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「死の陰の谷」
 






■聖書箇所

「詩篇 23篇 4節」
23: 4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。




今日、私は皆さんと一緒に、「死の陰の谷」と言う題目で、御言葉を分かち合おうと思います。

「死の陰の谷」と言う言葉は、別に気持ちの良い言葉ではありません。「死」とは、真っ暗く、淋しく、侘びしい谷の体験であるからです。「死」とは、必ず肉体的「死」だけがあるのではありません。「肉体」でなく、内的「心」に経験する「死」もあります。死が恐いのは、それが自分の存在の終末を意味するからです。

肉体的な自分の終末とか、精神的な自分の終末はみな、苦しく怖い体験です。ところが神様は、私たちを祝福して下さる前に、私たちに必ず大・小の「死」を体験するようになさいます。「死の陰の谷」を通るようになさるのです。




第一、「死の陰の谷」を通過した人たち

聖書を見ますと、「死の陰の谷」を通った人たちの話しが数多く記録されています。私たちの信仰の先祖と言われるアブラハムは、75才の時にカルデヤのウルから、神様がお告げになった通りに、カナンの地に向かって出かけましたが、カナンの地には「死の陰の谷」が待っていました。

アブラハムは、大きな期待を持って、妻のサライと甥のロトと、彼に加えられた人々を伴い、意気揚揚としてカナンの地に入りましたが、そこで待っていたのは凄惨な飢饉でありました。太陽は照りつけ、山野はすべてかわききり、水は一滴もありませんでした。家畜の群れはみな死に、一緒に来た人々も散り散りに去ってしまい、残ったのは自分と妻と甥だけでありました。死の陰の谷を通るようになったのです。

そのうえに、アブラハムは飢饉と旱魃を避けてエジプトに下って行きましたが、そこで、自分の妻まで奪われて、淋しく辛い生活をしなければならない凄惨な経験をしました。これが彼には、「死の陰の谷」の体験でありました。このような、精神的「死」の峠を越える体験をしたアブラハムを、神様が私たちの信仰の先祖にして下さったのです。

聖書を見ますと、『そこで、ひとりの、しかも死んだも同様のアブラハムから、天の星のように、また海ベの数えきれない砂のように数多い子孫が生まれたのです。』(ヘブル人への手紙 11章12節)と記録しています。ここに、「死んだも同様の者」と言われました。それは「死の陰の谷」を通って行く人を言うのです。

イサクもまた、同様です。イサクは、アブラハムが100才の時に得た息子です。イサクが青年期に入りかけた時、神様が、『あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。』(創世記 22章 2節)と仰せられました。これこそ「死の陰の谷」です。アブラハムは三日を歩いてモリヤ山に着き、そこに祭壇を築いて薪(たきぎ)を並べ、自分の子イサクを縛って、祭壇の上の薪の上に寝かし、刀を取って自分の子をほふろうとしました。

その刹那、主の使いが天から彼を呼び、『アブラハム。アブラハム。あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。』と仰せられました。そうでなかったら、イサクはほふられてしまったはずです。それこそ、本当に「死の陰の谷」を通りました。その結果、神様はイサクの生涯に絶える事がない、恵みと祝福と愛を注いでくださいました。

ヨセフをご覧ください。17才の時に、兄さんたちから憎まれてエジプトに奴隷として売り飛ばされました。それで13年間、ヨセフは言葉では言い尽くせない苦しみに会いました。ポティファルの家で奴隷生活をしました。人間以下の待遇を受け、獣のような生活をしながら、精神的に「死の陰の谷」を通り、また、濡れ衣を着せられて監獄に投げ入れられ、2年以上の年月を監獄で精神的苦しみと辛さをなめさせられました。ヨセフは「死の陰の谷」を通った後に、エジプトの総理大臣に登用されるようになったのです。

モ−セも同じです。モ−せは40才の時に、イスラエルの民を助けようとしたことから、パロの憎しみを受けて逃げ、それからはミデヤンの荒野で40年の間、さまよいました。人跡の絶えたところ、ただ風の音と熱い太陽、砂地があるのみのそこで、羊を飼いながら生き延びました。毎日を泣きながら涙で暮らし、モーセは死を経験しました。ミデヤンの荒野が彼の墓でありました。

そのような精神的「墓」を経験し、「死の陰の谷」を通った後、80才の時に、神様はモーセを柴の中から呼ばれ、恵みを与えてくださり、一本の杖を手にしてエジプトに行くようになさって、430年の間、エジプトで奴隷生活をしていたイスラエルの民たちを連れ出して、乳と蜜が流れるカナンの地に導く偉大な指導者に仕立てられました。

以上の如く、アブラハム、イサク、ヨセフらはみな、精神的極限の苦しみと死を経験したのです。「死の陰の谷」を、彼らはみな通りました。




第二、何故、「死の陰の谷」を通らなければならないでしょうか?

なぜ、神様は、このような人たちに、「死の陰の谷」を通るようになさったのでしょうか。そのまま、神様は祝福を与えて下さることはできないのでしょうか。なぜ、私たちに大小の数多い「死の陰の谷」の体験が迫って来るのでしょうか。

第1番目に、私たちを主人ではなく、神様に仕えるしもべとするために、神様は私たちを「死の陰の谷」を通らせて、砕かなければなりませんでした。皆さん、アダムとエバがエデンの園で「善悪を知る木の実」を取って食べたのは、しもべではなく、主人になろうと言う主張からでありました。宇宙の中には、主人は唯一の神様お一人しかおられません。神様はアダムとエバを至極愛されましたが、主人になる事は赦されませんでした。

それで、『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』(創世記 2章16節〜17節)と仰せられたのです。善悪の知識の木の実を食べたら、「善い悪い」を判定する権利を持つ主人になるのです。主人だけが、これが善い、これが悪い、と判定することができます。しもべは従って行くだけであって、善悪を決定する権利はありません。

ところが、アダムとエバは悪魔の誘惑を受けるや、すぐに善悪の知識の木の実を取って食べて、神様のように、主人になろうとしたのです。しもべとして神様に仕えなければならない者が、主人になろうとしたのです。神様は、このような人間を受け入れる事が出来ません。それで、人間はエデンの園から追い出され、その長い年月を通して、苦しみと辛い目に会わなければなりませんでした。

「イザヤ書 1章 2節〜4節」に見ますと、『天よ、聞け。地も耳を傾けよ。主が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行なう者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは主を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。』と記録されています。

皆さん、人類は神様を捨てて、人本主義に立ち、自分自らが主人になって暮らしています。人類は二つの悪を行なったが、その一つは、「湧き水の泉である神を捨てた事」であり、もう一つは、「多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを自ら掘った事」である、と聖書に記されているのです。

ですから、主人になった人間が砕かれて、服従する「しもべ」になるためには、「死の陰の谷」を通らなければならないのです。「死の陰の谷」を通りながら、古いものは脱ぎ捨てて新しく生まれ、神様に仕える子ども、しもべとして、新しく生まれなければなりません。これは、教育を通しても、訓練を通してもできるものではありません。死ななければなりません。苦難を通して死の体験をしなければなりません。それで我が神様は、神様が祝福して上げ、神様が使用しようとする者たちすべてに、「死の陰の谷」を通るようになさるのです。

「詩篇 123篇 1節〜2節」に見ますと、『あなたに向かって、私は目を上げます。天の御座に着いておられる方よ。ご覧ください。奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人の手に向けられているように、私たちの目は私たちの神、主に向けられています。主が私たちをあわれまれるまで。』と記されています。

主人は、すべての権利を持っています。主人が良い悪いを決定します。しもべは主人を見上げて、指図または処分を待つだけです。主人の決定に従うだけであって、しもべが主人の前で、良い悪いを決定する権利はありません。選択は、神様によるのです。人類は、服従するだけです。このように造り直されるためには、人は「死の陰の谷」を通らなければならないのです。

第2番目に、神様が、私たちを「死の陰の谷」を通るようになさる理由は、悔い改めさせるためなのです。人間は、平安である時には自己反省をしません。平安で満足ですから、そのまま自分勝手に暮らします。しかし、「死の陰の谷」を通るようになり、患難と苦しい目に会うようになったら、その時には胸に手を当てて、自分が何を間違ったか、と考えるようになります。人は、苦しい目に会うときに、自分がどのような罪を犯したのか? 神様に背いたことが何であろうか、と深く考え反省するようになるのです。

そうしてこそ、聖霊さまの導きを通して痛く悔い改め、告白する事ができる機会が与えられるのです。ですから、いつも平安な日だけがあるのは、良くありません。私たちが、いつも反省し、悟り、変化されるためには、患難と苦しみに会い、「死の陰の谷」を通るのが、終局的には私たちにとても良いことなのです。

「エゼキエル書 18章30節〜32節」に見ますと、『それゆえ、イスラエルの家よ、わたしはあなたがたをそれぞれその態度にしたがってさばく。・・神である主の御告げ。・・悔い改めて、あなたがたのすべてのそむきの罪を振り捨てよ。不義に引き込まれることがないようにせよ。あなたがたの犯したすべてのそむきの罪をあなたがたの中から放り出せ。こうして、新しい心と新しい霊を得よ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。・・神である主の御告げ。・・だから、悔い改めて、生きよ。』と記されています。

神様は、私たちが悔い改めて、死の道から離れ、新しい生命の道を選ぶようにと願っておられるのです。ですから、苦難が襲って来ることは、私たちには祝福です。私たちが「死の陰の谷」を通ることは、痛く悔い改め、罪を告白して、主のもとに立ち返ることができる機会が与えられますので、これは私たちに大きな祝福になるのです。

第3番目に、私たちが「死の陰の谷」を通らなければならない理由は、純粋な信仰を持つようになるためです。何故なら、「死の陰の谷」を通る時は、目には何の徴も見えず、耳には何の声も聞こえず、手には触れるものが何もなく、真っ暗闇です。絶望です。東西南北どこを見ても、助けてくれるものがいません。私を愛すると言った友も離れ去ってしまいます。親戚たちの影も見えません。自分一人が死の水に溺れて、足掻きます。そのような時、拠り頼むところが全くありません。純粋な信仰を持って、神様にしか拠り頼むところがないのです。

自分の知恵も、聡明も、はかりごとも、才能も、知識も、みな離れ去りました。過去に、自分が自慢していたことがすべて消え去りました。もう塵と埃の中を転がるミミズのようになりました。それで、人間の高慢、自慢をすべて捨てて、ただ一つ、純粋な信仰を持って主だけを待ち望み、主にだけ拠り頼み、主にだけ祈り求める、純粋な信仰を持つようになるのです。

「ヤコブの手紙 1章 2節〜4節」に、『私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。』と記されています。

ですから、「死の陰の谷」と言う試練を通ることは、神様が、私たちに完全な信仰を得るようにして、神様の大いなる恵みと祝福を受けるようにする為なのです。 

第4番目に、「死の陰の谷」を通る理由は、神様の栄光を現すためです。試みと艱難の谷に足を踏み入れる時、神様の御力が現れるのです。イスラエルの民たちが紅海の前まで来て、前には広々とした海があり、後ろからはエジプトの軍隊が、彼らを再び捕らえようとして追って来るので、彼らは完全にサンドイッチになりました。もう行くところがなくなりました。そのとき、神様の栄光が現れたのです。神様が紅海の水を分けて、イスラエルの民たちを救い出して下さったのです。

私たちに押し寄せてくる苦難は、神様の奇跡が現われる機会になります。私たちが皆、安らかで無事に暮らす時には、神様の御力が現れる必要もなく、理由もありません。しかし、私たちが苦難に会った時は、神様に呼ばわり祈り、それで神様はその権威と御力で私たちを救って下さり、神様の栄光が現れるようになるのです。

人間の絶望は、神様の奇跡の始まりです。神様の願い事が出発するのです。そのゆえに、皆さんが苦難に遭った時には、神様が栄光を現す機会が来たと言うことを、知らなければなりません。ラザロが死んだ時に、主は、『神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。』と仰せられました。死んだラザロを生き返らせるので、イエス様が栄光を受けるようになるのです。

「詩篇 138篇 7節」は、『私が苦しみの中を歩いても、あなたは私を生かしてくださいます。私の敵の怒りに向かって御手を伸ばし、あなたの右の手が私を救ってくださいます。』と記録しています。ですから、神様の栄光を体験する事ができるのです。聖書は、人間が苦難に陥ったときに神様が現わられて、人間を救って下さった、その栄光の話しで満たされています。

第5番目に、人たちが「死の陰の谷」を通ることは、もっと大きい恵みをいただき、もっと大きい祝福を受けるための器とされるためなのです。聖書に、人は土の器であると言われました。人たちが「死の陰の谷」を通るとき、神様はその人を砕いて、神様がご使用なさるのにふさわしい器に造られます。それで試練と患難は、私たちに大きな変化がもたらされることの兆(きざ)しになるのです。普通の時には、変化がありません。しかし、患難と試練に遭い、「死の陰の谷」を通って砕かれ、涙を流しながら苦しみ悔い改めるとき、神様はその人を、新しい器に造り始められるのです。

「ヘブル人への手紙 12章 8節〜11節」に、『もしあなたがたが、だれでも受ける懲らしめを受けていないとすれば、私生子であって、ほんとうの子ではないのです。さらにまた、私たちには肉の父がいて、私たちを懲らしめたのですが、しかも私たちは彼らを敬ったのであれば、なおさらのこと、私たちはすべての霊の父に服従して生きるべきではないでしょうか。なぜなら、肉の父親は、短い期間、自分が良いと思うままに私たちを懲らしめるのですが、霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。』と記録されています。

神様が、「死の陰の谷」を通るようにして私たちを新しくし、私たちを懲らしめて変化するようになさるのは、神様が、もっと大きく美しい主の恵みを私たちにほどこされるためなのです。それで、神様は私たち一人一人に、大・小の「死の陰の谷」を必ず通るようになさるのです。

しかし、『たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。』と、聖書に記録されているように、「死の陰の谷」には、自分一人だけが居るのではありません。主が必ずともに居て下さり、主の知恵と力で私たちを新しく造られた者にして下さるのです。

私たちが通る「死の陰の谷」は、主が私たちを変化させる工場です。私たちにもっと大きい希望を与える神様の産室です。神様の御子イエス様さえも、死のトンネルを通って復活の栄光で現わされました。イエス様が死のトンネルを通らなかったとしたら、復活の栄光の夜明けはあるはずがありません。イエス様が死を通らなかったとしたら、人類の罪を贖うこともできず、人類の中から世俗と悪魔を追い出すこともできず、人類の痛みと病を担うこともできなかったのです。

また、人類の呪いと貧困も退けることができず、死と陰府も撤廃することができなかったのです。ひとえに、主が死を通られたがために、このすべての事を清算なさり、征服なさり、克服なさり、栄光の復活で立ち上がられて、こんにち、私たちに義の源泉、天国と聖霊充満の源泉、繁栄と祝福の源泉、永遠のいのちと復活と天国の源泉となってくださることができたのです。

従って、イエス様が「死の陰の谷」を通られたことは、その時は苦しくつらいことでありましたが、それらが過ぎたこんにちは、全人類の運命を新しくし、この世の歴史を新しくして、人類の将来に永遠なる希望を与える、もっとも栄光で偉大な事件になったのです。

皆さん、「死の陰の谷」で古い人をぼんぼんと脱ぎ捨てる事ができるのです。体にくっついている古い人は、いくら勉強をしても、努力をしても、脱ぎ捨てることはできません。いくら道徳的な訓練を積んでも脱ぎ捨てることはできません。「死の陰の谷」を通るときに、この皮が剥ぎ取られるようになるのです。

古い人は脱ぎ捨てて、新しい人に着替え、栄光の復活のいのちを持って新しく生まれるようになるのです。神様中心に、神様に仕える人に変化される時、その谷を脱け出ることができるようになり、その後に、神様の驚くべき祝福を私たちがいただくようになるのです。

ですから、今日、皆さんの生活の中に、小さい死が近づいて来たら、小さい復活が、大きい死が近づいて来たら、大きい復活が近づいて来るのです。小さい苦難は小さい祝福を約束し、大きい苦難は大きい祝福を約束します。キリストのうちには、私たちに近づいて来る苦難と同等、又はそれ以上の祝福が備えられてあるのです。

意味がなく、無意味な苦難は絶対に近づいてきません。無意味な「死の陰の谷」は近づいて来ません。我が神様には、すべてに目的と計画があるので、皆さんと私に試練と苦難に会うようになさり、「死の陰の谷」を通るようになさるのです。それを通して、神様が計画なさった通りに、清く、明るい新しい人になって、神様のもっと大きな恵みを盛り入れることができる器に、造られるのです。




お祈り

聖く、愛であられる、我が父なる神様! 私たちの先祖たちも、主を立派に信じた人たちは皆、大・小の患難に会い、「死の陰の谷」を通って変化されました。我が父なる神様! 私たちにもやはり、大・小の「死の陰の谷」が近づいて参り、また私たちに挫折と絶望が近づいて参ります。これはすべて、神様が私たちを砕き、変化させて、神様の御心通りに新しい器に造り上げて、神様の栄光で満たして下さり、祝福で満たして下さる為なのです。

全知全能なる、私たちの天のお父さま! 私たちが大・小を問わずに「死の陰の谷」を通る経験をするとき、気落ちしないように助けて下さい。挫折し、絶望して座り込むことがないように助けて下さい。希望を見渡し、神様を信じて、讃美しながら生きて行くように導いて下さい。神様を信じ、すべてを忍耐し、主の御名を賛美しながら暮す人には、必ず、栄光の朝が近づいて来る、と言うことを知るように助けて下さい。イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。ア−メン!