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「なぜ聖霊が来なければならなかったか」
 






■聖書箇所

「ヨハネの福音書 16章 7節」
16: 7 しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。




今日、私は皆さんとご一緒に、『なぜ聖霊が来なければならなかったか?』と言う題目で御言葉を分かち合いたいと思います。

イエス様がよみがえられてから40日間、東から、西から、弟子たちの前に現わられました。キリストが十字架で死なれたのを見て、びっくり仰天して四方に逃げた弟子たちは、イエス様がよみがえられて、ここに… あそこに… と現われられるので、彼らは次第に心に安堵感を得て、一つどころに集りました。しかし、彼らは狼狽していました。

何故、イエス様が死ななければならなかっただろうか? また、何故、イエス様がよみがえられてから、東に、西に、と現われなければならないのか? そして、主から直接、『エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。』(使徒の働き 1章 4節〜5節)と言う仰せも聞きました。

それで彼らは、キリストが昇天なさるのを見てから、エルサレム市内の「マルコの屋上の間」で、約十日ほど、心を合わせて熱心に祈りました。皆さん、天の御国のみわざは、祈りを通してこそなされるのです。祈ることを怠ったら、神様のみわざは現われません。弟子たちは、主が昇天なさるのを見た後に、十日ほど夜昼なく熱心に、主にあつく祈りを捧げました。

「使徒の働き 2章 1節〜4節」を見ますと、『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』と記録されています。弟子たちは、この思いもよらない驚くべき体験をするようになりました。

それでは、この聖霊が来られたことによって、弟子たちにどのような変化が起こったでしようか?




第一、聖霊はイエス様の十字架事件の解釈者として来られました

イエス様の弟子たちは、イエス様が十字架に釘付けられて死なれた事を、どうしても理解する事が出来ませんでした。何故、メシヤが死ななければならないのか? 何故、神様の御子が十字架で凄惨に身を裂き、血を流して死なれ、そして葬られなければならないのか? その理由を知ることができませんでした。それで、彼らの心は全く落ち着きがなく、それこそ混沌たるものでありました。

何故、主がよみがえられてから、東… 西… と現われるのか? そのように現われるつもりであったら、当初から死なれなければ良いではないか。何故、死なれたのだ? 全く解かりませんでした。しかし、聖霊さまは十字架の事件を弟子たちの心の中に解釈して下さいました。

聖霊さまが来られて、教えられたことは、イエス様の十字架での死は偶然に起こったものでもなく、イエス様が柔弱なので捕えられ、どうにも仕方がないので死なれたのでもなく、神様がこの世の基(もとい)が置かれる前から計画なさった、神様の御心によるものである、という事実でありました。弟子たちは、それでようやく悟るようになりました。

「使徒の働き 2章22節〜24節」を見ますと、ペテロが言いました。『イスラエルの人たち。このことばを聞いてください。神はナザレ人イエスによって、あなたがたの間で力あるわざと、不思議なわざと、あかしの奇蹟を行なわれました。それらのことによって、神はあなたがたに、この方のあかしをされたのです。これは、あなたがた自身がご承知のことです。あなたがたは、神の定めた計画と神の予知とによって引き渡されたこの方を、不法な者の手によって十字架につけて殺しました。しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。』

ここで、ペテロが聖霊に満たされるや悟った事は何であったでしょうか。イエス様は、神様が定められたご計画と、予知とによって引き渡された、と言う事実でありました。神様のご計画とご意志によって、キリストが死なれたのであって、偶然に、仕方がなく、弱々しいので死なれたのではない、と言うことです。キリストの死は、神様のご計画であって、偶然では無いと言う事実を、弟子たちは聖霊が臨まれるや悟ったのです。

そして、イエス・キリストの十字架の死は、驚くべき贖いの恵みである事を悟りました。無意味に死なれたのではなく、私たちの為に身代わりとなって死なれたことを悟ったのです。キリストが十字架で死なれた事によって、私たちのすべての罪が赦され、義とされるためであった。イエス様が十字架で死なれた理由は、悪魔と世俗を私たちの中から追い出し、私たちを悪魔と世俗から解放させて、天の御国の民とし、聖霊充満に与からせるために死なれた、と言うことを悟りました。

彼らは、イエス様の十字架の死は、私たちの数限りない悲しみと、懸念、心配、不安、焦燥、絶望から私たちを解放させ、私たちの心の悲しみを贖って下さり、私たちの肉体を疾病の苦しみから解放させてくださり、喜びと、健康と、いのちを与えて下さるために、その代価を払われた事実を悟りました。彼らはまた、アダムとエバ以後、呪いに虐げられながら、いばらとあざみに刺され、血みどろになった人生を贖って、アブラハムへの祝福と、イエス・キリストの恵みを受けるようにするために、主が身代わりとなって呪いを受けられた事実を悟りました。

また、彼らが悟った事は、イエス様が十字架で死なれることによって、私たちの死を担われ、その死を滅ぼし、死と陰府を撤廃なさり、私たちに復活と永遠のいのちと、永遠の天の御国を与えるために、主がその代価を払われるために受けられた、贖いの苦難である事を悟りました。キリストは、その民たちに聖霊を通して悟るようにして下さったのです。

弟子たちは、聖霊が臨まれる前には、何故、イエス様が十字架で死なれたのか、その理由を知る事ができませんでした。イエスの死は、一つの大きな悲劇であり、失敗であると考えました。ところが、イエス・キリストの死が、偉大なる成功であり、勝利であり、アダムとエバ以後に見捨てられた人生を、父なる神様があらためて救おうとなさる、神様のご計画の成就である事を悟るようになったのです。これが、聖霊が臨まれてから彼らが悟るようになった事実です。




第二、聖霊は「証しの霊」です

聖霊さまが来られたのは、主の弟子たちが驚くべき証しの使役者となるために、「証しの霊」として来られたことを悟るようになります。皆さん! 聖霊さまが来られなかったら、「イエス・キリストの十字架事件」は、パレスチナの一隅で起こった悲劇的な事件として、終わってしまった筈です。永遠に、キリストの死は人たちから忘れ去られてしまったでしょう。

しかし、神様の聖霊が来られて、「イエス様の十字架事件」を、歴史的、人類的、全世界的の「救いの事件」として、全人類に悟らせてくださったのです。聖霊がイエス・キリストを高め、全天下の万民がキリストを受け入れて救いを受けることができる、偉大な事件とされたのです。

「ルカの福音書 24章46節〜49節」を見ますと、『「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。さあ、わたしは、わたしの父の約束してくださったものをあなたがたに送ります。あなたがたは、いと高き所から力を着せられるまでは、都にとどまっていなさい。」』と、イエス様が言われました。

聖霊が来られたら、キリストの救いの十字架事件が全天下万国に宣べ伝えられる、歴史的事件、人類的事件、全宇宙的な贖いの事件として知られるようになる事を言われたのです。それで、聖霊が来られて始めて、キリストは世界の、宇宙の歴史的「救い主」となられたのです。「ヨハネの福音書 14章26節」に、『しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。』と記録されています。聖霊が始めてキリストを悟るようにし、キリストの御言葉を思い起こさせて下さるのです。

「使徒の働き 2章32節〜33節」に、『神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』と言われました。イエス様がよみがえられ、天に昇られたので、神様から聖霊を受けて私たちの心の中に注いで下さったのです。

それで、聖霊が来られて、キリストが死んでからよみがえられ、私たちと共に居られることを骨に沁みて体験するようにして下さるのです。

そして聖霊さまは、情熱と愛で、他人に「証し」するようにして下さいます。福音を証しすることは、聖霊の炎が心の中で燃え上がるので、そうするするのです。

ヨハン・ウェスレ−は、もとはアメリカに宣教師として行ったのですが、アメリカでの宣教に失敗し、その上に法律にも触れて彼は逃げ出し、船に乗ってイギリスに行きました。イギリスに渡って行く途中に暴風雨に遭い、大波に襲われて、船が難破直前になりました。彼はあまりの恐ろしさに死にそうになっていました。ところが、同行中の聖霊を受けた宣教師は、自分の子供たちと一緒に恐れることなく、継続して讃美歌を歌っていました。それを見て、彼は不思議に思いました。

ヨハン・ウェスレ−はロンドンに帰って来てから、する事もなく過ごしていましたが、ある日、ウオダースケイトと言う所のルタ−教会で、聖書勉強会があるということを聞いてそこに行き、「ローマ人への手紙」の講義を聴いているうちに、聖霊が彼に臨みました。聖霊の火が彼の心の中に臨むや、彼はキリストが死んでからよみがえられた、生きておられる神様の御子である、と言うことをはっきりと知るようになりました。

皆さん、情熱と愛を心の中に注いで下さるのは聖霊さまです。聖霊の火が心の中に燃え上がるようになったら、私たちはじっとしていることができません。外に出て行って、伝道せずにはいられません。区域長・地域長のカバンを携えて、全天下を駆け巡りながら、イエス様はキリストであると宣べ伝えて始めて、心が清清しくなります。何故? 心に聖霊の火が燃え上がっているからなのです。

「ヨハネの福音書 15章26節〜27節」に、『私が父のもとから遣わす助け主、即ち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊が私について証しします。あなたがたも証しするのです。初めから私と一緒にいたからです。』と記されています。聖霊さまは「証しの霊」であられるのです。

それだけでなく、聖霊さまは能力と権能を与えて下さいます。人たちは、"私は何者でもありません。" "私は平凡な家庭主婦です。" "私は平凡な人生を生きており、何の技も、力もありません。"と言います。しかし、聖霊さまが臨まれたら、聖霊さまが私たちに能力と権能を与えて下さいます。

「ヨハネの福音書 14章12節」の御言葉です。『まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。』 イエス様が父のもとに行かれると言って、どうして、私たちが大きなわざを行うのでしょうか? 主が言われました。『わたしが父のもとに行けば、神様は聖霊をあなたがたに遣わします。』と。聖霊さまが来られたら、イエス様が行なわれたわざを私たちも行なうようになり、また、さらに大きなわざを行うことができると、主が言わたのです。

皆さん、この事実を、ペテロを通して知ることができます。ペテロが聖霊を受けた後、宮の「美しの門」に座っていた生まれつき足のきかない男を、イエス様の御名によって癒し、大勢の人々に御言葉を宣べ伝えるや、一日のうちに5千人が救われました。ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、誰かにかかるようにして、病人たちが癒され、パウロの前掛けを悪霊に苦しめられている人と、患っている人々の上にかけると、悪霊は出て行き、病人たちは癒されました。それは、聖霊の力と権威が与えられたからです。

聖霊さまが私たちに来られて、そのまま黙っておられるのではありません。私たち各々に聖霊の賜物を分け与えて下さいます。聖霊は啓示的賜物として、知恵の言葉、知識の言葉、霊を見分ける賜物を下さり、発声の賜物として異言、異言を解き明かす力と、預言をする力を与えて下さいます。また権能の賜物として、信仰と、癒しの賜物、奇蹟を行う力を下さり、私たちには到底人間的に所有することができない超人的・超自然的な力を与えて下さるのです。そのような力を持って、キリストの福音を破竹の勢いで宣べ伝える事ができるようにして下さるのです。

聖霊さまは、このような九つの賜物だけでなく、私たちの人格に重大な変化を起こして下さいます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、そして自制等、人格的変化を起こす聖霊の実も与えて下さるのです。このように、キリストにあって私たちは、超人的「力」も与えられ、聖霊の実も結ぶようになるのです。




第三、聖霊の交わり

神様は、聖霊として来られて私たちと積極的に交わって下さいます。「コリント人への手紙 第一 2章10節」に見ますと、『神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。』と記されています。

聖霊さまは、知性を持っておられ、また感情を持っておられます。「エペソ人への手紙 4章30節」に、『神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。』と記録されています。聖霊さまは、喜び、また悲しむ感情を持っておられます。

また、聖霊さまは意志を持っておられます。「コリント人への手紙 第一 12章11節」に、『しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。』と記されています。聖霊さまは、ご自分の意のままに、各々にそれぞれの賜物を分け与えて下さるのです。

ですから、聖霊さまは、知性と、感情と、意志を持っておられますので、私たちの目に見える体を持ってはおられませんが、人格者であるのです。聖霊さまは風のようにこの場に臨んでおられ、私たち夫や妻が人格者であり、父母・子どもが人格者であるように、確かに人格者として、私たちの中に来ておられるのです。

そして、聖霊さまは助け主として来ておられるのです。聖霊さまは、私たちを助けるために神様から遣わされて、いつも私たちと共におられる助け主です。助け主と言うことは、助ける者、教える者、慰める者、弁護する者…を言います。聖霊さまは、私たちをこのように顧みて下さる働きをなさる為に、私たちの中に来ておられるのです。それでイエス様が、『わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。』(ヨハネの福音書 14章18節)『わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。』(ヨハネの福音書 14章16節)と言われたのです。

ですから、皆さん! 聖霊さまは、皆さんと私の中にいつも共に居られて、知恵の霊、知識の霊、謀(はかりごと)の霊、才能と力の霊、神様を畏敬するようにする霊、そして又、聖なる霊として、皆さんと私に知恵を与えて下さり、知識を与えて下さり、聡明を与えて下さり、私たちが困難にぶっつかった時には「カウンセリング」をして下さり、才能を下さり、神様を畏敬するようにして下さり、聖い生活をすることができるようにして下さって、私たちがこの世の中でクリスチャンとして立派に暮らすことができるように、恵んで下さるのです。

「ヨハネの福音書 14章20節」に、『その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにわかります。』と言われました。このような交わりは、聖霊さまを通してだけ可能なのです。聖霊さまが臨まれますと、聖霊さまは私たちと親しく交わって下さり、私たちの同業者になって下さり、凡ての事に干渉して下さって、私たちを成功に導いて下さるのです。

パウロ先生は、コリントの人たちに、『主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。』(コリント人への手紙 第二 13章13節)と言われました。聖霊さまは、私たちと共におられます。私たちがイエス・キリストを救い主として信じ、十字架の血潮で洗いきよめられたら、私たちのたましいの中に臨んで下さって、いつまでも私たちと共に居て下さるのです。

そして、私たちが神様のお恵みを願い求めたら、聖霊さまは、私たちに新しい着物を着させて下さるのです。聖霊さまは、上から臨まれて、私たちに権能をいただくようにして下さいます。聖霊さまは、私たちの中に、また、私たちの上に臨まれて、私たちに権勢と能力を与えて下さのです。ですから私たちは、いつも、私たちの生活の中に聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れ、拠り頼まなければなりません。そして、聖霊さまが指示なさる事をするために、聖霊さまを待ち望まなければならないのです。

また、聖霊さまは私たちに、第三位の神様として臨まれました。そして父なる神様の愛を私たちの中にもたらして下さり、イエス・キリストのお恵みを私たちが体験するようにして下さるのです。聖霊さまが臨んで下さらなかったら、私たちは知識的な信仰しか持つことができません。しかし、聖霊さまが臨まれたら、知識的な信仰でなく、胸を熱くして下さり、人格的に変化が起こる信仰を持つようにして下さいます。ですから、聖霊さまとの交わりがなければなりません。

そして、私たちは聖霊さまを、いつも人格的に認め、歓迎し、迎い入れ、拠り頼まなければなりません。皆さん! 祈る度毎に、聖霊さまを認めます、歓迎します、迎え入れます、拠り頼みます、と毎日言って下さい。人格的に聖霊さまを待遇しなければなりません。人は人格的に無視されたら、この上ない侮辱を感じます。聖霊さまも無視されたら、侮辱を感じて、消滅してしまいます。みわざを働かして下さることができません。

このように、聖霊さまとの交わりがいつも保たれていなければなりません。そして聖霊さまとすべての事を一緒にしなければならないのです。聖霊さまは、皆さんと私の同業者であり、私たちの先輩であられます。ですから、何事でも聖霊さまと一緒にしなければなりません。「聖霊さま、教えて下さい。」「聖霊さま、導いて下さい。」 私たちが聖書を読み始める時にも、そのまま読み始めずに、「聖霊さま、私の目を開いて下さって、キリストの真理を悟り知るようにして下さい。」と祈らなければなりません。

説教を聞く時にも、「聖霊さま、私が説教を聞く時、私が心に真理を悟ることができるようにして下さい。」と祈らなければなりません。何故かと言えば、信仰は聞く事から始まり、聞く事は、キリストについての御言葉に依るのです。私は聖書だけ読めば良い、と言うものではありません。聖書を読めば、信仰を得ることはできますが、まことの信仰はメツセ−ジを聞く時に得られるのです。ですから、メツセ−ジを聞く時にも、「聖霊さま、私が心の中に御言葉を悟ることができるようにして下さい。」と祈らなければなりません。

私は、仕事を始めるときにも、「聖霊さま、私と共にいて下さって、私に油を注いで下さり、仕事を成功的に終えるように助けて下さい。」と祈ります。私は、主の福音を証しすべく講壇に上る度ごとに、そのように祈ります。聖霊さまが油を注いで下されば、凡ての事が能力的に成就する事ができるのです。しかし、人間の力でしようとすれば、血と汗と涙を流し、数多い傷を負いながらも、仕事を成就する事はできません。ですから、私たちは聖霊さまと一緒に仕事をしなければならないのです。

そして、聖霊さまを通してだけ、神様の愛とイエス・キリストの恵みを供給していただくことができます。神様は御座におられ、イエス様は仕事を終えられて神様の御座の右側におられ、聖霊さまは私たちと共に居られて、天の御国と通じることができるようにして下さるのです。それで、聖霊さまを通して、神様の愛が私たちに注がれるようになり、聖霊さまを通して、イエス・キリストの恵みが私たちに注がれるようになるのです。

ですから、「聖霊さま、私たちと交わって下さい。私たちが祈るとき、神様の愛とイエス・キリストの恵みに与かることができるように助けて下さい。」と祈らなければならないのです。祈りは天の御国との交わりですが、聖霊さまが油を注いで下さってこそ、祈りが力ある祈りとなり、天に届いて聞き叶えられる祈りとなるのです。

五旬節の日に聖霊が来られて、初めての教会が建てられました。聖霊さまは教会を建てられ、刈入れ人の主人となられ、神様の愛とイエス様の恵みを現わすお方です。私たちは、すべての事においていつも聖霊さまと共に働かなければなりません。そうする時、力があり、勝利する聖徒となって、そして天の御国に入って行くようになるのです。




お祈り

愛であられ、全知全能であられる、我が父なる神様! 五旬節の日に聖霊を遣わして下さり、この聖霊さまが二千年の歳月を通して、教会に居て下さり、私たちから離れず、私たち上に、また私たちの中に臨んで下さって、休みなくみわざを働かして下さって有り難うございます。今も私たちの中に臨んで居られる聖霊さま、風のように、火のように、生ける水のように、私たちの中にみわざを働かして下さい。

聖霊さまを認め、歓迎し、迎え入れます。聖霊さま! 私たちの主イエス・キリストの救いの恵みを、私たちが確かに知ることができるように、私たちに現して見せて下さい。

聖霊さまの助けがないことには、私たちは、イエス・キリストの十字架の死の意味も知ることができず、イエス・キリストの贖いの事件も私たちは理解することができません。しかし、聖霊さまが解釈して下さったので、今は、私たちがイエス様によって罪の赦しを得、イエス様によって悪魔と世俗から解放され、悲しみと病を癒していただき、呪いと貧困から解かれ、死と滅亡から解放された事を悟り知るようになりました。

助け主聖霊さま! ますます主の民たちを助けて下さい。私たちが祈りを通して神様ともっと深く交わり、神様の御力と権威に与かって、たましいが幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、健康で、いのちを得るにしても満ち溢れるまで得るように助けて下さい。聖徒さんたちが皆、全天下に福音を宣べ伝える伝道者たちとなれるように助けて下さい。イエス様の御名によって、お祈り申し上げます。ア−メン。