます。この女が5番目の夫とも別れて、6番目の男と同棲している事を知っておられながらも、主は、彼女が自ら告白するように誘導なさいました。あなたの要求通りに、生ける水を上げるから、『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』

女はショックを受けました。そして答えました。「私には夫がありません。」それで、イエス様が言われました。『私には夫がないと言うのは、もっともです。あなたには夫が5人あったが、今あなたと一緒にいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことは本当です。』この言葉は、さらに女に衝撃を与えました。(私の過去を全部知っている。この方は預言者なのだ!)

イエス様が言われたことは、この女の自尊心に少しも傷を負わせませんでした。女が自ら「夫がない」と言ったからです。イエス様はそれで、女をほめられました。『もっともです。あなたが、"夫がない"と言ったのは本当です。』 女が言いました。「先生。あなたは預言者だと思います。」それから、女は続けて言いました。「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」 

イエス様が答えて言われました。『わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。』

すると、女が言いました。「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 女の言うことを聞いておられたイエス様が、静かに言われました。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』 これを聞いて、女はあまりにも感激しました。彼女は既に、イエス様のお導きを通して心の扉を大きく開いたのです。

彼女は、その場でイエス様を信じ、水を汲みに来たことも忘れ、水かめを捨て置いたまま、町の中に走って行って、サマリヤの人々に伝道を始めました。「来て、見てください。私のした事を全部私に言った人がいるのです。この人がキリストではないでしょうか。今、スカルの井戸端にいます。来て、見て下さい…!」 サマリヤの町の人々がみんな出てきて、イエス様を信じ、福音を聞いて、ついにはサマリヤがキリストの福音で一斉に変化される、そのような奇跡が起こりました。

ご覧下さい。イエス様は罪人一人を扱う時でも、至極貴重に扱われます。人間の自尊心を踏みにじるなどなさいません。人間が最後まで守ろうとするのは、自尊心です。イエス様は、罪人一人でも、その人格を尊重なさり、相手の自尊心を傷つけないように努力なさることを私たちは聖書を通して見ることができるのです。

この頃、リバイバル聖会などでたまに見られる事ですが、ある「陽気な牧師先生」は講壇に立って、無茶苦茶な言葉を使用します。悪口も言いながら説教しますが、それはキリストの精神ではありません。

主は、大いなる愛の主であられます。主が皆さん一人一人を、とても尊重しておられるのです。主は、皆さんの人格、自尊心を尊重しておられ、皆さんを踏みにじることなく、自尊心に傷つける事なく悔い改めさせる偉大な私たちの救い主であられる事を知るようになりますよう、主の御名によって祈願します。

「マタイの福音書 9章12節〜13節」に、『イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」とはどういう意味か、行って学んで来なさい。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」』と記されています。

主は、「いけにえ」即ち、宗教を執行するために来たのではない、と言われたのです。「いけにえ」を捧げるのは、宗教儀式です。『わたしが来たのは、憐れみを施すためである。傷んだ葦を折ることもなく、燻る燈心を消すこともなく、悔い改める時を待つ。』と主は言われるのです。

主は、『わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。』と言われました。私たちの主・イエス・キリストの「救おうとなさる」その愛、「救おうとなさる」その切なる御心を私たちが知って悟り、主に益々感謝しなければなりません。




第三、姦淫の現場で捕らえられた女

第3番目に、イエス様が直接会われた罪人は、姦淫の現場で捕らわれて来た女です。「ヨハネの福音書 8章 3節〜11節」に記録されています。

イエス様が朝早く、聖殿に入られて福音を教えられました。民衆はみな寄って来て、イエス様の説教を聞いていました。ところが突然、そとで女の金属性の悲鳴が聞こえました。怒鳴る男たちの声も聞こえました。

見ると、大勢の律法学者、パリサイ人たちが一人の女を足蹴にしたり、押しつけたりしながら、引きずって来ました。女は、髪の毛も着物も散々に乱れており、裸足でありました。彼らは、引きずって来た女をイエス様の前に、動物のように投げ出しました。人たちが驚いて、凝視していました。

モーセの弟子たちである律法学者やパリサイ人たちは、引きずって来た女を指差しながら、イエス様に大声で言いました。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにすように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」

皆さん! この事件は最初から間違っています。姦淫の現場で捕らえたのなら、何故、男は連れて来ないで、女だけ引っ張ってきたのでしょうか? 不公平極まりないことではありませんか。男は捨て置き、女だけを引っ張って来て罪に定めようとするのです。しかし、おきてはおきてです。モーセの律法には、姦淫して捕らわれた女は石で打ち殺せ、とあります。律法を正面から反対しないことには、そうするしかありません。

イエス様が『いけない。』と言われたら、「あなたは律法を無視するんだから、メシヤではない。異端だ。」と言うでしょう。イエス様を「進退両難」に落としいれ、そして告発しようとの策略でありました。

その時、イエス様は身をかがめて、地面に指で何かを書かれました。取り囲んでいる人たちが見ていました。聖書には、何を書かれたとは記されていませんが、何を書かれたかを、私たちは推察することができます。彼等がモーセの弟子たちであり、モーセの律法を主張しますので、イエス様がモーセの「十戒」を指で書かれたことと思うのです。

ところが、モーセの弟子たちが益々意気揚揚となって、「それ見なさい。」「地面に書いた十戒通り執行しなさい。」「早く女を石で打ち殺しましょう。」と、手に手に石を持ち、棍棒を握って騒ぎました。女は、一段と死の恐怖に襲われて震えました。

イエス様が身を起こして言われました。『あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。』 そして、イエス様はもう一度身をかがめて、地面に何かを書かれました。取り囲んでいる人たちがそれを見ました。年長者から年少者に至るまで、彼等がそのあいだ犯した罪の数々がイエス様の指先で書かれていました。自分ひとりで隠しておいて、誰も知る人がいないと思っていた事柄が書かれていきました。

彼らは戦慄しました。もしも自分が石でこの女を打ったら、次にはイエスが石を取り上げて自分を打つに違いない。逃げよう。人たちが、一人一人その場から逃げて行きました。周囲には、捨てられた石と棒切れだけが散らばっており、恐怖に震え慄く女だけがそのままそこにいました。

イエス様が身を起こしながら、その女に言われました。『婦人よ。頭を上げなさい。周りを見なさい。あなたを罪に定める者はなかったのですか?』女が周囲を見まわしました。それまで恐ろしい剣幕で騒ぎ立てていた人たちが、みんな立ち去って誰もいません。石ころと棒切れだけが残っていました。イエス様が見下ろしておられる前で、女が涙を流しながら答えました。「主よ。誰もいません。」

そこで、イエス様は言われました。『わたしも、あなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。』 これは、イエス様が姦淫した女の罪を妥当化して上げたのではありません。それで、再び罪を犯してはならないと言われたのです。しかし、イエス様がこの女を救い出されたのは、イエス様が世を審くためではなく、世を救うために来られたからなのです。

どんなに悲惨な罪人であっても、主は救うために来られましたので、罪人を弁護して悔い改める機会を与えられます。それで、主は律法主義者を憎みます。律法主義者たちは、自分の罪は棚に上げておいて他人の罪だけを暴いて裁こうとする偽善者たちなのです。

今、もしも万一、イエス様が私たちの国会にお出でになられたら、どうなさるでしょうか? 与党・野党が互いに激烈に非難し合い、自分だけが正しいと主張しています。イエス様は間違いなく、こう言われたはずです。『あなたがたの中で罪のない者が、最初に石をなげなさい。』 そして、イエス様が指で地面に書かれたら、国会議事堂はがらんと空いてしまうに違いありません。与党も野党もみんな逃げてしまって、イエス様お一人だけが残っておられるでしょう。

事実、皆さん、罪を犯さない義人は何処にも、誰もいません。私たちがすべき事は、他人を罪に定める事ではなく、他人のために祈って上げる事です。他人が罪を犯しなら、自分は同じ罪を犯さないように警戒し、悔い改めなければなりません。他人が罪を犯したなら、何があっても祈って上げ、彼らを導いて悔い改めるようにして上げなければならないのです。罪に定めて、石で打ち殺そうとしてはなりません。

神様の前で、私たちが訴えるべき人は誰もいません。私たちはみな罪を犯したので、神様からの栄誉を受けることができないのです。私たちに必要なのは、お互いに激励し合って悔い改め、主のふところに入って行くことです。イエス様は、最初の罪人も、2番目の罪人も、3番目の罪人も、そして私たちすべての罪人に代わって十字架に上られ、私たちの罪をすべて担われて、身を裂き、血を流され、あらゆる苦しみと辱しめを受けられながら、私たちの罪を清算して下さいました。

イエス様が、私たちを「永遠のいのちのクラブ」に加入する事ができるようにして下さったのです。イエス様が、その代価をみんな支払って下さったのです。私たちの主は、悔い改める者にお恵みをほどこして下さいます。主は、人の自尊心を踏みにじることがなく、自ら悔い改めるように導いて下さり、罪に定めることをなさらず、死刑に処すべき罪人であっても赦し、救って下さって、神様の民にして上げようと願っておられるのです。

「ヨハネの福音書 3章16節〜18節」に、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。』と言われました。

イエス様は、罪人を愛し、救うために来られました。それで、罪人を厳しく叱らず、辱めることなく、罪人の自尊心を守って上げながら悔い改めさせます。イエス様は、どのような罪人でも最後まで罪に定めず、捨てずに、救って下さるのです。

人たちが、自分がどんなに罪深い人間であるかを悟れば悟る程、イエス様の赦しの高さと、深さと、広さを知るようになります。そして、イエス様を益々余計に熱く愛し、感謝するようになるのです。




お祈り

愛であられ、聖なる、天のお父様!

主が、罪人を救うために来られた事を悟らせて下さって、有り難うございます。主は、悔い改める人にはもっと大いに恵んで下さり、主を知らない人であっても優しく導いて下さって、悔い改めるようにして下さいます。この世の人たちが罪に定めて殺そうとしても、主がそれを遮って助けて下さり、主を信じて救われるようにして下さって有り難うございます。

父なる神様! 私たちを産んだ父母が私たちを捨てることはあっても、イエス様が私たちを捨てることはない、と聖書に言われました。罪と不義を犯し、醜悪極まりなく、捨てられて然るべき私たちを呼んで、悔い改めるまで待って下さり、救って下さった偉大な主イエス・キリストのお恵みに、心から感謝申し上げます。

既に、私たちはイエス様を信じて救われました。とても感謝します。私たちが罪を悔い改めるようにして下さった事を益々深く悟り、もっともっと感謝するようにして下さい。未だ、イエス様を知らない人たちを悔い改めさせて下さり、早く主を信じて救われるように助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!