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「私は強い者」
 






■聖書箇所

「コリント人への手紙 第二 5章17節」
5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。




今日、私は皆さんと一緒に、『私は強い者』という題目で御言葉を分かち合おうと思います。

TVを通して、自然界で起こる「弱肉強食」に関する画面を見たことがあります。小さい魚は「プランクトン」を食べ、中位の大きさの魚は「小さい魚」を食べ、大きい魚は「中位の大きさの魚」を取って食べながら生きて行くのでありました。

このような現象は、地上の動物界でも同様です。簡単に言えば、弱いものは、強いものの餌食になると言うことです。

私たち人間も、同様です。この苛酷な「生存競争」の世の中で、弱い人や弱い民族は、強い人や強い民族の支配を受け、従属されることは、誰もが知っている事実です。ですから、私たちが生き残り、幸福を追求するためには、強い者にならなければなりません。

私たちが強い者になるためには、次のことを心に悟らなければなりません。




第一、自分がどれ程、弱い者であるかを知らなければなりません

第1番目に、自分が「どれ程弱い者であるか」を知ってこそ、強い者になれるのです。人は、自分が「どれ程弱い者であるか」を理解していません。神様がアダムを造られた時には、勿論、強い者として造られました。

アダムに『すべての生き物を支配せよ。』と言われたのですから、生き物の中でもっとも強い者に造られたのです。また、『地を従えよ。』と言われたのですから、地の王として造られ、神様以外にはアダムとエバより強い者はありませんでした。

「創世記 1章28節」に見ますと、『神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」』と記録されています。ですからアダムとエバは、王様として造られました。地では、彼より強い者がありませんでした。

しかし、アダムが神様に背き、エデンから追い出されてからは、形容することができない程に「弱い者」になってしまいました。アダムとエバは、罪の奴隷になってしまったのです。罪が彼らを占領し、彼らを思うままに支配しました。この世と悪魔の奴隷になってしまったのです。

アダムとエバは、心配、懸念、不安、恐怖、憎悪…等の奴隷になって、彼らの心の中に取り止めようがない暴風がいつも吹きまくりました。また、心も身体も病にかかって、苦しんだあげくには結局、死ぬしかありませんでした。貧しく、いばらとあざみの中で血みどろになって暮し、呪いのしもべとなって暮す悲劇的な存在でありました。終局には、たましいが永遠に地獄に落ち込むかわいそうな存在になってしまったのです。

ですから人間はその存在自体が、堕落した以後からは不安で絶望的な存在であり、死に至る病にかかった存在なのです。それで、堕落したアダムとエバとその子孫たちは、実際にどんなに弱い存在なのか形容することができません。こんにち、私たちは本当に弱い存在です。




第二、イエス様の贖いの偉大さを知らなければなりません

第2番目に、私たちが心の中に、イエス様の贖いの偉大さを知らなければならないのです。イエス様が人類のために、十字架に釘付けられて身を裂き、血を流して贖って下さったその恵みが、どんなに偉大なものであるかを人類は悟り、知らなければなりません。なぜかと言えば、無限に強い神様の御子が、余りにも弱々しい人間の形をしてこの地に来られたからです。

「イザヤ書 53章 1節〜3節」を見ますと、『私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現われたのか。彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。』と記録されています。

イエス様は、このように出生から余りにも貧弱で、虚弱で、見るに足りない人生として生まれました。それは、主が弱い者を救うためには、弱い者と同じくならなければならなかったからです。天と地とその中のすべてのものを造られた神様のひとり子イエス・キリストが、私たち人生と一体となるために、賎しく弱い人間として生まれたのです。

また、イエス様の一生を見ますと、主は限りなく弱い人間として一生を過ごされました。野宿は勿論、『狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。』と言われながら生活なさいました。

そして、ローマ人たちに捕らわれ、力なく、人間の法廷に立たされて裁判を受けました。神様が人の身体を着て、どんなに弱くなられたのか、人間の法廷で惨めに裁判を受け、罪に定められたのです。その上に、十字架を担われて、主は何回も倒れては立ち上がり、倒れては立ち上がりながら、ガルバリの山に行かれました。

「詩篇22篇 1節」の御言葉です。『わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。』主は、最早、遠い未来を見渡して、詩篇記者の口を通してこのように叫ばれたのです。

「詩篇 22篇 6節」には、『しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。』と記されています。「詩篇 22篇16節〜18節」には、『犬どもが私を取り巻き、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。』と記されています。 

このようにキリストは、か弱い人間として来られて、この世の中のさげすみと賤しめはすべて受けられました。しかし、イエス様は墓に葬られてから三日目に、このすべてのさげすみと、賤しめと、はずかしめにみな勝たれて、永遠なる「強者」としてよみがえられました。

もしも、イエス様がよみがえられなかったら、人類は、永遠の痛みと病と罪の中で破滅されてしまったことでしょう。ところがイエス様は、人類の痛み、病、罪をすべて背負われ、人類の代わりにさばかれて墓に入られ、そこでそのすべてに勝たれ、そして、よみがえられる事によって、もう「永遠の強者」になってしまったのです。

「コロサイ人への手紙 2章 5節」に見ますと、『神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。』と記されています。悪魔の支配と権威に主がすべて勝たれて、それらを武装解除してしまい、死と陰府(よみ)を撤廃なさって、よみがえられたのです。ですから、イエス・キリストはもう私たちのための、永遠なる勝利者となったのです。

キリストがか弱い人となって来られたのは、私たちの為なのです。キリストがすべての弱さ、罪、悲しみ、病をみな担われて、十字架で死なれ、墓に入られたのも、私たち人類に代わってそうなさったのです。イエス様が死に勝たれてよみがえられたのも、まさに、私たち人類の為にそうなさったのです。ですから、イエス・キリストと私たちは、運命的に一体となったと言う事実を、私たちは知らなければならないのです。




第三、新しく造られた者

第3番目に、私たちが悟らなければならない事は、イエス様を信じる私たちが「どんな人になったか」と言う事です。『誰でもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。』と言われました。キリストを信じる事によって、宗教を受け入れるとか、儀式を受け入れるのではなく、私たちの生活の中に根本的な一大変革が起こっている事を、私たちは悟らなければならないのです。

聖書には、『誰でもキリストのうちにあるなら…。』と言われました。キリストのうちに入って行ったら、キリストが私のうちに、私がキリストのうちに留まって、私たちとキリストが運命共同体となり、一体となると言うのです。

「ローマ人への手紙 6章 6節〜7節」に、『私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。死んでしまった者は、罪から解放されているのです。』と記されています。

イエス様を信じると言うことは、単純な宗教的行事ではありません。イエス様と私が「存在的一致」となる、と言うことです。イエス様が私たちのうちに、また、イエス様が私たちをご自分のうちに迎え入れて、私たちが一体となるのです。それで、私たちはキリストと共に葬られ、キリストと共によみがえるのです。

「エペソ人への手紙 4章22節〜24節」に見ますと、『その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。』と記されています。

過去は、キリストと共に清算して脱ぎ捨て、現在は、よみがえられたキリストを身に着て新しくなりなさい、という事です。これは、私たちの心の中に大きな変化をもたらさなければならない事を言うのです。

私たちは、この世と悪魔の奴隷から聖潔な勝利者へと、大きく変化するようになったのです。この世の支配を受け、悪魔に引きずり回されていた奴隷生活は、古いものになって過ぎ去ってしまいました。私たちは、イエス・キリストにあって聖潔な勝利者になり、神の御国が私たちの中に臨んでおり、聖霊が私たちの中に来ておられます。私たちは神の御国の民として、聖霊と共に暮す勝利者になった、という事実を悟らなければなりません。

「ルカの福音書 11章20節〜22節」に、『しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。強い人が十分に武装して自分の家を守っているときには、その持ち物は安全です。しかし、もっと強い者が襲って来て彼に打ち勝つと、彼の頼みにしていた武具を奪い、分捕り品を分けます。』と記録されています。もっと強い方、イエス様が来られて、強いとされた悪魔を武装解除してしまい、すべて追い出してしまって、私たちに勝利を分けてくださったのです。

「ヨハネの手紙 第一 3章 8節」に、『罪のうちを歩む者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。』と記されています。よみがえられたイエス様が私たちの中に臨まれるときに、この世と悪魔の奴隷であった古いものを私たちの中から追い出し、壊してしまって、私たちに天の御国を与えて下さり、聖霊を与えて下さり、キリストの強い力を与えて下さったのです。

そして、イエス様が私たちの中に留まって下さる事によって、この世の心配、懸念、憎しみの奴隷から、喜びのしもべ、希望の子に私たちを変化させて下さいます。この世に暮しながら、心配、懸念、不安、焦燥、絶望の奴隷でない人はありません。ところが、イエス様は、『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』と言われながら、私たちを苦しめ、悩ますすべての難問題を取り除いて下さり、それらの代わりに、私たちの心の中に喜びと希望を満たして下さいます。このように主は、私たちに大きな変化を与えて下さるのです。 

「ローマ人への手紙 5章 5節」に、『この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。』とあります。私たちの心の中に、心配、懸念、不安、焦燥、絶望の代わりに神様の愛を注いで下さり、それによって希望が満ち溢れ、喜びが満ち溢れるようになる、このような大きな変化を我が主イエス・キリストは、私たちの中にもたらして下さるのです。

私たちは、この世の中で心の病気、肉体の疾病の奴隷生活から解放されました。イエス様が十字架に上られるとき、私たちの心の病も肉体の病苦も背負って上られたのです。今日、主は十字架から人たちを見下ろしながら言われます。「わたしが、あなたがたの痛みを担い、あなたがたの病を負いました。わたしの打ち傷によって、あなたがたは癒されました。」と。こんにち、キリストが私たちを新しくして下さり、癒しと健康といのちで満ち溢れるようにして下さるのです。

「マタイの福音書 8章16節〜17節」に見ますと、『夕方になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れて来た。そこで、イエスはみことばをもって霊どもを追い出し、また病気の人々をみなお直しになった。これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。「彼が私たちのわずらいを身に引き受け、私たちの病を背負った。」』と記されています。

イエス様が、私たちの病を背負って下さいました。私たちの患いを引き受けて下さったのです。それなのに、なぜ、私たちがまた病と患いを背負いますか? 私たちがこの真理を知っているとしたら、強く雄々しく大胆に、痛みや病に対して断固として抵抗し、イエス様の御名によって追い出し、退かせなければなりません。

「ルカの福音書 10章19節」に、『確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。』と記されています。私たちは「強い者」になったのです。イエス様にあって、私たちは「強い者」なのです。

「ヨハネの福音書 11章25節〜26節」に、『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」』と言われました。ですから私たちは、キリストと共に死ぬことにも生きることにも、運命共同体になったのです。

次には、『見よ、すべてが新しくなりました。』と言われました。神様が、古いものは過ぎ去って、イエスを信じる人たちは新しくなりました、と言われたのですから、この事実を私たちは心の中に受け入れて、新しく考え、新しく夢見、新しく話しをし、新しくなったものらしく行動しなければなりません。私たちは、キリストと共に強い者になってしまったのです。

「ペテロの手紙 第一 2章 9節」に、『しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。』と記されています。

皆さんはもう、強い者として、キリストにあってたましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても豊かに得る新しい存在になって、キリストの栄光を全天下に現わす神様の使者たちとなった、と言う事実を知らなければならないのです。

それから、ご自分自らが、どのような人になったかを知らなければなりません。『あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。』と言われました。この真理を知らなかったら、悪魔の捕虜になります。知った後には、私たちが悪魔に断固として敵対したら、一つの道から攻撃して来た悪魔が七つの道に逃げ去るようになります。

私たちの環境にどのような患難が押し迫って来ても、私たちがどんな人になっているかを知っているなら、信仰をもって戦わなければなりません。信仰で敵対しなければならないのです。主が言われました。『バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。』(マタイの福音書 11章12節)

自分の持っているものが何であるかを知り、自分がどのようにして新しく造られた者になったかを知ったら、激しく攻め込んで行って自分のものを所有し、盗み、殺し、滅亡させようとして襲ってくる悪魔の勢力をキリストの御名によって追い払い、戦って勝ちを得る私たちとならなければなりません。

「テモテへの手紙 第二 2章11節〜12節」に、『次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。』と記されています。これは、キリストと共によみがえって、キリストと共に王様になった、という事です。

私たちは、義によって王様になり、天の御国と聖霊にあって王様になり、喜びと癒し、永遠のいのちと天の御国の栄光の中で王様のようになったのです。王様とは、支配し、治める人を言います。「ヨハネの手紙 第三 1章 2節」の御言葉は、主が私たちに与えられる切なる御言葉なのです。『愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。』

ですから、いつも十字架を仰ぎ見ながら、自分が新しく生まれたそこで、心の衣を毎日着替え、古いものは捨てて、主が与えて下さる新しい考えで満たす、そのような生活をしなければならないのです。そして、口で強く告白するようにして下さい。絶えず、口で新しいいのちの種を蒔かなければならないのです。

「私は、キリストにあって義人になった。」と主張しなければなりません。「キリストにあって、天の御国と聖霊が私の中に臨んでいる。」と口で主張しなければならないのです。「私は、喜びと希望で満ちている。」と語らなければならないのです。「私は、復活と永遠のいのちと天の御国を持っている。」と語らなければならないのです。口で告白しなければならないのです。心の思いを口で告白してこそ、実を結ぶようになります。思いも種であり、口で告白する言葉も種なのです。 

そして、神様に感謝しなければなりません。私たちを、このように新しく造って下さった天のお父さまの恵みに絶えず感謝し、讃美を捧げる生活をしなければなりません。皆さん! 絶えず感謝の供え物を神様に差し上げてください。そして、その次からは、もう大胆に、強く、雄々しい信仰の人にならなければなりません。今からは、古い人ではありません。これからは新しい人です。強い者です。

私たちは、強く雄々しく大胆に、敵悪魔に向かって敵対して行かなければならないのです。敵の前で、恐れ慄く必要がありません。これからは、「サタンは、退け!」と、大胆に命令することができます。「罪は退け!」「疾病は退け!」「呪いは退け!」「死よ、お前のとげはどこにあるのか。退け…!」

皆さんは、強く、大胆に、胸を張って、王のように生活しなければならないのです。皆さんは、支配しながら暮さなければなりません。肯定的、積極的、創造的、生産的な、そのような心と考えと口の告白と生活態度を持って暮すようになる時、皆さんと私の生活の前には、神様の栄光が満ち溢れるようになるのです。




お祈り

全知全能であられ、愛であられる、我等の天のお父さま! イエス様を信じる前には、私たちは限りなく弱い者たちでありました。イエス様を信じるようになってから、「古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」のにも拘らず、依然として、弱い人たちがあまりにも多いです。心が弱く、生活にも活気がなく、肉体はいつも病にかかって虚弱であり、否定的で、よく気落ちし、後に退いて行く人たちが、あまりにもおおいです。

我が神様! キリストが私たちの為に弱くなられましたが、キリストがよみがえられてからは、もっとも強い者として、今も生きておられるという事実を、すべての聖徒さんたちが悟るようにして下さい。主は、もっとも強いお方です。絶対に弱い方ではありません。

我らの天のお父さま! イエス様を救い主として信じ、イエス様に拠り頼む聖徒さんたちが、これからは、イエス様のように考え、語り、行動するように助けて下さい。主であられる我が神様! 聖徒さんたちがいつも、自分が新しく生まれた十字架を仰ぎ見ながら、古いものを脱ぎ捨て、そこで新しいものに着替えて、強く雄雄しく大胆に、力強く、勇敢に、大きく笑い、目を輝かしながら、価値ある人生を生きていくように導いて下さい。イエス様の御名によってお祈り申し上げます。アーメン!