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「隠された宝」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 4章16節〜18節」
4:16 ですから、私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
4:17 今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。
4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。




私は今日、皆さんと一緒に『隠された宝』という題目で、御言葉を分かち合おうと思います。

"アメリカ・ペンシルバニア州"のある牧場で起こった話です。その牧場の主人は、牧場の仕事には特に関心を傾けずに、なんとか石油を生産したいものだとばかり考えておりました。彼の甥がたまたま"カナダ"で、石油を発掘する仕事をしていました。それで牧場の主人はその甥と連絡し合い、遂には、自分が所有する牧場を安く売り払って、カナダに移って行ってしまいました。

ところが、牧場を買った新しい主人が来て見ると、牧場のあちこちで草が育たず、油の匂いがしました。又、牧場の真ん中を流れる小さな溝がありましたが、牛がそこの水を飲みません。その溝の流れに黒色の油の帯が浮くのでありました。不思議に思って、石油専門探査人に連絡して調べさせた結果、アメリカ東部最大の油田である事が判明しました。

牧場の元の主人は、油田の上に牧場が浮かんでいるのも知らずに、その牧場を安値で売り払って、石油を探してカナダに移って行く愚を犯したのです。安値でその牧場を買った新しい主人は、間もなく大金持ちになりました。

私はその話しを聞きながら、心の中が複雑になってきました。私たちクリスチャンは、神様から驚くべき「宝」を与えられているのです。私たちの中には隠された宝が溢れる程あるのですが、私たちはそうとも知らずに、この世の「見える宝」を探して東西南北を駆け回り、あげくのはてには疲れくたびれて挫折します。

私たちの中にある『隠された宝』が、何でしょうか? この世の人たちは見る事もできず、知りもしない宝を、イエス様を信じる皆さんの中に神様が隠して置かれました。




第一、信仰の宝

その第1番目が、「信仰の宝」です。信仰は、誰もが持っているのではありません。信仰は、イエス・キリストを救い主として受け入れて、神様に仕える時、神様が各々に信仰の量りに応じて分け与えて下さるのです。この信仰は、神様が与えられた力であり、私たちがこの信仰を通して人間が想像する事ができない大きな事を成就する事ができるのです。それでは、信仰を如何に活用すべきでしょうか?

信仰を活用するためには、先ず、神様は私たちに信仰を通して「良いもので報いて下さる」方であると言う事を信じなければなりません。神様が私たちを罰しようとする、と考える人は信仰を活用することができません。神様が「良いもので報いて上げようと望んでおられる」と言う事を知る時、私たちはその神様を信じ、拠り頼む事ができるのです。

「ヘブル人への手紙 11章 6節」に、『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と記されています。私たちを罰するとか、私たちに災いをもたらす神様ではないのです。「求める者には報いて下さる」良き神様である事を知ってあつく信じる時、肯定的信仰を持つようになります。そうして、その信仰を活用したら、神様のお喜びに与かるようになり、神様が私たちに「良いもので報いて下さる」のです。

「マルコの福音書 11章22節〜24節」の御言葉です。『イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。』

ご覧下さい。神様が与えて下さった信仰を活用したら、この山に向かって、「動いて、海にはいれ。」と言っても、その通りになると言うのです。これが正に、神様が私たちに与えて下さった信仰の宝なのです。

皆さん! 私たちがイエス・キリストの十字架を見つめる時、私たちは信仰を活用する事ができます。十字架に架けられて、身を裂き、血を流すイエス様を見つめる時、私たちは「赦され」「義とされた」事を信じる事ができるのです。その十字架を見つめる時、世俗と悪魔が追い出され、天の御国と聖霊が臨んだ事を信じる事ができるのです。私たちは、その十字架のイエス・キリストを通して疾病がすべて癒され、霊肉ともに健康といのちを得た事を信じる事ができるのです。

私たちはその十字架を見つめる時、呪いから解放され、貧乏から解き放たれて、アブラハムへの祝福と、イエス・キリストのお恵みをいただく信仰を行使する事ができます。私たちはその十字架を通して、キリストと共に葬られ、共によみがえって、天の市民権を持った事実を信じる事ができます。

ですから私たちは、私たちの主イエス・キリストを通して、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても溢れるほど得る信仰を活用する事ができる理由と条件を持っているのです。イエス様を信じない人は、このような信仰を活用する事もできず、知りもせず、資格もありません。皆さんが、このような信仰の宝を持っておられる、と言う事を悟られますよう、主の御名によって祈願します。




第二、希望の宝

第2番目に、私たちの胸の中には隠された「希望の宝」があります。皆さん! 希望はどのような苦しみにも打ち勝つ事ができます。私たちの教会のある「執事」さまが、私に証しされた事があります。

彼女は、19歳の時、腹の中に「忘れ形見」を孕んだまま寡婦(やもめ)になりました。「6・25朝鮮戦争」の時に旦那さんが戦死したのです。彼女は、息子を生みました。多くの人たちが、再婚して楽に暮しなさい、と言ってくれましたが、彼女は息子を育てあげたら、「将来、その甲斐があるはずだ」との希望を抱いて、手当たり次第に働きながら、息子を育てました。下女働きも、行商も…、あらゆる試練を乗り越えました。そうして息子を育てました。結婚もさせました。そして、その息子夫婦と一緒に、私たちの教会に出席するようになりました。

その「執事」さまが言われました。「忘れ形見の息子がなかったら、その間の試練・苦しみには会わずに暮す事ができたと思います。息子一人に一生をかけて、その子の成長に希望をかけて暮しましたが、イエス様を信じる今になってみたら、私が間違った所に希望をかけて来たと思います。当初からイエス様を信じながら暮したら良かったのに…。」

私たちがイエス・キリストを信じ、神様に希望をかけて暮したら、私たちにどのような苦難が押し寄せてきても、勝ち抜く力が生じるのです。その希望が、私たちに人生を生き抜く勇気と力を与えてくれるのです。

「ペテロの手紙 第一 1章 3節〜5節」を見ますと、『私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみの故に、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。』と記録されています。

神様は、イエス・キリストにあって私たちを新しく生まれるようになさり、朽ちる事も汚れる事もなく、消えてなくなる事もない天の御国を賜物として得る事ができる希望を私たちに与えられたと言うのです。ですから、私たちがこの世を暮しながらいくら労苦、苦難、患難が近づいて来るとしても、朽ちる事も汚れる事も消える事もなく、涙も心配も嘆きも別れる事も患う事もない、永遠の暮しを約束して下さったのですから、そこに希望をかける事ができるのです。

それで、世の中がいくら暗く闇夜のようであっても、私たちの胸の中には明るい希望の光が輝いているのです。この希望を、主を信じない人は持っておりません。クリスチャンである私たちの胸の中にこの永遠なる希望があるので、この世のすべての苦難を私たちは克服して行く事ができるのです。

それだけではありません。この世を暮しながらも、私たちは希望を持つ事ができます。「ヨハネの手紙 第三 2節」に、『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』と言われました。この世を暮しながら、いくら環境が難しく、苦しくても、私たちが主に立派に仕え、神の国とその義とを先ず第一に求めたら、神様がすべてのものを与えられる、と言う希望を持つ事ができるのです。

このような希望がどんなに貴重なものであるかは、言葉では言い尽くす事ができません。このような希望は、主を信じない人たちは決して持つ事ができないのです。私たちは、この希望の宝をいつも取り出して使用しなければなりません。




第三、愛の宝

第3番目に、私たちの胸の中に隠されている宝は「愛の宝」です。愛がこの世の中のどこにあるか、と聞く人もいるでしょう。こんなにも冷酷で非情な世の中なのに、夢のような話しは止めなさい、と言うかも知れません。しかし、「ヨハネの福音書 3章16節」は、『神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』と記しています。

神様が、私たちをこのように愛されました。どれ程愛されたのでしょうか?愛は証明されなければなりません。そのひとり子を私たちに与えられて、十字架に釘付けにし、身を裂き、血を流させるまでに、私たちを愛して下さいました。それは「究極の愛」であり、既に「証明された愛」であり、それ以上の愛はどこにもありません。

神様は、既に私たちを愛されました。神様は、ひとり子を私たちの代わりに十字架の上で死なせる事によって、キリストを通して私たちに「赦し」と「義」と「永遠のいのち」を既に与えて下さったのです。私たちは、イエス・キリストにあって神様から溢れる愛をいただいている、と言う事実を記憶して、益々神様に感謝しなければなりません。

愛は、自分が先に愛された後、その愛に反応するようになるのです。神様が皆さんをどんなに愛しておられるかを知ったら、皆さんも神様をあつく愛するようになり、その愛を通して皆さんは自分を愛するようになります。そして自分を愛する人は隣人を愛するようになります。神様が自分を愛しておられる事を悟るようになる時、自分が自分を愛するようになり、隣人をも愛する事ができるようになるのです。

こんにち、この世には喜びがないと言います。何故でしょうか?愛がないから喜びがないのです。愛が、いつも喜びの源泉になるのです。神様の愛が自分の心の中に溢れるようになり、自分が自分を愛するようになり、自分が隣人を愛するようになれば、その結果、この世の中には喜びが溢れるようになるのです。

私たちは、愛の源泉を持っています。世の人たちは、愛が乾き切っている、愛を発見する事ができない、と言いますが、私たちには太陽よりももっと強烈な神様の愛が、キリスト・イエスにあって注がれているのです。誰が、神様の愛から私たちを引き離す事ができるでしょうか? 患難、苦しみ、迫害ですか。飢え、裸、危険ですか。剣ですか。私たちを愛する方の愛によって、私たちはこのすべてに充分に勝つ事ができるのです。

この愛の宝が、私たちの中にあるのです。これを、私たちは掘り出さなければなりません。主よ、主の愛を悟るようにして下さい、と私たちは祈らなければならないのです。主の愛を悟り、愛されている事実を知るようになる時、皆さんの人生は幸福になり、喜びが溢れるようになるのです。




第四、義の宝

第4番目に、光がなければ暗くなり、塩がなければ味がなく、腐っていきます。人生もこれと同じです。私たちの人生にも、「義」があってこそ明るい光が輝き、「義」がいつも美味しく、腐らないようにします。「義」がある時に、地位も名誉もお金も快楽も祝福になるのです。「箴言 16章 8節」は、『正義によって得たわずかなものは、不正によって得た多くの収穫にまさる。』と記しています。

最近の我が国の政界をご覧下さい。義を知らず、不正腐敗して得た地位や名誉やお金や快楽が、どんなに悲惨な結果をもたらしたでしょうか。又、最近でかでかと報道されている「大田の弁護士・不正受任事件」も代表的例です。判事や検事と結託してたくさんの事件弁護を受任し、莫大なお金を儲けました。当の弁護士は知恵があり、聡明で、有能な弁護士でありました。しかし、彼の知恵、聡明、能力には「義」が欠乏していました。

「義」がなかったのです。光と塩がなかったのです。そこには暗闇と腐敗だけがありました。その結果、彼が稼いだ莫大なお金が今は何ですか? 彼の人生を滅茶苦茶にし、数多い判事や検事たちを破滅に追い込んでしまいました。

皆さん! この世の如何なる地位も、義がなければその地位は不正・腐敗によって破綻を招きます。名誉もお金も、義なしに得たら祝福にならず、破滅と災いをもたらすようになるのです。低い地位、又は貧しくても、義があったら、それがまことの幸福をもたらすようになるのです。義を失った快楽が、淫乱・放蕩です。肉の欲と世俗に酔って暮したら破滅してしまうのです。

義がある時だけ、地位、名誉、お金、快楽が祝福になります。イエス様が義であり、義の力です。私たちが主イエス・キリストを救い主として受け入れたら、主は、私たちを義として下さり、義の生活をする事ができる力を私たちの中に注ぎ入れて下さるのです。「コリント人への手紙 第一 1章30節」に、『しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。』と記録されています。

私たちには、神様が下さった義があります。世の人たちには義も、義の力もありません。しかし私たちには、イエス・キリストが私たちの義となって下さいました。キリストに拠り頼んで下さい。すべての不義の誘惑を退けて、正しく暮す事ができる力が私たちの中に入って来ているのです。この義が、宝なのです。義がある時、心に平安があり、家庭、社会、国家に平和があるのです。

「イザヤ書 32章17節」に、『義は平和をつくり出し、義はとこしえの平穏と信頼をもたらす。』と言われています。義がある時、平和があり、安全もあります。義がなければ平和もなく、安全もありません。苦しみだけがつきまとうようになるのです。




第五、平安の宝

第5番目に、私たちの胸の中に隠されている宝は、主が入れて下さった「平安の宝」です。幸福の基本は「心の平安」にあります。いくら、この世の富貴、栄華、権力があるとしても、心に不安と恐怖と焦燥があったら幸福ではありません。両足を伸ばして安らかに寝床に入り、平安な朝を迎えるとすれば、その人は幸福な人です。その日暮しの労働者であっても、心に平安をもって暮らしたらその人は幸福な人です。

「ヨハネの福音書 14章27節」に、『わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません。』と言われました。私たちが、イエス様を切に探し求めたら、イエス様は私たちの心の中に平安という宝を与えて下さるのです。

私たちが、キリストにあって溢れる平安をもって暮すようになれば、私たちはまことに幸福な人生を暮すことになります。イエス・キリストの尊い血潮によって神様との間の隔ての壁が崩れ去り、自分が自分を赦し受容することによって自分の中に平和を持つようになり、イエス・キリストの血潮によって隣人を赦し、和解して平和を持つようになり、この平和が溢れるようになったら、私たちの暮しのなかに神様の栄光がみなぎるようになるのです。

「コロサイ人への手紙 3章13節〜15節」は、『互いに忍び合い、誰かがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。その為にこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。』と教えています。

キリストの平和が、私たちの心を占領しなければなりません。キリストの平和が、私たちの家庭、社会、国家を占領してこそ、繁栄もあり、祝福も訪れるようになるのです。平和がなく、互いに噛み合い、争い、罪を暴き合い、そうして混乱が積み重なって行けば、何の祝福も訪れはしません。

私たちの主イエス・キリストにあって、神様は平和という驚くべきお恵みを私たちに与えて下さるのです。しかし、私たちがいくら平和を望んでも、その平和を守る位の力がなかったら、その平和はすぐに壊れます。

ある船員が海辺に立っておりました。突然、海の鳥が1羽飛んで来てその船員のふところの中に飛び込みました。鳥が人のふところに飛び込むと言う事は滅多にないことです。船員が驚いているところへ、鳥のあとを追って来た鷹が船員を見るや逃げてしまいました。その海の鳥は、人のふところの中に入ったらいくら鷹が来ても自分に害を加えることはできないと知っていたので、鷹より強い人のふところに入ったのです。

平和は、いつ、どこにもあるものではありません。私たちが神様のふところの中にいる時、平和があるのです。天と地とその中のすべてのものを造られ、どのような敵の勢力も退ける事ができる神様のふところの中にいる時、私たちは限りない平和を享受するようになるのです。「詩篇 29篇11節」は、『主は、ご自身の民に力をお与えになる。主は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。』と記しています。




第六、喜びの宝

第6番目に、神様が私たちに与えて下さった宝は「喜びの宝」です。信仰の基本は、喜びにあります。「ヨハネの福音書 15章11節」に、『わたしがこれらの事をあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされる為です。』と言われました。神様が、ご自分の喜びを私たちの中に満たして下さると言われたのです。

この世から得る喜びは、束の間のものです。お金で喜ぶ人の喜びは、いくらも経たずに消え去ります。権力で喜ぶ人は、いつの間にか権力も喜びも去った事を悟ります。名誉も得たらその場限りのものであり、喜びも瞬く間になくなります。

私たちの心の中に、恒久的に湧き出て溢れる喜びは神様からの喜びでなければなりません。主は、『わたしの喜びであなたがたを満たす!』と言われました。この宝を私たちは探し出さなければなりません。「主よ! 喜びを与えて下さったのですから、私たちがその喜びを享受するようにして下さい。」と祈らなければなりません。

神様は、喜びであり、楽しみです。「詩篇 16篇11節」は、『あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。』と記しています。主はまさに、主自体が喜びです。「箴言 17章22節」も、『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。』と記しています。私たちの心の中に喜びが満ち溢れて陽気になったら、これが「製薬工場」を動かして、私たちのすべての病気を直してしまうのです。

この頃テレビを見ますと、健康に関する番組が凄くたくさん報道されていて、色々な治療法や数々の薬が紹介されていますが、皆さん! もっとも素晴らしい薬は、神様が提示なさる心の喜びと楽しみです。私たちの心に喜びと楽しみがあれば、私たちの全身に神様が隠して置かれた「製薬工場」から素晴らしい薬が開発されて出て来て、私たちは癒され、健康になるのです。

ですから皆さん! 私たちが喜びの宝を探し出して、喜びの中で暮す事が健康で、長生きする秘訣です。天の御国に何故、人たちが行きたがるのでしょうか? そこは、環境の美しさよりも、喜びの場であるからです。天の御国に行けば、そこは喜びが満ち溢れます。天の御国がいくら黄金宝石の家、12の真珠の門があるところであると言っても、そこに喜びがなかったら何の有益があるでしょうか。人の幸福は、環境から来るものではありません。心の中に喜びが溢れたら、みすぼらしく狭い仮小屋住いであっても、天の御国になるのです。

「イザヤ書 65章17節〜19節」は、『見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。』と記録しています。

天の御国はこのように、喜びの場です。神様も喜びであり、民も喜びであり、環境も喜びであり、永遠の喜びが溢れていますので、天の御国となるのです。喜びがない天の御国は、天の御国ではありません。

このように、皆さん! 私たちの中には、世の人たちが知らない「隠された宝」があります。私たちがキリストを信じながらも、神様が聖霊さまを通して私たちの心に与えて下さった色々な宝を忘れて暮す時が多いです。私たちはこのような宝がある事を知って、祈りと願いで心を開き、この宝を所有しなければなりません。そして価値があり、美しい人生を生きて行かなければならないのです。

"アメリカ・ペンシルバニア州"のある牧場の主人のように、自分の牧場が石油の上に浮いている事も知らずに、その牧場を売り払って、石油を探してカナダに移って行ったような愚を犯してはいけません。

私たちの中には、神様が入れて下さった貴重な「隠された宝」があります。私たちがこの宝を、イエス様の御名によって切に探し求めたら、神様は、信仰と希望と愛、義と平安と喜びというこの宝をすべて探し出して、私たちが暮しの中で使用する事ができるようにして下さいます。そして富裕で、幸福で、価値ある立派な人生を暮すようにして下さるのです。




お祈り

愛であられ、聖く、全知全能であられる、父なる神様! 私たちは、至極高価な宝を持っておりながらも、それを知らずに暮す時が多いです。その宝を私たちが探し出したら、どんなに私たちの暮しがもっと豊かで、輝かしく、成功した暮らしになる事でしょう。イエス・キリストにあって神様が私たちの中に隠して置かれた宝を、私たちがすべて探し出して、それを所有して暮す私たちとなれるように、助けて下さい。

私たちが皆、信仰と希望と愛を持って暮すように助けて下さい。キリストが与えて下さった平安の宝を探し出して、喜びの中で暮すようにして下さい。これは何を持ってしてもできません。ただ、聖霊さまによらなければできません。

神様が、ご自分を愛する者のために備えられたすべてのものは、私たちが目で見たこともなく、耳で聞いたこともなく、心に思い浮かべたこともないものである、しかし、聖霊さまがこれを私たちに見せて下さると言われました。

聖霊さまがこの時間、御言葉を通して私たちに見せて下さった「隠された宝」を、神様が私たちの為に備えて置かれた宝を、私たちがすべてみな探し出して所有することができるように助けて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!