教会のお説教神様の知恵袋教会音楽道しるべ教会リンク集






「古いものと新しいもの」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 5章16節〜17節」
5:16 ですから、私たちは今後、人間的な標準で人を知ろうとはしません。かつては人間的な標準でキリストを知っていたとしても、今はもうそのような知り方はしません。
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。




私は今日、皆さんと一緒に、『古いものと新しいもの』という題目でお恵みを分かち合おうと思います。

私たちは皆、古い事より、新しい事にもっと大きい期待を持ちます。新しいものは新しい期待だけでなく、新しい夢と新しい希望を与えるからです。聖書には、私たちがイエス様のうちにあるなら、新しく造られたものとなって、古いものは過ぎ去りすべてが新しくなる、と記録しています。

アダムが堕落して神様から離れ、この世に出て来たその日から、人間は罪と不義のしもべであり、悪魔と世俗の奴隷、心配、懸念、不安、恐怖、絶望、悲しみの虜(とりこ)になりました。色々な精神的、肉体的疾病の奴隷であり,飢えと貧乏と呪いのしもべ、最後には死亡と言う絶望の奴隷になって暮しております。

ところが、聖書には、イエス様が来られて、このような私たちに代わって十字架で「いけにえ」となられ、私たち「古い人」をすべて清算なさり、復活を通して私たちを「新しく造られた者」にして下さった、と記録しています。聖書は、断固として『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と叫んでいます。

ですから、私たちはもう、聖書が言われる通りに「新しく造られた者」になって生きて行かなければなりません。「新しい人」になって暮さなければならないのです。




第一、私たちの考えが新しくならなければなりません。

第1に、私たちが新しい人になる為には、私たちの考えが新しくならなければならないのです。"パスカル"は、「人間は考える葦」と言いました。人間は弱いですけれども、その「考え」は世界と環境を変化させる偉大な力を持っています。私たちは、「神様が、新しく造って下さった」と言う新しい考えを持つようになったら、運命と環境を新しく作り出すようになるのです。

それでは、どのような「新しい考え」を持たなければならないでしょうか?

いつも、「罪人」であると言う考えから、「赦された義人であり、義の力を戴いた人である」と言う考えに変わらなければなりません。

悪魔は、「あなたは罪人だ。どうにもならない無能力な人間だ。罪を犯さずにはいられない…。」と言う考えを、私たちの心の中に注ぎ込みます。それで世の人たちは、皆、そのように考えています。

しかし、私たち「クリスチャン」は、キリストの十字架を通して変化されなければなりません。「ローマ人への手紙 3章23節〜24節」に、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。』と言われました。

私たちは、「心は燃えていても肉体は弱いので、いつも悪魔と世俗に引き回されている。そうなるしかない…。」と言う考えを捨てなければなりません。間違った考えです。考えが、新しくならなければならないのです。「イエス様により、悪魔と世俗は破滅され追い出されて、私たちの中には天の御国と聖霊が臨んでおられる。聖霊さまが私たちの弱さを助けてくださるのだから、私たちは神様の前で力ある暮しを営むことができる。」と言う考えを持たなければならないのです。

「ヨハネの手紙 第一 5章18節」に、『神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守っていてくださるので、悪い者は彼に触れることができないのです。』と記されています。私たちが自らを守ったら、悪い者は私たちに触れることもできないのです。

私たちは又、「人生は悲しく、絶望的だ。」と言う考えの代わりに、「神様が共にいて下さるから、人生はいつも楽しく、肯定的だ。」という考えを持たなければなりません。悲しく絶望的なことはキリストによって、すべて清算されたのです。主イエス・キリストにあって、喜びと肯定的な神様のお恵みが私たちに与えられたと言う事実を知って、私たちは、心を喜びと肯定的な考えで満たさなければなりません。

「イザヤ書 53章 4節」に、『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった…。』と言われました。「ピリピ人への手紙 4章13節」には、『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。』と記されています。私たちは、心を喜びと肯定的考えで満たして置かなければなりません。そうしてこそ、私たちは新しく造られた者として生きることができるのです。

人々は、患いや疾病に勝つことができない、と言う考えを持っています。間違った考えです。イエス様のお恵みにより癒され、健康である、と言う考えで満たさなければなりません。目には何のしるしも見えず、耳には何の音も聞こえず、手には触れるものが何もなくても、考えだけは変わらなければならないのです。私はイエス様のいのちで癒され、健康な暮しをしている、と言う考えが心の中にいっぱい満たされていなければなりません。

「マタイの福音書 8章16節〜17節」の御言葉です。『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスは御言葉をもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』

私たちのわずらいを身に引き受け、病を背負って行かれたイエス様が一緒にいて下さるのですから、主はわずらいを征服なさり、病をなおして、私たちに健康といのちを満ち溢れるようにして下さるのだ、と言う考えを心にいっぱい満たして置かなければなりません。そうしてこそ、新しく造られた者になるのです。

「私たちは貧困だ。能力もない。助けてくれる人もいない…。」と、否定的な考えを持っていては、誰も助けてくれることができません。しかし、私たちが心の中に「イエス様のお恵みによって、アブラハムへの祝福が臨んでいる。イエス・キリストのお恵みによって祝福された人なのだ。だから私は、不足することがない…。」と、このように考えが変わる時、「新しく造られた者」への祝福が臨むのです。

「ガラテヤ人への手紙 3章13節〜14節」の御言葉を、私たちはいつも心に記憶していなければなりません。『キリストは、私たちの為に呪われたものとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべて呪われたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶ為であり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受ける為なのです。』このように、考えが祝福と富裕意識で満たされなければなりません。

世の人たちは、死と無の絶望的考えを持っております。「人生は死んだら、それでお終いだ。」「墓に入ったら、すべては終わるんだ…。」と、虚脱と挫折と絶望を抱いて暮しております。しかしクリスチャンは、それではいけません。古いものは過ぎ去って、すべてが新しくなったのです。新しく造られた者は、天の御国の栄光と永遠のいのちの事で心が満たされていなければなりません。

『死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。お前の棘はどこにあるのか。』死の勝利と棘は、キリストによって既に過ぎ去ってしまったのです。私たちはイエス・キリストにあって復活と永遠のいのちと天の御国を得た人たちなのです。

「ヨハネの黙示録 21章 1節〜5節」に、『また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」』と記されています。

先ず、考えが変わってこそ、神様のみわざが現われます。『私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて、豊かに施すことのできる神様』と言われました。ですから、『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 私たちが「新しく造られた者」になるためには、キリストの十字架を通して私たちの考えが完全に変化されなければなりません。

今日、只今、十字架を見上げ、その贖いのお恵みを通して、皆さんの考えが完全に変化され、古いものは過ぎ去って、新しく造られた者になられますよう、主の御名によってお祈り致します!




第二、自分に対するイメージ・夢が新しくならなければなりません。

2番目に、自分に対するイメージ、即ち、夢が新しくならなければなりません。人たちは皆、自分の胸の中に「自画像」を持っております。否定的な「自画像」を持っていたら、劣等意識に捕らわれて暮し、生意気な「自画像」を持っていたら高慢に暮し、謙虚な「自画像」を持っていたら、温和で謙遜に暮すようになります。

私たちが新しく造られた者になる為には、自画像が新しくならなければなりません。私たちは心の中に、「義と認められた自画像」を描き入れなければならないのです。「私は罪人だ。私はできない。」と言った自画像は一切破り捨てて、「義となった自画像」を持たなければならなりません。たとえ、世の中は罪悪で満ち溢れていても、私には正しい生活をして行く力が充分にある、と言う「自画像」を見つめながら暮さなければなりません。

「エペソ人への手紙 4章22節〜24節」に、『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、又あなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記されています。

真理に基づく義と聖に与かった「新しい自画像」を持たなければなりません。このような自画像を持ち、このような姿を夢見なければならないのです。このような自分の姿を見つめてこそ、皆さんは新しく造られた者として暮して行く事ができるのです。

私たちは、天国の民となった自画像を心の中に描かなければなりません。私たちはこの世の民ではありません。神様が、この世がある前から私たちを選ばれて、「王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」にして下さった、その天国の民の自画像を持っていなければなりません。

「コロサイ人への手紙 1章13節〜14節」に、『神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移して下さいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。』と言われました。私たちは、神様の御子の国に入って来た天国の民であり、神様の御子と共に暮す人たちであり、私がまさに「ミニ天国」なのだ…、と言う自画像を持たなければなりません。このような誇りを持って暮さなければなりません。

また私たちは、自分の心を覗き見るとき、主の血潮により喜びが溢れ、希望が溢れ、愛が溢れ、主がそのように恵んで下さったことに対する感謝が溢れる「自画像」を描き込んで暮さなければなりません。「テサロニケ人への手紙 第一 5章16節〜18節」に、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。』と記されています。

悲しみと挫折と絶望の自画像を持っている人は、絶望に向かって歩んで行きます。喜びと希望の自画像を持っている人は、喜びと希望が溢れる人生を歩むように、神様が導いて下さいます。

そして私たちは、健康で生気溢れる自画像を描かなければなりません。実際にはそうでなくても、「私は健康だ。生気が溢れ、活力が溢れている…。」という自画像を持たなければならないのです。「見渡す法則」により、自分が何を見渡そうと、その通りに変化してしまうのです。

ですから、病気にかかり、生気がなく、無能力な自画像を描けば、その人は、その道に歩んで行きます。健康で、生気が溢れ、活気に満ちた自画像を描く事は、強壮剤を飲むよりももっと素晴らしい効果を得ます。

「詩篇 103篇 3節〜5節」の御言葉をご覧下さい。『主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。』 これは、いかに驚くべき自画像でしょうか。私たちは、キリスト・イエスにあってこのような自画像を抱いて暮さなければなりません。

そして、神様が私たちの牧者であられますから、何事にも不足する事がないと言う自画像を持って暮らさなければなりません。いつも「足りない。貧しい。あれもない。これもない。ひもじい…。」と、このような自画像を描いていては、これは完全に呪われた自画像です。『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。』と歌ったダビデの自画像を、私たちの自画像にしなければなりません。

ダビデは、田舎で暮す「小さい牧童」でありました。しかし、彼の心の中の自画像は、「神様が私と共に居てくださる! 私は乏しいことがない…!」というものでありました。それでダビデは、ゴリヤテと向かい合っても、少しも萎縮することがありませんでした。彼の自画像が、ゴリヤテよりもっと大きく、偉大であったからです。

ダビデは、体は小さい牧童に過ぎませんでしたが、彼の心の自画像は偉大な将軍であり、神の人でありました。それで彼は、巨人将軍ゴリヤテを打ち倒すことができたのです。皆さんは、心の中で皆さん自身をどのように見ておられますか? それが、皆さんのこの世での人生を左右します。

ですから、「詩篇 23篇 1節〜6節」の御言葉を、忘れないようにしましょう。『主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いで下さいます。私の杯は、溢れています。まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。』

それから、第3の天の栄光に参与する自画像を持たなければなりません。「ペテロの手紙 第二 3章12節〜13節」の御言葉です。『そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。』

皆さんは、古い天と古い地を見詰めずに、私たちの住いは、近づいて来る新しい天と新しい地であることを、いつも見詰めながら暮さなければなりません。新しい天と新しい地の民としての自画像を描きながら暮さなければならないのです。これが「見渡す法則」です。

神様はアブラハムに、『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。』と仰せられました。見渡すそれを、神様は与えて下さいます。見渡さない人は、何も得ることができません。

『古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と言われました。新しくなったご自分を、はっきりとご覧になりながら暮す皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します!




第三、信仰と言葉が新しくならなければなりません。

3番目に、信仰と言葉が新しくならなければなりません。私たちは、新しい信仰を持ち、新しい言葉を使わなければなりません。聖書に、『死と生は舌に支配される。』と言われました。

信仰と信仰告白は、手の「表と裏」も同様です。私たちは、正しい信仰を持ち、新しい言葉を使わなければなりません。神様は、イエス様を信じる人たちに「各々の量りに応じて」信仰を分け与えてくださいました。信仰がない人はひとりもありません。

「信じる、信じない」は選択事項です。主が、『恐れずに、ただ信じなさい。』と言われたのは、恐れを選ばずに、信仰を選びなさい、と言うことです。「私は信じる。誰が何と言おうと、環境がどうであろうと、運命がどうなろうと、私は信じる!」このように信仰を選んだら、皆さんは「信仰の人」になるのです。

「ローマ人への手紙 8章 1節〜2節」の御言葉です。『こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。』

「罪と死の原理から、私は解放されたのだ。罪はもう、私を支配することができない。死は、私を支配することができない…。」と信じて下さい。口で告白して下さい。そうしたら、「新しく造られた者」としての能力が躍動します。

皆さん! 聖書に、『「そら、ここにある。」とか、「あそこにある。」とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。』と言われました。信じて下さい。神の御国と聖霊さまが、皆さんの中に臨んでおられる事を信じ、そのように話して下さい。

皆さん! 私に従って朗誦して下さい。「今、神の御国は、私の中にあります。私の中に臨んでおります!」 神の御国が皆さんの中に臨んでいることを、信じなければなりません。世俗は皆さんの中から追い出され、悪魔も皆さんの中から追い出されて、神の御国が皆さんの中に入って来ており、聖霊さまが皆さんの中に臨んでおられる事を信じ、口で認めなければなりません。

「ガラテヤ人への手紙 4章 6節〜7節」に言われました。『そして、あなたがたは子である故に、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わして下さいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。』 私たちは、奴隷ではありません。神様の子です。これを信じ、これを口で認めなければなりません。

私は神様の子であり、聖霊さまが私の中に入って来て居られる、と言う事をいつも口で認める皆さんとなりますよう、主の御名によって祝福します!

また、信仰、希望、愛、喜びが、私たちの心にある事を信じ、口で告白しなければなりません。「ローマ人への手紙 15章13節」に、『どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みに溢れさせて下さいますように。』と言われました。ですから、既に希望の神様が、喜びと平和を信仰にあって私たちに溢れさせ、聖霊さまを遣わされて希望が溢れるようにして下さいました。

これを認めなければならないのです。認めたら、皆さんのものになります。これを否認したら、それは皆、消え去ってしまいます。

ですから、私たち「新しく造られた者」は、信仰の人、希望の人、愛の人、喜びの人になっています。これが私たちの中にあるのです。この事を私たちが信じ、告白したら、信仰、希望、愛,喜びが、私たちの中に泉のように溢れ、流れ出るのです。

皆さんは、健康であることと、癒されたこととを信じなければなりません。信じないとしたら、神様のお恵みをいただくことはできません。『信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。』と、聖書に言われました。

主は、いつも、『あなたの信仰が、あなたを救いました。安心して行きなさい。』『信仰の薄い人よ。何故疑うのか。』『恐れないで、ただ信じなさい。』と言われました。ですから私たちは、主によって健康である、と信じなければなりません。主によって毎日毎時、癒されている、と言う事を信じなければなりません。

疑ってはいけません。「天地が滅んでも変わる事がない御言葉」の上に堅固に立たなければなりません。その御言葉が皆さんに、『彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』と言われました。皆さんは、主にあって健康を得た人たちなのです。健康である事を信じ、癒された事を信じて、唇を通してそれを告白して下さい。

「ペテロの手紙 第一 2章24節」にも、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』と記されています。

ですから皆さん、キリストによって健康であることを信じ、癒されたことを信じて下さい。そしてそれを口で告白してこそ、「新しく造られた者」らしく、力ある暮しをする事ができるのです。

そして、イエス様にあって呪いから解放され、祝福されたことを信じ、それを告白しなければなりません。世の人たちは、それを信じません。私は毎朝起き上がると、先ずこう告白します。「私は、イエス・キリストにあって祝福された者です。私は、それを信じます…。」と、口に出して認めます。

「コリント人への手紙 第二 9章 8節」に、『神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざに溢れる者とするために、あらゆる恵みを溢れるばかり与える事のできる方です。』と言われました。神様の御言葉です。「趙繩(チョウ・ヨンギ)」が言った事ではありません。「イエス様にあって私は祝福され、いつも良い事をするように、神様から召されたのだ。」と言う事実を信じ、口で認めなければなりません。否定的であったら、世俗的な表現ですけど、「運が悪く、何もできない」のです。

私たちは、神様の御力に拠り頼んで暮さなければなりません。神様の御力は、目に見えるものではなく、目には見えない、私たちの背後にあります。目に見えるものは暫くしてから消え去りますが、目に見えないものは永遠に存在します。神様の永遠なる御力は、私たちの信仰と唇の告白を通して現れるのです。

また私たちは、復活と永遠のいのちを信じ、それを告白しなければなりません。「ヨハネの福音書 14章 1節〜2節」に、『あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたの為に、わたしは場所を備えに行くのです。』と言われました。

ここに、主は言われました。「神様も信じ、わたしも信じなさい。心を騒がしてはなりません。天の御国には住居がいくらでもあります。天の御国には、家のない人がありません。住居がいくらでもあるのです。信じなさい。信じなさい…!」 神様は、私たちの信仰を通してみわざを働かして下さいます。信仰を選択しなければなりません。そして、それを告白しなければなりません。

皆さん! 数多いクリスチャンたちが、宗教的クリスチャンです。まことに「新しく造られた者」としてのクリスチャン生活をしておりません。何故? 考えが新しくなっていないからです。考えが新しくなり、夢と自画像が新しくなったら、新しい世界の中で暮して行く事ができるのです。イエス様は言われました。『新しいぶとう酒は新しい皮袋に入れなさい。』

イエス様の仰せ通りに、神の国の新しいぶとう酒は新しい皮袋に入れなければなりません。考えが新しくなり、夢が新しくなり、信仰と言葉が新しくなった、新しい皮袋を持っている人の中に、主は、神の国の新しいぶとう酒を溢れるまでに注いで下さるのです。




お祈り

全知全能であられ、聖く、そして愛であられる、父なる神様! こんにち、数多い聖徒さんたちが「古い皮袋」に新しいぶとう酒を満たそうとするので、袋が裂けてしまい、それで失敗し、困難な目に会っています。「福音は新しいぶとう酒」であるのに、これを「古い皮袋」に入れようとするので、失敗します。今日、すべての聖徒さんたちが、キリストの十字架を通して「新しい皮袋」となるように助けて下さい。

主が既に、聖徒さんたちを「新しく造られた者」にして下さいました。この事実を、すべての聖徒さんたちが受け入れるように助けて下さい。『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』 過ぎ去った古いものに取り縋らないように、助けて下さい。今日から、「新しく造られた者」らしく考え、「新しく造られた者」らしく観察し、「新しく造られた者」らしく信じ、そして「新しく造られた者」らしく話すように助けて下さい。

イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!